「C」
窓の外。4月の黄色い陽光の下、桜の花びらが舞っている。
風に乗って踊り、輪を描いて回る桃色の妖精を引き立てるかのように、蝶がヒラヒラと飛んでいた。
次々に咲き始めた花壇の花を眺めながら、どの花の蜜を吸おうか迷っているのだろうか。
1匹の蝶が花壇にある赤い花に降りる。
蝶は花に止まったまま翅をゆっくりと開いたり閉じたり…その様子は、まるで蝶が蜜の味を満喫しているかのようにも見えた。
桃色の桜、黄色や白色の蝶、赤色や橙色の花、緑色の草。
窓の外にあるのは、誰が何と言おうと暖かな春の情景だった。
そんな情景を見て、今の私が思う事はただひとつ。
――眠い。
暖かな4月の陽光も窓の外で踊る桜の花びらも咲き誇る花々も萌える草の緑も、私にとっては自分を心地よい眠りに誘う催眠術でしかなかった。
「ふわぁ…ぁふ」
情けないくらいの大きな欠伸が出てしまう。
そこ、はしたないと言うなかれ。
始業式が終わり、明日から再び学校生活が始まるのだ。
今のうちにこうやって鋭気を養っておかなければ、こうやって学校に来る事すら止めてしまうかも知れない。
……さすがにそれは冗談だけど。
「ふぁ……」
あらら、油断していたらまた欠伸が…。
2度目の欠伸はさすがに恥ずかしいので、一応は手で口を隠しておく。
やれやれ…どうやら今日の睡魔は一段と強力らしい。
私の精神はことごとく睡魔に侵食されていき、自我は既に3%も残っていない。
自我が必死に睡魔を押し返そうとしているのが分かる。
だが、それは無駄だ。
何故なら、私の体が素直に睡魔を受け入れているから。
人類が抗う事の出来ない睡魔をもたらす暖かな陽光が、容赦なく私を照らし続けるこの窓際の席が半分悪い。
残り半分は眠気を助長するような暖色のみで彩られる窓の外の情景が悪い。
うん、私は悪くない。悪くない。
……よし、自己正当化完了。
「ふわあぁ……」
と同時に、またまた口から漏れる欠伸。
むむ。これは、休憩時間である今の間に眠っておいた方が良さそうだ。
ホームルームまで眠っていてはシャレにならない。
まあ…始業式当日のホームルームなんて、一緒に渡されるプリントを見れば事足りるような連絡事項しか言わないだろうけど。
私は時計に目を向ける。
ホームルームが始まるまではあと5分。
………。
……5分でどうやって眠れってのよ。
私は誰へともなく毒づく。
どこぞの漫画にある時間の流れが遅くなる修業部屋じゃあるまいし、5分で十分な睡眠時間などとれるわけが無い。
逆にそんな短い睡眠時間じゃ、かえって眠くなってしまうこと請け合いだ。
……仕方がないか。
「う〜ん…っ」
私は欠伸を噛み殺しながら両手を頭の上で組み、大きく伸びをした。
肩の骨がパキパキッと小気味良い音を立てる。
眠る時間がないと分かれば、今のうちに出来るだけ睡魔を吹き飛ばすしかない。
睡魔ちゃん、短い付き合いだったね。
勝負とは常に非情なのだ。
何の勝負かは知らないけど。
私は頭の上で組んだ両手を離し、そのまま肩を交互にぐるぐると回す。
「うわ、女の子がそんなはしたない事をしちゃダメだよー」
私の後ろから、間延びした女の子の声が聞こえた。
私は上げた腕を下ろす。
「女の子が…っていうのは決めつけだよ。私は女の子らしい“おしとやかさ”っていうのは性に合わないの」
そして、振り向きざまに一言。
後ろに誰が居るかは分かっている。
「…そうかなー。理沙ちゃん、可愛いのにー…」
そこには、私が予想した通りの子が眉をハの字にして首を傾げていた。
肩まで伸ばしたふわふわの柔らかそうな髪の毛と、それを引き立てるように髪につけられた小さな赤いリボン。
物静かそうな小さな口と、おだやかさと優しさを兼ね備えたような僅かに垂れた目。
フリフリのドレスなど着せたなら、お人形として売られていてもおかしくないその外見は、彼女が“可愛い”と言った私なんかよりも数倍可愛らしい。
「……おだてたって何もでないわよ? それよりゆーりん、何か用なの?」
目の前のお人形…もとい、“ゆーりん”こと野原由利(のはらゆり)に、私は尋ねる。
「あれー…? 私が用事があるって、何で分かったのー?」
ゆーりんは十分に噛んだガムをビローンと引き伸ばしたような声で不思議そうに問い返した。
別に用事があると分かって言ったわけじゃないんだけど。
話しかけてきたからどうしたのかなー、程度で。
「まあ、女の勘ってヤツかな」
答えようがないので適当に答えておく。
「そうなんだー、女の勘ってすごいねー」
やけに感心しているゆーりん。
いつも思うけど、ゆーりんってちょっとだけ浮世離れしてると言うか…ワンテンポ遅れているような、そんな感じがする。
「…それでさ、用事ってなに?」
私は脱線しかけた話を再び線路に乗せた。
このままゆーりんを放っておくと、用事とやらを聞く前にホームルームが始まってしまいそうだ。
「あ、そうだよー」
ゆーりんはポンと両手を合わせる。
「すっかり忘れてたよー」
……話しかけた理由を忘れないでよ。
「あのね、理沙ちゃんを呼んでる人が廊下に居るんだよー」
ゆーりんが廊下を指差す。
私からは誰の姿も見えなかった。
「その人って、今そこに居るの?」
「今居るんだよー」
私は再び時計に目を向ける。
ホームルームまでは僅か3分だ。
「今って…残り3分しかないよ…?」
「でも、呼んでるんだよー…」
ゆーりんの顔が僅かに曇る。
そんな顔をされたって、時間が無いんだよー。
…いけない、ゆーりんの言葉がうつっちゃった。
「…その人、何の用事か言ってた?」
私は気を取り直して訊いてみる。
「…うーん、分からないよー。ただ“七海理沙さんを呼んで欲しい”って…」
首をかしげながら、ゆーりん。
ちなみに七海理沙(ななみりさ)とは正真正銘の私の名前である。
少なくとも、私に用事があるような人は全く思い浮かばないんだけど…。
「…まあ、そこに居るんならさっさと行って確かめてみましょうか」
悩んでいても仕方がない。
私は自分の中でこう結論を出して立ち上がった。
「それで…………。私を呼んだのは君かい? さっちん」
「トイレ行こー」
こちらの質問には一切答えず、自分の用件のみを‘さっちん’蒲田幸恵(かまたさちえ)は告げた。
去年クラスが一緒で、仲の良かった娘(こ)だ。
いい娘なんだけど……。ちょっと、ね。
「ええー、でもホームルームまであまり時間がない……」
人の話を聞かないところがある。
正しく『玉に瑕』。
その所為か、なかなか整った顔立ちなのに深い仲の人は居ない。
大きなお世話か。
「良いから、行こ、行こ、行こぉー」
今回も例外ではないようだ。
そしてやんわりと断りの言葉を述べようとした私の手をトイレまで引っ張って行く。
「ねえ、もうホームルームの…」
キーン、コーン、カーン、コーン。
ありふれたチャイムが私の上に降り注ぐ。
もう担任は教室に入っただろうか。
出欠をとった時に少女が一人居ないことに気づき私のことを探すのだろう。
かくして、‘七海理沙失踪事件’という奇怪なる事件の幕は開いたのであった…。
なんて馬鹿なことを考えているうちにトイレの前に来てしまった。
さっちんは右側の青い男の人が立っている扉を開けて中に入り、続いて私も…。
……あれ。
「さっちん、そっちはひょっとして男子トイレでは?」
「え、なに? なに? なにぃー?」
私の体が完全に中に入るとほぼ同時に扉は閉まる。
恐る恐る回りに目をやった私が目にしたものは。
たぶん、生涯に一度たりとも使用することのない未知なる道具だった。
「あははは。ごめんごめん、ごめん。つい、うっかりしてた」
どこをどうやったら……。だけど真面目につっこんだら却ってこっちが疲れそう。
そうだ、ここは敢えて触れない方がいい。
それにしても新学年になってそうそう恐怖体験をするとは、ついていない。
男子が一人も居なかったのがせめてもの救いか。
私はさっちんと女子トイレに移動、別の表現を使えば連行された。
当然だがここには生物学的に男とされる人々は居ない。
「それで、彼から手紙来たの」
単刀直入にさっちんは訊いてきた。
「えっ、うん、まあ…」
そんなことの為に…。
だが不思議とそれ程悪い気もしなかった。
「しっかし今時珍しいわよね、文通だなんて」
「手紙なら後に残るし、文字もその人の特徴が出るからいいかな…。なんて……」
間違っても携帯の料金が高くつくから、などという理由ではない。
しかし手紙はただではないがその楽しさに対し割合低コストだと私は思う。
それにとっておきさえすれば一生残る。
別に一生残しておくつもりはないけれど…。
「ひゅー、お熱いこと。良いなあー、良いなあー彼氏が居る人は」
「うーん。恋人同士、という間柄ではないんだけどね」
彼とは、‘しーくん’とはそんなんじゃない……。なんて言っても分かってくれないだろうなあ。
‘私と彼の関係’なんてどう説明しろってのよ。
はあ…。ダメだ、ダメだ。文句を言ったって始まらない。
落ちつかなくては。
「でも淋しくない。彼氏ともう1年以上会っていないんでしょう?」
「そりゃあ顔見たくなる時もあるけど、電話や手紙でやり取りしているし…。それに今度のゴールデンウィーク会いに行くから……。って、『彼氏』なんかじゃないって。」
「‘今度会いに行く’…。日帰りで?」
「うんうん。2泊3日の予定」
それを聞いてさっちんの顔が見る見る蒼くなっていく。
おお、おもしろい、おもしろい。
「ひょ、ひょっとして、ひょっとして……。彼の家、泊まる…の?」
……。
んなわけあるかい。
「そ、そんな、まっさかあ。近所で仲の良かった女友達の家に泊めてもらうんですー」
「本当なのかなあ…?」
さっちんは露骨に疑いの眼差しを向けてさらに追及しようとしている。
しつこい。
「もう、いい加減にして。ほらホームルーム始まって5分経つよ。教室戻ろう」
そう言うや否や私はさっちんを置いてけぼりにして、一人、教室へダッシュする。
廊下には迷いこんでしまった蝶が出口を探してラビリンスの中を彷徨っていた。
茶色で、目玉模様のある地味な蛾のような蝶。もしかすると蛾なのかもしれない。
だがそんなのは彼、または彼女にはどっちだって良いこと。
そんなくだらないことを気にしてギャーギャー騒ぐ人間達を彼らはなんと愚かしい、とでもそのか弱い翅で輪舞しながら見下しているのだろうか。
春のぬくぬくとした日差しが灰色のコンクリートの校舎に差しこむ。
その明かりに導かれてか、蝶は迷宮からの脱出口を見つけ出し汚くどこか薄ら寒い牢獄から逃げ出すと、水色の絵の具で塗りたくられたキャンパスにみるみる吸いこまれていった。
「ただいまあ」
帰宅し、靴を脱ぎ捨てつつ玄関から上がった私を出迎えたのは…。
「よお、お帰り」
普段ならありえない声と人だった。
「な、何でこんな時間にぃー?」
奥から聞こえてきた声は聞き覚えがある。ありすぎる。
だが平日の、この午後5時前と言う時間にこの家に居る筈のない人のものだった。
うろたえる私を他所にその‘居てはいけない’人物は台所から玄関へ出て来る。
エプロンをかけ、右手にフライパンを持ったまま。
「居ちゃあ悪いのかよ…。今日は出張だったの。‘出張先から直接家に戻るから今日は早く帰る’って言わなかったか?」
家に居たのは四十路に届くか届かないかの中年男性。
私の父。
職業は会社員。まあ、ありふれたところだ。
「そんなこと……。ありゃ」
聞いたかも…。今朝に……。
寝坊して遅刻しそうだったからはっきりと思い出せない。
「お母さんは?」
私はきょろきょろと眼を動かしながら母の所在を訊いた。
分が悪い時は話を逸らす、これが一番有効。
「夕飯に使う牡蠣や鍋の具を買いに行ってる」
鍋の季節はもう終わりではないのですか。
季節感とやらも大事だと思うのですけれど…。
そう考えているうちにあることに気づいた。
父が‘戦闘服’のコスチュームであることに。
「その格好…。もしかして今日の夕飯お父さんが作るの?」
「そうだぞ。高校で料理研究会だった腕、久しぶりに見せてやるからな。牡蠣鍋だぞ」
確かに料理の腕は良い、お母さんよりも。
良いんだけれどお父さん、たまに変なもの作るからなあ。
柿の鍋…。どんな恐ろしいものを食べさせられるのだろう。
はあ、まあその時はその時だ。
「手紙、届かなかった?」
「ああ、あれのことだろ。玄関の脇に置いてあるぞ」
父の言葉の途中で私は鞄を持ったままさっき通ったばかりの玄関に舞い戻る。
「……なによ、これ。三河島ゼミナール、大洗予備校…」
「今年は高校受験なんだから塾、入った方が良いんじゃないか?」
「そんなどうでも良いダイレクトメールじゃなくて…」
「これだろう?」
さっとエプロンのポケットからありふれた白の封筒を取り出す。
3枚の切手がベタベタと貼られ、上から新井・17・4.8と印が押されている。
差出人は朝見郡新井町6丁目3番地50号、四井成賢。県の所は父の細い手に隠れて見えない。
「返して」
私の父に対する発言は厳密に言うと正しい表現、ではなかった。
けれどある意味においては適切とも言えた。
ひったくるように父から封筒を奪うと私は階段を駆け上がり自分の部屋へ飛びこんだ。
うちのお父さん詮索好きなところが少々困る。
白い封筒――。
すぐに開けても良いのだけどわざとやらない。
デザートは最後の方に取っておくもの、だ。
その前に…。
乱雑に鞄を放り投げ着替えもせず制服のままある儀式を行う。
何だか厳かなことのようだけど何のことはない。
いつもの習慣を実行するだけ。
上を脱ぎながらCDプレーヤーの蓋を開け、いつものように左手を机に伸ばし最初に触ったものをセットする。
そして脱皮した皮をベッドに投げ捨てて、再生のスイッチを。
ポチッ。
後は涼しい格好で演奏が始まるのを、待つ。
どんな曲がかかるかはお楽しみ。
♪カントリー・ロード このみーちー
♪ずっうーとー ゆけばー
流れてきたのは当然だけど私の大好きな歌。
歌っているのは女の人。
私にとって『カントリー・ロード』と言ったらさるアニメ映画の主題歌のこと。
その映画も私は大好きだ。
去年の春、埼玉(こっち)に来る前と来た頃は毎日、それも1日に3回は聴いていた。
今はそれ程でもなくなったけど、それでも時々こうして…。
♪あーのー街ーにー つづいてーるー
♪気がすーるー
♪カントリー・ロード
私の、だいすきな歌。
5分経たないうちに流れ出る音が止まった。
今となっては珍しい8センチCDを閉じ込めたまま電源を消し、下着をつけただけだった上半身にクローゼットの1番左にあったものを纏わせる。
さて、いよいよ。
はさみを手にした私の心は大きく弾む。
中からほんのりと青い便箋が出てきた。
いつもとはちょっと、趣きが異なる。
なにか意図があるのだろうか。
ふと机の左手にある写真たてへ眼が行った。
中には学ランとセーラー服という今時都会では珍しい衣装に見を包んだ4人の男女が並んでいる写真が収められ、その右側のもう一枚写真を収められるスペースには。
‘16−3−19’と刻まれた一枚の硬券がとても……。
大事そうに、飾られていた。
前日に雪が降ったのが嘘みたいな好天になっている。
淡雪は積もることなく溶けてしまいその痕跡を認めることはできない。
4人の男女が中学校の校門の前に立っていた。
男の子2人は黒い学ランで、女の子2人は私服。
門には新井町立新井中学校とある。
私、吉井礼子(よしいれいこ)をはじめ、4人が通っていた学校だ。
「この学校とももう、お別れなんだねえ…」
‘りっちゃん’が淋しげな視線で学校を見ている。
りっちゃんは本名、七海理沙ちゃん。
ベージュの服にチェックのスカート。
緑色のゴムで髪を留めている。
私とは近所で家も近く小学校のクラスも4年以外ずっと一緒だった。
私達4人はこの4月から中学2年生になる。
けれども新中(あらちゅう)こと新井中学校に引き続き通うのは私と上村一太郎(うえむらいちたろう)、四井成賢(よついなりかた)の3名だけ。
りっちゃんは埼玉県の学校に転校する。お父さんが東京へ転勤になったからだそうだ。
「オレ達が卒業する時は『水山市立』新井中学校やけどな」
上村一太郎、通称・‘うえちゃん’が呟く。
「名前が変わるだけだよ…。頭につく名前だけ…」
そう自分で言いながらもどことなく校名の入ったプレートを見る眼が愛しげになる。
私達が住む新井町(あらいちょう)は人口2万人強の山間(やまあい)の街。
でも今隣の隣町の水山市(みなやまし)と合併する話が着々と進んでいる。
水山市は人口40万弱。新井町や他の3町が吸収されるということになるらしい。
このままだと来年、平成17年4月1日に新・水山市が誕生する。
「みーんな、変わっちゃうんだねえ……」
そう言ってりっちゃんは私達に微笑みかける。
だけど、本人は気づいていないらしいけどその目は少し潤んでいた。
校門の脇には2つの桜木が地面に根を下ろしている。
その桜を四井成賢は見上げていた。
つぼみはそこそこ膨らんでいるが開花には今少し早い。
「じゃあそろそろ行こっか」
「良いの、りっちゃん?」
「うん」
私にそう答えるとりっちゃんは学校に背を向けて坂道を下りだす。
「待ってよー、りっちゃん」
彼女の後を私も追う。
うえちゃん達二人に‘またね’と声をかけると、もう坂の半分を下りてしまった親友に追いつく為急いで坂を駆け下りて行く。
春の風が吹く。木々が揺られる。
校門の桜も例外ではなく、上下に揺さぶられるが枝が悲鳴を上げる程ではない。
これが花の咲いた後ならば桜吹雪が巻き起こっていたのだろうがなにも舞わない。
ただどこからかやって来たのか、一枚の花びらが二人の少女の後を追うかのように坂の上から下へと流れていった。
見送った少年の一人、四井成賢がふとまた桜に眼をやったがあるのはただつぼみをつけた枝だけであった。
それでもその時は近い。そう、彼は思った。
そんな彼の考えを肯定するかのようにまた春の風が吹き、少年の頭を優しく撫でると先に坂を下りだしていた少女達の背中を追いかけ、追い越して一気に坂を下っていった。
「なあなっちゃん。追試の勉強進んどるか?」
「別に…。うえちゃんは追試ちゃうねんから家に帰ったら」
「オレは午後から部活があんの。言うたやろ」
そう言われてなっちゃんは怪訝そうに首を捻る。
それはそうだ。そんなこと言ってないんだから。
ホント、からかいがいのあるやつだ。
でも部活は本当にある。オレ、上村一太郎はバレー部に入っている。
ポジションはセッター。控えの。
今日は午後から明日の練習試合に向けてみっちり練習する。
「それより…ちゃんと勉強しいや。今度2年生になるんやで」
オレと‘なっちゃん’、四井成賢は小学校からの同級生。
小1から中1まで半分以上を同じ教室で過ごしてきた。
ま、クラスといっても小学校は1学年に2クラス。中学校も3クラスしかないが。
で、この前の期末試験があまりにも悪かったので彼はわざわざ休みの学校に呼び出されて追試験。
それも1人だけの。
「3人だけ…になってしまうんやね……」
何の前触れもなく窓の外を見ながらなっちゃんが言った。
おいおい、全然脈絡がないぞ。
「仕方ないやん、りっちゃんのお父さんの仕事の都合なんやから」
オレとなっちゃん、りっちゃん、礼子ちゃんはいつも4人で遊んでいた。
男2人、女2人のグループだったけどケンカをした記憶がほとんどない。
大体は大きくなったら男の子と女の子は遊ばなくなるって言うけどオレ達はそんなことはなかった。
クラスは必ずしも全員同じと言うことはなかったけど体育の時間は2クラス合同だったから6年間ずっと同じだったし、家もみんな近所。
だから中1になった今でも4人でよく集まり、話し、遊んでいた。
「やっぱり…。『いつまでも4人一緒』なんて夢物語やったんかな……」
なっちゃんは結構落ちこんでいる。幼馴染と別れるのは寂しいけど、仕方ないじゃん。
あんまり未練たらしくいつまでも引きずるのはどうかと思うんだけどねえ。
「いつかは…みんなバラバラになるもんやろ」
「でも……」
それっきりなっちゃんは黙りこくってしまった。
ああもう、調子狂うなあ…。こっちまで気分が沈みそう。
ん、そういうオレはどうなんだ。
気持ちは…。
気持ちは全く沈んでいないのか、自分は……。
なっちゃんと同じように景色を見つめてみる。
田園風景の中を6両編成の電車が走っている。
特急に使われている車両だ。旅行や親戚の家に行く時に何度か乗ったことがある。
この路線ではあまり見慣れない。団体列車か。
線路から少し離れた場所に車が何台も停まっている。
そして線路脇にはたくさんの人が。
この列車を撮影しに来たのだろう。
前にこのあたりが鉄道写真のポイントとして雑誌に紹介されていたのを見た覚えがある。
なかなか絵になる風景なのかもしれないが毎日教室から見ていると特になにも感じない。
ガタンガタン、ガタンガタン。
電車は短い鉄橋にさしかかった。
たった数秒、川のスクリーンに赤とクリームの体が映し出される。
待ってました、とカメラマンや小僧がシャッターをパシャパシャ。
鉄橋を渡り終えると電車は左へ緩やかに曲がりながら築堤を進む。
上映会は終了した。
被写体が遠ざかると人だかりはさっさとばらけ、皆その場を後にし始める。
もう少し時間が経てばいつもの風景に、戻る。
田畑の中を突き抜ける一本の筋。
その筋と川が交わるところに橋が架けられていた。
レトロな趣きのある鉄橋が静かに微動だにせず立ち続ける一方、川面に投射された双子の方は風が吹く度ゆらゆら、ゆらゆら落ち着きがない。
なっちゃんの気持ち…分からなくはないよ。
けどさ、分からなくはないけどさ、仕方ないじゃん。
仕方が…ないんだよ……。
「オレだって寂しいわ。明日が試合やなかったら今日、駅まで見送りに行ったのに…」
りっちゃんは今日の12時27分発の下り列車でこの新井町から、去る。
昨日礼子ちゃんとりっちゃんの家に行った時本人から聞かされた。
いきなり電話で‘今から家に来て’なんて言うからなにかと思ったけど…。
驚いた。月の終わりに引っ越すとは知っていたけど30か31だと思っていた。
礼子ちゃんもその時知らされるまで一言も聞いていなかったらしい。
今日は3月19日。
一般には、月末と言わないだろう。
聞くところによると小父さんや小母さん、妹さんは30日に車で引っ越すのだという。
どうしてりっちゃんだけが1週間以上も早く、しかも電車で引越し先に向かうのか分からない。
しかしそれは些細なことだ。
七海理沙という人間がこの街から居なくなるという事実には変わらない。
少し早いか遅いかだ。
「今、何て言うた?」
「え、なに?」
なっちゃんがなにか言ったが聞き取れなかった。困るよね、はっきり言ってもらわないと…。
「今、何て、言うた?」
「は、だから…。‘オレだって寂しいわ。明日が試合やなかったら今日、駅まで見送りに行ったのに’って。」
「りっちゃん……。今日、引っ越すんか?」
「ああ、確か新井駅12時27分の電車やで…。え、もしかして聞いてなかったん?」
黒板の上の四角い時計をなっちゃんは睨みつけた。
時計は12時10分を回り、間もなく1時間の4分の1を刻むところ。
なっちゃんは唐突に立ち上がった。
「おいおい、どこ行くねん? ちょっと」
「追試は1時からや。それまでには帰ってくる」
だからって、無理だ。中学校から新井駅まで自転車でも15分近くはかかる。
教室から校門を出るまでも1分や2分ではいけない、ダメだ。
「ちゃんと帰って来る。急げば間に合……」
「んなわけあるかいな、自転車ちゃうのに。絶対、無理」
オレやなっちゃん家は中学校から歩いて10分。距離が比較的近いから徒歩通学だ。
今日もなっちゃんは歩いて学校まで来た。家まで取りに行っている時間はない。
「だからって…。このままじっとしてられんわ」
「何でそんなにむきになんの?」
「むきになんか…」
「なってるやろ? どう考えても」
…………。
なっちゃんは黙ってしまった。
ホント、自分が不利になるとすぐに黙りこむ。
小学生…。
うんうん。小さいころ、幼稚園の制服を着て親とバスを待っていた時と全然変わっていない。
それで……。
「……ともかく、ちょっと行ってくる」
いきなり走り出す。
手にとるように分かる、ってこういうのを言うんだろうな。
「もう、なっちゃん」
オレはなっちゃんの右手を掴んだ。
ふっ、いくら逃れようとしたって無駄、無駄。
こちとら毎日(ごくたまにサボるけど)きつーい練習に耐えてんだ。
握力だけ、には自信あり。
「うるさいなあ、ほっとい…」
ポン。
オレはなっちゃんの手を掴むと自転車の鍵を握らせた。
当たり前だがオレの自転車だ。
「自転車、昇降口出たらすぐのとこ置いてあるで。ちゃんと名前書いてるから分かると思う」
「何で…?」
「バレー部明日試合でな、今日は町立体育館で練習すんねん。1時には帰って来るんやろ? 1時半に現地集合やからそれまでに返して」
町立体育館は役場の近く、秋島(あきしま)にある。自転車で飛ばせば15分。
1年だから練習の準備やらしないといけないけど、集合の10分前に着けば大丈夫だろ。
もしも間に合わなかったら先輩の雷が落ちるけど…。その時はその時、かな。
「うえちゃん…」
「ほれ、なにしてんの。早く行かないと間に合わんよ」
「うん、ありがとう…。ほな、ちょっと行ってくるわ」
感謝の言葉を述べるとなっちゃんは足早に教室を出て行った。
ちょっと、感極まっていたみたい。
泣き虫だなあ…。
オレは一人机の数に対して広すぎる部屋に、取り残された。
「ほっとけるわけ、ないやろ……」
おせっかい男の呟きが誰も居ない教室にじんわりと染みこんでいく。
おっとまだ昼メシを食っていなかった。バッグから弁当箱を引っ張り出して食すことにする。
そうか、七海理沙は四井成賢には今日この街を去ることを言っていなかったのか…。
オレと礼子ちゃんにはわざわざ家に呼んで言ったのに、なっちゃんには言わなかった……。
はいはい、そういうことですか。
ま、いいですよ。今はこの美味そうな弁当を食べよう。
弁当箱のふたを上げるとエビフライや卵焼きが現れた。
うむ、しっかりとオレの好みを押さえている。
いい仕事してますねえ、お母さん。
では早速エビフライからいきましょうか。
しっぽをつまみいきなりがぶりと頬張る。
うーん、至福の時。
ありゃ、なぜだろう、このエビフライ少ししょっぱいような…。
だけど食べられないわけではない。構わず食べ続ける。
急に風に当たりたくなった。右手で箸を持ちながら反対の手で窓を開ける。
ふうぅー。
間もなく穏やかな春の風が入りこんで来た。
カーテンに、オレの髪に、頬に優しくぶつかりながら風は通り過ぎていく。
どこか遠くで…電車の警笛が鳴るのを聞いたような気がした。
「小母さんどうもありがとうございました」
「いえいえ。理沙ちゃん、元気でね」
私とりっちゃんは母の車で新井駅へとやって来た。
腕時計を見ると12時6分54秒、55秒…。液晶画面が1秒、1秒確実に刻んでいく。
「じゃあ礼子。また後で迎えに来るから」
「うん、後でね」
車が発進し突き当たりのT字路を左折して見えなくなる。
私達は車が見えなくなってから駅舎の中へ。
私はまっすぐ券売機に向かい入場券を購入。
年度末、金曜日の正午過ぎ。
人の姿は数える程私達2人以外は3人だけだ。
「はい、ジュースだよ」
私が切符を買っている間にりっちゃんは駅の左隅、ベンチと売り子のいない売店の隣にある自販機でジュースを買ってくれていた。
「あ、ありがとう」
慌てて120円を財布から出そうとすると‘いいよ’と手を横に振るりっちゃん。
お礼を言うとにっこりと、とても良い顔で笑った。
りっちゃん…。笑う時、首が少しだけ傾く。
本人は知っているのかな。
その癖のことを。
さらにその首をほんの少し傾けながら笑う仕草がものすごく…。
ずっと彼女を見てきた私でも、一瞬眼を奪われてしまう程……。
『強烈』だということを………。
せっかく買ってもらったけど今はそんなに喉が渇いていない。
バックにジュースを突っこんだ。
りっちゃんもショルダーバックの取り出しやすい場所にしまった。車中で飲むのだろうか。
今までもよくあった光景。
ある時は私がおごり、またある時は今みたいにおごってもらった。
明日か明後日もまたこんな風に、今度は、私がりっちゃんにジュースを…。
そんな思いが胸を掠める。
時計は、ただただ正確に時を刻んでいく…。
ガターン、ガタンガタン。キ、キキィー。
‘早いけどホームに向かおうか’と思った矢先ちょうど上り列車が到着した。
ドアが開き数名の乗降客が乗り降りし乗客の顔ぶれが僅かながら入れ替わる。
跨線橋を渡り、さっさと改札口を抜けた人々は。
あっという間に春風吹く街中へ溶けこんでいった…。
一時ほんのすこし賑わいを見せた改札口も再び落ち着きを取り戻している。
電車が来る9分前。私達はホームに移動することにした。
駅員さんに今日の日付の入った判を押してもらい入場。
短い仕切りを通り抜けると、なんの変哲もない乗降場に出た。
ごくありふれた田舎の駅のホーム。
そして今日もダイヤ通りに電車はやって来て、人を連れていくのだろう。
それがいつもと違うのはその連れていってしまう人に私の知り合いがいること。
それ以外は普段どおりののどかなローカル線の風景。
大多数の日常の中に、ほんの少しの非日常が混じっている。
この新井駅は100年近い歴史があると町の歴史を記した本に書いてあった。
昔、この吹津線(ふきつせん)は幹線と幹線とを結ぶ短絡線として利用されそれなりに賑わったという。
昼間は30分に1本あるかないかの今からは到底想像できない。
そしてこの駅のホームは開業した時のままだそうだ。
ただ昔の、古いままでほんのちょっぴり困ったこともある。
電車のドアに比べてホームが一段下がっているのだ。段差は10センチくらい。
なんでも客車列車が運行されていた当時の名残らしい。
ホームには雑草があちらこちらに芽を出していた。
この駅の利用者はかつての栄光をほとんど知らない。
毎日利用している者でも知っている者はまずいないだろう。
だが4両編成の列車が止まるだけにしてはやけに長い距離だ。
その今となっては意味のない‘長さ’がこの駅の、ホームの、過去(むかし)のことを。
静かに控えめに物語っていた…。
私とりっちゃんは前から2番目の車両が停車する位置で電車を待つことにした。
終点の吹津駅で下車し別の路線に乗換する時、階段に最も近いから。
私とりっちゃんはホームの先っぽの方で待っていた。
そこには屋根がない。
空からは春の訪れを実感させる暖かい日差しが降り注ぐ。
割と遠くはないところにホームの上にまで枝を張りだした大きな銀杏(いちょう)が造った日陰があるが、今日は暖かくはあっても暑くはない。
だがその枝の下にはベンチがあった。
立ったままよりは座った方が楽なのは自明。
私はりっちゃんに腰かけるよう勧め自分も座ろうと歩み寄る。
でもベンチに近づいて私は考えを改めた。
ベンチはあまりにも、薄汚かった…。
座れるものは眼の前にあるが致しかたない。
そのまま立って待つ。
大銀杏は。
久しぶりの客を逃したこの誰も座らないであろう茶色がかったベンチを慰めるかのようにその木陰を。
なにも言わずに黙って、提供していた。
コンクリートの割れ目でたんぽぽが花を咲かせている。
西洋から渡ってきたものか日本古来のものかは素人目にはなかなか判別できない。
葉には必死に天を目指してよじ登るてんとう虫が。
そのたんぽぽやてんとう虫からすると、とてつもなく大きな生物が彼らの上でなにか話をしていた。
もしかして彼らにはもの凄い騒音となって襲いかかっているのだろうか。
「うえちゃんやなっちゃん、残念だったね…」
私はこの場にいない2人の男子の名を呟かずにはいられなかった。
小学校以来ずっと一緒にいた‘ともだち’。
可能なら是非とも3人揃って彼女を見送りたかったのだけれど…。
木の枝が時に優しく時に激しく風に揺られる度にコンクリートに伸びた黒い枝もつられて上下し、その先端が同じく平面上の黒い私の頭を叩く。
別れの寂しさとは違う、うっすらとした暗い影が私の顔にも差していた。
「部活と追試だもん、仕方ないよ」
私一人に見送られることになったりっちゃんはさばさばと言った。
表情もそれが偽りでないことを語っている。
私はその一点の曇りのない、今日の空と見事に連動した彼女の表情に少しの失望を味あわされた。
「だけどりっちゃんも悪いんだよ。いきなり昨日言うんだもん、びっくりしちゃった」
口から非難の言葉がこぼれ落ちる。
気分を害してしまっただろうか。
批判された当人は左足を軸にくるりと一回転すると青空とお見合いしながら、ポツリ。
「そいつはすみませんでした」
空を見上げながら謝られてもねぇ。
私は彼女のそんな調子に半分むっとしながらも、またほっとしていた。
空は、綺麗過ぎるくらいに真っ青だった。
「あれ、そういえばなっちゃんには言ったの? 今日引っ越すって」
会話が途絶えて暫らくした後私はいきなり尋ねた。
ほんの、確認のつもりだった。
頭の中では次なる質問がウォーミングアップを終え出番を待っている。
「言ってないよ、しーくんには」
‘しーくん’とはなっちゃんのことだ。近頃もっぱら彼はクラスでこう呼ばれる。
ただ本人はそう呼ばれると嫌がるので、私やうえちゃんは変わらずなっちゃんと呼んでいる。
りっちゃんはそれを知ってて‘しーくん’と言っているみたいだけど…。
「そう、言ってな………。はい?」
瞬間、私を冬の日に玄関のドアノブに手をかけたのと似たような感覚が駆け抜けた。
「どうしたの、素っ頓狂なんか出して?」
確かに今の私の声はもう一度やれ、と言われても出せないようなものでしたよ。
でもりっちゃんがさらりと言ってのけたことはとんでもないことだった。
当事者のなっちゃんはもちろん、彼や私達の友人でもあるうえちゃんにとっても。
私、吉井礼子、にとっても……。
「りっちゃん、本当になっちゃんに話してないの?」
怖怖と訊く私を親友は奇異に思ったかもしれない。
だが彼女の発言は私の背中を大きく押しもしえたし、引き返せない、地の底よりも深い泥沼に私を誘う可能性も秘めていた。
「うん、そうだけど」
「そうだけど、って……」
あまりに平然としている親友、少女、りっちゃん。
その一言一句に私は大きく翻弄される。
「なに、私なにかいけないことした?」
決してきつい言い方ではなかったがその言葉にはほんの小さな棘が生えていた。
「いけないというか…。どうして……?」
私の中である仮定がどんどん膨らんでいく。
「言う必要がないじゃない、もう会わなくなるんだから」
もっともにも聞こえる。
だがもっともに聞こえるからといって納得できるとは限らない。
「だけど、私やうえちゃんには…」
「礼子ちゃん達には一応、伝えておきたかったから……」
「ねえりっちゃん。本当に、言ってないの?」
「嘘ついてどうするのよ」
「嫌いになったの、なっちゃんのこと?」
「うーん。ちょっと、違うかなぁー…。何でそうなるの?」
「じゃあ、どうでも良いの? ……彼のこと」
「変なこと訊くね。それに、『彼』だなんて…。幼馴染なのに……。おかしな礼子ちゃん」
くすくすと笑う親友。
けれどその首は…傾いていない。
りっちゃんは私に、背中を見せた。
「あのね、りっちゃん…。りっちゃんが問題なければ……。私、しちゃっても良い、かな………?」
ふうぅぅー。
悪戯な小僧が私達のスカートをほんの少し持ち上げて逃げていく。
「なにを?」
ぶわぁーぁぁぁ。
続いていい年をしたであろう大人が私の帽子を持ち去ってしまいそうな勢いで乱暴に走り去る。
りっちゃんは私に背を向けたまま尋ねた。
親友が今どんな顔をしているのか、それはお互い想像するしかない。
セリフはもう喉まで出かかっている。
だが今日、りっちゃんが去るこの日に…。言うべきなのだろうか……。
さらにこののどかな天気、日差し、風。
‘春’という季節が私を静かに、強力に思い留まらせようとしていた。
言うの、言わないの。
耳元で優しいような意地悪なような声の誰かが囁く。
その声に促されて…。
「りっちゃん…。わた、し、ね……」
ハックション。
「………失礼、いたしました…」
春は…私がそれ以上言葉を口にするのを……。許しはしなかった。
「……ねえ、りっちゃん?」
私がもう一度声を発するまでに風が2回、私たちの背後の木を軽く揺さぶった。
「なに?」
ふり向かない、りっちゃんは。
「……ううん。電車、そろそろかな?」
りっちゃんは黙っている。
黙って自分を運ぶ乗り物のやって来る方向に目を凝らしている。
私の問いにはホームの先、踏切を超えたところにある青いランプを点灯させた信号機が。
彼女に代わって……答えてくれていた。
カン、カン、カン、カン。
警報機がけたたましい音をたて始め、黒と黄色の棒はゆっくりと下りてきて交通を遮断する。
駅を挟む二つの踏切がほとんど同時になりだした。
来た、下り電車だ。
構内に侵入し徐々に速度を落として停止位置付近に停まる。
約30センチずれた。
私達の前のドアからは一人も降りてこない。
りっちゃんはホームより10センチ高い車両に階段を上るみたいに乗車する。
「じゃあね、礼子ちゃん」
「りっ………」
ピイィィィィー、ピッ。
私の言葉を遮る笛の音がホームに響いた。
プシュゥー。
ドアが閉まり、短い警笛を発して電車は緩やかに加速していく。
後を追いかけようと試みたがすぐにホームの先に着いてしまった。
踏切を過ぎると大きな右カーブがある。
曲がり終えると、電車は見えなくなった。
プラットホームには私しか居ない。
誰一人降りなかったか、とっとと改札を出てしまったかのどっちだろうか。
踏切はすでに電子音を響かせるのを止め、遮断機も上がり何台かの車が踏切を渡って行った。
見えなくなったというのにいつまでもここに居ても意味がない。
赤信号も私に早く退場するよう促している。
お母さんもじきに迎えに来る。
けれど、その前に…。
プシュッ。
バッグから炭酸飲料を出した。りっちゃんがさっき買ってくれたやつだ。
特に喉が渇いているわけではない。
でもなんだか今この場所で飲まなければいけない、そんな思いに駆られた。
湯飲みでお茶を飲むかのように手を添え一気に飲み干す。
不思議とグレープ味にしては絞りたてのレモンみたいな…変わった味覚を舌に与えて。
瞬く間にジュースは喉を、通過して………いった。
『次はぁー西新井、西新井です。上り電車と交換の為に3分程停車いたします。西新井を出ますとぉー上山入(かみやまいり)に停まります。次はぁー西新井、です』
大きな横揺れに少しの縦揺れが加わる車内を私は座席の取っ手に捕まりながら空いている席を目指す。
車内は閑散としていて誰も居ないボックス席を見つけるのは容易い。
進行方向左手車両の前方、窓際の席に腰かける。
隣に人は居ない。
荷物が置けて助かる。
景色がどんどん後ろに飛び去っていく。
この街から私が居なくなってもなに一つ変わることはないだろう。
轍(わだち)を刻む音と時折一瞬耳に入る単調な機械音を子守唄に寝入ってしまうのも悪くはない。
しかし取り分け眠くもない。
ならばこの田園風景を眺めるのも、悪くは、ない…。
七海理沙とその他若干の乗客を乗せた電車は田畑の間を体をきしませながら走っていく。
こいでいた。四井成賢は自転車を必死にこいでいた。
線路脇の農道をひたすらに駅を目指して。
ちらり時計に眼をやる。6の字に長い針がかかろうとしていた。
間に合うか、間に合わないか。そんなことは考えていない。
ただ全力で自分の持てる力全てを足にこめていた。
自転車は新井駅とは正反対の方向に進んでいる。
成賢はそもそも最初から新井駅を目指してはいない。
一駅先、の西新井駅を目指していた。
中学校からの距離は少し遠いがあまり変わらない。
ならば新井駅に向かうより一つ先の駅の方が間に合う確率は高くなる…。
そう彼は考えた。
それにこの時間は交換。2、3分程停車する筈。
たまに車が対抗車線に膨らんで必死にペダルをこぐ彼を嘲笑するかのように抜き去っていく。
それでもこいでいた。
ひたむきに、ひたすらに。
山の間からのぞく太陽を横目で見ることもなく愚直なまでに前進し続ける。
信号のない小さな十字路に差しかかった。
右左、前後ろを確認するとブレーキを一切かけずに右に曲がる。
右膝がアスファルトを擦りそうなくらい車体が傾いたが、曲がりきった。
あとはもう一直線。
100メートル程先、道の終わりにあるこじんまりとした建物が西新井の駅だ。
駅前の駐輪場に停めると急いで駅舎へ。
券売機で入場券を購入して駅員に判子を押してもらい、跨線橋を駆け上がる。
プァーン。
階段をおよそ半分上るとどこか、そう遠くない場所…で、なにかが鳴き声を揚げた。
ガッタン。
『間もなく西新井、西新井です。上り電車と交換の為3分程停車いたします。西新井の次は上山入に停まり、ます。間もなく、西新井です』
ポイントを通過し列車が大きく揺れる。
低速なのになかなかの衝撃だ。
その衝撃で私の意識ははっきりとした。
ちょっと、うとうとしてしまっていたみたい。
口元に一筋……。
隣や前に人が居なくて良かった。
西新井、か…。
行き違いの為上り電車が到着してから発車する。
吹津線は単線だから駅で下りと上りが交換する必要がある。
3分、短いようでちょっと長い時間。
かといってなにかができる時間でもない。
滑っていくホームが少しずつスピードを下げやがて、停まった。
ドアが開くがこの車両に乗り降りする人はいない。
「ふっわぁぁー」
自然と欠伸が出てしまう。
電車に乗る時はちっとも眠くなかったのにたった一駅、約4分間揺られただけで睡魔が私をそっと抱きしめる。
寝てもいい…。だけど、寝てはいけない気がする。
どうしてだろう……。
私は誰かにこの疑問の答えを問う代わりにポケットからハイチュウを一個取り出し、口に含んだ。
前の車両から誰かが移って来た。
ちょっと、あれは……しーくん、しーくんだ。
うそ、何で………。
下を向いて体を小さくしたけれど無駄な努力だった。
彼はすぐに私に気づき近づいて来た。
「りっちゃん………」
気まずい、すっごく気まずい。
どうして。私、この電車に乗ることは…。
なんて考えても仕方ない。
今、私の目の前にしーくんは居る。
「何で…。何で今日引っ越すって教えてくれなかったん?」
ああ、案の定訊いてきたよ。
「ど、どうだって良いでしょ、そんなの……。関け………」
「良くない」
車内にいる数少ない人達がこっちを見る程の声量。
思わず縮み上がってしまった。
「ちょっと、恥ずかしいよ」
「……ごめん」
「謝るんだったら最初から大声出さないでよ」
もう…。なんでこうなっちゃうのかな。
ひっそりと去りたかったのに…。台無しだ。
「まったく、どうしてここに居るのよ?」
「そんなん、どうでもええやん」
良くない、私はそれが知りたくて訊いているの。
「何でうえちゃんや礼子ちゃんには今日のこと、家に呼んでまで教えたのにどうして僕には黙ってたん?」
「なっ………。そんなの…………。そんなの私の勝手じゃない」
「おかしいやん、どう考えても。不自然や」
うーん。どうしてそんな分かりきったことを質問するのかなあ。
「そんなの、しーくんには言いたくなかったからに決まっているじゃない」
「どうして僕には言いたくなかったん?」
あー、イライラするなあ。
「なんで分からへんの、鈍いなあ…」
ついつい土地の言葉が出てしまう。
私をこれほど苛立たせるのはみーんな彼の所為だ。
「なにをそんなにいらついてんの?」
「いいじゃない別に。そもそも、私に会ってどうするつもりだったの?」
引っ越すな、とでも言う気だったの。
そんなこと言われても無理だ。
お父さんの仕事の都合だもん、あなたに何ができるの。
会社に乗りこんで「転勤させないで」とでも言うの。
「会いたかった、から……」
蚊の羽音みたいな声だけど。
私を見つめる視線はあまりにも一直線で、鋭くて。
私の体など突き抜けてしまいそう。
「会って………。どうするつもりだったの……?」
なにを、言いたかったの。
「さよなら」とか「元気で」とか。
「す………」とか…………。
風、つり革。
カラカラ、奏でる。
中吊り、広告。
パラパラ、泳ぐ。
「特に……。ともかく、会いたかったんや………」
………。
は、なに、それ…。
「それだけ?」
「うん」
あまりに拍子抜け。あまりに期待外れ。
もっと違う言葉が出るとばかり……。
うんうん。少しでも期待した私がバカだったのよ。
「‘うん’って…。意味分からないよ。私に会って、どうするつもりだったの?」
「特に………」
一体なにをしに来たのやら…。
呆れは憤りに変わり、激流となって行き場を求める。
「そんなんだから…。そんなんだから‘しーくん’なんて言われるのよ」
「僕は‘よつい’や、‘しー’やあらへん」
「しーよ、しー。しーで十分だわ」
なっちゃん、四井成賢の苗字を音読みすると‘しい’。
それにアルファベットのCをかけて‘しーくん’
去年の夏休み明けぐらいからこのあだ名が使われ始め、今ではすっかり定着した。
勉強もダメ、運動もダメ、ルックスも今二つ、三つ…。
なにもかもC級な彼にはぴったりかもしれない。
「ともかくもうじき電車出るよ。入場券で入って来たんじゃないの?」
「あっ…。まあ……、そうだけど……」
「だったら……」
『えー、この電車発車時刻となりましたが上り電車が遅れております。えー、先程4分程遅れて上山入を発車したとのことです。えー、電車が着き次第発車となります。お急ぎのところ、大変、申し訳ありません』
ガチャ。
用件のみ簡潔に言うと耳障りな音がして男の声はしなくなった。
遅延の知らせにも多くの乗客達は特に気にしていないようだ。
ドア付近に座り、ヘッドホンで音楽を聴いている20歳前後の若者が足を組替える。
眼の前に突きつけられた現実に、ただただ私は愕然とするしかなかった。
よりによって、こ・ん・な・時・にぃー。
私、そんなに日頃の行い悪かったでしょうか……。
「電車、まだ発車しいひんみたいやな」
しーくんの囁きみたいな小さな声も静かな車内ではなかなか響く。
「なあ、教えてくれへんか…? 新しい住所」
私が…あなたに……。
ふん、どんな必然性があるのかしら。
……もうこれっきり会わないのに。
「教えたって何にもならないでしょう?」
「手紙書く。年賀状も、暑中見舞いも」
その時。しーくんの言葉を聞いた時、私はどんな顔をしていたのだろう、とのちに考えた。
たぶん…できもしないことをやってみせると言っている子どもに調子を合わせつつ微笑を浮かべている母親か、保育士さんか、小学校の先生に似た顔をしていたのだろう。
事実、私は笑っていた。
腹の中で。
そこで彼を見下しきった、侮蔑に満ちた笑い声を立てて精一杯嘲っていた。
「どうせすぐ来なくなるわ」
「そんなことない、ちゃんと書く」
開けっ放しのドアから外気が絶えず入りこんで来る。
冬のようにひんやりとした感覚を足が感じることもなければ、真夏のようにむあっとした生暖かさも運んで来ない。
来訪者の人柄はとても柔らかかった。
「保証は?」
言っていて自分がとてつもなく意地悪な人間に思えてきた。
さらに必死なって反論してくるしー君がかわいそうに見えてくるから不思議だ。
私も意外と優しい人間、らしい。
「僕のことが…」
「信用できない」
はっきり言い切ってやった。
しーくんは黙っている。
少し…言い過ぎた、かな……。
いいや、私は間違っていない。
「手紙書く」「毎日電話する」なんて言って泣いて別れても遠くへ行ってしまえば自然と疎遠になる。
年賀状が毎年一枚、一枚減っていくのを見るのは……嫌だ。
そうだ。間違っていない。
私は窓にもたれかかり、外へ眼を逃がす。
やっぱり、私はあまり優しくはないようだ。
「へっ、なにするの?」
「信じられないんやろ? 口だけじゃ」
しーくんは思ってもみない行動に出た。
突然人の手を思いっきり掴んだのだ。
体が反応して私の顔も正面を向く。
「だ、だからって……」
しーくんの眼、すごく真剣…。
こんな眼をしているの初めて見る。
眼を合わせられない、俯いてしまう。
なんだか……怖い。
手を、しーくんが放した。これまた前触れもなく。
あれ、なにもしないの……。
「なにか」を望んでなどいなかったが、彼の行動に私は戸惑った。
手を放して以降、しーくんはなにも言わない。
私も下を向いたまま。
すっかり待ちくたびれてしまったよ…。
モーター音を響かせることもなく下り列車は静かに待ち合わせの相手を待っていた。
交換する上り列車が現れずもう7分も足止めを食らっている。
定刻より4分遅れだがまだ、発車できない。
展示されているかのように佇んでいる。
私としーくんの二人はまだ…さっきと少しも変わっていなかった。
かれこれ1分くらいこのまま、かな。
このままでは埒があかない。
よーし。いっちょ訊いてみるか。
「あの、しー………」
ガターン、ガタンガタン。
『お待たせいたしましたぁー。上り列車が到着いたしました。間もなく、発車でございます。ご乗車になってお待ちください』
確かめようとした私の声は約束の時間に5分も遅刻してきた人に阻まれてしまった。
電車が動く。
しーくんは席を離れ、ホームに降りた。
私も後を追ってドアの前に立つ。
「僕、忘れへんから。今日のことも、もちろんりっちゃんのことも…」
ホームの彼と、車内の私。
「そやからりっちゃんも忘れんといてぇーな」
はにかみながらしーくんが言った。
ほのかに頬が緩んでいる彼の髪を揺らしながら風が通り過ぎていく。
「手紙、落ち着いたら書いてな。待ってるから」
「それで…。一つお願いがあるんやけど……。」
「な、なに?」
「その……。その………。その、髪を留めるゴム、くれへん……かな……?」
そうねだる彼の顔は時期外れな鳳仙花(ほうせんか)みたいに真っ赤かで。
緑色のゴムを差す人差し指も恥ずかしそうに震えていた。
反対側のドアでは電車が左から右へ動いている。
まったく、自分が遅れてさんざん待たせたくせにさっさと先に行ってしまった。
請われた物を外し、まじまじと見つめ…。
一気に髪が伸びた娘は答えた。
「嫌よ、そんなの」
「交換ならいいわ、なにかない?」
「え、そう言われても……」
あちこちのポッケに次から次へ手を突っ込む仕草に。
少女の顔がふっ、と僅かに崩れる。
「そう、ねえ…。それでいいわよ」
「その入場券で」
ピイィィィィー、ピッッ。
彼の手からさっと入場券を奪うと同時に発車の笛がなる。
車掌は電車の中に戻り安全を確認してドアを閉め、ない。
一人の背広姿の男性が大きな音を立てながら跨線橋から飛び出してくるのが目に入った。
発車が数秒、遅くなる。
私はしーくんに背を向け、言った。
「私も……忘れないよ」
私からしーくんの顔は見えない。
けれど私には彼が微笑んでくれたような気がした。
ううん、違う。
彼は微笑んでくれた。間違えなく微笑んでくれた。
それは……。
「うん」
しーくんの嬉しそうなこの一言が…。
男性が電車に飛び込んだ。
今度こそ。
私はくるりと振り向いて。
たぶん、にっこりしていたであろう顔で。
言った。
「バイバ………」
プッ、シュゥー。
そこでドアは、閉められ、た……。
電車は少し体を震わせるとぎこちなくスピードを上げていく。
プラットホームはあっという間に後ろへ遠ざかり、ポイントを通過する際の横揺れを経験すると真っ暗な闇へ電車は突っこみ窓の外は太陽が沈んで夜になる。
闇に包まれる瞬間耳を、鼓膜を痛みが襲った。
やがて昼間の世界に舞い戻り、水を張った田んぼや田植え機の姿がやや汚れた窓を通じて目に飛びこんで来た。
築堤上を走っているのでそれらも下からやって来る。
短い警笛が聞こえた。
それとどっちが早かったかは分からなかったが鉄橋に差しかかった。
隣町との境の川…。
堤防に沿って植えられた桜達もあと僅かで晴れの日を迎える。
離れた場所から見る限りではいくらかピンク色に染まっているものの花を咲かせた木はないようだ。
渡りきるや否やまたもトンネルに入った。
今度のは少々長い。
黒一色になってしまった画面を見ていても意味がない。
乗る前に買ったジュースを取り出し、開けて、一気に飲み干した。
そして手にずっと握ったままだった貰い物の入場券を、改めて。
そっと、優しく…。握りしめた。
通行人が通り過ぎた鉄橋は音を立てることもなく、できず、静かに佇んでいる。
代わりに、と言ってはなんだが『合併反対』をひたすら訴える車が堤防脇の道路を通過していく。
来週の土曜日に水山市への吸収合併を問う住民投票が行われるとのこと。
もし合併に反対との票が多数を占めればこの話は白紙に戻る、かもしれない。
街は…これから1週間、にわかに騒がしくなりそうだ。
その車を桜達が見下ろしている。
そのうちの一本の枝では限界にまで膨張したつぼみが一人。
咲こうか、咲くまいか。
真剣に、頭を抱えて悩んでいた。
田畑の中をみどりとオレンジに塗られた車両が疾走する。
線路脇の大根畑やキャベツ畑にはヒラヒラと舞うもんしろちょう。
子どもの為においしそうなご飯を探している。
もっとも農家の、キャベツ農家の人には堪らない。
敵は見つけ次第抹殺、だ。
虫食い葉っぱは具合が悪い。
もんしろちょうは大人は益虫だが、子ども時代は大害虫。
青虫は今も昔も嫌われ者。
でも嫌われようが憎まれようが、白い蝶はキャベツ畑の上を飛ぶ。
ヒラヒラと。ひらひらと。
きみどりのキャベツ、白いちょうちょ。
春、の光景。
しかし人間と蝶の食物をめぐる戦いは既に始まっていたのだった。
電車が疾走する。
真横を通過された野草が大きく揺れる。
そこにも、白いちょうちょが。
揺れが収まり落ちつきを取り戻した葉の裏には、黄色いとんがり帽子を被った卵がちょこんとお行儀良く座っていた。
ガタゴトと揺れるベテランの車両。
最後尾の車の、窓側の座席。
女の子がじっと窓の外を見ている。
春らしい、緑色の服を着ているその娘はすっかり車窓に目を奪われているよう見えた。
古い車両は揺れがひどい。
カーブを通過するたびに車体は軋む。
しかしギシギシという音さえも懐かしい旧友だ。
埼玉に引っ越して1年。
久しぶりに乗った吹津線から見える景色は昔(1年前)と全然変わっていなくて…。
と、言いたいのは山々だけれど並走する国道に量販店が立っていたり、採石場の山がだいぶ縮んでしまっていたりなど眼に見えてしまう変化が多い。
残酷だ。
それでも、私は帰っている。
新井駅はまだ先だが私は帰り道の途中にいる。
例によって乗客は少ない。
電車は走る。
速度が上がるに従って私の機嫌のメーターも急速に針が上昇する。
♪カントリー・ロード
♪このみーちー
終いには軽く歌を口ずさみ始めた。
私の大好きな歌。
でも今の状況にはそぐわないかな。
そういえば、映画の中でヒロインの娘もこの歌の替え歌を作っていたっけ。
確か…。
『コンクリート・ロード』。
なら、私も一つ……。
♪カントリー・レール この線路(みーちー)
♪ふるさとーへー つづいてーるー
♪帰りたーいー 帰ろおーかー
♪ただいーまー
♪カントリー・………
♪レール
電車は、警笛と共にトンネルへ吸い込まれていった。
朝まで降っていた冷たい春雨はもう上がり、黒い雲は遠くへ去って穏やかな日差しが若芽を出した桜やあらゆる草木に降り注いでいる。
風が吹くごとにみどりの枝が揺れる。
桜の枝だ。
ピンクの吹雪が吹き荒れることはないが、これもまたこの木の姿である。
今日は4月29日、みどりの日。
ゴールデンウィークの初日であるこの日も再来年からは昭和の日となり、みどりの日は5月4日へ引越しをする、らしい…。
ということを東京の、永田町という町に住んでいる人々が決めたとか、決めなかったとか……。
けれどそんなのは人間、それも東洋の小さな島国の暦の上での話だ。
祝日の名前が変わろうと変わらまいと4月29日は巡って来る。
そして北国を除けば桜には若芽が出ているだろう。
この木のように。
来年も、再来年も、5年後も……。
卯月の、終わりは。
春の一番華やかな時こそ過ぎてしまったものの、‘みどり’が身の回りに増えたことを確かに実感させてくれる、季節である。
その葉桜が一本立つ駅の前に少年が一人、駆け足でやって来た。
彼は中学3年生。名前は四井成賢。
傍目から見るととてもそわそわしているように見える。
無理もない。
桜の花が咲く前に別れた幼馴染の女の子が1年1ヶ月ぶりに帰って来るのだ。
本来なら彼の他にあと二人その娘を迎える筈だったのだが、片や‘新しいシューズを買いに行くから’と隣の隣町へと出かけ、片や‘せっかく久しぶりに会うのだから新しい服を買わないと…’と分かるような分からない理屈でこれまた隣の隣町、水山市へ買い物に行ってしまった。
どうも……怪しい。
あの二人、もしや………。
たった一人で出迎えることになった少年の頭の中では様々な憶測がぐるぐると渦巻いているようだ。
そんな若人を諭すように、葉桜は風が吹く度にその枝葉をしなやかに揺らす。
3日前に届いた手紙には新井駅に14時8分の上り電車で着くとあった。
腕時計の時刻は…12時半。
時間は憎いくらい正確だ。
少々の時間駅前をうろうろとしていたが、やがて入口の引き戸を引いて駅の中に。
電車を待つ人の為のベンチに座っている人は誰もいない。
ショルダーバックを4つのイスのうち右から2番目に置いた。
肩がすうっと軽くなる。
駅員が出てきて改札口に立った。
女の人だ。
程なくして上り電車がホームに滑りこんで来て…。
ドアが開いて客を降ろし、代わりに何人か乗せ車掌の合図を受けると足早にまた次の駅を目指し走り去る。
箱から解き放たれた人々は急ぎ足で階段を渡り改札を抜け。
春の風が吹く柔らかな光に包まれた街の一部となっていく。
少年は時計に眼をやった。
そしてため息一つをついてベンチに腰かけようとしたが途中でふとなにかを思いつき、止まった。
座りかけた腰を上げ彼がある場所へ向かう。
自動販売機の前。
3枚の硬貨を入れ、カフェオレのボタンを押す。
するとカフェオレが出て来た。
当たり前だ。
だが取り出し口から出そうとした缶を手にした瞬間、彼はその手をぱっと引っこめた。
さらに次に自分が押したボタンをまじまじと眺め……。
ため息をついた。
カフェオレは……温かかった。
しかしそのままにしておくわけにもいかない。
もう一度屈んで温かいカフェオレを手に取る。
「しぃーくん」
改札から入った風が開けられたままの引き戸を通りまた街へ出ていった。
少年は屈んだまま。
手にはホットなコーヒー飲料。
「早く、着きすぎちゃった…」
照れ笑いを浮かべた声の主はそう言いながら髪の毛に手をやる。
若葉色のワンピース――。
眩しい。
風が通り過ぎる。
冷たくもなく、湿っぽくもなく…。
ふんわりとしたものを駅舎に残して。
「……ただいま」
少女の声はそよ風のように…。
それよりも柔らかく耳に、心に気持ち良い。
また、風が、通り抜けていった。
4個の画鋲で簡単に留めてあるだけの、壁に貼られたポスターに意地悪をしながら。
光の当たり具合によって僅かながらも色を変える、乙女の黒髪を躍らせながら。
少年は飲み物を自販機から出して立ち上がると。
「………おかえり、りっちゃん」
ゆっくりと、振り返った。