「C」


 窓の外。4月の黄色い陽光の下、桜の花びらが舞っている。

 風に乗って踊り、輪を描いて回る桃色の妖精を引き立てるかのように、蝶がヒラヒラと飛んでいた。

 次々に咲き始めた花壇の花を眺めながら、どの花の蜜を吸おうか迷っているのだろうか。

 1匹の蝶が花壇にある赤い花に降りる。

 蝶は花に止まったまま翅をゆっくりと開いたり閉じたり…その様子は、まるで蝶が蜜の味を満喫しているかのようにも見えた。



 桃色の桜、黄色や白色の蝶、赤色や橙色の花、緑色の草。

 窓の外にあるのは、誰が何と言おうと暖かな春の情景だった。

 そんな情景を見て、今の私が思う事はただひとつ。



 ――眠い。



 暖かな4月の陽光も窓の外で踊る桜の花びらも咲き誇る花々も萌える草の緑も、私にとっては自分を心地よい眠りに誘う催眠術でしかなかった。

「ふわぁ…ぁふ」

 情けないくらいの大きな欠伸が出てしまう。

 そこ、はしたないと言うなかれ。

 始業式が終わり、明日から再び学校生活が始まるのだ。

 今のうちにこうやって鋭気を養っておかなければ、こうやって学校に来る事すら止めてしまうかも知れない。

 ……さすがにそれは冗談だけど。

「ふぁ……」

 あらら、油断していたらまた欠伸が…。

 2度目の欠伸はさすがに恥ずかしいので、一応は手で口を隠しておく。

 やれやれ…どうやら今日の睡魔は一段と強力らしい。

 私の精神はことごとく睡魔に侵食されていき、自我は既に3%も残っていない。

 自我が必死に睡魔を押し返そうとしているのが分かる。

 だが、それは無駄だ。

 何故なら、私の体が素直に睡魔を受け入れているから。

 人類が抗う事の出来ない睡魔をもたらす暖かな陽光が、容赦なく私を照らし続けるこの窓際の席が半分悪い。

 残り半分は眠気を助長するような暖色のみで彩られる窓の外の情景が悪い。

 うん、私は悪くない。悪くない。

 ……よし、自己正当化完了。

「ふわあぁ……」

 と同時に、またまた口から漏れる欠伸。

 むむ。これは、休憩時間である今の間に眠っておいた方が良さそうだ。

 ホームルームまで眠っていてはシャレにならない。

 まあ…始業式当日のホームルームなんて、一緒に渡されるプリントを見れば事足りるような連絡事項しか言わないだろうけど。

 私は時計に目を向ける。

 ホームルームが始まるまではあと5分。


 …………。


 ……5分でどうやって眠れってのよ。


 私は誰へともなく毒づく。

 どこぞの漫画にある時間の流れが遅くなる修業部屋じゃあるまいし、5分で十分な睡眠時間などとれるわけが無い。

 逆にそんな短い睡眠時間じゃ、かえって眠くなってしまうこと請け合いだ。

 ……仕方がないか。

「う〜ん…っ」

 私は欠伸を噛み殺しながら両手を頭の上で組み、大きく伸びをした。

 肩の骨がパキパキッと小気味良い音を立てる。

 眠る時間がないと分かれば、今のうちに出来るだけ睡魔を吹き飛ばすしかない。

 睡魔ちゃん、短い付き合いだったね。

 勝負とは常に非情なのだ。

 何の勝負かは知らないけど。

 私は頭の上で組んだ両手を離し、そのまま肩を交互にぐるぐると回す。

「うわ、女の子がそんなはしたない事をしちゃダメだよー」

 私の後ろから、間延びした女の子の声が聞こえた。

 私は上げた腕を下ろす。

「女の子が…っていうのは決めつけだよ。私は女の子らしい“おしとやかさ”っていうのは性に合わないの」

 そして、振り向きざまに一言。

 後ろに誰が居るかは分かっている。

「…そうかなー。理沙ちゃん、可愛いのにー…」

 そこには、私が予想した通りの子が眉をハの字にして首を傾げていた。

 肩まで伸ばしたふわふわの柔らかそうな髪の毛と、それを引き立てるように髪につけられた小さな赤いリボン。

 物静かそうな小さな口と、おだやかさと優しさを兼ね備えたような僅かに垂れた目。

 フリフリのドレスなど着せたなら、お人形として売られていてもおかしくないその外見は、彼女が“可愛い”と言った私なんかよりも数倍可愛らしい。

「……おだてたって何もでないわよ? それよりゆーりん、何か用なの?」

 目の前のお人形…もとい、“ゆーりん”こと野原由利(のはらゆり)に、私は尋ねる。

「あれー…? 私が用事があるって、何で分かったのー?」

 ゆーりんは十分に噛んだガムをビローンと引き伸ばしたような声で不思議そうに問い返した。

 別に用事があると分かって言ったわけじゃないんだけど。

 話しかけてきたからどうしたのかなー、程度で。

「まあ、女の勘ってヤツかな」

 答えようがないので適当に答えておく。

「そうなんだー、女の勘ってすごいねー」

 やけに感心しているゆーりん。

 いつも思うけど、ゆーりんってちょっとだけ浮世離れしてると言うか…ワンテンポ遅れているような、そんな感じがする。

「…それでさ、用事ってなに?」

 私は脱線しかけた話を再び線路に乗せた。

 このままゆーりんを放っておくと、用事とやらを聞く前にホームルームが始まってしまいそうだ。

「あ、そうだよー」

 ゆーりんはポンと両手を合わせる。

「すっかり忘れてたよー」

 ……話しかけた理由を忘れないでよ。

「あのね、理沙ちゃんを呼んでる人が廊下に居るんだよー」

 ゆーりんが廊下を指差す。

 私からは誰の姿も見えなかった。

「その人って、今そこに居るの?」

「今居るんだよー」

 私は再び時計に目を向ける。

 ホームルームまでは僅か3分だ。

「今って…残り3分しかないよ…?」

「でも、呼んでるんだよー…」

 ゆーりんの顔が僅かに曇る。

 そんな顔をされたって、時間が無いんだよー。

 …いけない、ゆーりんの言葉がうつっちゃった。

「…その人、何の用事か言ってた?」

 私は気を取り直して訊いてみる。

「…うーん、分からないよー。ただ“七海理沙さんを呼んで欲しい”って…」

 首をかしげながら、ゆーりん。

 ちなみに七海理沙(ななみりさ)とは正真正銘の私の名前である。

 少なくとも、私に用事があるような人は全く思い浮かばないんだけど…。

「…まあ、そこに居るんならさっさと行って確かめてみましょうか」

 悩んでいても仕方がない。

 私は自分の中でこう結論を出して立ち上がった。

 



*

 



「七海理沙さんだね?」

「ぶっ!!」

廊下に出るなり声をかけてきた男子生徒を見て、私は思わず吹きだしてしまった。

はしたないと言うなかれ、パート2。

これは仕方がないことなのだ。今、私の目の前には、ぶっちゃけありえない光景が広がっているのだから…。

「な、な、な、何してんのよバカ親父!?」

目の前の男子生徒に向かって指差し叫ぶ。

そう…、うちの学校の男子用の制服を身に纏い、さらには見慣れぬ眼鏡まで装着している―――私の親父に。

「バカ親父? 僕の名前は『九条 誠(くじょう まこと)』っていうんだよ?」

「誰がよっ!! 何処からどうみてもバカ親父でしょうがっ!!」

制服についている名札を親指でなぞりながら飄々と言う親父に半ギレ状態の私。

しばらく射るような眼光で睨み続けていると、とうとうバカ親父が悔しそうな声を漏らした。

「ち…何故バレたんだ。俺の変装は完璧だったはずなのに…」

「何処が完璧な変装よ! ただ単に制服着て眼鏡かけただけじゃない! はっきり言って丸わかりよっ!!」

「なにぃ!? ゆーりんにはバレなかったぞっ!?」

「ゆーりんならありえるけど、それを基準に考えないでよ! バカ親父だってゆーりんとの付き合いは長いんだからそれぐらい判るっしょ!?」

なにげに酷いことを言う私。

「だいたいその制服と眼鏡はどっから持ってきたのよ! てか『九条 誠』って言ったらうちの学校の生徒会長じゃない!!」

「なに、あいつは生徒会長だったのか…。確かに言われてみると嫌味ったらしそうな奴だったな」

バカ親父の頭では、『生徒会長』の人格とはそういう位置づけらしい。

いや、そんなことよりも重要なのは、バカ親父が会長を知っているということだ。

なんか凄い嫌な予感…

「バカ親父…その制服と眼鏡、どうやって入手したのかな…?」

「これか? 別にたいしたことはしてないぜ?」

「いいから話せ」

私の予想が正しければ、それは十分たいしたことだ。

「ち…しゃあねぇなぁ」

バカ親父が面倒くさそうに口を開く。

「――――4月の黄色い陽光の下、桜の花びらが舞っている。風に乗って踊り、輪を描いて回る桃色の妖精を引き立てるかのように、蝶がヒラヒラと飛んでいた」

「長いっ! しかも全然関係ないし! 要点だけを掻い摘んで話してよねっ!!」

「何だよ。これから俺の壮大なエピソードを語ってやろうと思ったのに」

そんなサービスはいりません。だいたいあんたさっきまで面倒くさそうにしてたでしょうが。何いきなり語る気満々になってんのよ…。

「いいから手短にっ!!」

「…まったく我侭な娘っこだぜ。しょうがねぇ、分かり易く音声放送でいってやるぜ――――」

 




『ふはははははっ!! よいではないか、よいではないか〜!!』

『いや〜ん、まいっちんぐ〜♪』

 




「――――というわけで剥ぎ取ってきたのだ」

「短っ!? てかその音声放送とやらが本当だったら私はあんたとの親子の縁を完全に切るからね」

バカ親父と生徒会長の……想像しただけでも嫌すぎる……。

「冗談に決まってるだろうが……剥ぎ取ったのは本当だがな」

「やっぱりかぁーーーーーーッッ!!」

予感的中。できることなら当たってほしくはなかったけど…。

「なんちゅーことをしでかしてくれてるのよ、バカ親父ッ! 一体何考えてんの!?」

「あぁ!? 何言ってんだ! 私服で学校なんかに入ったら俺が目立っちゃうだろうがッ!!」

「『だろうがッ』じゃない! だいたい何で学校に来る必要があるのよ!」

「……それには深い理由があるんだ」

急に真剣な顔になるバカ親父。そのせいで私の頭の熱も急激に冷めていく。

「実は…」

「なによ…?」

「女子高生に萌えたくなったんだ」

バキィッッッ!!!!

殴りました。殴っちゃいました。グーで。

「うぎぎ……ぶ、ぶったね!? 親父にもぶたれたことないのにぃ!!」

何処かで聞いたことがあるような台詞を吐きながら、バカ親父が頬を押さえて私に非難の目を向けてくる。

「まだそんな演技をする余裕があるわけね…。二度と口を開けないように顎砕いてやろうかしら…。」

「はっはっは、やだな〜理沙っち。冗談を本気にしちゃって、も〜」

絶対零度の視線を送る私に、気圧され気味のバカ親父。

「…早く本当のことを言え」

「わかった、わかったからそんなに睨むな。学校に来たのはお前に用があったんだよ」

「用…? 私に? 何よ、わざわざ学校まで来るほどのことなの?」

「あぁ、早急かつ重要な用があったんだ」

再びバカ親父の表情がシリアスモードに突入する。今度の話は真剣に聞いても良さそうかな。

「なぁ理沙。お前、今日は午前中で学校終わるんだよな?」

「え…? う、うん。後はホームルームやって終わりのはずだけど…」

なんだろう、私が午前中で学校が終わることと何か関係があるんだろうか。

もしかして、身内に不幸でもあったのかもしれない。こうしてわざわざ学校まで来るくらいだし、その可能性も十分に考えられる。

「よっしゃ! じゃあ午後は花見だ! 花見しようぜ、理沙!!」

そう、それで急遽午後から花見に――――って、はい?

「…バカ親父。今なんて言った…?」

「あん? だから花見だよ、は・な・み!」

「…で、私に用ってのは?」

「はぁ? 何言ってんだ? たった今お前に言っただろうが」

バカ親父がやや呆れた視線を私に送ってくる。何かその目、すっごいムカつくんですけど…。

「あのねぇ…それの何処が早急かつ重要な用だってのよ!? そんなこと私が家に帰ってからでも全然いいじゃない!! だいたいねぇ、そういう話はもっと事前に計画しておくものでしょうが!!」

「そんなこと知るか! 俺が急に花見したくなったんだよ! モタモタしてたら桜が散っちまうだろうが!!」

「散るかっ! いくらなんでも私が家に帰る余裕ぐらいあるわよっ! それにこんな話だけなら携帯だって十分でしょ!?」

「そんな文明の利器は認めませ〜ん」

「わけわかんないし!!」

何のための携帯電話だと思ってるのよっ! と内心で激しく抗議。だけどバカ親父の回答と言えば

「安心しろ理沙。弁当の準備もバッチリだからよ」

「頼むから会話してよっ!!」

これである。

私はもうプッツン寸前だ。今頃脳内ではエマージェンシーコールが鳴り響いているに違いない。

そう遠くない未来…私は血管が切れて鼻血と耳血を一遍に噴出して廊下にぶっ倒れてるんじゃなかろうか。

…激しく勘弁してもらいたい未来である。



――――キーン、コーン、カーン、コーン。



ハッとして私は休み時間終了の音を奏でるスピーカーに目を向ける。

バカ親父と不毛なやりとりをしている間に3分が経過してしまったようだ。

舌打ちし、視線を再びバカ親父に戻す。が、そこには既にバカ親父の姿はなかった。

当の本人はいつの間にか十数メートル先を滑走している。

「あ、こらっ! バカ親父――――」

「はっはっは! とにかく午後は花見だからな〜! 後から迎えにくっから準備しとけっ! ちゃんとゆーりんも誘っとけよ! アデューッ!!」

しゅたっ! と片手を軽く上げて、バカ親父が廊下の角へと消えていった。



バカ親父のほうに腕を伸ばした体勢で、しばし放心状態の私。

――――結局私の精神は担任の先生が声をかけてくれるまで戻ってくることはなかった。

 




*

 




「あ゛〜〜〜〜……疲れた。なんで始業式からこんなに疲れなきゃならないのよ…」

それもこれも、あのバカ親父のせいだ。

おのれバカ親父…ただで死ねると思うなよ…。

ホームルームも終わって、自分の席で悪態をついていると、ゆーりんが心配そうに話しかけてきた。

「ど〜したの? 理沙ちゃん、なんか42.195Kmを全力疾走してきたみたいな顔してるよ〜」

どんな顔よ…。はたからでもそれだけ疲弊しているように見えるということだろうか。

「……ゆーりん。いくら何でもアレには気付きなさいよね」

「え?」

「え、じゃなくて…。さっき廊下で私を呼んでた人のことよ。あれ、私のバカ親父だったのよ…?」

「え? さっきの人、翔くんだったの?」

翔(かける)というのはバカ親父の名前である。

友達に自分の親を名前で、しかも「くん」づけで呼ばれるなんて、普通ならおかしいことこの上ないんだろうけど。

もう何年前になるのかな…。

初めて私が自分の家にゆーりんを招待したとき。確か小学1年のときだから…ちょうど10年前かな――――




『はじめまして〜。のはらゆりです〜』

『おう! 俺は七海 翔ってんだ。親しみをこめて『翔くん』と呼ぶがいい』

『かけるくん…?』

『そうだ。くれぐれも『おじちゃん』とか言うなよ? 俺はまだハタチだ』

『うん。かけるくん♪』



――――それ以来ずっと、ゆーりんはバカ親父を『翔くん』と呼んでいる。

ちなみにバカ親父の『ハタチ』宣言、まごうことなき真実だったりする。

バカ親父は現在30歳。はっきり言って16の娘がいる父親の年齢じゃないと思うけど…。

でもさっきの学生服姿にまったく違和感がなかったあたり、やはりバカ親父は若いということを裏付けてる気がする。

っていうか若すぎ。

私が言うのもなんだけど、10代って言っても十分通用するんじゃないの…?

まぁ、精神年齢は間違いなく私以下だと思うけどね。

「ねぇ、理沙ちゃん。本当にさっきの人、翔くんだったのー?」

私がそんなことを考えてると、ゆーりんが小首を傾げて再確認してきた。

ここにバカ親父がいたら、そんなゆーりんの仕草に「萌えーーーーッッ!!」とか言うんだろうな。

――――想像してげんなりしつつ、私はゆーりんの問いかけに答える。

「そーよ。正真正銘、うちのバカ親父ッ」

「そっかぁー。翔くんだったんだぁー。眼鏡かけてたからわからなかったよー」

刺々しい私とは裏腹に、ゆーりんの顔には“ふんわり”という表現がピッタリな笑みが浮かんでいる。

基本的にゆーりんとバカ親父は仲がいいからなぁ。性格は正反対って感じなのに。う〜ん…謎だわ。

どうでもいいけど、もし私が眼鏡をかけたら、ゆーりんはちゃんと私のことを認識してくれるんだろうか…。



『そっかぁー。理沙ちゃんだったんだぁー。眼鏡かけてたからわからなかったよー』


――――全く違和感のない未来予想図だった…。ゆーりん、私は親友としてちょっと悲しいぞ。

「ところで理沙ちゃん。翔くん、どうして学校に来てたのー?」

「ん〜…? あぁ〜…はっきり言ってしょうもない理由よ。学校終わったらお花見しようだってさ」

「わぁ〜お花見? いいなぁ〜」

「ちなみにバカ親父はゆーりんもちゃんとご指名よ。お弁当の用意もバッチリとか言ってたわね」

「ホントー? 嬉しいなぁー。久しぶりに翔くんのお弁当が食べられるよぉー。うふふ、楽しみだなぁー」

両の頬に手を添えて、本当に嬉しそうに、満面の笑みをたたえるゆーりん。

ここまで純粋に喜びを表現できるゆーりんがちょっと羨ましい。

だけど私はそんなに素直に喜べない…というか今はそんな気力がない。

「理沙ちゃん、どうしたのー? あんまり嬉しそうじゃないねー…。お花見、楽しみじゃないのー…?」

「…あのねぇゆーりん。たかだか花見ってことを伝えるためだけに学校に来て、あげく生徒の学生服を剥ぎ取るようなバカ親父を持った私の気苦労も少しは察してよ…。全く昔っからあのバカ親父は……バカ親父はッ……バカ親父わぁーーーーーーッッ!!」

先のやりとりを思い出し、再び怒りがこみ上げてくる。

…いけない、いけない。いきなり大声で叫びだしたもんだから、クラスの視線が一斉に私に集中しちゃってるわ。

「…こほん。とにかく私は疲れてるのよ。お花見なんて気分じゃないわ」

「そんなー…理沙ちゃん…」

ゆーりんが寂しげに私の名前を呼ぶけど、体力の限界とばかりに私は机につっ伏する。



カツン……



ふとそんな硬質的な音が聞こえた。ちょうど私の胸のあたりから。

誤解の無いように言っとくけど、私の胸が鋼みたいに硬いんじゃないんだからね。

『ぺったんこ』とか『えぐれ胸』とか『鋼の錬○術師(意味不明)』なんて称号も持ってないんだからっ。

心の中で誰に対してか分らぬ力説をしながら、私は机からムクリと起き上がり、首から下げていたある物を制服の中から取り出す。


――――それは『C』


正確に言うと『C』の形をしたもの――――勾玉(まがたま)と呼ばれるものだ。

「理沙ちゃん、それいつも持ってるよね」

私の手の平にある黒の勾玉に気付いたゆーりんが言葉を漏らす。

確かにゆーりんが言うとおり、私はこれを普段から肌身離さず持ち歩いている。

別にこれといって勾玉が好きなわけでもないし、勾玉にからむエピソードなんかに詳しいわけでもない。

じゃあ何でいつも持ち歩いているのか。その理由はゆーりんも知っている。

「…お母さんの、形見、だもんね…」

そういうことだ。

この勾玉は、お母さんがこの世を去るちょっと前に、私にくれたもの。

私がお母さんと共に過ごせた時間は、生まれてからの僅か5年…。

だから、お母さんのことも、ボンヤリとしか思い出すことができない。

でも、お母さんと交わしたそのやりとりだけは、今でも鮮明に思い出すことができるんだ――――



『…理沙ちゃん』

『なぁに? おかあさん』

『理沙ちゃんにね…受け取ってもらいたいものがあるの。お母さんの、大事な、大事な、宝物』

『? なにこれ。へんなかたち』

『ふふ…、それはね、お守りなの。理沙ちゃんが、ずっと幸せでいられますようにって…』

『おかあさん…?』

『…それから、理沙ちゃんにお願いがあるんだ…。理沙ちゃんは、翔くん…お父さんのこと…好きだよね?』

『え? う、うん…だいすきだよ?』

『…よかった。理沙ちゃん、これからもずっと、翔くんのこと、大好きでいてね…。そして…これからは理沙ちゃんが、翔くんのことをささえてあげて…。それが、お母さんのお願い』

『おかあさん……だいじょうぶだよっ。りさ、おとうさんのこと、ずっと、ずぅーーーっと、だいすきだからっ』

『うん…』

『あとね、おかあさんのこともね、ずっと、ずっと、ずぅーーーーーーーっと、だいすきっ』

『うん…うん…っ。ありがとぉ…理沙ちゃん…』




――――そのときのお母さんの笑顔が凄く輝いていたことは、はっきり覚えている。

きっと、このとき既に、お母さんは自分の死期が間近に迫っていることを知っていたんだろうな…。

それからしばらくして、お母さんは19年という短い生涯を閉じ、天国へと旅立っていった。

幼いころから身体が弱く、床にふせがちだったというお母さん。

それでもバカ親父と出会って、バカ親父に恋をして、バカ親父を愛して……そして、私を産んでくれた。

当時の二人とも年齢が年齢だったから、周囲からはいろいろ言われもしたらしい。

だけど、バカ親父もお母さんも、お互いがお互いを支えて、そんな苦労を跳ね除けてきたのだ。

少なくとも私の前で辛そうな表情を見せたことは一度もなかったと思う。

『お母さんはね…翔くんと理沙ちゃんがそばにいてくれるだけで幸せなんだぁ』

お母さんは口癖のようにそう言っていた。その表情は本当に幸せそうだと子供ながらに思ったものだ。

そんなお母さんがいなくなって……

バカ親父も相当落ち込んでいた……

私の前ではいつものように振舞っているつもりだったみたいだけど、それが無理をしているということは子供の目にも明らかだった。

そしてあの日……

たまたま夜中に目を覚ました私は、お母さんの写真を見ながら涙を流しているバカ親父の姿を見てしまった。

その姿が、あまりにも儚く、小さく見えて……

だから、そのとき私は――――



『…泣かないで』

『!? り、理沙!? お、お前、なんで…』

『…泣かないで。りさが…りさがずっといっしょだから…。りさ…おとうさんのこと…ずっとすきだから…』

『!? 理沙…それ、みゆきの……』

『おかあさんからもらったの…。おとうさんをささえてあげてって…。りさ…おかあさんみたく、できないけど…がんばるから…だから……』

『………………ふ』

『…?』

『…は…はは……はははははは…っ!』

『…おとう、さん?』

『はは…。ありがとな、理沙。そうだよな…理沙がいるんだもんな。いつまでも泣いてなんかいられねぇよなっ!』

『おとうさん…っ』

『…心配かけてごめんな。全く、情けない父親だぜ。こんなんじゃ理沙に嫌われっちまうな』

『そんなことないもんっ! りさ、おとうさんのこと、ずっと、ずぅーーーっと、だいすきだもんっ!』

『サンキュー。俺も理沙のこと、ずっと、ずぅーーーっと、大好きだぜっ!』



――――それからバカ親父は、私がよく知っている元気な姿に戻っていった。

お母さんがいなくなって私も凄く悲しかったけど、元気のないバカ親父を見るのも凄く辛かったから。

だから、そのときの私はそのことを素直に喜んでいた。



……だけど、ね。




「…ごめんなさいお母さん。今のバカ親父はもう私の手に負えません。あれから10年以上経っちゃってますけど、これの返品は可能ですか…?」

あのときの言葉は何も知らない無垢な子供の言葉だったと思って忘れてください。

手の平の勾玉に向かってそう語りかけてみる。もちろん応えが返ってくることはないんだけど。

「もうー、駄目だよ理沙ちゃん。そんなこと言っちゃー」

眉根を寄せて、咎めるような口調のゆーりん。全然怖くないけど…。

「じゃあこの勾玉はゆーりんに託そうっ! これからはゆーりんがあのバカ親父を支えてくれたまえっ!」

「それも駄目だよぉーっ」

「なんでよ? ゆーりん、バカ親父と仲いいし。私なんかよりよっぽどバカ親父を支えられると思うんだけどな〜」

「そんなことないよー。確かに翔くんとは仲よしだけど、翔くんの一番は理沙ちゃんなんだよー」

「はぁ? バカ親父の一番が私? ありえないわ」

「むー…。とにかくーっ、それは理沙ちゃんが持ってないと駄目なのーっ」

「あ〜はいはい、わかったわよ。冗談だって。さすがにお母さんの形見を誰かにあげたりしないから」

じーっと睨んでくるゆーりんに苦笑いしながら、私は勾玉を元のように首に下げる。

「…ねぇ理沙ちゃん。翔くんは本当に理沙ちゃんのことを一番に想ってるんだよ? 何よりも大事に想ってるんだよ?」

「もう、ゆーりん。だからそれはありえないって言ってるでしょ? だいたい――――」

「なぁ〜に話してんだ、お二人さんっ!」

「わぁーーーーーーーーっっ!!」

ガラガラガッシャーーーンッッ!!!!

突然背後から思いもよらぬ人物の声が響いて、私は思わず椅子から転げ落ちてしまった。

「あー、翔くんーっ」

そんな私をよそにゆーりんはその人物――バカ親父こと翔くんに嬉々として呼びかける。さっきの神妙な空気は何処へやら、だ。

ひどいわ、ゆーりんっ! 私なんかよりもその男のほうが大事なのねっ!?

「よう、ゆーりん。ちっす!」

「ちっすー♪」

爽やかなあいさつを交わした後にパンッと軽くハイタッチ。

あぁ…なんて幸せに満ち満ちたゆーりんの笑顔。

そう…ゆーりん、私じゃもう駄目なのね…。でも、ゆーりんが選んだんだもの…私は潔くあなたのもとを去るわ…。

さようなら、ゆーりん…。あなたと過ごした10年間…とても楽しかった……。



なんて現実逃避してる場合じゃないっての!!

「バ、バカ親父ッ! な、何故ここに!?」

「あん? さっき後から迎えにいくって言っただろうが」

「だからって教室に迎えにくるバカが何処にいるのよっ!! せめて校門の前とかで待ってなさいよね!?」

「それじゃ普通じゃねぇか!」

「普通でいいのよっ!」

「そんな面白くねぇことできるかっ! お前も芸人なら体張って笑いとりに行くくらいしろよっ!」

「とりたないわっ! だいたい私がいつ芸人になった、いつ!?」

「なにぃ!? お前、芸人じゃなかったのか!?」

「驚愕するなっ!!」

あ゛〜もうっ!

すっかりバカ親父のお馬鹿ワールドに呑まれちゃってるよ、私。

いかん、このままじゃ話が脱線したまま不毛な言い争いを続けるだけだ。

落ち着け、落ち着け、私…。

す〜は〜す〜は〜…

「…おーけー。とりあえず教室に迎えに来たことは良しとしましょう。だけどね、これだけは言わせてもらうわ」

「なんだよ?」

「なんだよ、じゃないっ! 何で今だにうちの学校の制服着てるのよ! まだ返してなかったの、それ!?」

「眼鏡は返したぜ?」

「制服も一緒に返しなさいよっ!!」

「あぁ!? 何言ってんだ! 私服で学校なんかに入ったら俺が目立っちゃうだろうがッ!!」

「だったら最初からおとなしく外で待ってればいいでしょ!?」

「それじゃ普通じゃねぇか!」

「普通でいいのよっ!」

「そんな面白くねぇことできるかっ! お前も芸人なら体張って笑いとりに行くくらいしろよっ!」

「とりたないわっ! だいたい私がいつ芸人になった、いつ!?」

「なにぃ!? お前、芸人じゃなかったのか!?」

「絶望するなっ!!」

あ゛〜もうっ、また話が脱線しちゃったじゃないっ。

というか、このままじゃこの話が無限ループに突入する勢いだ…。埒が明かない。

誰か…誰か助けて……

「理沙ちゃん」

私の心の救難信号に応えるかのように、柔らかな声が響いた。

あぁ、ゆーりん…気付いてくれたのね…?

やっぱり持つべきものは親友よね。ゆーりん、今の私にはあなたの背中に後光すら見えるわ。

「理沙ちゃんと翔くん、息がピッタリだよー。夫婦漫才も夢じゃないんだよぉー」

ぶふあぁっ! 

激しく前言撤回。

ゆーりん、あなたの天然が今日ほど怖いと思ったことはないわ…。

「ゆーりん! ゆーりんもそう思うか!?」

「うんっ。思うよー♪ 翔くんと理沙ちゃんなら世界を狙えるよぉー♪」

何の世界ですか…?

なんて内心の私のツッコミを無視して、二人の会話はどんどん進んでいく。

「ゆーりんのお墨付きだっ! 今日から俺と理沙はコンビを組むぜっ。コンビ名は『フォースインパルス』だっ!!」

「ボケとツッコミの超科学反応だねー♪」

なんかパクッてるしっ!!

「翔くん、頑張ってねー。私、精一杯応援するよー」

「まかせろよ! 俺は不可能を可能にする男だぜっ!」

可能を不可能にする、の間違いじゃないの…?

「ゆーりんは俺のファンクラブ会員第一号なっ」

「わぁー嬉しいよー♪」

バカ、ここに二人…。

終わりなき妄想を特急電車の如く繰り広げるバカ、ここに二人…。

二人の会話がだんだん遠くなる…。続いて視界が霧がかかったように霞んでくる。

どうやらこのお馬鹿ワールドについていけなくなった私の脳がフリーズ状態に陥ったらしい。




意識を失う寸前、私の脳裏にこんな言葉が過ぎった。

 



孤立無援――――。

 




*

 



――――温かな春の風を感じる。

柔らかくて、優しい風が私の髪をそよそよと揺らす。

凄く、心地よい……。

「ん……」

目を開ければ、視界いっぱいに咲き誇る満開の桜。

あまりの美しさに、しばしポォ〜っと見惚れていると、突然黒い影がそれを遮るように、にゅっと現れた。

目が慣れてくると、その影が自分のよく知る人物の顔だと気付く。

「…ゆーりん?」

私がそう呟くと、ゆーりんは嬉しそうに頷く。そして

「たいちょー。理沙ちゃんが再起動したでありますー」

ピシッと可愛く敬礼しながら誰かに向かってそんな報告をした。

私はその相手をほとんど確信しながらも、ゆっくりとゆーりんの視線を追っていく。そこには

「く…っ! ゆーりん、激萌えだぜ…っ!!」

案の定…。

ゆーりんに向かって親指をグッと立て、滝のような涙を流す、バカ親父の姿があった。

「おう、理沙。目ぇ覚めたか?」

「……おかげさまで」

いきなり爽やかな笑顔で話しかけてくるバカ親父をジト目で睨みながら、ゆっくり体を起こす。

私の記憶が確かなら、ここは地元ではお花見スポットとして有名な公園だ。

周囲を見渡すとお花見をしている団体さんの姿がちらほら。

それはいい。

問題なのは、どうして私がここにいるのかということだ。

「…ねぇ、ゆーりん。何で私こんなところにいるの?」

「お花見をするんだよー」

いきなり会話が噛み合ってないし……。

「そうじゃなくてね…。私が聞きたいのは、教室にいたはずの私が、何でここにいるのかってことよ」

私の言葉にポンと両手を合わせるゆーりん。

「それはねー、翔くんが理沙ちゃんをここまで運んできたんだよー。理沙ちゃん、教室でいつの間にかフリーズしちゃってて、私びっくりしたんだよー?」

その原因の半分はゆーりんなんですけど……。

そう目で訴えかけるけど、ゆーりんが気付くはずもなく、話は続けられていく。

「私は理沙ちゃんが目を覚ますまで待ってようかって思ったんだけどー」

「どうせバカ親父が『グズグズしてたら桜が散っちまう』とか言ったんでしょ?」

「……エスパー?」

「いや、違うし」

驚嘆の眼差しを向けてくるゆーりんに対して軽くツッコミを入れる。

「でも…なるほどね。それで私がフリーズしてる間にバカ親父がここまで運んできたわけだ」

「うん。お姫様だっこでねー♪」

「………あ?」

何か今、ゆーりんの口からとんでもないことがぶっちゃけられたような気がする。

「…ゆーりん。もう一回言ってもらえるかなぁ? バカ親父がどうやってここまで運んだって…?」

「だからー、お姫様だっこだよぉー。学校からここまで、ずぅーっとお姫様だっこだったんだよー」

どうやら聞き間違いではないみたいだ。しかも、とんでもない情報まで付け加えられてるし。

「…学校から……ここまで…? ど、どうして止めてくれなかったのよ、ゆーりんっ」

「?」

「『?』じゃなくてっ。お姫様だっこだよっ? しかも、学校からここまでだよっ!?」

「うん。羨ましいんだよー」

ゆーりんに恥ずかしいって感覚を期待した私が馬鹿だった……。

うぅ…明日からどんな顔して学校に行けばいいのよ……。

「どうした、理沙。人生に疲れたサラリーマンみたいな顔して」

「お前のせいじゃーーーーーーッッ!!」

穏やかな日差しが降り注ぐ公園全体に、およそ穏やかとは無関係な私の咆哮が轟いたのだった――――




「まぁ、理沙が言いたいことも分からんではないがな」

「だったら最初からやらないでよ…」

「それはそれだ。モタモタしてたら桜が散っちまうからな」

「…もういいです」

バカ親父には何を言っても無駄だということを今更ながら悟った。

はぁ……。

「それはともかく、理沙もゆーりんも腹減ってるだろ? とりあえず飯にしようぜっ」

ドンッと目の前に置かれる重箱の山。中は、和・洋・中、様々な料理が所狭しと並べられていた。

どれもこれも手の込んだ作りで、冷凍のものなどは1つも見当たらない。

「わぁー、おいしそうだよぉー」

「当然っ! 腕によりをかけて作ったからな。味は保障するぜっ」

目をキラキラと輝かせるゆーりんの言葉に、バカ親父が自信満々に答える。

こと料理に関して『だけ』は、プロ顔負けの腕を持っているバカ親父。こればっかりは私も遠く及ばない。

「ほれ、理沙もゆーりんも、どんどん食えっ」

「いただきまぁーす♪」

バカ親父に促されて、ゆーりんが早速料理を口に運び……

そのままお箸を口に入れた体勢で「ん〜〜〜〜〜♪」と感嘆の声を漏らす。

「やっぱり翔くんのお料理は最高だよぉー。これならいくらでも食べれちゃうよぉー」

「こんなんでいいならいつだって作ってやるぜ? ゆーりんの頼みなら尚更だっ!」

「うわぁ、嬉しいよー。ありがとー翔くん♪」

ゆーりんとバカ親父が恋人同士のような甘い世界を形成している傍らで、私も料理を口に運ぶ。

……悔しいけど、本当においしい。

「どうだ理沙。うまいかっ?」

「おいしいよねー、理沙ちゃん♪」

何かを期待する眼差しが2つ、私に向けられる。まぁ何を期待されているのかは分るんだけど。

「……ま、誰にでも1つくらい取り柄はあるもんよね」

だけど素直に『おいしい』とは言わない。そんなことをバカ親父に面と向かって言うのも何だか癪だし。

でも、そんなことを言いつつ、私の手はちゃっかりおにぎりをキープしている。

はぁ…、と溜め息を吐く二人。そして、しょうがないなぁ、という感じで見つめてくる。

悪かったわねー、ひねくれてて。

パクッ

「――――――――――――ッッッ!!!!」

声にすらならない悲鳴。

口の中を何とも形容し難い凄まじい味が、所狭しと暴れまわっている。

「お、何だ理沙。いきなり当たりか?」

当たりって何っ!?

「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛、ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ーーーーーッッ!!(何なのよ、このおにぎりはーーーーーッッ!!)」

「ただの弁当ってのもつまんねぇからな。とりあえずロシアンおにぎりにしてみた」

「ん゛ん゛ん゛、ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛っ ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ーッ!?(何で、そう無駄なことばっかりすんのーッ!?)」

「普通の弁当だけじゃ盛り上がりにかけるだろ? それにしても理沙、いきなり当たりとは…。お前のお笑い芸人魂、しかと見せてもらったぜ!!」

「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ッッッ!!(芸人じゃないッッ!!)」

口元を手で押さえながら猛抗議する私に、普通に答えるバカ親父。

私が言うのもなんだけど、どうしてこれでコミュニケーションがとれてるんだか。

「ん゛ーん゛ん゛っ。ん゛ん゛、ん゛ん゛ん゛ん゛ーん゛ッ!(ゆーりんっ。水、水プリーズッ!)」

「わかったよー」

ゆーりんがいつもの1.2倍くらいの速さで、ビンに入った水をコップに注いでくれる。

どうやらゆーりんとのコミュニケーションにも問題ないらしい。

「はい、理沙ちゃん。お水だよー」

「ん゛ん゛ん゛ん゛っ!(ありがとっ!)」

ゆーりんからコップを受け取るなり、一気にそれを口の中に流し込む。

ゴックン。

途端に口いっぱいに広がる苦味と喉を焼くような熱さ。

「〜〜〜〜〜っっ!?!? げほっげほっげほっげほっ!!!! ゆ、ゆーりん。これ、水じゃないよ…っ!?」

「えー? そんなはずはー…」

ゆーりんが手に持っているビンをまじまじと見つめる。

「わ、大吟醸って書いてあるよー、びっくりだよー」

全然驚いてるように見えない……。

というか、私もビンに入ってる時点で水じゃないって気付くべきだったよ。

「バ、バカ親父…。ほ、他に飲み物無いの?」

「安心しろ、そのへんは抜かり無しだぜっ。後はビールが6つにチュウハイが6つだっ!」

「……他には?」

「え、足りねぇか?」

「そうじゃなくて……」

未成年がいるのにお酒しかないってどういうことよ……。何考えてるんだか、このバカ親父は。

「…ジュース買ってくる」

「何だよ理沙。飲まねぇの?」

「飲まないよっ。未成年にナチュラルにお酒を勧めるなっ」

「かたい事言うなよ〜。一緒に飲もうぜ〜? 俺はお前と一緒に酒を飲むのが夢だったんだからよ〜」

「えぇい、鬱陶しいっ。飲まないったら飲まないっ。どうしてもって言うんなら後4年待て。そしたら飲んでやらんこともないわよ」

「…ちっ、しゃあねぇなぁ」

渋々といった様子で引き下がっていくバカ親父。

頬を膨らますな、頬を…。いくつだ、あんた。

「んじゃ、ゆーりんでいいや」

「よかないわっ!! 飲むんなら一人で飲め、一人で!!」

「マジでっ!? それはやっべぇよっ! こんなとこで男が一人で酒飲んでる光景なんて、ぜって〜痛い目で見られるって、俺!!」

「それは大丈夫。あんた既に痛いから」

「なにぃ!? 俺って痛いキャラだったのか!?」

何を今更、という感じの視線を送る私。

「そ、そうか…そうだったのか…」

バカ親父がガックリと膝をつき、何やらぶつぶつと言っている。

まさかこんなことで落ち込むとは……ちょっと予想外の展開だ。

「うっしゃあっ! じゃあ痛いキャラは痛いキャラらしく一人で酒飲むとすっかぁ!!」

むちゃくちゃ早い復活だった。要は飲めれば何だっていいってことね…。

「それじゃ、今度こそジュース買いに行ってくるからね」

「あ、理沙ちゃん。私もいくよー」

ゆーりんが子犬のように私の後にパタパタとついて来る。

『早く戻ってこいよー』っていうバカ親父の声を背にしながら、私とゆーりんは自販機を探して歩き出した。

 





――――探索すること数分。

大分離れたところでようやく自販機を発見した。

「……何だか頭がクラクラする」

「ごめんねー理沙ちゃん…。私が間違ってお酒を飲ませちゃったばっかりに…」

ゆーりんが両手を合わせて申し訳なさそうに謝ってくる。

「別にゆーりんのせいじゃないって。悪いのは全部バカ親父」

そう言いながら自販機にお金を入れて、スポーツドリンクのボタンを押す。

「ゆーりんは何にする?」

「理沙ちゃんとおんなじでいいよー」

「ん…」

スポーツドリンクで喉を潤しながら、先程と同じボタンを押し、出てきた缶をゆーりんに渡す。

「コクコク……ふぅ。ようやく落ち着けたって感じ…」

「理沙ちゃん、本当に大丈夫ー?」

「ん〜? あぁ、大丈夫だいじょうぶ。お酒飲んだって言っても一口だけだし。それにしても、あのバカ親父にはホント困ったもんよね…」

負のエネルギーを目一杯こめて、はぁ〜…と盛大な溜め息を吐く。

「ホント、何であんなバカ親父の娘として産まれてきちゃったかなー、私」

「理沙ちゃん、それはちょっと言いすぎだよー…」

「いやいや、ゆーりんも私と同じ立場になったら絶対そう思うって。あのバカ親父、昔っから何かにつけて私に迷惑がかかるようなことばっかりしてさ。数え始めたらキリが無いよ。マジで家出考えたほうがいいのかな…」

「そ、それはダメっ!!」

私の家出発言に、珍しくゆーりんがはっきりとした口調で止める。

「ゆーりん…?」

「ダメっ! ダメったらダメっ! ぜったいにダメーーーーっ!!」

「いや、だからね…?」

「理沙ちゃん、家出はダメなんだよー! 理沙ちゃんは、ずっとあのお家にいないとダメなんだよー!」

「わかった、わかったから! ゆーりん、時に落ち着け」

両腕をパタパタと振って、一気に捲くし立てるゆーりんを必死に宥める私。

あんまり深く考えずにポツリと漏らした言葉が、まさかゆーりんの暴走を招くとは、夢にも思ってなかったよ。

「家出しない? 理沙ちゃん、家出しない?」

「しない、しない!」

「はぁー、よかったよぉー…」

ゆーりんが安堵の胸をなで下ろす。

ようやく落ち着きを取り戻したゆーりんに、私は疑問を投げかける。

「いきなりどうしたってのよ…。そりゃ家出するなんて言った私も悪いけどさ、いくらなんでも過剰に反応しすぎじゃない?」

「うー…だってー…」

瞳を潤ませて、上目遣いで見つめてくるゆーりん。

そ、そんな目で見ないでよ…。なんだか一方的に罪悪感を感じちゃうじゃない…。

「…理沙ちゃん。翔くんはね、ただ理沙ちゃんを困らせたくて、あんなことしてるんじゃないんだよ…?」

「…は? 何言ってるのよ、ゆーりん。バカ親父は、単に私の困った顔見て楽しんでるだけだって」

「そんなことないよー! 翔くん、本当は――――」

ゆーりんが何かを言いかけたけど、ふいに背後に人の気配を感じた私は、それを聞かずに慌てて振り返る。

 



――――そこにいたのは、ニヤニヤとうすら笑いを浮かべている、ガラの悪い5人の男。

「な、何よ、あんたたちは!」

ゆーりんを背に庇いながら、私はそいつらを睨みつけるが、私が一人睨んだところで男達が臆するはずもない。

私とゆーりんの回りをぞろぞろと囲んで、舐め回すような嫌らしい目で見てくる。

「思ったとおり。なかなか可愛いじゃん?」

「こっちのリボンの娘なんて、モロ俺の好みだぜ。うひょ〜たまんねぇ! 早くやっちまおうぜ!?」

「へへ、いい声で泣いてくれそうだなぁ、おい」

卑猥な言葉が耳に入ってくる。

男達の会話に、ゆーりんが恐怖に震えて私の背にしがみついてくる。

く…こいつら、全員お酒入ってるわね…。理性なんて、かけらも残ってない…。

やばいとは思ったけど、予想をはるかに上回って危険な状況だわ…。

どうする…?

5対2、しかもこっちは女。圧倒的に分が悪すぎる…。

せめて、ゆーりんだけでも何とか逃がせれば――――

そこで私の思考は中断された。男の手が私の腕を掴み上げたのだ。

「ちょ、放して! 放してよっ!」

「うるせぇ! おとなしく一緒に来いよっ!」

抵抗など無意味だとでも言うように、男が私の腕を凄まじい力で引っ張る。

いよいよ本格的にまずい。

このままこいつらに連れて行かれたら、その後何が待っているのかなんて、さっきの会話から嫌でも想像がつく。

誰か……誰か助けて……ッッ!!





「何やってんだよ、てめぇら…」





ふと怒気をはらんだ声が響いた。

だけどそれは、私のよく知っている声でもあった。

声のしたほうを振り向く。バカ親父だ。

今日一日、散々私を振り回してくれたバカ親父だけど、このときばかりは、その姿が頼もしく見えて仕方なかった。

「あ? なんだてめぇは」

「てめぇらこそ、理沙とゆーりんに何してんだよ。二人は俺の連れなんだ、さっさと放しやがれ」

「あぁ!? てめぇの連れだろうが知ったこっちゃねぇんだよっ! ぶっ殺すぞ!!」

「やってみろよ。返り討ちにしてやんぜ?」

「上等だコラァ!!」

バカ親父の挑発に頭に血が上った男達3人が、一斉に殴りかかる。

だけどバカ親父は、焦る様子も無く、流れるような動作で攻撃をかわしつつ、的確にカウンターを入れていく。



ガッ!! ゴッ!! バキッ!!



相当効いているのだろう。

何度かバカ親父のカウンターを受けているうちに男達の足元がふらふらと覚束無くなってくる。

「へ、最初の勢いはどうしたよ?」

まだ一発の攻撃すら受けていないバカ親父が余裕の笑みを浮かべる。

ここまでバカ親父が強いとは知らなかったけど、これならバカ親父は負けない。

負けない……はずだった。

「そこまでにしときな」

私の腕を掴んでいた男が、頬にナイフを突きつけてくる。

こいつ、正気じゃないわ……。

「てめぇ……っ」

怒りに顔を歪ませたバカ親父が一歩踏み出そうとする。

「おっと、動くなよ? じゃないとこの可愛い顔をズタズタに切り裂いちまうぜ?」

「ち……卑怯もんが……」

バカ親父が構えを解く。



ごきっ!!


鈍い音が響き渡る。

後頭部を強打されたバカ親父の体が、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。

「へ…さっきはよくもやってくれたなぁ…」

「ただで死ねると思うなよ、クソがっ!」

男達の暴行は止まらない。完全に無防備となったバカ親父の体を何度も何度も蹴り上げる。

「がは…っ」

口から血が吐き出される。目もあてられないほどむごたらしいことが目の前に広がっている。

やめてっ! もうやめてよっ!! このままじゃ……このままじゃ……

バカ親父が死んじゃうよぉ!!

「へへ、馬鹿な奴だよなぁ? 女の前だからってかっこつけて出てきてよ。あのザマだぜ?」

隣の男が嘲るように言い放つ。

その言葉に……私はキレた。

「こんのぉーーーーーーーーーーッッッ!!!!」

男の腕を振り解く。ナイフを突きつけられていた頬に鋭い痛みが走ったが、気にしない。

振り向き様に、男の顎目掛けて渾身の力を込めた拳を叩き込む。

男が倒れるのを横目で確認しながら、すぐ傍でゆーりんを抑えていた男の顔面を殴りつける。鼻血を吹いて昏倒する男。

「ゆーりん、大丈夫!?」

「う、うん…大丈夫…」

まだ酷く怯えているけど、ゆーりんに怪我はない。

あとはバカ親父を……っ!

「り、理沙ちゃんっ!」

突然ゆーりんが私の背後に視線を向けて悲鳴を上げた。

ハッとして、私は振り向く。

先程倒したと思われたナイフを持った男が、殺気のこもった目で私を見下ろしていた。

「…やってくれんじゃねぇか。このアマがぁッ!!」

振り下ろされるナイフ。

私は、これから自分に襲い掛かるであろうその恐怖にきつく瞳を閉じることしかできなかった。






が、しばらくしても自分の身に何かが起きる気配は一向にない。恐る恐る瞳を開ける。

「……え?」

バカ親父の背中があった…。

さっきまで、暴行を受けて動くこともままならなかったはずなのに…。

「て、てめぇ、まだ動けて――――」

ごがっ!!!

男の体が宙を舞い、3メートルほど吹っ飛ぶ。男はそのままビクビクと痙攣して、動かなくなった。

「理沙に……俺の大事な理沙に……手ぇ出してんじゃねぇよ……っ!」





声も絶え絶えに、だけどバカ親父は、はっきりとそう言った。

「てめぇらも……まだやるってのかコラァ…ッ!!」

私とゆーりんを背に庇いながら、バカ親父が鋭い眼差して、残りの男達に言い放つ。

おそらくバカ親父が吹っ飛ばした男がこいつらのリーダーだったのだろう。

リーダーを失い、そして何より、殺気すら感じる眼光に完全に戦意を失った男達は、我先にと逃げていった。

男達が完全に視界から消えた瞬間、バカ親父がガクリと膝をつく。

バカ親父の足元には、赤い液体が滴り落ちていた…。

「バカ親父……お父さんっ!!」

「翔くんっ!!」

我に返り、慌ててお父さんのもとに駆け寄る。

お父さんの腹部には、先程の男のナイフが深々と突き刺さっていた。

身を挺して、私のことを守ってくれたのだ。

「お、お父さん…! 何で、何であんなこと…!」

「……ばぁー…か…。理沙を…守るのは…俺の役目だろうがよ……。それより…わりぃ…怪我、させちまったな…」

「私のことはどうでもいいよ…っ! お父さんこそ、自分の体の心配しなさいよね…!?」

「……へ。こんなん……たいした…こと…ない…ぜ……」

そう言いながら、ゆっくりと閉じられていくお父さんの瞳……。

その時の私は、半狂乱になってお父さんの名前を泣き叫ぶことしかできなかった。

 

 




*

 



『手術中』のランプの前で、私とゆーりんはひたすら時間が経過するのを待っていた。

私の頭の中はひどく混乱していた。

昔から私の嫌がるようなことばかりしてきたお父さん…。

昔から私に迷惑がかかるようなことばかりしてきたお父さん…。

口喧嘩なんか毎日のようにしてきた…。

だから、ゆーりんが言った、お父さんの一番が私だっていうことも真っ先に否定した…。

だけど…

『俺の大事な理沙に……手ぇ出してんじゃねぇよ……っ!』

お父さんは確かにそう言った…。

身を挺して守ってくれた…。

何で…? 何でなの…?

わからない……全然わからない……本当のお父さんが……わからないよ……。



「翔くんの一番は、理沙ちゃんだから…」



私の心の葛藤を聞いていたかのように、ゆーりんがポツリと呟いた。

「…なんで? お父さん、私には全然そんな素振りは見せなかったのに…」

ゆーりんは私の問いかけには答えず、視線を虚空に向けて、静かに語りだした。

「…私ね。前に一度、翔くんに訊いたことがあるんだよ。何で翔くんは、理沙ちゃんをいじめるのって…」




『あん? 何で俺が理沙の嫌がるようなことばっかするのかって?』

『うん…。このままじゃ、いつか翔くん、理沙ちゃんに嫌われちゃうよー…?』

『そうだな』

『そうだなって…翔くん、理沙ちゃんに嫌われてもいいのーっ!? 理沙ちゃんのこと、好きじゃないのーっ!?』

『好きに決まってるだろ? 俺の一番大事なものは理沙なんだからよ』

『だったら、どうして…』

『……あいつはさ』

『…?』

『あいつは…みゆきになろうとしたんだ』

『…みゆき、さん?』

『みゆきってのは俺の死んだ嫁さん。あいつが死んじまって、しばらくの間、俺は相当落ち込んでた。そんなとき、理沙が俺に言ったんだよ。理沙が一緒にいるから、理沙が支えてあげるからって。笑っちまうよな。まだ5歳の子供にそんなこと言われてよ。でも、そのおかげで俺は立ち直ることができた』

『…』

『その日から理沙は変わった。朝早くから起きて、慣れない手つきで料理して、掃除して、洗濯して、そして笑顔で俺を起こすんだ。初めの頃は、俺も嬉しかった。だけど…』

『だけど…?』

『ある時ふと気付いた。理沙は俺のためにみゆきになろうとしてるって。俺のために“理沙”'という個人を捨てて“みゆき”になろうとしてるって。だから俺は理沙に言った。無理してみゆきと同じことをする必要はないって。理沙は理沙だ。みゆきじゃない』

『…』

『俺は理沙が傍にいてくれるだけでよかった。理沙が傍で笑ってくれるだけで俺は支えられた。だけど理沙は“みゆき”になることをやめようとはしなかった。だから俺は…』

『理沙ちゃんに嫌われるようなことをした…?』

『…あぁ。散々バカやって、理沙が俺に愛想尽かせば、理沙は俺なんかのために“みゆき”になることはしないと思った。他にも色々と方法はあったんだろうけどよ、俺は馬鹿だからそうやって理沙に伝えることしかできなかった。後は今見ての通り、喧嘩の絶えない日々だよ。でも、それで理沙が理沙でいられるんなら、いいんだ』

『翔くん…』

『なんて、かっこいいこと言ってるけど、内心は怖くてたまんなかったよ。今日こそ理沙が俺のもとを去っていってしまうんじゃないかって、いつも怯えてた。やめようにも、既に俺と理沙の間には大きな溝ができちまってた』

『…でもさ。今でもあいつは俺の傍にいてくれている。文句を言いながらでも、こんな馬鹿な父親のところに帰ってきてくれる。俺なんかにはもったいないくらいの娘さ。だけど…だからこそ、俺は理沙に何かあったら全力で守る。それは、もしも理沙が俺のもとを去って行ったとしても変わることのない気持ちだ』



「…翔くんは、そう言ってたよ」

ゆーりんの独白が終わった途端、私の目には涙が込み上げてきた。

知らなかった真実…。

気付かされたお父さんの本当の想い…。

「…馬鹿じゃないの? 私がお母さんになろうとしたって、それで私が消えるわけじゃないのに…。私は私…。お母さんになろうとしたのも、それは私の意志なのに…」

「…そうだね。でも、翔くんはそれだけ理沙ちゃんを愛していたんだよ」

涙が止まらない……

「翔くんの一番は、理沙ちゃんだから…」

それは今日幾度となく聞いた言葉で……。

それは今日幾度となく否定してきた言葉だけど……。

このとき私は、初めてその言葉に素直に頷くことができたのだった。

 

 

 




*

 


 


――――数日後。

私は入院しているお父さんのところへ来ていた。

「お父さん、具合はどう?」

「おう、理沙。別にどうってことねぇよ。早いとこ退院して遊びたいぜ。退屈でたまんねぇよ」

とても腹部を刺されて肋骨まで骨折している患者のものとは思えない言葉に、溜め息を吐く私。

「もう。少しはおとなしくしてよね? また傷口が開いたらどうするのよ…」

「なんだ、心配してくれてんのか?」

「…当たり前でしょ。私、あのときは本当に怖かったんだからね…。お父さんが、いなくなっちゃうんじゃないかって…」

「理沙…」

何となく空気が重くなる。

でも、もし本当にお父さんがいなくなったらって考えると、胸を締め付けられるような痛みに襲われる。

「…理沙。みゆきから貰ったあれ、持ってるか?」

俯いていた私に、お父さんが静かに問いかけてくる。

私はいつものように首から下げていた黒の勾玉をとって、手の平にのせてお父さんに差し出す。

するとお父さんは、ゆっくりとした動作で、私の手の平に何かをのせた。


――――それは『C』


クリスタルで作られた、透き通る輝きの勾玉だった。

私の黒の勾玉と対極に置かれたお父さんの白の勾玉が1つの綺麗な円を成している。

「これって…お父さんも持ってたの?」

「みゆきと一緒になったときに買ったんだ。お互いがお互いを支えて、協力し合って生きていこうってさ。陰陽勾玉ってやつだ」

「陰陽勾玉…」

「どちらか一方が欠けても駄目なんだ。陽には陰が必要で、陰には陽が必要だ。だから…」

「…だから?」



「お前がそれを持っていてくれる限り、俺は絶対お前の前からいなくなったりしない」



お父さんが私の目を見てはっきりと宣言した。その瞳には、揺らぎ無い意思が篭められている。

胸に温かなものが広がっていく。

それと同時に、お母さんが私にこの勾玉を託してくれた意味にもようやく気がついた。



「ありがと…。じゃあ私も、お父さんがこれを持っていてくれる限り、絶対にお父さんの前からいなくなったりしないよ」



私の言葉に呆気にとられるお父さん。

だけど、次の瞬間には顔を赤くして慌てて私から目を背けた。

「ば、ばっかじゃねぇの? 俺はお前がいなくなっても全然平気なんだよっ。ガキじゃねぇんだからなっ」

「言ってることが矛盾してるよ? どちらか一方が欠けても駄目なんでしょ?」

「お、俺の場合はいいんだよっ」

「素直じゃないねー、お父さん」

「う、うるせぇ! だいだいお前、何で『お父さん』なんて呼ぶようになったんだよ!?」

それは、ゆーりんから聞いちゃったからさ。

お父さんの本当の気持ち……。

「べっつに〜? ただ何となくよ」

「なんじゃそりゃ。あ、もしかして、身を挺して自分を守る父親の姿に惚れちゃったか!? 惚れちゃいましたか!? 惚れやがりましたか!?」

ビスッ!

「ぐおおおぉぉぉーーーーー!! 目ぐぁーーーーーーーッッ!! 何しやがる、理沙!!」

「お父さんが変なこと言うからでしょ?」

「何がだよっ! てめぇこそ素直に惚れたって言えや!!」

「惚れるかっ!」

「じゃあ何で『お父さん』なんて呼ぶようになったんだよ!?」

「だから何となくだって言ってるでしょ!?」

「やっぱ惚れてんじゃねぇかっ!!」

「誰がバカ親父なんかに惚れるかぁーーーーッ!!」

「バカとは何だバカとはっ! バカって言うほうがバカなんだよっ!!」

「子供みたいなこと言ってんじゃないわよ、このバカ親父!!」

まったく…折角お父さんのこと見直してあげたのに、結局元の関係に戻っちゃったよ。



でも……これでいいのかもしれない。



きっと、この関係が私とお父さんにとって一番自然なんだろう。



1つ違うのは、私がお父さんの本当の想いを知っているということ。



だけど、それをお父さんに教えては絶対にあげない。



いつかお父さんが自分の口から私に本当の想いを言うまではねっ。



それまでは、私がいつ去っていくかってことにせいぜい怯えてなさいっ。


 




病院の一室に、バカ親父の売り言葉と私の買い言葉が轟いている。



だけど……。



私の手の中にある2つの勾玉は、今も互いに寄り添って、綺麗な円を成しているのだった――――。