『 7th 』
電車のドアが開き、車内は本来の季節を取り戻した。
冷房で無理矢理冷やされた車内の空気が我先にとドアから飛び出し、かわりに熱を帯びた外気が次々に電車に乗り込んでくる。
このような場所に居なければさえ常に私に纏わりついて離れない熱気ではあるが、徐々に冷房に慣れはじめていたこの体には少々辛い。
車内に僅か残る冷気が恋しくて、このままここで涼みたいという悪魔のささやきが脳裏をよぎる。
だが悪魔が私を誘惑するその前に、下車せんと乗降口に迫る人の波にのまれ、私は電車から搾り出された。
睨みつけるような視線をこちらに向けつつ、いかにも“上司にこき使われてストレス溜まってます”な顔つきをしたサラリーマンが私の横をすり抜け、早足でホームを歩いてゆく。
乗降口の前に居座っているのはさすがに迷惑だったか。
私は電車から離れるように歩を進める。
先程出て行った冷気がこの辺をうろついていても良いものだが、あれほど私の身体に馴染んでいた空気は薄情にも私を置いてどこかへ行ってしまったらしい。
次に会った時は人との関わりを大切にするよう言い聞かせなければ。
「……………」
頭に浮かんだくだらない思考に苦笑する。
どこかネジが外れた思考を脳から追い出すように嘆息してみるが、それは蒸すような空気に侵され、不快な風を外界へ送るに過ぎなかった。
9月。
夏も終わりだというこの時期に、太陽はこれでもかとばかりに未練がましく光を投げ込んでいる。
まるで在庫が余った夏物の服を破格で売りさばくような大盤振る舞いだ。
………迷惑な事この上ない。
ホームを守るかのように長く伸びる屋根のおかげで太陽の光を直接浴びる事はないものの、真夏の太陽と風がもたらす熱風は屋根などものともせずに私の身体へと纏わりついている。
ただその場に立っているだけで、不快な汗が肌を滑っていった。
私はポケットからハンカチを取り出し、額にあてる。
ハンカチはみるみるうちに湿り気を帯びていく。
ちょっとでも絞れば溜まった汗が滴り落ちそうだ。
――暑い。
今さら言うまでもないが、暑い。
私はすっかりびしょびしょになってしまったハンカチを折りたたみ、ポケットの中に入れる。
――が。
「………?」
ポケットに入れた手に違和感を感じ、その正体を引き抜く。
私の手にあるのは小刻みに震え続けている携帯電話。
電車に乗ってからマナーモードに設定したまま解除するのを忘れていた事を思い出した。
私は折りたたまれた携帯電話を開き、そのディスプレイを見る。
無機的に並ぶ、11桁の数字。
私は溜め息を一つ吐き、
――ピッ
電話を切った。
ACT T
「おっそ〜い!! 一体何してたの!? 何度も電話したのに〜!!」
待ち合わせ場所に着いた私を待っていたのは、私よりも先に待っていた少女の怒鳴り声だった。
ぷんぷんという形容詞がとてもよく似合う単純かつ明快すぎる怒り方だ。
……それにしても、なぜ私は怒られなければならないのだろう? 待ち合わせの場所も時間も間違えていないはずなのに。
「この炎天下のなか待たせるなんて犯罪よ! 暑さでとうとう脳みそ溶けちゃったのお兄ちゃん!?」
「失礼なことを言うな。私の脳みそは正常だ、それに暑さで脳みそは溶けたりしない」
「なっ!!?」
あ、固まった。
1秒、2秒、3秒、そして……。
ドスッ!!
「ぐっ!?」
ジャスト5秒で私の鳩尾に綺麗にパンチを決めてくれました、我が愛しき妹様は。
私は腹を抱え暑さで熱されたコンクリートに両膝をついた。
「ふっ、お兄ちゃんがあたしに口答えしようなんて100年早いのよ!」
太陽に向かってブイサインをしながら決め台詞を言う我が妹様。
……とりあえず、高笑いは止めなさい。恥ずかしいから。
3分後。
「それで、どうして遅れたの? それもこの炎天下のなか30分も」
3分間私をきっちりしばき倒してくれた我が妹様はようやく最初の問題に戻ってくれました。
「だから、私は遅れてないって言ってるだろ」
「……もしかしてとは思うけど、お兄ちゃん時計持ってないの?」
「今どき時計なんか持ってなくても、携帯電話を見ればわかるじゃないか」
「それじゃ、その携帯電話で現在時刻を見てみなさいよ」
彼女はかなり呆れた様子で言った。
そこまで言うのなら確認してやろうではないか。
私はポケットから携帯電話を取り出して、現在時刻を見た。
ディスプレイには10時3分と映し出されている。
待ち合わせの時刻は10時。それに先程しばかれていた時間が3分弱。
合わせて10時3分。うん、大丈夫。私は間違えてない。
「現在時刻は10時3分だよ」
「残念ハズレよ、嘘だと思うならあれを見てみなさい」
そういうと彼女は私の後ろの方を指差した。
私は振り返り、彼女が指差した方を向く。
私は目線を上にあげ、彼女が指差したものを探した。
そして、見つけてしまった。たぶん彼女が指指したものはあれだろう。
それは時計だった。どこの駅にも着いているような大きな時計だ。
そしてそれが指し示す現在時刻は、10時37分。
ええっと。あれれ、おかしいな。
「ようやく自分のミスに気づいた? お兄ちゃん」
ひらべったい胸を大きくそらせ、えっへんといわんばかりの様子だ。
「はい、私が悪かったです。ごめんなさい」
しかし、この件は私に非があるので素直に謝っておくことにする。
「ふふっ、わかればいいのよ。それじゃ、早く行きましょう、時間がもったいないよ」
そういうと彼女は私に向けて手を差し出した。
「了解」
私は小さく笑い、そして彼女の手を握り歩きはじめた。
ACT U
私の名前は渋谷朱実(しぶやあけみ)。
女みたいな名前だが、私はれっきとした男だ。
しかし私はよく女に間違えられる。男なのに長髪で背も高いわけではなく、声変わりもしていなければ筋肉質でもない。あまつさえには一人称は私だ。
なるほど。これだけ男らしくなければ間違われても仕方がないだろう。
間違われたとしてもナンパはまだ許せる、だが痴漢と変質者だけは許せない。
そんな愚劣な輩にまで女扱いされ、その上それを理由に弄ばれるなんてあってはならないことだ。
しかし、至極残念なことに……
「もう一度聞くぞぉ〜、お前……渋谷朱実だよなぁ〜?」
こうして今も変質者に絡まれているのだ。
事の発端は些細なことだった。
今日は我が妹、渋谷葵(しぶやあおい)の買い物に付き合わされる予定だった。
しかし私は昨日悪友に拉致され、そのまま彼の家に泊まってしまったのだ。
そのため急遽、待ち合わせ場所と時間を決めることとなり……。
だが何故か私の携帯電話の時刻設定が30分ほど遅れていた。
そのことが原因で待ち合わせに遅れてしまい葵を怒らせてしまったのだ。
遅れた時間を埋め合わせるべく、裏道を使い近道をしていたら……。
3人組の変質者に絡まれてしまったのである。
「あ〜、よく分からん回想ごっくろーさん。もう〜いい〜かい〜?」
髪を鼻にかかるくらいまで伸ばした男が私に聞いてきた。
「ま〜だだよ」
……何がもういいのかわからないのでとりあえずこう答えておくことにする。
「んなにぃ!? まだ思考したりないのかよぉ? んじゃ〜早くやっちゃってよぉ。ぼくちんだって忙しいんだからね〜」
あぁ……、もういいかいってそのことだったのか。
それではお言葉に甘えてもう少し思考させていただこう。
まず初めに、この男達は今までの変質者とは何かが違う。
何故か? それは、私の名前を知っていたからだ。
私はあいつらとは初対面だし、名乗った覚えもない。
だから、あいつらが私の名前を知っているはずがないのだ。
それなのにあいつらは私の名前を知っている。そして、お前が渋谷朱実か? と言い確認を求めた。
それはつまり、あいつらは何らかの目的を持って私に接触してきたのだろう。
そして次に、あいつらの格好だ。
この炎天下の中だというのに、大柄な男2人は上から下まで全身真っ黒の服を着ている。
よほど黒が好きなんだろうな。……暑くないのかな?
だがもっとも怪しいのは、大柄な男2人の真ん中に立っている……全身ピンクの男だ。
さっきから私に話し掛けてくるのはこの男だけだ、他の2人は直立不動のままじっと私を見据えている。
だが彼らの重心はつま先にある。これはいつでも動けることを意味している、熟練した武道家なら誰でも会得しているものの一つである。
さて、回想はこのくらいでいいだろう。
「もう〜いいよ」
あとは……葵だけでもここから逃がす算段を練らないとな。
「んん〜? やっと終わったか。ぼくちん待ちくたびれちゃったよ〜」
私が思考している間、ピンク男は地面に座り込み右手に持った石で落書きをしていた。
……そうとう暇だったようだ。
ピンク男は立ち上がり尻についた砂を落とすと、私のほうに向き直り話を切り出した。
「それで……お前が渋谷朱実でいいんだよなぁ?」
「人の名を尋ねるときは、まず自分から名乗るのが礼儀ではないのかな?」
私は出来るだけ相手を怒らせるような言い方をした。
怒り狂った相手は勝手に自滅することが多いと経験上知っているからだ。
「んっん〜、それもそうだなぁ。ぼくちんは時雨冥皇(しぐれみょうおう)。新興宗教団体「乖離教団」の教主代理だ。知ってるか〜?
2番目に偉いんだぞ〜」
「へぇ、それは偉いな。それで、2番目に偉い教主代理様がしがない一般市民に何か御用なのかな?」
「御用も御用、大有りさ〜。えぇっと〜どこやったけっかなぁ〜?」
冥皇は突然自分の全身をまさぐりだした。上着を、懐を、ポケットを、股間を、全身をくまなく探している。
「……………………ない」
……はい、何ですと?
裏路地でいきなり人に絡んできたと思ったら、用件を忘れたって……。
こいつら一体なんなんだ? やる気あるのか?
「冥皇様、教主様からの書状ならこちらに」
左側の黒男が懐から紙切れを出し、冥皇に渡した。
「おいおい、もっと早く出せよ〜。ぼくちんが間抜けみたいじゃないか〜」
冥皇は左手で書状を受け取り、右手で渡した男を殴りつけた。
「ええ〜っと、“渋谷朱実の捕獲を命ずる。抵抗するなら手足は要らぬ、ただし殺すな。”」
などと、物騒なことを言い出した。
「おまえら……」
「「はっ!!」」
黒服の男達はハモって返事をした。
冥皇は私に向けて指を差し……。
「やっておしまい!!」
「「御意!!」」
そう言い放った。
黒服の男2人はまっすぐに私に向かってきた。
まずい。いくら喧嘩慣れしているとはいえさすがにプロには勝てない。
!! そうだ! 葵だけでも逃がさなければ!!
私は後ろに隠れている葵に逃げろと言おうとしたが……彼女は既にいなかった。
おそらくあの我が侭プリンセスのことだから、私を置いてとっくに目的地へ行ってしまったのだろう。
……つーかさ、変質者に絡まれてる兄を見捨てて買い物行くかな、普通。
などと考えているうちに、既に黒服の男達は目前へと迫っていた。
「(若干右の男のほうが早いな……)」
右の男の左足が消える、おそらくは慣性を利用した上段蹴り。
「(素人と思って油断したか、たわけが)」
私は一瞬で屈み男の蹴りを避ける。そのままがら空きになった男の右足を払う。
ガスッッ!!
私の蹴りは見事に命中し、男はバランスを崩し無様に頭を打った。
私はすぐさま倒れた男にとどめをさそうとのどに狙いを定め、足を振り上げたが……。
もう一人の男の蹴りが飛んでくるほうが早かった。
「(まずい!!)」
私はとっさに左腕でガードしようとしたが遅かった。
男の蹴りは速くて重く、私はそのまま壁まで吹き飛ばされてしまった。
ドンッッ!!
「ぐぁっ!!」
後頭部と背中をしたたかに打ち、肺から酸素が抜け、全身の感覚が麻痺し力が抜けていく。
そんな状態だというのに、左手の甲がズキズキと激しい痛みを訴えてくる。
どうやら、さっきの蹴りは左手の甲でガードできていたようだ。
「(あの蹴りを直接くらっていたらまずかったな。……今でも十分まずいけど)」
徐々に視界が二重、三重になっていく。
……頭がくらくらする。……多分これは脳震盪って奴だろう。えぇっと、脳震盪になったらまずどうするんだっけ?
頭に浮かんだくだらない思考に苦笑する。
「(たとえ脳震盪がどうにかなったとしても……この状況がどうにかなるわけじゃないしな。……あいつらの目的は私を連れて行くことだったな。ならたぶん、殺されはしないだろう。……そこに賭けて…………みるか)」
私は両膝を地面につき、倒れ、そして……意識を手放した。
ACT V
目を開くと、そこは雪国だった。
……どうやら、頭がおかしくなっているようだ。
雪に見えたのは白く清潔なシーツだ。
どうして、私はこんなところに寝ているのだろうか?
頭に靄がかかっている具合だ、何も思い出せない。
私はゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。
なんにしても、状況は確認しておこう。
私が眠っていたのは簡易ベッド。学校の保健室にあるよなものよりもずっと貧相な折りたたみ式のベッドだ。
そして私の周りは雪のように白いシーツに囲まれている。
……それにしても狭すぎやしないか? 清潔感よりも圧迫感を感じるぞ。
「おや? 目が覚めたのかい?」
白いシーツの一角が開き、白衣を着た眼鏡の優男が入ってきた。
簡易ベッドの下においてある丸イスを引っ張りだしそれに腰掛ける。
「そんなに警戒しなくてもいいよ。私は鳴海陰祇(なるみいんぎ)。従業員は私だけ、この鳴海外科医院の院長だ。よろしく」
「……医者ですか。えっと、私は」
「渋谷朱実君だろ、君の妹さんから聞いたよ」
妹? ………………!!
「……葵はどこにいるんですか!?」
「彼女ならついさっきまでここにいたんだけどね、これ以上暗くなるといけないから家に帰したよ」
「そうですか……、よかった」
………よかった? 何がよかったんだろう。それに、なんで私はこんなに焦っていたんだろ?
なんだろう、なんだか凄く嫌な予感がする。
全身に嫌な汗が噴きだしてくる。動悸が早くなり、呼吸が乱れる。
呼吸ってどうやるんだっけ? なんだか頭も痛くなってきた。
「朱……? 朱…君! 朱実君!!」
「な、何ですか? 突然大声なんか出して」
陰祇さんは怪訝な顔で私を見ている。……何か変なこといったかな?
「さっきからずっと呼んでたんだけど? まだ気分が悪いのかい?」
「いえ、もう大丈夫です。ご迷惑おかけしました」
「迷惑だなんてとんでもない。これが私の仕事だからね」
そう言って彼は穏やかに笑った。
「ところで……どうして私はこんなところで寝てるんですか?」
私は今一番気になっていることを尋ねてみることにした。
「こんなところって……。まぁいいけど」
彼は苦笑しながらも答えてくれた。
「実を言うとね、私も知らないんだよ。パチンコ帰りに君を拾っただけだからね。それで、君を背負って運んでいる途中に君の妹さんに出会ったわけさ」
「そうですか、わかりました」
私はそう言ってベッドから降り、帰り支度を始めた。
「どこへ行くんだ!? まだ安静にしてないと駄目じゃないか!!」
彼は私を引きとめようとするが、それを聞くわけにはいかない。
さっきから嫌な予感が止まらない。
何故かは分からないけど、とにかく急いで家に帰らなければならない。……そんな気がする。
「……何か事情があるのかい?」
彼の顔にはさっきまでのおちゃらけた雰囲気はなく、一人の外科医として真剣な表情で私を見ている。
「……いえ、そういうわけではないんですけど」
早く、一刻も早く家に帰らなければ……。
「わかった。……ただし無理はするなよ。君はけが人なんだからな」
「わかりました、それでは失礼します」
私は急いで病室を飛び出し、病院の出入り口のドアに手をかけた。
「朱実君!!」
後を追ってきた陰祇さんが私を引きとめた。
「何ですか!? 私は急いでるんですけど!!」
彼は下駄箱から自分の靴を取り出し言った。
「私も医者だからね、自分の患者を放り出すような真似は出来ない。……送っていくよ」
ACT W
「………………」
「何だ……これは……」
急いで家に帰った私達を出迎えたのは荒れ果てた室内と、室内に飛び散った赤色の液体と、奇妙な肉の塊、そして……。
「んっん〜〜? 遅かったじゃないかぁ〜? ぼくちん待ちくたびれちゃったよ〜ん?」
葵に座って、葉巻を燻らせる冥皇の姿だった。
そして……私は思い出した。なぜ私が意識を失ったのか、なぜ私が怪我を負ったのか、なぜ私が病院で寝ていたのかを。
「おっと〜? これはこれは先生も一緒でしたか〜、いや〜、実に都合がいい。あなたにも一緒にきてもらいましょっかねぇ〜。さっきの借りも返したいしねぇ〜。」
冥皇はそう言って自分の頬をさすった。
赤くはれ上がったところを見ると誰かにやられたようだ。
「今夜12時。渋谷発の新幹線「北極星」に乗りな。そこで教主様がお待ちだ」
それだけ言うと冥皇は葵を脇に抱えて立ち上がり窓へと歩き出す、彼はゆっくりと窓を開けベランダに足をかけた。
「妹ちゃんは人質だ。来なかったときは……そうだなぁ〜、そこに転がってる夫婦みたいになってもらおうかなぁ〜。妹ちゃんに痛い思いをさせたくなかったら………2人ともちゃ〜んと来てよね?
お兄さんとの約束だよん。チケットならテーブルの上に置いといたからっさ!!」
そして冥皇は……
「あぁ、そうだ。すっかり忘れてたよ〜。朱実ちゃ〜ん、HAPPY BIRTHDAY!!」
地上15メートルから、暗闇の大地へと飛んだ。
「……朱実君」
「……わかってます」
私は冥皇の置いていったチケットを取った。……?
チケットの下に何か置いてある、何だろう?
そこには、朱と蒼のいちまつ模様の紙袋が置いてあった。私は袋を空け、中身を確かめた。
中に入っていたのは、精巧な北斗七星が彫りこまれた綺麗な剣のペンダントとメッセージカードが入っていた。
メッセージカードには、「お誕生日おめでとうお兄ちゃん。葵より」と可愛らしい文字で書かれていた。
私はメッセージカードをポケットにしまい、ペンダントをつけた。
「陰祇さん、いま何時ですか?」
「ジャスト10時だよ」
瞳を閉じて深呼吸をする。1秒、2秒、3秒、4秒とゆっくりと息を吸い込み、1秒、2秒、3秒、4秒とゆっくりと吐き出す。
目を開ける。顔をあげ、胸を張り、まっすぐに前を見る。
「行きましょう」
陰祇さんが無言でうなずく。
私達は血塗られた室内を横断し、靴をはき、玄関を出た。
……父さん、母さん。必ず仇はとります。必ず葵は助け出します。
だから、どうか安らかに……。
歩き出した私達の後ろで、玄関の扉がゆっくりと閉まった。
ACT X
「君が……渋谷朱実君か。お初にお目にかかる、我が名は霊獄牟骸(りょうごくむがい)。新興宗教団体「乖離教団」の教主だ。よろしく頼むよ、朱実君」
「あんたと話すことなんかない。妹を返せ」
私達は渋谷家を出て直ぐに駅に向かった。
目的の新幹線は直ぐに見つかった。なぜなら奴が、冥皇が立っていたからだ。私達は奴に詰め寄った、教主はどこだ? と。
だが、奴はぬけぬけと言い放った。
「早い、早い、早すぎるぞ朱実ちゃ〜ん。約束の時間までまだ1時間もあるじゃな〜いか、早すぎる男は嫌われるぞ〜?」
私はこの場で殺してやろうと思ったが、陰祇さんに止められた。
陰祇さん曰く、「人質がいるうちは下手なことはしないほうがいいそうだ」
確かにその通りだ。私は葵を助けにきたんだ、葵を助けられなければ何の意味もない。
そして私は溢れ出しそうになる殺意を必死に押さえ、1時間後、新幹線「北極星」は定刻どおり発車し、私はようやく会えたのだ。……この惨劇の元凶に。
はじめにその男を目にしたとき、まず目を疑った。
牟骸と名乗った男は白い髪と髭を無造作に伸ばし、両腕に点滴を刺し、車椅子に座っていた。
その体には既に力はなく骨と皮だけといっても過言ではないくらいに痩せ衰えていた。
ただ、ただその眼だけは光を失うことなくギラギラと光っている。
……こんな奴に、こんな死にぞこないの老いぼれなんかに父さんと母さんは殺され、葵は誘拐されたのか?
こんな奴が、私の平和を全て壊したのか……?
殺す。
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
私は、必ず、この男を、殺す。
「ふぉふぉふぉ。いいぞ、朱実君。君の殺気は素晴らしい。例えるなら純度100%の天然素材だな」
そう言ってこのジジィは歪んだ笑みを浮かべた。
あぁ、むかつく。腹立たしい。もう駄目だ、我慢の限界だ。こいつ同じ空間にいるのが気に入らない。こいつと同じ空気を吸っているのが気に入らない。
1秒でも早くこいつを殺さないと私の気が狂いそうだ。
私はジジィを殺すため歩き出す。だが……。
「落ち着くんだ朱実君」
陰祇さんに肩をつかまれ、私の歩みは止められた。
「君がここで牟骸を殺してしまえば、冥皇が葵ちゃんに何をするかわからないんだぞ? 頼む。頼むから落ち着いてくれ朱実君!!」
陰祇さんが涙ながらに私に訴える。
彼の涙を見て、私にいくばくかの冷静さが戻った。
そうだ。私は葵を助けるんだ、こんな奴の口車になど乗ってたまるものか!!
「……つまらんな、実につまらんぞ朱実君」
牟骸は盛大なため息をつき、テーブルの上の料理を食べ始めた。
もっしゃ、もっしゃ、もっしゃ、もっしゃ。
牟骸はさっきまでのまるで生きる屍とは違い、実に生き生きとおいしそうに食べている。
テーブルに広がるのは、肉料理とスープのみ。
今しがた切り出したのような新鮮な血色のよい肉を牟骸は生で食べていた。
もっしゃ、もっしゃ、もっしゃ、もっしゃ。
テーブルの上の肉を全て食べ終えた牟骸は、最後にワイングラスに並々と注がれた血のように赤いワインをおいしそうに飲み干した。
そして……食事は終わった。
「ところで……何の話をしていたんだっけな? 最近物忘れが激しくてね、教えてくれないかい、朱実君?」
「葵はどこだ!? 葵を返せ!!!」
私は自らの中の殺意を押し殺し問い詰めた。
「やれやれ……。葵君ならさっきまでここにいたじゃないか、気づかなかったのかい?」
「何だと!? ふざけるな!! 真面目に答えろ!! 葵はどこだ!!?」
牟骸は心底落胆したように盛大なため息をつき……
「ここだよ。今ここに葵君はいる」
そう言って、牟骸は自らの腹を指差した。
「………………」
言葉が出ない。ナニモカンガエラレナイ。頭が真っ白になってゆく……。
「ふぉふぉふぉ。葵君はおいしかったよ、ごちそうさま」
そして……「私」は消えた。
ACT FINAL
…………悪夢のようなあの日から一ヵ月後。
私は鳴海外科医院の簡易ベッドで目を覚ました。
葵が殺されたと知った後のことは、たった一つのこと以外実は全く覚えていない。
これから話すことの全ては陰祇さんから聞いたものだ。
まず牟骸だが、彼は死んだ。いや、私が殺した。これだけははっきりと覚えている。
あの時、私の中から私ではない別の誰かの意思を感じた。そしてその意思は私に強い力を与え、牟骸を殺させた。
だが、私はあの力に感謝している。あの力がなければきっと牟骸は殺せなかっただろう。
……父さん、母さん、葵、仇はとったぞ。
次に冥皇だが、こいつについては陰祇さんも何もわからないらしい。
力を使い果たした私を助け、新幹線から脱出しようとしたときにはもういなかったようだ。
最後にこの事件の扱いだが、全く表沙汰になっていない。警察もマスコミも全く取り扱っていない。
テレビを見ても、新聞を見ても全く取り扱っていない。
……実際、そんなことはどうでもよかった。むしろ取り扱ってくれないほうがよかった。
両親のあんな姿を他の誰にも見られたくないからだ。
……父さん、母さんの遺体は陰祇さんが密葬してくれた。これで父さんと母さんも少しは浮かばれるだろう。
私自身はこの惨劇で得たものはなく、失ったものは大きい。
だから私は決心した。
自分の大切な人を守れる人間になろうと。
傷ついた人を治し癒せる人間になろうと。
意味のない殺戮を食い止められる人間になろうと。
だから、だから私は医者になります。
後の世に名を残したものがいる。
その名は渋谷朱実。
世界各地を渡り歩き、どんな人間でも、どんな怪我でも病でも治し癒した。
体も、そして心も。
彼は誰よりも深い悲しみを背負っていた。
悲しみを知っているからこそ、人々は彼を受け入れ治され癒された。
誰ともなしに、人々は彼をこう呼んだ。
7つの医術を極めし者 「Dr.7th」
この物語は、彼の悲しみの原点である。
THE END