『1+1=』
――今日は風が吹いていた。
吹き付ける…と表現できるほど強い風でもない。
だが、冬という季節柄、その冷たい風は肌に刺さるような錯覚さえも覚えさせる。
「さむ……っ」
少年、田口雄哉(たぐちゆうや)は冷風に身を強張らせ、思わず呟いた。
太陽が真上に昇る時間だというのに、一向に温かくなる様子は無い。
すぐにでも初雪が降りはじめそうな寒さだ。
彼が踏みしめる、最近舗装されたばかりの無機質なアスファルトの鈍い光沢も、その寒さを一層際立たせているかのようだった。
「あーあ…今日はポカポカ陽気になるんじゃなかったのかよ…」
雄哉は一人ごちる。
昨日の夜に彼が見たテレビの天気予報によると、今日は初秋の気温になる筈だったのだが…実際はこの通りである。
今日の気温は初秋どころか真冬並みだ。
もっとも、吹き付ける風により体感温度がさらに下がっているため、真冬という感覚には多少の誤差があるかもしれないが。
天気予報を信じ、薄着をしてきた事を彼は今さらながら後悔していた。
ぶわっ
再び風が吹く。
散り落ちて、人や動物に踏みにじられ、原形を失いかけた紅葉が風に踊る。
曇天と、そこに舞う赤い紅葉の不格好な色彩のコントラスト。
空で一通りの舞を披露した紅葉は、風と共に地へと落ちた。
散り残った紅葉が風に吹かれて雄哉の頬に張り付く。
だが、彼は頬に張り付いたままの紅葉を取り去ろうとはしない。
否、出来なかった。
彼の両手には大きなボストンバッグ。
ついでに背中には小さなナップザック。
つまり、彼の両手は完全に塞がっている状態なのだ。
周囲の人間に修学旅行か家出少年と見られてもおかしくは無いだろう。
もちろん修学旅行などではないし、家出をしなければならない程に家庭が荒れているわけでもない。
「俺は…何をやってるんだろうな…」
雄哉は自分の両手を見て呟く。
寒さのためか、思考回路が上手く働かない。
何かがあったはずだ。
そうでなければ、このような馬鹿げた荷物を持って町内を徘徊する事も無いだろう。
俺は………何を……
「…………あ」
ふと、雄哉は顔を上げる。
(そうだ…俺は……)
彼は身を切る寒さに耐えながら、これまでの経緯を思い出していた。
それは、数日前―――。
「ねえ、雄哉。今週の日曜日は何の日か覚えてる?」
家で熱い緑茶を飲みながらくつろいでいた雄哉に突然雄哉の母親が尋ねてきた。
「えっ?なっ…なんだよ、母さん、突然…。」
雄哉は突然質問させられて少し戸惑っていた。
「だから、今週の日曜日は何の日かって聞いてるのよ。」
母は少し怒ったように言った。
こうなってくるとこの母は質問に答えるまで一歩も譲ることはしない。
「に、日曜日…。日曜日って、母さんの誕生日か?」
彼は仕方なく、たまたま思いついた事を言ってみた。
「何言ってるの。今週の日曜日はおじいちゃんの命日でしょ。忘れたの?」
母は半ば呆れながら言った。
「…あぁ。そうか、じいちゃんの…。」
彼はどうやら思い出したらしく、納得したように頷いた。
来週の日曜日は、母方の祖父がなくなった日なのだ。この日が近づくと、母は自分の親のために張切って色々準備をする。そして今年もその日が来週に近づいてきたというわけだ。
「そうよ。それで毎年おじいちゃんの墓参りのためにその日は里帰りしているというのに、何を忘れてるのよ。」
母にづけづけと言われ、彼は苦笑するしかなかった。
確かに彼女にとっては何年も前からやっている、いわば毎年の恒例行事の一つなのではあろうが、彼にとっては一年に一回の事で、しかも数回しか行った事が無い。その上小さい頃の記憶が無いのだ。忘れていても無理は無い。
(母さんと行ってる回数が違うんだから仕方が無いだろ……!)
と心の中で思いつつも、彼はあえて口にはしなかった。
もしそれを言えば、「何言い訳してるのよ!」と返され、一時間近く説教されてしまうからだ。
そんな風に彼が思いながらお茶をすすろうとした時、母は突然顔を引き締めて彼の方を見た。そして重苦しそうに口を開いた。
「…それでね、お願いなんだけど、今年は雄哉一人で行ってくれないかな。」
ぶば―――――――――!
彼は口に含みかけていたお茶を思わず吹き出してしまった。
勿論、お茶を吹き出してしまった理由は言うまでも無い。
「なっ…!何言ってんだよ、一体!」
彼は口元をハンカチで拭きながら、うろたえる様に母親に尋ねた。
「…実は、私が今している仕事が予想以上に長引きそうで、里帰りどころじゃなくなってしまったの…。」
母は少し辛そうに話した。
無理も無い。どんなに忙しくてもこの週だけはいつも無理してでも休みを入れていた。それほどまでに祖父の墓参りを大事だと思っていたのだ。それが取れなかったということはよほどの量の仕事を任されているという事なのだろう。
だが、それは彼女にとってはかなり心苦しいことなのだろう。彼女の顔は沈んでいた。
「……。」
彼は黙って母の話を聞いていた。
母の気持ちは痛いほど分かる。自分が母の立場だったら、多分同じ事を口にし、そして同じ顔をするだろう。
「…わかったよ。俺が母さんの分も参ってくるよ。」
彼は渋々承認することにした。
「ありがとう、雄哉。一応聞いておくけど、どうやって行けばいいのかは覚えてるよね?」
彼女は雄哉が行くとい言ったのを聞いてほっとしたのだろう。彼女は普通に彼に尋ねてきた。
「…まあ、何度も連れてってもらってるからな…。一応は覚えてるよ。」
雄哉はふうとため息をつきながら答えた。
「へえ〜。行き方は覚えてるくせに、なんでこの大事な日は覚えてないのかねぇ〜、この子は。」
母は皮肉の笑みを浮かべながら彼に言った。
そんな母の様子を見て、彼は苦笑しながらお茶を飲みなおしていた。
そして、日曜日の朝…。
「ふあぁ〜…。お〜い、母さん、おは……!?」
雄哉は夜も明けない内に起きたせいか、とても眠たそうな目で階段を降りてきた。そして欠伸をしながら彼は母に朝の挨拶をしようとした…が、階段を降りた先にあった大きな物が二つあったを見て彼は言葉を飲み、眠気もすっかり覚めてしまった。
「…おい、母さん…。」
「何?」
雄哉は戦慄の眼差しで母親を見た。一方、母の方は全ての用意を済ませ、お茶を飲んで一息ついていた。
「『何?』じゃない!何なんだ、この物体共は!?」
雄哉は「この物体共」をビシッと指を刺した。
その物体共とは、まるで一週間は泊まれるかというような大荷物が入った二個のボストンバックだった。
「一体何を持って行かせようとしているんだ!これからはあっちで暮らして行けというのか!?」
雄哉はまだ夜明け前ということも忘れて叫びつづけた。
すると、母がすらっと冷たい目で見た。そして、
「うるさいわねぇ…。近所迷惑じゃない…。そんなに中身が気になるのなら、調べてみればいいじゃない…。」
母は氷点下を越えるほどの冷たく低い声で喋った。
「…う!わ、分かった…。」
あんなとてつもなく寒気がするような目と声をされては、とても口出しする事はできない。雄哉は文句を言うのをやめ、バックの中身を調べた。その中に入っていたのは、片方は大量の干しアワビ、もう片方は色んなお菓子がぎっしりと入っていた。
「なんだよ、これ?アワビにお菓子?」
雄哉はアワビとお菓子を交互に見ながら母に尋ねた。
「それは干しアワビの方はおじいちゃんのお供え物。もう片方のお菓子はおばあちゃんへの贈り物よ。」
母は続ける。
「おじいちゃんは干しアワビがすごく好きで、よく買って自分で料理して食べていたのよ。だから毎年の墓参りの時には必ずいっぱい買って供えるのよ。」
「ふうん…。じゃあこのお菓子は?」
雄哉は干しアワビに向けていた目をお菓子に目線を換え、再度母に尋ねた。
「さっきも言っていた通りそのお菓子はおばあちゃんへの贈り物。ほら、うちの親戚は子供がとっても多いから、子供たちが実家に遊びに来た時、どうしてもお菓子が足りなくなるのよ。だから一緒にお菓子も持っていくの。いわば仕送りみたいなものよ。」
母は言い終わるとお茶をまた飲んだ。
「…どれぐらいいるんだよ、うちの親戚の子供って…!まあ、いいか…。」
雄哉はふと頭に浮かんだ疑問を無理やり振り払うと、彼の私物が入った小さいナップサックを背負い、そして、二個のボストンバックを持つと、玄関のドアをあけて外に出た。
外の方は朝日が上がり始めているものの、まだ明るいとは言えないし、人もあまりいない。いや、犬の散歩に出ている人が数人いるだけだ。
「…んじゃ、行ってくる。」
「ええ、私の分も参ってきなさい。」
雄哉は母とそれだけのやり取りを交わすと、彼は歩き出した。と、彼は歩き出した足を止め、そして玄関を見た。
そこには潤んだ目で雄哉を見つめ、そして手を振る母の姿があった。
「……フウ。」
雄哉はため息をついた。
(そんな目で見るくらいなら、違う日に参りに行けば良いのに…。)
と、内心で思った。確かにその通りではあるが、彼女にとってはそんな理屈で通すことなど出来ない。
それがわかっているから、彼も内心だけで留めたのだ。
「……じゃあな。」
雄哉は母に手を振り返すと、再び歩き始めた。
母の田舎は電車に乗って数時間。そして徒歩で数十分。
雄哉はおぼろげな記憶、あと地図を頼りに歩いてきた。
そしてやっと祖父の家の近くまでたどり着いた。
それが、今の彼の状態と言うわけだ。
「……へっくしゅん!。」
雄哉はくしゃみによって、現実に戻ってしまった。
「…ふ〜、さむ〜…そうだったな、とっとと行かなきゃな、母さんやじいちゃんのためにも。」
雄哉は思考回路を完全に回復させ、そして全てを思い出すと、彼はまた歩き出した。
そして数分後…。
「ここか…じいちゃんの家は。」
雄哉はやっとの思いで祖父の家へたどり着いた。
「…よし。」
ガララ…
雄哉は一息つくと、玄関のドアを開けた。
と、同時に。
「あら、いらっしゃい、雄哉ちゃん。話はあなたのお母さんから聞いているわ。」
彼の祖母が玄関にやってきて、雄哉に挨拶をした。
「…あ、ああ…。よろしく…、おばあちゃん…。」
雄哉は少し戸惑いながらも、挨拶を返した。
「さ、あがって。」
祖母は彼を部屋に促した。
彼もまたそれに従った。
彼が入っていった部屋は、仏壇がある和風の部屋だった。
まずは仏壇に参るために正座座りで参った。そして数秒間お参りをしてから立ちあがり隣の部屋に向かった。
隣の部屋は昔ながら…とまでは行かないが、少し古びたちゃぶ台、それから恐らく布団が入った押入れ、たんす、日本人形、そしてテレビが一台ある居間となっていた。
「長旅疲れたでしょう。さ、座って。」
祖母は、雄哉をそのちゃぶ台に促した。
「ああ…。ありがとう。」
雄哉は、祖母に軽くお礼を言うと、そのちゃぶ台のそばに座った。
祖母もちゃぶ台のそばに座ると、その台の上にあった飲みかけのお茶を飲み出した。
雄哉も台に乗せられた入れ立てのお茶を飲み出した。
「あ、そうそう。ほれ、お土産。」
雄哉はおもむろに二個の大きいボストンバックを取り出した。
それは母が雄哉に持って行かせた干しアワビとお菓子が大量に入ったボストンバックだった。
雄哉はそれを祖母に見せると、祖母は中身を確かめ、そして嬉しそうにそのバックを自分の方に寄せた。
「まあ、ありがとう。これでおじいちゃんも大喜びね。」
祖母は嬉しそうに語っていた。
雄哉はそんな祖母を見て顔が綻んだ。
「さて、と。」
力強い声と共に雄哉は立ち上がり、花と線香と数珠とロウソクの入ったカバンを持つと、彼は祖母と共に外に出た。
「じいちゃんの墓参りでも行くかな。」
彼らは祖父の墓に歩き始めた。
祖父の墓は雄哉の家から祖父の家までの行き先と違ってそんなにも時間はかからない。
彼らは歩いている最中に祖父のことについて話し合っていた。
「おじいちゃんはねえ、それはそれはとてもたくましい人でねぇ…。第二次世界大戦の時にも最前線に立って活躍した人さ。」
「ふうん…。」
雄哉は祖母の話を相槌を打ちながら聞いていた。否、聞いている振りをしていた。
祖父の話は母から子供の頃から毎日のように聞いていた。その為にその素晴らしい話も彼にとっては退屈の何物でもない話だったのだ。
その為、最近ではよく母に「人の話を聞きなさい!」とよく怒られていたので、彼はもううんざりだった。
だが彼は、こんなに嬉しそうに語る祖母にいやな顔をせずに聞いていた。
あくまで聞いていた振りだが、やはり祖母には穏やかな顔の方が良いという彼の心遣いであった。
そして、彼らは話しているうちに祖父の墓にたどり着いた。
その墓はまだ新しいように見えるが、よく見るとその墓石には水が滴った跡が幾つもある。恐らく雨水や上からお酒や水をかけた跡なのだろう。
「さて…。」
雄哉はとりあえず花を墓の前の花瓶に立てた。
その次に祖母がロウソクに火をつけ、そしてろうそく立てにロウソクを置いた。
最後に雄哉が線香を先程つけたロウソクで火をつけ、そして線香立てに置いた。
「さ、お参りしましょ。」
「ああ。」
祖母が数珠を腕に巻く。雄哉もそれに習う。
そして彼らは手を合わせて墓に参った。
――黙祷。
彼らは暫く墓の前で参るポーズのまま時間だけが過ぎて行った。
傍に聞こえるのは、車の音や木が風になびく音、そして鳥の声だけだ。
暫くして彼らは参るのをやめると、彼らはふうとため息をついた。
「…それじゃ、帰ろうかね、雄哉ちゃん。」
祖母はそう雄哉に言い、そして墓に「じゃあ、また来るからね」と言い、そして歩き出した。すると雄哉もそうだなと言い、その場を後にした。
「…また来年な。」
そう言い残して。
それから暫くして。
暫くゆっくりしていた雄哉だが、そろそろ帰る時間となってきた。
休息の時間も終わり明日からはまた学校がある雄哉にとっては少し気が滅入る事ではあるが、無断で学校をサボるわけにも行かない。
雄哉は帰り支度をすると、祖母から一枚の手紙を渡された。
「…?なんだ、これ?」
雄哉はその手紙をじーっと見ていた。
「それはねぇ、あなたに宛てたおじいちゃんからの手紙だよ…。」
祖母は答える。
「じ、じいちゃんが俺に…?」
雄哉は一瞬戸惑った。まさか祖父が自分宛てに手紙を宛てているとは思いもしなかったのだろう。
「そうさ。おじいちゃんが雄哉ちゃんが大きくなったら渡せ…って。中身は電車の中で見ると良いよ。」
祖母はそう言った。雄哉はコクッと頷くとその手紙をナップサックの中に入れた。
「…じゃあ、今度は母さんと一緒に来るよ。」
雄哉は歩きながら祖母に手を振ると、祖母も手を振り返していた。
やがて雄哉は手を振るのを止めると、今度は前を向き歩き出した。
ふと、彼は後ろを向くと、そこにはあの時の母と同じ目をし、そして同じように手を振っていた祖母の姿があった。
「…やっぱり、親子だよ、あんた達は…。」
雄哉はそう呟くと、その場を後にした。
それから、電車の中。
雄哉は先程祖母から渡された手紙を見ていた。それから暫くして、雄哉は苦笑して言った。
「あのじじい…。余計なお世話だっての…。」
そう呟いてその手紙を丁寧に折りたため、そしてバックの中に入れた。
雄哉の乗った電車は、順調にスピードを上げて走っていった。
「雄哉へ
元気にやっているか。
お前に最後に会ったのは大分小さい頃だったな。
あの頃のお前はいつも泣き虫で、よくお前の母に縋り付いていたな。
お前のその姿を見るたびに将来は大丈夫かと心配になっていたんだ。
雄哉、お前は絶対に真っ直ぐに生きろ。誇り高い者になれ。
そして天国で俺が自慢できる孫になってくれ。
頑張ってな。じゃあ、元気で。
お前の祖父より。」
〜後書き〜
どうも、タコチューです。
さて、3周年企画小説のタコチュー流「1+1=」、いかがでしたでしょうか?
いやー、本当に完成するとは…。時間ギリギリだったので間に合わないかと思いましたよ…。
でも、こうやって間に合ってよかったです。
さて、この小説について。
この小説のテーマは見ての通り「里帰り」です。
実は、このテーマはこの小説の序文を見た瞬間に「修学旅行でも無ければ家庭崩壊でも無い…だったら里帰りしかないでしょう!」という、光の速さの如く決定されたものだったのです(笑)。
ただ、私がこの間里帰りに行った、というのもありましたけどね。
でも、そこからが大変だった。
「う〜ん…。これはどう言う風に書けば良いのかなあ?」
「ああ、この表現も良いなあ。でもこっちの方も良いよなあ…。」
「え…と、この漢字で良かったかなぁ…。」
とか色々色々考えている内に、いつのまにか年末まで来てしまっていました(爆)。
いや〜…。今思えば本当に前々から考えておくべきだったとちょっと後悔しました…。
でも、書き終わって見返してみると本当に「良く書いた、自分」という感じでした。
私個人が気に入っているのは、最後の祖父の手紙の内容ですね。
あの部分は「親としてどういう風に言うのかな?」というのを考えて書いたものです。
「ちょっと、違うんじゃ…。」という人もいるかもしれませんが、そこも味ということで大目に見てくれると嬉しいです。
あと、この一族って良くお茶を飲むなあと私個人で思いましたね。
なぜか良くお茶を飲む場面が良くあるんですよね(笑)。
いや、確かに私もお茶は好きですけど、何でだろうねぇ…(笑)。
さて、長々と書かせていただきましたが、そろそろ締めさせて頂きます。
ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございました。
またお会いしましょう。
2004/12/29 タコチュー