7th 』

 

 

 電車のドアが開き、車内は本来の季節を取り戻した。

 冷房で無理矢理冷やされた車内の空気が我先にとドアから飛び出し、かわりに熱を帯びた外気が次々に電車に乗り込んでくる。

 このような場所に居なければさえ常に私に纏わりついて離れない熱気ではあるが、徐々に冷房に慣れはじめていたこの体には少々辛い。

 車内に僅か残る冷気が恋しくて、このままここで涼みたいという悪魔のささやきが脳裏をよぎる。

 だが悪魔が私を誘惑するその前に、下車せんと乗降口に迫る人の波にのまれ、私は電車から搾り出された。

 睨みつけるような視線をこちらに向けつつ、いかにも“上司にこき使われてストレス溜まってます”な顔つきをしたサラリーマンが私の横をすり抜け、早足でホームを歩いてゆく。

 乗降口の前に居座っているのはさすがに迷惑だったか。

 私は電車から離れるように歩を進める。

 先程出て行った冷気がこの辺をうろついていても良いものだが、あれほど私の身体に馴染んでいた空気は薄情にも私を置いてどこかへ行ってしまったらしい。

 次に会った時は人との関わりを大切にするよう言い聞かせなければ。

「……………」

 頭に浮かんだくだらない思考に苦笑する。

 どこかネジが外れた思考を脳から追い出すように嘆息してみるが、それは蒸すような空気に侵され、不快な風を外界へ送るに過ぎなかった。

 9月。

 夏も終わりだというこの時期に、太陽はこれでもかとばかりに未練がましく光を投げ込んでいる。

 まるで在庫が余った夏物の服を破格で売りさばくような大盤振る舞いだ。

 ………迷惑な事この上ない。

 ホームを守るかのように長く伸びる屋根のおかげで太陽の光を直接浴びる事はないものの、真夏の太陽と風がもたらす熱風は屋根などものともせずに私の身体へと纏わりついている。

 ただその場に立っているだけで、不快な汗が肌を滑っていった。

 私はポケットからハンカチを取り出し、額にあてる。

 ハンカチはみるみるうちに湿り気を帯びていく。

 ちょっとでも絞れば溜まった汗が滴り落ちそうだ。

 

 ――暑い。

 今さら言うまでもないが、暑い。

 

 私はすっかりびしょびしょになってしまったハンカチを折りたたみ、ポケットの中に入れる。

 

 ――が。

 

「………?」

 ポケットに入れた手に違和感を感じ、その正体を引き抜く。

 私の手にあるのは小刻みに震え続けている携帯電話。

 電車に乗ってからマナーモードに設定したまま解除するのを忘れていた事を思い出した。

 私は折りたたまれた携帯電話を開き、そのディスプレイを見る。

 無機的に並ぶ、11桁の数字。

 

 私は溜め息を一つ吐き、

 

 ――ピッ

 

 電話を切った。

 

「なんでついて来るのよ」

 振り返ると、携帯電話を片手に苦笑いを浮かべている男子。

 同じ学校に通っている生徒で、まあ一応の知り合いだったりする。さっきまで乗ってた電車に乗り合わせていたんだけど、私から話しかける事はしなかった。向こうは気づいていない素振りだったがどうやらそうでもなかったらしい。

「いや、今日は委員会の日だったのに、末富さん来なかったな、思って」

 目をあわせようともせずに視線を俯かせて呟くように言う。正直言って、いらつくのよね。大体目の前にいるのに携帯をかけてくるなんてどういうつもりなのかしら。番号を教えるべきじゃなかったのかも知れないけど、今更悔やんでも仕方が無い。

 私は逸らされた視線にぶつけるように言葉を吐いた。

「別に、私の勝手でしょ。校内美化委員なんて真面目にやってる人なんて殆どいないし」

「で、でも末富さんはこの間まで真面目にやってたし……」

「だから、私の勝手でしょ。何? お説教をするためにわざわざついて来たの。ストーカー?」

 私が今いる駅は、学校の最寄の駅から七駅ほど離れた場所にある。

 七駅、と言ってしまうと随分遠いイメージがあるような気がするけど、実際にはそうでもなかったりする。電車は電車でも私が使っているのはいわゆる路面電車というやつなのだ。

 駅と駅の間が数百メートルというところもあるし、駅と言うよりも停車場と言った方がしっくりくるような、こじんまりとした駅が続く。ここのようにホームがある駅は極少数で、他の路線への乗換えなどが出来るようになっている。

「違う、違うよ。その、僕は肥料とか、色々買いに来ただけで、末富さんを見かけたのは偶然なんだけど……」

 慌てたような素振りで私の言葉を否定する男子生徒――確か守山って名前だった。何と言うか、常にオドオドしている男子生徒で、今も例外じゃない。これじゃまるで私がいじめてるみたいで、やけに居心地の悪さを感じた。

 人差し指で前髪をもてあそんで気分を紛らわせながら会話を続ける。

「ふうん、で、目的地はセンター?」

「あ、うん」

 センターって言うのは、この辺りで一番大きなショッピングセンターで、デパートを中心としてホームセンターさ飲食店などが集まっている。何か買い物をする時は電車に乗ってセンターに行くのは私たちにとっては日常的な行動パターンだ。

「……じゃ、じゃあ僕はもう行くよ」

「ちょっと待ちなさいよ」

「?」

 俯いて私の横を通り過ぎようとしていた守山君を呼び止める。って、なんで呼び止めてるのよ、私は。

 特に用事も無いのだから、呼び止めたは良いけど完全に言葉につまってしまう。守山君は律儀に待っているものだから、一種変な空気が流れた。

「……ほら、電車に乗ってた時から私に気づいてたんでしょ? 同じ電車に乗ってた訳だし。なんで話しかけてこなかったのよ」

 そんなその場しのぎの言葉が口から出てきた。

「それは、その。僕なんかに話しかけられたら迷惑かもしれないし、携帯電話だったら出なければ良いかな、と思って」

 それで電車から降りてから電話してきた、って訳か。気を使ったのかもしれないけど、変な気の使い方だと思った。

「守山君」

「うん?」

「あんた、馬鹿でしょ」

「そ、そうかな?」

 彼は苦笑するだけで私の言葉を否定しない。まったく、気が弱いと言うか何と言うか……。

「まあ良いわ。次からは普通に話しかけても良いわよ」

「うん、次からはそうするよ。それじゃ」

 言って、歩き出そうとする守山君。そんなに私と話をするのが嫌なのかしら。自分から電話をかけてきたってのに。

「だから、待ちなさいってば。買い物って、校内美化委員で使うものなんでしょ?」

「う、うん、そうだけど」

「そう……。じゃあ私も付き合うわ」

「え、でも末富さんの用事は?」

 用事、用事ね……。

「良いわよ、別に。特に用事があった訳じゃないから」

 さすがに少し怪訝な表情をされてしまった。それはそうかもしれない。いくらそれほど遠くは無いといっても、電車で七つめの駅まで来て用事が無いなんて、私だって不自然だとは思う。

 思うけど、用事が無いっていうのは本当の事なんだから仕方が無い。理由はあるけど、それこそ他人に言うようなものじゃないしね。

「ほら、さっさと行くわよ。何を買うのか知らないんだから、ちゃんと案内してよ」

 守山君の返事を待たずに、私は歩き出す。

 

 ……九月にしては厳しすぎる日差しは変わらず駅のホームに降り注いでいる。早く冷房の効いた所に行きたい、と心底思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 /

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『は? 末富が校内美化委員に立候補?』

 

『……そうですけど』

 

『本気か? 一体全体どういう風の吹き回しなのか、理由を聞きたいものだな』

 

『別に』

 

『ふむ、そうか。まあ校内美化委員なら他に立候補もいないだろうし、問題は無いだろう』

 

『そうですか』

 

『じゃあ、しっかりやってくれよ。先生としてはこれをきっかけに生活態度も少しでも真面目に改めて欲しいものだけどな』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うっさいわね」

「え?」

 少し後ろを荷物を持って歩いていた守山君がびっくりしたように返事をした。気がつかないうちに考え事をしていて声を出してしまったらしい。

「ううん、なんでも無いわよ。今日は何をするんだっけ?」

「えっと、昨日買って来た物を使って花壇の手入れ。暑いし、汚れると思うから制服じゃない方が良いと思うんだけど……」

 ――――校内美化委員。数ある委員会活動の中でもダントツに人気の無い。その理由は活動内容にあって、その名前から簡単に想像できるように校内の美化する為の活動が主だ。

 具体的には、クラスごとに割り当てられている掃除範囲に無い場所の清掃・学校近辺に捨てられているゴミ拾い・花壇の世話、などなど。それらを放課後に行うのである。

 ボランティア精神旺盛な人ならともかく、誰も好き好んでこんな役割をやりたがる人なんていやしない。どのクラスでも大抵大抵押し付け合いが行われるし、実際に委員になったからと言って真面目に委員会活動に励む人なんてごく少数だ。実際、二クラス四人でやる委員会活動なのに、今日の放課後に集まったのは私と隣のクラスの守山君だけだ。

 私もサボるつもりだったのに、昨日買い物に付き合っちゃったもんだから、つい気になって顔を出してしまったと言うわけ。まあ、着替えるのが面倒だし、適当にやってれば良いかな。後は守山君が勝手にやってくれるでしょ。

 …………。

 守山、君、ねぇ……。

「あのさぁ」

「うん?」

「守山、って呼び捨てで呼んでも良い? なんか君付けって呼び辛いのよね」

 彼からすれば突然すぎる私の提案だったのだろう。返事はすぐには返ってこなかった。

 それでも少しの間を置いて、了解返事がやって来る。

「うん。別に良いよ」

「そう。私の事も呼び捨てで良いわよ」

「い、いや、それは遠慮しておくよ」

 私は内心で嘆息した。やっぱり、私と守山とじゃ基本的に「ノリ」って奴が違うのよね。まあ、校内美化委員を真面目にやるような人と私の相性が良い筈が無いのかもしれない。

 

 そんな話をしながら歩き、目的地に到着する。校舎と校庭の間にある花壇で、結構な広さがあった。周りには背の高い木が立っていて時間帯によっては思いっきり日陰に入ってしまう。そんな場所にあるものだから当然目立たない。私も体育の時間やなんかに視界には入っている筈なんだけど、花壇として意識したのは校内美化委員になってからだったりする。

 守山は持ってきた荷物をその場に下ろして荷解きを始めた。私はと言うと、日陰でなおかつ座りやすい場所を選んで腰を下ろす。当然、手伝う気なんてさらさらない。

 しばらく黙って作業を見ていたけど、守山は私の様子を気にするそぶりも見せなかった。手持ち無沙汰なものだから、手伝ってくれとか指示でも出してくれば良いのに、と考えそうになってしまう。

「ねえ」

 私が声をかけると、軍手をして雑草を抜いていた守山が手を止めずに声だけの返事が返ってくる。

「なに?」

「つまらなくない?」

「……そうでもないよ」

「ふうん」

 …………。

 答えて作業を続けている。

「あのさ」

「なに?」

「その花、なんて言う花だっけ。そう、それ。今にも咲きそうなやつよ」

 守山の視線にそって私が指をさすと、さすがに作業の手を止めた彼がパンパンと手についた土を払いながら立ち上がった。

「ああ、これはコスモスだよ」

 彼の口から出てきた余りにもメジャーな花の名前に思わず驚いてしまう。

 し、知ってたわよ、そのくらい。たまたまちょっと忘れてただけってやつ。良くあるよね。

 なんだか悔しかったので、他の花も指してみる。

「じゃあそれは?」

「シオンだね」

「……それ」

「ネリネかな」

 ほとんど間をおかずに即答してくる。なんで男のくせにそんなに詳しいのよ。

 私は続いて無言で人差し指を動かした。

「これはオミナエシだよ」

「オミナエシ?」

 聞き取りづらくて言いづらいその名前を、一文字一文字区切るように口に出してみる。

「そう。秋の七草のひとつで、万葉集やなんかの歌の素材になったりもしてるんだって」

「七草ねぇ……。食べられるのかな? 七草粥とかってあるじゃん」

 私としてはごく普通の質問のつもりだったのにやけに慌てて守山が反応した。

「ど、どうかな。秋の七草粥はあんまり聞かないけど」

「ふうん」

「お腹を壊すかもしれないし、食べない方が良いかもしれないよ」

 別に食べたくて聞いたわけじゃないんだけど。私ってそんなにがっついて見えるのかな。

「食べないわよ。それにしても随分詳しいじゃん」

 男のくせに、とは言わないでおいた。

「もしかして、花壇の世話がしたいから校内美化委員になったとか?」

 訊くと、彼は答え辛そうに表情を曇らせて作業を再開してしまった。別にどうしても知りたかった訳じゃないけど、なんか面白くない。

 と、思っていたら背中越しに声が届く。

「世話をするために色々調べたんだ。詳しくなったのは委員になってからだよ」

「じゃあなんでこんな面倒な委員会なんて真面目にやってるのよ」

 やっぱりすぐには返事が帰ってこない。

「……僕にはこの委員が向いてるんじゃないかって言われたから」

「誰に?」

「クラスの人に」

「ふうん。案外当たってるんじゃない?」

 何だかんだで守山は真面目に花壇の世話をしてるんだしね。

 

 それっきり会話が途切れてしまう。作業をしている背中を見続けるのも飽きたので、ぼんやりと空を眺めてみる。透き通るような真っ青な空にこれまた真っ白な雲がぷかりと浮かんでいる。風がそこそこ吹いているので、雲はゆったりと空を流れていた。

 太陽の眩しさが、空の青さが目に染みこんでゆく。突き刺すような刺激を感じて、私は瞳を閉じた。

 上を向いて歩こう、涙がこぼれないように。

 そんなメロディを思い浮かべてしまった。

 馬鹿馬鹿しい。

「……末富さんは」

 一瞬、誰の声だか分からなくなる。

「末富さんはどうして校内美化委員になったの?」

 その声が目の前でせわしなく動いている背中から発せられた声である事に気づくまでに、数瞬を必要とした。

 私が、校内美化委員に立候補した理由……。

 

『やってらんねぇ……』

『どうしたの?』

『賭けで負けて、委員会をやる事になったんだよ』

『委員会?』

『しかも一番の貧乏クジ引いたもんだから校内美化委員だぜ、マジでやってられん』 

『ふうん……、じゃあさ、私もやってみようかな』

『やってみるって、校内美化委員をか?』

『うん。賭け事に弱い彼氏を持つと、苦労が多いね』

『勝手に言ってろ』

『またまた、本当は嬉しいくせにー』  

『はいはい、感謝してますよ、彼女』

 

「うっさい」

「は?」

「別にあんたには関係ないでしょ」

「あ、うん。そうだね、ごめん」

 そう言って作業――今は草抜きをやっている――を守山は再開した。

 私はと言うと、明らかな八つ当たりを口にした居心地の悪さを座布団にして座っているようなものだ。いくらなんでも今の返事はあんまりだったかもしれない。大体守山も、「そうだね、ごめん」は無いわよね。こう、言い返してくれれば反応も出来たのに、これじゃあ本当に居心地が悪いだけじゃない。

 って、これは責任転嫁ってやつかしら。良く考えたら今だって作業をただ見てるだけで、まったく手伝いもしていないんだし、居心地が悪いなんて今更よね。

 

「ジュース買ってくるわ」

 そうは言っても延々と沈黙を続ける趣味は私には無い。立ち上がり、守山に声をかける。

「うん。いってらっしゃい」

 ――――相変わらず答えは背中から返ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガコン、と鈍い音を立てて取り出し口に目当ての物が現れる。

 スポーツドリンクを購入して、一瞬花壇まで戻ろうとして、結局その場に設置してあるベンチに腰を下ろした。

 プルタブを起こして一気に喉に滑り込ませる。ひんやりとした感触が喉を通り、食道を通過して体温を下げる。ふう、と一息ついてもう一口、今度はゆっくりと味わうように口に含ませた。

 ぼけーっと空を見上げて、さっきの自分の醜態を思い出す。

 我ながら、みっともなかったと思う。いくら思い出したくも無い事だったからって、あの反応は無いわよねぇ……。

 まあ、好きな男の為に柄でもない委員会活動をやろうだなんて、それがそもそも私らしく無かったのだ。委員会活動に精を出す自分なんて想像も出来ないくらいだったのに、目的を無くした今になっても委員会に顔を出すなんて、相当に私らしくない、と思う。

 

『他に好きなやつが出来たんだ。お前には悪いと思うけど――』

 

 じわり、と目の端に水滴が浮かぶ。もう何度泣いたか数え切れない。それでも涙は流れて出てくるものなのだ、と自覚せずにはいられなかった。しかし、学校の自動販売機の前で泣いている訳にもいかない。

 ゴシゴシと袖で涙を拭って、また空を見上げた。ほんの少し太陽が傾いてきただろうか? 日差しはむしろ厳しさを増してきたように思える。

 両腕を頭の上でぎゅうっと伸ばして、雲をつかむような無意味な動作を繰り返していると、バスケットのユニフォームを着た二人組みがこちらに歩いて来るのが見えた。一人は私と同じクラスの娘だ。

「あれ、亜紀、こんなところで何してるの?」

 目が合ったところで声をかけられる。

「委員会よ、校内美化委員」

「へえ、真面目だねぇ」

 いや、それは無い。少なくとも委員会活動を真面目にやってはいない、と思う。

 苦笑いを表情に出して、パタパタとその前で手を振る。

「まさか。見ての通りサボってるのよ。委員会活動は真面目な隣のクラスの男子がやってくれてるわよ」

「それって守山?」

 とは、もう一人の自動販売機のコイン投入口にお金を入れながらの台詞。

「そう、真面目よね。今も花壇の草抜きをやってるわよ」

「そうなんだ」

 と、意外そうな顔と口調。

「押し付けられて美化委員になったのに、真面目だねぇ」

 別に、意外でもなんでもなかった。校内美化委員なんてひたすら面倒なだけの活動を、好き好んでやる人間なんてほとんどいやしない。大抵は私のクラスの男子のように賭けの対象にされるか、押し付けやすいタイプに押し付けてしまうか、どちらかだ。

 守山はタイプからして押し付けられやすいと思う。

「まあそうでしょうね」

 私が肩をすくめて同意すると彼女は頷いて言葉を続ける。

「いつも俯いてるじゃない? だからゴミも目に付き易いだろうって感じ」

「……それってもしかして、イジメ?」

「ああ、いやいや。そんな事はないと思うよ、うん。ただあんまり友達もいないんじゃないかなぁ。男子のことは良く分からないけど」

「ふうん」

「それじゃ、私たちもう行くね」

「あ、うん。部活頑張ってね」

 軽く手を振って二人を見送る。

 

 二人が去ってから、先ほどの会話を思い出す。実は話をしていた子とは面識が無かったりするのだけど、やっぱり共通の話題があると違うわね。

 空を見上げて、そこから顔をぐるりと地面に向け、ため息を吐く。さほど驚くような話ではない。校内美化委員を押し付けられるなど、珍しくもなんとも無い話だ。むしろ私のように立候補で決まるケースなんて皆無じゃないだろうか。

 そんな風に決まる校内美化委員だから、その士気が高いはずが無い。皆やる気も無く、サボりが常習化している。

 守山の一生懸命さが不思議だった。

 花の世話をする為に色々調べたと言っていた。花壇の手入れをする為に買出しにも行っていた。今日も炎天下の下で汗を流しながら泥まみれになっている。

 押し付けられて、誰も真面目にやってなくて。

 それでどうしてあんなに一生懸命になれるのだろうか。

 

 ――――ま、私には関係無いんだけどね。

 

 勢いをつけてベンチから立ち上がった。

 そろそろ作業が終わってるかもしれない。帰るにしても、一応一言くらいは声をかけておこう。

 私は花壇に向かって歩き出して。

 行程の半分も行かないうちに引き返して。

 スポーツドリンクとジュースを購入して、また花壇に向かって歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 花壇では守山がじょうろで水をまいていた。

 多分、もうそろそろ作業も終わるのだろう。

「ただいま」

「あ、うん、おかえり」

 私が挨拶をしても、相変わらず顔を合わせようとしないで答える。

「ねえ、どっちがいい?」

 と、ジュースとスポーツドリンクを両方の手で突き出して尋ねると、ようやく振り向いて目を丸くしている。

「えっ……と」

「だから、どっちが良いかって言ってるの」

 たっぷり五秒は待った。それでも二人の間に流れるのは沈黙した空気だけ。

 そんな事だろうとは思ったけど。結局スポーツドリンクを無理やり押し付けた。

「あ、ありがとう。お金、払うよ」

「良いわよ、別に。私のオゴリ」

 言って、人差し指で本日二度目のプルタブ起こし。

 守山の視線は手に持ったジュースと私との間を行ったり来たり。

「飲まないの?」

 一口ジュースを口に含む。

「いや、頂きます。どうもありがとう」

 不必要なほど丁寧なお礼を言って、彼も封を開けて缶を口に運ぶ。

「あのさ」

 中身が半分ほどになった缶の飲み口を見つめて、問う。

「委員会活動って、楽しい?」

 守山は少し考えるような仕草を間に置いて答えた。

「まあ、そこそこ、かな」

「その割には一生懸命だよね。なんで? もっと適当にやれば良いじゃない」

 さすがに予想外だったらしい唖然と呆然を掛け合わせたような表情をしている。私だって、どうしてこんな質問を守山にしなくちゃいけないか不思議なほどだ。

「なんでって言われても。僕に向いてるって言われたからやってるだけだし……」

 向いてるって、いっつも下を向いてばかりいるからゴミが目に付きやすいとかって話でしょうが。やる気が出るような言われ方じゃない。

「まあ、やっている内にやりがいを感じてきたような気はするかな……」

 やっぱり、訊いてみたところでさっぱり分からなかった。

「末富さんは……」

 黙って続きを待つ。二、三度言葉を飲み込むような仕草をして、最後には視線を外した。

「末富さんは、委員会活動、楽しくない?」

 私は……私はどうなんだろう、と考えてみる。

 が、考えるまでも無い。楽しいはずがない。やる気も無ければ良い思い出だって無い。

 ホント、楽しいはずがないじゃない。

「楽しくは、ないわね」

「そう……」

 何故か随分と沈む守山。

 でも。

「あのさ」

「うん?」

 今は見えないけど、もしかしたらそこには何も無いのかもしれないけど。

 私には見えないものが、私の知らないものが、そこにはあるのかもね。

 

「明日の委員会活動の予定って、なんだっけ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 職員室で大き目のゴミ袋を二つ受け取って小走りで体育館に向かっていると、丁度向こう側から担任の教師がやって来るのが見えた。

 話す用事も無いので軽く会釈して通り過ぎようとしたら、末富、と声をかけられてしまった。

 仕方なしに立ち止まる。

「最近、委員会活動に熱心だそうじゃないか。いや末富が校内美化委員に立候補したときは、どういう風の吹き回しかと思ったものだが、大したものだ。男子の方にも見習わせたいものだな」

 と、私を褒めてるんだか他を貶してるんだか分からないような台詞を吐く。

 ムッとしたけれど、それを目の前の先生にぶつけたところで私には何の得もない。

「今日は体育館周辺のゴミ拾いがあるんです。急ぎますので、これで」

「ああ、呼び止めて済まなかったな。頑張れよ」

 結局、さっさと退散する事で妥協する。

 今から委員会活動だって言うのに、いきなりテンションが落ちちゃったわ。

 

 

 

「お待たせ。はい、ゴミ袋」

「うん、ありがとう」

 守山にゴミ袋を手渡して、本日の校内美化委員の活動の始まり。今日は体育館の周辺のゴミ拾い。

 一番多いのは体育館を使用する運動部の出す空き缶。飲んだ後はゴミ箱にでも入れてくれたら良いのに、そのまんま捨てるものだから、目立たない場所はまるでゴミ捨て場のような様相だ。

 こういう作業は人海戦術が効果的なんだけど、例によって参加者は私と守山の二人だけ。まあ、もう慣れたけどね。

 そんな訳で、面倒くさくならないうちにさっさと終わらせたいのだ、私としては。

「それじゃ、私はこっちから行くから、守山はそっちからお願いね」

「うん、分かった。それじゃ」

 とまあ、これだけの会話をして二手に分かれてゴミ拾いを始める。

 

 体育館の周りを歩きながら目に付いた空き缶やゴミをヒョイヒョイと手に持ったゴミ袋に入れていく。空き缶とゴミの分別は後でやった方が早い。取りあえずはゴミの回収が先決なのだ。

 半分ほど終わったところで、大物を発見する。どこかの部室の窓の丁度真下のところに、空き缶が散乱していた。飲み終わった後窓から投げ捨てたのだろう。中には明らかに数ヶ月以上は放置されているような汚れたものもあり、異臭を放っている。

 軍手をしているとは言っても、正直触りたくない。と言うか、この場に一秒だっていたくなくなるような惨状だった。

 しかしどうにかしない事には終わらない訳で。

 私はため息をついて散乱している空き缶をやっつける。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、と意味も無く数を数えながらゴミ袋に放り込んでゆく。丁度二桁を数えた時、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「亜紀」

 振り向いて、ぎょっとする。思ったより近くにいた。作業に集中して周りの気配に気づいていなかったみたい。

 そこにいたのは私のクラスのもう一人の校内美化委員。

「どうしたの?」

 自分でも意外な事にすんなりと言葉が出てきた。「あれ」以来、ろくに話もしていなかったはずだ。

「ああ、いや。帰りがけに先生に捕まってさ。お前が委員会活動やってるから手伝え、って」

 なるほど、どうやら来るつもりは無かったらしい。いつもの事なんだけどね。

「ふうん。他に用事があるなら帰っても良いわよ、別に。こっちは一人でどうにでもなるし。先生には上手く言っておくわよ」

 そう言うとそれまでの沈み気味だった表情を一変させる。

「お、マジで? じゃ、じゃあそうしようかな」

「うん。じゃあね」

 返事も聞かずにさっさと作業に戻ろうとするが、話はまだ終わっていなかったらしい。

「あのさ」

「なに?」

「最近委員会活動まじめにやってるらしいじゃん」

「うーん、まあ、一応欠かさず参加はしてるわね」

「へえ、そりゃ意外だな。楽しいか?」

 こっちが普通に対応したからか、さりげなく失礼な台詞を吐いて笑う。私は即答で応じる。

「そうね、楽しくは無いわね。でも、やってみれば何があるか分かるんじゃない? 手伝ってみる?」

 彼は苦笑いと肩をすくめる動作をして、それ以上は何も言わずに去って行く。元々手伝う気は無いのだから当然の反応だと思う。

 だけどなんとなく面白くない。

 だから、後姿に思いっきり舌を出してやった。

 

 ひとつ伸びをしてから作業を再開する。

 雨水だか飲み残しだかが入った空き缶を逆さにしながら考える。

 どうやら、自分でも思っていた以上に吹っ切れていたらしい。一時は何も手につかず、思い出の場所だのをフラフラ徘徊する程だったって言うのに。

 こうやって委員会活動をやる事で、私は変わったのだろうか?

 良く分からなかった。

 相変わらず、面倒くさいと思っているし、それなりにはやっていると思うけど、熱心と言うほどでも無いと思う。

 でも、惰性でやっているとかでもなくて……。なんだろう、上手く言葉で言い表せないような、名前の無いようなものがそこにはある、そんな気がするのよね。

 なんて、ちょっとカッコイイ事を考えながらの作業だったから、思っていた以上に早く終わりそうだった。

 角を曲がると向こう側から掃除をして来た守山の姿が見えた。互いに片手を挙げて会釈して駆け寄る。

「どう?」

「うん、空き缶が随分あったかな。末富さんも大漁だね」

「そうね」

「じゃあ、後は分別をさっさとやってしまおう」

「そうね」 

 それだけの言葉を交わして行こうとする守山を呼び止める。

「ねえ」

 立ち止まって振り返った。最近になって、ようやく目が合う事が多くなったような気がする。

「委員会活動、楽しい?」

「うーん、最近、少し楽しくなってきたかもしれない。……末富さんは?」

 私は空き缶のいっぱいに入ったゴミ袋を両手で抱えて、彼の横に並びかけて、そのまま追い越して歩き出す。

 見上げれば、オレンジ色に染まった空。もう秋も深い。

「そうね、私も少し楽しくなってきたかもね」

 小走りについてくる守山の足音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 放課後になると制服からジャージに着替えるのが習慣になってきた。

 最初の頃は面倒くさがって着替えずに活動したりもしていたんだけど、当たり前の事ながら汚れた。

 着替えの手間と汚れを天秤にかけて、ジャージへの着替えを選んでいると言うわけだ。

 運動部では無いので部室が使えず、着替えの場所が心配だったけど、体育のときに使う女子更衣室の使用許可があっさりと出た。授業のときはクラス全員で使う部屋を独り占め出来るのは何となく気分が良い。

 いつもの様に体育教官室から鍵を借りて、ジャージに着替えてから本日の活動予定場所の花壇に向かうと、制服姿の守山が待っていた。

 ここ最近、と言うよりもいつもは私より先に着替え終わって待っているのだけど。

 決して私がサボっている訳ではない。女の子の着替えには時間がかかるものなのだ。男と一緒にして貰っては困る。

 何やら花壇に目を落としてはため息を吐いたりしている。何となくオーラが暗い。

「どうしたの、そんな格好で?」

 声をかけてようやく私の存在に気づいて顔を上げた。

「あ、末富さん」

「今日は花壇の手入れの予定じゃなかったっけ?」

「えと、うん。予定ではそうだったんだけど……」

 と、もごもご口の中だけで喋って煮え切らない守山。

 それなりの期間を一緒に委員会活動をしてきたから、こういう時にこっちが黙っていると、やっぱり良いよの言葉が出てくる事が予想できる。

「何、予定の変更?」

「う、うん。まあそうかな」

「ふむ、しょうが無いわね。じゃあ花壇の世話は明日に延期?」

「いや、それが……」

 目線を逸らして地面に向ける動作が、少し前までの守山を思い出させる。地面に向かって喋りかけるように呟いた。

 

「もうこの花壇の世話はしなくても良いんだ」

 

 私はその言葉の意味を理解できなかった。 

「どういう事よ、それ」

 当然の疑問が私の口から出る。

「えっと、校舎が増改築されるらしいんだ。それで、工事の邪魔になるからこの花壇は撤去されるんだってさ」

 なんでも無い事のような口調の守山がそこにはいた。私とは目が合わない。

「どういう事よ、それ」

 同じ言葉が、温度を下げて出てくる。

「だからこの花壇の世話はもうしなくても良い……」

「どういう事よそれ!」

 今度は急激に熱せられた言葉が途中で割り込んだ。守山は一度ちらりと私を見て、やっぱり視線を下げる。

「だから、校舎の増改築があってこの花壇は撤去されるんだってさ」

 それでも落ち着いた響きを含ませる守山の言葉。なんだか腹が立ってきた。

「なんでそうなるのよ!」

「なんでって言われても……。校舎もだいぶ古いし、地震の対策やなんかもあるのかも知れないけど」

「そういう事じゃなくて!」

 全然かみ合ってない会話を繰り返す私たち。自分が熱くなっているのが分かる。だったら、会話がかみ合わない原因は私にあるのだろうか。

 頭に上った血を無理やり押さえつけて、深呼吸をして。出来るだけ冷静に、出来るだけ落ち着いて話をしよう。そう思って口を開く。

「それで?」

「?」

「それで、どうするの?」

 その言葉に少し安心した顔になる守山。

「仕方が無いから、今後の予定から花壇の世話を外して、それ以外の活動予定を……」

 なんて事を言い出す。

 違う。全然違う。そういう事じゃ無いのに、どうしてそれが分からないのだろうか、この男は。

「違うでしょ!!」

 私の一喝に雷が落ちたみたいにビクンと身体を震わせて小さくなる。

「なんで、抗議とか、しないのよ」

 どんよりとした空気がさらに重さを増して広がったような気がした。

「だって、学校の都合じゃ仕方が無いじゃないか」

 弱々しい反論。そうかもしれない、そうかもしれないけど、そんなに簡単に納得できるものじゃないと私は思う。

「どうしてそんなに平気そうにしてるのよ! これまでずっと花壇の世話をしてきたじゃない!」

「そうだけど」

 私とは対照的にどこまでも落ち着いている守山を見ていると、やっぱり頭に血が上ってしまう。

「そうだけど、じゃない!」

「う、うん」

「この花壇、見かけ以上に手がかかってるじゃない! 雑草抜いたり、晴れの日が続いたら水をやったり、アンタ花壇の事いつも気にしてたじゃない!」

「それは、まあ」

「それが学校の都合で一方的に無くなるって言うのに、それで納得できるわけ!?」

「残念だけど、仕方が無いよ」

 もう、私は何に対して怒っているのか分からなくなってきていた。いや、怒っているのか悔しいのか、悲しいのか。それすらもハッキリしない。

「仕方が無い? 仕方が無い、仕方が無い、仕方が無い仕方が無い仕方が無い!!」

 拳を握り歯をキリキリならして地団太を踏む。完全に切れたわ。

「なんなのよ、それ! アンタさっきからそればっかりじゃない! 私は悔しくないのかって聞いてるのよ!」

「それは、そう思うけど仕方が……」

 私がダンッと地面を蹴りつけると言葉を引っ込めた。

「なんでそこで諦めるのよ、ちゃんと相手の目を見て話しなさいよ、少しはしっかりしなさいよ!」

 どう考えても滅茶苦茶な言葉が私の口から出てくる。要するに、考えて喋ってはいないって事なんだろうけど、そんな事は関係なしに次から次に言葉があふれて来た。

 守山はおずおずと言った感じで顔を上げて、私を見てギョッとした表情になる。

「な……」

「なによ!」

「な、なんで……末富さんが、泣いてるの……」

「分かんないわよ、そんなの!」

 私が花壇の世話をしていた訳じゃない。そりゃ、少しは手伝いもしたけれど大半は守山の仕事だった。守山と違って咲いている花の名前を知っている訳でもない。

 だから、私が怒ったりする理由なんて大きくないのだ。

 それなのに、私の瞳からはボロボロとみっともないくらいの涙がこぼれていた。

「もう、知らない」

「……え?」

「もう、勝手にしろ!」

 呆然と立ち尽くす守山をその場において、私は走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がつくと私は体育館の壁に背中を預けて座り込んでいた。

 少し前に掃除をした場所だった。にも関わらず空き缶が幾つか捨てられているのが少し悲しい。

 つい数日前も花壇の世話をしたのに。守山が手入れをして、私が水をやって。それなのに、今日花壇の世話をしに来てみたらこんな状態だ。

 そりゃあ、私だって校舎が改築されて場所が無くなるのなら花壇だって無くなる、くらいの理屈は分かるわよ。

 でも、だからってなんであんなに簡単に「仕方が無い」で済ませられるのよ。

 興味が無いのに委員会を押し付けられて、それでも花壇の世話をする為に知識を身につけて、しょっちゅう土まみれになりながら手入れをして、言ってみれば努力の結晶みたいなものじゃない。それを撤去するって言うのに、あっさりしすぎなのよ。

 なんで怒らないのよ……。

 

 ……なんでそれで私がこんなに怒らなくちゃいけないのよ……。

 長い、長いため息をつく。

 出会った時からそうだったけど、結局私には守山は理解出来ない人なのだ。さっぱり分からない。

 でもさ、私が真面目に参加しだしたのは秋になってからだけど、それでも一緒にやってきたのだ。守山にとってそれは、なんの価値も無い、簡単に諦めることの出来るものだったのかな。

 

 ……ああ、そうか。

 

 私は、守山に怒って欲しかったんだ――――。

 

 私が共有できていると思っていたものには、私一人の思い違いで。私が価値があると思っていたものには、彼はちっとも価値を感じていなくて。

 それを認めるのが腹立たしかったんだ。

 私が何かがあると思っていたそこには、守山にとっては何も無かった。それが、とても悲しかったんだ。

 

 私は、自分勝手だ。

 勝手に勘違いして、勝手にいらついて、勝手に八つ当たりして……。

 

「…………?」 

 ポケットから振動と低い音が伝わる。

 右手でポケットから震えている携帯電話を取り出して開く。そこに表示されている名前と番号を確認して……。

  

 ――――ピッ。

 

 電源を切った。

 

 携帯をポケットに戻し、フラリと立ち上がる。辺りに落ちていた空き缶を拾って私は歩き出した。

 地面に目を落として歩く。

 制服のズボンの裾と土で汚れたスニーカーが視界の端にに入ってくる。

 そのまま通り過ぎようとして――――。

「あ、あのさ」

 呼び止められた。

「…………」

「…………」

「……話しかけるのは迷惑かもしれないから、先に携帯をかけるんじゃなかったの?」

「あ、うん。そうなんだけど」

「私、今はあんまり話をしたい気分じゃないの」

「それは、分かるけど」

 足を踏み出した私の肩を、思っていたよりもずっと強い力で握られた。

「……痛いんだけど」

「ごっ、ごめん!」

 慌てて手を離して両手を背中で握り合わせた。

「あの、迷惑かもしれないけど、でも話を聞いて欲しいんだ」

 私の視線が彼の目を射抜くけど、目をそらせる事なくまっすぐに見つめ返してくる。す、と目線を外したのは私の方だった。

「なに?」

「えっと、その。さっきはごめん」

 それは何に対してのごめんなのか、私には分からなかった。

「なんで謝るのよ。別に、守山は悪くない」

 そう、悪いのは私だった。一人で勝手に盛り上がって、一人で勝手に暴走したのだから。

「いや、でも、末富さんを泣かせてしまったし、悪かったと思ってる」

 多分、守山は私がどうして泣いてしまったのか、理解していないんだと思う。ただ、泣かせてしまったから謝っただけだろう。

 でも、心のこもっていない表面だけの謝罪とは違って感じられて、私にはそれが不愉快ではなかった。

「うん、いいよ、別に。私も急に泣き出してしまって悪かったわ。気にしないで、ちょっと興奮しただけだから」

 私がそう言うと、彼は安心したように胸をなでおろしていた。

 そうして、どちらからともなく体育館の壁に背を預けて並んで立つ。守山は地面に目を落として、ぼんやりとしている。

 私は空に目をやってみる。今日も良い天気で、風に吹かれたまばらな雲が空を流れている。

 

「僕さ、校内美化委員って押し付けられてなったんだ」

 ポツリと守山の口から落とされたのは、脈絡の無い、突然のものだった。彼がどうしてそんな事を話し出したのか分からなかった。

「それはまあ、知ってるけど」

「うん。それでさ、当たり前だけど僕も正直嫌だったんだ、校内美化委員」

 面倒だしね、と言って苦笑いをした。私が初めて聞く彼の愚痴だったかもしれない。

「でもさ、嫌だったけど、僕が嫌だって言ったって最終的には押し付けられるんだし、それなら最初から諦めて引き受けてしまった方が良いって、そう思って校内美化委員になったんだ。だからやる気なんて全然無かった」

 少し、意外だった。押し付けられて委員会活動をやっていたのは知っていたけど、守山は真面目にやっていたから。

「でも真面目にやってたじゃない」

 私がそう言うと、守山は照れ笑いを浮かべて右手で頭をかき回した。

「その、末富さんがすごく楽しそうに委員会活動をやってたから」

「はあ?」

 出てきた余りにも意外な言葉に思わず間の抜けた返事を返してしまう。

 私が楽しそうに委員会活動をしてた? いつ? まったく身に覚えが無いんだけど。

「一学期の最初の頃」

「あー……」

 少し納得して思い出した。私がパートナーを無理やり引っ張って参加していた時期があった事を。何と言うか、それは委員会活動が楽しいんじゃなくて。

 困り顔の私に守山が続ける。

「いや、分かってはいたんだ。えと、彼氏、と一緒だったからだっていうのは。でも、それでも末富さんはすごく委員会活動を楽しんでいるように僕には見えたから」

 そ、そうなのかしら。自分では良く分からなかった。

「だから一生懸命やれば、もしかしたら何かあるのかと思って」

 それって……。

 思わず少し笑ってしまった。この間、私が思っていた事を彼も同じように思っていたらしい。

「それで、何かあった?」

 私が訊くと、少し考えてから口を開く。

「うーん、何かはあるような気がするんだけど、説明するのは難しいなぁ。満足感や充足感に似てるんだけど、それとも少し違ってて」

 そんなところまで同じだった。私はこらえ切れずに声を出して笑い出してしまう。そんな私を驚いて見ているだけの守山。

 ひとしきり笑って、隣に立つ守山に顔を向ける。

「ねえ」

「うん?」

「委員会活動、楽しい?」

「そうだね、どっちかと言うと、楽しいかな」

「そうね、私もどっちかって言うと楽しいわ」

 多分、今ここにある答えは、それだった。

 

 

 

 

 

「それで、花壇の事なんだけど」

「うん」

「校舎の改築だから、仕方が……」

 そこまで聞いて、思わず身構えてしまう。

 守山は彼にしては珍しく悪戯っぽく笑って続けた。

「仕方が無いから、先生に移動をお願いしようと思ってる」

「移動?」  

「うん。要は工事の邪魔にならない場所に花壇があれば良いわけだから」

 なるほど、移動か。良い手じゃない。多分私の表情で察したのだろう、彼も少し声を弾ませる。

「まあ、多分今植えてある花やなんかの移動作業は全部僕達でやらなくちゃいけなくなるだろうけど」

「それは、面倒ね」

「うん。面倒だけど、嫌?」

 ここで否定なんて出来るはずもなかった。

「OK、それで手を打ちましょうか」

 守山が笑顔のままで続ける。

「さっき、さ」

「うん?」

「さっき末富さんがすごく怒ってくれたの、あれ、嬉しかった」

 予想外の台詞に固まってしまう。鏡があったら見てみたいような、見たくないようなそんな変な顔になっていたと思う。

「多分末富さんがあんなに怒らなかったら、また僕は委員会を始めたときみたいに、最初から諦めてたと思うから」

 あ、えと、ちょっとっ。

「ちょっと待ってよ。私は別にそんなつもりで……」

「うん。それでも、僕は嬉しかったから」

 うあ……。ここでその笑顔を向けてくるのは反則だぁ……。

「とっ、とにかく! そうと決まったら早速先生に頼みに行きましょ」

 私は赤くなった顔を伏せてさっさと歩き始める。

「あ、うん」

 

 後ろから慌ててついてくる足音が聞こえてくる。

 これからが大変だけど多分なんとかなるわよね。ブンブンと頭を二度振って、顔を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ガタンゴトン、と電車が揺れている。

 私達は路面電車に乗って七駅離れたセンターに向かっている。社内の冷房はもう完全に切られていて、送風になっていた。

 結論から言うと、全然大変でもなんでも無かった。

 あれから、私と守山で校内美化委員担当の先生の所に話を持っていって、教頭先生に話を通して、校長先生に許可をもらう。それだけだった。

 その間わずか数日。花壇の移動先の場所もあっさりと決まってしまった。

 先生の反対やなんかは一切無し。拍子抜けするほどだった。なんでも、私達が普段真面目に委員会活動をやっていたのも良かったらしい。

 私はなんだか複雑だったけど、守山は「日頃の行いが良いからね。この位は当然だと思うよ」なんて言ってた。実は私が思っているよりもずっと図々しい奴なのかもしれない。

 そんなこんなで、今日は美化委員で使う消耗品と、移植作業に使う雑貨の買出しに出てきたと言うわけ。当然費用は委員会の予算から捻出される。

「電車で七つめの駅ってさ」

 唐突に隣に座っていた守山が口を開いた。

「なんだか遠いイメージがあるけど、案外近いものだよね」

「そりゃ、この路面電車はそうだけど」

「まあね。ほら、そろそろ着くみたいだよ」

 そう言って立ち上がる。私も遅れて立ち上がって、彼の制服の背中の部分を引っ張った。

「ほら、また猫背になってる」

「あああ、うん。ごめん」

 相変わらず下を向いて、と言うよりも猫背で歩く守山の姿勢を正す。

 最近はこうして下を向いて歩く守山の背中を引っ張るのが慣習になってしまっていた。彼に言わせると、私は逆に空を見上げている事が多くて危なっかしいのだそうだ。

 言われてみるとそんな気がしないでもないけれど、それほどしょっちゅう上ばかり見ていた記憶は無い。そう言い返した事があったけど、本人が気づいていないから癖なんだと言いくるめられてしまった。悔しい。

 確かに、良く考えたら上を向いて歩くのも危ない。私としては上を向いて涙を止めてから、前を向いて歩き始めることをオススメするわね。

 なんて下らない事を考えている間にも電車は進み、駅に滑り込む。

 目の前の扉が開き、外の空気と社内の空気が一斉に乗降口に殺到してゆく。

 私達は車内の空気に背中を押されるようにして電車から降りる。

 少し歩けばすぐにセンターだ。

「あ、何を買うのか、全部覚えてる?」

 私の問いかけにポケットから紙切れを取り出して答えた。

「大丈夫、ちゃんとメモってあるよ」

「そう、じゃあ行きましょうか」

 確認を取って歩き出した。

 チラリと横を見てみると、大丈夫、ちゃんとまっすぐに前を向いて歩いている守山。

 そして、それは多分、私も同じだった。