『 7th 』
電車のドアが開き、車内は本来の季節を取り戻した。
冷房で無理矢理冷やされた車内の空気が我先にとドアから飛び出し、かわりに熱を帯びた外気が次々に電車に乗り込んでくる。
このような場所に居なければさえ常に私に纏わりついて離れない熱気ではあるが、徐々に冷房に慣れはじめていたこの体には少々辛い。
車内に僅か残る冷気が恋しくて、このままここで涼みたいという悪魔のささやきが脳裏をよぎる。
だが悪魔が私を誘惑するその前に、下車せんと乗降口に迫る人の波にのまれ、私は電車から搾り出された。
睨みつけるような視線をこちらに向けつつ、いかにも“上司にこき使われてストレス溜まってます”な顔つきをしたサラリーマンが私の横をすり抜け、早足でホームを歩いてゆく。
乗降口の前に居座っているのはさすがに迷惑だったか。
私は電車から離れるように歩を進める。
先程出て行った冷気がこの辺をうろついていても良いものだが、あれほど私の身体に馴染んでいた空気は薄情にも私を置いてどこかへ行ってしまったらしい。
次に会った時は人との関わりを大切にするよう言い聞かせなければ。
「……………」
頭に浮かんだくだらない思考に苦笑する。
どこかネジが外れた思考を脳から追い出すように嘆息してみるが、それは蒸すような空気に侵され、不快な風を外界へ送るに過ぎなかった。
9月。
夏も終わりだというこの時期に、太陽はこれでもかとばかりに未練がましく光を投げ込んでいる。
まるで在庫が余った夏物の服を破格で売りさばくような大盤振る舞いだ。
………迷惑な事この上ない。
ホームを守るかのように長く伸びる屋根のおかげで太陽の光を直接浴びる事はないものの、真夏の太陽と風がもたらす熱風は屋根などものともせずに私の身体へと纏わりついている。
ただその場に立っているだけで、不快な汗が肌を滑っていった。
私はポケットからハンカチを取り出し、額にあてる。
ハンカチはみるみるうちに湿り気を帯びていく。
ちょっとでも絞れば溜まった汗が滴り落ちそうだ。
――暑い。
今さら言うまでもないが、暑い。
私はすっかりびしょびしょになってしまったハンカチを折りたたみ、ポケットの中に入れる。
――が。
「………?」
ポケットに入れた手に違和感を感じ、その正体を引き抜く。
私の手にあるのは小刻みに震え続けている携帯電話。
電車に乗ってからマナーモードに設定したまま解除するのを忘れていた事を思い出した。
私は折りたたまれた携帯電話を開き、そのディスプレイを見る。
無機的に並ぶ、11桁の数字。
私は溜め息を一つ吐き、
――ピッ
電話を切った。
「はぁ……」
再びため息をつく。
――二学期。
長いようで、実際にはあっという間に過ぎていった夏休みが開け、数日が経つ。
こんな暑い日に学校に行くなんて思いもしなかった。
9月は涼しくなって、過ごしやすくなっていると決めていたのに。
きっと、これは神様が休みボケしている我々に課した試練なのだろう。
心頭滅却すればなんとかって言うけれど、やはり暑いものは暑い。
この暑さに耐え抜けば涼しい良い季節がやってくるのだろうか?
どーせすぐに寒くなるだろうな。
そんでもって、雪が積もって凍って滑って転んでアイタタタ……
そう考えると混沌の地にあった世界に「光あれ」とか言ったヤツを殴りたい。
闇に包まれたままなら、こんな不快な思いなんてしなかった。
ああ、殴ってやりたい。
殴って屈服させた後は、この私、藍川
ひとみ(あいかわ ひとみ)様の奴隷にしてやるんだから!
天気なんて思うがまま、為すがまま、流れるままよ!
「神様、首洗って待ってろよ!」
9月の空に向かって叫ぶ。
二学期早々に、大いなる目標ができた。
『今月の目標・神様を私のものにする!』
あろう事か、一人の少女が神に対して反旗を翻すのだ!
――ここに、私の『神様奴隷化計画』は始動したのであった――
でも、神様って何処にいるんだろ?
・・・・・
放課後の教室って、どうしてこんなに寂しいのだろうか。
教卓と向かい合うよう無造作に並べられた机と椅子。
落書きした後がちゃんと消えてない黒板。
掲示板に張られた、破れかけのポスター。
ジャージや教科書などがところどころに詰め込まれているロッカー。
それらが窓から差し込んでくる夕陽に照らされて、青黒い影と茜色のコントラストに彩られている。
悲しいほどまでに鮮やかで綺麗だ。
今、私は窓側の後ろから二番目の席に頬杖をついて座っている。
自分以外に教室に残っている人はいない。
外には部活動をする生徒達が声をだしながら汗にまみれて青春してる。
野球部が千本ノックでもしているのだろう。
硬式ボールが金属バットに当たるときの独特な金属音が茜色の空に響いている。
その様子を窓から眺めていると、しんと時間が止まったような教室の静けさに私一人だけが、世界の時間から切り離されたような感覚が襲ってくる。
どうしようもなく泣きたくなってくるのは私だけだろうか。
このまま空気に溶けていきそうな感触がしてきた。
開いた窓から風が吹いてくれば、そのまま消えていきそうだ。
私、ここからいなくなっちゃうのかな?
もういなくなっちゃったかな?
私は自分の存在を確かめるため鼻歌を口ずさんだ。
――琥珀の化石の中に 祈りを閉じ込めたなら 時が経つ程輝き出す恋よ……
さて、どうしたものか。
哀愁に浸っているのもいいけれど、計画の最大の難点「神様の居所」が分からなければどうしようもない。
いきなり大きな壁にぶち当たり、一時限から柄にもなく考え込んでいる。
おかげで今日の授業は全く寝ることができなかった。
そして今、朱に染まった教室でまだ考え込んでいる。
ため息のように口からは歌が流れていた。
――失くした日々を惜しむだけじゃなく これから訪れる煌めきつかもう……
「あ、あの…藍川さんですよね?」
いきなり声がした。
私は驚いて心臓が…心臓が一瞬止まった。
さっきまで教室には私一人しかいなかったはずなのに。
「……………」
私はしばらく固まっていた。
自分が一人で歌を口ずさんでいるときに誰かが来ると、とてつもなく驚いちゃって頭は真っ白、気恥ずかしさで顔が真っ赤になることはある。
今の私はまさしくにその状況であり、夕陽で教室が朱に染まっているのか、私の顔のせいで染まっているのか分からない状態になっていたと思う。
心臓が大きくゆっくり脈を打つのがイヤによく分かった。
もちろん口ずさんでいた歌は止まっている。
「藍川ひとみさん……ですよね?」
再び質問された。
私はゆっくりと声のしたほうに目を向ける。
そこには学校指定の制服を着た女の子が立っていた。
見た目は小学生の高学年くらいで、金髪ロングヘアーのツインテール、そしてリボン。
クリクリッとしたドングリ眼がせわしなく動いている。
一体、こんなロリッ娘が私に何の用があるというのだろうか。
「そ、そうだけど……」
とりあえず答えてみる。
私の答えを聞くと、謎の少女は大きな笑顔になった。
「よかったぁー。やっと見つかったですぅー。探してたんですよ」
明らかに私を狙っていました発言。
何故私を狙う?
私に恨みを持ったヤツから依頼を受けた暗殺者なのか。
ライフルで私のハートを一撃必殺しちゃうのだろうか?
残念だけど私はそう簡単に墜とせないよ。
それとも、新手の怪しい宗教の勧誘なのか。
全日本黄昏宗教団体ってやつか?
ごめんね我が家は仏教徒。
アーメン、そうめん、塩ラーメン。
私はとんこつが好きなのさ。
「あ、そ。それじゃ」
どうせ殺されるならデュー○東郷の方がいい。
プロの仕事により一瞬で逝ける。
ハートを打ち抜かれるなら、まだ見ぬ運命の人がいい。
愛と欲望な日々で、輝く星座はアクエリアス。
そして、変な宗教には入りたくない。
幸せを呼ぶ何十万円の水晶や、富と名声を呼ぶ何百万円の壷を売りつけられてしまう。
何とかこの危機を回避しなければ。
私は鞄を持ってさっさと逃げようとした。
しかし、
「ちょっと、待ってください!」
少女が私の両足に抱きついてきた。
私はバランスを崩し、前のめりにこける。
鈍い大きな音が、静寂の中に響いた。
「いったーい… もー、なにすんのよ!」
さっきので鼻頭を思い切り打ってしまったようだ。
痛みで涙が出てくる。
「すみませんです。でも私の話を聞いてください。神様関連ですから。お願いしますです!」
宗教の関係だったようだ。
どうしても私を入れたいみたい。
私の足に捕まり、半べそかきながら必死に引き留めている。
「妖しい宗教団体になんか入りたくないから、その手を離してちょうだい! 私忙しいんだから!」
「放課後にぼんやり夕焼け見つめながら、鼻歌を唄っている人のどこがいそがしいんですか!?」
バッチリ見られてた。
というより、痛いところを突いてきたというべきか。
「アンタに分かるはずないんだから! さぁ、その手を離して」
『神様奴隷化計画』
他人から見れば馬鹿らしく狂人じみたことであろう。
神様を奴隷化して、この異常な気象を思うがままにしようとしているのだから。
普通の人に分かるはずがない。つまり、こんなチビにも分かるはずない。
証明終了。
「だ・か・ら、あなたの計画に関わることなんですよ。私の話を聞いてくださいです。お願いしますからー」
今度は泣いて私に抱きついてきた。
やめい、スカートが濡れる!
うわっ、鼻水つけやがった。
っておい、ちょっと待てぃ。
何故こんなチビが私の計画を知っているんだ。
巧みな話術で私を騙し入れようとする策略なのか?
「あ、以外と胸大きいですね」
揉むな!
――バキッ!
チビの脳天に私の鉄拳が炸裂した。
手応えは十分。
転ばされた恨みと胸を揉まれた恨みを合わせた一撃だ。
確実にたんこぶは出来るであろう。
「ふみゅう… いたいよぉ……」
しかし、次の瞬間に私は目の前の出来事に思考が停止した。
殴ったチビの背中から小さな羽が出てきたのである。
姿に似合った白くてかわいらしい羽が。
「あ、あんた…そ、それ……」
殴ったヤツの背から羽が出てくれば、誰だって普通は驚くでしょ?
え? 出てきたこと無いから分からない?
そりゃそうだ。
「ん、それ?」
チビは頭を抑えながら、自分の背中を見てみる。
自分の羽が目にはいると一泊おいてから
「あ゛〜! 出ちゃってるぅー!」
なかなかお目にかかれない、いいリアクションを披露した。
慌てて、どうにか羽を隠そうとする。
しかし、隠すどころか頭に輪っかまで出てきている。
なんて典型的な姿なんだろうか。
何となく分かってはいるが、一応聞確認してみる。
「もしかして、あんたって……」
「あ、はい。天使です」
割とあっさり答えやがった。
私が放課後の教室で出会った天使。
名前は輝石
有紀(きせき ゆき)。
このチビは私が叫んでいたところを偶然目撃し、おもしろそうだから手を貸そうと思ったらしい。
そして、学校に潜入し、私を一日中探していたのだ。
チビは今度の日曜日に神様の所へ連れていってくれる約束をした。
しかし、何故に名前が漢字なのだろうか。
ミカエルとか、フェイリルとか、くるみとか、ゼロカスタム。
ざっと思い浮かべても名前が漢字の天使なんて……いないと思う。
別にどうだっていいか。
――決戦は日曜日だ。
今日の日記。
【9月○日 金 晴れ(猛暑)】
私は叫んだ。こけた。揉まれた。天使にあった。
今日起きたことを日記に書き込む。
これが私の日課なのだ。
でももう疲れたから、さっさと寝る。
「おやすみなさいです」
ちょっと待て。チビが何で私に部屋にいる?
「気にしない気にしない」
ん……まぁ、いいか。
じゃ、おやすみなさい。
――zzz.....
・・・・・
闇に呑まれた住宅街。
まん丸お月様に向かってどこかの犬が遠吠えしている。
夜の空気を肺に入れ、今日も俺たちゃ泥棒稼業。
緑の風呂敷担いでほっかむり。
って、そんな典型的な格好はしていない。
怪しまれないように、立派な秋葉系ファッションなのだ。
ゲームヒロインの顔が大きくプリントされたTシャツ。
手には鞄の変わりにアニメキャラが微笑む紙袋。
そんでもって、古着のジーンズに薄汚いヘアバンド。
ビデオは標準録画しておきたいが、あいにくビデオデッキは持ってない。
どうだ、完璧だろ。
この姿ならば誰も泥棒だとは思うまい。
さてと、目的地まで後少し。
ゆっくりと抜き足差し足忍びあち…いかん、噛んだ。
「どうやらすやすやお眠りのようだな」
「そうみたいだネ、兄者」
立派な木造二階建てのお屋敷の前。
表札には【藍川】と書いてある。
今日のターゲットはこの家だ。
下調べは既に完了済み。
両親は海外出張でいない。
祖母は骨折で入院している。
祖父は魂になって飛び廻っている。
家に居るのは、現在すやすやお休み中の二人の姉妹だけだ。
シミュレーションも完璧。
さっさと金目のものをいただいて帰るとするか。
「ひひひ、さぁて行こうか」
「ワクワクするネ、兄者」
早速玄関の前に立つ。
この時間帯になれば人通りが無くなることは検証済みだ。
何の問題もない。
「よし、針金貸せ。ピッキングだ」
「あっ兄者、このドア鍵穴がナイヨ!」
「な、なにぃ!」
予想外の事態だ。
まさか玄関のドアに鍵穴がないとは…
どこの家庭でも鍵穴式のドアが標準装備だとたかをくくっていたのが仇になったか。
フッ、こいつぁ指紋照合システムか……やってくれる。
だがな、ここで諦めたら泥棒の名が泣くぜぃ。
侵入場所を変えてみるか。
「兄者、兄者」
「なんだ、弟よ」
「この玄関あいてるヨ」
これまた予想外の事態だ。
まさか玄関をロックせずに寝てしまうとは。
不用心なこと、この上ない。
これでは泥棒に入ってくださいと言っているようなモノじゃないか。
全く、どういった教育をしているんだここの親は。
「まったく、けしからん親だな!」
「声が大きいヨ、兄者」
「すまんすまん」
「さぁ、侵入開始ぜヨ、兄者」
「お、おう」
そうだった、俺たちは泥棒だった。
危うくこの家の親に電話を掛けて注意してしまう所だった。
そうだ、俺は泥棒だ。
玄関に鍵を掛けていないなんて、まさに喜ぶべきコトじゃないか。
親の教育に感謝感謝。
さて、さっさと仕事を終わらせるとするか。
〜(((m゚゚)m 〜(((m--)m
・・・・・
草木も眠る丑三つ時。
ほとんどの健全なる青少年達が夢にうなされている頃。
私はもちろん寝ていた。
かなりいい気持ちで熟睡していた。
だがしかし、それを妨害するヤツがいた。
放課後に出会った、小さな天使(チビ)だ。
「……さん……ひとみさん」
(_ _)zzz.....
「ひとみさん、起きてくださいです」
「(-_-)ほへ? 何よ、どう…しt…
(_ _)zzz.....」
「ああ、寝ちゃダメです。起きてくださいです」
こんなことを何回か繰り返していた。
寝不足は美貌の敵なのだから!
いくらチビが起こそうとしても、私は全く起きるつもりなどないのさ。
そんな私の反応にしびれをきらしたチビは、ついに最終兵器を使った。
「むぅ… ならば、これを喰らえです!」
チビはしゃがみ込んで、寝ている私の顔の横に口を近づけた。
そして、私の耳に優しく吐息を吹きかける。
生暖かい柔らかな空気が吹き込まれた。
「ふあっ…」
背筋に寒気が走り、全身の産毛が総毛立つ。
この何ともいえない感覚が、私の神経系を覚醒させる。
何かイヤな目覚め方だ。
ええい仕方ない、起きてやるとするか。
「で、何?」
「そのですね……」
なんかチビは顔を赤くして、モジモジとした動作をする。
何かを我慢しているようだった。
もうすぐ限界点が近いように見える。
「だから何? はっきり言ってよ」
「ト、トイレ…一緒に行ってもらえませんか? 怖くて怖くて……」
どうやら一人で行くのが怖くて私を起こしたらしい。
そんなことのために私の安らかな睡眠をぶち壊したのか。
勝手に人の家に入り込んでおいて何を言っているんだ。
ちょっと腹が立った。
「一人で行けばいいでしょ。トイレは右行った突き当たりのところだから。そんじゃ、おやすみ」
「だめですぅー! 怖くて一人じゃいけないですぅー!」
夜に一人でトイレに行けず、だだをこねる天使。
はっきり言ってウザイ。
帰ってもらいたい。
「一緒に行ってくれなきゃ、神様のところに連れて行ってあげませんよ!」
それは困る。
お前が連れて行ってくれなきゃ、私はずっと9月の暑さに唸り続けなげればならない。
そんでもって、寒くなり雪が積もって凍って滑って転んでアイタタタ……
しょうがない、計画遂行のために行ってやるか。
「分かった、分かった。一緒に行ってやりますよ」
「もう漏れちゃいそうです」
「はいはい。さっさと行きましょうね」
ああ、きっと子供が出来たらこんな感じで夜な夜な起こされるのだろう。
子育ては戦争であると誰かが言っていたっけ。
つらい、長い、金がかかるって。
そう思うと何だかイヤになってきた。
私、子供いらない。
少子化万歳(マンセー)。
天使によってこんなこと考えるなんて…。
こいつ堕天使なのか?
・・・・・
「な、なんだぁこの部屋は!?」
「三角木馬とか赤ロウソクとか金ダライまであるヨ、兄者」
潜入はしてみたものの、金目のモノを探している内にとんでもないところに入ってきてしまったようだ。
打ち放しのコンクリートの壁に覆われ、天井はガラス張り。
窓には鉄格子が張り巡らされている広い部屋。
そこには時代劇や西洋の映画などで見かける拷問器具などがズラリと並んでいる。
一体この場所はなんなんだ!?
「ヤバイ感じがそここことしてきたぞ。さっさと撤収だ、弟よ」
「了解ダス、兄者」
こんな所一秒でも長くはいたくはない。
何も取らないでさっさと逃げよう。
俺たちの命が取られてしまう前に。
そうさ、こうなったら損得は抜きだ。
俺たちは今こそこの家を出ていくんだ。
俺は泥棒だ。だが、その前に人間だ。人間なんだ!
「ええぃ、ちっくしょうめ!」
・・・・・
――深夜。
家の廊下を二人して、トイレのある方へ歩っていた。
私が前を歩き、その後ろにくっつくようにチビがついてくる。
電気は面倒くさいから、点けていない。
月明かりが窓から差し込んでくるため、点ける必要はないと判断したからである。
私達は薄暗い中、壁伝いに歩く。
「うぅ……暗いです。怖いです。漏れちゃいそうですぅ」
「がまんしなさい。あとちょっとでトイレだから」
昼間であればなんてことない廊下でも、深夜となるとちょっと不気味に思える。
足音がイヤに大きくきこえるし、何だか誰かに見られているような感じもする。
そして、月の光加減が余計な雰囲気をよりかもし出している。
怖い。
何となくチビの気持ちが分かる様な気がしなくもないね。
一人でこんなところなんか出来れば通りたくはない。
そんなこと思いながらも、トイレに着く。
「はい、ここだよ」
「ひとみさん。そこにいてくださいね。帰っちゃダメですよ」
「はいはい」
「ぜぇーたいですよ」
チビはバタンと戸を閉める。
意外に大きい音がしてちょっとビックリした。
夜中だから大きく聞こえたのかもしれないけれど。
……何分経っただろうか。
暗い廊下の中、私は一人で立っている。
未だにチビはトイレから出てこない。
これも快適な9月を手に入れるため。
今はただ耐えるのだ。
「ふわぁ……」
大きなあくびを一つ。
眠い。
ふと玄関に視線を向けると、ドアが開きっぱなしになっていた。
寝る前は確かに閉めてあったのに。
「静かに歩けよ、弟よ」
「わっかたヨ、兄者」
深夜の我が家に、突然声が聞こえた。
両親は海外出張中で家にはいない。
お婆さまも大腿骨を骨折して入院中。
お爺さまは昨年この世を去った。
今家にいるのは私と姉さんとチビの三人のはず。
ということは泥棒か強盗かだ。
かわいそうに……。
この家に入ってきたのが運の尽きだったようね。
私は伊達に育てられてはいないわよ。
ちょうど対神様用に家路の途中で考えた新必殺技を試してみたいと思っていたところ。
あんた達に先に味あわせてあげるから。
「あと少しで玄関だ、弟よ」
「……またマンガ喫茶巡り生活だネ、兄者」
「今は耐えろ。耐え抜いた先に光はあるもんさ」
「そうだネ、兄者」
あと少しで射程に入る。
新必殺技を喰らえばあんな男なんてイチコロよ!
私は獲物を狙う翡翠のように息を殺して身構えた。
さぁ、あと少し……そこだぁ!
「お待ちなさい!」
男等は驚いて声のした方に振り向いた。
いきなりのことで、飛びかかろうとしていた私は、勢いあまって転んでしまう。
「き、貴様は誰だぁ!?」
「あなたに名乗る名前はありません!!」
そこには何故か制服姿のみづき姉さんが腕組みをして立っていた。
腰まである艶やかな黒髪。
とても18歳には見えない大人びた風格。
窓から差す月明かりがそんな姉さんの姿をハッキリと映し出している。
とてもカッコイイ登場の仕方だ。
私もこんな風に登場したかったな。
なんか悔しい。
「な、な、な、なんだぁと!?」
「あ、あちにも一人いるネ。たぶんこの家の姉妹だヨ」
男等はいきなりの出来事に困惑しているようだ。
挙動が見るからにおかしい。
そして、私は再び鼻を打って痛い。
あまりの痛さに身動きできないでいた。
「人の家に勝手に侵入するとは……全く呆れた大人ですこと…」
「お、俺たちゃただこの家に…は、入っただけだ。な、なにもしてねぇ…」
「そ、そだヨ。兄者の言う通りネ。穏便に、どうかウォンビンに!」
姉さんの気迫に押されまくっている。
男等は冷静さを失っているようだ。
ちなみに、断り無く入っただけでも不法侵入で十分犯罪です。
「他人の家に入ろうとする時点で疚しいことをしようとしている証拠! あなた達には成敗が必要のようですね」
「た、頼む! 許してくんろ! 見逃してくれぇ…」
「問答無用!!」
姉さんはスカートの中にいつも仕込んでいる短刀を男等に投げつけた。
モーションなんて全く見えない。
ただ、短刀が数十個まとめて飛んでいくところしか見えなかった。
「ひっ、ひぃぃぃぃぃいいいい!!」
「ぎゃぁぁぁああああああああ!!」
投げた全ての短刀は男達の身体すれすれを掠めて壁に刺さった。
兄貴分と思わしき男は唖然と突っ立っている。
弟分と思われるヤツは失神して、白目を剥いていた。
いっそのことひと思いに遣ってしまえばいいものを…。
あ、そうしたらこの話を載せてもらえなくなっちゃうか。
姉さんってちゃんと考えているのね。
・・・・・
「ふぅ… これでよしっと」
私はロープでイヤに凝った縛り方をして、男達の動きを封じた。
ちょっと時間が掛かるかなとは思ったけれど、手早くすんなりと縛り終えた。
これも私の日頃の成果ね。
ちょっと男等の喜んでいる顔が気になるけど。
「さて、姉さん。この後どうしちゃおっか?」
「ここじゃとても書けないようなコトをやってみましょう。ちょうどいいし」
「そうね。それいいかも」
…………………
…………………
…………………
男等を処理したあと、私は再びトイレの前にいた。
立って待っていたが疲れてきたので近くの壁にもたれ座り込んでいる。
どれほど待っているのだろうか。
空は濃い藍色から徐々に薄くなっていく。
もうすぐ夜明けが近い。
しかし、チビは未だに出てきていない。
長い、長すぎる。
何であんな小さなヤツが長時間トイレに籠もっていられるのだろうか?
もしかしたら、トイレで寝ているのかもしれない。
全然物音一つ立ててないし、中で動いている気配もない。
よし、確かめてみようか。
そう思ってトイレのドアの前に立った。
と、その時に水が勢いよく流れる音がした。
どうやらチビは起きていて、ちゃんと用を済ませたらしい。
「あー、スッキリしたですぅ」
何が「スッキリしたですぅ」だ。
私をこんなに待たせやがって。
その小さな身体にどれだけ詰まっていたんだ。
お前は四次元空間に質量を保存でもしているのか?
『お呼びとあらば、即参上! 小さなボディにたくさん詰まってます』
よし、チビのキャッチコピーはこれでいこう。
一体何に使うのかはわからないけれど。
・・・・・
土曜日の朝。
と、いうよりは限りなくお昼に近い時間帯。
天高く昇る太陽が容赦なく大地を熱し、地に這う人々はそれを受け入れる。
熱気は体を余すことなく包み込み、もはや冷房が無いところは地獄絵図と化す。
天高く、ひと燃ゆる秋。んなわけないか。
今日は昨日にもまして気温は上がっていくだろうと眉毛の濃ゆい気象予報士が言っていた。
時刻は11時6分。
蒸篭の中に閉じ込められた夢にうなされていた私。
土曜は休みだから、目覚ましはセットしていない。
しかし、枕元に置いてあった携帯から突然着信音が大音量で鳴る。
それに驚いた私とチビは、寝起きハイテンショングランプリ並みの跳ね起き方をした。
勢いでおでことおでこをぶっつける。
骨がぶつかり合う衝撃が体中に響いた。
「「いったーい…」」
声が見事にハモった。
チビがソプラノで、私がアルト。
美しい声の重なりが、暑苦しい朝(昼)の部屋に響いた。
・・・・・
「もう、さいあく〜!」
私は赤くなった額をさすりつつ、携帯を手にとってみて見る。
画面に浮かぶ文字。
『メール着信あり』
まったく、こんな朝早く(もうすぐお昼)から誰だと思いながら確認する。
あーおでこが痛い。
受信メール
9/○ 無題
麻生 拓真
同じクラスの麻生くんからだった。
スマートな眼鏡とクセっ毛が素敵なナイスガイ。
素行・人格ともに非常に模範的で、教師や生徒からの信頼も厚い。
そんな誰からも好かれる好青年である。
真面目なのに冗談好きな、アホ毛装備の貴公子くんが、私に何の用なのだろう。
え、なに? 彼と私の関係?
私にとって麻生くんは“恋人”と書いて“ペット”と読む存在ですよん(はぁと。
さてさて、どんな内容かな?
――――――――――
人間は本能の壊れた動
物である。
――――――――――
……なんだ、これは?
全く意味がわからない。
たぶんどっかのお偉いさんが言った言葉だろうと思う。
ただ、これが近ごろの男子が女子に送る内容なのだろうか。
私がメールの意味不明さに首をかしげてたら、再び鳴り出した着信音。
画面が写しだした文字。
『メールが一通届きました』
再び送ってきたらしい。
どうせろくでもない内容だろうと何となく確信した。
――――――――――
動物
物語
縦でも横でも動物物語
ヽ(´A`)ノ イェーイ!
――――――――――
……………
想像以上にろくでもない内容だった。
何が『ヽ(´A`)ノ イェーイ!』か。
そんなに麻生くんはその発見が嬉しいのかな。
でも、彼はこのメールを通じて私に何が言いたいの?
まったく分からない。
ああ、彼の頭の中に直接問うてみたい。
小一時間ずっと問うてみたい。
そんなこんなで、意味不明な内容のメールがいくらか続いた。
私は返信する気にもなれないので、来たのをただ読むだけ。
でも、そろそろいい加減に無視しようかと思った時であった。
携帯の着信音が鳴る。
そして、今日何回目かの画面表示。
『メールが一通届きました』
ため息をつく。
これで最後にしようと思って、見てみた。
受信メール
9/○ 言いたいこと
麻生 拓真
言いたいこと?
まるで意味のないメールを送りつけて置いて、なのが言いたかったのだろう。
とりあえず中身を見てみる。
――――――――――
と、いろいろ送っては
見たけれど、どうだっ
た?
少しは気が紛れたかな
昨日何かすごく悩んで
たみたいだったから。
朝電話してもでてくれ
なかったし。
なんかこう、上手くは
言えないけど…
がんばって!
(*゚ー゚)bグッ
――――――――――
あの日の私は、麻生くんにそんな風に見えていたんだ。
なんだか余計な気を使わせちゃったみたい。
ちょっと涙が出てきた。
「ひとみさん、どうしたんですか? 打ち所がやばかったんですか?」
「なんでもないから、気にしないで」
「そ、そうですか」
おでこの痛みじゃない。
ちょっと嬉しかったから、出てきちゃったみたい。
ありがとう、麻生くん。
今度からは“恋人”と書いて“しもべ”と読む存在にしてあげる(はぁと。
よーし、明日の決戦がんばっちゃうもんね!
・・・・・
ついに来ました、決戦の当日。
ざわついた夢の中、目覚ましでやってきた朝。
朝食の目玉焼きを作ろうと卵を割ったら、黄身が二つ出てきた。
私、今日はツイてるんじゃない?
それを後押しするように、空は何処までも晴れ渡る。
素晴らしきただの日曜日だ。
すでに準備は万端。
身体の状態はいつもパーフェクトに管理しているのだ。
そして、おやつもちゃんとポーチに入れてある。
バナナはおやつに入るのかわからないので、今回は見送ったけれどね。
よし、さっそく出発じゃ!
玄関で気合いを込めて、靴の紐を結んでいたときにふと気付いた。
なにかが足りない。
そうだ、チビがいない。
起こすのをすっかり忘れてた。
私は履きかけの靴を脱ぎ捨てて、チビが寝ている部屋に戻った。
「朝だよー、おきなさーい!」
部屋でおなかを出して寝てたチビを叩き起こし、朝食を食べさせてやる。
牛乳は嫌いだといって飲まなかった。
そんなんじゃいつまでたっても背が大きくならないぞ。
飲んだからと言って、すぐに伸びるワケじゃないけど。
朝食の後、身支度を整えさせた。
そして、準備が出来たら、私とチビは家の庭に出る。
今日も暑い。
朝から太陽はこれでもかとばかりに未練がましく光を投げ込んでいた。
でも今日の私次第で、迷惑なことこの上ない纏わり付くような熱気ともサヨナラ出来るかもしれないのだ。
「それじゃ、さっそく天界へと御案内いたします」
「待ってました。ちゃちゃっといきましょう!」
「ひとみさんは、ブロードバンドとナローバンドのどっちがいいですか?」
ブロ…なんだそりゃ?
朝からいきなりの横文字攻撃とは、こやつやるな。
新しいアイドルグループの名前か何かディスカ?
私はサザンが一番好きなのさ。
ライブにも行ったことがある。
たしか、茅ヶ崎でのライブだった。
盛り上がったなぁ…
「でも、何故か私にだけ水を掛けてくれないのよね……」
「何言ってるんですか? 天界のへ行き方聞いてるんですよ」
自分の世界に入り込んでしまっていたようだ。
まことに済みませぬ。
ちょっと暑さで頭がヒートしてたみたい。
ただでさえまともじゃない思考能力が低下してしまっていた。
危ない危ない。
「で、そのブロー…なんとかって何?」
「ブロードバンドの方は早く天界に行けますが、いろいろと危ないです。ナローバンドの方は時間が結構掛かりますが、安全ですよ」
危険だが一気に行くか、それともじっくりゆっくり行くかの選択ってことね。
でも、どんな風に危ないのだろうか?
まぁいいか。早い方がいい。
ハッキリいえば、私は待つのは嫌いだ。
行列も3分待っていれば、イライラしてくる。
頭で考えるより、身体が先に動くたちなのだ。
いつでもどこでも猪突猛進でいくのさ。
「ブロードバンドでお願い」
「はい、わかりましたです」
そう言うと、チビは呪文らしきものを唱え始めた。
背中に小さな羽、頭には輪っかが現れる。
私とチビの足下に複雑に描かれた円形の魔法陣がでてきた。
それから放たれた眩い光が私らを包み込む。
こいつマジで天使だったんだと改めて思った。
「ひとみさん、携帯で今から言う番号に掛けてください」
「わかった」
私はポケットから携帯を取り出す。
そして、折りたたまれた携帯電話を開き、電源を入れた。
「いいですか? 『7941225』です」
「7、9、4、1、2、2…5っと」
言われた通りにひとつひとつ確認しながら番号を押した。
携帯のディスプレイに数字が並ぶ。
その画面を見つめ、息を呑む。
ついに神様のいるところに行けるのだ。
そう思うと通話ボタンを押そうとする親指が震える。
緊張しているみたいだ。
(落ち着け…落ち着くんだぞ、ひとみ)
これで9月の暑さともお別れになるかもしれないのだ。
私は自分に言い聞かせ、親指でボタンを押した。
いつものように耳に当ててみる。
何回かベルが鳴った後、誰かが出た。
「回線が繋がりました。ゲートを開きます」
そう聞こえた瞬間、強烈な光で視界が完全に塞がれる。
そして、身体か空中を浮遊しているような感覚がしてきた。
空気の感じが変わっているのが分かる。
とても穏やかで透明な感触が伝わってきた。
少し経って、私の両足が地面につく。
どうやら到着したらしい。
おやつが入っていたポーチは消滅していた。
危険とはこれのことだったのか。
高速に物質を転送するから、それの一部が消えちゃうワケね。
う○い棒を沢山入れてきたのに…もったいない。
私を包んでいた眩しい光が次第に晴れていく。
少しずつ風景が見えてきた。
チビの話によれば、神様は宮殿みたいなところに出るらしい。
とても華やかで綺麗な大きな建物だと言っていた。
今、その前にいるのだろう。
大きな建物らしきものが見えてくる。
しかし、見えてきたのは、話していたものとは雰囲気が違っていた。
「なによ、これ?」
「ひ、ひどいです……」
あまりの光景にチビと私は色を失った。
宮殿とおぼしき建物はあちらこちらに穴があいていたり、崩壊している。
そして、壁や床には血痕が無数に散らばり、多くの羽の生えた人達が倒れていた。
惨状というにも物足りない光景だった。
チビはあまりのことで、かなり怯えているようだ。
私にしがみついて離れない。
「……神様の所へいってみよう」
「やめましょうよ、怖いですよ……」
「ほれ、さっさといくよ」
ここで引き下がるわけにもいかない。
絶対に『神様奴隷化計画』はやり遂げてみせるのだから。
私はいやがるチビを引きずって、神様のいる部屋へ向かった。
・・・・・
繊細な細工が施された大きなドア。
それの前には、守護兵らしき人達が意識を失って倒れている。
着ている鎧は粉々に砕け散り、辛うじてその原型をとどめていた。
この先に神様がいるはずである。
神聖なる部屋の前には、何とも形容しがたい異様な空気に満ちていた。
少しためらった後、ドアに手を掛ける。
「ひとみさん、帰りましょうよ。危ないですよ」
「じゃあ、アンタだけ帰れば?」
「ふみゅう…」
私は引き留めるチビには目もくれずにドアをあけた。
大聖堂のように広い部屋。
その中に二人の男がいた。
一人は床にうつぶせになっていて、もう一人は王座に足を組んで座っている。
倒れている方には大きな翼が生えており、白い衣服をまとっている。
頭部に血らしきものが出ていた。
もう一人の方は、黒い道着みたいなものを身につけていた。
羽は生えてはいないようだ。
「ほぅ… まだ生き残りがいたとはな」
黒い男が口を開いた。
こちらに気付いたらしい。
良く響く、重い低声。
男は私を見て、一瞬驚きと困惑に顔を歪めるが、すぐに元の表情に戻る。
ただの驚きではなく、私の顔を見知っていての困惑だと見えた。
私は最初、信じられなかった。
その顔と声に、聞き覚えがあったのだ。
去年死んだはずのお爺さまがそこにはいた。
ということは、そこに倒れているのは神様ってこと?
「ひとみ、何故お前が此処にいる?」
「お爺さまこそ、どうして?」
質問に質問で答えた。
しばらくの間、沈黙の時間が流れる。
私の後ろで隠れていたチビが小声で「神様」と呟いたのが微かに聞こえた。
倒れている神様が動く気配は全くない。
そして、チビは私の前に出てきて、お爺さまに喰って掛かった。
「アナタがやったんですか!?」
「そうだとしたら?」
「許さないです!」
そう言うとチビは呪文を唱え始める。
チビの身体が輝きだした。
慣性の法則を無視した動きで、勢いよくお爺さまに突撃していく。
さっきまで脅えていたチビとは思えない行動だ。
しかし、
「ふん!」
お爺さまは正拳突き一発で沈黙させた。
チビの小さな身体のボディーにもろに入り、鈍い音と共に身体がくの字に曲がる。
そのまま糸の切れた操り人形のように地面に落下した。
「この程度か、くだらんな」
動かなくなったチビを一瞥し、私のほうに向かってゆっくり歩を進めてきた。
・・・・・
お爺さまの名前は藍川
龍二(あいかわ りゅうじ)
生前に『極東の暴龍』として、世界の格闘家に恐れられていた。
その戦い方は凄まじく、逆鱗に触れられた龍の如く暴れ、相手を再起不能なまでに叩きのめすため、この通り名が付いたと言われる。
とにかく無茶苦茶に強かった。
とても八十近い爺さんとは思えないくらい。
私と姉さんは、このお爺さまの過酷な猛特訓を小さいときからうけてきた。
初めは死ぬかと思ったけれど、今もこうして生きている。
特訓のお陰で、私と姉さんは、そこらの男なんぞ歯牙にも掛けぬ程にまで強くなった。
しかし、毎晩三升くらいのお酒をがぶ飲みしていたのが祟ったのか、去年に肝硬変でこの世を去った。
でも、なんでお爺さまは天界でこんなことを?
その理由はともかく、あんたのせいで私の計画が台無しじゃない!
「神様を倒しちゃったら、どうにもならないじゃない! 余計なコトしてくれちゃって…もう!」
神様が再起不能になっちゃってれば、天気どころの話じゃない。
動かないヤツを殴ってもスッキリはしない。
どうにせよ、ここに来たことはムダだったってこと。
私はこの先もずっと9月の暑さに唸り続けなげればならない。
そんでもって、寒くなり雪が積もって凍って滑って転んでアイタタタ……
このやりきれない感情を何処に吐けばいいのだろうか。
「神ならいるぞ」
「……え?」
「お前の目の前にだ」
何を言ってるんだ?
どう見ても目の前にいるのは、黒い道着を着たお爺さまだ。
更年期障害で、ついにボケたのだろうか。
『極東の暴龍』も墜ちたものである。
すでに死んじゃってるけど。
「今や俺は神を倒し、神を越えた!」
「お爺さま……?」
「俺は『暴龍神』となったのだ!」
なんだか、シンメトリカルドッキングをした後のような名前だ。
正気の沙汰ではない。
ここから逃げる?
いや…逃げるわけにはいかない!
罪もない天界の人々を暴力という名の凶器で傷つけたのだ。
目の前でチビもやられた。
絶対に許さない!
この私、藍川ひとみが倒れている神様の代わりに、成敗してあげる!
私の計画をぶち壊してくれたお礼に、殴り倒してやるんだから!
この怒り、思いしれぇぇぇーっ!!
「うおおぉぉぉ!!」
私は叫び声を上げて、突撃していく。
こうして、神になったつもりのお爺さまと戦いが始まった。
・・・・・
初めは互角に渡り合っていた。
しかし戦いは長引けば長引く程、私の浅はかさを露呈する結果となってしまった。
圧倒的な経験の差に、私の繰り出す攻撃はかわされ、さばかれ、そして相殺されていった。
既に地上での生命を失い、魂となっているお爺さまに、スタミナという概念は存在しないのだろうか。
持久戦ならば、若い私に分があるという考えは甘かったようだ。
私はジリジリと後ずさる。
冷たい汗が体中から流れ出た。
仁王立ちする暴龍から発せられるオーラが、眼光が、呼吸のリズムが、目の前に立っている彼の全てが、私を恐怖させていた。
いつもなら、無意識にでも憎まれ口が浮かぶ脳が、こんな時に限ってまったく作動してくれない。
溢れる唾を飲み込みながら、一歩、また一歩と退いていく。
そして私の背中に、硬く冷たい壁が触れた。
それは逃げ場が無くなったという、今の私にとってこれ以上ないほどの残酷な現実を突きつけていた。
距離がどんどん縮まってゆく。
「終わりだ、親愛なる孫娘よ…」
一本一本が、女性の腕ほどもある指が、私の首に絡み付いた。
万力のような圧力が加えられる。
「が…っ、はあ…!」
酸素の供給が一瞬で絶たれた。
身体が壁に押し付けられ、持ち上げられた。
私は必死で両脚をバタつかせるが、虚しく空を切り、暴龍の失笑を買った。
意識が飛びかける。
視界が白み、私を見上げている、皺の刻まれた顔が薄らいでゆく。
どうせ最後に見るなら、麻生くんの顔の方が良かったなあ…
もうダメかも、私。
四肢が力を失い、目を閉じかけた、その時。
「うわあぁぁぁ!」
叫びを上げながらチビがお爺さまに突っ込んできた。
体は見るからにボロボロだったが、彼女の瞳は焔が点いたように燃えているのか分かる。
お爺さまの攻撃を紙一重で避け、背中に張り付いた。
そして、
「…これを喰らえです!」
チビは最終兵器を使った。
お爺さまの耳に生暖かい柔らかな空気が吹き込まれる。
「あふ…」
情けない一声と共に、首を絞めていた手の力が弱まった。
でも、私の意識は朦朧として、身体が動かなかった。
『がんばって!』
麻生くんから着たメールを急に思い出した。
そうだ、ここで諦めたらダメだ。
どうにか頭を動かすと、チビの方へ向いた。
私と目があった。
『やるなら今です!』
チビが目で私にそう言った。
そして、もう限界のようだった。
そのまま彼女の体は落ちていく。
地面に落ちた音が響いた。
その瞬間、意識を失いかけていた私に、再び力が湧いてきた。
「…チビ…? うおおぉぉぉーっ!!」
怒りが私を覚醒させたのだ。
お爺さまの頭に思い切りかかと落しをぶち込んだ。
「!?」
お爺さまは何が起こったのか分からないといった表情で両膝をついた。
唖然としているところに、そのまま私はDDTを叩き込む。
「ぬおおぉぉぉーっ!!」
床が割れる音と、頭がめり込む音の二重和音が部屋中に大きく響いた。
技は完璧にきまった。
普通の人に喰らわせれば、間違いなく脳障害を残すほどの大けがだ。
いくら超人じみたお爺さまでもタダでは済まないはず。
少し様子を見てみる。
意識を失っているようだ。
どうやら動く気配は無いみたい。
私はそれを見やると、まずは神様を部屋の隅っこに移動させた。
そして、チビを神様と一緒の場所に移動させるため、抱えた。
「…ごめんね、チビにこんな怪我させちゃって… ホントにごめんね……」
チビは何も答えてくれなかった。
微かに息はしているから、早く治療してやればどうにかなるかもしれない。
でも、ここは天界だ。
この世界では、私は右も左も分からない異邦人である。
近くには無事でいる人は見当たらなかった。
助けが呼べない。
……何も出来ない。
チビは私のために頑張ってくれたのに、私はチビのために何も出来ていない。
それが悔しい。
そもそも、私があんな計画なんて立てなければ、少なくともチビは助かっていたのに。
全部私のせいなのだ。
後悔先に立たずとは、まさにこのことなのだと身をもって知った。
……本当に悔しい。
そう思いながら、チビを神様の隣に寝かせた、その時。
「……まだ、終わりではないぞ!」
良く響く、重い低声。
私はその声で後ろに振り向いた。
そこには頭から流血している漢。
さっき倒したはずのジジイが立っていた。
「私は神だ… 私は神なのだぁ!!」
ついに頭の回路が吹き飛んでしまった様だ。
こうなってしまっては、もう誰も止めることは出来ない。
いや、コイツもただの人間だったはず。
止められないはずはない。
絶対に止めてみせる!
「アナタだけは許さない! 絶対に倒してやる!!」
「『絶対勝利』 …それは神の力だ!」
「なら、人間の力ってヤツを見せてあげるよ! 偽物の神なんかに負けるもんか!!」
私はジジイに突っ込んでいく。
ものすごい力と力で肉薄した。
組み合い、そのままヤツを前蹴りで吹き飛ばす。
「ぬあっ…ぐぅっ…」
「アンタが…」
私は吹き飛んだジジイに、追い打ちを掛ける。
ヤツは慌てて体制を立て直し、クロスカウンターを入れる。
「がああああ…」
「ふぬああ…」
私は頭部左側にジジイは頭部右側に拳があたった。
そのままの状態から、私は膝蹴りを繰り出す。
ヤツはガードしようと手を下げる。
「そうらあぁぁぁーっ!!」
私はその隙をついて、繰り出したのとは逆の足で、ハイキックを見舞った。
顎下にもろに入って、ジジイは上を向いて倒れる。
立ち上がろうとするも、私の右ストレートで吹っ飛んだ。
「アンタさえいなければぁぁぁーっ!!」
「ぐぶぉ…」
私はヤツの身体を渾身の力を込めて蹴り飛ばした。
ジジイの身体は壁にめり込んで、動かなくなる。
蹴り飛ばした時に何となく感覚で分かった。
今度こそアイツを倒したと。
己の力に溺れ、自らを神と名乗った愚かな老人に。
チビ、仇は取ったよ。
麻生くん、私がんばったよ。
ああ、なんだか気が抜けたら、全身が痛い。
それに……。
視界が次第に狭まっていった。
身体が前のめりになっていく。
そのまま私は気を失って倒れてしまった。
「……おお、凄いことになっておるな」
・・・・・
私は今、大聖堂の王座の前にいる。
先ほどの惨状は嘘のように跡形もなく消えていた。
建物の壊れた箇所も、血痕も、倒されていた人たちも、すべて何事もなかったかのように元通りだ。
もちろん私が負った怪我も完璧に治っている。
跡すら残されていない。
すべては目の前にいる神様の御業によるものだ。
どうやら、お爺さまによって頭部を強打されて、気を失っていただけらしい。
話によるとエデンの園で収穫したトマトのジュースを飲んでいるところにお爺さまが襲い掛かってきたということだ。
安息の日曜日にとんだ災難である。
つまり、私が血だと思ったものは、完熟トマト100%ジュースだったわけだ。
まったく紛らわしいことしてるんじゃないよ。
「貴公のおかげで、魂の浄化に途惑っていた彼を無事に浄化することができた。礼を云わせて頂く」
「いえいえ、そんな…」
神様にお礼を言われた人間はそういないだろう。
でもさ、無事だったというにはちょっと厳しいレベルだったと思うよ。
みんなお爺さまにやられちゃってたんだから。
でも、魂が浄化されるのがイヤで、お爺さまは約一年も暴れ続けていたのか。
恐るべき執念ですこと。
今となってはどうでも良いことだけど。
「貴公にお渡ししたい物がある」
神様はそういって、手をたたいた。
そうすると、二人の女の子がこちらに歩いてくる。
眼鏡をかけた少女とチビだ。
チビは私を見ると、とても嬉しそうな笑顔になった。
私が男だったら、食べちゃいたいくらいの表情。
いや、むしろ食べたい。
そんな私の欲情を駆り立てた彼女の手には藍色の布が被さり、チビの方には指輪、眼鏡の方にはイヤリングがのせてある。
指輪は金色に、イヤリングは銀色に、それぞれ美しく光っていた。
二人が私の前まで来ると、神様は私に言った。
「この指輪はあなたに大きな愛を与えてくれる」
神様が指差すと、指輪は橙と茜色の斑に炎を上げる。
とても鮮やかで、綺麗な温かさを感じた。
「そして、イヤリングはあなたの大切な人に大きな愛が与えられる」
イヤリングのほうに神様が目を向けると、オーロラのように幻想的な光のカーテンが出てくる。
冷たく心に染み渡るような、切なさを感じさせる。
「二つ一緒にあげられれば良いのだが、地上人ではひとつ着けるのが限界なのだ。どちらか好きなほうを選んでくれ」
むしろ、この笑顔の二人をお持ち帰りしちゃいたいと思った。
愛を与える指輪とイヤリング…
私はどこかでこんなようなお話しを読んだ気がする。
確か女の子が女神に同じ様なことを言われているお話し。
愛を受け取るか、それとも愛を与えるか。
その女の子は確か与える方選んで、苦痛を強いられた。
痛みに絶えられないと女神に訴える。
すると女神は、愛を誰かに与えることは、必ず痛みを伴うのだと言う。
―あなたが痛みを感じるたびに、大切な人の心の闇に優しい光が降り注ぐ。
では、先ほどのお爺さまとの戦闘で、私の受けた痛みにより誰かに愛が与えられたのだろうか?
……分からない。
そもそもなんで私は此処に来たのだろうか?
少なくとも天界を観光する為じゃない。
死んだお爺さまと戦う為じゃない。
頭の中で金曜日の朝のことを思い出してみる。
暑い。
殴りたい。
奴隷。
天気を思うがままに。
揉むな!
『神様、首洗って待ってろよ!』
そうだ、9月の暑さをどうにかする為に、此処へ来たんだ。
私は『神様奴隷化計画』を実行する為に来たのだ。
こんなものをもらいたくて来たわけじゃない。
「いらないよ」
愛なんてこの先いくらでも貰えるし、与えることができる。
まだまだ人生は長いのだ。
こんなものに頼らなくたって、十分さ。
それよりも、今は計画のほうが大事だ。
私は神様の座っている王座にゆっくりと近づいて行く。
「ひとみさん…?」
チビが呼んだけれど、無視した。
まだ食べたちゃうのは我慢しよう。
大きく息を吐いて、気を引き締める。
一歩、また一歩と王座に向かい歩いていった。
そして、ついに神様の目の前に立つ。
「どうしたのだね?」
「……………」
私は大きく振りかぶり、神様の顔面に鉄拳を喰らわせた。
・・・・・
…………………
…………………
…………………
(_ _)zzz.....
「……ーい。おーいってば」
「(-_-)ほへ?」
「お、起きた起きた」
麻生くんの声で眼を覚ました私。
どうして私はこんなところで寝ているんだろ?
寝ぼけ眼に周囲を見渡すと、そこは放課後の教室。
教卓と向かい合うよう無造作に並べられた机と椅子。
落書きした後がちゃんと消えてない黒板。
掲示板に張られた、破れかけのポスター。
ジャージや教科書などがところどころに詰め込まれているロッカー。
それらが窓から差し込んでくる夕陽に照らされて、青黒い影と茜色のコントラストに彩られている。
悲しいほどまでに鮮やかで綺麗だ。
そんな中で、私と彼は座りながら、机をはさんで向き合っている。
私はいまだに状況がつかめないでいた。
「私、神様のところにいたはずじゃ…」
「まだ寝ぼけてる。ちゃんと目を覚ましてくださいよ」
確かに私は神様ところにいたはずなのだ。
拳の感覚がリアルに残っている。
あの神様を殴ってやったのだ。
目標の一部をやり遂げたのだ。
そんでもって、暑苦しい9月の天気を思うがままに……
でも、まだ神様を奴隷にはしてはいない。
なのにどうしてこんなところ居るんだろう。
私は天界に行ってたはずじゃなかったの?
「はぁ? ひとみさんここでずっと寝てましたよ。寝顔がとってもキュートだったなぁ」
え? じゃあ今までのは何だったの。
胸揉まれたことも、チビの長いトイレのことも、お爺さまとの闘いも夢だったの?
絶対に夢としてはリアルだったし、それに長すぎる!
「寝言で『神様』とか『チビ』とか『欲望』とか言ってましたけどね」
「……今日は何曜日?」
「金々キラキラ金曜日ですよ。明日からは楽しい休日。一緒に何処か行きませんか?」
「遠慮しておく」
「そうですか、残念! …切腹ぅ!」
麻生くんはイスからワザと転げ落ちて、まな板の上の鯉のように蠢いた。
それに合わせて、頭のアホ毛がそれ単体に意思があるように踊りくねる。
全く、こんなコトしてる彼からは『真面目』のマの字も見えない。
そんなアンタの眼鏡に指紋付けてやれ、えいっ!
ぺたっ。
「うわぁあ、何するんですか!」
「私の寝顔を無断で見た報いじゃ。受け取れぃ」
ぺたっ。ぺたっ。
「や、やめてぇー」
メガネストにとって、眼鏡に自分以外の人間の指紋を付けられることは、死にも勝る屈辱なのだ。
と、いつか麻生くんが熱心に語っていたことを思いだした。
なので、彼の両手を後ろに回し手錠を掛けて、両手を封じてみる。
おまけに両足の自由も奪ってみたりして、指紋をつけまくった。
「ええ、くそっ、指紋が拭けない! ちっくしょう!」
麻生くんはどうにかして眼鏡の指紋を拭こうとする努力をする。
あっちでもがき、こっちで暴れ、またあっちでもがく。
教室の机をなぎ倒しながら右往左往する。
まるで死刑を目前にした、死刑囚のごとく暴れ狂っていた。
私は安全圏へと避難し、そんな彼の姿を見て楽しむ。
ああ、至福の時間だなぁ。
「あ、あの……」
「ん?」
どこか聞き覚えのある声。
私は声が聞こえた方に振り向く。
そこには学校指定の制服を着た女の子が立っていた。
見た目は小学生の高学年くらいで、金髪ロングヘアーのツインテール、そしてリボン。
クリクリッとしたドングリ眼がせわしなく動いている。
彼女は暴れ狂う麻生くんにビビリまくり、さながら小動物のようにぴくぴくしていた。
隠す気がないのか、それとも隠すのを忘れているのか、背中には小さな羽がでている。
女の子の姿に似合った白くてかわいらしい羽が。
「藍川ひとみさん……ですよね?」
「そうだけど」
私の答えを聞くと、少女は大きな笑顔になった。
今日の日記。
【9月○日 金 晴れ(猛暑)】
放課後の教室で、私はちいさな天使にあった。
おしまい。
滅茶苦茶な話だな………