『1+1=』

 

 

――今日は風が吹いていた。

 

吹き付ける…と表現できるほど強い風でもない。

だが、冬という季節柄、その冷たい風は肌に刺さるような錯覚さえも覚えさせる。

「さむ……っ」

少年、田口雄哉(たぐちゆうや)は冷風に身を強張らせ、思わず呟いた。

太陽が真上に昇る時間だというのに、一向に温かくなる様子は無い。

すぐにでも初雪が降りはじめそうな寒さだ。

彼が踏みしめる最近舗装されたばかりの無機質なアスファルトの鈍い光沢も、その寒さを一層際立たせているかのようだった。

「あーあ…今日はポカポカ陽気になるんじゃなかったのかよ…」

雄哉は一人ごちる。

昨日の夜に彼が見たテレビの天気予報によると、今日は初秋の気温になる筈だったのだが…実際はこの通りである。

今日の気温は初秋どころか真冬並みだ。

もっとも、吹き付ける風により体感温度がさらに下がっているため、真冬という感覚には多少の誤差があるかもしれないが。

天気予報を信じ、薄着をしてきた事を彼は今さらながら後悔していた。

 

ぶわっ

 

再び風が吹く。

散り落ちて、人や動物に踏みにじられ、原形を失いかけた紅葉が風に踊る。

曇天と、そこに舞う赤い紅葉の不格好な色彩のコントラスト。

空で一通りの舞を披露した紅葉は、風と共に地へと落ちた。

散り残った紅葉が風に吹かれて雄哉の頬に張り付く。

だが、彼は頬に張り付いたままの紅葉を取り去ろうとはしない。

否、出来なかった。

彼の両手にはそれぞれ大きなボストンバッグ。

ついでに背中には小さなナップザック。

つまり、彼の両手は完全に塞がっている状態なのだ。

周囲の人間に修学旅行か家出少年と見られてもおかしくは無いだろう。

もちろん修学旅行などではないし、家出をしなければならない程に家庭が荒れているわけでもない。

「俺は…何をやってるんだろうな…」

雄哉は自分の両手を見て呟く。

寒さのためか、思考回路が上手く働かない。

何かがあったはずだ。

そうでなければ、このような馬鹿げた荷物を持って町内を徘徊する事も無いだろう。

 

俺は………何を……

 

「…………あ」

 

ふと、雄哉は顔を上げる。

(そうだ…俺は……)

 

 

 

 

「受験しに来たんだった」

口に出して、自分の目的を再確認。

「そう。俺は何を隠そう、花も恥らう受験生。命短し励めよ試験」

……我ながら、最高に面白くなかった。やはり本番を直前に控え、心の砂漠化が進行しているらしい。

ここは鳴滝という小さな町。東京の家を出て、新幹線とローカル線を乗り継ぎ、この町にやってきた。

3日後に迫った高校の推薦受験のためである。

なぜ3日も前に来たのか?

それは『少しでも早く現地に慣れた方が、落ち着いて試験に臨めるだろう』という両親の(よく分からない)配慮のおかげだ。

ちなみに宿泊は、こちらの親戚の家に泊まる事になっている。

雄哉としては、親戚とは言え他所の家に3日も泊まる方が余計な気疲れをしてしまいそうな気がするのだが。

「そこのあなたっ!」

物思いに沈んでいたところへ、不意に後ろから声をかけられた。

「受験生の方ですねっ!?」

何事かと思って振り返り――――びっくりする。

え……巫女さん?

なんで巫女さんがこんな町内に?

「は、はい、一応そうですが……」

俺が辛うじてうなずくと。

「田口雄哉さんですねっ!?」

びっくり2回目。なぜ俺の名前を?

雄哉は改めて相手を見る。

白の上衣に緋袴。腰まで届きそうな黒髪の先っぽを、簡素な白いリボンでまとめている。

どっから見ても、神社の巫女さんだ。 

敢えて難点を述べるなら、片手にさげたスーパーの買い物袋が、浮世離れした装束を裏切ってすごい生活感を醸し出しているくらいか。

年は、俺よりは上だろう。高校生だろうか? ちなみに、それなりに綺麗な人だ。

「田口雄哉さんですねっ!?」

念を押してくる。

古い知り合い……じゃないよな。

頭の中であまり性能の良くない顔見知りデータベースを検索してみるが、該当は無い。

仕方なく、雄哉は戸惑いながらもうなずく。

「そうですけど」

「やっぱり!」

巫女さん、もとい謎のお姉さんは満面の笑みを浮かべた。

花が咲くような、という形容がぴったりくる笑顔だ。

冬の向日葵――――ちょっと詩的だ。

「遠路はるばる、ご苦労様です。ようこそ鳴滝へ!」

「え? ええ、どうも……」

そして、お姉さんは。

「試験は3日後ですよね」

向日葵のような素敵な笑顔のまま、言った。

「ぜったいに、ぜえっっったいに、落っこちて下さいねっ!」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「……はい?」

一瞬、聞き間違えたかと思った。

だが、そうではなかった。

「落っこちて下さい」

「ええと、がんばって下さい、の間違いじゃ……」

「合ってます。あなたが落っこちてくれないと、困るんです」

「いや、これから本番って受験生に、そういった冗談は」

「それが世界のためなんです」

そ、そこまで言うのか?

いくら何でもあんまりだ。

雄哉は思わず、声を張り上げた。

「い、いきなり現れて何なんですか、あんたはっ! 新手のイジメですか!?」

「イジメだなんて。これは私からあなたへの、真心こめたお願いです」

「どんな真心ですかそれはっ!」

「ひどいこと言っているのは分かってます。でも本当に困るんです、あなたが試験に落ちてくれないと」

「なんで俺の受験で、あんたが困るんですか!」

「私だけじゃありません。あなた自身も、そしてみんなが困るんです」

 

彼女は眉根を寄せ、本当に困った様子で言った。

 

「田口雄哉さん。あなたが今度の試験に落っこちてくれないと、世界が滅びます」

 

 

 

 

2、

 

「どうも初めまして。彼我滝鳴神(ひがたきなるのかみ)と申します。ここ鳴滝の土地神をやってます」

彼女は折り目正しく、深々とお辞儀をした。

「ちなみに、天宇受売神(あめのうずめのかみ)の系統です。私のお母さんで、562代目になります」

ああ、お茶がおいしい。

やはり冬の飲み物は350mlの熱い緑茶、これに限る。

天宇受売神ってアレだよな。天照大神が天岩戸にヒキコモリになった時、岩戸の前でどんちゃん騒ぎやって、大神に岩戸を開けさせたっていうお祭り女――――もとい、お祭り女神。

「でも私の場合、上にお姉ちゃんが2人もいますから継がなくてもいいんです。気楽なもんですよ」

誰もそんなこと訊いていないし。

現実逃避もそろそろ限界と判断し、雄哉は缶から口を離した。

ここは鳴滝神社。

山の入り口に建つ、どこにでもありそうな小さな神社だ。

私の家に行きましょう、といって連れて来られた先が、ここだった。

拝殿の石段に腰かけ、2人の間にはお茶の缶が2つ。

目の前の境内は落ち葉がけっこう散らかっていた。

「……神様?」

「はい。と言ってもこんな小さな土地の神ですから、威張れたもんじゃないんですけど」

「神様なのに、なんで格好が巫女さんなんですか?」

とりあえず、どうでもいい質問から入る。

神とは祭られる存在であり、巫女とはその神に仕える者のことである。神様本人が従者の格好をしてどうするのか。

人間で例えるなら、王女様がメイドの格好をしているようなものだ。

「………………」

それもいいな、とか思ってしまったのは秘密である。

彼我滝鳴神さん(舌を噛みそうだ)は雄哉の煩悩に気付いた風もなく、笑顔で答える。

「あれ、知らないですか? もともと天宇受売神が、巫女の元祖なんですよ。その系統である私がこの格好なのは当然じゃないですか。別に私が巫女のコスプレしてるんじゃなくて、人間の巫女の方々が私のコスプレしてるってわけです」

コスプレって言葉を知ってるわけね、この神様は。

「それに神社の掃除とかも、ある程度は自分でやらないと。ボランティアのおばさんも最近はお忙しいみたいですし」

自分でやってるんかい。

その所帯くささを何とかしたまえ、と俺は言いたい。

「あ、雄哉さん。栗饅頭もどうぞ」

「だから神様が、スーパーで栗饅頭を買うなっ!」

さっきの買い物袋から、いそいそと栗饅頭(5個入りパック)を取り出す姿に、思わず大声でツッコんでしまう。

彼女は頬をふくらませた。

「ひどいです。神様が栗饅頭を買っちゃいけないんですか? 差別です」

「いや、差別とかいう問題じゃなくて。もうちょっと威厳というものをですね」

「そんなものでお腹は膨れません。もっとドライに行かないと、この世知辛い世の中は渡って行けませんよ?」

「それ神様の発言として、どうかと思うんですが」

「栗饅頭はおいしいです」

「おいしさはどうでもいいんですっ!」

埒が明かない。

とりあえず、まともな会話が成立しない相手だという事だけは分かった。

こういう相手には、単刀直入に切り出すのが正しい対処法なのである。

「もういいです、本題に入りましょう。ええと、彼我滝鳴神さん」

「鳴(なる)でいいです。呼びにくいでしょ? ボランティアのおばさんもそう呼びます」

「……鳴さん。どうして俺が今度の試験に落っこちないと世界が滅びるのか、説明してくれませんか?」

鳴は、んーっ、と上目遣いに空を見上げ。

「ちょっと複雑なんです。雄哉さんは因果律ってご存知ですか?」

「因果律? 因果応報の因果ですか?」

「そうです。簡単に言うと、全ての結果には例外なく原因が存在する。ひいては、この世で起こる全ての事象はお互いに干渉し合っているって事です」

ぜんぜん簡単じゃなかった。

鳴さんくらいの年の人なら簡単なのかも知れないけど、こっちはまだ中学生なんだって事を忘れないでほしい。

「ええと。『風が吹けば桶屋が儲かる』って言葉がありますよね。変な話だと思いませんか? 風と桶屋さんと、何の関係があるんでしょう?」

「それは、風が吹けばゴミが舞うじゃないですか。そのゴミが誰かの目に入って、その人は目が痛いから目を洗おうとします。すると水を溜めるための桶が必要になって、だから桶屋が儲かるって事につながるんです」

 

「その通りです。一見、何の関係も無い風と桶屋さん。でも、ちゃんと1本の糸でつながってます。この1本の糸を、因果律と呼ぶんです。雄哉さん、例えば明日、北海道で小学生が道で転んでしまうとして。その原因をずーっとたどって行くと、今日あなたがここで、栗饅頭を食べたせいかも知れないんです」

「まだ食べてませんけど。確かにそういう考えで言えば、有り得ないとは言い切れませんね」

「だったら、あなたが今度の試験に合格したせいで、世界が滅びる可能性だってあるわけです」

「………………」

もしそれが本当なら、えらくチャチな構造なんだな世界って。

さいきん流行りの手抜き工事だろうか? 責任者呼んで来い、って感じだ。

「分かってもらえましたか?」

「めちゃくちゃ言いくるめられてるような気がして仕方がありません」

「んー、困りましたね。あなたが合格しちゃってから世界の滅亡までの過程をお話しすると、それだけで1週間くらいかかりそうなんですけど……聞きます?」

「試験が終わっちゃうじゃないですか。いいです」

「ですよね。できれば私も話したくないです」

雄哉と鳴は同時に茶をすすり、そして同時にホゥ、と息を吐く。

話が止まってしまった。

何となく空いてしまった間を埋めるため、雑談に花が咲く。

「ところで鳴さんって、ホントに神様なんですか? こう言っちゃ何ですけど、そうは見えないんですが」

「とほほ、よく言われます。まだまだ神になって200年足らずの若輩者ですから」

 

「200年って若輩なんですか?」

「人間で言えば18、19歳くらいです。でも一生懸命頑張りますので、よろしくお願いしますね」

「19……鳴さんって、童顔なんですね」

「い、言ってはならない事をっ!」

おしゃべりに興じ、しばし時を忘れる。

我に返ったのは、遠くから雷鳴が聞こえてきた時だった。

「うわ、すごい雨雲。こっち来るかな」

遠くに見える山の稜線。

まるでそこを覆い尽くそうとするかのように、真っ黒な雲が立ち込めていた。

裕也の独り言に、鳴はのんびりと答える。

「来ますねぇ、残念ながら。あと1時間後くらいに」

確定事項のような口ぶり。やけに自信満々だ。

神様だから分かるのだろうか?

「いえ、別に。200年もこの土地に住んでいれば、それくらい分かるようになります」

「やばいな。俺、まだ親戚の家見つけてないのに」

「親戚のお家に泊まるんですか。何てお家ですか?」

「三坂って名字なんですけど」

親戚の名字を明かすと、鳴は得心した顔でうなずいた。

「それって、昌代さんのお家ですよね」

おばさんの名前だった。

「鳴さん、おばさんのこと知ってるんですか?」

「当たり前じゃないですか、私はここの土地神ですよ? それにさっき、ボランティアのおばさんが神社の掃除に来てくれてるって言いましたけど。それが昌代さんなんですよ」

世間は狭い、と思った。

まあこんな小さな町だから、そういうのもアリか。

「それならここから近いですよ。こっちです」

鳴が先に立って歩き出す。案内してくれるらしい。

また、遠くでゴロゴロと雷鳴が轟く。

なんとか雨には遭わずに済みそうだった。

 

 

 

「あらまあ、鳴ちゃんに会ったの?」

夕食時。

鳴のことを話すと、おばさんは嬉しそうに声を上げた。

「珍しい事もあるものね。地元人ならともかく、他所から来た雄くんに姿を見せるなんて」

「そうなんですか?」

「そうよ。私なんて、ここに嫁いでから3年経ってようやく会えたんだから」

おじさんは居ない。ちょうど出張中で、帰って来るのは1週間後らしい。

滅多に無い機会なのに会えなくて残念だ、と言っていたそうだ。

そう聞くと、親戚の家なんて気疲れしそうだ、なんて考えていた事が申し訳なくなってくる。

「神様に会うなんて初めてだったでしょ」

「ええ、そりゃ。けど神様って、みんなあんな風なんでしょうか」

「ふふふ。私も初めて会った時はそう思ったわ。だって神様って言ったら、白髭の仙人みたいなお爺さんを想像するでしょ? それがあんな、自分より若い女の子なんだもの。けど、それ鳴ちゃんに言っちゃダメよ? あの子、あれでも頑張り屋さんなんだから」

頑張り屋さんなんだから。

仮にも神様で畏れ多いとか、そういう理由じゃなくて、頑張り屋さんなんだから。

どうやら鳴は地元の人間からも、崇拝の対象というよりは温かい目で見守られるような存在であるらしい。

神様として、そこはかとなく不憫だった。

「それなら雄くん。良い機会だし、こっちに居る間に比賀の滝も見てきたらどう?」

 

「比賀の滝? 滝ですか?」

「この田舎町の、唯一の観光名所よ。鳴滝って地名も、その滝から来てるの。もともと鳴ちゃんは滝の神様なのよ」

そうだったのか。

まあ確かに、これも何かの縁だろうし。勉強の合間に1回くらい行ってもいいかな。

 

「あの滝にも色々あってねぇ。鳴ちゃんも戦時中には……」

「え?」

雄哉が聞き返すと、おばさんはしまった、というように口を閉じた。

「ううん、ちょっと口が滑っちゃったみたい。気にしないでね」

「…………?」

何なのだろう。

気にはなったが、あまり立ち入って訊けるような雰囲気でもなかった。

「お風呂もう沸いてるからね。ご飯食べたらお入りなさい」

「あ、はい。すみません」

 

結局、その後は大した話もせず、この日はそのまま床についたのだった。

 

 

 

 

3、

 

試験2日前。

午前中を勉強に費やし、午後も1時間ほど勉強したところで、集中力が切れてきた。

 

外の空気でも吸おうと玄関を出た所で。

「……?」

不思議な旋律が聞こえたような気がして、雄哉は辺りを見回した。

どこか遠くで、何かの楽器が奏でられている。

哀愁を帯びた、叙情的な旋律。

風に乗ってかすかに届く、澄んだ音色。

何の音だろう? 笛……?

音を追って、道を歩く。たどり着いたのは、昨日も訪れた鳴滝神社だった。

目の前に建つ鳥居の奥を見やる。

何となく、察しがついた。

演奏は続いている。不思議な音色が、心に染みる。

その旋律につられる様に、雄哉は鳥居をくぐって境内に足を踏み入れた。

 

 

 

昨日は気付かなかったが、この神社は広さは無いが奥行きがあった。

本殿を通り過ぎた裏手に山へ向かう獣道があり、やがて粗末な石段が続く。

50段はある石段を登りきった先。急に視界が開け、木々に囲まれた空間があった。

 

滝の祭壇だった。

本当にそんな言葉があるのかどうかは分からない。だが、そう呼ぶのがふさわしい場所だった。

高さ3mほどの、小さな滝がある。

慎ましい水の柱を受けて水溜りのような池があり、そこから清水が流れ出している。

 

うっそうとした森に四方を囲まれ、上を見上げれば切り取ったような丸い空があり。

 

水のほとりに佇む大きな岩の上に、巫女装束の少女が腰かけて横笛を奏でていた。

素人にも分かるほどの、巧みな演奏だった。

手にしているのは古めかしい木製の横笛。フルートなどとは違い、なめらかさも重層さも無い、単音しか期待できない粗末な楽器。

しかし奏でる者が奏でれば、こんなにも美しい旋律となるものか。

素朴な音はそれゆえに清らかで、心の琴線を震わせる。

初めて聞くはずなのに、なぜか懐かしいような。まるで太古の記憶に語りかけてくるような響き。

『神業』。

ふと雄哉の脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。

演奏に集中して閉じられていた巫女の瞼が、ピクリとする。

気配を感じたのだろうか。その目がうっすらと開かれる。

目が合った。

「……あれ? 雄哉さん」

その瞬間、幻想的な、あるいは神秘的な空気は一瞬にして霧散していた。

「どうしたんですか? こんな山奥まで。あ、もしかして観光ですか?」

鳴は笛を下ろし、昨日と変わらぬ能天気な笑顔で近寄ってきた。

「ようこそようこそ。えー、こちらに見えますのが鳴滝の名所、比賀の滝になります」

「何ですか、その新人のバスガイドさんみたいなセリフは」

ちょっと、もったいないとか思ってしまった。

照れ隠しに、わざとぶっきらぼうに言う。

「ちなみにこの滝が、私の拠り所になるんですよ」

「おばさんに聞きました。でも小さいんですね。滝って言うくらいだから、もっとこうドドドーッって水が落ちてるのかと思ってたんですけど」

「うっ……。そ、そんな大きいだけの野蛮な滝と一緒にしないでください。これくらいの方が、奥ゆかしくて趣があるんですっ!」

自分で言うのか。

まあ、あまりその事でツッコむまい。

唯一の観光名所らしいし、それなりにプライドもあるんだろう。

「まあ、確かにこれだけなんですけど。せっかくいらしたんだし、ゆっくりして行って下さいね」

「そうします」

もし1人で来ていたのなら、一目見たらすぐさま回れ右して帰っていただろうが。

観光客が来て嬉しそうな鳴を見ていると、あっさり帰るのは気が引けた。

水辺に歩み寄り、手ごろな岩に腰かける。鳴も隣に座った。

「笛、上手なんですね。びっくりしました」

「これですか? えへへ、篠笛は得意なんですっ!」

自慢げに笑い――――その笑顔がヘニャッ、と崩れる。

「……って言いたい所なんですけど。私は天宇受売神の系統ですから、当たり前なんです。別に努力して身につけたんじゃなくて、生まれつきですから。自慢になりません」

「その系統の神様は、みんなそうなんですか?」

「神話にもありますよね。天宇受売神は天岩戸の前で踊ったことからも分かるように、芸能の神なんです。私のお姉ちゃんも、妹たちも、みんな何らかの芸に秀でてます。私だけじゃありません」

「……でも、やっぱり凄いと思いますけどね。充分、自慢できる事ですよ」

「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです」

「少なくとも、この滝よりはずっと鳴滝の名物になると思うんですけど」

「そ、そういうこと言うんですか!?」

鳴の表情は、くるくると実によく変わる。面白くて、ついからかってしまいたくなる。

神様だという事も、ずっと年上だという事も、うっかり忘れてしまいそうになる。

「そう言えば雄哉さん、今日は朝から見ませんでしたけど。お出かけしてたんですか?」

「いえ、家に居ました。受験勉強の最後の追い込みです」

それを聞いて、鳴は少し困った顔になる。

「あさってのため、ですか?」

「そうです」

「うーん……」

よほど言いにくそうにしながら。

雄哉の顔色を伺うようにしながら、それでもハッキリと尋ねてくる。

「何とか、考え直してもらえないでしょうか? あなたが合格しちゃうと、世界が……」

「それなんですけど」

一生懸命勉強してきたのにそんな風に言われては、いい気分はしない。しかし、別に彼女と喧嘩がしたいわけではないのだ。

雄哉は昨夜、布団の中で考えた事を口にする。

「他に手は無いんですか?」

「他の手、ですか?」

「昨日の因果律の話だと、俺が合格した後でも、世界の滅亡まではまだ色々とあるんですよね? どこか別の所で歯止めをかけられないんですか?」

「えっと……」

困り果てた顔をする。

立ち上がり、雄哉の目の前で落ち着きなく行ったり来たりを繰り返して。

「ダメなんですか?」

「いえ、もちろんダメってことは無いんです。理論上は可能です。ただ、何と言えばいいのか……」

こちらを見つめる、気遣わしげな視線。

「何ですか? ハッキリ言って下さいよ」

「いえ、はっきり言うとたぶん雄哉さん、怒っちゃうと思うから」

「怒りませんから」

パタリと立ち止まり、ジッと探るように見つめてくる。

「……本当に?」

「本当です」

「絶対に怒りませんか?」

「絶対に怒りませんから」

「絶対の絶対ですか?」

「しつこいです」

深呼吸1回。

「じゃあ……」

ようやく踏ん切りをつけて、鳴は言った。

「雄哉さんが落っこちてくれるのが、1番直接的で1番被害が少なくて、だいいち1番てっとり早いんですよ」

「………………」

 

間。

 

「なんですとおおおおぉぉぉっ!?」

雄哉の怒声が、閉鎖された空間に響き渡った。

「てっとり早いって何ですか、てっとり早いって! アンタ、人がずっと努力してきた事を、よくもまあそんな風にっ!!」

「あ〜ん、やっぱり怒るじゃないですか〜」

鳴は頭を抱えて、その場にしゃがみ込む。ほとんど子供だった。

「他の事象で止めようとすると、すごく難しくなっちゃうんですよ〜。3ヶ月以内に今の内閣を総辞職させなくちゃいけなかったり、どこかで進行してる台湾の総統暗殺計画を阻止しなくちゃいけなかったり、日本のどこかに居る木村さんに牛乳を3リットル以上飲ませなくちゃいけなかったり……」

「ちょっと、最後のやつは何ですか」

「とにかく、こんな田舎の土地神の手には負えなくなっちゃうんですよ〜」

情けない声で訴える。

ともかく本人が言うように、ダメらしい。

そもそも、なぜこんな見るからにダメそうな神に、世界の命運が握られているのだろ

うか?

「他の神様は何やってるんですかっ!?」

「雄哉さん、今が何月か分かって言ってます?」

「何月って、10月の25日……あ」

「そういう事です」

そう。時は10月、神無月。

日本中の神様は、こぞって出雲に出張中。

「残ってるのは私みたいな、お留守番の土地神ばかりなんです」

「おぅ、じーざす」

「私がこの事態に気付いたのも、ほんの偶然なんです。お留守番で退屈だったから、思兼(おもいかね)のおじさんがやってた因果律のパズルやってたら……なんか解けちゃって」

解けちゃうな。

雄哉はガックリと肩を落とす。

「くそぉ〜。何で俺なんだよぉ」

鳴はオロオロとしながら、手を伸ばしたり引っ込めたりしている。

「これでも、ですね……。俺、これでも今まで、けっこう頑張ったんですよ? ずっと毎日勉強して、模試でもA判定取って……。なのに、こんなのアリですか。俺が何したって言うんですか……」

これまでの努力を捨てろという、神からの言葉。

中学生の雄哉には、あまりに無慈悲な仕打ちだった。

「あの、雄哉さん。受験なさるのって、隣町の学校ですよね?」

何とか空気を変えようとしたのだろう。

鳴は無理のある笑顔を浮かべながら、別の話題を振ってきた。

「ええ。北陵高校ってとこです。大学の付属で、そこに受かればエスカレーター式に

大学まで行けるんです」

「大学まで行けるんですか!? それは凄いです。どんな大学なんですか?」

「そこまでよく調べてないんですけど、確か経済学で有名らしいです」

それを聞いて、鳴の表情が変わった。

「……経済学……?」

真顔になり、目を伏せる。

「鳴さん?」

「………………」

その顔は、憂いを帯びているようにも見えた。ふらりと立ち上がり、滝の方へ歩く。

 

「そうですか。雄哉さんは、経済学をお勉強なさるんですか……」

「いえ、そんな先のことまで決めてませんが」

「素敵だと思います。ぜひ経済学を志して下さい」

なぜか哀しげな微笑み。様子が変だった。

雄哉は何と声をかけていいのか分からず、その横顔を見ていることしか出来なかった。

「この滝」

鳴は雄哉の方を見ないまま、言葉を紡ぐ。

「本当の名前は、彼我の滝って書くんです。彼と我、と書いて彼我(ひが)。あなたと私……」

意味深な物言い。

白い腕が伸ばされ、指先が水に触れる。水滴が跳ね、袖口をわずかに濡らす。

静寂。

小さな滝の音が、やけに大きく耳に響く。

どれくらいそうしていたのか。やがて鳴は、独り言のように呟いた。

「……昔、まだ鳴滝が小さな農村だった頃。村に男の子がいたんです」

「男の子ですか?」

「友達と一緒に、ここへ毎日遊びに来ていました。いたずら好きで……ひどいんですよ? 滝の上流で石を積んで、水をせき止めたり。泥だらけの体でそのまま水浴び始めちゃったり。私、いつもその子を追いかけて、叱ってばかりでした」

ひどいと言う割には、語るその横顔は楽しげだ。

当時を思い出しているのか、遠い目をしている。

「でも、頭の良い子でした。東京の有名な中学校に合格したんです。この村からは初の快挙でしたから、お見送りの時は村を挙げての盛大なお祭りになりました。駅に村中の人が集まって、日の丸を振ってバンザイバンザイって」

日の丸にバンザイ。

明治か大正か、それくらいの時代だろうか?

「その子は東京へ行って……帰って来たのは6年後でした。びっくりするくらい背が高くなってました。こ〜んな小さな子だったのに、私の方が見上げなくちゃいけなくなってて。大木みたいにがっしりした、立派な男の人になってました」

手を上に伸ばして、青年の身長を再現する。もしそれが正確なら、鳴はその青年の胸くらいまでしかない。

「大学生になってたんです。東京の大学で、経済学を専攻してるって言ってました」

 

「え……」

「私はバカですから、難しい話はよく分かりませんでした。でもその子が言うには、経済学っていうのは幸せを扱う学問なんだそうです。どれだけたくさんの幸せを生み出せるか。そして1かたまりの幸せを、いかにみんなで分け合えるか。みんなが幸せになれる方法を探すのが経済学なんだ、って」

鳴はクルリと雄哉に振り返り、ニッコリと微笑む。

ハッとするほど綺麗な笑顔だった。

「雄哉さん知ってますか? 1+1は2じゃないんですよ。1+1は、おっきな1なんです。多分あの子は、バカな私にも分かるように簡単に説明してくれたんでしょうけど。私、とっても素敵だと思いました。だから、せっかく良い大学に行けるんでしたら、雄哉さんにもぜひ経済学を志してもらいたいです」

「………………」

雄哉は黙り込んだ。

その沈黙を勘違いしたのか、鳴はパタパタと手を振る。

「あ、もちろん雄哉さんには雄哉さんの志があるはずですよね。つまらない昔話ですから、気にしないで下さい」

話はそれで終わりのようだった。

濡れた手をぬぐっている仕草を、物足りない気分で見つめる。

青年の話をもっと聞きたかった。その青年は今どうしているのか。

それに青年の事を話す鳴の、あの表情。

雄哉も経験は無いが、それが分からないほど鈍感ではない。だが、不躾に尋ねていいはずもない。

「困りました。落っこちてくださいって、言いにくくなっちゃいました」

鳴はのん気に苦笑している。

雄哉はいたたまれない気持ちになってきた。

「あの、俺……そろそろ帰ります。勉強しないと……」

あからさまに逃げ腰だった。自分が情けなくなってくる。

しかし鳴は気付いた風もなく。

「そうですか、お構いもしませんで。立場的に、頑張って下さいとは言えないのが心苦しいですけど」

「どうも。それじゃ」

ろくに目も合わせずに頭を下げ、その場を退散する。

石段を降り、獣道を駆け、神社の鳥居を抜けて。

また篠笛が聞こえてきた。

情感のこもった、美しい音色。

しかし雄哉は、それから逃げるように家へと駆け戻って行くのだった。

 

 

 

 

4、

 

試験前日。

雄哉は試験会場の下見に出かけた。

親戚宅からバス停まで歩き、バスに乗って揺られること15分。

目の前には大きな校門がそびえていた。

 

『 北陵学院大学付属 北陵高校 』

 

ここが、俺の志望校。

ここが、俺のゴール。

特に不安は感じなかった。模試の判定は、半年も前からずっとA判定だ。本番でよっぽどボケない限り、落ちる方が難しい。

だが、それも当然だ。これでも雄哉は優等生だった。

小学6年の頃から、塾通いを始めた。

中学になっても、部活なんか入らなかった。色恋沙汰にも興味は無かった。

中途半端な人間にはなりたくなかった。あれこれ手を出すよりも、ひたすら学力に磨きをかけた。

そのゴールが、いま目の前にある。

北陵高校。

日本最高峰とは行かないが、それなりに名門の進学校だ。大学までエスカレーター式だとか、その大学は経済学で名を馳せているだとか、付属的な話は色々あるが雄哉には興味の無い事だった。

雄哉がこの高校を志望した理由は1つ。

 

『難しい学校だから』

 

これに尽きた。

校門を通り過ぎ、敷地内に入ってみる。

さすがにこの時期になると校内を中学生が歩いているのも珍しくはないのか、私服姿の雄哉を見ても、すれ違う高校生達は一瞥を投げかけるだけで通り過ぎて行く。

白亜の校舎。大きな体育館。広大なグラウンド。

見るともなしにそれらの風景を見て回る。

「………………」

もっと胸に湧き上がってくるものがあるかと思ったが、そこには拍子抜けするほど落ち着いている自分が居るだけだった。

 

『難しい学校だから』

 

……嘘つけよ。

ここより難易度の高い学校は他にもある。

北陵を志望した理由は、2つ。

『見栄を張れるくらいには有名』で、なおかつ『自分の学力なら安全圏』だからだ。

 

でも、それの何が悪い。

自分は勉強にすべてをかけてきた。

確実に勝利を収め、栄光を手にする事の何が悪いというのか。

そうだ、俺は何も間違ってなんかいない。

ヘタに背伸びして負ければ、自分には何も残らないのだ。

ここの試験なら、科目に死角は無い。体調も万全だ。恐れるものなど何も無い。

なのに――――。

なぜ俺は、こんなにも苛立っているんだろうか?

 

(素敵だと思います。ぜひ経済学を志して下さい)

 

鳴の言葉が、ひどく後ろめたかった。

志なんて、そんなものありはしない。彼女の話す青年のように、学んだ知識を役立てようなんて気はさらさら無かった。

『こんなこと勉強して、人生に役に立つのか?』

学校で、塾で、そして自宅で参考書を広げながら。

今まで1度も考えた事が無いなんて、自分に嘘はつけなかった。

それでも、その役に立ちそうにない知識を詰め込み続けて、ここまで来てしまった。

 

試験という点取りゲームに興じているだけの、馬鹿なガキ。

こんなものにプライドをかけるなんて。

俺は本当に頭が良いのか? 実はとんでもない大馬鹿なんじゃないのか?

「………………っ」

だけど、それしか無いのだ。

自分から勉強を取ったら、何も残らないのだから。

 

(あなたが今度の試験に落っこちないと、世界が滅びます)

 

知った事か。

そんな非現実的な話に付き合っていられるかってんだ、こっちは真剣なんだ。

もし仮に本当だとしても、なんでそこで俺に責任押し付けて来るんだよ。

あんた神様だろ。だったらあんたが何とかしろよ。

人の努力を踏みにじるみたいな事を、軽々しく言いやがって。冗談じゃないってんだ……!

 

結局、敷地内を1周しただけで雄哉は校門を出た。

ひどく惨めな気分だった。

いったい何の下見に来たのか、自分でもよく分からなかった。

 

 

 

 

5、

 

「あれ、雄哉さん? おかえりなさーい。どこかにお出かけだったんですか?」

 

……そもそも、バス停が神社前だという時点で失敗なのである。

バスを降りた途端、1番顔を合わせたくない相手と出くわしてしまった。

鳴は竹箒を手に、鳥居付近の掃除をしているところだった。相変わらずのん気そうに、ヒラヒラと手を振ってくる。

「……ホントに自分で掃除してるんですね」

「言わないで下さいよぉ。今の世の中、どこの職場も人手不足は深刻なんです」

仕方なく、彼女のもとへ歩み寄る。

「明日の試験会場の下見に行ってきました」

「ああ、なるほど。それはお疲れ様です」

疲れたよ、本当に。

雄哉は心の中でそう答えた。

「今日も帰って試験勉強ですか?」

「いえ、今日はのんびりするつもりです。前日に勉強するのは余り良くないって言いますし……」

正直に答えてから、しまったと思った。

そういうことにしておけば良かった。真っ直ぐ家に帰れたのに。

鳴はパチンと両手を合わせる。

「そうなんですか。それなら、お茶でも飲んで行かれませんか? ちょうど私も休憩しようと思ってたところなんです」

無下に断る理由が無かった。

「じゃあ……」

不本意ながら、神社に立ち寄ることとなる。

社務所の前にある木の長椅子に座る。鳴は社務所に入り、すぐに湯呑みが2つ乗ったお盆を持って出てきた。

「どうぞ」

「どうも」

並んで座り、茶をすする。

空は晴れているが、風は冷たい。熱い茶を飲むと、内側から温まって何だかホッとする。

「下見も済ませて、準備は万端ですね。気合充分ってとこですか?」

「……そうですね」

「ん? 元気ない、ですか?」

「本番を前にすれば、多少は緊張もするものです」

「なるほど。でも、それって良い事です。適度な緊張は集中力をより一層高めるんだって、こないだテレビでやってましたから」

雄哉はニコニコと笑う鳴を見やる。

「鳴さん、俺に落っこちてほしいんじゃなかったんですか?」

「そうなんですけど。でも大学まで行くような学問の有志に、あまりそういうこと言えなくて」

それはやはり、あの青年の事があるからなのだろうか。

雄哉は考えた。

やはり気になった。

良くない事だと思いながらも、思い切って口を開いた。

「鳴さん。昨日話した、男の子の事なんですけど」

「え?」

「その子は今、どうしてるんですか?」

途端に、鳴の笑顔が崩れた。

不出来な笑みを張り付けたまま、うつむく。

「えっと……」

しばし逡巡して、それから力無い微笑みで答える。

「死んじゃいました。戦争で。その子が村に帰ってきたのは、出征が決まって大学を中途退学したからだったんです」

雄哉は早くも後悔した。

やはり、好奇心で尋ねていいような事ではなかったのだ。

「当時、日本はもう負け始めていて兵隊が足りなかったんです。お国が学生も戦争に行かせようって決めて、あの子は硫黄島っていう南の島に行きました」

硫黄島。

雄哉も何かの本で読んだことがあった。太平洋戦争中、最大の激戦と言われた硫黄島決戦の舞台である。

サイパン島を占領した事によって、アメリカ空軍は日本本土を直接攻撃の有効圏内に収めた。しかし、爆撃機を東京や沖縄へ飛ばすには、途中にある硫黄島がどうしても邪魔だったのである。

「そこでの戦いは、ものすごく激しかったんだそうです。アメリカ軍は島の形が変わるくらい飛行機から爆弾を落としたり、戦艦の大砲を撃ち込んだりして。戦車をどんどん上陸させて、火炎放射器でどんどん攻め立てて。それに対して日本兵は、武器どころか食べる物もままならない状態だったそうです」

人から聞いたのか、それとも自分で調べたのか。

すらすらと流暢に語る。声に抑揚が無く棒読みなのは、敢えて感情を押し殺しているようにも思えた。

「それでも死力を振り絞って、1ヶ月も戦ったんだそうです。でも結局ダメで。最後は生き残った日本兵全員で、敵陣に突撃して……全滅しました」

「………………」

「あの子は……あの人は、帰ってきませんでした」

鳴の声は、わずかに震えていた。

ぐす、と鼻をならす。

「滝のところでお話しした経済学の話には、続きがあるんです」

「え?」

「もう時効だと思うから、言っちゃいます。経済学のことを教えてくれた後、あの人、私に好きだって告白してくれたんです」

「………………」

明らかに無理をした、明るい声。

「これでも私って、けっこうモテるんですよ? 村の男の子の初恋の相手は、たいてい私なんです。まだ小さいから、私が土地神なんだって事が分からないんですよね。大きくなればその辺の事も理解できるようになって、みんなちゃんと人間の女の子をお嫁さんにするんですけど。その子たちがおじさんになってから、昔語りにそう教えてくれるんです。ガキの頃は鳴姉ちゃんを嫁にするべえって思ってたんだがなぁ、って」

「そう、ですか……」

「村で1番モテてたんですけど、けっきょく1番フラれるのも私だったんです」

今にも溢れそうな涙を必死にこらえ。

エヘへ、と笑って雄哉に振り向く。

「けどあの人は、大人になってからも私のこと好きでいてくれました。私、人間じゃないのに。あの人の子供も産んであげられないのに。それでも私と一緒がいいって。そう、言ってくれました。すごく嬉しかった……」

空を見上げ。

まるで天国にいる彼に語りかけるように。

「だから私、待ってたんですけどね……。硫黄島守備隊が玉砕したって聞いても、信じないで。終戦になって人から話を聞いても、信じないで。ここでずっと、待ってたんですけどね……」

 

(あの滝にも色々あってねぇ。鳴ちゃんも戦時中には……)

 

おばさんが言いかけた言葉が思い出される。たぶん、いや間違いなくこの事だったのだろう。

雄哉の後悔は、今や耐え難いものにまで膨らんでいた。

なんて事を聞いてしまったのだろう。

なんて事を言わせてしまったのだろう。

鳴は目を閉じる。

そして気持ちを切り替えるように、再び雄哉に微笑んだ。

「ま、昔そういう事があったって話です。だから大学とか経済学とか聞くと、どうにも弱くって」

その笑顔が耐えられなかった。

鳴の抱えてきたものに触れるには、雄哉は余りに未熟で脆かった。

「とりあえず世界の事は置いといて。雄哉さんも学問を志す身でしたら、ますますなお一層の努力を心がけてほしいと……」

「……嫌ですよ、そんなの」

だから、そう言ってしまう。

「何ですか、それ。何ですか志って。勉強なんて、テストで何点取れるかってだけの話じゃないですか。学年で何番か、全国で何番目かって順番決めるためのものじゃないですか……」

鳴の言う勉強は、雄哉にとっての勉強ではなかった。

志など必要ない。考える必要などどこにも無い。単語や数式のパターンを覚えて、それを答案用紙に書き写しさえすればいい。

オートマチック。それが雄哉にとっての勉強だった。今までずっと、そうして来たのだ。

「……え?」

鳴の笑顔が引きつる。

何か見当外れなことを聞いた、というように首を傾げて雄哉を見る。

「何を、言ってるんですか? そんなの勉強じゃありませんよ。勉強というのは自分の失敗から、人の歴史から、より良い世の中を作っていくための方法を考える事を言うんです」

鳴の言う事は、雄哉にとって恐怖だった。

覚えればいいというものではない。自分で考え、自分の心で感じ、自分の身で試してみなければならない事。

でも、解答はどこにあるんだ? 自分で考えた事がどれくらい正しいのか、採点してくれる先生は? 模試の判定が無きゃ、成功するか失敗するかの予想も立てられないじゃないか。

言ってみれば、模試も受けずに受験するようなものだ。

そんなバカな。そんな危ない事ができるわけないじゃないか。

「そんなの、どっかの偉い人がやればいいじゃないですか!」

「あなたがその偉い人になるんでしょう? 大学まで行くって言ってたじゃないですか。今さら何を言ってるんですか?」

「大学なんて遊ぶ所じゃないですか! ずっと受験勉強してきたご褒美に、思いっきり遊ぶ所じゃないですか!」

自分の言う事が支離滅裂になっている事は分かっていたが、どうしようも無かった。

 

言い知れぬ恐怖や重圧から、とにかく逃げたかった。

テストの点さえ良ければ人から誉められ優越感に浸れる、子供の世界に逃げ込みたかった。

沈黙。

風に木々がざわめく音が、奇妙に大きく響く。

「……何ですか? それ……」

鳴の表情から、笑みが消えていた。

今や不信に満ちた目で、雄哉を真っ直ぐに見つめる。

「大学が、遊ぶ所……? 受験勉強のご褒美……? 本気で言ってるんですか?」

静かな問いに雄哉は答えられない。

とっさに顔をそむけ、後すざってしまう。

その逃げ腰が、神の逆鱗に触れた。

「ふ……ふざけないで下さいッ!!!」

絶叫のような怒りの声。

思わず身を固くする雄哉。

「なんてことを、なんてことを言うんですか、あなたはっ! そんな気持ちで、そんな浮ついた気持ちで、大学なんか行かないでくださいっ!!」

「ひいっ」

思わず情けない悲鳴を上げてしまう。

そんな雄哉に飛びかかるようにして、鳴は肩を掴んできた。

「大学が遊ぶ所? 冗談じゃありません! 勉強する気が無い人間が、行っていい場所じゃないんです! 竜之介くんは勉強できなかったのに! 生きることすらできなかったのに!」

そして気付く。

鳴は、泣いていた。

柳眉を吊り上げ、烈火のように激しい怒りを顕わにしながら、目からは涙を流していた。

「死にたくないって泣いてたのに! もっともっと生きたいって! もっともっと生きて、もっともっと経済学の勉強がしたいって! あなたは生きられるのに! 勉強できるのに! 恵まれてるくせに、何がご褒美ですか! どうして竜之介くんが勉強できなくて、あなたみたいな人が……っ!!」

そこから先は、言葉になっていなかった。

雄哉の肩を掴んだまま、鳴はボロボロと涙をこぼす。

「……竜之介くんは………竜之介さんは………!」

竜之介。

それが、彼女が恋い慕った青年の名なのだろう。

もはや何を言っているのか分からない、うめき声のような言葉の羅列の中で、その名前だけがはっきりと聞き取れる。

肩に彼女の指が食い込む。それは彼女の激情の表れであるような気がして、雄哉は振り払うこともできなかった。

「……帰ってください……」

やがて鳴は顔を上げ、キッと鋭い目で雄哉を睨んだ。

「志も持てない、生ける死人も同然な人と、これ以上話すことなんてありません」

辛辣な言葉。

だが、逆らえるはずもない。

生ける死人。その通りだ。竜之介という青年に比べて、自分はあまりに矮小だった。

 

この話を聞くことすら、自分には分不相応であったとさえ思える。立ち去ることに異存は無い。

だが、立ち去る前に、彼女に何かを言っておきたかった。

故人を思って泣き、怒る鳴に、何か言葉をかけておきたかった。

しかし何と言えばいいのか。謝りたいのか、言い返したいのか、はたまた別の事を言いたいのか。

躊躇して動かない雄哉に、鳴は湯呑みを取って投げつけてきた。

「出て行ってください、早く! 神社が穢れますっ!」

残っていたお茶が服にかかる。

ダメだ――――。

思いはまとまらず、何一つ言えず。

雄哉は逃げるように、神社を走り出るしかなかった。

 

 

6、

 

ミッドウェー海戦での敗北を皮切りに、日本の敗退は始まった。

ガダルカナル島の死闘。連合艦隊司令長官、山本五十六大将の戦死。アッツ島守備隊の玉砕。

開戦から1年数ヶ月あまりの戦いで、日本軍は熟練した飛行機のパイロットや軍艦の乗組員など、優秀な人材の多くを失っていた。

これらの人材を養成するのはとにかく時間がかかる。そこで軍は、大学生に目をつけた。

当時、大学生には徴兵猶予という特別制度があって、26歳までは兵役を免除されていたのだ。

だが、戦局は行き詰まっていた。大学生ならば、中学校から軍事教練を受けているからすぐにも兵士にできる。いや、下級指揮官にだって任命することができる。そんな人材を、軍は見逃さなかった。

1943年12月。徴兵猶予解除の特別法が公布された。学徒出陣である。若者達は「人生20年」と口々に呟き、学業半ばにして南の島々に赴き、そして散って行った――――。

 

「あら雄くん、まだお勉強? 明日は本番なんだから、早く休んだ方がいいんじゃない?」

風呂から上がったおばさんが、話しかけてきた。

「大丈夫です。この本、参考書じゃなくてただ読んでるだけですから」

「そう? でもまあ、疲れる事には変わりないんだから、夜更かししないで早く寝なさいね」

「はい。おやすみなさい」

おばさんに挨拶して、居間を退散する。

自分の部屋に戻ると、雄哉は先ほどの会話など無かったかのように、すぐに本を開いて先を読み始めた。

そう、これは勉強ではない。

少なくとも雄哉の価値観で言う勉強ではない。

だが、これこそが勉強であった。雄哉は今、生まれて初めて、本当の勉強をしていた。

おじさんの部屋の本棚にあった歴史の本。雄哉は太平洋戦争についての記述を、貪るように読み進めていた。

 

大学生が投入されたくらいで、戦局が覆るはずもない。

敗退は続く。マリアナ沖海戦で、日本海軍は実質上壊滅する。神風特別攻撃隊が登場する。サイパン島の守備隊が全滅する。

そして。

「硫黄島……」

1945年2月16日、硫黄島にて血戦の火蓋が切って落とされた。

まず最初に、アメリカ軍は硫黄島に徹底的に空爆と艦砲射撃を叩き込んだ。初日だけで何と24000トンの砲爆撃。鳴が「島の形が変わるくらいに」と言ったのは、誇張ではなかったのだ。

昼間はアメリカ軍が戦車や火炎放射器で日本軍を攻め立て、焼き殺した。夜は日本兵がアメリカ軍に襲い掛かった。日本兵にとって哀しい事は、敵を倒すのも重要だが、それ以上に敵から食料や弾薬を奪わなければ戦えないという物資の欠乏にあった。日本兵は孤立無縁で、ゲリラのように戦うしか手が無かったのである。それでも、1ヶ月近く戦った。援軍も補給も無しで、世界一のアメリカ軍を相手に1ヶ月も戦い抜いたのである。

だが、その抵抗もやがて力尽きた。3月17日深夜。栗林中将以下、守備隊の生き残り全員が水杯を交わし、敵陣に突撃して行った。

陣前に張り巡らされていた機関銃の網が、一斉に火を噴いた。深夜に鳴り響く弾幕音。そして硫黄島は、陥落した。

 

 

そして、竜之介という青年は、帰ってこなかった。

「………………」

雄哉は口元を押さえる。本を読んで泣いたのなんて、初めてだった。

生きられるのに。勉強できるのに。

鳴が怒った理由が、よく分かった。

俺は、何て。

今まで何て、ぬるい世界に生きていたのだろう。

爪が手に食い込むくらいに、拳を強く握る。

こんなに自分に腹が立ったのは初めてだった。

鳴さん、ごめんなさい。

本当に、何て申し訳ない事を言ってしまったのだろう。

恥ずかしかった。

これが恥ずかしいという事なのかと、初めて知った。

「くそ……っ!」

後悔に押し潰されそうになっていた、その時だった。

 

カツン

 

窓ガラスが、小さく鳴った。

何か小さな物が、小石でもぶつかったような音だ。

 

カツン

 

まただ。

不思議に思い、雄哉は窓に近づく。

窓ガラスを開けると、夜の冷気がサッと流れ込んできた。

「さむっ……」

思わず呟いて、気付く。

垣根の向こう。夜闇に浮かび上がるようにして、白い装束の人影が立っていた。

「良かった。やっぱり雄哉さんのお部屋でしたね」

「鳴さん……?」

白い吐息を吐きながら、ささやき声で言うのは鳴だった。

「夜分遅くに申し訳ありません。あなたがまだ起きてて良かったです」

とっさのことに、雄哉は動揺する。

「どうして……い、いえ、とにかく上がって下さい。玄関を開けますから、そっちに回って……」

「いえ、ここで結構です。すぐに帰りますから」

鳴はやんわりと断る。

そして雄哉に向かって、深々と頭を下げた。

「昼間はごめんなさい。ついカッとなって……ひどいこと言ってしまいました」

「え?」

雄哉は一瞬、何が起こったのか理解できず。

次の瞬間、慌てて首を横に振った。

「そんな! 鳴さんが謝る事じゃありません、俺が……!」

謝るのは自分の方だ。

土下座でも何でもして、いやそれでも足りない。ぜんぜん足りない。

とにかく鳴さんが謝るなんて間違ってる。

「いいえ。どんな形にしろ、雄哉さんは雄哉さんなりに一生懸命努力なさったはずです。それを私は、自分の考えにそぐわないからといって無碍にしてしまいました。だから、それを謝ります」

情けなくうろたえるばかりの雄哉に対し、鳴は落ち着いた様子で謝罪の言葉を述べる。

凛とするとは、こういう事か。礼節極まる凛々しさだった。

「ごめんなさい」

もう一度、深々と頭を下げ。

そして顔を上げ、鳴は微笑んだ。

「明日の試験、頑張ってください。応援しています」

「え……」

頑張ってください。

それを鳴の口から聞いたのは初めてだった。

「世界の事は私が何とかします。だから、雄哉さんは自分の為に頑張ってください。自分の努力が、無駄にならないように……」

「………………」

「そんな顔しないで下さい。大丈夫です、私はこれでも神様ですから」

シンと冷えた冷気。鳴の吐息は白い。

雄哉は何も言えなかった。

言いたい事はいっぱいあったはずなのに。

「これだけ言いたかったんです。では、私はこれで。おやすみなさい雄哉さん」

ごめんなさいも、頑張りますも、何も言えず。

夜闇に溶け込むように立ち去る鳴の後姿を、見送る事しかできなかった。

 

 

 

 

7、

 

試験が始まった。

午前中に英語と物理が行われ、昼休みとなる。

後に残るのは数学のみ。それが終われば、北陵高校推薦入学試験は全科目終了だ。

おばさんが作ってくれた弁当を平らげ、雄哉は見慣れぬ中庭を歩いていた。

今日は快晴だった。

風も無く、気温は初秋くらいと言ったところか。ポカポカして、眠くなりそうだ。

「………………」

昨夜はあまり眠れなかった。

鳴のこと、青年のこと、寝る前に読んだ本に書かれていたこと。

様々な事が浮かんでは消えて行って、布団の中で寝返りばかり打っていた。

頭が重い。体調は、良いとは言えなかった。

しかし体調よりも、精神的なものが雄哉に重くのしかかっていた。

悶々とした気分のまま、中庭をさまよう。

外の空気を吸えば少しは気分が晴れるかと思ったが、何の慰めにもならなかった。

チャイムが鳴る。時間だ。

雄哉は重い足取りのまま、教室へと戻って行った。

 

 

最終科目、数学。

試験開始から30分が経過したところで、ついに雄哉は我慢ならなくなり、小声で吐

き捨てた。

「何なんだよ……」

自分の顔が怒りの形相に変わっていくのが、ハッキリと感じられた。

相変わらず、頭が重い。心が重い。偏頭痛までしてきた。昨夜はよく眠れなかった。

今や、コンディションは赤ランプだ。

だと言うのに――――。

 

解けるのである。

この問題も、この問題も、こっちの問題も。

午前中の英語と物理もそうだった。まず間違いなく合格点だ。

以前の自分なら、合格の手応えに満足し、優越感に浸っていた所だろう。

だが、今の雄哉は苛立っていた。

 

何だよ、このザコの群れは。

こんな問題で、俺を止められると思っていたのか? 笑わせるな。俺を馬鹿にしているのか?

俺は今まで、こんなザコを相手にするために毎日机にかじりついていたのか?

 

泣きながら怒った鳴の顔が思い出される。

怒って当然だった。恋い慕った青年が泣きながら渇望した、生きる事と学問。

その2つを、当然のように怠惰に貪る俺のような人間を、許せるはずがないのだ。

 

昨日読んだ本の内容を思い出す。

60年前の出来事。

あれが、現実にあった事だと言うのか。映画でも小説でもなく、60年前に本当にあった事だと言うのか。

本によると、少年兵の志願年齢は14歳であったという。

14歳。それなら15歳の自分は、60年前だったらとっくに戦争に行っていたということだ。

戦争に行く? 俺が? 本気でこっちを殺そうと向けられる銃撃や砲撃の前に出て、戦う?

そんなの危ないじゃないか。プレステの3Dアクションじゃないんだろ? 怖いし、死んじゃうじゃないか。

 

そんな事しか考えていない自分に、自分で愕然とする。

そして気付く。ああ、俺は今まで戦った事が無いのだ、と。

自分がすべてを賭けていると思い込んでいた勉強だってそうだ。

目の前の答案用紙を見下ろす。

受験するのはA判定の学校じゃないか。結局、安全圏内に逃げ込んでるだけじゃないか。

田口雄哉。すべてを賭けて、その程度か? だったらお前は相当な能無しだな。

 

竜之介さん。

どんなにか無念だったことでしょう。

硫黄島での戦いは、どんなにか苦しかったことでしょう。

鳴さんは、ずっとあなたを待っていました。

彼女の元へ帰れず、どんなにか悲しかったことでしょう。

死の戦場へ赴く時、あなたが心の底から渇望した、経済学。

志も何も持たず、遊びで大学へ行く俺のような現代の人間達を、あなたは天国でどう思っているのでしょう?

 

 

最後の問題を解き終わった。

完璧だ。間違いない、俺は合格する。

時計を見る。まだ30分もある。

雄哉は机に肘をつく。

 

――――鳴さん、どうするつもりなんだろう。

頑張って下さいと言ってくれた。

思うところは色々あったのだろうが、そう言ってくれた。

こんな情けない馬鹿なガキがやってきた事を、努力だと認めてくれた。

その厚意を裏切らぬため、こうして試験を受けた。

 

「世界の事は私が何とかします。だから、雄哉さんは自分の為に頑張ってください」

 

 

今にして思う。なんてすごい言葉なのだろう、と。

それに比べて。

俺は、こんな所でぬるま湯に浸っている。

自分自身とすら戦おうとせず、安全に安全に、いつも何かに守られながらヌクヌクと生きている。

 

時計は15分を切った。

 

ギリ、と奥歯が鳴った。

情けない。心の底からそう思った。

リアルじゃなかった。

自分が生きているという事が、リアルじゃなかった。

小さかった。

どうしようもなく、自分が小さく見えた。

 

残り10分。雄哉は答案を見下ろす。

 

……この程度か……?

俺は、本当にこの程度の人間なのか?

小学6年から努力し続けてきた集大成が、こんなザコ相手で本当にいいのか?

 

……違うだろ。

良いわけないだろ。

良いわけ……ないだろっ!!!

 

残り5分。

 

やめろ、と心の冷静な部分が制止の声を上げている。

手中にある合格を捨てるなんてバカげている。一時の感情で軽はずみな真似をする

な。ガキかお前は。

 

そう。俺も今までそう思っていた。

堅実な道を取るのがクールなんだと思っていた。

本当に、バカだった。それこそがガキの証明だった。ガキが格好つけようとしている

だけだった。

俺は、戦いたい。

この頭で考え、この心で感じ、この体で動き。

本物の人生を生きたい。

 

竜之介さん。

認めてくれますか?

俺、一生懸命勉強します。

あなたのように、本当の意味で学問を志したいと思っています。

もし俺がいつか、何かを成し遂げられたら……俺を認めてくれますか? 学問を冒涜

していた俺を、許してくれますか?

 

残り1分――――。

 

雄哉は微笑みながら、静かに消しゴムを取った。

 

 

 

 

 

バス停の前で、鳴は雄哉を待っていた。

「おかえりなさい雄哉さん。お疲れ様でした」

冬の向日葵。

この笑顔を、そんな風に思ったことがあったな……。

雄哉は穏やかに微笑み返す。

「ただいまです、鳴さん」

鳴は雄哉の顔を覗き込み、満足げにうなずく。

「ん。雄哉さん、いい顔してます。うまく行ったみたいですね」

「ええ、簡単でした」

「うわあ、自信満々ですね。でも良かったです。どうぞどうぞ、お茶の用意ができてますよ」

先に立って誘う鳴につられて、雄哉も鳥居をくぐる。

境内にいたスズメが、2人の姿にパッと飛び立つ。

「さてと。雄哉さんが頑張ったなら、次は私が頑張らないと、ですね」

んーっ、と伸びをしながら鳴は言う。

世界滅亡のことを言っているのだろう。

雄哉は首を横に振った。

「その必要はありませんよ」

「え?」

キョトンとして振り返る彼女に、静かに告げる。

「最後の数学。俺、名前を消しましたから」

「え……?」

「0点です。俺、落ちました」

鳴は口元に手を当てる。

戸惑った瞳で、雄哉を見つめる。

「ど、どうして……?」

「さて、どうしてでしょうね」

「あの、やっぱり私があんな事言ったから」

オロオロする姿に苦笑する。

「違いますよ。鳴さんには感謝しているくらいです」

雄哉は空を見上げて言った。

「俺は、こんなもんじゃないと思ったんです」

「………………」

「もっと上を目指したくなったんです。もっともっと勉強して、3月にもっと上の高校を受験しようって。これから先、高校を卒業して大学生になってからも、もっとハイレベルな勉強がたくさんできるように。俺は北陵ごときで満足するわけには行きません。俺は、もっとやれるはずなんです。もっともっと、どこまでも伸びて行けるんだって事を、俺自身に証明して見せたいと思ったんです。……傲慢だと思いますか?」

鳴は呆気に取られていたが――――やがて、穏やかに首を振る。

「いいえ。やっぱり男の子は、それくらい元気が無くちゃダメですよ。すごく良い事だと思います」

「1+1は、大きな1」

「?」

「いつか、この意味が分かるようになりたいです。経済学がこの世界をどう変えるのか……それを確かめたい」

微笑む雄哉。

鳴の表情が輝いた。

「ああ、竜之介さん……」

天を仰ぎ、万感の思いを込めた声で、呟く。

「あなたの遺志を継いでくれる人が、とうとう来てくれました……!」

「はは、俺じゃ役不足でしょうけど」

「そんなことありません! 雄哉さんなら、きっとドカーンってすごい事やってくれます!」

「どかーん?」

「私、がぜん応援しちゃいます! 頑張ってくださいっ!」

鳴は嬉々として雄哉の手を取り、そして鳥居の方へと走り出す。

「あの、鳴さんどちらへ?」

「雄哉さんの家に帰るんです! さっそく今から勉強ですよー」

「ええ? い、今からですか? あの、お茶は……」

「おあずけです! 雄哉さん、高校に合格するまではお茶も休憩も栗饅頭も、全部おあずけですからねっ!」

「栗饅頭はともかく、休憩ナシっすか!?」

雄哉は悲鳴を上げ――――苦笑する。

「やれやれ、こりゃ責任重大だ」

そしていつしか、自分の足で走り出すのだった。

 

これからこうして。

生きて行くんだ。

自分の足で、本物の人生を。

 

 

 

 

――――後日談となるが、50年後の未来、世界は再び大恐慌に見舞われることとなる。

 

世界経済は大混乱に陥り、あわや第3次世界大戦勃発か、という危機的状況にまで追い詰められた。

その時、1人の日本人経済学者が彗星のように現れ、革命的な経済理論を発表した。

 

奇跡的に世界経済は持ち直し、その日本人経済学者は救世主と敬われた。

もし、彼が若い頃から勉強に妥協していたなら。

きっと世界は滅亡していたことだろう。

その後、世界各国の大学から誘いが来たが、彼はその全てを断った。

歴史的な栄誉を捨てて、どこへ行くのかと尋ねる者がいた。

その経済学者は白髪の混じり始めた頭をかいて、まるで少年の様にはにかんで、こう答えたという。

 

「結婚するのだ。これでやっと、告白する資格を得た」

 

 

 

だがそれは、今はまだ遠い未来の話。

 

 

「雄哉さんなら、ぜったい大丈夫です! 今日中に竜之介さんに追いついてもらいます!」

「死にますって! ちょっと、聞いてるんですか!?」

 

 

天佑神助。

 

神は、たゆまぬ努力を怠らぬ者にこそ、奇跡を授けるのである――――。