7th

 

 

 電車のドアが開き、車内は本来の季節を取り戻した。

 冷房で無理矢理冷やされた車内の空気が我先にとドアから飛び出し、かわりに熱を帯びた外気が次々に電車に乗り込んでくる。

 このような場所に居なければさえ常に私に纏わりついて離れない熱気ではあるが、徐々に冷房に慣れはじめていたこの体には少々辛い。

 車内に僅か残る冷気が恋しくて、このままここで涼みたいという悪魔のささやきが脳裏をよぎる。

 だが悪魔が私を誘惑するその前に、下車せんと乗降口に迫る人の波にのまれ、私は電車から搾り出された。

 睨みつけるような視線をこちらに向けつつ、いかにも“上司にこき使われてストレス溜まってます”な顔つきをしたサラリーマンが私の横をすり抜け、早足でホームを歩いてゆく。

 乗降口の前に居座っているのはさすがに迷惑だったか。

 私は電車から離れるように歩を進める。

 先程出て行った冷気がこの辺をうろついていても良いものだが、あれほど私の身体に馴染んでいた空気は薄情にも私を置いてどこかへ行ってしまったらしい。

 次に会った時は人との関わりを大切にするよう言い聞かせなければ。

「……………」

 頭に浮かんだくだらない思考に苦笑する。

 どこかネジが外れた思考を脳から追い出すように嘆息してみるが、それは蒸すような空気に侵され、不快な風を外界へ送るに過ぎなかった。

 9月。

 夏も終わりだというこの時期に、太陽はこれでもかとばかりに未練がましく光を投げ込んでいる。

 まるで在庫が余った夏物の服を破格で売りさばくような大盤振る舞いだ。

 ………迷惑な事この上ない。

 ホームを守るかのように長く伸びる屋根のおかげで太陽の光を直接浴びる事はないものの、真夏の太陽と風がもたらす熱風は屋根などものともせずに私の身体へと纏わりついている。

 ただその場に立っているだけで、不快な汗が肌を滑っていった。

 私はポケットからハンカチを取り出し、額にあてる。

 ハンカチはみるみるうちに湿り気を帯びていく。

 ちょっとでも絞れば溜まった汗が滴り落ちそうだ。

 

 ――暑い。

 今さら言うまでもないが、暑い。

 

 私はすっかりびしょびしょになってしまったハンカチを折りたたみ、ポケットの中に入れる。

 

 ――が。

 

「………?」

 ポケットに入れた手に違和感を感じ、その正体を引き抜く。

 私の手にあるのは小刻みに震え続けている携帯電話。

 電車に乗ってからマナーモードに設定したまま解除するのを忘れていた事を思い出した。

 私は折りたたまれた携帯電話を開き、そのディスプレイを見る。

 無機的に並ぶ、11桁の数字。

 

 私は溜め息を一つ吐き、

 

 ――ピッ

 

 電話を切った。

 

 ――また、か。

 

 私に電話をかけてくる人なんてそんな多くない。

 今回はお母さんだった。

 どうせ、早く塾に行けっていうんだろうな。

 お母さんは、私が塾に行く日は必ず電話をよこしてくる。

 最近では、うっとうしくなって私は無視を決め込むことにしてる。

 別に、無視したところで怒られるわけじゃないんだけど……

 

 私のお母さんは教師である。

 だから、勉強に関しては少しうるさいところがある。

 私は、お世辞にも勉強ができるとは言いがたい。

 けど、決してできないというわけでもない。

 そこらへんを心配してくれていることはよく分かっているんだけど、少し度が過ぎてるんじゃないかな?

 

 でも、お母さんもずっとこんなことをしてきたわけではない。

 たぶん、今年の春くらいかな、かけ始めてきたのは。

 まあ、2年生は中弛みしやすいってよく言われてるから、喝入れのためなのかも……

 

 私は、学校帰りに電車に乗って、家からは少し遠目の塾に通っている。

 世間的にも実績のある塾であり、私の通ってる高校からも結構通っている人がいる。

 塾はあまり好きではないけど、サボる気もない。

 勉強は好きではないが、少しでもできるようになるためにも通ってる。

 こう思うことでサボろうとする気を抑えている。

 

 本当なら、放課後は友達とかと遊んでいるほうが楽しいんだけどね。

 まあ、塾も毎日あるわけじゃないし、そっちのほうがメリハリがあっていいんじゃないかな?

 

 そんなことを考えていたらさっきまでの欝な気持ちが少しは和らいできた。

 切り替えの速さなら、私は自慢できる。

 逆に言えば周囲からは軽いヤツと見られてしまうのかもしれないけど……

 でも、最近何となくぼんやりすることが多くなった気がする。

 ちょっと前までなら、あんなくだらない考えなんて起きもしなかったのに……

 それに、友達と遊ぶのは確かに楽しいんだけど、いつからか忘れたけどなぜか心の底から笑った覚えもないんだよな。

 顔は笑ってるんだけど、それは表面だけ。

 皮一枚めくったら、醜く顔をしかめてる私がいるような感じ……

 

 ――ああ、もう。

 せっかく切り替えたはずだったのに、なんですぐ後ろ向きになるのかな?

 気が滅入るだけだから、もうやめたやめた。

 そう自分に言い聞かせた。

 

 ああ、それにしても暑いなぁ。

 早く塾に入って陽射しだけでも避けなきゃ。

 そう思って駅を出ようと、さっさと階段に歩いて行こうとしたとき、向こうから見知った顔が同じ階段に向かっているのを見つけた。

 

 「あれっ? なんで葉一君がいるの?」

 

 彼は、今の時間部活やってるはずなんだけど……

 

 気になってしまったため、小走りで彼の元へと小走りで駆け寄った。

 

 「瑞穂? どうしたんだ、こんなところで?」

 

 私が声をかけるより一瞬早く、彼は気付いて声をかけてきた。

 

 「どうしたじゃないわよ。葉一君、部活はどうしたの?」

 

 そう聞いたとたん、彼はうつむいてボソッとこういった。

 

 「やめたよ……」

 

 「え……」

 

 予想もしなかった答にどう答えたらいいか困ってしまう。

 

 「夏休み前に怪我してな、医者に復帰の見込みはないって言われちまったんだ……」

 

 「そうなんだ……」

 

 「まあ、仕方ないさ。せっかくこれから俺たちの代の天下だと思ってたけど。これからは、サボってた分、勉強に励むさ。」

 

 無理に笑おうとしている彼を見て、私は言葉が詰まってしまう。

 見た目には怪我をしているようには見えない。

 でも、それ以上はなんとなく訊くのはよしたほうがいいという雰囲気であった。

 

 「あ、そうだ。なんでこんなところにいるの?」

 

 話題をそらそうと、当初疑問に思ってたことを訊いてみる。

 

 「塾。」

 

 彼は短くそう答える。

 この駅に近い塾といえば、私の通ってるとこしかない。

 

 「へ〜、じゃあ、私と一緒のとこじゃない?」

 

 「瑞穂もか? 奇遇だな。」

 

 私たちの高校の生徒が、行く塾といえばふたつぐらいしか思い浮かばない。

 ひとつは、私たちのこれから通うところ。

 もうひとつは、学校近くの駅から反対方向に行ったところにある。

 

 「まったく、瑞穂と小学校から行くところがずっと一緒ってのもなんかなあ……」

 

 「あ、何? 私と一緒じゃ不満?」

 

 「べ、別にそういう意味じゃないさ……」

 

 「あ、そ。」

 

 間に流れていた少し気まずい空気もすぐに流れた。

 

 「じゃあ、せっかくだし、一緒に行こうよ。」

 

 「そうだな。」

 

 二人して改札を通って、塾に向かった。

 

 葉一君は小学校入学以来の幼馴染である。

 小学校に入学してから高校までずっと一緒の学校に通い、去年まではずっと一緒のクラスだった。

 さすがに、今年からは文理選択で私は文系、彼は理系に進んだため、クラスは分かれてしまった。

 昔は家が近いこともあり、結構よく遊んでいたし、学校にもよく一緒に登下校してた。

 中学に上がってからは、部活や塾の関係で一緒に登下校することはほとんどなくなってしまっていた。

今年にいたっては、クラスが分かれたせいもあり、顔を合わせることも無かった。

 それでも、久しぶりに顔を合わせてもこうやって仲良くできるのは、お互いにいい関係だったという証拠だと思う。

 ちなみに瑞穂とは私の名前である。

 

 「さすがに、塾は違うクラスだよな。」

 

 「そうだと思うけど……」

 

 「なあ、今日って何時ぐらいに終わる?」

 

 「え? 今日は最後までだけど……」

 

 「ふ〜ん。じゃあさ、久しぶりに一緒に帰らない?」

 

 「うん。」

 

 そうこう話しているうちに塾に着いて、

 

 「それじゃあ、またあとで。」

 

 「うん。」

 

 それぞれの教室へと分かれていった。

 

 教室にはクーラーが着いていないから、夕方から夜にかけてとはいえ、うだるような暑さだった。

 おまけに窓を開け放していても風一つ入ってこない。

 それでも、私はいつもより何となく調子がよかった。

 久しぶりに葉一君と一緒に帰れることがこんなにうれしいことだなんて、自分でも驚いていた。

 

 気の持ちようなのかな?

 あっという間に授業が終わり、帰りの時間になった。

 私ははやる気持ちを抑えきれず、荷物を手早くまとめて玄関へと駆けて行った。

 

 そこには、約束したとおり、葉一君が待っていた。

 

 「そんなにあせんなくてもいいのに。俺はそんなに薄情じゃないぞ?」

 

 「分かってるよ。葉一君はずっと待っててくれる人だってことぐらい。何年一緒にいると思ってんのよ?」

 

 「はは…… そんなに持ち上げられると、なんか恥ずかしいな。」

 

 「それにしても早かったね。」

 

 「ああ、今日はえらく早く終わったから。まあ、そんなことより早く行こうぜ。あんま遅くなったら大変だし。」

 

 「あ、うん。」

 

 さすがに夜も遅くなってくると、少しは空気が冷んやりとしてきて、何とはなしに肌寒さを感じる。

 私たちの通っている塾は街中にあるので、駅までにはコンビニやら、街灯やらがたくさんあり、夜道を煌々と照らしている。

 そのせいで、本来なら満天に散らばる星はほとんど見ることができない。

 ただ月だけが夜空に小さく浮かんでいた。

 

 「そういえば、いつからあそこに通うことにしたの?」

 

 「ええっと…… 夏休み後半からだな。前半はいろいろ大変だったし。」

 

 「そうみたいね…… 本当に残念だったね。」

 

 彼が中学のときから、本当に楽しそうに部活に取り組んでいたのを知ってたため、自然と慰めの言葉が出てきた。

 

 「まぁ、な。今はできないのは残念だけど、いつかはできるようになるはずだし、それまでの辛抱さ。」

 

 少し硬さはみられるけど、それでも笑顔でそう答えてくれた。

 

 「そういや、瑞穂も夏は通ってたんだろ? なんで1度も会わんかったのかな?」

 

 「時間が違ったからじゃない? 夏の間は文系のクラスって理系のクラスの前にやってたから。」

 

 「そうか…… 俺も文系にすればよかったかな。数学が面倒だし…… あ、でも英語が面倒なんだよなぁ。やっぱ理系のまんまでいいや。」

 

 そう言って、今度は満面の笑みを湛える。

 

 改札を通ってホームにおりたところでちょうど目当ての電車が来た。

 ちょうど帰宅時間なのか、電車の中は結構混んでいた。

 私たちは扉付近で並んで立った。

 ただ、次の駅でまたたくさん人が入ってきたので、すこし離れざるを得なくなってしまった。

 

 私たちが降りる駅まではまだ6駅。

 しばらくは、彼としゃべることもできない。

 せっかく一緒に帰ってるのに、とても損した気分になった。

 何もこんな日に限って、こんなに乗ってこなくてもいいのに……

 

 結局、目的の駅までは、一言もしゃべられなかった。

 

 さらに悪いことに、私たちの降りた駅でほとんどの乗客が降りて、乗ってきた電車はほとんど空っぽになってしまった。

 何よ、私たちがいざ降りるってときに皆降りるなんて……

 私たちが仲良くしているのをまるで誰かさんが意地悪して邪魔してるみたいじゃない。

 思わずむくれてしまう。

 

 「おい、何怖い顔してんだよ。早く行こうぜ。」

 

 そんな私の手を葉一君が引っ張ってくれる。

 

 「あ……」

 

 ただ、あまりに突然引っ張られたものだから、足をもつれさせて転んでしまった。

 

 「うわっ?」

 

 ――バタン

 

 「いったーい。」

 

 あれっ? 

 でも、ホームで転んだわりには、床にあまり硬さを感じなかったな。

 むしろ、妙に柔らかいような……

 そんなことを考えていると、

 

 「痛たた…… おい、瑞穂? は、早く起きてくれ。」

 

 私のしたから苦しそうな声がする。

 目を開けてみると、男の人の胸の上に横たわっていた。

 はっとして顔を上げると、痛そうに片目をつぶって、口をゆがめている葉一君の顔が間近に……

 

 そして目が合ってしまう。 

 

 そのままの状態で、だいぶ時間がたったように思えた。

 

 目の前の幼馴染の顔を見つめているうちに、なんだかドキドキしてきた。

 彼も目をそらさずに、私をまっすぐ見ていた。

 

 「なぁ、瑞穂?」

 

 やがて、ちょっと戸惑ったような顔をして彼がもう一度私に呼びかけてきた。

 はっとして私は立ち上がった。

 

 「ご、ごめん……」

 

 顔から火が出ているかのように、顔がかっと熱くなってしまっていた。

 

 「う〜ん…… ちょっと手ぇ貸してくんないか? 腰打っちまったみたいだ。」

 

 彼は痛みに顔をしかめる。

 

 「え、ええ、あ、ちょっと待って。 ……はい、立てる?」

 

 何となく抵抗があったが、それでも手を差し伸べた。

 

 「すまんな。よっと。」

 

 彼が立ち上がる。

 

 「痛たた…… すまんな、急に引っ張ったりして……」

 

 「そ、そんなことないよ。私がぼうっとしてたから……」

 

 そこで、私たちの間に向き合ったままなんともいえない沈黙が走った。

 

 しばらくして、

 

 「い、行こっか?」

 

 「う、うん。」

 

 彼から声をかけてくれた。

 でも、改札口から私の家までは、二人とも何となく口を開けない雰囲気になっていた。

 そのまま、私の家の前まで来てしまった。

 

 「あ、あの…… 私はここで。」

 

 「あ、ああ。」

 

 「そ、それじゃあ。」

 

 「じゃあ。」

 

 ぎこちないやり取りのあと、私は彼に背を向けて、玄関に入ろうとした。

 

 「……なあ。」

 

 ふいにためらいながらもはっきりした声で、彼が私の背中に声をかけてきた。

 

 「え、何?」

 

 私は振り向いた。

 

 「明日、一緒に学校行かないか?」

 

 ちょっと緊張したような表情で訊いてきた。

 

 うれしかった。

 なんとなく帰りの気まずい雰囲気を吹き飛ばしてくれるような、そんな提案に聞こえた。

 私は、快く受け入れることにした。

 

 「うん。喜んで。」

 

 とびっきりの笑顔で答えた。

 

 その答を聞いて安心したのか、彼も微笑み返してきた。

 

 「じゃあ、明日7時半くらいに迎えに来るよ。また明日。」

 

 「分かったわ。また明日ね。」

 

 ――ガチャ

 

 「ただいま〜。」

 

 いつに無く晴れ晴れとした気持ちで、帰宅の挨拶をする。

 

 「あら、おかえり。今日は、珍しく元気ね。何かいいことでもあったの?」

 

 帰ってきてすぐに、お母さんが声をかけてくれた。

 

 「べ〜つに〜、なんでもないよ〜。」

 

 「あら、そうかしら? まあ、ないならないでいいわよ。夕食はテーブルの上にあるから適当に暖めて食べて。お風呂ももうじきたけるから、早めに入りなさいよ。」

 

 「は〜い。」

 

 夕食を食べ、お風呂も入った後、自分の部屋に戻り、2時間ぐらい机に向かって勉強した。

 なんか、頭がとってもすっきりした気がして、自分でも驚くくらいかなりはかどった。

 予定以上の量を片付けた後、ベッドにもぐりこみ、今日あったことを思い返した。

 

 そういえば、なんであの時あんなにどきどきしたんだろう?

 

 今まで一緒にいたけど、あんな感情を抱くのは初めてだった。

 自分でもよく分からないものだった。

 でも、決して悪いものではないということは分かっていた。

 

 ああ、明日は久しぶりに葉一君と登校できる。

 そう考えただけで、私はとても幸せな気分になった。

 明日は、いつもなら欝な授業が目白押しの金曜日。

 なのに、こんなにも明日が待ち遠しい日は今までなかった。

 

 

 ――次の日

 

 昨日同様、厳しい残暑の陽射しがまぶしい。

 カーテンを閉めていても隙間から漏れる光でよく分かった。

 でも、暑さ抜きにして考えれば、気持ちいい澄んだ青空が広がってるんだろう。

 ベッドの中で伸びをしたあと、カーテンを勢いよく開いた。

 まぶしさに目を細めたが、すぐに慣れてもう一回伸びをする。

 

時間は6時半、もうあと1時間もすれば……

 私は、パッパと身支度を整えて、居間へ朝食をとりに行った。

 

 「おはよう。」

 

 今日は目覚めがとてもよく、朝からはきはきしたいい声が出せる。

 

 「おはよう。今日は元気いいわね。」

 

 お母さんが微笑みながらそう答えてきた。

 

 朝食をとり終えた時点で、7時15分。

 あんましのんびりはしてられないかな?

 少し急いで用意を整えた。

 

 「それじゃあ、行ってくるね〜。」

 

 7時27分。

 私は元気よくそういって玄関から飛び出した。

 家の前には、もう彼が待っていた。

 

 「おはよう、葉一君。」

 

 元気一杯に挨拶する。

 

 「瑞穂、おはよう。」

 

 笑顔で彼も挨拶を返してくれる。

 

 「よし、行こうか?」

 

 「うん。」

 

 並んで学校への道のりを歩いていった。

 

 昨日の帰りと違って、今日は葉一君の隣にずっといられたので、二人とも終始笑顔で、今年あったことに話を咲かせることができた。

 さすがに、怪我したことはこれ以上触れられたくなかったのか、何もしゃべってはくれなかったけど、別に気にならなかったし……

 家から出て約45分、私たちは校門の前にたどりついた。

 

 「なあ、今日の帰りヒマ?」

 

 そこで唐突に彼がこう訊いてきた。

 

 「え? あ、うん。今日は塾ないし……」

 

 「じゃあさ、今日も一緒に帰らない?」

 

 ドキン

 顔がみるみるうちに真っ赤になっていくのを感じた。

 だって、少し恥ずかしかったから……

 でも、私には断る理由なんて無かった。

 

 「う、うん。喜んで。」

 

 ちょっと戸惑ったけど、笑顔でそう答えた。

 

 「本当? じゃあ、5限が終わったら校門で待ち合わせってことでいいかな?」

 

 彼も、なんだか心底うれしそうな顔をしてくれた。

 

 「うん、じゃあ、また放課後にね。」

 

 「ああ、待ってるよ。」

 

 昨日言ったとおり、いつもなら欝に感じる日程もなんのその、私は晴れやかな気分で放課後を迎えた。

 さすがに、いつもぼんやりとけだるそうにしてた私が、今日に限って生き生きしてたのをクラスメートたちは妙に思ったみたいで、いろいろと訊かれたけど、適当なことを言って煙にまいといた。

 授業が終わった瞬間、パッパと荷物を鞄の中に詰め込んで、一目散に校門目指して走っていった。

 それでもどうしてだろうか?

 私がついたころにはもう葉一君が待っていた。

 

 「早〜い。授業終わるの同じで、葉一君のほうが教室遠いはずなのに、なんで私より早くここにいるの?」

 

 明らかにおかしいので、訊いてみることにした。

 

 「それは企業秘密。女の子を待たせるなんてそんなのシャレになんないからね。」

 

 ニヤッと笑ってはぐらかしてくた。

 納得できなかったのでさらにこう訊いてみた。

 

 「う〜、まさかとは思うけど、授業切って待ってたりしてない?」

 

 ピクッ

 

 「嫌だなぁ。いくらなんでもそんな不良みたいなまねはしないよ。アハハハ……」

 

 ビンゴ!

 口元が少し引きつってる。

 

 「あのねぇ。待っててくれるのはうれしいけど、そんなズルしてまで私は待ってて欲しいとは思わないなぁ。そんな不真面目さんなら一緒に帰ってあげないんだから。」

 

 もちろん冗談だけど、一応膨れてみて反応を見てみた。

 

 「分かった分かった。もう授業途中で抜け出すようなことはしないからさ、そんなこと言うなよ。」

 

 あわててそう言いつくろってくる。

 

 クスッ

 

 「どうしよっかなぁ? 条件によっては考えなくもないけど……」

 

 「分かったよ。瑞穂、お前塾何曜日だ?」

 

 「月曜と、火曜と木曜。」

 

 にっこりとそう答える。

 

 「ああ、なら毎日一緒に通学するでどうだ?」

 

 「もう、ずるしない?」

 

 念を押してみる。

 

 「ああ、絶対しない。」

 

 「じゃあ許してあ・げ・る。」

 

 満面の笑みを湛えて答えた。

 案外上手く言わせることできたなぁ。

 我ながらナイスな演技!

 

 「まあ、来週からもよろしくな?」

 

 彼もまんざらでもなさそうだし……

 

 

 ――火曜日の夜

 昨日、今日と私たちは約束どおり一緒に登下校した。

 登下校の間中、話題が尽きることはなく、とても楽しい時間だった。

 

 「それじゃあ、また明日。」

 

 「またね。」

 

 いつもどおり私の家の前で別れる。

 今日も楽しかったな。

 こんなに楽しい時間がずっと続けばいいのに……

 

 そういえば、昨日から少し違和感がある。

 塾に行くときに、お母さんから電話がかかってこなかったのだ。

 昨日だけならうっかりってこともあるけど、2日続けてだと、少し気になる。

 まあ、お母さんがかけてこないおかげで、楽しい時間が中断なんてことにならないから、うれしいんだけどね。

 

 「ただいま〜。」

 

 今日も元気よく声を上げながら扉を開けた。

 

 「お帰りなさい。」

 

 今日はめずらしくお母さんも遅かったらしく一緒に食卓を囲んだ。

 

 「最近、瑞穂が元気でうれしいわ。」

 

 「そう? いつでも元気だと思うんだけど…… そういうお母さんは?」

 

 「そうねぇ…… ちょっと仕事は大変になってきたけど、充実してるわ。」

 

 お母さんとこんな風にゆっくりとしゃべるのは久しぶりだ。

 いつも朝も一緒なんだけど、何かと忙しいし……

 お父さんは何年も前から単身赴任で、離れ離れである。

 だから、こんな風な時間が取れるとほっとする。

 

 「そういえばお母さん。昨日今日と電話かけてこないけど、そんなに忙しいの?」

 

 さっき疑問に思ったことを訊いてみた。

 

 「ああ、もう必要ないかなって思って……」

 

 お母さんは意味ありげな笑みを浮かべてきた。

 

 「なんで?」

 

 「瑞穂が元気になったからよ。」

 

 「へ?」

 

 私が元気になったから電話かけてこない?

 全然わかんないんだけど……

 そんな私の心中を察してか、お母さんがこう続けてきた。

 

 「3月ぐらいかな? 瑞穂があんまりにも落ち込んでぼんやりするようになったでしょ?」

 

 そういえば、よくよく思い返してみると、あんなに気持ちがふさぎこんだのは確かに今年の3月ぐらいだったな。

 

 「だから、とっても危なっかしくみえてね、少しでも見守ってあげなきゃって思ったから、電話するようにしたの。」

 

 「それで?」

 

 「今度は先週の木曜ね。瑞穂がすっきりした顔で帰ってきたのは。すぐに分かったわよ。何かいいことがあったってことが。」

 

 ニコニコとしながらそう答える。

 

 「そうなの?」

 

 「そうなの。それで、ここんとこずっと生き生きとするようになったから、もう心配する必要ないなって思ったから。だから、電話しなくても大丈夫って思ったの。」

 

 そういうことだったのか。

 

 「何となく分かった気がする。」

 

 「そう? それはよかった。ところで……」

 

 私が分かってくれたことにほっとした様子を見せて、すぐに何か訊きたそうな顔になった。

 

 「ん、何?」

 

 「ところでさ、明日も葉一君と一緒に学校に行くの?」

 

 「え…… え?」

 

 突然訊かれて驚いてしまった。

 いきなり葉一君とのことがが出てきたんだから。

 それに、お母さんにはまだ話してなかったはずなのに……

 お母さんはニコニコと笑ってる。

 

 「だって、最近、毎朝葉一君がうちの前で待ってるから。きっとそうなんじゃないかなって思ったんだけど。」

 

 私の不思議そうな表情を察してか、そう答える。

 

 「う、うん。確かに明日も一緒だけど、それがどうしたの?」

 

 「瑞穂、葉一君のことお気に入りっぽいから。少し、ね。」

 

 「ええっ?」

 

 急にカッと顔が熱くなった。

 

 「ど、どうして、そう思うの?」

 

 突然、何言い出すの〜?

 私は動揺を隠せなかった。

 

 「だって、瑞穂が元気になった次の日から葉一君が来るようになったからよ。」

 

 そんなの簡単じゃない、とでも言いたいような顔でそういわれた。

 

 「昔から、葉一君と一緒にいるとき、瑞穂、とってもうれしそうな顔してたしね。」

 

 「うう……」

 

 そんなに私って分かりやすいのかな?

 

 「何年あなたのお母さんやってると思ってるのよ? 瑞穂のことなんか手に取るように分かるわよ。」

 

 心まで読まれた。

 これ以上いたら、どんな恥ずかしいことをいわれるか、分かったものではないので、そそくさとご馳走様を言って自分の部屋に逃げ帰るように向かっていった。

 

 部屋に入ると、ベッドに転がり込んだ。

 白い天井を見ながら今までのことを思い出してみた。

そういえば3月ぐらいに落ち込んだのって、なんでだろ?

葉一君と離れるのが寂しかったからだっけ……

う〜ん、いまいち、はっきりした答が思い浮かばない。

まあ、いっか。

明日もまた一緒にいられるんだし……

 適当に考え事を打ち切って寝ることにした。

 

 ただ、その時は気付いてなかった。

 私の中で今にもあふれ出しそうな激しい気持ちがあったことに……

 

 

 ――水曜日

 今日は6限と、1週間の中でもっとも長い。

 いつもどおり、彼と一緒に登校してきた私は、いつもどおり彼と玄関で別れると、まっすぐ教室に向かった。

 

 「はあ〜。今日は長いな〜。」

 

近頃鳴りを潜めていたボヤキが口をついて出てきた。

 なぜか、いつもどおりのはずなのに、いつものようにはいかない私がいた。

 そのいつものように行かない私に戸惑ってた。

 

 その日は土曜以降だんだん涼しくなってきた季節を1週間引き戻したように暑かった。

 秋にはふさわしくないギラギラした太陽が、空高くに輝き、そこから発せられる光が容赦なくあらゆる物の表面を焦がしているようだった。

 

 「なんで、水曜にこんな暑くなるかなぁ? もう9月も半分過ぎたってのに……」

 

 たぶん、調子が狂ってるのはこの暑さのせいなんだろうな、と適当に結論付けた。

 

 授業が始まったが、今日は何となく集中できず、窓の外ばかりぼんやり眺めていた。。

 暑さのせい、長さのせいもあるだろうが、なぜか、昨日のお母さんとの会話が妙に気になった。

 そういえば、私って、葉一君のことをどう思ってるんだろう?

 私の中では葉一君は幼馴染。

 いつも一緒にいた小学校以来の友達。

 たぶん、私はそう思っているはず。

 でも、何か足りない気がした。

 何が足りないんだろう?

3月に落ち込んでたのは、葉一君と離れちゃうから。

 久しぶりに会ったとき、驚きもあったが、正直うれしかった。

 それは、幼馴染、友達だから当然じゃない?

 でも、それだけ?

 分からない……

 なぜか、それ以上考えようとすると、切なくなってきた。

 早く、葉一君に会いたい。

 少しでも早く葉一君といたい。

 そんな気持ちが、授業中なのにこみ上げてきた。

 

 ようやく授業が終わった。

 結局、学校にいる間中、葉一君のことばっか考えていて、授業は全く頭に入らなかった。

 でも、そんなことを微塵も気にせず、いつもどおり荷物を手早くまとめて校門へと向かった。

 

 「よ、瑞穂。いつも遅れてごめんな。」

 

 ドキン

 

 「あ……」

 

 なんでだろう。

 声が聞こえただけで、胸が高鳴る。

 

 「う、ううん、ほんの1分も、待ってないんだから、き、気にしないでよ。」

 

 なぜか動揺して上手く口が回らない。

 

 「悪いな、気ぃ遣わしちゃって…… じゃあ、行こうか?」

 

 さすがに今週になってからは、葉一君のほうが遅れてくるようになった。

 根は真面目な人だから、ちゃんと約束を守ってくれる。

 そんな彼の顔を視界の斜め上にチラッと入れつつ、並んで歩いた。

 

 帰り道を歩いている間中、今日も、他愛のない会話をまじあわせていたけど、私の頭はずっと授業の続きを考えていた。

 なぜか、彼の顔を見たとたん、授業中に立ち止まっていた場所から進む気がわいてきた。

 私は、葉一君は幼馴染、仲のいい友達として見てる。

 それは否定しない。

 でも、間違いなく、それだけじゃ満足してない。

 それだけじゃ満足できないってことは、幼馴染、仲のいい友達以上になりたいってこと。

 それ以上って……

 そう考えて、少しためらった。

 

 駅に着いた。

 彼は、相変わらず話をしてくれる。

私は、何となく笑顔を浮かべて適当に相槌を打っている。

 

 そ、それ以上、ってことは、つまり、あれだ。

 こ、恋人ってことだよね?

 私はそれを望んでいる、無意識のうちに。

 今の気持ちを考えたら、間違いなくそうだ。

 でも、どうしよう?

 私は望んでいるかもしれないけど、葉一君は?

 ここで下手に進んだら、今までの関係はどうなっちゃうの?

 そう考えると怖い。

 でも、でも、行動を起こさなければ、変えられない。

 どうすればいいんだろう?

 

 家の近くの駅に着いた。

 2人で電車から降り、改札を通った。

 さすがに9月半ばでは5時半近くだとだいぶ暗くなってきた。

 それに、昼間は殺人的な暑さでも、夜の冷え込みは少し厳しいものになってきた。

 まだ、月が出るには少し早い。

 その薄暗く、涼しい家路を私たちは歩いた。

 

 そして家の前。

 

 「それじゃあ、また明日。」

 

 そういって背中を向けようとする葉一君。

 その背中に向かって、思わず私は声をかけた。

 

 「待って。」

 

 彼は驚いて振り返った。

 自分でも驚いた。

 

 「もう少し一緒にいて。」

 

 「どうしたの?」

 

 彼は微笑みながら振り返り、私のほうに寄ってきた。

 その様子を見て、突然私の口が動いた。

 

 「私、寂しかったの。」

 

 「え?」

 

 自分が何をやろうとしているのかわからなかった。

 でも、口からは私の胸の内があふれ始めた。

 

 「私ね、葉一君とクラス分かれることになったって分かったとき、とても悲しかったの。いつでも一緒にいられるって思ってた葉一君と離れるのが嫌だったの。」

 

 彼は、驚いたように目を見張っている。

 

 「私のひとりよがりだけど、葉一君とはいつも一緒にいるのが当然のことだって思ってたの。いつでもそばにいるはずだって思ってたの。でも…… 実際は、そうじゃなかった。」

 

 そういってると、目の前がにじんできた。

 

 「う、最初は仕方ないって諦めてたの。そんな都合のいいことあるわけないって。うう、いつでも葉一君と一緒だなんて…… でも、葉一君と会えなくなってから、だんだん寂しくなってって。っく、自分では気付かないふりをしてるつもりだったんだけど、気持ちを抑えてたら疲れちゃって……」

 

 彼は、何も言わないで、ただ私を見つめてくれている。

 

 「でも、う、この前、葉一君と会えて、何か、とてもうれしかったの。一緒に、っく、お話ができてうれしかったの。毎日一緒に登下校してくれるって約束してくれるって、言ってくれてうれしかったの。うう……」

 

 どんどん涙がこみ上げてきた。

 

 「それで、うう、っく、気付いたの。私、気付いたの。」

 

 「何?」

 

 彼はやさしく訊いてきた。

 もう涙で彼の顔がよく見えなかった。

 

 「私、葉一君が好き、好きなんだって。うう、だから、ずっと、っく、一緒にいてほしいの。ずっと、葉一君にそばにいてほしいの。」

 

 そこまで言うと、私はそのまま顔をうつむかせて黙った。

 

 どれほどたっただろうか。

 実際にはほんの数秒であったが、私にとっては何十分、何時間にも感じられた間をおいて、彼は私を優しく引き寄せるときつく抱きしめてくれた。

 

 「もちろん、ずっと一緒にいてあげる。いや、それよりも、俺からも言わせてくれ。瑞穂、ずっとそばにいてくれ。」

 

 それを聞くと、今まで押さえ込んでいた声が堰を切ったようにあふれ出した。

 

 「う、うう、う、うああぁぁーー。葉、一君、葉一くううぅぅーーん。うわあああぁぁぁーーーん。」

 

 私は、葉一君の胸の中で泣いて泣いて泣きじゃくった。

 葉一君は、私が泣いている間、何もしゃべらず、ただただ私を抱きしめていてくれた。

 

 たっぷり30分くらい泣いてようやく泣き止んだ私は、顔を胸から離して葉一君の顔を見上げた。

 

 「大丈夫? 随分と泣いてたけどもう平気?」

 

 優しい声で慰めてくれた。

 

 「うん、もう大丈夫。ありがとう、葉一君」

 

 頬を赤らめて答える。

 

 「俺も、瑞穂と離れるって分かったときは寂しかったよ。でも、仕方ないって無理に納得しようとしたし、やりたいこともあったし…… 俺の場合はまだ部活ってはけ口があったからよかったけど、でも、怪我したとき、ここに穴が開いたように感じたよ。」

 

 彼は自分の胸を指しながらいった。

 

 「でも、いつだって瑞穂のこと忘れたことは無かった。ただ、自分じゃ何をすればいいのか分からなくて…… そのままこの間までずるずると暗い気持ちを引きずってた。」

 

 彼は遠い目をしながら寂しく笑った。

 

 「何かきっかけが欲しいって思ってたら、この間やっと会うことができた。俺も本当にうれしかった。そしたら、瑞穂に対する気持ちに気付いて。でも、瑞穂に先越されちゃったね。あははは。」

 

 今度はうれしそうに笑った。

 私もその声につられて笑った。

 そのまま私たちはまた抱きしめ合った。

 

 もうすっかり暗くなってしまった玄関先。

 

 「じゃあ、また明日ね。また待っててね。」

 

 「ああ、張り切って早起きしてくるよ。じゃあ。」

 

 正直、離れるのが何となくもったいなかったけど、私たちはまた明日って挨拶した。

 葉一君も名残惜しそうだったけど、背中を向けて家に向かって歩き始めた。

 

 「ねえ、葉一君、大好きだよ。」

 

 遠ざかって行く彼の背中に向かってそう呼びかけた。

 

 「ああ、俺も大好きだよ、瑞穂。」

 

 

 もうとっくのとうに過ぎてしまった今年の春。

 未だに季節外れの暑さが続きながらも、いつものように徐々に寒くなっていく9月。

 そんな季節の中、私の心にようやく7ヶ月も遅れた春がやってきた。