『1+1=』


――今日は風が吹いていた。

吹き付ける…と表現できるほど強い風でもない。
だが、冬という季節柄、その冷たい風は肌に刺さるような錯覚さえも覚えさせる。
「さむ……っ」
少年、田口雄哉(たぐちゆうや)は冷風に身を強張らせ、思わず呟いた。
太陽が真上に昇る時間だというのに、一向に温かくなる様子は無い。
すぐにでも初雪が降りはじめそうな寒さだ。
彼が踏みしめる最近舗装されたばかりの無機質なアスファルトの鈍い光沢も、その寒さを一層際立たせているかのようだった。
「あーあ…今日はポカポカ陽気になるんじゃなかったのかよ…」
雄哉は一人ごちる。
昨日の夜に彼が見たテレビの天気予報によると、今日は初秋の気温になる筈だったのだが…実際はこの通りである。
今日の気温は初秋どころか真冬並みだ。
もっとも、吹き付ける風により体感温度がさらに下がっているため、真冬という感覚には多少の誤差があるかもしれないが。
天気予報を信じ、薄着をしてきた事を彼は今さらながら後悔していた。

ぶわっ

再び風が吹く。
散り落ちて、人や動物に踏みにじられ、原形を失いかけた紅葉が風に踊る。
曇天と、そこに舞う赤い紅葉の不格好な色彩のコントラスト。
空で一通りの舞を披露した紅葉は、風と共に地へと落ちた。
散り残った紅葉が風に吹かれて雄哉の頬に張り付く。
だが、彼は頬に張り付いたままの紅葉を取り去ろうとはしない。
否、出来なかった。
彼の両手にはそれぞれ大きなボストンバッグ。
ついでに背中には小さなナップザック。
つまり、彼の両手は完全に塞がっている状態なのだ。
周囲の人間に修学旅行か家出少年と見られてもおかしくは無いだろう。
もちろん修学旅行などではないし、家出をしなければならない程に家庭が荒れているわけでもない。
「俺は…何をやってるんだろうな…」
雄哉は自分の両手を見て呟く。
寒さのためか、思考回路が上手く働かない。
何かがあったはずだ。
そうでなければ、このような馬鹿げた荷物を持って町内を徘徊する事も無いだろう。
俺は………何を……

「…………あ」

ふと、雄哉は顔を上げる。
(そうだ…俺は……)

 

疲労で途切れかけていた思考を、雄哉はかろうじて繋ぎ止めた。
こんな所で立ち止まっているわけには行かない。
ボストンバッグの取っ手を握る力が無意識のうちに強くなる。

すぅ、はぁ。

過剰な運動で乱れていた呼吸を落ち着ける。

そして――雄哉は再び前を見て走り出したのだった。

 

 

 

 

 

 

――『終』――


「田口、話がある。来てくれ」
担任の先生が酷く慌てた様子で教室へやってきたのは金曜日の放課後だった。
放課後…それは学校生活で解放感を感じる事の出来る数少ない時間のひとつであろう。
それも、翌日からは二連休が入る金曜日の放課後である。
二連休にハメを外して遊ぶ者。
家でのんびりと休日を過ごす者。
考えは様々だが、誰もが翌日から与えられる時間を有効に使おうと計画を練っている。
その場に集まっていた雄哉と彼の友人達もそのようなグループの一つだった。
「……何があったんですか?」
話し合いを中断された事よりも担任の疲弊した表情が気にかかり、雄哉は問う。
そんな雄哉を、担任は無言で廊下の外へと連れ出したのだった。
担任は不思議そうな顔で自分を見つめる雄哉の手を引っ張り、歩き続ける。
無言のまま歩いて、歩いて、歩いて。
二人がたどり着いたのは生徒指導室だった。
担任は生徒指導室の鍵を開け、雄哉を中に通す。
釈然としないまま、雄哉は生徒指導室の中に入った。
彼が中に入った後、担任は周りの様子を気にするように廊下を見回し、生徒指導室の扉を閉める。
「……何があったんですか?」
もう一度、雄哉は同じ問いをかけた。
不意に担任の表情が曇る。
……だが、それだけだった。
再び部屋に沈黙が下りる。
少なくとも、担任が何の用事もなく自分をここに連れ込んだ訳ではない事だけは雄哉にも理解できる。
何かを言い出したくて、でも言い出せない――そんな様子だった。
担任は真面目そうな印象を与えるピシッとした灰色のスーツの裾を握り締める。
その拳は小さく震えていた。
「……何が、あったんですか?」
三度。
雄哉の問いに、担任は俯いていた顔をようやく上げた。

そして、閉ざされていたその口が開かれる――。


雄哉は自分の表情が悲しみに、そして焦燥に変わるのを感じた。


「美奈が交通事故に遭った」
これが担任から出た最初の一言。
美奈――田口美奈(たぐちみな)とは、雄哉の二つ下の妹だ。
現在高校2年生の雄哉に対し、美奈は中学3年生。
先日に行われた入学試験で合格し入学資格を得た美奈は、その報せを真っ先に雄哉のもとへ持ってきたばかりだった。
美奈は雄哉の担任の娘とクラスメイトである為に担任とも面識があり、今回の凶報もそれゆえにこの担任を通して雄哉に伝える事になっていたのだろう。
「……美奈は」
雄哉は静かに言葉を紡ぐ。
「美奈はッ!」
それが少しずつ激昂を帯びる。
「美奈はどこにいるんですかッ!!?」
雄哉は心に起こった衝動に任せて問うた。
今にも担任に掴みかからんという勢いだ。
「……三竹病院だ」
担任は気持ちを押し殺すように呟く。
「だが」
「失礼しますっ!」
何かを言いかけた担任の言葉を遮り、雄哉は外へと飛び出した。


車のクラクションが雄哉の耳に響く。
同時に野太い罵声も聞こえる。
当然だろう。
赤信号を完全に無視し、雄哉は走り続けているのだから。
四車線道路の信号無視。
一歩間違えれば美奈の二の舞になる恐れも十分にあったのだが、雄哉にはそのような事を考える余裕はなかった。

年齢に似合わず子供っぽい仕草が多かった美奈が。

自分勝手ながらも最後には自分より他人を気にかけていた不器用な美奈が。

そんな美奈が、交通事故に遭ったなどと信じられるわけがない。
信じたくなんか――ない。
雄哉は信号も確認せずに、さらに道路を横切る。
足は既に鉛のように重く、呼吸は嵐のように荒かった。
だが、止まらない。
美奈がいつもの勝ち気な笑顔で笑いかけてくれるまで。
絶対に止まるわけには行かない。
走り続けていた雄哉はふと、大きな看板に視線が移る。

『三竹病院――直進2km』

少し、あと少しだ。
今にも砕けてしまいそうな雄哉の足がさらに加速する。
そこに美奈が居る。
いつもと変わらない笑顔で俺を迎えてくれる。
交通事故に遭っても、何事もなかったようにピンピンしてやがるんだ。
いや、そもそも交通事故に遭ったという事自体が嘘に決まっている。
笑って「やーい、引っかかったー」などとふざけた事をぬかすんだ。

そう。嘘なんだ。


嘘だ。

嘘だ嘘だ。

嘘だ! 嘘だ!! 嘘だ!!! 嘘だ!!!!


雄哉は三竹病院の扉をくぐり、窓口に「田口美奈」の病室を問う。
そして、返事を聞くや否や再び走り出した。
3階。302号室。
それが雄哉に与えられた情報だった。
エレベーターは時間が掛かりすぎる。
かろうじてそう判断出来た雄哉は急いで階段を駆け上った。
段差の小さいバリアフリーの階段が、いくら段を上っても美奈に届かないような錯覚を雄哉に覚えさせる。
雄哉の心がさらに急く。
階段を翔ぶように上り。そして3階へとたどり着く。
302号室と書かれた病室は階段のすぐそばにあった。
雄哉は迷わずその部屋へと向かい、吹き飛ばすような勢いでその病室と廊下の隔たりを開けた。

 

 

 


―――ソシテ、スベテガオワッタ―――

 

 

 

 

――気がつくと、雄哉は自分の部屋のベッドで横になっていた。

あれからの事ははっきりとは覚えていなかった。
ただ覚えているのは、絹のように白い美奈の肌と、彼女の顔を覆う雪のように白い布。
雄哉は三竹病院で美奈の遺体を目の当たりにした。
交通事故に遭ったにしては傷も打撲の痕もなく、あまりにも綺麗すぎる目の前の彼女の姿が信じられず、打つ事のない脈を何度も測った。
そして、少しずつ冷えていく美奈の体温を握ったその手に感じた。
そう、雄哉が病室に着いた時には全てが終わっていたのだ。
冷静に考えれば分かる事だった。
美奈がまだ助かるような状態ならば、担任がわざわざ生徒指導室まで呼び出さずに、せいぜい廊下で用件だけ言って雄哉を病院に向かわせれば良かった。
少しでも早く、雄哉が美奈に会いたがる事は目に見えている。
なら、どうしてわざわざ移動に時間の掛かる生徒指導室に呼び出したのか。
答えは簡単。
美奈が助からないと分かっていたからだ。
担任は落ち着ける場所で雄哉に美奈の死に関する全ての事を話し、冷静に現実を見つめてもらいたかったのだろう。
だが雄哉はそれを拒み、激情だけで病院に向かった。
担任の言葉を聞いてから病院に向かえば、少しは冷静な心を保てていたものを。

はぁ。

雄哉は深く嘆息する。
まるで馬鹿みたいだ。
ろくに話も聞かず飛び出して、既に手遅れである事も知らぬままにただ美奈の無事を祈り、死ぬような思いで病院に着いたというのに。
待っていた現実は――。


つぅ…っと。
雄哉の目から一筋の雫が流れ落ちる。


早く眠りたい。
次に目覚めた時、美奈がいつものように笑いかけてくれるのだから。
雄哉は何度もそう言い聞かせ、目を閉じる。
だが、睡魔は一向に訪れなかった。
まるで、雄哉が夢に入るのを拒むかのように。
これが現実なのだと突きつけるかのように。
でも、それなのに。
「……こんなのは現実じゃない」
こう思わずにはいられなかった。
雄哉は呟き、ゆっくりと体を起こす。
温かいミルクでも飲めば、そのうち心地よい睡りに包まれるだろう。
そう、全てを忘れられる眠りに。

雄哉は部屋の扉を開け、おぼつかない足取りで台所へと向かった――

 

 


美奈の死。
愛する妹がこの世を去った、雄哉にとっての終焉。


――だが。

皮肉にも、これが全ての始まりだという事に雄哉が気付くのはそう遠くなかった。

 

 

 

 

 

 

――『視』――


「……ちゃん」
白い、白い夢。
雪のように白く、光のように皓(しろ)い夢だ。
だが、冷たくはない。
眩しくもない。
身を包み込むような、暖かい白だった。
「…お兄ちゃん」
白い、皓い夢から、雄哉の意識が少しずつ引き上げられていく。
耳に聞こえるは少女の声。
「お兄ちゃん…っ」
雄哉の体が小刻みに揺れる。
自分が揺らしているわけではない。
外的な振動だった。
振動…とはいえ、さほど強いものではない。
例えるなら揺籃を揺すられた時のような、心地よい揺れだ。
ゆっくりとした揺れ動きが雄哉の眠気を誘う。
引き上げられた雄哉の意識が再び白の中へと沈んでいく。
だが。
「お兄ちゃんっ」
揺籃はそれを許さなかった。
軽い衝撃が頭のてっぺんに走る。
眠っていても分かった。
雄哉は頭を軽く叩かれたのだ。
雄哉の瞼の裏から白い景色が消え去る。
「………なんだよ」
彼は仕方なく目を開いた。
目の前には聞きなれた声を出す見慣れた少女が居る。
「……何の用だ、美奈」
雄哉は三白眼で少女――美奈を睨む。
寝起き直後の雄哉には微妙な表情の調整が出来なかった。
「何の用だ、じゃないよ」
一方の美奈も雄哉の表情に怯まず言い返す。
彼女は雄哉の目の前に人差し指を突き出した。
自然と雄哉の視線もその人差し指に寄る。
程なく寄り目の状態になった。
寝起きの目に、寄り目はこの上なく負担が掛かる。
目が痛い。
文句を言おうとした雄哉だったが。
美奈の人差し指が雄哉の視界の外へと動いた。
無意識のうちにそれを追いかける雄哉。
人差し指はずっと動き、雄哉の目もそれを追う。
そして、彼女の指はとある場所で止められた。
雄哉は未だに眠気の覚めない目でその場所を凝視する。
そこにあるのは開かれたノート。
ノートに書かれているミミズが這ったような文字。
隣には開かれた教科書。
「!!」
雄哉の体が瞬時に目覚める。
同時に、バネのように伸び上がる彼の体。
雄哉はすっかり冴えた目で改めて眼前を見る。
彼は机に向かっていた。
…が、ただ向かっているだけだ。
ノートにはミミズが走り、教科書は見当違いな場所が開かれたまま。
まさに『勉強中に寝てしまいました』という様子を絵に描いたようだ。
「やば……まだ宿題終わってないし…」
雄哉は教科書の正しいページを開きなおして頭を抱える。
「ほら、やっぱり勉強中に寝てたんじゃない」
そんな彼の横で、美奈は呆れを全身で表現するかのように深い溜め息を吐いた。
「あたしに感謝してね、お兄ちゃん」
してやったりの笑みで胸をそらす美奈。
いつもなら文句を言いつつ軽く打撃を与える所なのだが、今回ばかりは美奈に頭が上がらなかった。
「はい、ありがとうございました…」
雄哉は素直に頭を下げる。
「分かればよろしいっ」
美奈も腕を組んで大仰に頷く。
動きと共に、美奈の肩の少し下で切り揃えられた艶やかな黒髪がさらりと揺れた。
「って、そんな事を言いに来たんじゃなかったよ」
調子に乗っていた美奈だったが、ふと真顔に戻る。
「お兄ちゃん、ビッグニュースだよっ!」
そして雄哉の肩をがしっと掴んだ。
彼女の大きく丸い目が爛々と輝いている。
「……ビッグニュース?」
一方、雄哉は胡散臭そうな目で彼女を見ていた。
ビッグニュースというモノほど、総じて大したものじゃなかったりするのだ。
――特に美奈の場合は。
雄哉は話し出す前から既に内容を聞きたくなかった。
美奈は嫌ってはいない。
美奈と会話をするのも嫌いではない。
……が、今の雄哉は(今から)勉強中なのである。
用事があるんだったらさっさと済ませて、美奈には退出願いたいところだった。
もはや、恩人に対する恩義は全く残っていない。
「……お兄ちゃん、聞きたくないって顔してるね」
さすがの美奈にも分かったようだ。
「…だって、お前のビッグニュースって……」
「すとっぷ、すとっぷ。聞く前から文句を言うのはナシだよっ」
雄哉の突っ込みも軽く受け流し、美奈は穿いていたスカートのポケットをごそごそとあさる。
あさる。
あさる。
まだあさる。
まだまだあさる。
笑顔だった美奈の眉間に少しずつシワが寄っていく。
雄哉としてもこれ以上のタイムロスは避けたかった。
それでもスカートの中をあさり続ける美奈。
彼がもう止めさせようと思ったその時。
「あったよーっ」
美奈に笑顔が戻る。
彼女のスカートのポケットに入っていた右手がスポッと抜かれた。
その手には一つの封筒が握られている。
比較的高級そうな上質紙を使った封筒だ。
おもて面に雄哉達の家の住所と『田口美奈様』の宛名が記されている。
裏面は雄哉からは見えないが、おそらく送り主の宛名が書いてあるのだろう。
雄哉はその封筒を見て首を傾げた。
どこかで雄哉も同じものを見た事があるような気がするのだ。
1年前だったか、2年前だったか。
この封筒ではないが、同じものが雄哉にも届いたような――。
「これ、見たことないかなぁ?」
美奈が雄哉の疑問と同じ事を問いかける。
これで確信した。
「……やっぱり、昔俺に届いたものと同じヤツなのか?」
「あ、覚えてたんだ。」
美奈は封筒を挟んで両手の平をポンと叩く。
だったら説明は要らないね、美奈はこう言って雄哉に封筒を渡した。
「じゃあ、はい。これ読んでみてっ」
雄哉は言われるがままに封筒を受け取る。
よく見ると、封筒のてっぺんがペーパーカッターのようなもので開封されていた。
雄哉は裏返して送り主の宛名を見た。

『三竹学院高校』

送り主は雄哉の通っている高校だった。
まあ、俺が通う学校なら俺に手紙が届いてもおかしくはないか。
雄哉はとりあえず納得すると封筒の中身を取り出した。
美奈は笑顔でその様子をじっと見つめている。
『わくわく、どきどき』という単語が美奈の周りに浮かんでいるかのような期待に満ちた表情だ。
そんな彼女の表情を不思議そうに見ながら、雄哉は中に入っている紙を広げて目を通した。
紙の右下にはなにやら複雑な形をした拇印がある。
見ただけで文字の種類は判別出来ないが、何かの重要書類かそれに準ずるものであると雄哉は理解した。
雄哉は紙の中央に視線を戻す。
そこには堂々とこのような文字が書かれていた。

『田口美奈殿 貴殿は三竹学院高校の入試試験を合格し、当校への正式な入学資格を得た事をここに記す』

「…………」
雄哉は目を疑う。
彼は信じられずにもう一度紙に目を通す。

『田口美奈殿 貴殿は三竹学院高校の入試試験を合格し、当校への正式な入学資格を得た事をここに記す』

やはり書いてある内容は変わらなかった。
雄哉は拇印に触れてみる。
拇印は当然ながら乾いていたが、拇印と紙の手触りの違いはその紙が複製などではない事を雄弁に語っていた。
――認めるしかなかった。
「……合格、したのか」
雄哉はかすれるほどの小さな声で呟く。
「うんっ」
美奈は本当に嬉しそうに、そして少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。
雄哉が以前、この封筒を受け取った事があるということもこれなら頷ける。
彼が入学する際に、彼も同じ封筒――すなわち合格通知を受け取っていたのだから。
ふと思い立って、雄哉は机の引き出しを開ける。
そして、彼は引き出しの中から一つの封筒を取り出した。
既に手にしているものと同じ封筒だ。
違いがあるとすればそこに書かれている合格者の名前のみ。
合格者の名前以外は見事にそっくりだった。
印刷された文字の位置も、拇印の位置も。
ここにある合格通知は間違いなく美奈のものだが、合格通知の印刷そのものは何年経っても同じものの複製らしい。
めでたい合格通知のわりには随分とやっつけ仕事だな。
雄哉はそう思う。
「これからはお兄ちゃんと同じ学校に行けるんだよー」
だが、そのようなつまらない考えは美奈の笑顔を見ているうちに、いつのまにか霧散してしまった。
雄哉は自分の合格通知を再び引き出しに入れる。
そして、手に残った美奈の合格通知を彼女の手に戻す。
今まで部屋の中を飛び回っていた美奈は、突然合格通知を手渡されて思わず床に落としそうになる。
だが彼女は何とかそれを受け取り、スカートのポケットの中へと戻した。
「……美奈」
雄哉は静かに呟く。
きょとんとして彼の顔を見つめる美奈。
出来るだけ自然な笑顔になるよう努め、雄哉は言った。


「合格、おめでとう……美奈」

 

 

 

 

 

 

――雄哉は、ゆっくりと目を開ける。

冬にも関わらず、自然と体が火照るような生暖かい夜。
妹の死の悲しみは消えずとも、ようやく現実として受け止める事が出来るようになった――そんなある日の夜。
彼は何のきっかけもなく、深海よりも深い…死にも近い眠りから目覚めた。

最近はよく夢を見る。

美奈と作った嬉しい思い出。
美奈と作った腹立たしい思い出。
美奈と作った悲しい思い出。
美奈と作った楽しい思い出。

そしてその結末にあるものは、今はもう帰らない思い出を憂う、雄哉の涙だった。

雄哉は右目に手を当てる。
干からびた川のような涙の跡が彼の右目から枕へと伝っていた。
右の頬を擦っても、涙の跡はなかなか消えてくれない。
ただただ、擦った痛みで頬が赤く腫れていくだけ。
頬の痛みがまた涙を誘う。
右目だけではない。同時に左目からも涙が溢れ出した。
痛くて涙を流し、涙が悲哀を呼ぶ。
泣くから悲しいのか、悲しいから泣くのか。
既にそんな論議は意味を成さないほど、雄哉はただ泣き続けていた。
どんな事が起こり、どんな感情を持ったとしても、今の雄哉はそれを涙へと変えてしまうかもしれない。
「………………」
雄哉は目を擦り、半ば無理矢理に涙を止める。
目は赤く充血し、先程まで泣いていた事は一目で分かった。
それでも、泣き続けているよりは遥かにマシだ。
雄哉はベッドから起き上がる。
「……顔、洗わないとな」
呟き、彼は立ち上がった。

……が。
彼の足が前に出る事は無かった。

 

――目の前には少女が居た。
薄闇の中、雄哉の部屋の扉の前に浮かぶ少女。
少女の姿が儚げに揺らぐ。
その半透明な体は今にも消えてしまいそうな程、不安定なものだった。
だが、それでも。
少女の姿はかろうじて雄哉にも認識できた。
今は暗闇に飲まれている、肩まで伸ばされた艶のある黒い髪。
丸く、しかし僅かに吊り上がった大きな瞳。

――これは幻覚。

――これは夢。

――これは錯覚。

そう片付けるのはたやすい。
だが、そこに存在する者を完全に説明するにはどれもいささか力不足であった。

「……………み、な?」

雄哉はそこに存在する者の名を途切れ途切れに呟く。
美奈。
一週間前に不遇の事故でこの世を去った、雄哉の妹。
雄哉は足を踏み出そうとする。
だが、やはり動けなかった。
固く握った指から汗がにじみ出る。
少女はただじっと雄哉を見つめていた。
彼女のその大きな瞳には何も映っていない。
雄哉が目に入っているのかさえも怪しかった。
少女と雄哉は無言で見つめ合う。
少女はただぼんやりと。
雄哉はただ呆然と。
「……美奈、なのか?」
絞り出すように呟き、雄哉は少女の姿を捉えようと暗闇に目を凝らす。

――ふと、雄哉は気付く。

少女が着ている服。
それは雄哉の通う高校の女子生徒の制服だった。
何故その制服を着ているのか。
雄哉には意図が掴めない。

「…………」
不意に。
雄哉の見つめる先で、少女の口が小さく動く。
「…………」
だが、雄哉がどんなに耳を澄ましても、心を研ぎ澄ませても、彼女が紡ぐ声は彼の耳には届かなかった。
動かない自分の体がもどかしい。
俗に言う金縛りというものだろうか。
手を伸ばそうにも腕が動かず、足を踏み出そうにも体が言う事を聞かない。
足が動くのなら、今すぐにでも少女のもとへと走るのに。
「…………美奈」
雄哉は己の無力感をかみ締めて呟く。
少女は小さく瞬きし。
憂いを帯びた表情を見せて、扉に溶け込むようにその姿を消した。
瞬間、雄哉の体から全ての戒めが解かれ、彼の足が動き出す。
「美奈ッ!!」
雄哉は扉を壊しかねない勢いで開けた。

だが。

目の前には暗闇に支配された廊下があるばかり。

 


――少女の姿は既にどこにも無かった。

 

 

 

 

 

 

――『悩』――


雄哉は黙々と朝食を口にしていた。
あの事故以来――雄哉は食事を摂ろうとしても食欲が無く、かと言って無理に詰め込めば戻し…という循環を繰り返し、まともに食事さえもしていなかった。
食事が喉を通るようになっただけ、まだマシになったのかもしれない。
だが、何もかも良いことばかりではなかった。

昨晩の美奈。

幽霊となってまで雄哉の前に現れ、そして何かを伝えようとして消えていった妹。
怨恨か、未練か。
生前の美奈からは想像もつかない、彼女の虚ろな表情からは何も読み取る事が出来なかった。
せめて、安らかに眠って欲しい。
それが雄哉の美奈に対する最後の願いだった。
怨恨なら自分が受け止める。
未練ならとっておきの思い出を残してやる。
そうやって、美奈を安心して天国へと送り出してやるのが自分の役目だと思っている。

だが。
美奈は何を望む? そして、俺に何が出来る?

現実的に不可能ではないのか。そう思う自分も確かに“雄哉”の中に存在した。
生きている人間の願いを叶えるだけでも難しい。
死人ならなおさらである。
今思い起こすと後悔しか残らないが、雄哉は生前の美奈の願いでさえ叶える事が出来なかった。
それなのに、既に黄泉をさまよう美奈に何を叶えられるというのだろう。
願い、葛藤、希望、自虐。
複雑な思いを胸に抱きながら、雄哉は朝食を口にかき込んでいた。

「……おはよう」

不意に聞こえた声が雄哉の思考を中断する。
聞き覚えがある声。
だが、その声は以前よりも張りが無く、心なしか声量も小さいように思えた。
まるで、ここ数日で急に衰えたかのようだ。

――理由は、分かっている。

「おはよう、父さん」
雄哉は上半身を捻って振り返り、挨拶を返した。
雄哉の瞳に父の姿が映される。
もともと痩せてはいたが、今の父はもはや骨と皮だけといっても過言ではない様相で、心労がたたっているのか年の割に量の多い髪の毛は半分以上が白髪になっていた。
父は無表情な顔の上に笑顔だけを貼り付けたかのように雄哉に笑いかけ、雄哉の反対側の席に腰掛ける。
「あら、おはようございます」
台所からやってきた雄哉の母が父の前に並べられた食器を手に取り、ご飯や味噌汁を盛り付けていく。
母は父と比べればかなり若い。
それゆえ、父ほどに心労は色濃く表には出ていないものの、以前よりは確実にやつれていた。
父も母も、もはや見るに絶えない姿だった。
だが、自分も他人から見れば同じようなものなのかもしれない。
父の食器に朝食を盛り付けた母は、次に母自身の食器に朝食を盛り始める。
雄哉はご飯を口に入れながら、その様子をじっと見つめていた。
母はゆっくりとした手つきでご飯を盛る。
ご飯を盛り、味噌汁を盛り、母はその食器を食卓の上に置く。
そして、自らも席に着いた。
「………なあ」
それを見計らったかのように、父が口を開く。
雄哉と母の視線が父に向けられる。
父は食器を置き、小さく息を吸った。
そして呟く。

「幽霊って、信じるか?」

雄哉の父が何気なく呟いた言葉に、雄哉は身の毛が逆立つような肌寒さを感じた。
「……どうしたんだ、藪から棒に」
雄哉は平静を装って先を促す。
右腕が小刻みに震えているのが自分でも分かる。
「いや、父さんの見間違いかもしれないが……」
父は咳払いを一つ、そして言葉を続けた。
「……昨晩、美奈が父さんの前に現れたんだよ」
「…………」
「…………」
今度こそ。
食卓全体の空気が凍りついた。
雄哉と母の動きが申し合わせたようにぴたりと止まる。
「あなた…美奈のことは……」
雄哉の母が夫の言葉を遮る。
静かな言葉だったが、そこにははっきりとした拒絶の意思が現れていた。

――美奈がこの世を去ってから一週間。
未だに気持ちの整理を付けられない家族の心を守る為、美奈についての話題は禁句となっていた。
誰が決めたわけでもない。
だが、美奈を失った事を未だにどこかで否定し続ける家族は、知らぬ間にこのような規則を作り上げていた。
美奈を忘れるわけでは当然無い。
忘却ではなく、ただ美奈を思い出とするための準備期間が必要だった。
それを美奈が望むかどうかは分からない。
だが、少なくとも雄哉は反発しなかった。
雄哉自身、美奈の話題を出されたなら、いつ悲しみが込み上げるか予想もつかないからだ。

「分かっている、だが……」
父は苦虫を噛み潰したような、苦悩した表情を見せつつも母を見やった。
「まるで、何かを伝えたがっていたように私を見ていたんだ」
言って、堪えきれずに涙を拭った。

昨夜の事を、雄哉は思い出す。
何かを伝えたい、でも伝えられない。
そんな葛藤をしているかのように雄哉をじっと見つめ――そして消えていった美奈。

「……俺も、見たよ」
雄哉は消え入るような声で呟いた。
父と母の視線が自分に向けられる。
雄哉は続けた。
「何かを呟くように口を動かして…美奈は消えていったんだ」
「……雄哉もか」
父は箸を置いて静かに頷く。
状況は雄哉と同じだったらしい。
「…これで、美奈を見たのは全員ね」
意外な呟きが母から漏れた。
自分に向けられていた視線は母に移る。
「そうか……」
父は脱力してうなだれた。

美奈はどうやら家族全員の前に現れたらしい。
ならば、あの美奈は幽霊であったとしても幻であるという事は無いだろう。
未だに美奈への想いを捨てきれない人間が幻覚として美奈の姿を視界に映し出すことはあっても、同じ姿、同じ仕草の美奈を家族全員が同時に見るという事はまずありえない。

「……ええ、そうよ」
母は答えた。
俯いた母の肩は小刻みに震えている。

美奈がようやくこの家へ帰ってきたというのに。
彼女の体は既にこの世のものでは無くなっていたのだ。
母や父が悲しむのも無理は無い。
雄哉ももちろん悲しんではいる。
だが、彼は意外にも冷静さを保っていた。

――ならば、家族全員の前に現れた理由はなんなのだろうか。

美奈はこの家族に恨みを持っているのか?
美奈は再び家族とここで暮らしたいのか?
それとも、他の願いがあるのか?

雄哉は考える。
深く、深く考える。

だが幽霊という超常現象の前では、一般の人間の思考はあまりにも脆かった。

 

 

 

 

 

 

――『願』――


――今日も夜はやって来た。

ベッドの上に横になったものの、雄哉は今夜も眠れなかった。
美奈がこの世を去って、そして夜中に現れるようになって3週間。
美奈の訪問は雄哉にとって、もはや日常に近いものと化していた。
おそらく、あと少しでいつものように美奈が現れることだろう。
最初は何をされるのか分からず、ただ恐れるばかりだった。
だが、3週間経った今も美奈は家族を呪うような事はしていない。
ただ現れ、霞のように消えていくだけ。その繰り返し。
そんな彼女の姿は、恐ろしさよりも哀憫の情を雄哉の心に沁みこませていた。
美奈は本当に『ただそこに居る』だけ。
……そう、美奈自身は何もしていないのだ。
だが、度重なる死者の訪問は家族に多大なる精神的負荷をかけていた。
幻のように現れ、そして消える美奈。
美奈は何もしない。
しかし、明日は何かをされるのではないだろうか。
明日は美奈が呪いの言葉を呟くのではないだろうか。
そんな見えない恐怖が田口家の人間を包み込んでいた。
父と母はここ数日でさらにやつれてきたように見える。
父の目は常に虚ろで、死んだ魚のように黒く濁っていた。
母の顔は蒼白で、眠っていると生死の判別もつかぬほどであった。
父が口癖のように「美奈を祓う」と呟いている事を雄哉は知っている。
母がうわ言のように「呪われる、呪われる」と呟いている事を雄哉は知っている。

田口家の人間は極限の状態まで追い詰められていた。

父が壊れるか、母が壊れるか、いずれにしてもその時は近い。
幸い雄哉自身は父や母のように呪いを恐れるよりも、美奈を救うという前向きな考えを強く持つため、父や母のような半恐慌状態に追い込まれてはいなかった。
雄哉は自分の意思が打ち負けないうちに、彷徨う美奈を救い、この繰り返しの日々から田口家を救う方法を見つけ出さねばならない。

だが。

『美奈の望みは何だ?』

雄哉の思考はいつもここで躓いてしまうのだ。

美奈が何を求め何を願って現世に留まるのか、全く分からない。
毎夜、雄哉は欠かさず美奈に問うているのだが、今もその答えは返っていなかった。
(願いがあるなら教えてくれれば良いのに…)
雄哉は心の中で愚痴る。
幽霊相手に無茶な要望だ。
弱気な心を捨て、雄哉は改めて思考する。
何故、美奈は現世に留まるのか。
「…………」
雄哉は美奈が現れた時の状況を思い起こす。

夜中の1時ごろ、美奈が毎日のように家族の前に姿を現す。
美奈に近づこうにも近づけない。体を動かそうにも動かせない。
そして、その不思議な硬直が解けると同時に美奈は何も言わずに壁へと消えるのだ。
口で表すなら美奈の行動はそれだけだ。

だが、雄哉には一つの疑問点があった。
美奈が現れる時は必ず雄哉の通う三竹学院高校の制服を着ているのだ。
彼女は一度も着たことが無いはずのあの制服を。
美奈がそれ以外の服を着て雄哉のもとに現れたことは無い。
少なくとも、雄哉の前に現れる時は…だが。
父や母の前に現れる時はどうなのか。それは知らない。
だからといって、半恐慌状態の父と母に対してそれを尋ねる気にはなれなかったが。

「………………」

雄哉は鉛のように重い頭を持ち上げ、寝返りを打った。
柔らかい枕の中に、頭が半分近く沈む。
彼は布団を胸の上あたりまで掛け、軽く目を閉じた。
瞼の裏に生前の美奈の姿が浮かぶ。
思いの他、鮮明な映像だ。
雄哉の瞼の裏で、美奈は笑っていた。
屈託のない笑みだった。
手にはひとつの封筒が握られている。
その封筒には見覚えがあった。

(……この前の夢か)

雄哉は目頭が熱くなるのを感じた。
後で母に聞いたのだが、あの時美奈は合格通知を誰よりも先に雄哉へ持ってきていたらしい。
雄哉が通う、三竹学院高校の入試の合格通知を。
美奈は母親よりも父親よりも先に、雄哉と喜びを分かち合いたかったのだ。
『これからはお兄ちゃんと同じ学校に行けるんだよー』
そう声を弾ませた美奈。
ただ、美奈は三竹学院高校に通いたかっただけなのだ。
ただ、美奈は雄哉と一緒に通いたかっただけなのだ。
それなのに――何故。
雄哉の瞳から何度流しても枯れる事のない涙が溢れ出す。
――何故、死んでしまったんだ。
雄哉は堪えきれない涙を袖で拭う。
どれだけの涙が零れただろう。
自分の体から全ての水分が抜き取られてしまうのではないか――そう危惧したくなるほど、雄哉は泣き続けた。
両の袖は既に涙で濡れて濃い染みを作り出している。
瞼の裏の美奈は、雄哉が涙を流している事などお構い無しに笑みを浮かべたままだ。
その当たり前だった過去と当たり前になってしまった現在のギャップが、さらに雄哉の胸を締め付けた。
だが、雄哉は必死になって涙をこらえる。
そろそろ美奈が来る時間だ。
例え幽霊であっても、例え何も言わなくとも、雄哉のこのような姿を美奈が見れば、少なからず心を痛めてしまうだろうから――。
雄哉は半ば無理矢理に目を開く。
瞼の裏の幻想の美奈が同時に姿を消す。
そして、青黒い影を纏った非現実的な美奈の姿が雄哉の双眸に映し出された。
瞼の裏に居た美奈と、目の前の美奈の姿が重なる。
そこには、三竹学院高校の制服を纏った美奈が佇んでいた。
自分が高校で見慣れている、薄いカーキ色のブレザーとスカート。
いつもの如く、雄哉の体は束縛されて動かない。
もしも動いたなら我慢しようにもしきれなかった涙を必死に拭っていた事だろう。
美奈は青く染まった黒髪をなびかせ、雄哉を見つめていた。
涙を流し続ける雄哉を見て、彼女がどんな感情を持ったのかそれは知る由もない。
美奈がこの世を去った日に現れてから全く変わることのない無表情。
そんな美奈の姿に、雄哉は何か引っかかるものを感じた。
自分が今まで見た事がないものを、既に心に記憶している…そんな感覚だ。
雄哉が真剣な眼差しで美奈を見つめた。
流れていた涙は既に止まっている。
雄哉に凝視されていても、美奈は何も動じる様子はない。
生前の美奈なら「そ、そんなに見つめてどうしたんだよー」とたじろぐ筈だ。
もしかしたら、幽霊からは感情という感情が抜き取られているのかもしれない。
雄哉は美奈の姿の隅々までを見る。
美奈の表情には何も矛盾は見つからない。
青い影がさしているが、それは夜の闇にあてられた事によるものだろう。
体も同様だ。
ならば、あとは三竹学院高校の制服……。
雄哉は美奈の顔と彼女が着ている制服を交互に見比べた。
ここに、なにかの矛盾を感じるのだ。
(どこだ…どこに矛盾がある)
食い入るように美奈を凝視する雄哉。
だが、そうはさせないという意思が美奈の中で働いているかのように、だんだんと美奈の姿が薄くなってゆく。
気付いてみれば、今夜美奈が現れてからそれなりに時間が経っていた。
いつもなら、これくらいの時間に美奈の姿が消え始める。
今もその限界の時間となったのだろう。
彼は薄れゆく彼女の姿を目を凝らして必死に見つめる。

そして。


「あ………っ!」

 

 

雄哉が叫ぶのと、美奈が消え去るのは同時だった。

 

 

 

 

 

 

――『叶』――


――今日は風が吹いていた。

吹き付ける…と表現できるほど強い風でもない。
だが、冬という季節柄、その冷たい風は肌に刺さるような錯覚さえも覚えさせる。
「さむ……っ」
少年、雄哉は冷風に身を強張らせ、思わず呟いた。
太陽が真上に昇る時間だというのに、一向に温かくなる様子は無い。
すぐにでも初雪が降りはじめそうな寒さだ。
彼が踏みしめる最近舗装されたばかりの無機質なアスファルトの鈍い光沢も、その寒さを一層際立たせているかのようだった。
「あーあ…今日はポカポカ陽気になるんじゃなかったのかよ…」
雄哉は一人ごちる。
昨日の夜に彼が見たテレビの天気予報によると、今日は初秋の気温になる筈だったのだが…実際はこの通りである。
今日の気温は初秋どころか真冬並みだ。
もっとも、吹き付ける風により体感温度がさらに下がっているため、真冬という感覚には多少の誤差があるかもしれないが。
天気予報を信じ、薄着をしてきた事を彼は今さらながら後悔していた。

ぶわっ

再び風が吹く。
散り落ちて、人や動物に踏みにじられ、原形を失いかけた紅葉が風に踊る。
曇天と、そこに舞う赤い紅葉の不格好な色彩のコントラスト。
空で一通りの舞を披露した紅葉は、風と共に地へと落ちた。
散り残った紅葉が風に吹かれて雄哉の頬に張り付く。
だが、彼は頬に張り付いたままの紅葉を取り去ろうとはしない。
否、出来なかった。
彼の両手にはそれぞれ大きなボストンバッグ。
ついでに背中には小さなナップザック。
つまり、彼の両手は完全に塞がっている状態なのだ。
周囲の人間に修学旅行か家出少年と見られてもおかしくは無いだろう。
もちろん修学旅行などではないし、家出をしなければならない程に家庭が荒れているわけでもない。
「俺は…何をやってるんだろうな…」
雄哉は自分の両手を見て呟く。
寒さのためか、思考回路が上手く働かない。
何かがあったはずだ。
そうでなければ、このような馬鹿げた荷物を持って町内を徘徊する事も無いだろう。
俺は………何を……

「…………あ」

ふと、雄哉は顔を上げる。
(そうだ…俺は……)

 

……俺は美奈の願いを叶えるんだ。

疲労で途切れかけていた思考を雄哉はかろうじて繋ぎ止め、両の手に持つボストンバッグを持ち直した。
中身の重さに取っ手が軋む。
そして、雄哉の腕も軋んでいた。
だが、こんな所で立ち止まっているわけには行かない。
ボストンバッグの取っ手を握る力が無意識のうちに強くなる。

すぅ、はぁ。

過剰な運動で乱れていた呼吸を落ち着ける。

そして――雄哉は再び前を見て走り出したのだった。

 

 

 

 

三竹学院高校の校門前。
雄哉の担任は走ってくる彼を見つけると小さく手を振った。
両手が塞がっている雄哉は微笑で答えると、担任の前に立ち、重い荷を降ろす。
「ご苦労だったな、田口」
担任は労い、置かれたボストンバッグに手を伸ばした。
だが、雄哉は首を横に振って丁重に断ると再び二つのボストンバッグを持ち上げる。
「……いえ。それよりも、わざわざお付き合いいただきありがとうございます」
二つのボストンバッグの重さに翻弄されながらも頭を下げる雄哉。
ふらふらと揺れるその様子はどう見ても危なっかしかったが、雄哉の目が“ボストンバッグは自分で持つ”と言って聞かなかったので、担任は諦めて雄哉に任せることにした。
雄哉は千切れそうな腕を持ち上げて腕時計を覗き込む。
ちょうど16時を過ぎたあたりだ。
西の空は赤く染まり、強い西日が真白い校舎を照らしていた。
校庭に人の影は殆どない。
それもそのはず。
今日は土曜日であり、部活動も午前中で終わっている。
今の時間まで学校に残っているような物好きもいるにはいるだろうが、すぐに家路につくことだろう。
雄哉は担任を顔を見上げる。
ちょうど、担任と目が合った。
雄哉と担任は揃って頷く。
そして時折、校門から出てくる生徒に逆らうように雄哉達は校舎の中へと向かった。

 

 

学校の廊下を雄哉達は歩いてゆく。
雄哉と担任の足音と、窓の外から聞こえる遠くの喧騒のみが辺りに響いている。
いつもは歩きなれたこの廊下も夕日に照らされて赤く輝き、それが何故か物悲しい雰囲気を漂わせていた。
雄哉はやはり両手の重みで頭をふらふらと揺らしながら担任についてゆく。
だが、それでも雄哉は両手の荷物を手放す事はなかった。
担任はそれを憐れむような目で見つめ、ふと足を止める。
目の前には扉がある。
雄哉が通い慣れた、雄哉のクラスの教室の扉だった。
担任はポケットから鍵を取り出す。
そして扉の鍵穴に差し込み、捻る。
扉がカチャッという音を立てると、扉は担任の手に抵抗する事なくからからと音を立てて開いた。
中には誰もいない。
いつもは喧騒が止まない教室も、雄哉と担任――2人しかいない今は空気の流れが止まっているかのように静まり返っている。
雄哉は担任に促され、この教室での雄哉の席に右手のボストンバッグを置く。
次に雄哉の隣の席にもうひとつのボストンバッグを置いた。
その間に担任は教室の明かりを点け、教卓の前へと立つ。
あたかも、これから授業を始めるかのように。
雄哉は自分の席に置いたボストンバッグから中身を色々と取り出す。
筆記用具、ノート、教科書。
それは普段、雄哉が実際の授業で使っているものだった。
これを自分の机の上に置くと、次に雄哉は隣の席に移ってその席に置いたボストンバッグの中身を出す。
こちらのボストンバッグから出たものも教科書やノート、筆記用具という勉強道具。
それらを雄哉の隣の机の上に置く。
隣同士の机の上に同じものが並んだ。
ただ、違いを述べるとすれば、雄哉の机に載っている男物の筆記用具に対し、雄哉の隣の机に載っているものは全体的に女物が多い。
そして雄哉の隣の机に載っている教科書は、雄哉が去年使用していた一年次のものだった。
雄哉はナップザックを下ろす。
チャックで止められた口を開き、雄哉はその中に手を入れ、中から綺麗に折りたたまれた薄いカーキ色の布を取り出した。
それを雄哉の隣の席の椅子の上に置く。
薄いカーキ色のそれは、美奈が購入したばかりの彼女の新しい制服だった。
雄哉は美奈がそれを着ている場面を一度も見た事がない。
あるとすれば…夜中、幽霊の美奈が着ていた姿のみ。
それを考えるだけで涙が零れそうになる雄哉だったが、懸命にこらえながら自分の席に着く。
彼が黒板に目を向けると、黒板には既に様々な数字が書かれている。
それは、高校一年次の最初に習う「二次関数」の公式を表している事が雄哉には分かった。
「起立」
全ての文字を書き終えた担任が静かに告げる。
教室に椅子を引く音がひとつだけ響いた。
「注目……礼」
雄哉は担任の言葉に合わせるように静かに呟く。

「…………着席」

 

――そして、雄哉と美奈の特別授業が始まった。

 

 

 

 

 


気が付いてみれば簡単な事だ。
幽霊の美奈が、実際には一度も着た事のなかった三竹学院の制服を着ている。
これが雄哉にとっての一番の違和感だったのだ。
確かに美奈自身は家で見慣れていた。同じく三竹学院の制服は学校で見慣れている。
だが、三竹学院の制服を着た美奈というものを雄哉は見た事がなかったのだ。
それが美奈にとっての唯一の悔いと言えるのではなかったのか。
雄哉はそう思ったのだ。

『これからはお兄ちゃんと同じ学校に行けるんだよー』

はちきれんばかりの笑顔でこう言った美奈。
美奈はただ、雄哉と同じ学校に行きたかっただけなのだ。
雄哉と共に学校に行きたかっただけなのだ。
そんな小さな、小さな夢。
それをようやくその手に掴み、あとは入学を待つだけとなった美奈に降りかかった…あの事故。
美奈はどれだけ悔しかっただろう。
美奈はどれだけ辛かっただろう。
その美奈の気持ちにようやく気付いた雄哉は、即座に行動へと移した。
雄哉はまず、学校の中で美奈と一番親しかった自分の担任に連絡を取り、事情を説明した上で無理を言って土曜日の夜中に特別授業を開いてもらうよう頼んだ。
美奈の幽霊を説明する時はさすがに担任も戸惑いを隠せなかったものの、担任は雄哉の一生懸命な気持ちを理解し快諾してくれた。
ただ夜中に学校に忍び込むだけなら雄哉ひとりにも出来るだろう。
しかし問題は2つある。
ひとつは学校に忍び込んだ所で勉強を教える者がいないという事。
もうひとつは学校に忍び込んだ後の先生方からのお咎めをどうやって切り抜けるかと言う事。
だが、それは雄哉の担任を呼ぶことによって解消できるのだ。
事情を知る担任は、他の先生からの尋問も「忘れ物を一緒に捜してあげていた」の一言で済ませるつもりらしい。
その一言で他の先生を言いくるめられるとはさすがに思ってはいなかったが、雄哉は担任を信じ、決定にまったく躊躇しなかった。
担任と話をつけた雄哉は次に、家にあった二つのボストンバッグを持ち出し、両方のボストンバッグの中にそれぞれ大量の教科書とノート、筆記用具、そして上履き、体育用のジャージなど、学校生活に必要なもの全てを入れた。
片方には自分の為のものを。もう片方には美奈の為のものを。
次に雄哉は美奈の部屋へと行って、彼女の部屋から美奈の真新しい三竹学院の制服を持ち出し、雄哉がいつも使用しているナップザックの中へと入れた。
既にこの世に居ない美奈の代わりに。
そして、美奈が願っていた『三竹学院の生徒になること』を叶える為に。
その準備を全て終え――土曜日、雄哉はそれを実行するべく、大量の荷物を持って家を飛び出したのだ。

――そして、今に至る。

 

 

全てが終わった時には既に日付が変わっていた。
校内は雄哉達のいる教室を除いて静まり返り、昼は外でひっきりなしに聞こえていた車の通る音も殆ど聞こえなくなっている。
時折、犬の遠吠えが町にこだまするだけだ。
担任と雄哉、そして美奈は全ての特別授業を終え、帰宅準備を始めている。
朝から始めて夕方に終わるフルタイムの授業だ。
夕方から始めればこの時刻に終わるのは必然だろう。
それは分かっていたものの、雄哉は自分の我が儘に最後まで付き合ってくれた担任教師に感謝の念を禁じ得なかった。
担任は無言で様々な文字が書かれている黒板を綺麗に掃除する。
雄哉は自分から道具を片付けようとしない美奈の代わりに道具を片付けて彼女のボストンバッグへと入れてやった。
全ての物を片付け終え、雄哉がふたつのボストンバッグとナップザックを携えて立ち上がると、担任も黒板を掃除し終えたらしく無言で雄哉のもとへ歩み寄ってくる。
担任は普段の学校生活では絶対に見せない“無表情”を雄哉に見せていた。
それだけ疲労が濃いのか、それとも美奈の死に思う事があるのか…それは分からないが、雄哉は頭を下げる。
「先生…本当にありがとうございました」
申し訳無さそうにうなだれる雄哉の頭をポンポンと叩き、担任は笑った。
「これで、美奈が安らかに眠ってくれるなら…それでいい」
頭の上に載せられた先生の優しさ。
そして、美奈の永遠の安息を願う雄哉の気持ちが、再び雄哉の目に涙を呼び戻す。
今度は堪えなかった。
雄哉は思い切り泣いた。
体面を気にせず、情けなく、哀れに、子供のように泣きじゃくった。
担任は雄哉の頭を小さな子供にするかのように優しく撫でる。

――担任の手は少しだけ震えていた。


そして、程なく教室から雄哉の嗚咽が消え。
担任は雄哉の頭をもう一度ポンと叩くと、廊下へと出た。
雄哉は静かに顔を上げる。
彼の目は真っ赤に充血している。だが、涙は無かった。
「……田口」
担任は立ち止まったままの雄哉を呼ぶ。
雄哉はぎこちない笑みを作り、そしてゆっくりと足を踏み出した。
両手に持つボストンバッグと背中のナップザックは重かったが、足どりは軽い。
これが美奈の願いかどうかは分からない。
だが、やるだけの事はやった。
そんな充実感が雄哉の中にあった。
美奈の願いが違うものなら、今度こそ叶えてやれば良い。
雄哉はそう心に決めていた。
彼は先に教室を出た担任に続くように廊下へ出る。
だが、その前に雄哉は一度足を止めた。
「………美奈」
そして、小さく呟く。
「…俺はお前に会いたい。お前が死んだってこと、本当は信じたくないんだよ」
彼の呟きは静寂の中にむなしく消えていく。
担任はその声に振り返る。
だが、彼が美奈に話しかけている事に気付いた担任は、少し離れた場所から雄哉の様子を悲しげに見つめていた。
その言葉は美奈には届かない。
担任はもちろん、雄哉にも分かっている事だった。
「でもな」
それでも、雄哉は伝えたかった。
「ここに居る美奈の心と、土の中で眠る美奈の体があって、ようやく美奈になれると思うんだよ」
雄哉は告げる。
彼は笑っていた。
ぎこちない笑みだったが、笑っていた。
「俺はお前に会いたいけど…ここで美奈の心だけが散歩をしていたら、美奈の体が寂しがるだろ?」
悪戯っぽく言う雄哉。
久々に出した、明るい声だった。
「……だからさ」
言って、雄哉は振り返る。
向き直った雄哉の目に、誰も居ない薄暗い教室が映る。


はずだった。


雄哉は絶句する。

目の前には、美奈が居た。

雄哉の隣の席――つまり、美奈の席として使った場所に三竹学院の制服を着た彼女はちょこんと腰掛けていた。
闇に染まった青黒い髪の毛が、現実に美奈がそこにいるかのようにさらりと流れて美奈の肩から下りる。

「……だから…っ…さ…っ」

雄哉の呟きが再び嗚咽に変わる。
だが、雄哉はそれでも笑っていた。

 

美奈にこの言葉を伝える為に。


「……だから……俺は、絶対にお前を忘れない…心だけはずっと傍に居てやるから………」


美奈を快く送り出す為に。

 

 

「……安らかに……眠ってくれ……」

 

 

……美奈に、別れを告げる為に。

 

 

 


雄哉は自分の為には言いたくない言葉――だが、美奈の為に言うしかない言葉を彼女に告げた。
美奈は微動だにしない。
いつも雄哉の部屋で見せていた、儚げで何の意思も持たない表情を浮かべたまま。
だが、雄哉自身も彼女の反応は期待していなかった。
そもそも、消えてくれと言われて喜ぶ人間など居る筈がない。
もし自分が同じ事を言われたら、その人間を恨むに違いないだろう。
雄哉は恨まれることを承知で、もう一度笑いかける。
そして踵を返した。

「……さようなら、美奈」

最後に雄哉はこう呟く。
美奈の反応は無い。
静かに教室を出て、彼は後ろ手で扉を閉じた。

だが。

 

 

―――アリガトウ

 

 

「……!?」

雄哉は美奈の声を聞いたような気がして、もう一度、壊さんばかりの勢いで扉を開ける。
美奈の姿は夜の闇に呑まれて殆ど消えかけている。

 

 

 

―――闇に薄れていく美奈は、雄哉を見て優しく微笑んでいたような気がした。

 

 

 

雄哉が瞬きをした次の瞬間には、美奈の姿は教室から消えていた。
そこに美奈が居た痕跡も何も残さずに、美奈は最初からそこに居なかったかのように。
だが、美奈が最後に見せた微笑は本物だったと、雄哉は信じて止まなかった。

美奈の微笑を心に刻み、雄哉は腕時計を見る。

――時刻はちょうど深夜1時を過ぎたところだった。

 

 

 

 

――『眠』――


愛する家族がこの世を去った絶望の秋から、ふたつの季節が巡る。
いつもの通学路を雄哉は慌てて走り抜けていた。
道端の花は赤、黄、橙と様々な色に輝き、上を見上げると満開の桜がその存在を堂々と示していた。
……が、当の雄哉はそれを感慨深く見つめることもなく、桜が舞う道をいつものように駆け抜けていく。
「くそ…っ。新学期早々、遅刻なんかしてられるかよっ」
雄哉は吐き捨てる。
今までは優雅な中だるみ生活を続けていた雄哉だったが、今年は晴れて高校3年生。
ちょっとした遅刻が約1年後の内申に響くのだ。
新学期、それも新年度の授業1日目に遅刻したとなれば先生に目を付けられることはまず間違いない。
もちろん悪い意味で。
これからそんな生活を送るのは何としても避けたい所だった。
雄哉は思い切り走る。
両手の荷物がとてつもなく重く感じられるが、気にしている余裕はない。
青信号はとにかく突っ走り、黄信号は気にせず突っ走り、赤信号は戸惑いつつ突っ走って雄哉は学校に向かう。
そして予鈴5分前。
雄哉はヘッドスライディングさながらのダイビングで自分の席に着いた。
2年生の頃からの友人が両腕を横に広げて「セーフ!」と叫んでいたりするが、雄哉はそんな事よりもホームルームに間に合ったという充実感でいっぱいだった。
始業式の時点で自分の教室と席を把握していたことが功を奏したらしい。
もしも覚えていなかったらと考えると背筋が凍る思いがする。
「よお、相変わらずギリギリだなあ」
先程、野球の真似事をしていた友人が嘲笑と苦笑を半々に混ぜたような表情で話しかけてきた。
「そんなにいつもギリギリというわけじゃないと思うけどな…」
雄哉はふてくされながらも過去の習慣を振り返ってみる。
2年生最後の授業の時はホームルームの真ん中に学校に来て先生に怒られた。
終業式の時は終業式に間に合わずに先生に怒られた。
……やっぱりギリギリかもしれない。
雄哉は新たな真実を知ったような気がした。
周囲の人間にとっては既知の事に過ぎなかったが。
「ま、そんな田口に朗報だ」
雄哉の友人は何とかは歯が命とでも言わんばかりに白い歯を輝かせて哂う。
“笑う”じゃなくて、“哂う”なのがポイントだ。
こういう時はろくでもない事を言い出すのがこの悪友なのだ。
そんな雄哉の心境を知ってか知らずか、友人は雄哉にビシッと人差し指を突きつけて告げる。
「一時間目は化学実験室に移動だ。その重そうな荷物をさっさと整理するんだな」
「うわ! マジでろくでもねえよ、このやろう!」
雄哉は憎まれ口を叩き、慌てて荷物を取り出す。
今日の雄哉の持ち物は小さなナップザックで2つぶんあった。
体育があるわけでもないし、部活をやっているわけでもない雄哉の今日の授業の用意としては人より幾分多いような気がする。
もしもこれが周りの人と同じ量の荷物だったならもう少し余裕を持って教室に着けたかも知れない。
だが、雄哉はこの荷物を削る気にはならなかった。
雄哉の手が焦りで震える。
ホームルームまで残り何分だろう。
雄哉は気になったが、時計を見る時間が惜しくて作業をそのまま続けた。
ナップザックから、次々と勉強道具が取り出される。
化学の教科書、ノート、下敷き。
そして、ちょっと大きめのものが“ぽふっ”という空気を吐き出したような音と共に机の上に置かれた。
それを見て、友人は絶句する。
「た、田口…それ……」
雄哉は言われてその取り出したものに目を向けた。
「あぁ……」
何にも問題はないだろ、という視線を友人に向けて、雄哉はそれを広げた。
それは、薄いカーキ色の布――つまりは三竹学院の女子制服だった。
「あぁ、じゃねえよ! お前、ついにそんな方向へと……」
「…違うって」
雄哉は女子制服をナップザックの中に戻し、パタパタと手を振る。
友人は怪訝そうに雄哉を見つめた。
こういう時、いつもの雄哉なら慌てて否定するはずなのだ。
「…何か、大切なものなのか?」
友人は言う。
先程よりもトーンが低めな友人の声はどことなく物悲しさも感じられた。
「……ああ」
雄哉も勉強道具をナップザックから取り出しつつ静かに答える。
友人は何かを思案するように腕を組んで虚空を眺めていたが。
「……そっか」
そう言って、それ以上は追求しようとしなかった。
ふざける時はふざけるが、踏み込んではいけない所は決して踏み込まない。
悪友でありながらも雄哉がこの友人と付き合うのは、このような一線をしっかりとわきまえる人間だからであった。
雄哉は筆記用具を取り出すためにナップザックの中に手を入れる。
中には布の感触があった。

美奈……。

雄哉は心の中で呟く。
美奈がこの世を去ってから5ヶ月が過ぎた。
あの夜中の特別授業以来、美奈が現れることはなくなった。
一時は半恐慌状態となっていた父と母もようやく正気を取り戻し始めている。
ただ、美奈の幽霊の記憶が心の傷にでもなっているのか、母は1週間に3,4回の頻度で美奈の墓参りをしていた。
せっかく心と体が一つになって落ち着いたところだ、もう少しゆっくり眠らせてやれと言いたい気持ちもあるにはあるが、雄哉はあえて何も言わなかった。
それで母親の気持ちが済むのならそれで良いし、美奈も母親に何度も墓参りに来てもらえて寂しい思いをしなくて済むだろう。
かくいう雄哉も1ヶ月に1度、墓参りに行っているのだが。
父親には「もっと美奈に会いに行ってやれ」とよく言われているのだが、雄哉は断っていた。母親だけではなく雄哉まで頻繁に出入りしていたら、それこそ美奈の休息がなくなってしまう。
――それに、雄哉にはこれがある。
美奈がいつか着たいと願っていた、この三竹学院の制服が。
これを学校に持ってくることにより、美奈と一緒に登校し、美奈と一緒に授業を受け、美奈と一緒に下校している気持ちになれるのだ。
もちろん、思い上がりなどと言われれば反論は出来ない。


だが…美奈がこの制服と共に在り、雄哉の心は美奈と共に在る。
雄哉はそう信じている。


「こら、席に着けっ! ホームルームが始まるぞ!」
新しい担任の怒声が教室に響き渡った。
新しいクラスメイトも古くからの友人も蜘蛛の子を散らすようにバラバラになり、そして自分の席へと素早く着席する。
「…やべ。結局、化学実験の準備してねえよ……」
雄哉はこそこそとナップザックから筆記用具を取り出す。
「こら、そこ! 話を聞け!」
再び担任の怒声。
よくもまあ、そこまで声が出るもんだと感心しつつ顔を上げると、担任の指はまっすぐ雄哉へと突きつけられていた。
「……うそん」
雄哉が現実を理解出来ずにいると。
「……お前、名前は?」
担任が目を吊り上げて問うた。もはや脅迫だ。
「…………田口、雄哉です」
雄哉は渋りながらも答える。
名簿を確認し、担任は不満気に唸った。
「……田口、人の話はしっかりと聞かないとダメだぞ」
「はい……」
…と、言うしかなかった。
やはり、新年度早々怒られるのが田口雄哉なのか…?
頭を抱えて落ち込んでいると、悪友が声を殺して笑っていた。
後で覚えてろ…。
雄哉は悪友に対して親指を立て、それをひっくり返して真下に下ろす。
そして、雄哉は今度こそ先生の話に耳を傾けた。



4月。
新しい季節。
時は過ぎるし、季節は巡る。
記憶も薄れる。
だが、俺が美奈の事を忘れることは一生ないだろう。
…いや、一生ない。
この美奈の制服があれば…いつでも美奈の笑顔を思い出せるのだから。

雄哉は美奈の制服に触れ、静かに笑った。

 

 

 






「田口! いい加減に話を聞け! もういい、廊下に立ってろ!」

 

 

 

 






――大切な記憶を残し、季節は巡る。