7th 
 
 
 電車のドアが開き、車内は本来の季節を取り戻した。
 冷房で無理矢理冷やされた車内の空気が我先にとドアから飛び出し、かわりに熱を帯びた外気が次々に電車に乗り込んでくる。
 このような場所に居なければさえ常に私に纏わりついて離れない熱気ではあるが、徐々に冷房に慣れはじめていたこの体には少々辛い。
 車内に僅か残る冷気が恋しくて、このままここで涼みたいという悪魔のささやきが脳裏をよぎる。
 だが悪魔が私を誘惑するその前に、下車せんと乗降口に迫る人の波にのまれ、私は電車から搾り出された。
 睨みつけるような視線をこちらに向けつつ、いかにも“上司にこき使われてストレス溜まってます”な顔つきをしたサラリーマンが私の横をすり抜け、早足でホームを歩いてゆく。
 乗降口の前に居座っているのはさすがに迷惑だったか。
 私は電車から離れるように歩を進める。
 先程出て行った冷気がこの辺をうろついていても良いものだが、あれほど私の身体に馴染んでいた空気は薄情にも私を置いてどこかへ行ってしまったらしい。
 次に会った時は人との関わりを大切にするよう言い聞かせなければ。
「……………」
 頭に浮かんだくだらない思考に苦笑する。
 どこかネジが外れた思考を脳から追い出すように嘆息してみるが、それは蒸すような空気に侵され、不快な風を外界へ送るに過ぎなかった。
 9月。
 夏も終わりだというこの時期に、太陽はこれでもかとばかりに未練がましく光を投げ込んでいる。
 まるで在庫が余った夏物の服を破格で売りさばくような大盤振る舞いだ。
 ………迷惑な事この上ない。
 ホームを守るかのように長く伸びる屋根のおかげで太陽の光を直接浴びる事はないものの、真夏の太陽と風がもたらす熱風は屋根などものともせずに私の身体へと纏わりついている。
 ただその場に立っているだけで、不快な汗が肌を滑っていった。
 私はポケットからハンカチを取り出し、額にあてる。
 ハンカチはみるみるうちに湿り気を帯びていく。
 ちょっとでも絞れば溜まった汗が滴り落ちそうだ。
 
 ――暑い。
 今さら言うまでもないが、暑い。
 
 私はすっかりびしょびしょになってしまったハンカチを折りたたみ、ポケットの中に入れる。
 
 ――が。
 
「………?」
 ポケットに入れた手に違和感を感じ、その正体を引き抜く。
 私の手にあるのは小刻みに震え続けている携帯電話。
 電車に乗ってからマナーモードに設定したまま解除するのを忘れていた事を思い出した。
 私は折りたたまれた携帯電話を開き、そのディスプレイを見る。
 無機的に並ぶ、11桁の数字。
 
 私は溜め息を一つ吐き、
 
 ――ピッ
 
 電話を切った。
 
 一日に三度はかかって来る電話。
正直言って鬱陶しい。
着信拒否にすればいいと思うかもしれない。
けれど、どうも私という人間は「そこまでするのもなあ」と、変な同情と言うか、情けを抱いてしまう。
しかし電話を取ることもしないのだから、結局は相手に対して悪いのではないかと誰かに言われたことがある。
電子機器を挟んだ人間関係というのも難しいものだ。
 
携帯電話を手に持ったまま見えない何かに対して言い訳を繰り返していたら、またこいつは震えだした。
本当にこの個人端末サービスはひっきりなしだ。
手元に無いと何かと不便なのだが、こんな時には「誰だこんな面倒くさい機械考え出した奴は!」と怒鳴りたくなってしまう。
ディスプレイを覘くと、やはり。
同じ番号、同じ名前。
 
私はさっきより深い溜め息を吐き、
 
――ピッ
 
今度は「通話」のボタンを押した。
 
「しつこいぞ」
『あーっ、つながったー♪』
電話越しに、この熱気にもさっぱり負けない明るく高い声が返ってくる。
「つながったーじゃない。私は通勤中だぞ?暇じゃないんだ」
『何イライラしてんの?1日の始まりに好きな人の声聞いて充電したいな〜って思ったりしない?』
「・・そんな乙女回路に私を巻き込まないでくれないか」
結構あの手この手で断っているんだが電話の相手が諦める素振りを見せた例は無い。今回もそうだ。
『あたしが錬志(れんじ)の声聞きたいんだから錬志の希望はい〜の!』
こんな調子で「恋人になってくれ」ってんだから。
大人を舐めているとしか。
 
「あ〜そうかい。・・・随分静かだけどお前どこに居るんだ?学校は?」
『え〜?んふふふふぅ〜。どこにいるかといいますとぉ♪・・・って学校?やばっ遅刻だこりゃ!』
家にでも居たのか。
社会に出てみて思う。
「遅刻」で済む学校というシステムのなんと羨ましい事か。
嗚呼、あの頃に戻りたい・・・
 
『急がなくっちゃ!里恵(りえ)さんバッグ取って!・・・あ、ありがと!・・・うん、ごちそうさま、行ってきます!』
ぼんやりと懐古していた私の耳にあわただしい声が飛び込んできて現実に引き戻される。なんだと?里恵、だって?
「おいこら!何でお前が私の家にいるんだ!?」
 
ツー、ツー、ツー・・・・・
 
いつの間にか鳴き出したオフィス街の蝉の声がひどくうるさい。
こちらの都合を無視してかかってきた電話はこちらの疑問をすべて無視して切れていた。
急に周りの温度が高くなった気もする。
これ以上暑くなったら倒れてしまうのではないか。汗がべっとりとついてしまった携帯のモニターをハンカチで拭う。
 
三度目の溜め息。
そして歩きだしながらボタンを数度押した。
アドレス帳を開き、一つの名前を選択する。「里恵」。妻の名前だ。
 
『どうしたのれん君?忘れ物?』
「なんであいつがウチに居て朝飯食ってて『行ってきます』なんだ?」
『おかしいかな?』
明らかにおかしいだろ。どこの世界に夫に言い寄る女子高生を朝っぱらから家に上げて朝食までサービスしとるのか。どんな妻だ。
高校のときから付き合っているが、いまだに謎が多く、本気で怒った顔を見たことがない。
とことん大物なのか笑って怒るタイプなのか。
こいつはどうも前者らしい。
しかも大物と言うより独特の強烈な価値観のものさしを使っているようなのだ。
 
『まあとにかくわたしは楽しいよ。千佳(ちか)ちゃんいい子だし』
「どこがだ。人の迷惑全く考えてないぞあいつ。この前会社の入り口まで来られて変な噂立ったんだからな」
瞬間、電話越しにものすごい笑い声が聞こえる。
里恵はツボに入ったらまずい。
窒息してしまうのではないかという勢いで笑い転げる。
笑い事じゃないぞ。
『ひゃひゃひゃ、あ〜可笑し。援助交際してたんですか佐倉さ〜んって感じ?ぷくくはっ!』
その通りだ。だから笑い事じゃないって。
『ふふふ、笑わせてもらったわ。あ〜、おなか痛い。産まれる予感大ね』
「くだらん冗談は里喜(りこ)の胎教に悪いだろ。切るぞ」
『はいはい、お仕事がんばって』
「ああ、8時には帰るから」
 
結婚して3年。これといってどちらが主導権を握ると言うわけでもなく、犬も食わないような言い争いをすることもなく、倦怠期もなかった。
空気のように互いがそこに居て、空気のように互いに必要で、そんな10年間だったと言える。
年の瀬には新しい家族がこの間に加わるのだ。
現在お腹の中で7ヵ月の里喜だ。
その割には大きすぎると医者の見立て。
どうも私達の愛の結晶は順調すぎるほど順調なようで。
平凡すぎるほど毎日が穏やかで幸せで。
彼女のことを愛しているし、彼女も私を思ってくれているはずだ。
 
だから―――
 
あいつが入り込む余地なんて最初から無い。
里恵の反応はそれがわかってるからだと思う。
遊んでいるだけなのだ、今のこの状況を。
 
ま、言い寄られている当人として、鬱陶しい事には変わりないのだけれど。
 
 
 
 
 
「・・で?いつになったら仕事を始めてくれるのかな?」
 
聞きなれた声にふと我に返った。
辺りを見回すとさっきとは比べ物にならないほどの閉鎖的な環境。
 
目の前には自分が毎日使っているデスク。
昨日仕事終わりに片付けた時のまま、主を待つ従順なカタ物だ。
 
右方向には自分が毎日使われている課長。
昨日仕事終わりに挨拶したときとは違い、部下に腹を立てている堅物だ。
 
いやいや、上手い対比表現考えてほくそ笑んでる場合じゃない。
私はいつの間に出勤完了していたのだろうか。
 あんなに暑かった熱気はどこにも感じられず、快適すぎる空調が涼やかな心地よさを演出している。
先程さよならも言わずに行ってしまった礼儀知らずの冷気さんに、気づけば私は挨拶もせずにまた包まれている。
これでは私も人のことを、いや、空気だから人ではないか、のことを礼儀知らずなどと言えないな。
と、また我ながらくだらないことを考えているが、そんな場合ではないことは課長の顔を見れば明らかである。
 
そう、汗だくのままなのだった。
オフィスの空調は快適だがこのままでは風邪をひいてしまうかもしれない。
とりあえず何かで体を拭いたほうがいいか。
 
いや、違う。
そうじゃないだろう。
朝からあの馬鹿娘に中てられてしまったのだろうか。
どうも思考回路がおかしい。
とりあえずこれ以上課長の機嫌を損ねないようにしなければ。
1社会人として、社内で「さっぱり笑えない、ちょっぴりまずいこと」になる予感大だ。
「え〜っと・・おはようございます、課長。今日もお元気そうで何よりです」
「・・・そう見えるかね?」
「ええ、それはもう。今日も1日バリバリ働きましょうね!」
 
快晴、酷暑の真夏日。
室内にカミナリが落ちるのもまあ仕方ないことと言えるかもしれない。
 
「まったく、出勤してきたと思ったらデスクの前で携帯電話片手に握り締めて延々硬直して何度呼んでも返事が無い!何が『働きましょう』だ!」
15分。
雷雨は止む気配を見せない。
この上司は基本的に『いい人』なのだが叱責時間は長い。
明らかに仕事をする時間まで大きく削っていると言うのに。
ただ、私もそれを顔に出したり不満げに口ごたえをしたりするほど私も子どもではない。
 
雨は止むのだ。
雨宿りしていればいずれ。
けれど、今日の雷雨は変な方向に洪水注意報が出てしまったようだ。
 
「連絡を待っていたのは奥さんか?それとも『あの』女子高生かな?」
やばい、蒸し返された。
その話を待っていたとばかりに同僚たちがにやにや顔を向けるのが横目で見える。
「ちょっ、課長。そういうんじゃないですよ」
課長の目が意地悪く光る。
くそう、マウントポジションでも取ったつもりか。
実際そんなようなもんだが。
 
「いやあ、妻の妊娠中が一番浮気しやすい時期なんだよねえ、佐倉君。まさか愛妻家の君がそうなるとは・・・」
あいつは『姻族の従妹』と言い訳して『浮気説』は実質解いたが、からかうネタとしてはさっぱり飽きる気配が無いようだ。
「またそこで『じょしこ〜せ〜』ってのが錬志先輩コアッすよね。罪深い!」
橘のヤツめ。
そんなに私で遊びたいか。
しかもこいつの発言はなにか漢字変換に問題を感じる。
「条例を忘れちゃいないだろうな、佐倉君。犯罪はいかんよ犯罪は」
課長ももはや怒りを忘れてからかう楽しみに没頭している。
今まで私はみんなに弱みをあまり見せなかったからな。
絶好の機会とばかりに弄られてしまっている。
「とにかく、その話は終わりましたんで仕事に戻ります」
 
毅然と言って余裕を見せたつもりだが、それでも今回はどう見ても完全に敗北、撤退だな・・・
 
「先輩〜、にしてもやっぱうらやましいっすね〜」
「なにがかな?橘クン」
ようやく落ち着いて仕事に入ったが、機を見て隣のデスクから後輩の橘が声をかけてきた。
「あんなにかわいい奥さんがいてまだ『じょしこ〜せ〜』っすか?しかもまたけっこうかわいい子」
「だから違うと言っただろう。あの馬鹿娘に高い評価を出すな。あと正しく漢字変換して喋れ」
どうもこいつはそういった趣味の持ち主と言うことか。間違った道に進まなければいいが。
「・・・知ってるんですよ。親戚なんかじゃない、『おしかけ通いの幼な妻』だってね♪」
「また歪んだ事を・・・誰から聞いたんだそんな事」
橘は親指をぐっと立て、とびきりの笑顔で答えた。
「奥さんっす!」
 
ごいん!
 
硬いデスクにおもいっきり頭を打ちつけた。
痛い。
が、ツッコミどころは多い。
すぐに跳ね起きて、橘の襟を掴んで引き寄せた。
「どうしてお前と里恵の間にそんな情報のやり取りがあるんだ?」
橘が右のポケットに手を入れて、紅いメタリックカラーの携帯電話を取り出す。
朝から私を悩ませる元凶の、時代の最先端を行く機器、またしてもお前か。
「あれ、錬志先輩知りませんでしたっけ?俺と先輩の奥さんメル友なんすよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」
 
どうも状況の確認ができないんだが。
あの、橘君、もうちょっと詳しい説明を・・って驚いて急に声が出ない。
「いや、奥さんと変な事は遺憾ながらありませんよ。ほら、情報の交換のためにですね、前に家にお邪魔した時にアドレス交換を・・・」
遺憾言うな。
人の嫁だろ。
しかしなるほど、だからか。
思い当たる節があった。
里恵が会社で起きた何気ない私のミスや笑い話をなぜか知っていて、おちょくられる事が幾度かあった。
情報ソースはここからだったか。
私の家にこいつを招いて飲んだ事は失敗だった。
 
橘は携帯電話をしまい、更に身体を寄せてくる。
「で、ここからです。出会いの詳細をぶっちゃけてくださいよ」
何を言い出す。
そんなことをあっさりこいつに話すほど私も馬鹿じゃない。
溜め息を一つ吐き、私は口を開こうとした。
―――が、
「課のみんなには全部黙っててあげますから。俺からは金輪際このネタ振りませんから!」
痛いところを突かれた。
 
親戚なんて嘘をついたという事がばれれば本当に犯罪者扱いされかねない。
 「お願いしますよ〜。『長くなるからめんどくさい』って奥さんも教えてくれなかったんですよ」
 私が詰まったのを見て畳み掛けてきた。
 というか里恵のやつそこまで言っといて詳細を教えないってまたひどいな。
本気で誤解されるだろうが。
どうせなら最後まで説明して私の潔白を証明して欲しいものだ。
あいつ私にクビになって欲しいのか?
 
 証明しなければならないのか、このお喋りに。
「仕方ない・・・約束だぞ、黙ってろよ・・・」
 
こうして、私は不本意ながらもあの馬鹿娘との奇妙な関係の始まりについて語らなければならなくなった・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
満員電車というやつはもはや公害のひとつと認定していいだろう。
枕木をまたいで揺れる車内にすし詰めの人、人、人。
人口過密によって生じる熱気は冷房の存在を忘れさせる。
無論言いようのない怒りを覚えるが、かといって誰に当り散らすわけにも行かず、この社会を恨む事しかできない。
それでは不毛なため、私はいつも狭い空間ではあるが本を読むことにしている。
右手に鞄、左手に本。
痴漢に間違われない為の対策にもなるわけだ。
それにしても今日はいつにもまして混んでいるんじゃないか。
げんなりしたが、すぐにマイナス思考を振り払った。
時間は有効に使いたい。
 
里恵のお腹の子は女の子だとわかった。
今のうちから名前を考えておいて損は無い。
お腹越しに呼びかける際に、できるなら名前で呼びかけたいではないか。
というわけで、人名漢字と字画に関する本を読んでいたのだ。
むぅ、「里緒(りお)」なんていいな。
いや、「里子(りこ)」なんてのも響きが可愛くていいかもしれない。
新ヒロインにぴったりな子だといいが・・・
おや?どうも関係ないことを考えているような気が。
 
―――そう、そこまでは日常だったのだ。
変化は突然訪れるものなのだ。
 
「いいかげんにしてよっ!」
バシィッ!
 
いきなり目の前が真っ白になって、左頬と鼻頭が熱く燃えた。
一瞬何が起きたのかわからなかったが、目の前に涙ぐんだセーラー服の女の子がいる。
年は16くらいだろうか。
いわゆる「若者風」の、ではなく、特に化粧も染髪も派手でない、「普通風」の女の子。
細身で、荒く息を吐きながら上下する肩にちょうどかかるくらいのストレートな黒茶の髪。
意志の強そうな目でこちらをきっと睨んできている。
一文字に固く結ばれた口も笑っているようには見えない。
 
これはもしかしなくても・・・・私、痴漢と間違われて叩かれたのか?
「いや、あの、何を思ったか知らんがとにかく誤か・・ゐッ!」
 
もう1発きた。
いい右してやがる。
ほんと痛い。
というか聞け、人の話を。
 
「今さらなに言ったってねえ!」
「だから聞け!私の手は塞がってるだろ!誤解だ!」
怒りの瞳が一瞬緩む。
私の右手の鞄、左手の本を2度、3度と往復して確認する。
面食らった顔をしたが、すぐに引き締まった。
「じゃ、じゃあおにーさんの方向から伸びてきたあの手は何だって言うのよ!」
「それこそ知るか!」
 
こっちももう怒りが沸点に達した。
朝っぱらからこんなムシ暑い中で2度も全力の平手打ちを受けて痴漢扱いされているのだ。
これでは私でなくとも切れてしまう人は多いのではないだろうか。
 「とにかくあたしは痴漢されたの!」
 「とにかく私じゃないって言ってるだろ!」
ええい、腹が立つ。
こちらも平手の1発くれてやりたいところだ。
女子高生とか関係ない。
男女平等というやつだろう。
そうだ、なにが「女は殴ってはいけない」だ。
平等に責任を負ってもらわねば!
前方に油断無く、迎撃体勢を崩さないまま、改めて姿勢を正し、拳を握りこむため、鞄と本を離した。
 
・・・ん?違和感。
 
なにか変だな。
攻撃にうつりにくい。
手を出すだけなのに・・?
ううむ、もう1度だ。
基本を繰り返そう。
 
「明日のために、その1。脇を締め、右脇えぐり込む様に・・・」だろ?
 
私の頭の中で開かれたバイブルのうちの行はこれで間違ってないはずだ。
が。
むう、やはりおかしい。
脇を締めるときに感じるこの違和感は・・・?
私は左脇に視線を落とした。
 
 
 
・・・・・・・手だ。
 
 
 
私の脇から第3の手がある。生えたのか?いやいや、これは・・・・手だよな。
「なあ・・」
「なによ!」
「そういきり立たんとこれを見てくれ」
女子高生の視線が私の左脇に落ち、1秒後、瞳がまんまるに広がる。
「おにーさん」
「なんだね?」
「脇しっかり閉めてて」
「了ー解」
かくして痴漢疑惑は晴れ、真犯人が捕まったのだった――――
 
 
「いや〜、ごめんねおにーさん。後ろに居たからつい・・」
駅の警備室。
捕まえた痴漢を引き渡し、女子高生が笑いながら話しかけてきた。
ここで笑って「いいよ」と言えるほど人間ができている訳ではない。
2度も叩かれた左頬はいまだ熱と鈍痛を帯びている。
少し腫れてもいるようだ。
この分ではくっきり手形が2つ、重なり合って真っ赤についていることだろう。
 
「も〜、そんなぶすっとした顔してないでさ。ごめんって」
「会社は遅刻確定だ。ほんとろくでもないことに関わった」
とりあえずいやみを言うこと位しか思いつかないのは私の感性が貧相なためなのだろうか。
「ああ、一応『痴漢逮捕協力』という事で『遅延証明』を発行する事ができますよ」
横で聞いていた鉄道警察の警官が教えてくれた。
ほう、最近はそういうこともするのか。
社会はこうして痴漢撲滅に向かっていくのだろうなあ。
・・・実際の成果はどうあれ。
 
「も〜、黙っちゃって。あっそうだ。おわびになんかプレゼントしてあげる」
私がまたどうでもいいことに思案を巡らしているうちになにやら一人盛り上がっていたようだ。
「いらん、子どもから物もらうほど低収入じゃないよ」
「なによ、あたしだってバイトしてるからお金はあるもん。いいから連絡先教えてよ」
言うが早いか人の鞄を、そしてポケットを漁りだす。
おい、これは痴漢行為とは呼ばないのか?
「こら、やめろ!というか、こいつ止めてくださいよ!」
振り返るが、警官は完全に無視。
これは痴漢行為で補導するべきじゃないのか!?え!?
「あったぁ!ケータイと手帳!」
「馬鹿!人のものを勝手に・・!」
女子高生は私の手をするりとかわし、間合いを取った。
「ふむふむ、佐倉錬志っていうのね。え〜っと、まずあたしの番号を登録して・・・」
 
女子高生の携帯電話を操作する指の動きはあまりにも速い。
ほんのわずかな時間に全ての作業が終えられてしまった。
私の妨害をものともせずに。
こういうのをニュータイプっていうんだろうか。
とにかく人種が違うと思う。
絶対深いところで分かり合えない。
 
「そうだ、あたしもまだちゃんと名乗ってなかったよね」
いや、正直言って聞きたくない。
もうこいつと関わり合いにならないほうがいいと私の本能が告げているのだ。
だからといってここで「いや、名前なんてどうでもいい」とスパッと言えるほど冷酷でもない。
 
「あたし、宮村千佳、16歳。よろしくね、錬志」
「よろしくも何もすぐに他人に戻る間柄だぞ」
そして仮にも10歳年上に向かって呼び捨て。
別に普段は年齢の序列など気にするほうではないが、さっき怒鳴りあいをしていただけにむっとする。
「またそんなつまらない事ばっかり言って。『この不思議な出会いに乾杯』とか言えないの?」
そんなこと言う奴は頭の機能にどこか障害があるのではないのか。
出来上がった遅延証明を受け取り、電話と手帳を取り返して私は立ち上がった。
もうこの女子高生――千佳って言ったかな、と話す気もそんな時間も無かった。
「どうしても聞きたいなら言ってやるよ。『この不快な出会いに完敗』。じゃあな、達者で暮らせ」
「なあに?もう行くの?あ、お仕事か」
「そういうことだ。そうそう、侘びも礼もいらないからな。忘れろ。私は忘れる」
歩きながら振り向かず答えた。
何かわめいていたようだが、扉を開けて朝の駅の喧騒に対面してしまった私の耳では聞き取る事はできなかった。
 
朝からひどい目にあった。
千佳、って言ったっけか。
迷惑この上ない娘だったな。
ま、もう会う事もあるまい。
 
―――――――と、この時は思っていたのだ。
 
 
 
 
 
「まさかこんなにも付きまとわれるようになるとは」
社員食堂。
橘に事の顛末を聞かせるうちに昼休みに入ってしまい、昼食ついでにここで話をしていた。
「は〜。先輩、突っ込んでいいっすか?」
「何だよ」
橘は箸をおき、一口お茶を飲んだ。
「なんか『電車男』みたいっすね」
「言うな」
 
話し疲れて言葉少なげに箸を動かす私が食べているのは社食のメニューではなく里恵の弁当だ。
さっきから何気に箸を伸ばしてくる橘から玉子焼きを守るのに悪戦苦闘している。
ほんと、箸で刺してやりたくなるな。
「それで?なんか貰ったんですか?」
「あ〜、なんかティーカップが送られてきた」
「それってやっぱ・・」
「触れるな。まあ向こうとしてもそれを意識してたらしいんだがな」
「・・というと?」
お茶を飲んで溜息をひとつ吐く。
正直本当に勘弁して欲しいものだが。
「すぐに電話なりメールなり待ち伏せなりが始まって、『好きになっちゃった。付き合ってよ』だそうだ」
 
ブフッ!
 
橘が吹いた。
ええい、汚いな。
危うく弁当がお釈迦になるところだった。
「なんだその羨ま人生はー!」
 
キレられた。
私は被害者だというのに。
「迷惑してるって言ってるだろ?産まれてくる子にも悪影響としか思えない」
「そういう問題じゃねえ〜!男として・・漢としてなあ〜〜!!」
 
その後昼休みいっぱい、更には就業時間まで、羨む橘にキレられ続けた。
 
 
定時で無理やり課長と橘を振り切って、帰り道でふと目に付いた土産を買った。
『珍しい事を』とかからかわなければいいが。
しかし、今日はなんだか疲れたな。
キレた橘の仕事妨害と課長の小言のダブルパンチが鬱陶しかったせいだ。
溜め息をひとつ吐いて、家の扉を開けた。
 
 
「「お帰りなさいませ、ご主人様」」
 
 
パタン。
 
そのまま扉を閉めて3秒。
止まっていた思考を早足で回転させる。
今目の前にあったものはなんだったんだ。
メイドが2人居たような気がするが・・?
表札を確認する。
ここは私の家だ。
間違いない。
疲れてるからなあ、幻が見えることもあるかな。
 
ガチャリ
 
また扉を開ける。目の前にはやはり2人のメイド。
1人は私を痴漢扱いした件の女子高生。
もう1人のメイドは腹が出ている。
妊婦のメイドなんて聞いた事ないわい。
下働きなんてせずに産休を取れ産休を。
 
そりゃそうか。
ふと納得した。
家に帰ったらメイドがいるなんて幻が見えたとしたらそれは末期症状だ。
これは、現実だ。
悪夢のようだが、現実だ。
「「お帰りなさいませ、ご主人様」」
「・・・頼むからやめてくれ」
そう、忘れていた。
この馬鹿娘はこの家にもはや顔パスで入れるという事を。
家主の意向は、もちろん無視だ。
女同士同盟でも結んどるのか。
・・・・・・・・・・・・・・・とにかく疲れた。
 
 
「で?そんな阿呆な格好をしてる理由から聞いておこうか」
ダイニングで食卓を囲みながら。
主人と一緒に食卓を囲むメイドって言うのもなあ。
給仕しろよと言いたい気もするが、本物では無いので敢えてツッコミは入れないでおこう。
「いやあ、あたしメイド喫茶でバイトしてて。それで服持ってたの」
「入手経路なんてどうでもいい、こんな奇行に走った理由を陳述してもらおうか」
「いや〜、それでわたしが着てみたいって言ったのよね」
里恵も似たような喋りかただな。
こいつらなんで私を挟んでうまくやれてるんだ?
不思議でならない。
「演劇部時代の熱い魂が疼きだしたのはわかった。だからあんな奇行を企てたのか」
「うん、この姿でれん君をお出迎えすればイチコロだよって千佳ちゃんに言って・・・」
夫が女子高生にイチコロになって欲しかったのかお前は。
それより・・・
「なるほどな、またてっきり私がメイド嫌いなのを知っててわざわざ嫌がらせに用意したもんだとばかり・・・」
「あれ?れん君メイド嫌いだっけ?」
「基本的にな」
しかし、メイド服なんてのは下働き用の服だ。
妊婦の腹のことなんて考えて作られて無い。
少し心配になる。
「な〜んだ、錬志メイド嫌いなんだぁ・・・」
「どんな方向性で来ようとお前になびく気は無いぞ」
「ぶ〜!なによ錬志のいけず!」
 
・・・「いけず」なんて久しぶりに聞いたな。
正直言語表現の衰退のほうがよほど気を引いていた。
 
 
「・・ご馳走様」
「お粗末様でした」
「おそまつさまでした〜」
食事を終え、一息。
今日の食後のお茶は熱いミルクティーだ。
こんなくそ暑い時期に。
本当に何かの嫌がらせとしか思えない。
 
―――ともかく。
そろそろ終わらせる頃かな。
 
「2人とも、ちょっといいか?」
「なあに?」
「言われなくてもちゃんと帰るけど・・?」
リビングのソファで二人が振り返る。
「あ〜・・・とりあえず着替えて来い」
まじめ腐った話は、洗い物もそこそこTVに夢中なメイドには話す気にもならなかった。
 
「で、なあに?宿題あるから早く帰りたいんだけど」
セーラー服に着替え、荷物も詰め、帰り支度は万全のようだ。
話が早くて後で助かるな。
私はじっと千佳を見つめた。
こうやって正面から見るのはひょっとしたら初めてかもしれない。
「お前の話だよ。・・・いつまでこんな事続ける気だ?」
千佳の顔から笑みが消えた。
「こんなことって・・?」
「いくらなんでもいい加減気づいてるだろう?振り向く見込みの無い男追っかけまわしてどうする?」
「あ、あのねえ、人の気持ちなんて・・」
「幸せな家庭を壊してもか?」
 
こいつに最後まで言わせない。
なんと言おうと聞く気は無い。
無駄な事をわからせてやらないといけない。
「もうすぐ里喜――子どもが生まれる。仮に私と恋人になったら里喜をどうする気だ?」
「ど、どうって・・あたし里恵さんも好きだし、リコちゃんもみんなで仲良くや・・」
「馬鹿言うな」
 
子どもじゃない。
表情を見れば読み取れる。
こいつだってわかってるはずだ。
そんなことはありえない。
そんな世界は、ない。
「子どもが『みんな大好き』って言ってるのとは違う。私と一緒になるってことはこの家庭を壊すってことだ」
そこには必ず不幸がある。
産まれてくる子に。
里恵に。
私にも。
そして―――
 
「お前はその結果を背負う事ができるのか?自分の為に不幸になった人を知ってて、それでもお前はひとり幸せになりたいのか?」
目の前の千佳はもう涙目で震えだしていた。
「それでお前は幸せなのか?」
きついかもしれないが、これくらい言わなければ。
「だって・・だって・・」
「なぜ私なんだ。次の恋を探したらどう・・」
最後まで言えなかった。
激昂し、立ち上がった少女があまりに真剣だったから。
 
「だって7回目なんだもん!運命なんだもん!」
 
何の事だ?と問う事はできなかった。
そのまま駆け出して出て行ってしまったから。
私は溜め息をついて、隣に座ってずっと一言も喋らなかった里恵のほうを見た。
悲しげではあるが、相変わらず微笑んでいた。
「なあ、私は間違ったこと言ってたかな?」
「・・ううん、わたしもあれでよかったと思う。千佳ちゃんなら大丈夫。今は駄目でもそのうちきっとわかってくれるよ」
「・・そうかな」
簡単にいくとも思えないが。
けれど里恵は屈託の無い笑顔で頷いた。
「そうだよ、だって千佳ちゃんいい子だもん」
「・・・そっか」
いい子かどうかはまだ議論の余地があるかと思うが、里恵がそう言うのならきっとそうなのだろう。
あまり心配する必要は無いのかもしれない。
カップを片付けようと立ち上がり、後ろを振り向いた。
 
(お邪魔しています)
 
最初は空耳だと思った。
ぼんやりした声。
顔も身体もまるでわからないフードとローブを被った「人」が、そこにいた。
「だっ誰だ!?」
いつの間に・・鍵はしまってたはずだし、千佳が出て行ってからまだ5分もたっていない。
ダイニングへの入り口は見えるところに座っていたのだから今後ろに居るのは明らかにおかしい。
 
(すいません、そろそろ説明が必要かと思いまして)
フィルターの掛かったような声は変声機とは少し違うようだ。
男か女かもはっきりしない。
まるっきり異質な存在だった。
「どういうことだ?」
(あの子、千佳についてです)
「なんであんたがあいつのことを?」
(あの子がああなったのは私の責任でもありますから)
 
冷や汗が止まらない。
いきなり現れた不審人物。
大概こういった類のやつは何をするかわからない。
なんとか里恵だけでも守らないと・・・
「ね、ねえれん君、電話・・・」
柱の側の電話機から里恵が呼びかけてきた。
「ああ、すぐかけてくれ。110番だ」
「そうじゃなくて・・・電話がつながらない・・携帯も。かけられないの。どこにも」
「なんだって?」
(すいません、失礼ですが今は電話をかけてもらうと困るので)
何者だ?超能力みたいな事までやってのける。
声も、普通の人間じゃない。
とすれば。
「あんたは・・まさか幽霊・・とかってやつか?」
(そういうものではありません)
「じゃあ超能力者ってやつか?」
(そういったものとも違うのですが・・・まあ似たようなものだと思っていただいて構いません)
 
私達に危害を加えるつもりは無い、と前置きをしてから謎の存在は再びぼんやりと語りだした。
それはまるで頭に直接メッセージが響いているようであった。
 
(『HEAVENSEVEN』というのを聞いたことはありませんか?)
「なんだ?コンビニの名前か?」
「れん君、それはヘブンイレブン」
思わずボケてしまったが、得体の知れないやつの目の前で気を抜いてはいけない。
と思うのに。
 
なぜか、こいつから危険な感じがしない。
逆に、それが恐ろしいとも言える。
 
「わたし聞いたことある。『7つ目の幸福』の話。乙女ちっくなジンクスのこと・・でいいのかしら?」
(その通りです。『7回目の恋に落ちる事。それが幸福の鍵。運命が幸せをもたらす』と)
そんな迷信があるのか。
まったく、昔から女の子の間でジンクスの類がよく流行っていたっけな。
めんどくさい恋の話にはついていけなかったが。
「そういえばあいつそんな事口走ってたような・・」
(はい、私があの子に言いました。『貴方はこれから多くの恋をする。7回目。7度目の恋は運命。運命の分岐点』だと)
「なんだそりゃ。あんたはなんでそんな事がわかる」
(私は未来を知るものです。未来を伝えるものですから)
 
体中がざわざわしてくる。こいつの言う事が本当なら。
「あんたは予言者ってやつなのか?それとも未来から来たとか言うベタなこと言うつもりか?」
(私が答えを言って、貴方は信じる事ができますか?)
「あんたは普通じゃありえない存在だ。頭から否定する気は無い」
 
無論、無条件で信じるつもりも無い。
「あと、それをあいつは何で信じた?」
そこが不思議だ。高校生にもなってそんなジンクス信じて行動するとも思えない。
(私は未来を知っています。それを信じてくれる迄、あの子が幼い頃からその力を見せてきました)
なるほど、仮に百発百中の未来を見せられたなら私だって信じてしまうかもしれない。
「なぜあいつにそんな事をした?それに、私達を見て本当にそんな運命になると思うか?」
そいつは少し黙った。
私は里恵をかばうようにして立つ。
普通に会話をしてはいるが、目の前の存在が危険でないと判断したつもりは無い。
(何も『7回目の恋の相手と必ず結ばれる、そうでないと不幸が待つ』という意味で言ったのではないのです)
「・・どういうことだ?」
 
 
(・・・貴方は『天使』という存在を信じますか?)
 
 
天使といえば・・・頭の中に、光の翼の生えた機体で漆黒の宇宙を翔る6人の少女が浮かんできた。
いや、これは天使は天使でも某B社のメディアミックス作品だったか。
そういえば中国の皇帝の息子は・・あれは天子か。
「あの、神の使いっていうあれの事でいいんですよね?」
里恵が確認を入れてくれる。
おかげでようやく頭の中にルネサンスの絵画に描かれるようなイメージが浮かんできた。
(・・ええ、背中から白い羽根を生やし、悩める人々を救う為に空から舞い降りてくる者です。今は、神の使いという点は置いて)
「・・いたら見てみたいなとは思うよ」
存在していようがいまいが本当にどうでもいい。
答えたとおり、いるなら一度見てみたいな、という程度だ。
「・・いたら素敵だな、と思います」
里恵も似たような考えでいるようだ。
「それが何か?」
(あの子は遠い未来、天使を混迷の世に送り出す為の助けとなる人物です。その為に、あの子にはこの恋が必要なのです)
遠い未来のため?今の状況があいつの人生に必要だって?
「まあ・・その・・簡単にはいそうですかと頷ける話じゃないな」
「その為に・・れん君と千佳ちゃんが一緒になる必要があるんですか?」
考えたくないな。
遠い将来多くの人が幸福になるからという理由で今の愛情を否定されて黙っているつもりは無い。
そういうことなら将来がどうなろうと知った事ではない。
未来は未来で勝手に何とかしろ。
千佳じゃなくたって何とかなるだろう。
人手不足の会社じゃあるまいし。
(そうではありません。貴方達の幸せを壊す気はこちらにはありません。今をあの子が精一杯生きて、いろんなことを考え、その人生の糧としてくれれば恋の終わりはどうあれ、未来は拓けて行きます。ただ・・)
つまりは私達の関係は安泰なわけか。
まあもともと里恵への愛情はなにがあっても変わらないわけだが。
 
(ただ、人の小さな行動で未来はどうなっていくかわからないものなのです。未来は全て決まった事ばかりではありません。たとえば貴方がある日道で小石をけったかけらないかだけで未来が変わることがありえるのです)
喩えの話とは言え・・・なんだか豪快な話だな。
(もちろん本来ならばそれくらいの事は極小さな変化しか及ぼしません。ですから多くの未来は変わることなく現実になる。ですがあの子の未来はとても不安定だった。そして現実にならなければ多くの犠牲者が出るような未来だった。だから―――)
「幼い頃からあいつの行動を縛り付けてきた、わけだな」
フードが縦に揺れた。
肯定を意味しているのだろう。
言葉が良くなかったために声に出すのは憚られたのか。
そう、これでは―――
あいつは未来の犠牲だ。
遠い未来あいつが間接的に救う人間の代わりに、何も知らずにあいつが犠牲になっている。
数字の損得で言えば歴史を陰で支える功労者だ。
しかし。
 
「あんたはわかっているだろう?自分がやっている事がどれだけあの子にとってひどい事か」
(とうに外道として地獄で裁かれる覚悟はできています・・多くの人々の救い主を生む助けとなるのです。あの子1人の、犠牲で済めば・・)
正論だ。
それは正しい事だろう。
仮にその嘘くさい『天使』とやらによって世が救われた後にこのことが明らかになれば、この目の前の導き手は英雄となるだろう。
世の誰からも賞賛されるはずだ。
あいつ自身、それをよかったと思うかもしれない。
けれど。
 
「・・・私はあんたの考え方は嫌いだな」
(・・・ありがとうございます)
何に対しての礼なのか。
敢えて訊ねることはしなかった。
 
(そろそろお暇しなければ・・・)
ようやく出て行ってくれるか。
本当に危害を加えられる事は無かったようだ。
少し安心して、力が抜けた。
(最後に、貴方達にこれから訪れる苦難はきっと乗り越えらる物です。最悪は起こりません、貴方達のお互いへの想いが起こさせないでしょう)
「おいおい、不吉な事を言うな。私は信じないぞ」
最後に何てこと言い出すんだ。
思わず再び身構えた。
「乗り越えられるんですね?」
里恵がにっこり笑って答えた。
「じゃあ大丈夫です。未来がわかる人のお墨付きなら」
とことんポジティブなやつだ。
「あんた、今回は見逃すけど話を信じたわけじゃないから・・え!?」
 
いない。
全身を布で隠した謎の存在が。
影も形も。
入り口は私と里恵の背後だ。
気づかれずにいけるはずが無い。
そもそも動いた気配すら感じなかった。
足音も衣擦れ音も。
あっけに取られてきょろきょろあたりを探し回る私の後ろで、
「あ、アンテナやっと立った」
里恵のぽやぽやと緊張感の抜けた声が夢のように聞こえた―――
 
 
 
 
 
 
 
昨日のことは夢なのではなかったか。
そうとしか思えない。
昨日、あんなに暑かった気温が一日明けると肌寒くなるくらい涼しい朝を迎えたように。
暑かった日々を忘れ、早くも寒さをしのぐ方法を考えなければならないように。
そう、それは9月の、急に涼しくなった日だった。
 
外回り中に立ち止まり、私はポケットに手を突っ込んだ。
私の手にあるのはお気に入りのアーティストの歌声を流している携帯電話。
 不意に鳴り出したそれ。
 涼しくなったとはいえ、歩いていれば汗もかく。
急に立ち止まって風を受けると汗が急に冷たく感じ、背中がぞくりと震える。
そう、それだけのはずだ。
感じてしまった嫌な予感。
気のせいだ。
汗のせいだ。
では急にざわついたこの心を落ち着けられないのはなぜだ。
ごくりと息を呑む音がなぜかよく聞こえる。
周りに誰もいなくなってしまったかのようだ。
 私は折りたたまれた携帯電話を開き、意を決してそのディスプレイを見る。
 無機的に並ぶ、11桁の数字。
 
 私は溜め息を一つ吐き、
 
 ――ピッ
 
 電話を切った。
 
あの馬鹿か・・・・
心配して損した。
いつもどおりじゃないか。
馬鹿みたいに怯えてしまった。
まったく。
 
1呼吸分程度の間で再び鳴り出す。
しつこいやつだな。
そんなに言いたいことでもあるのか。
それともまた「1日の始めには〜」とかくだらない事を言い出すのだろうか。
というかあいつまた私の家か?
 
………そういえば、昨日家を飛び出して帰ったからな・・・
それが心配といえば心配か。
うん、別にあいつと話したいわけじゃないぞ。
それに嫌な予感が気になるわけでもないぞ。
うん。
昨日言い過ぎたかな〜とすこ〜し気遣ってやってるだけだ。
そう、別に怖いことは何も無いしな。
よし、理論武装終了。
 
――ピッ
 
通話ボタンを押した。
 
『れ、錬志!た、大変なの!来て!早く!』
・・うるさい。
いきなり耳元で大声を聞いたせいで耳が痛くなった。
「何なんだ、落ち着いて喋れ!」
私は苛立ちを抑えずに語気荒く答えた。
『う・・うま・・うま・・』
「馬?」
『産まれるの・・・』
 
 
は?おい、まさか・・?
 
『里恵さん・・お腹痛いって・・来たって・・・赤ちゃん産まれちゃうって!』
 
まさか、ありえるはずが無い。
まだ・・・
 
「冗談だろ?あいつは今まだ7ヵ月・・・」
『でも・・!里恵さん時計見てて・・痛みの感覚調べて病院に電話したら救急車が来て・・お願い早く!』
 
信じられない・・
けれど、とにかく里恵とお腹の子に何かあった。
 
 
走り出した。
走るしか考えられなかった。
とにかく急がないと。
私の頭の中にはもうその思いしかなかった・・・
 
 
 
すぐにタクシーを捕まえて、飛ばしてもらった。
病院が近くて助かった。
入り口で聞くと、既に分娩室だという。
看護師の静止も聞かず病院内を走った。
たどり着くとそこには千佳がいた。
力なく長椅子に座っていた。
 
「よう」
千佳の返事は無い。
のろのろと顔を上げてこちらを見て、泣き出した。
「なに泣いてるんだ。お前のおかげで随分早くついたんだ。病院からの連絡待つよりずっとな」
正直泣きたいのはこちらも同じだ。
だが、ここで取り乱しても始まらない。
 
「佐倉さんですね」
1人の看護師が声をかけてきた。
「はい、妻は・・子どもはどうなってるんですか?まだ7ヶ月なのに・・・」
疑問は尽きない。
どうせ医学的なことはわからないことだらけだろう。
でも、2人は無事なのか。
それだけは聞きたかった。
「まず、7ヶ月での早産というのはありえる事なんです。お母さんも赤ちゃんも無事というケースも少なくありません」
 
まず、一息。
 
「里恵さんの場合8ヶ月くらいまで大きかったのでほぼ問題は無いでしょう。産声も上げることができますよ。しばらくは保育器の中という事になるかと思いますが・・・」
「無事に産まれてこられるんですね?」
「ええ、そうなるように医師達が全力を尽くしています」
それならいいんだ。
多くは望まない。
2人が無事ならそれでいい。
思わず力が抜けて長いすに座り込んでしまった。
「よろしければ出産に立ち会うこともできますけど・・」
「いや、以前に話し合ってるんで立会いは結構です」
いつだったか、『さすがに出産のときは切羽詰った顔してるだろうから見られたくない』とか言ってたっけ。
それなら是非とも見たいものだと余計乗り気になったのがいけなかったのだろうか。
3日ほどひどい嫌がらせを受けた覚えがある。
ものすごい仮面のような笑顔で。
 
「そうですか、それでは」
看護師が一礼して去っていく。
礼を言って、隣で座っている千佳を見た。
涙は止まっているものの、なにやら沈んでいるようだ。
 
 
「家に行ったら里恵さんが苦しそうにしてて・・・お腹押さえてたから慌てちゃって・・・」
どれくらい時間がたったのか。
千佳がぽつりぽつりと話し始めた。
なるほど、こいつ今日の学校はサボりか。
「すぐに病院や錬志に電話しなきゃならないのにあたしと話そうとするの。苦しそうなのに。あたしが電話しようとしたら見たことも無いような厳しい顔で『いいから聞いて!』って言われちゃった」
鼻を少しすすって話は続く。
不謹慎にも私は里恵の厳しい表情というのに興味があったが。
 
少しずつ少しずつまどろっこしいくらい順を追って話は続いた。
里恵の気持ち。
私の思うとおり、2人の間に割って入ることは千佳にはできないだろうということも。
不思議な予言者が現れた昨夜のことも。
『天使』の部分は巧みに避けてあの導き手が語った「7度目の幸福」の意味も。
そして―――
 
「里恵さんね・・またあたしと遊びたいって・・赤ちゃんと一緒に遊びたいって言ってくれたの。あたしに『お姉ちゃん』になってって言ってくれたの」
里恵がそういったのなら、つまり私には選択権は無いってことになる。
それで、私の心も決まった。
 
少し前から考えていた事がある。
あいつもきっと同じことを考えているはずだ。
同じなら、問題ない。
 
「お前は・・・どうしたい?まだ私のこと追っかけるのか?ヘブン・・とやらをまだ信じてるか?」
「あたし・・・」
私の目に映るこの少女はあまりにも小さく見えた。
自分が今までそう信じてきたものを、元凶が「違う」と言った所で受け入れる事は容易くない。
信じていた言葉は、この少女の全てを、今までずっと支えてきたから。
 
この少女はここで潰れてしまうのだろうか。
ここで立ち上がるのは16歳の子には少し難しいかもしれない。
けれど、この千佳を昔からずっと見てきたあの謎の存在は、この千佳なら乗り越えられると思うから今の状況を作らせたのだ。
一歩前へ、進めると信じて。
自ら外道となって。
残酷な方法で導いてきたのだ。
「あの人は言ってた。未来はちょっとしたことでも大きく変わると。だから7は絶対じゃない」
 
今、少し大げさに言ったかもしれない。
別に小石を蹴ったって未来は変わらないらしいし。
 
 
しかし、そもそも7がどうした。
ラッキー7の由来なんてどこかのパチンコ業者が作り出した商業主義ご都合主義丸出しの数字じゃないのか?どうせ。
いや、真実は知らないけども。
あれ?野球だっけか?
つくづくどんな時でも場と関係ないアホ話を展開して考えられるこの頭がたまに憎い。
 
「あたし・・・は・・この先運命の出会いなんか無くたっていいから・・里恵さんと、赤ちゃんと、錬志と・・一緒に笑って・・・たい・・」
 
必死の告白だったに違いない。
半端じゃない覚悟が必要だったに違いない。
それでも言った。
縛られてた運命から、自分を開放したのだ。
 
そう仕向けた存在は、今これを見てどう思っているのだろうか。
謀がうまくいって、未来を思って安堵の溜息をついているのだろうか。
それとも、目的のために少女を苦しめた事を思い、涙のひとつでも流しているのだろうか。
それはわからないけれど。
おそらくもう、あれはこいつの前には現れない、そんな気がした。
 
「だめ・・・かな?」
千佳が泣きながらこちらを見上げてきた。
こちらの答えなんて決まっている。
だから、敢えて私は困ったような顔で口を開くのだ。
「・・わ」
 
 
 
 
・・ぎゃあ、おぎゃあ!
 
 
 
 
頭の中が真っ白になってばっと声の方向を振り向いた。
これは・・・この声は・・
「・・・え?」
「産ま・・・れた?」
産声だ。
間違い・・ない。
産まれてくれたのだ。
 
「錬志・・・」
「え?」
指さされて気がついた。
 
嬉しいと思う前に、頬を涙が伝っていた。
産声は止まない。
じわり、じわりと喜びが胸の奥から全身へ広がっていく。
 
ぶるり、全身を震わせた。
ここは馬鹿に明るく行こう。
こんなに嬉しいんだから。
 
「さぁ、私も父親か。少しはしっかりしないとなあ」
「あまりの可愛さで親バカになったりしないでね。『娘に近づくな!』とか」
なるかも。
否定はできない。
 
「お前も少しはしっかりしろよ」
「あ、あたしが?」
少し戸惑った。
・・今の言い方じゃこいつにはわからないか。
あまりこいつにかっこいい台詞は言いたくないんだがな。
仕方ない、いっちょ元演劇部の真髄見せてやるか。
 
「・・お前も、『お姉さん』になるんだろ?」
千佳の目が大きく開いて、そこに溜まっていた涙が零れ落ちた。
「・・・いいの?」
「私には決定権は無い。持っているのは中に居るあの2人だ」
産声が止まない分娩室のほうに顎をしゃくって見せた。
 
ようやく、こいつが笑った。
 
 
 
少しして、里恵と子どもの健康が伝えられた。
それだけ聞いて、もう本当に後のことはどうだってよかった。
『苦しみながらも結構余裕で、終始笑顔を絶やさなかった初産婦』の伝説が残ったことも、その時の私にはどうだってよかった―――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「わぁ!これが赤ちゃん!?」
 
 
ガラス窓越しに、保育器に入っている子を見て千佳が歓声を上げた。
「こら、人の娘を『これ』とか言うな。お前も物扱いされたいか」
「ご、ごめんごめん、言葉のあやってやつよ」
まったく、失礼なやつだ。
やっぱ姉認定は早かったか?
 
「か〜わいい〜」
「そりゃあな、誰の娘だと思ってるんだ」
「親バカはかっこ悪いよ」
本当に失礼なやつだ。
 
 
「あれ?枕元で光ってるアレ・・ネックレス?」
ガラスをこんこん指で叩いて聞いてきた。
「あ?おお、この前帰り道で買ったんだよ。親子用のペアネックレス。肌の組織がまだデリケートだからつけないほうがいいって言われたから枕元においてるんだよ。まだ誤って飲んじゃうことも無いみたいだしさ」
「へぇ〜、随分とまあ似合わない事するのね」
すごい目でこっちを見てくる。
なんて頭にくる態度だ。
本当にいい加減にしろよ。
 
 
 
「ま、こんなに早く使うことになるとは計算外だったがな」
「里恵さんも喜んだでしょ」
 
「いや、あげてないよ」
 
「へ!?どうして?」
 
 
 
 
 
 
シャラン
 
 
 
 
私はポケットから片割れのネックレスを取り出して千佳に差し出した。
ええい、照れくさい。
きっと顔は真っ赤になってる事だろう。
後でからかわれるネタになるだろうな。
 
 
 
「『年の離れた姉妹用』でも悪くないだろ。どうせ道端のシルバーアクセ露店の安物だしな」
 
「いいの!?!」
 
うん、改めて口に出して思う。
それも悪くない。
 
「ほら、お前もかわい〜い『里佳』とお揃いが欲しいかと思ってな」
「え?名前・・リコちゃんじゃぁ・・」
 
 
 
 
 
 
 
 
 「家族の誰かの名前を一字貰ってつながりを大切にするのが佐倉家の家訓だ。里恵の字を貰ったんだよ。もう一つは・・字画がよかった!そんだけだ!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 「えへへっ、ありがと、『おとうさん』っ!」
 「・・・・・頼むからそれだけはやめてくれ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 未来のことなんて知らない。
 
 
 
 
 
 知りたいとも思わない。
 
 
 
 
 
 あの謎の存在は今でも気に喰わないし、ローブの中身が見てみたいという以外また会いたいとも思わない。
 
 
 
 
 
 この少女がこの先幸せな恋愛ができるかどうかも知らない。
 
 
 
 
 
 できたらそれでいいし、できなかったらそれも仕方ない。
 
 
 
 
 
 ましてやこの馬鹿娘が未来の重要人物かどうかなんてわからない。
 
 
 
 
 
 とりあえず一般人として私が願う事は
 
 
 
 
 
 両手で届くところにいる、愛する人たちと幸せに笑っていられればそれで十分なのだ。
 
 
 
 
 
 だから、本当に、遠い先のことはどうだっていい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「ほら、里恵のとこ戻るぞ、千佳」
 
 
 
 こいつの名前を呼んだのがこれで初めてだって事も、
 
 
 
 「うん!」
 
 
 
 こいつがそれに気づいているかいないかも、
 
 
 
 
 
 
 全部、どうだっていい―――――