『1+1=』

 

 

――今日は風が吹いていた。

 

吹き付ける…と表現できるほど強い風でもない。

だが、冬という季節柄、その冷たい風は肌に刺さるような錯覚さえも覚えさせる。

「さむ……っ」

少年、田口雄哉(たぐちゆうや)は冷風に身を強張らせ、思わず呟いた。

太陽が真上に昇る時間だというのに、一向に温かくなる様子は無い。

すぐにでも初雪が降りはじめそうな寒さだ。

彼が踏みしめる最近舗装されたばかりの無機質なアスファルトの鈍い光沢も、その寒さを一層際立たせているかのようだった。

「あーあ…今日はポカポカ陽気になるんじゃなかったのかよ…」

雄哉は一人ごちる。

昨日の夜に彼が見たテレビの天気予報によると、今日は初秋の気温になる筈だったのだが…実際はこの通りである。

今日の気温は初秋どころか真冬並みだ。

もっとも、吹き付ける風により体感温度がさらに下がっている

ため、真冬という感覚には多少の誤差があるかもしれないが。

天気予報を信じ、薄着をしてきた事を彼は今さらながら後悔していた。

 

ぶわっ

 

再び風が吹く。

散り落ちて、人や動物に踏みにじられ、原形を失いかけた紅葉が風に踊る。

曇天と、そこに舞う赤い紅葉の不格好な色彩のコントラスト。

空で一通りの舞を披露した紅葉は、風と共に地へと落ちた。

散り残った紅葉が風に吹かれて雄哉の頬に張り付く。

だが、彼は頬に張り付いたままの紅葉を取り去ろうとはしない。

否、出来なかった。

彼の両手にはそれぞれ大きなボストンバッグ。

ついでに背中には小さなナップザック。

つまり、彼の両手は完全に塞がっている状態なのだ。

周囲の人間に修学旅行か家出少年と見られてもおかしくは無いだろう。

もちろん修学旅行などではないし、家出をしなければならない程に家庭が荒れているわけでもない。

「俺は…何をやってるんだろうな…」

雄哉は自分の両手を見て呟く。

寒さのためか、思考回路が上手く働かない。

何かがあったはずだ。

そうでなければ、このような馬鹿げた荷物を持って町内を徘徊する事も無いだろう。

俺は………何を……

 

「…………あ」

 

ふと、雄哉は顔を上げる。

(そうだ…俺は……)

 

雄哉の銘記された記憶が脳裏をよぎる―――

 

―――鉄と脂と硝煙が交じり合った大気

 

―――瓦礫と灰粉が砂塵となって舞う大地を照らす夜明けの光

 

(―――あ)

隅に追いやられていた何かを思い出し、急ぐようにして上着のポケットに手を入れる。

そしてポケットの中から探り出した物を凝視する。

 

ポケットに入っていた一枚の紙片………

その名刺の表にはある人物の名が刻銘に記されていた。

 

『坂下天人』

 

名刺の内容を見ていた雄哉の表情に苦笑が零れる。

 

偏屈で変わり者で不可解な言動を取る青年。

とぼけた表情をしながら芯の強い信念を持ち、その実は惹かれるものを兼ね揃えた青年。

 

「どうしてるんだろうな。あの人……」

空を仰ぐ。

その顔は懐かしいものを見るように澄み切った表情であった―――

 

田口雄哉という少年の心に刻み込まれた1つの記憶………

それは本来起こることが無かった筈の物語である―――

 

*

 

Case1 『Escapes from himself』

 

「はぁ、はぁ……」

舗装し直されていない無機質なアスファルトがかつ、かつと素早い感覚で鳴り響き、その所々には年季が感じられるほど罅が入っていた。

 

夜の帳が落ち、空に浮かぶ春の月と星々は曇天によって覆い隠され、辺りを更なる漆黒の世界へと誘う。

 

―――何故こんなことになったのか?

今、そのような思いが少年―――田口雄哉の心を占め、反芻する。

 

漆黒の世界は、1人の少年の心を不安と困惑という感情で押しつぶそうとしていた―――

 

突然、街灯も点かない夜になろうとした時間帯。

住宅街の暗がりの中で数十人にも及ぶ人数に遭遇した。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ―――」

 

罵声と奇声を上げる男達を背に、視える道に向かって必死で走り回った。

迫りくる悪意は少年の本能に休息を与えるといった行為を回避させた。

 

夜という闇色のベールが見るもの全てを不安に陥れるものというのなら………

朝という透き通るような青色は、全てのものを包み込む温かさに満ち溢れているものなのかもしれない………

「はぁ、はぁ…くそっ!」

そんな青色から受ける包容力とは無縁の夜空の下で、ただ直走るいくつかの人影があった―――

 

「待てや、こらぁ! 逃がしゃしねーぞ、てめぇ!!」

 

複数の人影が一人の少年を追いかけている状況下、錆付いたガードレールが辛うじてその白さを引き立たせるぐらいの街灯の光が歩道を照らしていた。

 

もうじき深夜になろうとしている時間帯のトンネルに差し掛かり、そのままあるだけの力を全力で振り絞り、中に入る。

 

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ…!」

絶望と焦燥感に負けじと雄哉はトンネルを抜け、街灯が照らす路地の曲がり角に差し掛かろうとした。

その時後ろから飛来してきた棒状のものが、雄哉の足首に直撃する。

「うわっ!」

ガラン、と音を立てて木の棒―――木刀が地面を転がっていく………

それが原因でバランスを崩し、前のめりに転倒していった。

 

「くそっ……!」

慌てて身を起こし走り出そうとするも、

「よっしゃ! 捕まえたぜ!」

「オラァ! 逃げんじゃねーぞ!」

街灯が徐々に人影たちの正体を照らし上げる………

 

―――人影の数は4つ。

全員が決して品行が良いとは言えない、だぶだぶのジーンズと素肌を晒すような薄着。

身長は高いほうだが痩せ型で、数で襲い掛かるといった非行少年の典型的なタイプ。

男達の外見はまだ若く、成人前の少年といったほうがいいのかもしれないが………

 

ガラの悪い少年達が、倒れこんだ学生服の中学生くらいの少年を掴み上げ、口々に罵る。

「おい、てめぇ…ブツは何処に隠した?」

ドスの効いた声で少年の耳元で尋問する。

「………………」

漂ってくるヤニ臭い口臭に顔を顰めながら雄哉は答えようとはしない。

ただ、目の前のスキンヘッドの少年を睨み付けるだけで口を開こうとはしなかった。

「何とか言えや、おらぁ!」

「ぐっ!?」

スキンヘッドの少年は手加減の色を見せずに、雄哉の顔を殴りつける。

大柄な体格を生かした攻撃の威力。

衝撃のあまり後方へ吹き飛ばされるが、

タイミング悪く、雄哉は落書きだらけのアスファルトの壁の曲がり角から出てきた人影と衝突する。

「うおっ!?」

「がっ!」

後方から声とともに、何かが散乱したような音が耳に入った気がしたが、

今、雄哉に気にする余裕は無かった。

 

例え足元で何か潰したような感覚がしても………

 

少年達はそんな雄哉の様子に構わず、つかつかと歩み寄る。

「あんまり手間掛けさすなよ。アレが一般人に渡ったとなっちゃあ、俺等の立場も危ういんでね」

スキンヘッドの後ろに居る茶髪の耳ピアスの少年が冷笑を浮かべていた。

さらに残りの取り巻きも、ニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべている。

 

「げほっ」

倒れていたところに胸倉を掴まれ、無理矢理起き上がらされた雄哉は軽く咳き込んでしまう。

「だからさっさと吐けや! アレがどこにあるのかをよぉ!」

「……知らない」

「あぁ!?」

「知らないって言ってんだろうが!」

 

明確なる否定に激昂したのか、少年は顔をさらに紅潮させ憤怒の表情を浮かべた。

「げ、ぐぅっ!」

顔面だけでなく腹部も蹴られ、いつの間にか他の連中からの袋叩きにあった。

「オラァ! さっさと隠し場所を言わねぇと、身体中がバキバキに―――」

ニット帽を被った少年がそこまで言ったとき、頬に凄まじい衝撃が走り、身体が飛ばされていた―――

「あ?」

壁に衝突した少年を見た、長髪の少年は目を吊り上げ疑問の声を上げた。

 

「おい、クソガキども…」

雄哉は地面に倒されながら、飛ばされてきた方角へ視線を向けると、そこには全身黒ずくめの、赤髪の青年が足を振り上げていた。

「なんだてめ―――」

「こんな深夜に、こんな所で、ギャーギャー、ギャーギャーやかましいんだよ。発情期かコラ」

長髪の少年の言葉を遮ると、赤髪の青年は眼前に茶色いビニール袋を掲げる。

「見ろ。てめェらがこんな所で暴れてっから、パチンコの景品がばらばらになっちまったじゃねーか」

袋を後ろへ放り投げる。

青年の後方にある地面、薄暗く街灯が照らすアスファルトの上には、色々な品物が散乱していた。

 

突然現れ、惚けた表情で独演を開始した目の前の赤髪の青年を、少年達は訝しげな視線を向けていたが。

「何言ってんだ、てめぇ」

「拾え」

「あ?」

あっけらかんとした物言いに、呆気に取られる長髪の少年。

その表情を見た赤髪の青年は、何故か呆れたように溜息を吐くと、

「そんじゃ、もう一度言ってやんよ。

てめェらに景品を散らかした責任を取って、落ちてる物(もん)を全部拾いやがれ。

って言ってんだ、コノヤロー」

感情の篭っていない表情と、乱暴な口調で少年達に告げた。

「はぁあ!?」

この宣告に今度は少年たち全員が、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

―――何だ、こいつ!?

今度はいきなり命令してくるという、青年の突拍子の無い言動について行けず、少年達の思考は一瞬停止してしまった。

 

だが、しばらくすると、少年達は互いに顔を見合わせると、

「……く、へへ―――」

何か思いついたように、クスクスと嘲笑する。

「―――へっへっへ、なあ、オッサン。てめー頭おかしんじゃねーのか?」

茶髪の少年が、自分の頭を指で叩く。

「いきなり何を言い出すかと思えば……」

長髪の少年がニヤニヤと笑いながら、青年に近づき、全身を舐めるように見回す。

思ったより背が高かったのか、瞳だけは笑っていない表情で青年を見上げた。

「俺たちゃボランティアクラブの一員でもねぇんだよ。怪我したくなきゃさっさと―――」

消えろ―――その言葉は中断せざるを得なくなった。

「むごっ!!」

「ああ!?」

驚愕する取り巻き。

ガシッと片手で両頬を掴まれ、長髪の少年は上手く喋ることが

出来ない。

「今この口がそう言ったの?悪い子だね〜」

「にゃ、にゃにしゅんだへめぇ! ひゃひゃなせ―――」

「ちょっとお仕置きしなくちゃ……ね!」

ぶっ!と言葉にならない声を上げて、長髪の少年は平手打ちをされた。

「な―――」

「てめぇ―――!」

その行動に一瞬色を失った少年達は、怒りの表情を浮かべる。

「野郎!」

金属類を取り出すような音とともに、手にはナイフやメリケンサックなどの凶器が握られる。

もはや軽薄な様子は形を潜め、長髪を含めた少年達は、一斉に青年へと襲い掛かった。

「ったく…、最近のガキどもは礼儀を知らねェっつーか―――」

翻る漆黒のスーツ。

ある2人の少年の視界は黒に染まった―――

「わぶっ」

「うわっ!」

それが青年のブレザーであることに気付いたときは、脳天に衝撃が走った時だった―――

 

*

 

地面の上で尻餅を付いていた雄哉は、崩れ落ちる長髪の少年と茶髪の少年を呆然と眺めていた―――

 

「パチンコなんぞやる暇があるのならば、さっさと借金を返済するほうが効率的だろうがな……」

その時、横から聴こえたメゾ・ソプラノの呟きによって、はっとなり、注意が逸れた。

 

声の方向へ振り向くと、視線の先には、雄哉より少し年上に観える、青色のジーンズにカーキ色のジャケットを羽織った少女が、地面に散乱している品物を拾っていた。

 

(な、何だ? 何時から居たんだよ?)

いつの間にか近くに居たことに、狼狽の色を出す雄哉であったが。

「ん?」

不意に少女が顔を上げる。

視線の先には、スキンヘッドの少年が口から血を流し、崩れ落ちていた。

 

目を逸らしたほんの一瞬の出来事であった―――

「ああ!」

いつの間に―――という言葉が出掛かり、雄哉は驚愕の叫びを上げる。

「ちっ。いきがってるワリには、随分と手ごたえが無ェもんだなぁ、オイ」

赤髪の青年は舌打ちをすると、手にしていた木刀を投げ捨てる。

黒いローファーと木刀の先端には、血が付着していた。

「オイ、天人。 景品は全部拾い終わったぞ」

「おお、サンキュ」

赤髪の青年は、男達への暴行を止めて、自分の元へ近づいてくる少女の方へと向き直る。

「鈴菜、景品は全部無事か?」

「先程の状況下ではな。『旨い棒・シークヮーサー味』を始めとした菓子類が全滅に近い」

「マジかよ! 残りの玉、全部お菓子に変えたってーのによォ!」

「運が悪いとしか言えんな。 まあ、パチンコが大当たりしただけでも運が良かったではないか」

それでも青年は諦めきれないのか、無言でかぶりを振る。

「パチンコは出ても、お菓子はめちゃくちゃってか……運が良いのか悪いのか判んねェな…」

青年は複雑な感情が混じった呟きを漏らすと、目を細めて天を仰いだ。

 

 

まだ寝そべっていたせいなのか。

呆然とする雄哉を尻目に、2人はまるで、そこに誰も居ないかのように会話を続けていた。

「せっかくの大当たりの日に飛んだ災難だったな。こいつらが目を覚まさねぇうちにとっとと帰ろうぜ」

「そうだな」

そのまま背を向け帰ろうとする2人。

「あっ」

その2人を見た雄哉は、思わず立ち上がる。

 

―――何故その時声が出てしまったのかは分からない………

だが、その瞬間こそ、運命と呼べる決定打となってしまった―――

 

声が聞こえたのか、2人は立ち止まると、不意に視線が雄哉の方へと向く。

「ん?」

「あっ!?」

同時に声を漏らしてしまったが、2人、特に青年はそこで雄哉の顔をまじまじと見つめていた。

(な、何だ?)

その視線に異様な雰囲気を感じ取った雄哉は、思わず心の中で身構えるが。

「ああ!」

急に叫んだかと思うと、青年は雄哉に向かって人指し指を指す。

「何だ、こんな所に居たっていうのかよォ!」

「へ?」

思わず間の抜けた声を上げる。

雄哉の心境を無視するかのように、青年は笑顔で近づいてきた。

「な、何だよ…」

「天人、どうしたというのだ?」

「こいつだ、ホラ、依頼のあった―――」

その時、辺りに複数の爆音が響き渡る。

「あん?」

「!!」

地響きのような爆音に、思わず地面がびりびりと揺れる感覚をもたらす。

 

同時に、住宅街のある一帯から喚声が沸き起こる。

 

『居たぜ! 田口だ!』

『見つけたぞコラァ!!』

 

「あっ!」

喚声とともにやって来るのは一定しない複数の足音。

トンネル方向に目をやると、複数の人影が自分たちの居る方向へと走ってきているのが判る。

「田口だ、って……お前追われてたのか?」

視線を向けられるも、雄哉は答える事が出来ないほど、驚愕と不安の眼差しをトンネルに向けていた。

周りの見渡していた少女は荷物を持ち直し、他の2人を促す。

「こんな所で立ち止まってる場合ではなさそうだな。さっさとこの場から離脱せんと」

「つったって―――」

その時反対方向から数人の人影と共に、バイクと黒塗りの車が曲がってきた。

人影とバイクに乗っている正体が街灯に照らされた瞬間、退路が無くなってしまったと雄哉は感じてしまった。

「わちゃあ…囲まれちまったみてェだな」

「暢気に言っとる場合か!」

2人の押問答を聞き流しながら、雄哉達は人海によって囲まれる運命を目の前にしていた。

 

数十人に囲まれているという状況下―――

「オイオイ、皆で仲良く宝探しか? 随分とむさ苦しいメンバーだな、オイ」

嘲笑が反響している状況下で、赤髪の青年は口の端を上げながら、減らず口を叩く。

人影の正体は、少年達だけでなく、そのほとんどがチンピラ風の中年の男であった。

「そんで、宝はオレたちってか?」

「―――あながち間違いではないな」

耳につくような低い声帯。

雄哉達の前方に止まっていた一台のベンツから、1人の中年男が降りてきた。

 

「ふん、イレギュラーが混ざっていたのか。まあ、どうでもいい…」

雄哉達の元へ近づいてきたのは。

上下共に高級感のある白い縦縞の黒スーツと、赤いYシャツに銀のラメが入ったネクタイを締め、髪をオールバックにした40代前半の線の細い男。

細身ではあるが長身で、首元には金額の判らないネックレスを付けており、その僅かな部分から刺青のようなものが見える。

やや垂れ気味ながらも細い目と、肉の薄い唇が異様な不気味さを醸し出していた………

 

「おうおう、たれ目の中年ホストが宝探しのガイドかよ。副業たぁ、よほど儲かってねェんだな」

「ちょ、ちょっと!」

しかし、明らかにヤクザとしか思えない男を目の前にして、赤髪の青年の口調は変わらなかった。

「ふん、面白いことをぬかす小僧だ」

青年の言葉を気にするそぶりも無く、ふん、と笑いながら鼻を鳴らす男。

不意に視線を背けると、目線は隣に居る少年に移される。

「田口雄哉君、随分と探さしてもらったよ」

その感情を押し殺したような声に、身を竦める雄哉。

「さあ、おとなしく“アレ”を渡せ。そうすれば余計な苦痛を味あわなくて済む」

抑揚の無い言葉の裏に隠された、優しげな口調。

だが、さらにその裏には読み取れない真意が含まれていた。

「な、何のことだよ…俺はそんなもの知らない…」

伸ばされた手を拒絶するかのように、雄哉は首を振った。

ぴくっと男の眉が動く。

「いいか、もう一度訊こうF.H(エフ・エイチ)は何処にやった?」

「あん? F.Hだ?」

だが、反応を示したのは青年のほうであった。

少女は気付かれぬように小声で訊ねる。

「天人、F.Hとは何のことか知っておるのか?」

「いや、ただ耳にしたことがあるような―――」

「何、勝手に話してんだ、コラァ!!」

青年のマヌケた全く関連性の無い答えに、男は穏やかな口調を一変させ、乱暴な口調になる。

「いいか、調子に乗ってんじゃねぇぞ…これ以上惚けるってんなら…」

場の空気が一瞬にして凍りつく。

周りの者は凶器を握り締めなおし、男は懐から拳銃を抜く。

「ここで天国ツアー永遠の旅ご招待となるぜ―――」

「あっ、警察」

「「何ぃ!?」」

現在、この一帯でサイレンが聞こえる気配は無かった。

しかし、人間というのは、おおよそ不意の言動には弱いものである。

 

―――何人かの行動によって、刹那の速度でそれは起こった。

 

大抵の者が惑わされた時、雄哉を連れた青年と少女の3人は身を翻す。

同時にいち早く立ち直った、オールバックの男が拳銃のトリガーを引く。

その時、青年と少女は僅かに視線を合わせる。

少女の足が上がった瞬間、男の眼前を膨らんだ紙袋が接近した。

銃弾が紙袋に達する………

破裂音とともに白い粉状のものが、辺りを埋め尽くした―――

 

 

「ぶは! な、なんだこりゃあ!?」

「おい、このビニール、『小麦粉』って書いてあんぞ!」

何らかの粉が目や鼻に入り、視界が潰され、咳き込む。

パサッと紙袋が落ちたのと同時に、重い音が耳朶を打つ。

(缶だと!?)

正体を悟った瞬間、男の形相は凄惨なものに変化した。

「道を塞げ! まだあいつらは遠くまで行ってねぇ筈だ!」

鶴の一声で混乱は収束し、周りの者達の行動は迅速なものに変化した後、その場には誰も居なくなった―――

 

曇天に覆われた上弦の月。

一瞬姿を現したその姿は、運命へと導く、届くことの無い入り口のように見えた―――

 

*

 

Case2 『moonlight silver』

 

―――小包が届く、三日ほど前………

 

話題になっていた、近くの河川敷で頭部が無くなっていた死体が発見されたというニュースが、近所を緊迫させていたのを覚えている。

 

だが、その日から日常が狂い始めていたことを、その時の自分は予想すらしていなかった―――

 

「―――ようやく撒いたようだな」

歩道橋の上から下を見ていたセミロングの髪の少女が、安堵のため息を吐く。

「まあな。 ここは見つかりやすいかも知れねーけど、その分様子は伺いやすいだろ」

同じく両手で双眼鏡の形を作っていた青年が口の端を吊り上げる。

 

「………………」

その2人から離れた場所で、雄哉は何も喋らずに佇んでいた………

 

あの後、住宅街を逃げ惑っていた3人が行き着いた先は、住宅街と商店街を結ぶ駅近くの歩道橋の上であった―――

 

雄哉は2人を見ているうちにある疑問が浮かび上がった。

「なあ、あんたら…」

「ん? どうした?」

「何であの時、俺を知ってるような言い方したんだ?」

それは雄哉が一番疑問に思っていた事であった。

しかし、青年はああその事か、と呟くと、簡単な事だと言わんばかりに答えた。

「数日前、お前の両親から依頼を受けてな。家に帰ってこない息子を探してくれって」

「な―――」

答えは単純にして意外なものであった。

雄哉は信じられないというように目を見開いた。

「だってあの親なのに…。俺の事を心配するとは思え―――」

「本来なら警察に任せるようなことを、私ら『坂下興信所』に依頼したのだ。お前が警察沙汰に巻き込まれぬよう配慮したのかも知れん」

うそだ、という言葉が、一瞬浮かび上がるが、それよりも更なる疑問に捉われた。

「『坂下興信所』って…」

「ああ、そういえば、自己紹介がまだだったな」

そう言うと、2人は改めて雄哉に向き直る。

「オレは、坂下興信所所長、坂下天人(さかもと・あまんと)だ。田口家の依頼によりお前を探しに来た」

青年―――天人と名乗った青年は、軽く手を上げた。

「土方鈴菜(ひじかた・れいな)だ。まだ未成年だが、訳あってここの興信所で働いている」

少女―――鈴菜と名乗った、凛とした表情の少女は、背筋を伸ばしたまま自己紹介を行った。

あまりにも自然な自己紹介に、口を開けたまま呆然とする雄哉。

そんな雄哉に構わず、天人は続ける。

「依頼が来たその日からお前の捜索に当たってたんだが、やっとの思いで、今日見つけたってワケだ」

「お前はパチンコをやっていただけではないか」

「あ〜、知んねェ」

「お前という奴は…」

はぁ…と、呆れたようにため息を吐く鈴菜。

 

そのやり取りを観ていた雄哉は、緊張感が薄れ、手すりの下を見下ろした。

 

深夜になると商店街は静まり、下の道路には滅多に車は通らなくなっていた。

 

幅の広い二車線の道路を眺めながら、雄哉はこれからどうするかを考えていた。

成り行き上、この2人と一緒に逃げてきたが、何時までもこうしていられるとは思えない。

 

自分の今の格好を見ると、ここ数日、街を彷徨っていたせいか紺色の学生服は上下ともによれよれになっており、所々に泥などの汚れが目立っていた。

家にも帰っておらず、まともな湯浴みや寝床を確保しないまま生活が続けば当然であろう。

 

ふと横を向いたが、気にせずに確認を行う。

 

取り出しはしない、ただ指先で確かめるだけの単純な作業にして、高度な判別―――

 

さらさら状なものをビニールに包んだような感触が、雄哉の心をより一層憂鬱にさせる。

 

―――このまま警察に行ったらどうだろう?

咄嗟に出た考えに首を振る。

今まで何度、この考えに辿り着いたことか、もはや数えたくも無かった。

 

警察に言うことが出来ても、自分の評判を聞けば信じてもらえないか、逆に痛くも無い腹を探られることになるだろうということを、中学生である雄哉は漠然と感じ取っていた。

 

「しかし、解せんな…」

不意に聴こえた鈴菜の声に、雄哉の思考は中断させられた。

「ただの一般人である私らを、あの人数で追跡する理由などあるのだろうか?」

「ま、オレらだけだったら、ここまで追われることは無かったんだろうが……」

会話が止まる。

その雰囲気を訝しんだ雄哉が視線を向けると、天人と鈴菜が自分を見据えていることに気付いた。

「オイ。 お前あいつらに何かしたんじゃねェだろうな?」

「い、いや違うって!」

連中との関係を疑われ、慌てて首を振る雄哉。

だが、鈴菜の視線は相手を貫かんばかりの光を放っていた。

「走っていたあの時、連中は明らかにお前を狙っていたのは明白だったであろう」

「いや、だから…」

少女とは思えない鋭い口調に、思わず言葉が詰まってしまう。

「お前が何もしていなければ、あそこまで追い詰めようとする連中の意図が判らん。もしかしてお前は、元々はあの連中の仲間ではなかったのか?」

「ち、違うって!」

「何が違うというのだ」

「俺はあいつらとは何の関係も無いし、何もしてない!」

その視線に押されたせいか、つい声を荒げてしまった。

 

その瞬間、思わずハッとなる。

何故自分はムキになっているのか、何も知らないのならば軽く受け流すだけでよかったのに、何故?

 

その様子を伺っていた天人は、確信めいた笑みを浮かべた。

「そんな、ムキになるってこたぁ、心当たりはあるって感じだな」

うっ、と呻き声を上げる雄哉。

「そういや、トンズラしてる時思ってたんだが…」

天人は徐に煙草の箱を取り出し、煙草を銜える。

「あの連中、お前を見る度に焦っているような顔してたんだよな…」

煙草に火を点けたと思うと、一歩前へ踏み出す。

ゆっくりと近づいてくる天人の動作に気圧されたのか、雄哉はぴくりとも動けなかった。

「……お前、何か連中の弱みでも握ってんじゃねェのか?」

そしてそのまま雄哉の懐へ手を伸ばす。

「えっ!? なっ」

その自然なる動作と素早い動きに、一瞬呆気にとられた雄哉だが、狼狽しながら身構える。

「はい、いただきィ」

が、時既に遅し。

青年の手には白い粉の入ったビニールが掲げられていた。

「なっ、返せよ!」

「おぉっと」

雄哉は色を失い伸ばすが、天人に頭を抑えつけられ手が届かない。

じたばたと暴れる雄哉を尻目に、天人は無言で白い粉が密閉されたビニールを見つめていたが、やがて僅かながらに目を細めた。

「へぇ…」

銜えていた煙草が僅かに揺れる。

「天人、どうしたのだ?」

「…いや、こいつが追われていた理由が大体判った気がすんだ」

ビニールを隣に来ていた鈴菜に渡す。

鈴菜は疑問に捉われながら白い粉を見つめていたが、すぐに目を見開いた。

「もしや、これは…」

尋ねるように見上げると、天人は上を向いて煙を吐き出す。

「……麻薬っていうより、覚醒剤ってとこか」

「!?」

息を呑む声。

雄哉は図星を突かれたように、驚愕の表情を浮かべた。

「覚醒剤だと? 何故こんなものをお前のような少年が持ち歩いておるのだ?」

「別にどうでもだろ! いいから返せよ!」

解放された瞬間、雄哉は手を伸ばして少女に飛び掛る。

「うわっ!」

だが、避けられた拍子に足を引っ掛けられ、前のめりに転倒してしまう。

「くっ…そっ」

もどかしい気持ちに苛まれながら立ち上がろうとするが、怪我と疲れのせいか足がふらついていた。

「そんな状態でこれから先も逃げ続けるつもりか?」

ふんっ、と面白くなさそうに鼻を鳴らす。

雄哉は呼吸を荒げながらも、鈴菜を睨み付けるように視線を合わせる。

 

肩まで切り揃えられたサラサラとした黒髪、雄哉より少しは高いと思われる156cmぐらいの身長、小さな唇とつんと上向きの小さめの鼻、整えられた眉が大きくも円らな瞳を引立たせていた。

 

もしかすると美少女のカテゴリーに属するかもしれない、目の前の少女から肝心の魅力というものを見出せなかったのは、無頓着な服装と無愛想な表情、普通の少女とは思えない古風な口調が覆い隠しているように思えた。

 

少年の視線をものともせず、鈴菜は透き通るような高い声を呆れた口調で発した。

「大体こんなものを持ち続ける道理が何処にあるというのだ? 麻薬中毒者になるまで使用し続けるつもりなのか?」

「………………」

雄哉は視線を逸らさずに沈黙を続ける。

 

雄哉には解らないことがあった。

何故、得体の知れない初対面の相手から、ここまで尋問されなければならないのか。

自分だけの問題としていることを他人に話してしまうのは、プライベート全てを覗き込まれるという不快感が雄哉の心を侵蝕していた。

 

鈴菜は、ふうっ、とため息を吐くと、辟易した様に首を振った。

「………結局、貴様もあやつらと同じ、ならず者の類ということか…」

「っ!?」

その感慨を帯びた言葉は雄哉の心の耳朶を振るわせた。

 

後からやって来るのは、葛藤、憤怒、否定、後悔………

そして鈴菜から発せられた次の言葉が、雄哉の感情を爆発させた。

「自分だけ美味い汁を吸っていたくばこの日常を続ければ良い。 どうせまっとうな末路は残ってはおらんだろう―――」

 

「違う!」

全身全霊からの訴え。

俯きがちの状態からとは思えない叫びが、歩道橋全体に反響した。

 

緊迫した雰囲気が漂う―――

 

風の音と雄哉の荒い息が3人のいる空間のBGMとなっている。

誰も何も、口を開かない沈黙だけが過ぎていく。

「―――ここまで連れて来たオレらが言うのもなんだけどよ…」

ポトリと火の消えかかったフィルターが、コンクリートの上に落下する。

赤髪の青年は、地面に落ちたフィルターの火を足で揉み消す。

「オレらは巻き込まれた形になっちまったんだ。 これ以上悪化させねぇために理由を言うのも1つの打開策になると思うぜ…」

 

遠くからの走行音に顔を上げる。

天人は手すりに寄り掛かりながら、無表情で雄哉を見つめていた。

 

下の道路を走り抜ける車のライトが、天人の姿を一瞬照らし点ける。

 

雄哉の頭二つ分はありそうな背丈の20代半ばといった容姿。

一番上のボタンを開けたネクタイの無い白いワイシャツと、安物じみた黒スーツに身を固めただけの姿で終わっていれば、まだ良かったのかもしれなかった。

 

適度に伸びた天人の赤髪は地なのか、脱色した様子は見受けられない。

だが、整った顔立ちでありながら、引き締まった口元と、切れ長の眼から発せられる光が、見るものを威圧するような色彩を放っていた。

そのどんな道を歩んできたのか想像出来ないその姿は、とても普通の一般人のようには見えない。

 

しかし、その姿からは不思議と威圧するような雰囲気は感じられず、むしろ近づくものを惹き付けるような雰囲気を感じさせた。

 

少しの沈黙の間。

焦燥感と不安、そして猜疑心といった感情が溶かされていくように。

 

雄哉はぽつりぽつりと、今までの経緯を吐露していった―――

 

*

 

数日前、学校帰りに自分の下に、古ぼけた小型テレビほどの木箱が小包として届いた。

それまではいつも通りだった………

 

差出人の書いていない小包。

 

箱の中に入っていたものは、ビニールに入っている2、30グラムはありそうな青白い粉と一枚の手紙。

首を傾げた。

何故こんな訳の判らない物が入っているのか、まったく心当たりが無かった。

だが、手紙の内容を見た瞬間、雄哉の背筋を冷たいもので覆いつくしたような感覚が襲った………

 

手紙の主は悪戯なのか、よほど急いで書いたのかは判らなかったが、見覚えのある筆跡から、自分のたった一人の友人のものであることに気付いた。

 

内容のよく判らない文体から抜き出すことの出来た2つの単語。

1つはアルファベットで、 『F.H』 と書かれていた。

そしてもう1つは、目を凝らさねばよく判らず、しかしはっきりと書かれたその単語。

 

かくせいざい―――

 

目の前にある物が、非現実の世界へと誘うかのように………

 

―――あの時から何かが狂いだしていった

 

小包が届いた後日から何者かに監視されているような気がした。

外だけでなく、自分の部屋に居ても落ち着かない日々が続いた。

 

そして―――

 

 

―――部屋に何者かが忍び込んだ形跡があった

 

狙われている………

 

日々襲い来る不安に耐え切れず、2人暮しの姉に断りもせずに学生服のままアパートから飛び出し、帰らずに街を彷徨う生活は早数日になろうとしていた。

 

―――そして現在

 

*

 

「なるほどねェ…」

経緯を聞き終わった天人は、人指し指で二の腕を叩きながら、感慨じみた呟きを漏らす。

「つまりお前は、知らないうちに何かに巻き込まれたってワケだ」

目線を戻す。

俯いている少年の表情は判らない。

ただ、何となく不安そうな顔をしていると思った。

「警察に届けようと思ったことは無いのか?」

腕を組んで聞いていた鈴菜の問いに、雄哉は無言で首を振った。

「まあ、経緯が曖昧なままでは門前払いされるのは明白か…」

無言の意味を捉えたのか、鈴菜は納得したように頷いた。

「しかし覚醒剤を送りつけたと言う友人は、今どうしておるのであろうな…」

それは雄哉も疑問に思っていることではあるが、手紙の内容を思い出すと、得体の知れない不安が襲い掛かってきた。

 

―――今まで忘れていた感覚が呼び戻る。

逃げて回っていた時気付かなかったが、身体中に汗をかいていたことが分かった。

 

一陣の夜風が歩道橋を撫で上げる………

春とはいえ、深夜になれば、それなりに気温は下がる。

ましてや4月の曇天ともなれば、暖冬の気温に感じてもおかしくは無い。

 

突き刺すような寒さに、白い息を吐きながら、身を震わせる雄哉………

ふと前を見ると、街灯に照らされ、何かを考え込んでいるような2人が寒がっている様子はない。

何となく不公平さを感じた時、不意に天人がぽつりと口を開いた。

「虚偽の希望……」

「ん?」

聞き慣れぬ突然の言葉に、腕を組んでいた鈴菜は隣に視線を向けた。

Falsch-heit hoffnung(ファルシュハイト・ホフヌング)。直訳すると、虚偽の希望ってことなんだけどよ、これが何の言葉だか分かるか?」

「ドイツ語に聴こえるが、それが何だと…待て、それは確かあの男の言っていた―――」

男が雄哉に問い尋ねた、『F.H』という単語を思い出し、鈴菜はハッとなった。

 

鈴菜の問いに便乗するように、雄哉は戸惑ったような視線を天人に向けた。

天人は言い辛そうに顔を顰める。

「実はこれ、その道では名の知れた、覚醒剤(やく)の名称なんだよ」

「何!?」

「はぁ!?」

驚愕する2つの声。

天人は、鈴菜の持っているビニールに視線を向けた。

「まさか、これが…」

「ああ…」

鈴菜の呟きへの肯定の頷き。

「とてもじゃねェが、そこら辺のチンピラや暴走族(ぞく)、チーマーが入手出来る代物じゃねぇ……何かでけぇ組織(バック)があるとみて間違いねえだろうな…。まあ、あの垂れ目野郎を見りゃあ一目瞭然だろうが」

「………………」

雄哉は何も言えず呆然としていた。

 

―――今まで自分を追っていたのは、ただの不良グループだと思っていた………

しかし、あのオールバックの男の風貌を思い出すと、奥底から冷酷な何かが這い上がってくる………

単純には済みそうも無いこの状況に、不安や恐怖を通り越して、ただ呆然とするばかりであった。

 

鈴菜はしばし無言で顎に手を当てていたが、突然、ハッ、と顔を上げた。

「ちょっと待て。それではこやつを追ってきた原因というのは―――」

「隠蔽だろうな…。どんな組織かは知らねェが、まともじゃねェことぐらい判る。裏とはいえ、一般にこのヤクが回っちまえば警察(サツ)に足が付いちまうし。そうなる前に存在を知っちまった奴は―――」

「止めろ!!」

拒絶するような絶叫。

「止めろ……止めてくれ…」

雄哉は苦しげに顔を歪めながら、首を振った。

適度に伸びた前髪が目に掛かる。

 

その続きは聞きたくなかった………

友人がどうなってしまったのか、もう考えたくは無かった。

これから自分はどうなってしまうのか………

絶望という名の灰色の感情が、雄哉の心を覆い尽くしていた。

 

両手と膝を付き、項垂れながら身を震わす雄哉。

すすり泣く様な嗚咽が、辺りに反響する。

 

そんな雄哉を無表情に見つめる4つの瞳。

だが、そんな雰囲気を断ち切るかのように、低く良く通る声が発せられた。

「―――いつまでも泣いてる場合じゃねェぞ」

嗚咽を止め、ゆっくりと顔を上げる。

絶望と不安に押しつぶされたような表情。

その瞳は戸惑いと困惑に揺れていた………

「それでお前はこれからどうしてェんだ? このまま逃げ続ける日常を延々と続けるのか?」

そっぽを向いて、ぼりぼりと頭を掻く天人。

 

「それともこのまま帰って、いつも通りの生活に戻るほうがいいか? もしそれがいいなら家まで送ってやるよ」

言いながら雄哉に手を伸ばす。

その手を見た瞬間、雄哉の脳裏を何かが過ぎった―――

 

―――口数が少なくいつも無愛想で内向的な自分に出来た、初めて友と言える存在。

その生徒は決して優等生ではなく、むしろ素行が悪く、学校から敬遠されていた存在であった。

その少年の周りにいるものは1人も居なく、ただ1人で居るだけであった。

 

ある日何らかのきっかけで話をするようになった時、こいつは悪い奴ではないことに気付いた。

 

たった2人だが、学校で普通に会話が出来たあの頃が一番楽しかった。

 

―――だから

 

「―――イヤだ」

手を払いのける。

―――確かにあの少年は怖かったが、嫌いというわけではなかった。

「まだ帰らない、帰りたくない」

ゆっくりと立ち上がる。

―――それでも、誰とも話すような友達が居なかった自分にとって。

「友達に何かあったのかも知れないのに、そのまま放っておくことなんか出来ない」

正面を見据える。

―――子供の頃から、友達を作ることが下手だった自分にとって。

「あいつは、俺の親友なんだ!」

歩道橋から商店街まで響き渡る、魂の叫び。

―――あの少年は、今までの人生で初めて出来た親友であった………

 

辺りを照らす街灯がジジッと音を鳴らす。

 

いつしか夜空は雲が無くなり、満月が穏やかに姿を現していた―――

 

2人は一瞬呆気に取られたように雄哉を見ていたが、すぐに気を取り直す。

「1つ訊きてェ…」

先に口を開いたのは天人であった。

「お前にとってそいつは本当の親友なのか?」

こくんと、しかしはっきりと頷く。

「お前にとって、かけがえの無い人間なのか?」

再び、今度は自信を持って頷く。

「そっか…」

しばらく雄哉の真剣な瞳を見ていた天人であったが、不意に横を向くと視線を遠くに移す。

「だったら、こんな所で油売ってる場合じゃねェな…やることは目の前に転がってんだろ…」

それは誰に対した言葉か………

「いかに自分が無力な存在でも、結局自分の出来る範囲でやるしかねぇってことだ。ウダウダ思い出を引きずるより、行動に移さねぇと事態は進展ねぇ…」

深みを帯びて紡いだ、その言葉は………

「でねぇと、また大切な何かを取り溢しちまうからな…」

緩やかな夜風に乗って、何処へ行くことも無く、辺りへと響き渡っていった―――

 

「…探しに行くか…己が信じるものを」

ぽんっ、と雄哉の肩に手が置かれた。

横を向く。

そこには自分の知る限り、鈴菜が初めて微笑んでいるような気がした。

 

雄哉はぼうっと、その微笑を見つめていたが、やがて。

 

こくり―――

 

と、決心したように頷いた。

 

 

上には雲が流れた満天の星空と上弦の月―――

 

その澄んだ煌きは、一歩前へと踏み出そうとする少年を、祝福するかのように瞬いていた―――

 

*

 

Case3『Secret in the war』

 

夜空、土地、道路、建物、乗物、自然、そして人間―――

 

全てを揺るがすような地鳴りが商店街を襲った。

 

あの後、歩道橋の階段を下っていた3人を待ち受けていたのは、不意打ち気味の奇襲であった。

「なっ、あれって―――」

「天人! 近くのビルの下から、多人数出てきたぞ!」

 

道路を挟んで駅の向かい側の小さなビルからの集団と、車道の両方向からのバイクや車が、敵と思われる人数を如実に表していた。

 

「くっそ、まさかあれだけの人数を潜ませてたァ、計算外だったぜ!」

自動車などがこの場に辿り着くまで、若干のタイムラグが発生するはずであるが、ビルから出てきた人数から逃れるのは、すぐに囲まれる危険性を孕んでいるため、それは至難の業であった。

 

「せっかく逃亡者を止めて、男になろうとしてるガキがいるっていうのによォ!これじゃあトレジャーハンターなんか、やる暇ねェじゃねえか!」

「そんなことを言っている場合では無かろう! このままでは囲まれるぞ!」

歩道橋の階段の中心で立ち往生する3人。

 

この場から逃げる道は、ただ一つ―――

もう一度階段を上り、駅側まで走り抜くこと以外、方法は無かった………

 

「仕方ねェ。向こうまで一気に突っ走るしか無えのか……」

 

「このまま手をこまねいているよりも、少しでも安全な所へ行くべきだ! 行動するのは私達だけでは無いのだぞ!」

鈴菜の言葉に、雄哉は、はっとなる。

 

―――まさか、俺、足手まといになってるのか?

 

確かに自分で提案したこととはいえ、この2人を巻き込んでしまったのは自分が原因でもある。

さらにその考えに驚いた。まさか学校で友達も作らず、ただその日暮しの学校生活を送っていた自分が、他人の心配をするのは初めてなような気がした。

 

俯いてしまった雄哉を見た鈴菜は、気まずそうに視線を逸らす。

「………済まぬ、今のは失言であった」

その呟きを聴いた雄哉は慌てて首を振った。

「い、いや、気にしないで。 心配してもらっただけでも嬉しかったからさ…」

薄く微笑む。

逆に感謝され、鈴菜は動揺するように、ぱたぱたと手を振った。

「か、勘違いするのではないぞ! 

ただ、お前を見て、元気が無さそうだっただけで…!」

無愛想だった少女の意外な一面を見て、雄哉は思わず、くすっと微笑ってしまう。

そんな雄哉の微笑みを見た鈴菜は、ますます顔を紅潮させた。

「な、何を微笑っているのだ、貴様は―――!」

「オイ、てめェら! 何時までだべってんだ!」

上を見ると、天人は既に階段を上りきろうとしていた。

2人はすぐに気を引き締めると、すぐに階段を上りきった。

 

間一髪、

下には、瞳の焦点が合わない集団がぞろぞろと上ってきていた。

 

(何だ、あいつら? 何であんなにふらついてんだ?)

走りながら天人は疑問に捉われた。

下の男達は例外無く、足取りが不安定であり、瞳は淀んだ光を放っていた。

さらにまるで自分たちについてくるようなその行動に、不自然なものを感じ取っていた―――

 

1台の2人の乗ったバイクが駅近くの歩道に辿り着こうとしていた―――

 

「もう来やがったか! けどあれぐらいなら大したこたァねえ!」

構わず走り抜けようとしたその時、思わぬ事態が発生した。

 

バイクはそのまま歩道の横に近づけた瞬間。

何と、そのまま歩道に乗り上げ走行を続けていた。

 

「え?」

「はぁ!?」

 

近づいてくるのかと思ったその瞬間―――

下から何か重厚な物が激しくぶつかったような衝撃音と、心臓に響き渡るような爆発音がそれに続いた………

 

「おおお!?」

「ぐぅっ!?」

「わわっ!」

立ち上がることが出来ないくらいの振動に、思わず足が止まっ

てしまう。

下の現在の状況。

それは歩道橋の鉄柱の近くで煙を吹いて転倒、破損しているバ

イクと、近くに転がっている人の姿があった………

 

「な、なんという……あやつら、鉄柱に体当たりをするとは………!」

「―――!」

今まで見たことも無い光景に、鈴菜だけではなく、雄哉も絶句していた。

「あいつら…薬(ヤク)を限界まで使用(キメ)てやがる…恐怖や痛みなんざ、何も感じてねェし、考えられねェだろうよ」

手すりを掴んでいた天人は、苦虫を噛み潰した表情をしていた。

 

その間、もう一台のバイクが歩道に乗り上げる―――

 

「やべェ…、こりゃあ、やべェぞ…」

後ろを振り向くと、淀んだ眼つきした集団がゆっくりとこちらに向かって来ていた。

「薬の効果が最終段階に入ったか。こりゃあ、うかうかしてらんねェぞ!」

3人が走り出したのと同時に、再び衝撃と爆発音が歩道橋全体に反響する。

 

「くっ…」

「構うな! 無視(シカト)しろ!」

下の残害に顔を背けた鈴菜を促す天人。

何台も何台も続けていくうちに、走っているバイクは皆無となった。

 

(やった! あと少し――!)

歩道橋にある、屋根のついた空間。

そこの入り口が近づいた瞬間、雄哉は思わず心の中で快哉を叫ぶ。

 

そして遂に入り口を通り抜け―――

 

後は、そのまま出口へ向けて、駅近くの商店街へ向かう途中―――

 

それは唐突に起きた―――

 

 

屋根のついた場所は、歩道橋の中でも一番古い造りであり、反比例して利用者が増え、改築する間も無いことから、あちこちにガタが来ていた………

入り口からの電灯へ消えており、窓から差し込む明かりしか頼るものの無い、薄暗く細長い空間で。

突然、視界が閉ざされた。

(!?)

雄哉の視界に何か大きな掌のようなものが包み込んだかと思うと、そのまま押される形で背中に衝撃が走った。

「が…はっ!」

一瞬、呼吸が止まり、息を吐き出す。

背中から来る圧痛と、顔面が万力で潰されるような圧迫感が雄哉を襲っていた。

 

その瞬間を眼で追っていた鈴菜は、鋭い光を発すると自然に駆け出していた。

「雄哉!」

周りに目もくれず接近する。

「―――!!」

物陰も接近してくる少女の姿に気付いたのか、丸太の様な物を振り上げたように見えた。

膝を曲げる。上に何かが切れるように走る。黒髪が数本切れ落ちる。

 

物陰が旋風の如き勢いなら、あの小柄な人影は疾風のようだと見る者は評していた―――

 

雄哉を掴んでいる物陰の正体―――黒ジャージを着た大男の腕を掴みあげると。

 

まるで絞るように相手の前腕を破壊した。

 

「!!」

ゴリゴリッとすられるような感触。

肘から先の感覚が無くなったかのように、腕を下げてしまった………

 

「無事か!?」

「あ…あんた…」

雄哉は咳き込みながらも絶句していた。

 

地面に尻餅をつきながら思案に暮れると、

「……なっ」

大男は何事も無く立ち上がっていた。

 

「なっ!? 前腕は完全に破壊された筈だ…痛みは感じないのか!?」

「あの瞳(め)をよく見ろ。あの淀んだ瞳は野郎が薬にどっぷり浸かってる証拠だ。ありゃあ痛みなんざァ、屁ほどにも感じねェぞ」

後ろに居た天人が、疑問に答える。

鈴菜は襲い掛かってくる大男の表情を見ていた―――

 

温和そうな顔立ちを、汗や涎で濡らし、焦点の合わない光を放ちながら、口を開けたまま無言で襲い掛かってくる姿は、見る者を不気味がらせる………

 

しかし、鈴菜にはそれが苦しんでいるように視えた―――

 

刹那、脳裏に過ぎる1つの姿。

攻めても、攻めても……倒れず、怯まず、ただ立ち向かってくるその姿。

その末路は微動だにしない物体となる―――

 

気分は冷静、だが身体は熱い。

―――これ以上苦しませない。

―――終わらせる。

そう思った瞬間、自然と身体が動き出す。

 

「そなたが実は善人であったのであれば、心苦しく思う…」

前方へ踏み込みながら、鈴菜は形の良い眉を顰める。

「私が普通の女子(おなご)であれば楽勝だったであろうにな…」

それは誰に対して紡いだ言葉だったのか。

「〜〜〜〜っ〜!!!」

大男から発せられる言葉にならない奇声は、もう片方の腕とともに放たれた。

 

―――向かってきた拳に対し、自分の拳を突き出す。

何かが潰されたような感触と嫌な音を立てて、相手の拳は原形を止めなくなった。

痛みが麻痺して手が動かない状態というものは、痛みがあるときよりも混乱を招く。

案の定、大男は焦点の合わない瞳で、困惑げな表情を浮かべた。

その動きが止まった刹那、下半身に衝撃が走り、視界が反転する………

 

地面に倒れながら、足が無くなったかのように感覚が無くなった瞬間―――

目の前に小さな掌が迫り、そのまま遠い世界へと旅立っていった―――

 

「なっ…」

雄哉は呆然と座りながら、眼前の光景に絶句していた。

 

―――大男の顔面に止めの一撃を放っている小柄な少女

 

誰がこんな結果を予想したであろう………

 

自分より3回り以上はありそうな大男を、少女は素手で圧倒したのである。

特に少女が放った足払いの凄まじさは、まるでまとめて切断するかのような迫力を誇り、喰らった大男は丸太のような足を曲げて転倒してしまった―――

 

雄哉だけではなく、駅側の階段からか、いつの間にか周りに来ていたやくざ風の男達も、目の前の光景に動作を止めていた―――

 

場の雰囲気を断ち切るような拍手が聴こえてくるまでは―――

 

*

 

唐突に、天人の後方の通路で拍手が鳴り響いた―――

「ご苦労さん。よくここまで頑張ったなぁ」

通路のすぐ先。

電灯が機能しているその場所。

「まさか、ここまで頑張るとは思わなかったぞ」

空気を震わすような哂いを含んだ低い声。

「でも、もう諦めたほうがいいんじゃねぇか?」

雰囲気とともに変化する口調。

 

視線の先。

そこには縦縞の黒スーツを着用した、オールバックの中年の男が佇んでいた―――

 

「はん、今更三下が何の用だってんだ?」

奥に居るオールバックの男と対峙する形となった天人が、面白く無さそうに鼻を鳴らした。

「いや、実に嬉しいことがあってね。それでいても経っても居られなくなって、一流役者達を労いに来たのだよ」

言葉の隅に潜む嘲笑と、実に嬉しそうに笑うその表情のギャップに、天人は顔を顰める。

「それは有り難いねェ。それでこれからどんなことをしてくれるんだい?」

「そうだな……」

男は天人の表情を伺うように考え込むふりをすると、

 

「君達をこの場で始末させてもらうとしよう」

 

言いながら男は懐からリボルバー式の拳銃を抜き出した。

 

「オイオイ、1人でオレらを相手にするってーのか? そりゃいくらなんでも―――」

無理だろ、と言おうとした天人の言葉は遮られてしまう。

男の背後―――自転車用の通路からは一斉に銃口を突きつけた集団がぞくぞくと現れていた。

「これで判ったかい、こちらも本気であることを」

男は顎を前にしゃくる。

「おお、相変わらずスゲェ怪力だな鈴菜」

天人は後ろを振り向くと、足の曲がった大男を地面に這い蹲らせる鈴菜の姿があった。

ぱんっ、と耳元を乾いた音が通過する。

「ふざけてる余裕などあるのか?」

「…………ふん」

頬から流れ出る熱い感触を無視する。

 

その奥には、こちらと同じように銃口を向けている集団の姿があった。

 

さらにその奥には、薬の副作用のせいか、地面を這いずり、口から泡を吹いて呻き声を上げている集団の、阿鼻叫喚の地獄絵図を完成させている姿は、筆舌に尽くしがたいものがあった……

 

「成る程、本気でオレらを天国ツアーへ参加させたいわけだ」

「今なら隠蔽用のセメントを追加でな…」

背後から、くっくっ…と、含み笑いの声が聞こえる。

だが、天人に動ずる気配は無く、抑揚の無い一言を発した。

「……『ファルシュハイト・ホフヌング』……あんなモンどう

やって入手した? てめェのような三下が、簡単に入手出来るモノたァ思えねェんだよなぁ…」

背を向けているその言葉に、男の指先がぴくっと震えた。

 

オールバックの男だけではない。

この場に居る全員が、目の前に居る赤髪の青年から、得体の知れない不気味さを感じていたのかもしれない………。

 

―――何だこいつは……

 

男はしばし無言のまま、銃を構えていた。

「まあ、例外はあるけどな」

「何?」

ぴくぴくと瞼が震えているのが見て取れた。

天人はいったん呼吸を整えると、徐に煙草を取り出す。

「ルクセンブルグのある組織から流されるヤクは、人体の感覚という感覚を麻痺させて、快楽中枢を刺激するかのような幻覚が齎せるっていう魔法の粉がある……」

煙草に火を点けると、長々と紫煙を吐き出した。

「だが、そんなヤクを手に入れるために手を回した奴は、相手との禍根を残さないようにするための犠牲になり、結局、所属してる大組織からポイ捨てされた………なあ、そうなんだろ―――

 

―――猪崎基司さんよォ?」

 

振り向いた先には、顔面蒼白で身を震わせているオールバックの男―――猪崎基司(いざき・もとし)がいた。

その姿を見た天人はにやりと笑みを浮かべた。

「図星みてェだな」

「何故そこまで知ってやがる?」

震える手で拳銃を構えなおす猪崎。

口調は再び、いやこれが地かもしれないものに戻る。

天人は答えず、別の言葉を放った。

「『六倭会』をおん出されて、自分に従う配下を増やし、自分の組織を作ろうとして、資金の調達に『ファルシュタイト・ホフヌング』を入手したってとこか…」

「っ」

男はぎりっと歯を食い縛る。

「だがよ、部下増やすっつっても中坊まで入れるこたァねェだろ」

「あれは気の迷いみてぇなもんだ!」

内情に詳しすぎる赤髪の青年に、不気味なものを感じた猪崎は思わず口走った。

「いくら中坊でも人手は必要だった……だが、入れたら馬鹿な部下の間違いで『F.H』のことを知られちまった」

猪崎に続きを促すよう、視線を鋭くさせる天人。

「いくら破門されても『六倭会』で可愛がってくれた組長から、金さえ払えば、また組に入れ直してくれるって約束があるってぇのに、『F.H』のことがバレちまったら、俺はもう終わりだ!」

「それで、そのボウズを口止めしたわけか―――」

「あのガキが薬を盗んで、あいつに流さなきゃ拷問に掛けるこたぁ無かったんだ!そのまま死んじまったのは俺のせいじゃねぇ!」

その叫びは、呆然と立ち尽くしていた少年の心を揺さぶった。

 

―――あいつは…もう……

 

もう逢うことは無い。

もう話すことは無い。

もう顔を見ることは――――――エイエンニ、ない………

 

「―――そうかよ」

その声は誰が発したのか、

聞いた者をぞっとさせる響きがあった―――

 

刹那の疾度。

薄暗い空間を凍りつかせるような、絶対冷気の波動が覆いつくした。

 

「なら、間違いが起きても誰も責められることは無ェってわけだ…」

ふっと銜えていた煙草を吐き出す。

青年のやり取りに、思わず引き込まれていた男達はハッとなり、ようやく現実を取り戻す。

 

「もしここに良い子がいるんなら、耳を塞ぎな」

懐に手を伸ばす。

男達が撃鉄を打ち鳴らす。

そして赤髪の青年が、手を抜いた瞬間、それが見えた―――

 

―――普通の大人でも片手で持てるかどうか判らない、肉厚の黒いフォルム。

独特とも言えるその太い銃身は、とても拳銃に観えないその姿………

 

―――夜叉のデザインが施されたデザートイーグル

 

オールバックの男が合図を発する。

 

男達が引き金を引いたのと、赤髪の青年が銃声を放ったのはほぼ同時になる………

 

―――筈であった。

 

円柱に銃口を向けたとき、一瞬の戸惑いを生み出したのが原因の一つ。

すぐ側で雷が落ちたかのような轟音によって、怯んだのが原因の一つ。

 

そして―――

 

足元が無くなり浮遊感を感じた時、銃を撃てる状態ではなかったことが最大の原因となった………

 

*

 

「信じらんねぇ……」

 

身体中が潰され、骨が軋むような激痛が走る。

気力は底を尽き、体力は元々存在しなかったように空になっていた。

 

ガラガラと落ちる瓦礫の下で、男は茫洋と考えていた………

 

―――赤髪、夜叉のデザイン、デザートイーグル………

 

そう言えば、何処かの国の紛争地帯で、特殊部隊として任務に就いていた、軍隊帰りの男の話を聞いたことがあった―――

 

その男は日本に帰国し、探偵となり、数々の危機に晒されながらも、次々と依頼をこなしていったという。

 

―――まさか、野郎が………

 

瓦礫に挟まれたまま空を仰ぐ。

巨大な歩道橋の古い部分が、げたように無くなっていた。

満天の星空を映していた春の夜空は、もうじき朝日を映そうとしていた………

 

そんな視界の隅に―――

 

1人の少年の姿が映し出された―――

 

少年は感情の無い人形のような表情をしていた。

 

何も考えられず、止めることも出来ず………

下敷きになっている男に拳を突き出した―――

 

「ゲッ! ゴボッ!? がっ!」

下に居る中年らしき男を、涙に塗れた少年は血だらけになった拳で殴り続ける。

呻き声と、泣き叫ぶかのような少年の喚き声。

近くに落ちているネックレスは、もはや使い物にならないほど朱に染まっていた―――

 

 

*

 

epilogue『Crossing border』

 

「さてと…休憩はこれくらいにして、っと…」

近くにあったベンチから立ち上がる。

「えっと、後4kmくらい歩けば着くのか…」

名刺の内容を思い出しながら、先へ進みだす。

繁華街への道は、今歩いている木々の道から繋がっているとは思えないほど穏やかであった。

 

風が吹き、枯葉が音を立てて、足元に転がってくる。

 

だが、もはやその風は、曇天が流れた太陽によって、幾分か気温が上がっていた………

 

 

時は流れ、あれから1年の月日が経とうとしていた―――

 

 

あの事件の後、別の学校に転校した雄哉は、抜け殻のような日常を送っていた。

河川敷で見つかった死体が、友人であるということが判明したとき、自分の中にある何かが失われたような気がした。

 

自分の大切な何かを失ったとき、自分の存在意義を見失うとは、誰の言葉であったか―――

 

何もかもがつまらなく感じ、生きるということすら見失いかけた時、あの事件のことを思い出す。

 

目の前に居る相手を、殺す勢いで殴り続けていた自分を止めたのは、赤髪の青年であった。

“止めとけ。そいつにはお前の手で殺すような価値なんざ、これっぽっちも無ェ…”

隣に居る少女と同じように、全身埃だらけとなっていた青年は、この場所に興味を無くしたかのように背を向けた。

“お前がこの先自殺するかどうかなんざ、オレには知ったことじゃねーけどよ”

踵を返さずにゆっくりと離れていくその背中………

“どんなやつにも意味はあるし、大切なものは存在するんだぜ。お前にはもう、そういうのは無ェのか?”

だが、次の言葉は、雄哉のこれからを繋ぐ架け橋となったのかも知れない―――

“そういうものを探すのがオレらの仕事だ。もしお前が何か大切なものを見つけたいってんなら、オレん所へ来な。いつでも待ってるからよ…”

青年の手から放たれた一枚の紙片―――

はらはらと舞うその姿に見とれた雄哉は、遠くからのサイレンに気付くことは無かった―――

 

「そうだよな……」

視線の先にビルの郡が見え始めた頃、雄哉はぽつりと感慨を帯びた呟きを漏らした。

その呟きは、一陣の風に乗ってその場を後にする―――

 

自分にはまだ大切なものがあるかどうかは判らない。

ただ、あの青年の元へ行けば何かが判るかも知れない。

 

あの頃から、外見は少し背が伸びたくらいしか変化の無い自分を見て、あの2人はどういう反応を取るのだろうか―――?

 

どんな反応でもいい。

学校にも行かず、家にも帰ろうとは思わない今の自分に、大切なことが一つでもあれば、それは唯一つ………

 

「―――あの人の所へ行きたいな…」

 

天を仰ぐ。

 

その空は蒼く、壮大な広さを持って雄哉を受け入れようとする。

 

だが、雄哉は自らの意思でそれを拒絶した―――

 

何故なら、あの空にある日の光は。

 

これからの人生を祝福するかのように、明るく照らしているのだから………

 

 

―――人は生まれながらにして何らかの意味を持っているが、それだけでは“人間”とは呼べず、ただの“人”としか呼ぶことが出来ない。

人が追い求めて止まない価値観…。

己の信じられる価値観を持ち、存在意義を確立することが出来たその時に、

“人”は初めて“人間”になれる―――

 

 

THE END

 

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