C


 窓の外。4月の黄色い陽光の下、桜の花びらが舞っている。
 風に乗って踊り、輪を描いて回る桃色の妖精を引き立てるかのように、蝶がヒラヒラと飛んでいた。
 次々に咲き始めた花壇の花を眺めながら、どの花の蜜を吸おうか迷っているのだろうか。
 1匹の蝶が花壇にある赤い花に降りる。
 蝶は花に止まったまま翅をゆっくりと開いたり閉じたりその様子は、まるで蝶が蜜の味を満喫しているかのようにも見えた。

 桃色の桜、黄色や白色の蝶、赤色や橙色の花、緑色の草。
 窓の外にあるのは、誰が何と言おうと暖かな春の情景だった。
 そんな情景を見て、今の私が思う事はただひとつ。

――眠い。

 暖かな4月の陽光も窓の外で踊る桜の花びらも咲き誇る花々も萌える草の緑も、私にとっては自分を心地よい眠りに誘う催眠術でしかなかった。
「ふわぁぁふ」
 情けないくらいの大きな欠伸が出てしまう。
 そこ、はしたないと言うなかれ。
 始業式が終わり、明日から再び学校生活が始まるのだ。
 今のうちにこうやって鋭気を養っておかなければ、こうやって学校に来る事すら止めてしまうかも知れない。
 ……さすがにそれは冗談だけど。
「ふぁ……
 あらら、油断していたらまた欠伸が
 2度目の欠伸はさすがに恥ずかしいので、一応は手で口を隠しておく。
 やれやれどうやら今日の睡魔は一段と強力らしい。
 私の精神はことごとく睡魔に侵食されていき、自我は既に3%も残っていない。
 自我が必死に睡魔を押し返そうとしているのが分かる。
 だが、それは無駄だ。
 何故なら、私の体が素直に睡魔を受け入れているから。
 人類が抗う事の出来ない睡魔をもたらす暖かな陽光が、容赦なく私を照らし続けるこの窓際の席が半分悪い。
 残り半分は眠気を助長するような暖色のみで彩られる窓の外の情景が悪い。
 うん、私は悪くない。悪くない。
 ……よし、自己正当化完了。
「ふわあぁ……
 と同時に、またまた口から漏れる欠伸。
 むむ。これは、休憩時間である今の間に眠っておいた方が良さそうだ。
 ホームルームまで眠っていてはシャレにならない。
 まあ始業式当日のホームルームなんて、一緒に渡されるプリントを見れば事足りるような連絡事項しか言わないだろうけど。
 私は時計に目を向ける。
 ホームルームが始まるまではあと5分。

…………

 ……5分でどうやって眠れってのよ。

 私は誰へともなく毒づく。
 どこぞの漫画にある時間の流れが遅くなる修業部屋じゃあるまいし、5分で十分な睡眠時間などとれるわけが無い。
 逆にそんな短い睡眠時間じゃ、かえって眠くなってしまうこと請け合いだ。
 ……仕方がないか。
「う〜んっ」
 私は欠伸を噛み殺しながら両手を頭の上で組み、大きく伸びをした。
 肩の骨がパキパキッと小気味良い音を立てる。
 眠る時間がないと分かれば、今のうちに出来るだけ睡魔を吹き飛ばすしかない。
 睡魔ちゃん、短い付き合いだったね。
 勝負とは常に非情なのだ。
 何の勝負かは知らないけど。
 私は頭の上で組んだ両手を離し、そのまま肩を交互にぐるぐると回す。
「うわ、女の子がそんなはしたない事をしちゃダメだよー」
 私の後ろから、間延びした女の子の声が聞こえた。
 私は上げた腕を下ろす。
「女の子がっていうのは決めつけだよ。私は女の子らしいおしとやかさっていうのは性に合わないの」
 そして、振り向きざまに一言。
 後ろに誰が居るかは分かっている。
そうかなー。理沙ちゃん、可愛いのにー
 そこには、私が予想した通りの子が眉をハの字にして首を傾げていた。
 肩まで伸ばしたふわふわの柔らかそうな髪の毛と、それを引き立てるように髪につけられた小さな赤いリボン。
 物静かそうな小さな口と、おだやかさと優しさを兼ね備えたような僅かに垂れた目。
 フリフリのドレスなど着せたなら、お人形として売られていてもおかしくないその外見は、彼女が可愛いと言った私なんかよりも数倍可愛らしい。
……おだてたって何もでないわよ? それよりゆーりん、何か用なの?」
 目の前のお人形もとい、ゆーりんこと野原由利(のはらゆり)に、私は尋ねる。
「あれー? 私が用事があるって、何で分かったのー?」
 ゆーりんは十分に噛んだガムをビローンと引き伸ばしたような声で不思議そうに問い返した。
 別に用事があると分かって言ったわけじゃないんだけど。
 話しかけてきたからどうしたのかなー、程度で。
「まあ、女の勘ってヤツかな」
 答えようがないので適当に答えておく。
「そうなんだー、女の勘ってすごいねー」
 やけに感心しているゆーりん。
 いつも思うけど、ゆーりんってちょっとだけ浮世離れしてると言うかワンテンポ遅れているような、そんな感じがする。

それでさ、用事ってなに?」
 私は脱線しかけた話を再び線路に乗せた。
 このままゆーりんを放っておくと、用事とやらを聞く前にホームルームが始まってしまいそうだ。
「あ、そうだよー」
 ゆーりんはポンと両手を合わせる。
「すっかり忘れてたよー」
 ……話しかけた理由を忘れないでよ。
「あのね、理沙ちゃんを呼んでる人が廊下に居るんだよー」
 ゆーりんが廊下を指差す。
 私からは誰の姿も見えなかった。
「その人って、今そこに居るの?」
「今居るんだよー」
 私は再び時計に目を向ける。
 ホームルームまでは僅か3分だ。
「今って残り3分しかないよ?」
「でも、呼んでるんだよー
 ゆーりんの顔が僅かに曇る。
 そんな顔をされたって、時間が無いんだよー。

 いけない、ゆーりんの言葉がうつっちゃった。
その人、何の用事か言ってた?」
 私は気を取り直して訊いてみる。
うーん、分からないよー。ただ七海理沙さんを呼んで欲しいって
 首をかしげながら、ゆーりん。
 ちなみに七海理沙(ななみりさ)とは正真正銘の私の名前である。
 少なくとも、私に用事があるような人は全く思い浮かばないんだけど
まあ、そこに居るんならさっさと行って確かめてみましょうか」
 悩んでいても仕方がない。
 私は自分の中でこう結論を出して立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 現在時刻 12時57分

 

 

 

 

 

私は急いで廊下へ向かう。

念のため、歩きながら時間を確認しておくことも忘れない。

残り2分30秒。

話すには短すぎる時間だが、追い返すには十分すぎる時間だ。

そこ、乱暴だと思うなかれ。

追い返すといっても、今は時間がないから放課後にまた来てください、と言うだけだ。

決して、先手必殺で裏拳を喰らわせて追い返すわけではない。

そんなことを考えているうちに、廊下に着いた。

私は早速周囲に目をやり、私を呼び出した謎の人物を探す。

正面に目を向ける、誰もいない。

左方向に目を向ける、また誰もいない。

右方向に目を向ける、やっぱり誰もいない。

頭上にも目を向ける、当たり前だが誰もいない。

うん、廊下には人っ子一人見当たらない。

それはそうだろう。

あと数分もしないうちに、先生が来てホームルームが始まるのだから。

 

……………………。

 

えーっと、つまり私を呼び出した誰かは、私は呼び出しておきながらホームルームまで時間がないことに気づき一旦出直すことにした、というわけですか。

出直すくらいなら、きっと急ぎの用事じゃなかったのだろう。

私はそう決めることにして教室へ戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

現在時刻 4時45分

 

 

 

 

 

「う〜、まだ頭が痛い…」

私は後頭部を手でさすりながらぼやく。

「あはは、しょうがないよー。理沙ちゃんの自業自得だよー」

ゆーりんが笑いながら答える。

「だってさ、眠かったんだし…しょうがないじゃない」

そう、私は案の定寝てしまったのだ、ホームルーム中に。それも堂々と。

そこ、情けないと思うなかれ。

そりゃ私だってホームルーム中に寝るのは褒められた行為ではないことは重々承知している。

だからこそ、先程睡魔を吹き飛ばそうと努力したのではないか。

 そう、即ちこれは睡魔のせいであって私のせいではない。

「それに、寝ちゃった私も少しは悪いと思うけど先生にだって原因はあるじゃない。」

「原因が先生にー?」

「そうよ、先生にだって原因はある。ゆーりんだって私が配布されたプリントの連絡事項の説明とかされてる時には起きてたの覚えてるでしょ?」

「うん、覚えてるよー。いつお花畑へ旅立つのかなって見てて面白かったよー」

 うぅ、私の睡魔との戦いはそんなに滑稽に見えたのだろうか…。

 そう思うとなんだか悲しくなってくるが、過ぎたことだし気にしないでおこう。

「問題はそのあとよ。あの先生いきなり萌えについて語り始めたじゃない。私は興味ないし、寝てても問題ないかなーって思って寝たら…」

「いきなり後頭部を殴られたんだよねー」

「実に見事な鉄拳制裁よ。今度PTAにでも訴えてやろうかしら」

 本当なら既に、家に着いて午後の優雅なお昼寝タイムを満喫しているはずなのだが、私がホームルーム中に寝てしまったため、先生に目をつけられて職員室でこってりと絞られた。そのせいでこんな時間になってしまったわけだ。

「それに私だけならまだしも、ゆーりんまで残ることないじゃない」

「あはは、でも私は楽しかったよー」

「そ、そう…? なら、いいんだけどさ……」

 うん、やっぱりゆーりんはどっかズレてるわ。

「ところでさ、ホールムールが始まる前に私を呼び出したのって誰だったの?」

 結局、私を呼び出した奴はホームルームが終わっても来なかった。

 いや、私がホームルームが終わってすぐに職員室に拉致られたから、私が知らないだけかもしれない。

「うーん、わたしも見たことない人だったよー」

 ゆーりんが見たことなくて、私は呼び出される覚えは無し。

 まぁ、いっか。私に用事があるなら明日また来るでしょ、きっと。

 私がそう思い始めたとき、いつもの公園に差し掛かった。

 私とゆーりんの家はここから別れている。私は北に、ゆーりんは東の方向だ。

「ん。それじゃ、また明日学校で」

 私はいつものようにゆーりんに別れを告げ、家路へ向かおうとした。

「あ、ちょっと待ってー」

 ゆーりんに呼び止められる。その声量はいつもの彼女では考えられないくらい大きかった。

「ど、どうしたの? ゆーりん」

 私は戸惑いながらゆーりんに聞いてみる。

「あ、あのね。じ、実はね、相談したいことがあるんだよー」

 私の問いかけにゆーりんは答えるが、徐々にその声は小さくなっていった。

 そんな彼女の様子を見て、私はゆーりんの様子がいつもと違うことに気づいた。

 私とゆーりんは付き合いが長い。

 高校に入ってから出来た最初の友達で、唯一無二の親友だ。

 その親友が私に相談したいことがあるのだ。

 だから私は、即答した。

「いいよ。でも、落ち着ける場所で話さない? あそことか」

 私は親指で公園のベンチを指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

現在時刻 5時

 

 

 

 

 

 私とゆーりんは公園のベンチに座っている。

 ゆーりんは先程からうつむいている。

 時折、ゆーりんの口が開いたり、閉じたりとどう表現したらゆーりん自身もわかっていないようだ。

 しかし、長いようで短い沈黙の時間は終わりを迎えた。

「最近ね、誰かの視線を感じるんだよー…」

「視線?」

 私はオウム返しで聞き返した。

「うん…」

「ねぇ、もしかして今も視線を感じるの?」

 私は背中に寒気を感じている。

 それはそうだろう。今この瞬間にもどこかからこっちを見ているかもしれないのだから。

 だが、私の心配は杞憂に終わった。

「ううん、今は感じないよー。感じるのは学校だけなんだよー」

「学校だけ?」

 四六時中ずっと視線を感じるのも嫌だけど、学校でだけ感じるのは余計に気持ち悪い気がする。

 だが、相談を受けている私がゆーりんを余計怖がらせても意味がない。

 だから私は努めて明るく言った。

「案外、ゆーりんに気がある変態の仕業かもしれないよ?」

「うー、でもトイレでも感じるんだよー」

 う、さすがに堂々と女子トイレに入り込む男子というのは聞いたことがない。

 そんな奴がいたら間違いなく女子からは袋叩きにされ、男子からは英雄扱いされること請け合いだ。

 突然、私はふとあることを思い出す。

「ねぇ、ゆーりん。もしかしてアレじゃないの?」

「う〜ん、でもアレだったらもっと大勢見えるはずだよー」

 私たちが言っているアレとは、つまり幽霊だ。

 実はゆーりんは生きている人間と死んでいる人間の区別がつかないくらい霊感が強い。

 いや、区別がつかないくらいというには少々語弊がある。

 …本人曰く、実際区別がついてないそうだ。

「う〜ん、変態でもなければ幽霊でもないとなると……なんなんだろうね?」

「………私もそれが知りたいんだよー」

「………ごめんね。何の力にもなれなくて」

「ううん、そんなことないよー。話を聞いてもらえただけでもだいぶ楽になったよー」

 そう言って、ゆーりんは私に笑いかける。

 そう、少しだけ楽になっただけなのだ。問題が解決したわけではない。

 相談を受けておきながら、解決できていない。

 いつもゆーりんは私の相談に答えてくれるのに、私はゆーりんの相談に答えることが出来ない。

 私は………無力だ。

 そんな私の様子を察してくれたのか、ゆーりんが明るい声を出した。

「もぅ、理沙ちゃんまで暗くならないでよー。私なら大丈夫だからー」



 嘘だ。

 でも………、私には私を気遣ってくれるゆーりんにかける言葉が見つからなかった。

「あ、私そろそろ帰らないと………バイバイ理沙ちゃん。また明日学校でね」

 そう言って、ゆーりんは立ち上がり歩き出した。

 私は、そんな彼女の背中を見送るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

現在時刻 10時

 

 

 

 

 

 私はベッドに横たわり、天井をぼーっと眺めていた。

 何をするわけでもなく、ただただぼーっとしていた。

 帰り際のゆーりんの笑顔が痛々しかった。

 だけど、私には何も出来ない。

 彼女の恐怖を拭い去ることも出来なければ、彼女とともに恐怖を背負うことも出来ない。

 ………私には何も出来ない。

 でも! 何も出来ないからって何もしなくていいわけじゃない!!

 ゆーりんは私の親友だ。親友が困っているのに、苦しんでいるのに、指をくわえて見ているなんて出来ない!

 そうだ、何も出来ないなんてことはない。

 彼女の心の支えになってあげられる。

 でも、それは………結局何の解決にもならない。

 支えていてもいつかは崩れるときが来るだろう。それが、明日か明後日か、それとも一ヵ月後か、時間の問題だ。

 それでは駄目だ! 崩れてはいけない!!

 崩れる前に問題の原因を探し出し、迅速に排除しなくてはならない。

 だけど、その原因がわからない。突き止める手段も私にはない。

 ………やっぱり私は無力だ。

 ………………………。

 一体何度目だろう? この結論に至るのは。

 私の頭の冷静な部分が言っている。

「問題の原因を探し出す方法などお前にはない。いい加減諦めろ。この結論以外、他にあるものか」

 だけど、私の心はそんな結論は認めない。

 もちろん私の意志もそれに同調する。

 しかし、私の頭が導き出した結論を認めなくても、今のこの現状は何一つ変わらない。

 ………はぁ。

 私はこの日何度ついたか分からない、ため息をまたついた。

 そんな時だった、電話が鳴ったのは。

 私はのろのろとベッドから降り、部屋を出て、電話を取りに階下へ向かった。

 私の両親は共働きだ。そのため時々二人とも家に帰ってこないことがある。

 それはまさしく今日だ。

 電話はまだ鳴り続けている。

 私の移動はゆっくり過ぎて、さながら亀のようだ。

 それだというのに、この電話はまだ鳴り続けている。

 そのコール音が、私には出るまで切るつもりはない。だから早く出ろといっているように聞こえた。

 私はなんだか気味が悪くなっていた。

 このまま居留守を使おうかとも考えたが、残念ながらそれは出来なかった。

 なぜなら、先程の仕返しだとでもいわんばかりに、私の頭が私の体を支配して勝手に受話器に手を伸ばしていたからだ。

 そして、コール音が止まった。

 私の手にはしっかりと受話器が握られている。

 今更取らなかったことにはできない。

 私は意を決し受話器に耳を当てた。

「も、もしもし、七海ですけど………」

「夜分遅くに申し訳ありません。野原と申しますが、理沙さんはいらっしゃいますでしょうか?」

 電話主の声には聞き覚えがあった。

 でも、私の思考能力の鈍った頭では、電話主の声が誰であったかなど思い出せるはずがない。

 相手をあまり待たせるのも失礼なので、私は答えることにした。

「理沙は私ですけど………」

「娘がいつもお世話になっております。野原由利の母でございます。少々お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」

「えっ? あっ、はい。どうぞ」

 この時になって、私はようやく思い出すことが出来た。

 この声はゆーりんのお母さんの声だ。

 でも、どうしてゆーりんのお母さんが電話してくるのだろう? それもこんな時間に。

 そんな私の疑問はすぐに解決された。

「うちの由利がおじゃましていらっしゃいませんか?」

 え?

 何それ? どういうこと? うちにゆーりんがいるはずないじゃない。

 だって私は、近所の公園でゆーりんと別れてから帰宅したんだから。

 それなのに………この人は一体何を言っているんだろう? 訳がわからない。

「あ、あの。どういうことなんですか?」

「由利がまだ帰ってきてないんです。知り合いや警察にはもう電話したのだけれど全然行方が分からなくて……」

 

 ユーリンガ帰ッテキテナイ? 一体何ノ話ヲシテイルノ?

 

 アリエナイ。

 

 ソンナコトハ絶対ニアリエナイ。

 

 私はゆーりんと一緒に帰ったんですよ? それで、公園でゆーりんから相談を受けて、でも私は力になってあげることが出来なくて……。

 そんな私を見てゆーりんは笑ってくれたんだよ。私は大丈夫だよって笑いながら言ってくれたんだよ。

 全然、大丈夫じゃないのに……それでも笑っていってくれたんだよ。

 それで、ゆーりんはそろそろ帰らなきゃって言って、それで家に帰っていったんだよ。

 それなのに……どうして?

 私がそれを聞こうとした時には、既に受話器からは何の音もなく……ただ切断音が聞こえるだけ。

 私の頭が芯から痺れていく……。

 私は立っていることも出来なくて、震える膝を床についた。

 もう、何も考えられなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

現在時刻 0時

 

 

 

 

 

 一体どのくらいそうしていただろうか。

 私にはわからない。

 だけど、今の私にはひとつだけ分かることがある。

 それは、ゆーりんを探すこと。絶対に見つけ出すこと。

 それが今の私に出来るただ唯一のことだ。

 よし、決めた。ゆーりんを探す。何が何でも見つけ出す。

 私はゆーりんを探しに行くために立ち上がった。

 そして………ようやくそれに気づいた。

 

私ノ後ロニ誰カイル?

 

 もはや、それは疑問ではなく確信だ。ゆーりんの言っていた誰かの視線どころではない、誰かの気配だ。それも、私の真後ろにぴったりと張り付いている。

 誰かが、いつのまにか、私の後ろに立っている。

 私の額に脂汗が浮かんでくる。

 怖い。

 立ち上がるための力を入れたはずの膝はがくがくとふるえ、立っていることなど出来ない。

 私は床に膝をついた。

 続いて流れる汗が床に落ちる。その汗はとても気持ちのいいものではなく、ただただ気持ち悪いだけだった。

 恐怖に身を食いちぎられそうだ。吐き気がする、気持ち悪い。

 呼吸がだんだん早くなり、心臓の鼓動で鼓膜が破れそうだ。

 このまま、恐怖に屈してしまいたい。 

 でも、私にはそんなことはしていられない。

 私はゆーりんを探すんだ、私の親友の野原由利を。

 そのためには、こんなところで恐怖になんて負けていられない。

 私は覚悟を決め、後ろを振り返る。

 そして………そこには………………………。

 

 

 

 

 

 

 

 

現在時刻 0時30分

 

 

 

 

 

「はい、カットーーー!! OKーーーー!!!」

 スタジオに監督の声が響き渡る。

 今日は珍しくNGを一度も出さなかったことに、私は内心ほっとしている。

「おつかれさまでしたー」

「はい、おつかれー」

 私はスタッフに軽い挨拶をしながら、控え室に戻る。

 急がなければ、今日はこれから行くところがあるのだ。

 私は足早に控え室に戻りドアをあける。

「………………………」

 うん。いや、なんと言えばいいのだろうか………。

 ここは私の控え室だ。それについては間違いない。

 なぜなら見覚えのある私の荷物があるからだ。

 それならばどうして………。

「ねぇ、どうして私の控え室でロケ弁食べてるの?」

「あ、お帰りなさーい」

 ゆーりんが私に声をかける。

 ほっぺたにご飯粒つけたままお帰りなさいと言われても…正直微妙だ。

 おっと、いけない。私は急いでるんだった。

 私は急いで着替えて荷物をまとめる。

「あれー、理沙ちゃん帰っちゃうのー? 監督さんがこれから打ち上げやるって言ってたよー」

「うん。今日はこれから行くとこがあるから」

「そっか、それじゃしょうがないねー。行ってらっしゃーい」

 ゆーりんが笑顔で言う。ロケ弁を食べながら。

 いやだからさ、何でここでロケ弁食べてるのかなー?

 まぁ、いっか。とにかく私は急いでいるのだ。

 私は控え室のドアをあけ、急いで外へ向かった。

私はスタジオから出てすぐに運良くタクシ−を拾うことが出来た。

タクシー内の心地よい温度に、何度か睡魔に負けそうになるが私はそれを力づくでねじ伏せる。

そして、やっと着いた。

こんな時間にここへ来る人間は早々いないだろう。

まず普通は怖がるし、気味悪がる。

ここはそんな場所。つまり………墓地だ。

左手に水の入った桶を持ち、右手には手向けの花を持ったいかにも墓参りの格好で私は墓地を歩いている。

いや、実際墓参りなんだから当然だろう。

そんなことを考えているうちに私は目的の墓石にたどり着いた。

「久しぶりだね、母さん」

 私は墓石に水をかけ、花を置き換える。

 次に、持ってきた線香に火をつけて墓前に供える。

 そして、両の手を合わせ黙祷をささげる。

「………………………」

 たっぷりと黙祷し、私は目をあける。

 私はゆっくりをその場に座った。

「母さん、今日で撮影終わったよ。私ね今日は一回もNG出さなかったんだよ」

 私はゆっくりと母さんに語りかける。

「やっぱり母さんも心残りでしょ? あの小説最後まで書き上げられなくて」

 あの小説とは、私が今主演で視聴率40%を超える大人気ドラマの原作のことだ。

 原作のタイトルは、「C」。

 私の母さんは人気小説家でいつも忙しい日々を送っていた。

 元々からだの弱かった母さんは多忙な生活からか、重い心臓病を患いこの世を去ってしまったのだ。

 母さんが死ぬ直前まで書いていたのが「C」だ。

 だけど、「C」を書き上げる前に母さんは力尽きたのだ。

 だから「C」は未完の作品だ。もう永遠に未来が紡がれることのない物語だ。

 そして、娘である私でさえもその結末を知らない。「C」というタイトルにこめられた意味すらも知らない。

 私は何も考えずに墓前で座り続けていた。

 ………それから、どのくらい過ぎただろう?

 私はいつのまにか眠っていた。墓石に、母さんに寄りかかるように。

「ん………、いけない。そろそろ行かなくちゃ、じゃあね母さん。また来るからね」

 私は立ち上がり、胸をはって歩き出す。

 今は亡き母に、一人でも大丈夫だと証明するかのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は昔、誰かにこう言われたことがある。

 

「お母さんがいなくて寂しくないかい?」

 

 寂しくないかって? 寂しくないわけないでしょ!!

 

 そう言って、昔の私はかんしゃくを起こし、よく大泣きしていたようだ。

 

 だけど、今の私ならきっとこう言える。

 

 寂しいよ。でも、悲しくはない。悲しむことなんてない。

 

 だって、母さんと生きてきた日々は私の大切な思い出。それを忘れることなどない。

 

それに、母さんは今でも私の心の中で生きているのだから。