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7th 』

 

 

 電車のドアが開き、車内は本来の季節を取り戻した。

 冷房で無理矢理冷やされた車内の空気が我先にとドアから飛び出し、かわりに熱を帯びた外気が次々に電車に乗り込んでくる。

 このような場所に居なければさえ常に私に纏わりついて離れない熱気ではあるが、徐々に冷房に慣れはじめていたこの体には少々辛い。

 車内に僅か残る冷気が恋しくて、このままここで涼みたいという悪魔のささやきが脳裏をよぎる。

 だが悪魔が私を誘惑するその前に、下車せんと乗降口に迫る人の波にのまれ、私は電車から搾り出された。

 睨みつけるような視線をこちらに向けつつ、いかにも"上司にこき使われてストレス溜まってます"な顔つきをしたサラリーマンが私の横をすり抜け、早足でホームを歩いてゆく。

 乗降口の前に居座っているのはさすがに迷惑だったか。

 私は電車から離れるように歩を進める。

 先程出て行った冷気がこの辺をうろついていても良いものだが、あれほど私の身体に馴染んでいた空気は薄情にも私を置いてどこかへ行ってしまったらしい。

 次に会った時は人との関わりを大切にするよう言い聞かせなければ。

「……………」

 頭に浮かんだくだらない思考に苦笑する。

 どこかネジが外れた思考を脳から追い出すように嘆息してみるが、それは蒸すような空気に侵され、不快な風を外界へ送るに過ぎなかった。

 9月。

 夏も終わりだというこの時期に、太陽はこれでもかとばかりに未練がましく光を投げ込んでいる。

 まるで在庫が余った夏物の服を破格で売りさばくような大盤振る舞いだ。

 ………迷惑な事この上ない。

 ホームを守るかのように長く伸びる屋根のおかげで太陽の光を直接浴びる事はないものの、真夏の太陽と風がもたらす熱風は屋根などものともせずに私の身体へと纏わりついている。

 ただその場に立っているだけで、不快な汗が肌を滑っていった。

 私はポケットからハンカチを取り出し、額にあてる。

 ハンカチはみるみるうちに湿り気を帯びていく。

 ちょっとでも絞れば溜まった汗が滴り落ちそうだ。

 

 ――暑い。

 今さら言うまでもないが、暑い。

 

 私はすっかりびしょびしょになってしまったハンカチを折りたたみ、ポケットの中に入れる。

 

 ――が。

 

「………?」

 ポケットに入れた手に違和感を感じ、その正体を引き抜く。

 私の手にあるのは小刻みに震え続けている携帯電話。

 電車に乗ってからマナーモードに設定したまま解除するのを忘れていた事を思い出した。

 私は折りたたまれた携帯電話を開き、そのディスプレイを見る。

 無機的に並ぶ、11桁の数字。

 

 私は溜め息を一つ吐き、

 

 ――ピッ

 

 電話を切った。

 

 

 

 

 

 チリンチリン。

 季節遅れの風鈴のような音を立てて私は「中谷」の表札が出された一戸建ての前に自転車を停めた。

 中の人達は気づいただろうか。

 自転車に鍵をかけ籠から鞄を取りながら取りとめもない事を思う。

 駅からは自転車で1キロ程度。

 ただ途中坂道があるので帰りは少々きつい。

 行きはひたすら下って行くだけだからとても気持ち良いのだけれど。

 スーツの下のブラウスや下着もすっかり汗を吸ってしまった。

 とりあえず、シャワーを浴びよう。

 そんな具合にこの後の予定を暑さでとろけかけた頭で考えていると。

 

 いつの間にか玄関のドアを開けていた。

 

 

「ただいま」

「おかえりぃ。面接どうだった?」

「……ダメっぽい」

 グループ面接で殆どろくにしゃべれなかった。

母と言葉を交わすうちに心がずんずん重くなる。

 私、中谷(なかたに)()香子(かこ)は24歳の大学4年生。

 就職活動に勤しんでいるが芳しい結果は出ていない。

 二浪は不利かな~、やっぱ。

 ただでさえ女子大生はきついのに。

 はあぁ……、3年の時からもっと必死にやっておくんだった。

「姉ちゃんまた落っこちたんだ」

「まだ落ちてない!」

 弟の悠斗(ゆうと)のからかいにいちいち声を荒げてしまう。

 高3なのに口だけは大人顔負けだ。

 まだ9月半ばにして推薦で早々と進路を決めやがった。

 そりゃ評定平均が4・4なら推薦で受かりもするでしょうね。

 厳密に言うと合格したわけではないが学校の指定校推薦がもらえることになったんだ、合格したも同然だろう。

 しかも私より偏差値高いとこだなんて~~。

 世の中絶対、絶対、不公平だ。

「じゃあもう少ししたら落ちるんだ」

苛立つこちらの反応をおもしろがって弟は執拗にからんでくる。

 はい、と母が差し出したジュースを一気に飲みながら私は生意気な野郎の顔を睨んだ。

 

 

「………?」

 ジュースを飲み干し奥歯で氷を噛み砕いていると、携帯が震えだした。

 まだマナーモードのままだったっけ。

 かけてきた相手の電話番号はさっきと同じ。

 しつこいなあ。

 ここで出なくてもいずれまたかけなおしてくるのだろう。

 小さな吐息を二つ生み出して、私は通話ボタンを押した。

 

「あっ、千香子? やっとつながった」

 左耳におっとりとした声が入り込んでくる。

「メール送っても返事ないし、電話かけても出ないし……」

 声の主は奥村(おくむら)友里(ゆり)

 高校時代の同級生で部活も同じテニス部だった。

 私が部長で彼女が副部長。

 クラスも1年と2年は一緒。

高校を出てから6年経つけどこうして電話や手紙、メールのやり取りを累犯にしている。

彼女は卒業後福祉系の専門学校に進み今は特別養護老人ホームに勤めているそうだ。

 老人の世話や介護は口や文章で説明できないくらい大変で、悩んでばかり試行錯誤の毎日らしい。

 しかし後悔はしていない、やりがいもあると悩みを吐露した後に必ず付け加える。

 ああ、自分の仕事に誇りを持っているんだなと私でも分かる。

 私も彼女に悩みを話したりするがなんだか自分の悩みが低次元のようで時々やるせない思いに捉われてしまう。

 『学生』と『社会人』の立場の違いの重さを一方的に私は感じていた。

 

「ごめん。就職活動で忙しくて……。今日も面接受けてきたとこ」

「そっか……。案内状見た?」

「ううん。届いてはいるけどまだ封開けてない。……ごめん」

 嘘だ。

 居間のローボードの上にははさみで頭を切られた封筒が電話やガスの請求書と一緒くたに置かれていた。

「そんな、気にしないでよ。仕方ないよ大事な時期だから」

なのでこう言ってくれる彼女に罪悪感めいたものを感じてしまう。

「でも……。出られない、かな?」

「何日?」

 知っているが敢えて尋ねる。

「今月の第3日曜」

「分かんない。けど……」

 これも嘘。

 その日は会社の面接もないしバイトもない。

「なら予定がはっきりしたら電話なりメールなりして」

 こちらを全面的に信じてるであろう友里に対してすまない気持ちがますます膨らむ。

私はもしかしたら案外演技が上手いのかもしれない。

「うん。大変だね、幹事」

 欺いているんだこれくらいの労いの言葉はかけてあげないと。

「そうでもないよ、結構楽しい」

ローボードの茶色い封筒を手にとり裏返してみると二人の名前が書かれていた。

 一人は『奥村友里』。

もう一人は……。

3文字を眼で追うと傷口を水に曝したかのように胸の辺りが痛んだ。

「じゃあ、また今度」

「うん。なるべく早く連絡する」

「お願いしますよ、千香子さん」

 最後、茶目っ気を披露して友里は電話を切った。

 

 私は再度封筒の裏を見た。

 『元県立下国高校2年4組』の下の二つの名前。

 一つは奥村友里。

 もう一つは……。

 

 『大木元』。

 

 いつまでも眺めていると余計な事を思い出してしまいそう。

 案内状を大よそ元々あった位置に置きスーツをハンガーにかけブラウスをその辺に放り捨てた私は涼しい姿で洗面所に向かった。

 

 

 シャワーで汗を流し居間に戻ると悠斗と母がなにか喋っている。

 弟の手には某高級アイス。

 くっ、贅沢な奴め。

「母さん、ビデオ見ていい?」

「どうぞ」

 手にアイスを持ったまま弟がDVDデッキの隣にあるVHSデッキにビデオを突っ込む。

 おいおい、ビデオを入れる時はアイスは置け。

 意地汚いにも程があるぞ。

悠斗はこれまたアイスを持ったままリモコンを操作し、チャンネルを変え再生ボタンを押すとなんのベルや合図もなく上映開始。

 真っ暗な画。

画面の上に時々線が走る。

 30秒程して本編が始まった。

 

 悠斗が見ているのは国民的、と言われているアニメの劇場版。

 現在、そのアニメの登場人物の声優はガラリと変わってしまっていたがこの映画はその遥か前なので声は初代の人達。

 弟はこのアニメの原作者の漫画が好きで特にこの未来からきたロボットがポケットから様々な道具を出す漫画は劇場版の原作を含め完全コンプリートしている。

 ちなみに、母も同じ漫画家の作品は好きだが一番好きなのは超能力を使う女の子の話。

私は新聞のテレビ欄を見ながら何となくビデオを聞いていた。

 今日はたいした番組がない。

 なにより今は弟が占領している。

 恐らく、最後まで見るのだろう。

我が家にはテレビは2つあるにはあるが只今もう1台は壊れて階段下の物置の奥にしまわれている。

しょうがない、上にでも行くか。

 テレビをちらりと見てから立ち上がる。

 場面はちょうど猫型ロボットが秘密道具を出し効果音が流れるところだった。

 

 

 少しの時間を経て。

 私は下に下りてきた。

 お菓子を調達する為だ。

 テレビの前には弟が座り熱心に映画を鑑賞していて、洗濯物を取りこみ一仕事終えた母も椅子に腰掛け見ている。

 興味のない私は両手にお菓子を抱きかかえ画面を横切らないように注意しながら進む。

 そして半開きのドアを足で開けて部屋に戻ろうとする、と。

 

♪トゥ~ルルルル~ルトゥルルルル ルルル~ルルルル~ルルルルルル

♪タッタタ~ン タッタタ~ン

 

耳に流れ込んできた音楽に。

私はドアに足をかけたまま固まってしまった。

これは。

あの日の……。

閃光の後、私の時間は一気に7年前へと何の前触れもなく遡る。

 

 

7年前。

私と友里と彼の時間が交差していた時。

 

 

あれから、7回夏を迎え、7回夏を送った――――

 

 

 

 

 

 

 

 

夏休み突入も近い7月上旬。

試験が終わって間もない教室には休暇への期待と赤点への不安が渦巻いていた。

 

「ねえ友里、世界史どうだった?」

「ローマ帝国のところは大方できたけど中国が……。漢で紀元前154年に起こった事件てなんだったけ、覚えてる?」

「ダメダメ。『オクタヴィアトスが元老院からうけた称号は?』って問題さえ分かんなかったんだよ、私。訊く相手を間違えてる」

私は激し過ぎるまでに首を横に振りながら答えた。

今回も世界史ヤバイ。

これでこの期末3教科目の赤点のピンチ。

古典と物理はもう確定、この上さらに世界史なんて泣きたくなってくる。

こうなったら平均点が低くなりボーダーラインが下がるのを祈るしかない。

 

そもそもなぜ世界史なんか勉強しなくちゃいけないんだよ。

昔の事なんか知ったこっちゃねぇし。

だから古典も知ったこっちゃない、物理なんかなんの役に立つんだ、あんなクソくだらねぇもの。

もっと実用的なものを勉強しようよ。

あ~あ、やんなっちゃう。

試験終わったのに勉強しなきゃなんないなんて最悪。

赤点の事さえなければせっかく昼過ぎに帰れる今日は思う存分なんの憂いなく遊べるというのに。

下手をしたら夏休みも学校にこさせられるんだろうか。

それだけはマジで勘弁して欲しい。

 ……学校火事にでもならないかな。

 

友里は私の話を聞き終わらないうちに教科書をめくり始めていた。

目当てのページを見つけ答え合わせする。

「あっ、『呉楚七国の乱』かあ……。『呉楚“七王”の乱』なんて書いちゃったぁ……」

「ふうん。ちなみに『オクタヴィアトスが元老院からうけた称号』の答えは?」

「オクタヴィアトスじゃなくてオクタヴィア“ヌ”スだよ。アウグストゥス。漢字では尊厳者」

「あちゃ~。全然違う答え書いた」

「なんて書いたの?」

「クレオパトラ4世」

 

 

「……はあ」

「な、なによ。だって空欄よりはいいじゃない」

「私も世界史苦手だけど……。なんで4世?」

「ひらめきよ、ひらめき」

「ひらめきねぇ~」

「なに? いいじゃない、別に」

笑いを必死に噛み殺している友里を見ていると知らず知らず言葉が鋭くなる。

「誰も悪いなんて一言も言ってないよ~」

「うぅぅ。ちなみに何点だった?」

「世界史苦手だからね~」

そう言いつつも友里の顔はややほころんでいる。

近頃やけに勉強してたもんなぁ、特に世界史。

二人でこの前の土曜日、テスト5日前で部活が休みということもあり図書館へ勉強しに行った時も、私が雑誌を読んだり快適な人工の風に涼んでいた間も黙々と世界史勉強していたしなぁ。

苦手な科目なのに良くやるよ、と私は雑誌を読みつつ非常に感心していた。

だからまんざら悪くないに違いない。

「おい、ネタはあがってるんだ。さっさと白状しちまいな」

 ドラマのベタな刑事のような気持ちで親友の肩をゆすり、詰問する。

「あっ、先生きた」

友里の言葉通り担任の土田(つちだ)が入ってきた。

ちっ、くそったれ、なんつうタイミングできやがるんだ。

 

「ホームルーム始めるぞ、席につけ」

20後半のやややせ型の男。

私達のクラス、2年4組の担任で世界史の教師。

さらに私を追試の危機に追い込んだ張本人。

この野郎、授業の時には「簡単なテスト」つってたのに難しかったじゃねぇか。

『前漢の都の名前は?』なんて問題の出るテストが簡単なテストかよ。

中国の首都と言ったら上海だろうが、なのに選択肢ときたら長安だの洛陽だの北京だの。

どこだよ、それ。

この教師の印象を一言で言うと。

さえない奴だ。

顔も好みじゃない、性格も面白くない。

はっきり言って彼女いない、できそうにないタイプ、と言うよりこんな男好きになる物好きなんていないだろう。

根暗っぽい、というか気色悪い。

去年もこいつのクラスだった。

どうせならもっとカッコいい人、せめて英語の成島(なるしま)とかが担任だったらまだましだったのに。

教師の条件に「容姿が優れていること」なんて追加されないかな。

あ、ババアはいらないから「男性」と限定しないと。

ついでに40代で定年にしたらいい。

そしたらみんな学校が楽しくて仕方なくなるよ、きっと。

 

「おい中谷、自分の席につけ」

「は~い、はいはい」

私は友里に小さく手を振って教室後方の自分の席に戻る。

ドタンと音を立てて座ると右隣の大木元(おおきげん)がちらりとこちらを見た。

ちょっぴり……恥ずかしい。

「大木、奥村。これ、昨日集めたノート。返ってきたからみんなに返してくれ」

はい、と模範的な返事をすると元と友里が教卓に積み上げられた古典のノートの山を半分に切り崩し配りだす。

二人はクラスの代表と副代表。

元は去年もクラス代表やっていたけど友里が副代表をやるなんて最初は耳を疑った。

男子、女子から一人ずつ出すと決まり男子は即決だったが女子は難航した。

それで女子の一人が面白半分に「奥村さんどう?」って訊いたら友里オーケーしちゃうんだもん。

私はたまげたよ。

近頃は結構板についてきたかな。

友里がニコニコした顔で近づいてきて私にノートを渡した。

さっそく開いてみると……。

蛞蝓(なめくじ)の這った跡の下に押されている『C』の判子。

次からは気持ち、丁寧に書くよう努力しよう。

 

 

ホームルームが終わりそれぞれ帰宅部を含め部活動に向かう。

時刻はまだ1時前。

こんな時間に帰れるのもテストの恩恵か。

少しだけ憎たらしいテストに感謝する。

テニス部の私は本来この恩恵に授かれないのだが今日は顧問が出張、その為部活はなし。

超ラッキー、だ。

私は校門の外で人を待っていた。

友里を待っているのではない。

彼女も同じテニス部でいつも二人で下校するけど今日は彼女とは帰らない。

なにか用事があるらしく学校に残ると言っていた。

 はて、一体どんな用だろう。

そういう事で私が待っているのは友里ではない。

 

「おい中谷、誰か待ってんのか?」

校門にもたれかかっていた私に隣のクラスの大田(おおた)が声をかけてきた。

同じ中学の出身だが中学時代はそんなに仲が良いわけでも悪いわけでもなく。

だが高校に入ってから、特に同じ美化委員になったこの4月から親しくなった。

出身中学が同じだとそれだけで共通の話題ができる。

うちの高校、県立下国(しもくに)高校は私が卒業した中学から電車で40分くらい。

卒業生の大半は私の通う高校とは反対方面の学校に進学した。

私の学年に出身校が同じなのは彼一人。

それが最近親しくなった一番の理由かな。

まあ……それだけでもないんだけれど…………。

 

「そんなところ、でしょうね」

否定すると却って怪しまれるかもしれない。

ここは適当に流しておこう。

「そっか。とこんでさ、久しぶりに今日“コレ”行かねぇ?」

太田は車のハンドルを握る動作をする。

「今日は……。先約あるんだ、悪いけど」

「そっか。じゃあいいや」

大して残念そうな素振りも見せず。

あっけらかんとそう言い残し大田は駅を目指して歩いて行った。

 

“彼”は……まだこない。

 

 

 

学校はなかなか厄介な場所だ。

男子と女子が人前で一定の基準以上仲良くしていると色々と波風が立つ。

彼氏と彼女であっても。

 

隣同士の席なのになあ……。

 

 

「あっ、元。日直終わった?」

「だからここにいるんだろ」

「……そっか…………。そうだよね」

行くぞ、と言って元はつかつかと歩き出した。

一瞬出遅れた私は小走りで彼に追いつき、その後は並んで歩く。

 

私と彼、大木元はつきあっている。

つきあっているのにまだ彼とはキスをした事はない。

去年の文化祭の時に私が告白してからだから8ヶ月程になるか。

 

実を言うと……最近あまり上手くいっていない…………みたい。

なんでだろう、私なにかしたかな。

んっ、そういえば。

元はこの4月から予備校に通っている。

大学受験の為だ。

彼は帰宅部で私はテニス部。

でもテニス部の練習はテニスコートが2面しかないので、男子と女子が一日交代でコートを使いコートが使えない日の練習は早く切り上げられることも多い。

土曜、日曜は練習も殆どなく1年の時は週末二人でよく遊びに出かけたものだけど。

2年になってからはめっきり減ってしまった。

 

元が予備校に通うと私に告げた時。

「一緒に通わないか」と誘われた。

私は断った。

だってめんどくさいじゃん。

なにが悲しゅうて学校終わった後も勉強しなきゃならないの。

まだ2年生だし……。受験勉強は3年になってからでもいいだろう。

それに私はテニス部入っているし……。

その練習だけで疲れるのにさらにその後予備校に行くなんて体が持たないよぉ。

 

その事、怒っているのかな。

 

 

「千賀子」

「なに?」

駅への道のりを歩み始めた私達は校門から100メートルも進まずに赤信号にひっかかった。

かかとで拍子を刻む私に元が唐突に話しかけてくる。

「大学どこ考えている?」

「はっ?」

どうしてそんなことを訊くの。

30分前に嫌な嫌な嫌な試験が終わったばっかなのに。

私は、追試があるかもしれないけど。

勉強の話は勘弁してよ……。

「俺は一応国公立狙っている、現実的にはかなり厳しいけどさ。お前は?」

「私は……まだ、はっきりこことは……」

「……そう。ところで今日暇?」

「えっっ……。うん、暇暇。ものすっごく暇」

「俺も今日は予備校ないんだ」

「うん、知ってる」

「だったらさ……」

 

「俺ん家で…………」

 

 

 

「テストの復習やらないか?」

 

 

 

「……はあぁ?」

 

「世界史でき良くなかったんだろ? 分からない個所をそのままにしてたらいつまでも分かんねぇままだよ。それにしっかりと復習すれば学校のテストも少しは意味あるものになる、って予備校仲間のあいつもさ……」

「ごっ、ごっ、ごめん。私今日やっぱ忙しかったみたい、だからごめんね」

「あっ……そう……」

「今日はダメだけど。明後日、横浜にでも行かない? あっ、渋谷まで行ってもいいよ」

「……考えとく」

「そう、じゃあ後で電話してね」

「…………ああ」

 気のない返事をした元を私は軽く小突いてやった。

 

 何も……反応はなかった。

 

 

その後は。

駅までの約15分間、私達はほとんど話さなかった。

話せな……かった。

駅舎に入り改札口を抜けても静かな時間は持続しやってきた急行電車に乗ってもそれは続いた。

ドア付近に並んで立つ二人はなにも言葉を交わさず眼のやり場を求めて流れ行く車窓を漠然と見ている。

 

『間もなく~松崎、松崎です。出口は変わりまして右側です』

元が降りる駅のアナウンスが流れる。

ここにきてようやく私は声を出すことができた。

「またね~」

無意味なまでに、明るい声だった。

「また月曜日」

元は振り向きもしないでさっさとホームに降り立ち階段を上って行って視界の範囲から消えた。

ドアが閉まり、小さな衝撃の後再び動き出す電車。

 

『次はぁ~日野本町、日野本町です。日野線はお乗換です。出口は、同じく、右側です』

面食らったなぁ。

ドア付近から少し車内中ほどに移動した私の耳に学校から駅まで歩いていた時に彼が言っていた言葉の群れがもう一度響く。

元ってあんなにがり勉だったっけ。

1年の時は違ったもんなあ。

やっぱり2年からか。

予備校に通うようになってからがり勉になったのか、がり勉になったから予備校に入ったかは今一つはっきりしないが。

 どちらにしろ私が好きになった大木元という人間はあそこまで勉強が好きではなかった気がする……。

 

空はこれ以上ないという程の曇天。

 どけだけ景色が流れようと、小汚い灰色の雲が一面天を覆っている。

 

 

にしても……元の言ってた『予備校仲間』…………。

 

 

ひょっとして友里……かな。

 

 

友里も元と同じ予備校に通っている。

しかも通いだしたのはこの4月。

 

この前友里は元が好きだ、という噂を小耳に挟んだ。

二人が予備校の帰りに仲良さそうに並んで歩いていた、とも。

最初はデマにしか思えなかった。

並んで歩いていた、なんてのも高校の同級生、しかもクラスの代表と副代表なんだからとりわけ不思議でもない。

 

でも、最近少し、ほんのちょびっと気になり始めている。

クラス代表と副代表の立場の元と友里は昼休みの集まりに二人で出ることもしばしば。

担任の土田に二人揃って用を頼まれる事もあるし、教室でもよく行事やらなにやらについて相談している。

邪推かもしれないが友里は元の事が……。

だからクラス副代表を引き受けたのかも。

以前「どうして副代表なんて引き受けたの?」と訊いたら鼻の頭をうっすらと赤らめて「秘密」、と一言だけ返しそれ以上何も答えなかった。

 

 

だから……。

 

 

まさか、ね……。

 

 

 

「ただいま~」

「おかえりぃ」

帰宅した私は真っ先に洗面所に赴いて制服のブラウスを洗濯機に放り込み、次に台所に行って冷蔵庫からお茶を引っ張り出してコップになみなみと注ぐ。

それをごくごくと一気に。

ぷっ、はぁ~~。

うめぇ~、生き返る。

風呂上りにビールを飲む瞬間を至福の時と捉える世のオヤジどもの気持ちが少しばかり分かってしまう。

私は家では酒を飲んだ事は一度もないが。

「千賀子、お茶飲む前に着替えなさい」

「は~い、はいはいはい」

はしたない格好でお茶を飲んでいた私を母がたしなめる。

もう一杯飲んだら着替えるよ。

と思いつつも一杯が二杯。二杯が三杯。

見かねた母が服を持ってきてくれた。

「さんきゅ~」

「あまり冷たいもの飲むとお腹壊すわよ」

「はいはい」

お母様の言葉に返事をして、四杯目のお茶を飲んだ私はコップを母に押し付け……じゃなくて、渡して2階へ上がる。

小気味良い、リズミカルな音を立てながら。

「千賀子~。階段は静かに上り下りしなさいって、いつも言っているでしょう」

一気に階段を駆け上った私は姿の見えない母にニコッと微笑むと自室に逃げ込んだ。

 

 

自分の部屋に入るなり床に乱雑に置かれていたファッション雑誌に滑って転んだ私に。

電話の子機が自分を取れと催促する。

手に取りかけたが、やめた。

私への電話じゃないかもしれない。

6回コール音がなって母が親機で出た。

 

 雨が窓をノックした。

 初めはこん、こんと控えめに。

しかし次第に荒っぽい、粗暴なものへと変貌を遂げていく。

私は窓辺に立つと数センチ開いていた窓をきっちり閉め、鍵までかけた。

 

今日の雨は小雨ですみそうにない。

 

 

「千賀子~。あなたによ~」

母が階段下から大きめの声で知らせる。

誰からか。

でもすぐに誰が電話してきたか想像ついた。

彼の顔を頭に思い描きながら子機を取る。

 

「もしもし?」

「……ああ、千賀子……か…………」

 聞こえてきた声はやっぱり予想した通りだった。

「元? なに~?」

「千賀子…………」

「うん?」

「……本当に、千賀子だな?」

「やだ~、なに言ってるの? 私に決まってんじゃん」

「今日は……ずっと家にいたのか?」

「うん、そうだけど」

「学校から帰った後一歩も外に出ていないか?」

「うん、出ていない。今日は元と別れてそのまままっすぐ家に帰ってどこにも行ってない」

「そうか…………」

私の答えに満足した元は安堵の息を漏らす。

 

その時の、私には。

どうして彼がホッとしたのか皆目見当つかなかった。

 

 

「千賀子……」

 

「……最近良くない連中と遊んでるんだって?」

 ぎくり。

 いきなり冷たい水風呂に投げ込まれたみたいに心臓がびっくりする。

「『良くない』なんて……。太田君や坂下(さかした)君達のことそんな風に言わないでよ」

 

雨粒が次から次へと窓に激突してくる。

 ワイパーはついていないので外の様子は窺いづらい。

 雨はかなり激しい。

 窓と雨が生み出す音も今日の雨が並ではない事を主張していた。

 

「どうしてあいつらと親しくなったんだ?」

「なっ、ちょっと、そんな私の友達づきあいに干渉しないでよ。いいじゃない、誰にも迷惑かけてないし」

 太田達と親しくなったのは2年生になってから。

 共に美化委員を務める事になったのと出身中学が一緒だったのがきっかけだった。

 最初は廊下で会ったら時々話す程度であったがゴールデンウィークを過ぎた頃からたまに彼の家に遊びに行くようになり、そこで坂下とも知り合った。

 

「深夜コンビニの前に座り込んでパーティ開いて、店の通報でやってきた警官に注意されたら逆ギレして食ってかかるのは十分迷惑だと思うぜ」

「ええっ?」

「お前もそこにいたんだってな」

「……誰から?」

「たまたまそのコンビニで買い物をしようとして出くわした奴から聞いた」

「…………」

 

太田も坂下も「有名」だった。

生徒指導にしょっちゅう呼び出されてたがクラスや学年で格別浮いてはいなかった。

けれど彼らの事を快く思わない人達もいた。

元もそう。

 

 

5月の終わりぐらいから太田の家に頻繁に通うようになった。

私が太田の家に通った期間はごく短くて、2、3週間程度。

彼の部屋は雑然とし、床には空の缶ビールがいくつも転がり、壁は(やに)で茶色く変色していた。

時折知り合い何人か集めてその部屋で高校生だけの宴会も行われた。

その宴会が私は好きだった。

雰囲気が非常に解放的だったから。

その席で周囲から酒や煙草を薦められ嗜んだこともある。

煙草は臭いし、歯が汚れるので嫌いだったがお酒はそこそこ良かった。

嫌な事も何もかも忘れることができ実に心地良かった。

そして彼らに混じって商店街のコンビニの前でたむろするようになり深夜、時には朝まで開かれる集まりにも何回か参加した。

元が言ったのはその時の話だろう。

私は参加しただけで警官に食ってかかったのは太田と坂下、私ではない。

他にも夜中にそこら中の壁やシャッターにアートしたり、学校の窓を割ったこともあった。

万引きや自転車拝借の見張り役をした事もある。

人が来ないか気を配っていただけで私は何もしなかったが、それでもかつて経験したことのない、極上のスリルだった。

 

太田の部屋には尾崎豊の歌がかかっていた。

いつも、それこそ四六時中。

『夜の校舎窓ガラス壊して回った』、『盗んだバイクで走った』。

私達の“青春”を応援してくれてるように思えて、好きだった。

 

太田達と付き合うのはとても楽しかったし、気持ち良かった。

彼氏と上手くいかないもどかしさ、すれ違い続ける二人の関係。

みんなまとめて忘れてしまえるくらいに。

でも元と別れたかったわけじゃない。

上手くいってはいなかったけど私は元が好きだった。

好きだったから……辛かった。

逃げて、しまいたかった。

 

 

元は真面目な人間だ。

今時珍しい、古風な委員長タイプの人間。

そんな彼が。

もし、私の“前科”の数々を知ったら……。

 

間違いなく去って行ってしまうだろう。

だから、知られたくなかったのに。

 他方でいつかは露見するとも思っていた。

 知っていて太田の家にテスト1週間前、6月中旬まではちょこちょこ顔を出していた。

 

 

だってそうしないと、私。

堪えられなかった、寂しさに……。

 

雨はあちらこちらに水溜りを作り出していた。

庭の芝生が剥がれた部分にも水が溜まり小さな池ができる。

池は雨粒一つ落ちるごとに少しずつ。

少しずつ、面積を増やしていた。

 

 

 

どうしよう、一体どうしたらいいのだろう。

 

 

 

どうしよう……。

 

 

 

弁明を考えながら、無意味で却って悪化するだけと知りつつも私は今すぐこの電話を切ってしまいたかった。

 

しかし電話を切らなくとも。

事態は、さらに悪い展開へ走り始めていた。

 

 

「あとさ。お前さ太田や坂下の運転する車に乗った事あるか?」

「へっ?」

「乗った事あるのか、訊いてんだけど」

「どっど、どうして……」

「あるんだな?」

「…………」

 受話器をあてた左耳から入ってくる元の声は詰問調。

「あいつら免許持ってんのか?」

「…………」

けれど左耳から千賀子に入ってきた彼の尋問も。

左から右耳へ。

すうっと通過してしまい残らない。

「千賀子、無免許だって知ってて……」

「…………」

そう、うるさく窓を叩くのをやめない降りしきる雨の音と同じで。

千賀子の耳には残らない。

入っていない、入らない。

 

終末への歩みが急加速する。

私は意識が遠くなりかけた。

なぜ彼が私が太田の運転する車に乗ったのを知っているのか、それはもはや問題ではなかった。

 元は知ったのだろうか。

あの車での“事件”を……。

そうだとしたら。

 

『お終い』の文字が頭にじんわりと浮かび上がってきた。

 

 

6月の半ばの事だった。

車に興味があったわけじゃない。

ただドライブに行こうと誘われて。

太田の父親自慢の愛車は屋根つき駐車場を借りていると言うだけあってかなり高そうだった。

彼の両親はその前日から三日間の旅行に出かけていたらしい。

繰り返すが車に格別興味があったわけじゃない。

ただドライブに東京近郊の山に行こうと誘われたから何となく面白そうと思って。

 

私と太田の他に坂下と彼の彼女もいた。

私達と同じ高校の人、と紹介されたが見た事のない人だった。

そう、「4人で」との話だったから私はのったのだ。

ドライブは意外とあっさり終わったが帰りの高速で事故渋滞に巻き込まれ帰りは相当遅くなった。

当初の予定では私や坂下とその彼女をある駅で降ろす筈だったが各自の家近くまで送ってもらう話になりまず坂下と彼女が坂下の家近くで車を降りた。

 

 

 

その夜――

 

 

私は初めて口づけを経験した。

 

 

 

そんなつもりじゃなかった。

信号が赤で車が止まって喉が渇いたと太田が言うのでジュースを渡そうとしたら、強引に……。

そのまま…………。

 

 

そんなつもりじゃ……なかった…………。

 

 

 それ以来、私は太田の家に一度も行っていない。

 学校でも殆ど口をきいていない、今日みたいに一言二言交わすだけ。

あの夜の出来事、それを元に知られたら。

私は怖かった。

 太田達と遊んでいたのは彼らとつるみたかったわけでは、ましてやあいつらに気があったわけではなく。

 元と上手くいかない苦しみから、一時(いっとき)でも逃れたかったから。

 

 だが……今更かもしれないが。

 逃げずに、ちゃんと彼と向き合うべきだったのかもしれない。

 

 

 

 本当に、もう今更かもしれないが。

 

 

 

さっきの元の話から私は勝手に早合点していた。

あの車での出来事を彼がなんらかの形で知ってしまったのだと思った。

だから、と言うと言い訳じみてしまうのだが。

私は彼の言葉の一片も耳に入らなくなっていた。

 

窓を叩く激しい雨。

打ち破って部屋に飛び込んできそうなまでの強さ。

その雨の音も、元の問いも千賀子の耳には入らない。

 

「千賀子、どうなん……」

「いいじゃない!」

千賀子は、叫んだ。

「私がしたんじゃないし、私がしたんじゃない!」

 

あれは、勝手に向こうが無理やり。

私がしたかったんじゃない。

 

「千賀子……」

彼女の思い込みを知らない元は困惑した。

しかも悪い事に彼女が言った「したんじゃない」に省略された語を「運転」と勘違い。

受話器を握る彼の顔が険しくなったが、それを千賀子が知る術はない。

 

 

「ニュース、知ってるか?」

「はい?」

藪から棒に、元は千賀子が予想もしなかった話題を持ち出した。

冷静を装った声音で彼女に尋ねる。

 

ニュース、一体何の話。

さっぱり分からない、意味不明だ。

 

「今日の午後3時ごろ、70代の男性が道路を横断中に軽自動車に轢かれた。男性は病院に運ばれたが間もなく死亡。車は現場から逃走したが1時間後捕まった」

「……何言ってるの?」

急な話題転換に混乱状態の千賀子の頭はついていけない。

「その車のドライバー……」

 

 

 

「太田だよ」

 

 

「はっ!?」

「助手席には坂下、後部座席にもうちの学校の生徒2、3名いたらしい」

事故った、太田が。

素人の私でも分かる高そうな車。

その車で。

私も乗った車で。

 

 

……良かった。

今日の下校時。

久しぶりに、あのドライブ以来に“コレ”行こうかと誘われた。

あの時ははっきり断り、向こうもしつこく言ってこなかったけれど。

もし、私も同乗していたら。

私も……乗っていたら。

 

 

急に、膝が、震え、寒くもないのに鳥肌が立つ。

 

「……関係、ないよ。私には…………。関係ない、よ…………」

「俺、『まさか?』って思ってさ。もしかしたらお前が乗っているんじゃ……」

「関係ないよ!」

ヒステリックに千賀子は叫び、無意味な連呼を繰り返す。

「関係ない、関係ない、関係ない、関係ない、関係ない、関係ないぃー!」

 

何の為に元は電話をかけてきたのだろう。

いずれ知る事だが、何故わざわざ電話をかけてまで知らせたのだろう。

私に説教したかったのか。

その為に、電話をよこしたのか。

 

そうなのか、そうだ、そうなんだ。

 

「関係ない……よ」

「俺は千賀子が巻き込まれたかと……」

「てめぇには関係ねぇ、つってんだろ!」

 

 

その声は普段なら近所の人の耳にまで届いたかもしれない。

だが降りしきる、横なぶりの雨がそれを阻んだ。

 

 

はあー、はあー。

 

呼吸が整うに従って千賀子は落ちつきを取り戻し正常な思考も復活する。

 

「あっ……」

それとほぼ時を同じくして。

「ああっ……。あ、あ、ああぁ…………」

 

彼女の頭の中が白雪で埋もれ雪原が生まれた。

 

雨粒が窓に体当たりしては砕ける。

 砕けた残骸が窓を垂れ、さらに下へ。

 下へ、下へ……。

 窓からは玄関先や家の前の様子がある程度見渡せる。

置き去りにされた自転車。

ずぶ濡れになりながらもいじらしく健気に堪えている。

 

 庭の植木蜂が倒れ、枝が折れた。

 

 

「千賀子……」

 

告白やプロポーズと違い捻る必要はない。

雰囲気もあまり関係ない。

 

「…………終わりにしよう」

 

 

別れの言葉は、シンプルだ。

 

 

「……えっ?」

「終わりにしよう……俺達」

「……どういう意味? はっ、なんのことだか……」

「もう終わりにしよう」

「……ごめん、ごめんね。言い過ぎた。ねっ? 謝るから、謝るから……」

「終わりにしよう」

 

 

 (ねずみ)色の空。

 その空から撃たれる雨粒の弾丸が激しく窓をうちつける。

 傘もささずに外に出ればきっと痛みを感じるであろう。

 弾は、休みなく撃ち続けられる。

 

 薄汚い、鼠色の空から。

 

 

「なんで? なんで、そんな事言い出すの?」

今日の帰りだって一緒に学校から駅まで歩いたのに。

どうして、どうしてこうなっちゃうのよ。

「いきなりってわけでもないだろう。最近お互いすれ違い気味だったし……。俺にも原因あるけどさ」

「さっきのはごめん、私が悪かった。太田君達とつきあうのも止める。だから……許して……」

「感情って良く分かんねぇもんだな」

 感心したような口ぶりで元が言う。

 

 今の今まで好きだったはずなのに。

 少なくとも、こうして心配で千賀子の家に電話をかけた時は彼女の事で頭が一杯だったはずなのにさ。

 

 今は、もう、なんとも思ってないんだからな。

 

「ホント、不思議だよな。人間の心ってやつは」

 瞬く間に燃え上がることもあれば瞬時に冷え切ることもある。

 実に、不思議で扱い難いもの、ままならぬもの。

 

降り続く横なぶりの強い雨。

それでもさっきより勢いは弱まっているようだ。

しかし風は激しく木々や電線を揺らし気味悪い音を立てている。

 

 そして、雨もまだあがりはしない。

 

「……ねえ、元? 私の事嫌いになったの?」

「別に嫌いになったわけじゃ……」

「なんで? どうして?」

「『関係ない』、んだろ? 悪かったな」

「嘘、やっぱり私を嫌いになったんでしょ? 前から別れるタイミング計ってたんでしょ!」

「違うって! 第一、嫌いになったんなら太田の車が事故ったって聞いてお前ん()に電話かけないよ」

「なに、それなら私が太田君達とつきあっているのが気に食わなかったの? そうなの?」

「ちげぇよ!! それじゃあまるで俺があいつらに嫉妬してたみたいじゃねぇか」

「そうなんじゃないの!?」

「ちげぇ、って言ってんだろが!!」

「じゃあどうしてなのよ!?」

 

 

「千賀子……最近特にそう思っていたんだが……。お前って…………」

 

「ガキっぽいな」

 

 

 

 

「もう、いいだろう……」

「私……そんなに子供かな?」

「さあな。別にそれだけが理由じゃねぇよ。ただ俺はそう感じた」

「もっと大人っぽい()がいいの? …………例えば、友里みたいな」

 

 どうしてこんなことを言ったのか。

 自分でも不可解だった。

 私は自分でも子供っぽいと時々人から言われていたのである程度は認識していた。

 それに対して友里は私と比べると「大人」で、元ともお似合いで……。

 

 要するに。

一つ、たぶん間違いないのは。

 

 

 私が親友を疑い、嫉妬していた事。

 

 

「んっ? なんでそこで奥村の名前が出てくるんだよ?」

「なんで……って…………」

 口篭る私の態度が余計癪に障ったのだろう。

 元は若干だが明らかに軽蔑を込めて。

 

 

「ふ~ん」

 

 

私が聞いた中で最も冷ややかで見下したものだった。

 

 

 

「ねえ、ねえ?」

「もう、いいだろ」

 すがりつこうとする私に元は面倒くさそうにそう言うと。

「じゃあな」

 

 

――ピッ

 

ツー、ツー、ツー、ツー――――

 

 

無機質で言葉など解さぬなんでもない電子音が。

この日に限って私を嘲り、罵っているように聞こえた。

 

 

 

「バカ、バカ」と――――

 

 

 

 

 

「姉ちゃん、飯」

続けざまに2回木製のドアが音を立てる。

聞こえてないのだろうか、返事はない。

「飯、飯だぞ、千賀子」

眠りこけているのか。

悠斗は念の為もう一度ノックしてから踏み込んだ。

「おい、こら、千賀子起きやが……」

 

 姉の部屋は夏とは思えない程、「寒かった」。

 

 

「姉……ちゃん?」

部屋は異様な寒さに包まれていてその中心に電話の子機を握り締めたまま呆けている千賀子がいた。

ツー、ツー――

つながりが断ち切られたことを示す無機質な音が響く。

悠斗は姉に近づき、子機を取り上げてその耳につく音を消した。

「……悠……斗…………?」

ようやく千賀子は弟の存在に気づいたようだ。

「飯」

「……分……かっ……た…………」

「早く……来いよ」

 

返事はなかった、もしくは小さ過ぎて彼の耳には届かなかった。

静かに、ひっそりとドアを閉めて悠斗は部屋をあとにした。

 

 

私が下に下りるともう夕食の準備は9割方できていた。

最後に麻婆豆腐を悠斗がテーブルの中央に置いて終了。

悠斗はテレビの上にあったリモコンの再生ボタンを押す。

一時停止から解き放たれたテープが回り始める。

弟が見ているのは国民的、と言われているアニメの劇場版。

物語は最後のクライマックスを迎えていた。

映画の内容は宇宙のある星の大統領が地球へ逃れてくるところから始まる。

その星では軍の将軍が力を持っていて大統領を亡き者にしようとし、大統領は側近らにより母星を脱出させられる。

地球に着いた大統領は地球人の少年達と知り合いになる。

大統領の星の人々は地球の人間の掌に乗るほど小さい。

そして10歳の若き遠い星の大統領と知り合った同い年の地球の少年少女は地球から遥か離れた星の戦いに深く関わっていく事に……。

 

 

物語の最後で独裁者となった将軍は倒れ、エンディングへ。

エンドロールと共に主題歌がかかる。

 

♪トゥ~ルルルル~ルトゥルルルル ルルル~ルルルル~ルルルルルル

♪タッタタ~ン タッタタ~ン

 

その歌を聴いているうちに、なんでだろう。

哀愁漂うメロディーのせいでもあったがそれだけじゃない。

なんでだろう、ともかく。

 堪らなくなった。

 

「……ごちそう……さま」

「あれっ、もういいの?」

茶碗によそられた白いご飯を半分以上残し味噌汁やおかずにもまったく手をつけずに食事を終わらせた私に母が心配そうに確認する。

「……うん。食欲ないんだ」

自分でも陳腐な言い訳だと思う。

歌は間奏が終わりこれから2番に。

私は食べ残しの残る食器をそのまま放置し耳を塞ぎながら2階へと逃げた。

 

 

1時間後。

千賀子は隣の部屋のドアを叩いていた。

だが何度叩いても主は出てこない。

やむなくドアを開け中に入る。

ヘッドホンで音楽を聴いていた部屋の主はここに至ってようやく来訪者に気づき、耳からヘッドホンを外して椅子を動かして体を向ける。

「姉ちゃん? なに?」

「……あの歌のCD。あなた、持ってる?」

「あの歌?」

「さっきの歌」

「さっきの……。ああ、俺が見ていた映画の歌の事?」

「……貸して」

「……どうかしたの?」

「いいから! ……貸せ」

 有無を言わさぬ強圧さと弱々しさ。

 情緒が不安定気味な姉にいささか戸惑いながらも悠斗は望みのCDを渡した。

 千賀子は受け取ると、部屋を出る間際。

「……ありがとう」

 そう言っていつもより丁寧にドアを閉めた。

 

 雨が、また、強くなってきたようだ。

 

 

部屋に戻るなり、CDラジカセの電源を私は入れた。

次いでCDをセットし曲を1つずつ演奏し聴きたい曲を捜す。

暫らくして、目当ての曲に当たった。

開けっ放しだった部屋のドアを閉め、私は歌詞カードの文字を追いながら聴く。

 

♪ぼくは~どうし~て 大人に なるんだろう

♪ああ ぼくは~ いつご~ろ 大人に なるんだろう

 

演奏が終わった。

手を伸ばし、番号を合わせまた同じ歌を聴く。

それが終わればまた、もう一度。

4度目から私は歌詞カードを床に置き眼を閉じて歌に耳を傾けた。

 

 

10回ぐらい聴いた時。

千賀子の目からなにかが溢れ出し頬を伝って服に落ちた。

一度(ひとたび)流れ出たそれは次から次へと出てきてたちまち彼女の服に小さからぬ染みを作ってしまう。

千賀子はまたも同じ歌が流れるようにすると腰を上げ、窓の前に立った。

そして窓の前で後ろから耳に入ってくる歌を聴く。

“なにか”は今も彼女の目から溢れ続け先程までとは違う場所に染みを作る。

歌が終わった。

千賀子はなにを思ったのか窓にかかっていた鍵を開け、全開にした。

強い横なぶりの雨が部屋に入り込んでくる。

雨はあっという間に千賀子の上半身をずぶ濡れにし雨の届く範囲と届かない範囲の明確な境界線を生み出す。

千賀子はなにやら声を上げていた。

しかし強い雨にかき消され、目から溢れたものも雨と入り混じる。

 

部屋の入口付近に置かれ雨の難を逃れたラジカセの液晶の数字が変わりさっきまでとは異なる歌を、吹き込む雨とそれに消されてほとんど聞き取れない千賀子の声ならぬ声の二種類の音が混在する部屋に流していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

時計の針は進んで、現在に。

 

悠斗と母、それになぜだか私もビデオを見ていた。

映画はクライマックスが過ぎエンディングへ。

そして。

劇中の中でも使われて。

私を過去へ連れて行き、テレビの前から動けなくした歌。

この映画の主題歌が最後にエンドロールと共に流れる。

 

武田鉄也、『少年期』――――

 

 

♪トゥ~ルルルル~ルトゥルルルル ルルル~ルルルル~ルルルルルル

♪タッタタ~ン タッタタ~ン

 

♪かなしいときには 街の外れで 電信柱のあかり見てた

♪七つのぼくには 不思議だった 涙浮かべて 見上げたら

♪虹の~かけらが~ きらきら光る

♪まばたきするたびに形 を変えて 夕闇に一人 夢見るようで

♪叱られるまで 佇んでいた

 

♪あ~~~あああ~~~

 

♪ぼくは~どうし~て 大人に なるんだろう

♪ああ ぼくは~ いつご~ろ 大人に なるんだろう

 

 

 

♪目覚めたときは 窓に夕焼け 妙にさみしくて目をこすってる

♪そうか ぼくは ひざしの中で

 

♪あ~~~あああ~~~

 

♪ぼくは~どうし~て 大人に なるんだろう

♪ああ ぼくは~ いつご~ろ 大人に なるんだろう

 

♪トゥ~ルルルル~ルトゥルルルル ルルル~ルルルル~ルルルルルル

♪トゥ~ルルルル~ルトゥルルルル ルルル~ルルルル~ルルルルルル……

 

 

7年前。

私と友里と彼とたくさんの人達の時間が交差していた時。

 

あれから、7回夏を迎え、7回夏を送った――――

 

 

 

大木元は千賀子の2番目の彼氏だった。

 その後5人の男、計7人と千賀子は交際し、別れた。

 最初に交際した奴みたいに付き合いだして4日でいきなり「飽きた」と言われ終わった事やこっちから振ってやった事もあったけれど。

 

 「ガキっぽいな」と別れ際に言われたのは……一人だけで。

 

 

 別れた後心の底からこみ上げてくるものがあったのも、その一人だけだった。

 

 

 今になって振り返ってみると。

 私は逃げていたんだ。

 大好きな人から逃げていたんだ。

 すれ違い続けるのが怖くて、堪えられなくて。

 距離が離れて行く二人を、現実を見るのが嫌で。

 お似合いな元と友里が恋におち、親友が私を裏切り元が私を捨ててしまうんじゃないかと怯え、そんな風に二人を疑う自分がとてつもなく醜く思えて。

 太田達と遊んだのも辛い事や悲しい事や醜悪な面を心の一部に宿した自分を一時でも忘れたかったから。

 

 終わった日、元と別れた日。

あの時も、私は最後までただ喚き散らすだけで。

自分が招いてしまった結末を容認できず、その原因を元に押し付けようとした。

 

そんな私を、彼は「ガキっぽい」と評したのだろう。

 

 

 

 あれから、7年。

 

今はみんな別々の時間を過ごしている。

人はみんな変わっていかないといけない。

強制的に次の立場に立たされる。

そして二度と後戻りはできない。

 

 

 私は元のどこに惹かれていたのか。

 きっと、彼の雰囲気に。

 高校生にしては少し成熟した「大人」の雰囲気に、私とは正反対な、私が持っていないものに強く惹かれていたんだと思う。

 

 自分で言うのもなんだが私は当時幼稚で子供じみていた。

 いいや、今でも「子供っぽい」とか「いい大人なのに」と言われてしまう。

 元に「ガキっぽいな」と言われたあの日から私は少しも、進歩していない。

 それどころか、現在負け組街道を驀進(ばくしん)中。

 

 高2の時は遊びまくった。

元と別れて3週間過ぎた7月下旬には、私は新しい彼氏と繁華街を腕を組んで歩いていた。

明日の事、将来の事なんてろくに考えておらず。

“失敗”の痛みを忘れたい事もあって、私は今を愉しむ毎日に溺れた。

 高3になり大学受験が目前に迫ってきても私は遊び歩いていた。

 その頃は彼氏もおらず、太田を通じて知り合った連中ともすっかり縁が切れてたが遊び相手に不自由する事はなかった。

 

 そして、受験。

 結果は惨敗。

 滑り止めは幾つか受かっていたけど本命は落っこちた。

そんなにショックじゃなかった。

何が何でもその大学に入りたかったわけじゃないし、大学進学を決めたのも別にしっかりとした動機もなく、「とりあえず」だったから。

だが滑り止めの学校にはどうしてだか行きたくなかったので、入学手続きは取らなかった。

そんなに落ちた実感はわかなかった。

 けれど早めに咲いた桜の花が散り“学校に行かなくていい”日々が始まると自分が「乗り遅れた」事を痛感させられた。

 

浪人1年目。

 そこそこ勉強はした。

 でも、その倍近く遊びもした。

 結果、大敗。

 専門学校進学も考えたが授業ばかりで殆ど遊べず、また気ままな大学生活を送りたい事もあり、止めた。

 浪人生活2年目。

 背水の私は今までで一番勉強した。

 滑り止めの学校も受けまくった。

 それでどうにか第2志望の学校に合格、私は晴れて大学生を名乗る権利を獲得した。

 

 淋しいくらいに、達成感は全くなかった。

 

大学の4年はあっという間に過ぎ去っていった。

適当に勉強して、バイトして、遊んでまた遊んで。

 それなりに、楽しんだ。

 でも3年の時にあまり熱心に就職活動をしなかったツケを今痛過ぎる程払わされている。

 このままでは卒業までに内定を取れなければ。

 フリーター、下手すりゃニート……。

 確実に、負け組への道を歩んでいる気がしてならない。

 

 

私は今24歳、大学4年生。

世間から見ればもう「大人」だろうか。

 

私は一体いつ大人になったのか。

高校を卒業した時。

20歳になって成人式に出席した時。

 

それとも、私はまだ大人になっていないのか、

大学を卒業したら大人になるのか。

就職したら大人になるのか。

 

私はいつごろ大人になったのだろう。

私はいつごろ大人になるのだろう。

 

 

旧友や昔の知り合いに会うの、最初はすごく嫌だった。

みんなは色々変わって「大人」になっているだろうけれど私はあの時のまま。

制服を着て、ぼんやり毎日をおくっていた高校時代と本質的には何にも変わっていない。

そんな自分をさらすのが……すごく、嫌だった。

 

でも、行った方がいい。

今はそう思う。

私になにが足りないのか。

どうすればいいのか。

 

分かる気が……する。

少なくとも、ヒントは得られると思う。

根拠はない。

何となく……だ。

 

 

「大学出たら家を出ろ」

一昨日の土曜日、食事中に父からそう言われた。

冗談半分で「就職できなかったら家事手伝いになってずっとこの家に居ついてもいいなぁ」。

と言ったところ、ぴしゃりと。

いい歳になっても私が希望する限り今まで通り家に置いてもらえる、などという都合良く自分勝手極まりない私の見通しは木っ端微塵に打ち砕かれてしまった。

普段は下品にゲラゲラ笑ってばかりの父だがその時だけはとても威厳あるように見えた。

 

家から出るということは必然的に一人暮らしを始めるということ。

バイトの日数と時間を増やせばなんとかなるかもしれないがそれでもかなり厳しいだろう。

卒業後暫らくはそれ相応の負担をする代わりに家に置いてもらうしかないかもしれない。

家賃、食費、光熱費。

今まで当たり前に家に住んでいて、三食食べていて、クーラーで涼みストーブで暖を取っていた。

私は……どれだけ人に甘えていたのだろう。

 

 

私は大人になれるのだろうか。

どうすれば、大人になれるのだろうか。

 

 

親に、生活の全てを支えてもらっていた24年間。

けれどいつまでもそんなわけにもいかない。

自立して、一本立ちしなければ。

 

できるのかな……。

 

私は変われるのだろうか。

このままだと私はなにも変わらないのでは、と不安に駆られる。

変われなかったら。

就職なんてとてもできないんじゃないか、一人でやっていけないんじゃないか。

 自分ではなに一つできず親の世話になりながら一生を過ごすのではないか。

 

 

私は変わりたい。

自分の力でお金を稼ぎそのお金で食事をし、電気代やガス代、アパートの家賃などを払いたい。

大人、と呼ばれるようになりたい。

 

その為に……行こう。

 

傷つくかもしれない。

かつての友人に嫉妬するかもしれない。

 

それでも、行こう。

 

幼く子供な自分を変える、きっかけをつかむ為に。

 

 

私はすくっと立ち上がり、2階に行き私の部屋に入ると真っ先に携帯電話を手に取った。

 

 

「もしもし、友里?」

「千賀子? どうしたの?」

「私……出るよ。同窓会」

「ホント? 久しぶりに会えるね。何年ぶりだろう」

「高校卒業して、1年経って仲の良かった女子でカラオケに行って以来じゃない」

「そっか……。こうして電話やメールして、家も電車で30分くらいの場所なのにそんなに会ってないんだあ~」

「変な感じだね」

「そうだよね~」

その後話は弾み私達は通話時間が1秒1秒確実に伸びていくのも気にせず会話に興じた。

話題の中心は同級生のその後。

教職に就き教壇に立っている人の話。

外資系銀行に就職した人。

 IT関連企業に勤めている人の話題などかつてのクラスメイトの今を友里から聞いた。

 

 そうそう元の事も聞いた。

 中の上の大学を卒業し証券会社で働いているらしい。

 先日会った友里の話によるとだいぶ“丸くなった”とか。

 相当以前と比べて親しみやすい人物になったと言う。

簡単には想像できない。

 あの生真面目な堅物がどう変化したのか。

 同窓会の楽しみが一つ増えた。

 

 ただ……。

 

 どこか寂しい気持ちも、あった。

 

 

 そうこうしている間に20分以上過ぎてしまった。

「それじゃあ、当日会いましょう」

「うん」

「楽しみにしてるよ」

「うん、それじゃ……」

「あっ、待って!」

「えっ? なに?」

「う~んとね……。今度ね……。私……。するの、結婚式」

「はい!?」

 友里が、結婚。

 驚くと同時に彼女の結婚相手に一人の人物が脳裏に浮かんだ。

 その予感の当たっている確率は極めて低かったのだがどうしてか、確信に近いものが私にはあった。 

「……相手は?」

「千賀子も良く知ってる人」

 確率が一気に跳ね上がる。

 私と友里の共通の知り合いと言ったら高校時代の人間しかいない。

 鼓動が早くなるのを自分でも把握していた。

「もしかして……。2年4組の…………」

「分かった?」 

もう、ほとんど間違いない。

確信が事実に変わるのを私は微塵も疑っていなかった。

 

 

「そう、信清(のぶきよ)さん!」

 

 

「あれっ? 誰……それ?」

「誰って……。あっ、だよね、名前だけじゃ分かんないよね。土田。土田信清さん」

「ごめん……。そんな人いたっけ?」

「いたよ~。ほら、担任で世界史を教えてた土田先生。1年の時も担任だったじゃん」

「あ~あ……。土田か…………」

 

 

 

 

 

「って、えっ? はい~~!?」

「今年の冬に結婚式やるの、ホテルで。ウェディングドレス着るなんて初めてよ~」

聞けば高2の“あの日”、1学期の期末試験が終わった日の放課後に告白したと言う。

その時ははっきりとした返事をもらえず……、正確に述べると「卒業するまで好きだったら考える」と言われて。

それで高校生活最後の日、卒業式の日に再度告白。

そこでも「今日はPTAの祝賀会がこれからあるから今日の夜にまたゆっくり話しあおう」と言われたのだが。

その夜、“話しあう”為に土田のアパートにまで押しかけた、もとい訪ねたそうだ。

「いいと言うまで帰らない」と粘られ土田もとうとう根負け、オーケーをしたらしい。

それから6年間交際しようやく、ゴールインを迎えたとのこと。

 

プロポーズも友里の話を聞く限りでは「された」というよりは「させた」みたいな……。

 

 

「良かったらきてね~。そっちにも都合があるだろうけど」

「えっ、う、うん……」

「じゃあ、同窓会の日にお会いしましょう。またね~」

「うん……。またね」

 

 ――ピッ

 

 

 

この時をもって。

私の胸に7年もの間しぶとく残っていたもやもやは深かった霧があっという間に晴れていくように、どこかへ去って行ってしまった。

 

 

 

「さて、と」

今月の第3日曜日だったかな。

日にちはまだある。

それまでに準備をしなければいけない。

とりあえず、服だな。

 

窓の外に、私は視線の先を求めた。

空は綺麗に澄み渡っている。

夏の忘れ形見の暑さはここ数日続いているが、朝夕に秋の気配を感じるようになった。

あと少しの辛抱だ。

春から夏に、夏から秋に、秋から冬に、冬から春に。

季節は必ず移り変わる。

秋らしくなるのもそう遠くはないだろう。

 

用済みの携帯を折りたたみ、放り投げた。

携帯は机に着地、回転しながら卓上を進み……。

 

 

ガタッ。

 

落ちた。

 

……まっ、いいか。

 

私は自分の部屋から階下の母に呼びかける。

「お母さ~ん。よそ行きの服ってどこにしまってたっけ~?」

「何~。どうしたの~?」

あまり聞き取れないのか、母は逆に問い返してきた。

仕方ない。

 

 

「今そっちに行く~」

そう言うや否や。

私は半分閉まっていた部屋のドアを壁に叩きつけて飛び出し、リズミカルな音を刻みながら階段を駆け下りて行った。