『 7th 』
電車のドアが開き、車内は本来の季節を取り戻した。
冷房で無理矢理冷やされた車内の空気が我先にとドアから飛び出し、かわりに熱を帯びた外気が次々に電車に乗り込んでくる。
このような場所に居なければさえ常に私に纏わりついて離れない熱気ではあるが、徐々に冷房に慣れはじめていたこの体には少々辛い。
車内に僅か残る冷気が恋しくて、このままここで涼みたいという悪魔のささやきが脳裏をよぎる。
だが悪魔が私を誘惑するその前に、下車せんと乗降口に迫る人の波にのまれ、私は電車から搾り出された。
睨みつけるような視線をこちらに向けつつ、いかにも“上司にこき使われてストレス溜まってます”な顔つきをしたサラリーマンが私の横をすり抜け、早足でホームを歩いてゆく。
乗降口の前に居座っているのはさすがに迷惑だったか。
私は電車から離れるように歩を進める。
先程出て行った冷気がこの辺をうろついていても良いものだが、あれほど私の身体に馴染んでいた空気は薄情にも私を置いてどこかへ行ってしまったらしい。
次に会った時は人との関わりを大切にするよう言い聞かせなければ。
「……………」
頭に浮かんだくだらない思考に苦笑する。
どこかネジが外れた思考を脳から追い出すように嘆息してみるが、それは蒸すような空気に侵され、不快な風を外界へ送るに過ぎなかった。
9月。
夏も終わりだというこの時期に、太陽はこれでもかとばかりに未練がましく光を投げ込んでいる。
まるで在庫が余った夏物の服を破格で売りさばくような大盤振る舞いだ。
………迷惑な事この上ない。
ホームを守るかのように長く伸びる屋根のおかげで太陽の光を直接浴びる事はないものの、真夏の太陽と風がもたらす熱風は屋根などものともせずに私の身体へと纏わりついている。
ただその場に立っているだけで、不快な汗が肌を滑っていった。
私はポケットからハンカチを取り出し、額にあてる。
ハンカチはみるみるうちに湿り気を帯びていく。
ちょっとでも絞れば溜まった汗が滴り落ちそうだ。
――暑い。
今さら言うまでもないが、暑い。
私はすっかりびしょびしょになってしまったハンカチを折りたたみ、ポケットの中に入れる。
――が。
「………?」
ポケットに入れた手に違和感を感じ、その正体を引き抜く。
私の手にあるのは小刻みに震え続けている携帯電話。
電車に乗ってからマナーモードに設定したまま解除するのを忘れていた事を思い出した。
私は折りたたまれた携帯電話を開き、そのディスプレイを見る。
無機的に並ぶ、11桁の数字。
私は溜め息を一つ吐き、
――ピッ
電話を切った。
改札をくぐり、外に出る。時計塔の下に向かうと、待ち合わせの友達はもう来ていた。
男の子が2人に女の子が1人。3人とも私と同じクラスメイトだ。
「くそう、遠山め。この俺が心配して電話をかけてやったのに、出もせずにブツ切りとは。高城よ、この怒りはちょっとやそっとでは収まりそうもないぜ」
1人が怒りを表明すれば、もう1人が神妙な顔をしてうなずく。
「分かるぞ楠木よ。奴には何らかの報いを与えてやらねばなるまい」
むやみに声が大きい。
このバカ2人は、周囲を省みるという事を知らない。
「どうするんだ」
「俺達全員にベビースターをおごらせるというのはどうだ?」
「おお、恐ろしい。くくく、見てろよ遠山……男の怒りを思い知らせてやる」
……いつものことだけど、つくづく思うわ。
なんで私、こんなのと友達なのかしら。
「もう着いたから切ったのよ。あんた達の怒りって、30円で収まるの?」
私は近づいて行って、挨拶代わりにそう言った。
その2人は、わざとらしく驚いて振り返る。
「おのれ遠山! あげくの果てに盗み聞きとは、つくづく見下げ果てた奴!」
この背の高い方が、高城和也(たかしろかずや)。
こうして厳しい顔なんかして見せると、元が良いだけに結構凛々しくて、下級生あたりがよく騙される。
でもバカだ。破滅的に。
「そうだそうだ! それに俺達全員におごるんだぞ。1人1人は弱くても、力を合わせれば明日は輝くんだ!」
そしてこっちが楠木一(くすのきはじめ)。
こちらはいかにも3枚目。いたずら小僧のような活き活きした目に、いかにも体育会系な中肉中背。
実際、運動神経も良くて顔もそこそこだから、モテそうなもんだけど……なにせバカだ。絶望的に。
「90円。安い明日ね」
そして2人揃うと、もう手がつけられない。
クラスでも有名な、いや学校内にも名の知れた傾奇者コンビ。一部の同族達にはカリスマ的な存在で、「見料払ってもいいから2人の奇行
を拝見したい」と言われてるとか。正直、気が知れない。
「春菜〜、おはよ〜」
のんびりまったり、長閑そのものの声が割って入った。
でくのぼう2本に埋もれるみたいにして、でも全く意に介した風もなくニコニコしている小柄な少女。
園村みさき。
正直、友人であるこの子が高城君の彼女になったりしなければ、私がこのバカ2人とつるむ事なんて有り得なかっただろう。
友達の恋人は友達。
友達の恋人の友達も友達。
複雑なんだか複雑じゃないんだかよく分からない人間関係の絡みを経て、こうして4人グループが出来上がってしまった。
「おはよう。待たせちゃったみたいね」
「うん、でも10分だけだよ。9時の電車には間に合わなかったの?」
「ちょっと忘れ物してね。ゴメン」
みさきはいいよいいよ、とニコニコするが、その左右に立つ2人からは非難囂々だ。
「そこの遠山春菜、俺達も待ったんだぞ。待って待って待ちぼうけ、ウサギぶつかれ木の根っこ」
「お前など、古今の和歌に詠んでくれるわ。遠き山に陽は落ちて、花とはいわじ 春の菜の」
「そこへ来たらば菜の花や 月は東に 日は西に」
「蕪村だな」
「蕪村だ」
……なんか色々混ぜられちゃったわ。
困った事にこの2人、バカだと言っても頭が悪いわけではない。ただ知識の活用法が、正解から横に3ヤードほどズレているというだけの話なのだ。
私は爽やかに笑いながら、みさきの肩に手を置いた。
「遅くなっちゃうわ。そろそろ行きましょうか」
「高城くん〜」
彼氏の不毛っぷりを哀しげに見つめている彼女の肩を押して、歩き出す。
『ツッコめよっ!』
見事にハモりながら、2人が追いかけてきた。
―――― そうそう、自己紹介を忘れてたわ。
私の名前は遠山春菜。たぶん普通の高校2年生。
・
・
・
・
「もうすぐお祭りだね」
アーケード街を歩きながら、みさきは嬉しそうに言った。
「そうだな。あと2週間か、そろそろ近づいてきたな」
高城君がそれに応じている。
今日、私達が街に出た目的は、私とみさきが秋祭りに着ていく浴衣の小物を買いそろえるためだった。
自分の晴れ姿をお披露目できるとあって、みさきはすっかりご満悦の様子だ。やっぱりこういうイベント事は、彼氏彼女がいる人間にとっては楽しみなんだろう。
そんな話をしている2人の間に入るのは、無粋というものだ。私はさり気なく1歩引いて距離を取る。
「いやー、ホント楽しみだよな」
そうすると、必然的にあぶれ者同士が会話する形になるわけで。
楠木君は前の2人に負けないくらいにニコニコしていた。
「俺なんてさぁ、龍神太鼓に出るんだぞ? もう今から心臓バクバク」
「その話は何べんも聞いたわよ」
1ヶ月前、町役場から毎年恒例の太鼓出場者の依頼が学校に来て、うちのクラスにお鉢が回ってきた。
当然、そんなかったるい事を誰も引き受けるわけが無い。推薦(押し付け合い)の結果、名前が上がったのが楠木君だったのだ。
「あ〜、燃えるぜ。どうするよ遠山、この燃えたぎる熱い心、どうしたらいい?」
「小躍りしないの。いいから大人しくしてなさい」
押しつけられたにも関わらず、当の楠木君はなぜかやる気満々。
誰も聞かないような太鼓の演奏で、熱くなっちゃってまあ。
適当にあしらいつつ、私は彼を見上げる。
「それよりあんた、太鼓もいいけど中間も近いんだからね。また前みたいに勉強教えろなんて押しかけて来ないでよ?」
「はっはっは、無茶言うなよ。せっかく学年首席が近くに居るんだ、これを利用しない手は無い」
悪びれた風も無く、カラカラと笑って言う。
私は溜め息をついた。
「私、あんたの家庭教師でも知恵袋でもないんだけど」
「ちょっと教えてくれりゃ、後は自分でやるさ。これでも頭は悪くないつもりだ」
「どの口で言うのかしらね、この男は……」
ちょっと毒舌を交えて言ってやるけど、楠木君は例によって堪えた風も無く。
「おーし、なら俺が頭良いんだって所を見せてやるぜ。俺の出す問題に答えてみろ」
「は? なんでそういう話に」
「いいからいいから」
いつもながら、話の展開に脈絡のない人だった。
私の事なんてお構いなしに、楠木君は1つの問題を提示する。
「7人用のベンチがあって、そこに7人座ってたんだ。そこへお婆さんがやってきた。7人は、誰が席をゆずるかで揉めたんだ」
「心の狭い人達ね」
「そこへ、とんち小僧のトムがやって来た。話を聞いて、トムは見事な解答を出して見せたんだ」
「アメリカ人なのに、とんち小僧なの?」
「さて問題だ。席をゆずったのは何番目に座っていた人だったでしょう? それはなぜでしょう?」
私は少し考えた。
「……それって、ただのなぞなぞじゃない。勉強とは関係無いわ」
楠木君は肩をすくめる。
「おやおや、学年首席様がずいぶんと弱気なことで。制限時間はナシでいいさ、お前が降参するまで待ってやる」
「………………」
ちょっとムッとした。
これでも私、妥協するのと人から見くびられるのは好きじゃないのだ。
なぞなぞでムキになるなんて子供っぽいとは思うけど、実際に腹が立つのだから仕方が無い。
私の沈黙を楠木君は了承と受け取ったらしく、余裕たっぷりの憎々しい笑顔で私の肩をポンと叩く。
「ま、がんばれ。乙女のド根性見せてみろ」
「何よそれ」
「これが解けたら、お前にホレてやるから」
「なっ……!?」
絶句する私を残して、笑いながら先へと歩いて行ってしまう。
「な、何なのよ……」
不覚。
あんなバカの冗談でドキドキしてしまった。高校生にもなってこのウブさは無いでしょ、しっかりしなさい私。
な〜にが、とんち小僧のトムよ。馬鹿らしい。
前を歩く楠木君の背中を睨みながら、私は心の中で舌を出すのだった。
/
『 TOM Transfering Of Members Trading
Order of Mens 』
「ん〜……トムは関係無さそうね……」
しばらく経ってから、自分がしょうもない事を考えていたのに気が付く。
何やってんのよ私。勉強しないと。
休みが明けて月曜日の放課後、学校の図書室で私は自習していた。
我に返って周りを見回せば、もうあまり人は残っていない。窓にかけられたブラインドの隙間から、赤い夕陽の光が差し込んでいる。
ドンドドン ドドドドンドドン カッ、カッ、ドンドドン……
遠くから、しばらく途絶えていた太鼓の音が、また聞こえ始めた。
ああ、まだやってるんだ……。もう帰ったのかと思っていたら、休憩だったらしい。
私は荷物をまとめて、図書室を出た。
2階の渡り廊下。
中庭が見下ろせるこの通路、その真ん中付近で私は立ち止まり、窓を開ける。
「セイヤッ!」
暮れゆく陽。
長く伸びる影。
1人、大きな太鼓を叩く男子生徒と、威勢のいい鬨の声。
楠木君だった。
ここからでも見えるくらいに汗を飛ばしながら、今日も1人で居残り練習をしている。
「………………」
私は窓を開け、枠に肘をついてボンヤリとその背中を見つめていた。
『それだけだったんです。みんなと一緒に、最高の文化祭にしたい。楠木君は、本当にただそれだけだったんです』
涙ながらの声が、脳裏に蘇った。
私には中学時代からの友達がいる。今は隣の県にある高校に通ってる子だ。
3ヶ月前、その子が今仲良くしているという友達を連れてきた。
つまりそれは、友達の友達から聞いた話。
『がんばったのに。何もかも、うまく行くはずだったのに。どうしてあんな事に……』
もうすっかりクラスに馴染んでるから、私も時々忘れそうになるけど。
楠木君は最初からこの学校の生徒だったわけじゃない。今年の4月に隣の県から転校してきた、転校生なのだ。
ドドドドドドン ドンドドドッ、ドン!
……本当に、よく頑張る。
CDラジカセで宮太鼓の演奏をかけ、それに合わせて大太鼓を叩く。
和太鼓の演奏なんて、お年寄り以外には誰も見向きもしないってのに。毎日毎日、遅くまで居残って練習して。
楠木君がヒョイとこちらを振り返った。
目が合う。彼は少しだけ驚いた様だったが――――
やがて私に向かって、手招きする。
降りて来いって事かしら?
今さら知らんぷりもできない。私はしょうがなく、階段を降りて1階の渡り廊下に出た。
「何だよ遠山。見てるんならそう言ってくれればいいのに」
楠木君はタオルで汗を拭いながら、笑顔で近づいて来た。
ちょっとした爽やか好青年ってとこかしら。汗くさいけど。
「図書室で勉強してたのよ。帰ろうとして通りかかっただけ」
「帰るのか? じゃあちょっと待ってくれよ、俺も帰る」
さも当然のように言い、脇にまとめてあった荷物を取りに行こうとする。
私は慌てて止めた。
「ちょっと、まさか一緒に帰ろうなんて言うんじゃないでしょうね?」
「何だ、ダメか?」
「あんたと妙な噂になるのなんて、嫌よ私は」
楠木君は一瞬キョトンとした顔になり。
なぜかニヤリと笑う。
「ほお。こりゃ驚いた、あの不沈戦艦・遠山春菜がそんなことを気にするタイプだったとは」
「誰が不沈戦艦よ」
こいつは私をどういう目で見てるんだか。
楠木君は悪びれた風も無くカラカラ笑うと、あっさりうなずいた。
「まあ、嫌なら別に無理にとは言わない。んじゃ、俺はもう一流しして帰るかな。おつかれ」
それだけ言うと、もう私に用は無いとばかりに、再びバチを取って太鼓に向かう。
「………………」
ああ言ってるんだから、帰ってもいいんだろうけど。
何となく、その場を離れづらくなってしまった。
「帰らないのか?」
練習を再開しようとしていた楠木君に。
「あのさ……なんでそんなに頑張るの?」
聞いてみた。
彼は不思議そうに振り返る。
「あんたバカだから、ひょっとしてクラスの皆が言ってた『この町に早く馴染むため』とかいうのを本気にしてるとか?」
返ってきたのは苦笑だった。
「まあ、それも理由の一つではあるな。ここに来て半年近く。だいぶ馴染んできたとは思うけど、やっぱ俺って余所者だし」
ドン!
調子を確かめるように、一叩き。
「でもさ、それだけじゃないんだ」
「何?」
「高城がさ、園村にまだ告白してないって事は、お前も知ってるよな?」
もちろん知っていた。
半ば公認で、本人達も完全にその気なあの2人だけど、実はまだ告白していないという事は。
でも、なんでここであの2人の話になるのかしら? 不審に思いながらも、私はうなずく。
「高城の奴が言ってたんだ。今度の秋祭りでキメて見せるって。ちゃんと告白するんだって」
「そうなの?」
楠木君はバチを太鼓に預けたまま、空を見上げた。
赤い夕陽。
大きな背中。
バチを握りしめる、男の子特有の筋肉質な腕。
「何が何でも、最高の秋祭りにしてやるんだ。俺さ……そのためなら何でもするよ……」
「え……?」
トクン、と自分の心臓が鳴ったのを感じた。
楠木君は背中を向けているから、その表情は伺い知れない。
だけど、その声。
いつものバカ全開の時とは別人のような、優しい声。
思いの丈が溢れてこぼれ落ちたかのような、すごく温かな声だった。
言葉を失う。
……え、ええと。どうしたらいいのかしら。
何?この雰囲気。うっかり言葉を発するのが憚られるような、何だかすごく敬虔な雰囲気。
あの楠木一と話してて、こんな雰囲気になったのは初めてだった。どうしていいのか分からない。
彼の影法師が自分の足下にまで伸びてきているのに気付く。
なぜか気恥ずかしくなって、慌てて一歩退がる。
「あの……何それ……?」
ようやく声を振り絞るが、出てきたのは何ともマヌケな問いだった。
振り返った彼が、一瞬泣きそうな顔に見えたのは――――
夕陽のせいだったのだろうか?
「俺がバラしたって事は内緒だぜ? この話は男同士の最高機密なんだからな」
軽い調子でそう言う彼は、もういつもの楠木一だった。
「じゃあ、なんで私には教えてくれたの……?」
「お前なら大丈夫かと。何たって、女の身であっても熱き漢の魂を宿した奴だからな。俺は認めてるぜ!」
「はあぁ? 何よ男の魂って。どーゆー意味ッ?」
自分が上履きであることも忘れて、彼に詰め寄る。
「わはははは」
「笑うなっ!」
結局はいつも通りだった。だから――――
「もちろん本当は、お前が大事な仲間だからさ」
そのセリフが冗談なのか本気なのか、私には判断できなかった。
/
昼休みの屋上。
天気の良い日は、私達はここにビニールシートを広げて4人で昼食を取ることにしている。
「うらあ園村っ! これでも食らえーーーっ!」
無意味に熱い叫びを上げながら、楠木君はみさきにパック牛乳を差し出した。
「わあ、早かったね。ありがとう楠木くん」
みさきは慣れた様子でほんわりと笑い、それを受け取る。
「いいってこと。どうせついでだったからな」
「楠木くんって良い人だねー」
「お、そうか? 嬉しいこと言ってくれるぜ」
……そこ、喜ぶ所?
2人のやりとりを聞きながら、私は心の中で首を傾げる。
以前見た雑誌には、男の子は女の子から「良い人だね」って言われるとガッカリするって書いてあったけど、違うのかしら?
違うのだろう。彼は笑いながら高城君の隣に腰を下ろす。
「いいタイムだぞ楠木。もうすぐ世界に挑戦できるな」
「よっしゃ、待ってろよリカルド! 伊達さんの仇は俺が取る!」
リカルドって誰?
わけの分からない話をしながら、楠木君はみさきの牛乳と一緒に買ってきた購買の紙袋を開ける。
そして、悲鳴。
「ぬおおおお!? 自分の分の牛乳買い忘れた!」
「そうなの? だったら楠木くん、この牛乳……」
悪いと思ったのか、みさきが受け取ったばかりの牛乳を差し出すが。
「いやいや気にすんな。男、楠木一。1度渡した物を返してもらうほど落ちぶれちゃいねえ」
なぜか江戸っ子気質で豪快に笑いながら、首を横に振る。
隣で高城君が、力強くうなずいた。
「よく言った楠木。さあ、今こそ世界に向けて羽ばたけ!」
「うっしゃ、見ててくれ伊達さーーーんっ!」
相変わらず、この2人のノリにはついて行けない。
私は再び屋上を出て行く楠木君の背中を見送った。
「ホントに良い人だよね、楠木くんって」
みさきはニコニコしながら言う。
だが、ふとその笑顔に翳りが差した。
「でも……ちょっと変だよね」
「みさき。世の中にはな、たとえ本当の事であっても言っていい事と悪い事があるぞ」
高城君が大真面目な顔で、身もふたも無い事を言う。
「そういう意味じゃないよ。何て言うのかな……楠木くんって、どこかおかしくない?」
「何もかもがおかしいわ」
私も合いの手を入れると、違うんだってば〜、と声を高くする。
しばらくウンウンと一生懸命考えて。
「だって、自分の分も買い忘れるくらい、他人の用事に必死になったりして。こないだなんて、私見たの。見ず知らずのお婆ちゃんがクシャミした拍子に入れ歯を落としちゃったんだけど、楠木くん、ドブに手を突っ込んでそれを探してあげてたの」
そんなことしてたの、あのバカは。
おまけに他人の告白のために、毎日遅くまで居残り練習して。良い人って言われて無邪気に喜んで。
「何て言うのかな……高校生にもなって、あんなに人が良いのって、アリなのかなぁって」
思案げに口元に手を当てながら、呟く。
私と高城君は一瞬、黙り込んだ。
いっけん無防備で危なっかしく見えるみさきだけど、実際は見かけほど幸せな人生を歩んでいるわけではない。
たまにこんな風に、沈思する面持ちで「みんなが、誰一人欠けること無く、仲良くできたら良いのにね……」と呟く事がある。彼女に何があったのか、それは個人の心傷に触れる事なので詳しくは言わないけど。
「よく分からんが……つまり、あいつはお人好し過ぎるって言いたいのか?」
確かめるように尋ねてくる高城君に、彼女はうなずく。
私も心の中でうなずいていた。
別に昨日今日、思い始めた事ではない。彼が転校して来て半年、毎日のように顔を合わせて観察してきた末の結論。
彼は年齢の割に、お人好し過ぎるのだ。
高校生にもなれば、そろそろ現実というものが見えてくる。世界とはいびつであり、決して満ち足りたものではない。人は必ずしも善人ではなく、中には心無い人間も居るのだという事が分かってくる。もうちょっと、どこかにストイックさが滲み出ても良いはずなのに。
彼にはその気配が全く無いのである。まるで、世の中の人間はみな善人であり、世界は夢に溢れていると信じているかのように。
彼は、何かがおかしい。どこか不自然。みさきがそう感じるのは、むしろ当然なのかも知れなかった。
「別に良いんじゃないの?」
私はそう言ってやった。
「みさき、あなたそんなこと探ってどうしようっての」
「どうって……別にどうもしないけど」
「だったら良いじゃない。あんまり人の心を詮索するのは趣味が悪いわよ。楠木君が『良い人』でいようと頑張ってるんだとしたら、そんな風に勘ぐるのは失礼になるわ」
ちょっと失敗。意味深な物言いになってしまった。
高城君が私の顔を観察するように覗き込んでくる。
「……何か知ってるのか?」
「知るわけないでしょ。もしそうだったらって話。私の勝手な憶測」
強引に話を流す。
高城君はまだ何か物言いたげだったけど、けっきょく何も言わないでいてくれた。
「そういえば私、楠木くんのこと良く知らない……」
みさきがポツリと呟いた。ずっと仲良くしてきたはずなのに、今さら気付いたその事実にちょっと落ち込んだらしい。
高城君が飄々とした様子でそれを励ます。
「そんなもんだろ。誰だって他人に100%を見せてるわけじゃない」
「でも……」
「俺とお前だってそうじゃないか。お前が風呂に入って最初にどこを洗うかなんて、俺は知らないぞ」
「も、もう〜っ! そういう話じゃないでしょ〜!?」
赤くなってバシバシと攻撃するみさきと、その攻撃にもめげずパンをかじる高城君。
誰だって他人に100%を見せてるわけじゃない……か。
確かにそうだと思った。
今の会話で分かった事。楠木君はこの2人に、前の学校で起こった事を何も話していない。
そして私も、彼の口からそれを聞いた事は無い。私が『あの事』を知っているのは、ほんの偶然で第3者から話を聞いたからに過ぎない。
話せないのか、それとも隠し通すつもりなのか。
でも、それを暴いてどうなるというのか。テレビのワイドショーに夢中になる主婦のように、下世話な好奇心を満たそうと他人を追いつめる趣味など、私には無い。
だから毎日、淡々と彼の良い人ごっこに調子を合わせている。それが間違っているとは思わない。
……私って、冷たい女なのかしら?
「おおっ? なんか盛り上がってるな、何の話だ?」
何も知らない当事者が帰還して、結局この話はそのままお流れになった。
ちなみに高城君によると、リカルドに勝てるタイムじゃなかったらしい。
だから、リカルドって誰よ?
/
数日後、秋祭りを1週間後に控えた月曜日のことだった。
「楠木、お前宛てに郵便だぞ」
朝のホームルームで、担任の先生が一通の封筒を手にそう言った。
教室がざわめく。私用の手紙が学校を通して届けられたのだ、非常に珍しい事態と言えるだろう。
「誰からッスか?」
楠木君自身も不思議そうにしながら立ち上がり、先生の元へと向かう。
先生は手にした封筒を裏返して、そこに書かれている差出人の名前を見る。
「ん〜なになに……北村綾子」
クラスのざわめきは、驚愕のどよめきに変わった。なにせ女の名前である、無理も無かった。
ピタリ、と楠木君の足が止まる。
そして私も、思わず息を飲んでいた。
北村綾子。それって確か……。
『準備は出来てたんです。後は、明日を待つだけだったんです。台風さえ来なければ……』
先生はニヤリとして、続ける。
「……以下、仙川東高校・元1年7組一同より。仙川東って言えば、お前が前に居た学校じゃなかったか?」
私は瞑目する。
ああ、間違いない。
あの子だ。そして楠木君の、元クラスメイト達だ。
クラスの中は一気に脱力感に包まれていた。
前の学校のクラスメイトが、旧交を温めるために出した手紙。そんな風に解釈したのだろう。
「北村さんってのは、クラス委員か何かか?」
「……そうッス。委員長っした」
「お前、前のクラスメイトに住所教えてないのか?」
私はゆっくりと、立ちすくんでいる楠木君の顔を見やる。
「……そういや、言ってなかったッスね。引っ越しのゴタゴタで、すっかり忘れてました……」
楠木君は口元を歪めて、笑みの形を作っていた。
でも、目が笑っていなかった。
「イカンぞぉ、遠く離れたと言っても友達は大事にせんと。先方はこうして学校を通してでも手紙をくれるというのに。返事にはちゃんと現住所を書いて出すんだぞ」
「……はい。どうもお手数っした」
何のぎこちなさも無く、先生から手紙を受け取って席に戻る。
その一連の動作に、どこも不審な点は見当たらなかった。
そう、まるで――――
努めて自然な動作を演じきったかのように。不自然なくらい自然に。
「ようよう楠木、その北村さんってどんな娘なんだよ」
「可愛いのか?」
「委員長ってくらいだから、やっぱメガネかけてるとか?」
後ろで早速、クラスの男子たちに囲まれているみたいだ。
「こら、私語やめい。ホームルームするぞー」
先生が声をかけるけど、効果はあまり無さそう。
私は、かつて1度だけ会った彼女を思い出していた。
『楠木くんはクラスの仲間に電話をかけていたんだそうです。何人も。何回も。でも、誰も来なかった……』
彼女は泣きながら、私に訴えた。
私なんか、そんな事が起こってるって知りもしなかったと。
楠木君がずぶ濡れで助けを求めている時に、のんびりお風呂に入って、テレビを見て笑ってたんだと。
『「助けてくれ」って、言ったのに……!』
知らなかった。その一言で済ますには、余りに重い罪悪感。
私の記憶の中で、北村綾子という少女は泣いていた。
そして今も、泣き続けているんだと思う。
/
ドンドドン ドドドドンドドン カッ、カッ、ドンドドン……
太鼓の音は、今日も鳴り響く。
今日も良い天気だった。見事な夕陽が、中庭を鮮やかな赤と濃い陰影のコントラストで彩っている。
「………………」
私は以前と同じように、2階の渡り廊下からその背中を眺めていた。
今日1日、楠木君はいつも通りバカだった。
本当にいつも通りだった。これが演技なら大したものだと思えるくらいに。
ふと―――― 。
中庭に3人の女の子が姿を現した。どうやら下級生らしい。3人で楠木君を取り囲む。
友達についてきてもらって、恋の告白とか? 綺麗な夕陽だし、シチュエーション的には申し分ない。
本当にそうだったなら、良かったんだけど。
「高城先輩と園村先輩の邪魔しないで下さい」
「あんたなんかが高城先輩にかなうわけない」
「相思相愛の2人の間に割って入るなんてサイテーです」
非難囂々。
楠木君は、まったくいわれのない非難の集中砲火を浴びていた。
高城君とみさきは、学校内でもけっこう有名なカップルだ。噂では学内ベストカップルに堂々3位入賞してるとか。……誰がそんなアンケートを実施してるのか、暇な連中も居るものである。
で、そんな2人の近くに居る楠木君は、時としてこういう目に遭う。
「いや、だからそれは誤解でね」
楠木君は何とか説明しようと試みているが、下級生達は耳を貸さない。
ホントに、恐ろしきは恋に恋する少女の思い込み……か。
恐らく本人達は、良い事してるつもりなんだろう。
面白おかしく脚色された噂話を真に受け、その事実関係を調べることもせず、安っぽい義憤に駆られて楠木君に濡れ衣を着せる。
それで当人達は善人になったつもりで居るのだから、おめでたい。
「分かった、分かったよ。俺が悪かった。もうしません」
「誠意が感じられません」
「じゃあ、どうすれば信じてくれるんだよ……」
楠木君が、高城君とみさきに横恋慕。あの3人を知っている者からすれば、鼻で笑ってしまう話だ。いったいあの下級生達は、それが間違いであった時にどうするつもりなのだろう?
その後、非難は実に30分に渡って延々と続き。
「今日はこれくらいにしといてあげますけど。今度また変な噂を聞いたら、ただじゃおきませんからね」
「はい……」
言うだけ言って満足したのか、下級生達は偉そうに言い捨てると、ようやくその場を離れて行った。
楠木君はしばらくそれを見送って、静かに溜め息をつく。
私は、一部始終を黙って見ていた。
「……バカね……」
何も言わず、ただ苦笑を浮かべながら手にしたバチを弄ぶ彼の姿が、やるせなかった。
「文句の1つくらい、言いなさいよ……」
私はその場を離れ、階段を降りる。
そして、いつかと同じように1階の渡り廊下に出た。
彼は私に気付くと、変わらぬ調子で笑った。
「おう、遠山。また図書室で勉強か?」
本当に大したものだと思う。
よくもまあ、これほど見事に覆い隠せるものだ。
「さっき、なんか下級生に取り囲まれてたみたいね」
「おう。参った、告白された」
いつもそうやって。あれもこれも、飲み込んで。
そして彼は笑うのだ。辛いことも悲しいことも、何にも無いような顔して。
「……そう」
下世話な趣味は、私には無い。
彼が望んでいる通りに話題を変えてあげる。
「調子はどう?」
「上々。遠山はどうした、俺と一緒に帰りたくなったか?」
「寝言は寝てから言いなさい」
楠木君は芝居がかった仕草で、ヒョイと肩をすくめる。
「ま、気が変わったならいつでも誘ってくれよ。んじゃ俺、練習するから。おつかれ」
もう私に用は無いとばかりに、太鼓に向かう。
私は黙って、しばらくその背中を見つめた。
いつも、こうだったのかしら。
前の学校でも、いつもこうだったのかしら。
決して人に弱みを見せず。ニコニコして。人を笑わせて。まるでサーカスのピエロだ。
少し躊躇してから、私は口を開いた。
「……ねえ。ヒント、くれない?」
「んあ?」
不思議そうに振り返る彼に、言った。
「例の、なぞなぞのヒント」
「……ああ、あれ。何だ、まだ考えてたのか?」
彼にしてみれば、その場だけの話題のつもりだったんだろう。
私が未だ考え中であった事に呆れ半分、嬉しさ半分といった顔で私に向き直る。
「学年首席の意地ってわけか」
「別にそんなんじゃないわよ」
彼は思案しながら口を開く。
「ヒントか、そうだなぁ……。トムはな、アメリカ人なんだ」
「それくらい分かるわよ」
「もう1度、問題を思い出してみろ。7人居て、1人増えたせいで、1人どかなきゃならなくなったんだ」
「覚えてるわよ」
楠木君はニヤリとする。
「以上、ヒント終わり」
「え、それだけ……?」
私は呆気に取られてしまった。
たぶん情けない顔をしてしまったんだろう、楠木君は私の顔を見て大笑いする。
「わはは、いいぞ遠山。いまお前、捨てられた子犬みたいな顔したぞ」
「う、うるさいわね! ちょっと意表を突かれただけじゃない!」
猛烈に気恥ずかしくなり、私は怒鳴る。
「いやー、カメラ持って来りゃ良かった。遠山のそんな顔、超レアものだったのに」
「あんたね、ちょっと失礼じゃないのっ!?」
私と楠木君って、こんなパワーバランスだったかしら? 何だか最近、一方的に遊ばれてる気がするわ……。
自分が劣勢に立たされ始めているのを感じながら、でもそんなこと認めたくなかったから。
笑う彼を、私は思いっきり怒鳴りつけるのだった。
「がんばれよ遠山、乙女のド根性だ!」
「だから、何なのよそれはっ!」
/
仙川東高校1年7組。
そこには、偉大なる道化師が居た。
突飛な言動。信じられない行動力。そして、底抜けの明るさ。
皆が彼の奇妙な行動に注目し、大笑いする。毎日がお祭り騒ぎだった。
バカだバカだと言いつつも、皆、彼のことが好きだった。クラスは彼を中心に回っていた。
文化祭の準備が始まった時も、そうだった。
1年7組に割り当てられた仕事は、入場門の作成。学校の全作業からしても、最難関に属する大仕事であった。
だが、クラスの誰もがひるまなかった。
「自分達には、彼がいる」
そう思っていたし、事実、彼はその期待に見事に応えて見せた。
苦境もあった。不慮の事故から、ほぼ概成間近であった門が全壊してしまった事もあった。
皆が落ち込む中、そのパワーは止まる事を知らなかった。
「燃える展開だぜ」
その一言で済ませ、先陣を切って再建に取り組み始めたのである。
もとより天性のお祭り男。彼のやる気は正に無尽蔵であり、それに勢いを得て、クラスの皆が一丸となって準備を進めた。
そして、入場門は完成した。文化祭前日の夕方に。
皆が喜んだ。感激して泣き出す女子も居た。
しかし、一抹の不安が残っていた。天気予報によると、大型の台風が接近中であるとの事だったのだ。
逸れてほしい。ここまでやったんだ、無事に文化祭を迎えて皆で楽しみたい。
夕陽も見えない薄暗い空模様を眺めながら、帰途についた。
―――― だが、願いも空しく台風は直撃した。
風速40メートルの大型台風。荒れ狂う暴風雨が、民家の瓦を吹き飛ばし、古い電信柱をなぎ倒した。
電線が切断され、停電が各所で発生した。交通機関は麻痺し、人々は屋内から1歩も出られない状態となった。
クラスの面々は家の中で風の轟音を聞きながら、諦めの溜め息をついていた。
そんな中。
男子クラスメイト達の携帯が鳴ったのである。
かけた相手は、彼であった。入場門を守るんだと。
誰もが無茶だと思った。たとえどんな支えを施したところで、この暴風雨を一晩凌ぎ切れるわけがない。
誰もが、無理だからやめておけと、彼に進言した。
それでも電話は何度もかかってきた。夜の10時を過ぎ、本格的に暴風圏内に突入して携帯が使用不能になるまで、何度も。
最後の電話で、彼はこう言っていたという。
「頼む、助けてくれ」と。
・
・
・
・
・
私は思う。それはクラスの皆の方が正しかったと。
大型台風が荒れ狂っているのに外へ飛び出して、大きな入場門を守ろうなど。下手をすれば死人が出る。
それは『彼』の方が、あまりに無謀だったのだ。
誰も悪くなどない。何が悪かったのかと言うのなら、運が悪かったのだと言う他ない。
ツイてなかった。
私は思う。なるほど、ひどい話だと。
昼休み―――― 。
「楠木、けっきょく手紙には何て書いてあったんだ?」
高城君なりに、色々考えたんだろう。
考えた末、単刀直入に訊くことにしたんだと思う。
そんな友人の配慮を知ってか知らずか、楠木君はアッサリと答える。
「んー、文化祭の案内状。今度の土曜日が文化祭だから、久々にこっち来ないかってさ」
「今度の土曜日?」
みさきが難色を示すように眉をひそめる。
「楠木くん、土曜日はお祭りで龍神太鼓の日じゃ……」
「そ。だからまあ、謹んで辞退させて頂くって方向だな」
平然とした様子でパンをかじる楠木君。
最初から酌量の余地もないといった口ぶりに、私は訊いてみた。
「あっさりしてるわね、向こうはこっちの住所まで調べて案内状を送ってくれたのに。午前中だけでも、顔見せくらいして来たら?」
「………………」
私の方を見つめてくる。
何を考えているのか、いまいち分からない無感動な目。
「太鼓の方で遅刻したらシャレにならんから、やめとくわ」
「……そう」
「それよか高城」
楠木君は高城君に振り向いて、ニカッと笑う。
「俺は完璧に仕上げたぜ。お前も外すなよ」
「分かっとるわ」
高城君は苦虫を噛みつぶしたような顔でうなずく。
たぶん、告白の事を言ってるんだと思う。何も知らないみさきは頭上に?マークを浮かべる。
「外すって、何を?」
「お前は黙っとれ」
「俺は頑張って祭を盛り上げるぜって話。園村も俺の太鼓、聞いててくれよ?」
「うん、もちろん絶対聞きに行くよ」
ほんわりと笑うみさき。
この、良くも悪くも問答無用で場を和ませる笑顔は、この子の才能なのかも知れない。
いちおう知らないことになってる私は、会話に参加せずに彼らが談笑する様子をずっと眺めていた。
人にはそれぞれ、役目があるという。
主役は高城君とみさき。
その舞台を盛り上げるために、楠木君は頑張ってる。太鼓なんかで盛り上がるのかどうかはともかく、その気持ちだけは、きっと2人にも届くはずだ。
では、私の役目は何だろう? 主役の2人のために、私が出来る事とは何だろう?
教室に帰る途中。
高城君が私の隣に来て、小声で言った。
「楠木の奴、なんか変だよな」
私は少なからず感心した。分かる人間には分かるものらしい。
高城君はバカだけど、決して頭が悪いわけじゃない。分かるべき事は、ちゃんと分かってる。敏感で、そして優しい。
こんな時、みさきがこの人を好きになった理由が何となく分かるのである。
「あんたはそんな事気にしなくていいの」
私は素っ気なく言ってやった。
私の役目。
「あんたが考えなきゃいけない事は、お祭りで外さない事。それだけよ」
「なっ……!?」
彼らがそれぞれの役目を果たせるよう、ちょっとだけ背中を押してあげる事。
たぶん、私が出来る事なんてそれくらいしか無いんだと思う。
高城君は顔を真っ赤にした。
「く、楠木だな? 奴から聞いたんだな!?」
「さあ? 何の事かしら」
「そうに決まってる! 他に漏れるルートが無い!」
よっぽど恥ずかしいのか。
高城君は絶叫しながら、前を歩く楠木君に襲いかかった。
「楠木ーーーーっ! てめえ、そこに直れーーーーっ!!」
「おおっ、いきなり何を……ふむぐっ!?」
楠木君にヘッドロックをかけ、そのままブン回し始める。首の骨が折れかねない、かなり危険な技だ。
いきなりの展開に、目を白黒させているみさきの隣に立つ。
「た、高城君、いきなりどうしたんだろ」
「どうしたのかしらね」
私は何食わぬ顔で、そう返すのだった。
/
そうしてやってきた、秋祭り当日。
お昼を過ぎたくらいから、私は準備を始めた。
まずは髪。ウェーブがかったと言えば聞こえはいいけど、実はただのくせっ毛なこの髪が、最初にして最大の難関。
友達同士で行くお祭りなんだし、後ろでまとめてリボンで縛るだけでもいいんだけど、妥協は好きじゃないのだ。
ハネができないようにアップにしてまとめる。浴衣を着た時に襟足を綺麗に見せるのがポイントだ。最近ではわざと襟を抜いて(首から襟をはなす事)着る着方もあるそうだけど、私は邪道だと思ってる。
仕上げにお母さんの朱塗りのかんざしを差して……まあ、こんなもんかしら。
次は浴衣の着付け。
と言っても、私のは立体裁断の浴衣だから、偉そうに着付けなんて呼べるほどの手間はかからない。
正確には帯の締め方が難しいというだけ。おはしょりを整えて、伊達締めを巻いて、と。
そういえば「伊達に年は取ってない」とか「○ューガン○ムは伊達じゃないっ!」とかの伊達って、戦国時代の武将・伊達政宗から来てるらしい。朝鮮出兵の折、伊達の軍勢がきらびやかな戦装束で参加した事から、派手な見た目のことを伊達と呼ぶようになったんだとか……どうでもいいわね、こんな話。
そして、こないだみんなで街に出た時の戦利品で、いでたちを整える。
浴衣と合わせた藍の団扇を帯に差し、サイフと携帯を入れた巾着袋。柚子の匂い袋を袖口に忍ばせて、出来上がり。
夕方、日が傾いて気温が下がり始めるのを待って、私は家を出た。
集合場所の神社前に行くと、すでにみんな揃っていた。
TシャツにGパンというラフな格好の高城君。
満開の桜模様をあしらった薄紅色の浴衣に身を包んだみさき。
そして、何て言うのかは知らないけど紺色の太鼓師の衣装を着込んだ楠木君。……って、楠木君?
「あんた、こんなとこに居ていいの?」
近づいて行って、声をかける。
彼は振り返って私を一目見るなり、なぜだか驚愕の表情を浮かべた。
「何ぃ! お前、遠山か!?」
何だってのよ。
「私以外の何に見えるってのよ」
「いや、だって、なあ……高城よ」
「うむ。まあ、この驚きを一言で言うなら、アレだな」
私の姿を頭のてっぺんから足の先まで見下ろして。
「日本バンザイ」
……日本兵?
「うわぁ〜、春菜キレイだね〜」
みさきが我が事のように手を叩いて喜ぶ。
「それアサガオ? 春菜って大人っぽいから、青がよく似合うよね〜」
「ありがと。みさきも可愛く着られてるわよ」
ああ。つまりバカ2人の驚愕は、彼らなりの讃辞だったわけね。まったく分かりにくいったら。
「すげえ。俺、なんかメチャクチャやる気出てきた」
楠木君は拳なんて握りしめている。
何となく気恥ずかしくなり、私はわざと素っ気なく言う。
「そんなヤラしい誉め方されたって嬉しくないわよ。それよりあんた、太鼓の方はいいの?」
「おう。今日は午前中から準備して、昼からずっと通し稽古だったからな、もうバッチリだ。今は本番前の最後の休憩」
午前中からずっとって事は……楠木君、本当に行かなかったんだ、前の学校の文化祭。
私の脳裏にまた、少女の泣き顔が浮かんだ。
まあ、彼がそう決めたのなら、私がとやかく言う事ではない。
「よーし、じゃあみんな揃ったところで。行こっか!」
みさきが待ちきれない様子で音頭を取る。
皆、苦笑しながら彼女の方を振り返って――――
「危ねえっ!!」
真っ先に動いたのは楠木君だった。
決してみさきが悪かったのではない。彼女はちゃんと歩道に居た。
悪いのは、歩道を通って前の車を追い越そうとした、非常識なバイクだ。
一番近くに居た楠木君は、とっさにみさきの手を取り、力任せに引っ張る。
「わっ……?」
間一髪だった。一瞬前まで彼女が居た空間を、非常識なバイクは走り去って行った。
ドンガラガッシャン
力任せに引っ張られたみさきは、楠木君に激突。2人はもつれ合いながら、後ろにあった納屋の扉を破って中に突っ込んでしまった。
「バカヤローッ! 何考えてんだ!」
遠ざかるバイクの背めがけて高城君が怒鳴る。本気で怒っていた。
「あいたたた……」
だが、情けない声を上げてみさきが身を起こすと、ひとまずそちらを優先させる。
「大丈夫か」
「うん、大丈夫だよ。ごめんね」
「礼なら俺じゃなくて楠木に言え」
言いながら、楠木君の方に目を向ける。
楠木君はホコリまみれの農具が散乱する中で、ゆっくりと身を起こそうとしていた。
「おい楠木、大丈夫か」
「………………」
返事が無い。身を起こそうとした姿勢のまま、固まっている。
みさきも心配げに声をかける。
「楠木くん……?」
「おう」
まるで、その時になって急に電源が入ったかのように、楠木君は平然とした顔を上げた。
「だ、大丈夫だった?」
「ああ、平気平気。園村こそ大丈夫だったか? 悪かったな、いきなりだったんで手加減できなかった」
そう言い、パンパンとホコリを払いながら立ち上がる。
ひとまず無事なようだった。私もホッとする。
「ごめんね楠木くん……」
シュンとなるみさきに、いつもと変わらぬ笑顔で笑いかける。
「無事だったんならオッケー、問題なしだ。まあ、お祭り前の軽いドキドキハプニングってやつだな」
「楠木、本当に大丈夫なのか」
「おう。悪いな高城よ、先に園村をいただいちまったぜ」
高城君に向かってお下劣な冗談まで飛ばして見せる。
良かった、無理してるんじゃなくてホントに大丈夫そう。
「ところで、今何時だ?」
何気ない様子で、彼は言った。高城君が腕時計を見る。
「5時だな」
「ふむ。悪いがそろそろ集合時間だ。じゃあ3人とも、ぜったい見に来てくれよ?」
言うが早いか、楠木君はさっさと駆け出す。
「え? あれ? 楠木君、集合は6時だって言ってなかったっけ?」
みさきが?マークを浮かべている。
高城君も首を傾げていたが、やがて肩をすくめる。
「ま、遅れるよりいいだろ。それより、そろそろ行くか」
「うん、そうだね」
2人、連れだって歩き出す。
私はしばらく、楠木君が走り去って行った方向を見つめていた。
「おーい遠山、行くぞー」
「春菜〜、早く行こうよ〜」
2人が呼んでいる。私は手を挙げてそれに応え、後に続こうとした。
何気なく、納屋の方を振り返る。
「―――― っ!?」
そして私は、驚きに目を見張った。
散乱した農具。
その中で、歯が上を向いた鍬があった。その歯先が、赤い血に濡れてぬらぬらと光っていたのだ。
私は顔を上げる。楠木君が走り去って行った方向を睨みつける。
「あのバカ……っ!」
そして、2人が呼んでいるのを無視して、その方向へと駆け出した。
/
―――― 台風は、翌朝には過ぎ去っていた。
早朝、ようやく外に出られた当直の用務員は、被害のほどを確かめようと学校内を歩き回っていた。
正門前まで来て、彼は驚く。
外装のベニヤは剥がれ、装飾もすっかり吹き飛ばされていたが。入場門の骨組みが、変わらずそこに立っていたのである。
暴風にあっても倒壊を免れた理由は、各所に結ばれた荒縄だった。誰かが街路樹や電柱に荒縄を結び、門を固定していたのだ。
だが、付近に街路樹や電柱など、そう何本も無い。残る何本もの荒縄を、いったい何に結んでいるのだろう?
近づいて行った用務員は、さらに驚く。
腕や腰、全身に荒縄を巻き付けて。まるで鎖でがんじがらめに拘束された咎人のような姿で。
一人の男子生徒が、力尽きたように倒れ伏していたのである。
まさか。用務員は驚愕した。
守ったというのか。この少年が、たった1人で。吹きすさぶ嵐の中で、一晩中。
急いで救急車が呼ばれる。
病院に運ばれた彼の体は、ひどいことになっていた。
荒縄が深く、深く肉に食い込み、血液の流れを長時間に渡って止めていた。加えて雨風による体温の低下。あわや両腕は切断かという、惨々たる有様であったらしい。
結局、文化祭は中止となった。入場門の骨組みしか残っていない状態では、仕方のない事だった。
彼が入院している間、1年7組は暗鬱たる雰囲気に包まれていた。
誰も見舞いに行かなかった。いや、行けなかった。
時は過ぎ―――― 彼は学校に戻ってきた。すでに2ヶ月が経っていた。
教室に入ってきた彼と、誰も目を合わせられなかった。
仕方が無かった。
そんな事は彼にも分かっていたはずだ。
だが、人間が理詰めで行動できるのなら、犯罪など起こらないのである。
「ーーーーーーーーーーーっ!!!」
彼は慟哭を上げながら、クラスメイト達に殴りかかって行った。
仙川東高校創立以来、未曾有の大乱闘。
病院送り5名、骨折3名、軽傷7名。
とても隠しきれない不祥事を起こしたその問題児は、2週間後に『自主転校』したという。
・
・
・
・
・
そしてその問題児の背中に、私は今、包帯を巻いてあげている。
ここは神社の社務所。龍神太鼓メンバーの、仮更衣室。
私が駆けつけた時、楠木君は一人で自分の背中に包帯を巻こうとしていた。他のメンバーにはあくまで平気な顔をして、「たいしたこと無い。手当が終わったらすぐ行くから、先に行っててくれ」と告げてあるらしい。
「………………」
「………………」
壁の向こうから祭の喧噪が聞こえる。
私は黙々と、手当を続けていた。
「……なあ遠山」
ポツリと、独り言のように楠木君は口を開いた。
「俺さ、高城と園村を見てるのが好きなんだ」
「そう」
私はなるべく素っ気なく聞こえるように、平坦な相づちを打つ。
「あいつら、いいよな。好き同士で、幸せそうで。あいつらと一緒にいるとさ、俺まで幸せな気分になってくるんだ」
「ふーん」
「幸せのお裾分けをもらってるって言うかさ……感謝してるんだ、ホント。何かお礼がしたいんだよ」
神社の参道は屋台が軒を連ねている。
威勢の良い呼び込みの声。
子供の歓声。
それらが遠く、別世界の音のように聞こえる。
「あんたってバカよね。まるでピエロみたい」
「そうか。嬉しいこと言ってくれるぜ」
皮肉を込めて言ったのに、彼は本当に嬉しそうにうなずいた。
「……なんで?」
「知らないのか。ピエロはサーカスの王様なんだぞ」
私とは目を合わせず、前を向いたまま。
「ピエロをやる奴ってのはな、本当はサーカスで芸が一番上手い奴なんだ。一番上手い奴じゃないと、一番上手く失敗できないからさ」
その声はとても誇らしくて。
「空中ブランコもトランポリンも猛獣使いも、みんな相方が居るけど、ピエロの舞台はたった1人だ。たった1人で全観衆の前に立って、そして会場を沸かせる」
夢を語る少年のようで。
「サーカスを見に行った子供が、帰り道で一番に口にするのも、ピエロの事だ」
それでいて、男の人みたいな顔をしていて。
「一番の芸達者なのに、みんなを笑わせるためにコケまくる。辛い事も悲しい事も、全部お化粧の下に隠して、たった1人で会場全てを支配する。まさに王様だと思わないか?」
「……そうね……」
「俺は、王様になるんだ」
楠木君は力強く言った。
その背中が物語っている。
―――― 俺を止めるな、と。
「私が無理だって言ったら?」
「それでも行く。男、楠木一……無理を通して見せる!」
「………………」
包帯を巻き終わり、結び目をポンと軽く叩く。
「別に止めないわよ。行きたいんなら行けばいいわ」
嘘だった。
本当は止めるつもりでここに来た。
良い人ごっこもいい加減にしなさい。無理に出場して、他のメンバーの人達にまで迷惑かけたらどうするの。だいたい太鼓なんて誰も聞いてるわけないでしょ。そんなもの無くたって、高城君ならちゃんと告白するわよ。
……そう怒鳴りつけてやるつもりだった。
でも。
ようやく分かった。楠木一は、飢えていたのだ。
人の絆というものに。その間に生まれる温かさに。
幸せな恋人同士の傍にいて、少しだけその温もりに触れる。彼は、それだけで満ち足りてしまうほどに飢えていたのだ。
すごいな、と思う。
自分には手に入らなかったものを目の前にした時、人はどうするのか。
徹底的に責め、壊し尽くし、自分と同じ苦渋を味あわせてやるのか。
それとも逆に、自分の全てを賭けてでも守り抜こうとするのか。
彼は後者だったのだ。本当に―――― 正真正銘の、お人好しだったのだ。
「やるからにはハンパやるんじゃないわよ?」
「……サンキュ。良い奴だな、お前」
「やめてよ。あんたに言われると嫌味にしか聞こえないわ」
私は良い奴なんかじゃない。あんたみたいに強くない。
私は、がんばってる男の子に優しい言葉もかけてあげられないような、かわいげの無い女だ。
せめてこれくらいと思い、ハンガーに掛かっていた龍神の柄をあしらったハッピを取り、肩にかけてやる。
「行ってらっしゃい」
「おう、行ってくるぜ!」
がんばれ。どうか、がんばって。
楠木君はハッピに腕を通しながら、力強い足取りで出て行った。
/
ドンドドン ドドドドンドドン カッ、カッ、ドンドドン……
龍神太鼓が始まっていた。
やっぱり思った通り、足を止めて演武に注目しているのはお年寄りばかり。
そんな中で、私達は異彩を放っていたかも知れない。
「楠木君、すごいね。上手だね」
みさきがもう何度目になるか分からない「すごいね」を述べている。
「ああ。何つーか、様になってるな。素直に誉めるのは癪だが」
高城君も少なからず感心した様子で、櫓に立って大太鼓を叩く楠木君の背中を見守っている。
「………………」
でも私は、そんな2人のコメントが大いに不満だった。
上手? これが? とんでもない。
本調子の楠木君はこんなものじゃない。本当の彼の太鼓は、もっともっと迫力に満ちている。
その背中がビクリと震える。
痛みが走ったんだろう。それでも必死で叩き続けている。
ドドドドドドン ドドドン ドンッ!
あ、乱れた。
高城君とみさきは気が付かなかったみたいだけど、一拍叩き損ねた。
「何やってるのよ……」
シンプルで。図太くて。荒々しくて。
あの力強さが、見る影も無い。
私には分かる。だって毎日聞いてたんだから。
「がんばりなさいよ……あんなに練習したのに」
内心で歯がみする。
がんばりなさいよ。王様になるんでしょう?
その弱々しい背中に、猛烈にイライラした。
私には彼の痛みは分からない。こんなこと思うのはお門違いなのかも知れない。
でも。
ドン、ドドン、ドドン ドンドン カッ……
何とか持ちこたえた。
間奏に入って、大太鼓は小休止。宮太鼓のパートとなる。
楠木君は背を丸め、ジッと何かに耐えるように身を震わせている。
メンバーの人達は彼の異変に気が付いたらしい。チラチラと心配げな視線を送っている。
「くっ……」
どうして彼は、こうツイてないんだろう。
台風に遭ってみたり、事故に遭ってみたり。
がんばってるのに。精一杯やってるのに。いつも努力は実を結ばなくて。
人並み外れてツイてない、人並み外れたお人好し。
そんなのアリ?
ドンッ! ドンッ!
宮太鼓のパートと言っても、完全にフリーなわけじゃない。
かろうじて合いの手を入れる。
「……楠木君、何か苦しそうじゃない?」
「そうだな。どうかしたのか? あいつ」
2人もようやく、彼の異変に気が付いた。
ほら、気付かれたわよ。何やってるのよ。
高城君とみさきの力になりたいんでしょう? だから今まで頑張ってきたんでしょう? 心配かけてどうするのよ。
何やってるのよ……何やってるのよ!
彼の体がグラリと揺れた。
合いの手を入れるタイミングが迫り―――― しかし、大太鼓は鳴らなかった。
外した。
その瞬間、私は自分の頭にカッと血が昇ったのを感じた。
「っ、このっ……!!」
とっさに周囲を見回す。
屋台の脇に置いてある、防火用の赤いバケツが目に入った。
膝が折れる。
バチが櫓の床を転がる。
かつて風速40メートルの暴風に耐え切ったはずの彼が、力無く崩れ落ちる。
彼はもう、「助けてくれ」と言わない。人に助けを求めるという選択肢を忘れてしまった。
荒い息。尋常でない汗。ハッピにうっすらと滲んだ血。
報われない、道化。
お人好しの、王様。
私は、自分が何をしているのか分かっていた。公衆の面前であることも分かっていた。
でも私は。
注目を集めるのにも構わず。浴衣の裾が乱れるのにも構わず。
櫓を駆け上がり、そんな彼のもとへ駆けつけて―――― 。
バシャアッ!
手にしたバケツの水を、頭からぶっかけてやった。
彼が驚いた様子で振り返る。うずくまった姿勢から、私のことを呆然と見上げる。
「無理を通すんでしょうがっ! 気合入れなさい!」
私はそのマヌケ面に、叩きつけるように叫んでいた。
他の太鼓の人達が驚いて私に注目する視線を感じた。リーダーの人がとっさに演奏を続けるよう指示を出すのが聞こえた。
もういいって、止めてあげるべきなんだろうけど。
女の子らしく、優しくしてあげるべきなんだろうけど。
「前の時はあんたが無謀すぎたのよ! 台風なんて、相手が悪すぎたのよ!」
「へっ……」
私はそんなに可愛い女じゃない。
可愛くなんて、なりたいとも思わない。
「でも今は違うのよ? がんばれば手が届くのよ? 呼んでくれれば助けに来る人間が居るのよ!?」
だって、腹立つじゃない。
努力が必ずしも報われるわけではないって事くらい分かってる。
世界はいびつで、何一つ満たされたりしない。
でも、たまにはそんな事があったって。
たまにはお人好しの真心が報われることがあったって、良いじゃない……!
「無謀な時にがんばって、できる時に弱気になって、あんたバカじゃないのっ!?」
楠木君が呆然と私を見上げている。
「遠山、お前、何で……」
なぜ知ってる? その目が問いかけている。
ごめんなさい。説明してあげたいけど時間が無いわ。
「立ちなさい! 男なら、無理を通して見せなさいっ!!」
太鼓の人達の視線を感じる。演奏は続いている。
再び迫る、合いの手のタイミング。
「…………っ!」
私は床に転がったバチを探す。それを取ってあげようと手を伸ばす。
だけど私よりも早く、横から別の手が伸びてバチを取り上げた。
男の子特有の、筋肉質な腕。
ドン! ドンッ!
間一髪。
楠木君はバチを拾って立ち上がり、絶妙なタイミングで合いの手を入れていた。
そして再び始まる、大太鼓と宮太鼓の入り交じった勇壮な演武。
ああ……これだ。
櫓の上にいると、その振動がじかに体に染みこんでくる。
シンプルで。図太くて。荒々しい。
力強い、私が聞き慣れたその鼓動。
「遠山ぁっ!」
楠木君が叫んだ。
「いい女だぜ、お前はよぉ!!」
太鼓の音に負けない、大音声。
カアッと顔が熱くなる。
―――― ま、まずい。
何か言わないと。
心がワケの分からない焦りに駆られた。
何か、何か言わなきゃ。何か言い返さないと、ここで黙っちゃったら負けだ。
何の勝負だかよく分からないけど、負けになる気がする。
「あ……」
そして、私は言い返した。
「当ったり前でしょ! いまごろ気付いたのっ!?」
大歓声が上がった。
「おい楠木! そっちの嬢ちゃんのこと、後でよーっく聞かせてもらうからな!」
太鼓メンバーのおじさんが叫ぶ。
観客席からも、屋台からも、参道からも口笛や冷やかしのヤジが飛ぶ。
高城君とみさきが、立ち上がって拍手しているのがチラッと見えた気がした――――
。
・
・
・
・
ちなみに、後から聞いた話。
今年の龍神太鼓は、過去十数年に例のない盛り上がりだったんだって。
でも、その事と私の事は関係ないと思う。
……うるさいわね、関係ないったら関係ないのよ。
そう思わせて、お願いだから。
/
お祭りから明けた月曜日。
放課後、運悪く私は日直で居残り掃除だった。
「んじゃーな、遠山」
「春菜、また明日ー」
高城君とみさきを見送る。
色々あったけど、高城君は無事に告白できたらしい。2人は晴れて正式な恋人同士になった。
『お前らに先超されちまったけどな』
とか言われたけど、何のことやら。あれは違うのに、ぜったい勘違いしてるわ。
シンと静まりかえった教室で、机に座って日直の相方を待つ。相方は今、何かの用事で職員室に行ってる。
「………………」
何気なく、黒板を見やる。
日直の欄には『遠山』私の名前と『楠木』。……何の陰謀よ。
不意に扉が開き、彼が帰ってきた。
「よう遠山。待たせたな」
今日、彼に言おうと決めていた事があった。
私は机に頬杖をついたまま、何気ない調子で切り出す。
「ねえ楠木君」
「ん? 何だよ」
「私、仙川東に行ってみたい。連れてって」
いきなりの言葉に、彼は目をしばたたかせた。
やがて苦笑を浮かべて。
「……あのなあ、余計な世話焼くなよ。俺にとっちゃ、あれはもう過去の事で……」
でも私は取り合わない。
「あんたの事情なんて知らないわよ。私が行ってみたいの。いいでしょ? デートコースとしては格安じゃない」
「何がデートだ。お前は俺の彼女か」
いつもの調子の彼。
でも、おあいにくさま。今日は私が勝たせてもらうわ。
「約束、覚えてる?」
「約束?」
「あんた言ってたわよねぇ。『これが解けたら、お前にホレてやるから』」
あの時の彼の口真似をしてやると、思い出したらしい。
心なしか顔を青ざめさせ、一歩後退する。
「ま、まさか、解けたのか!?」
「7番目の人よ」
私の答えを聞いて、さらに一歩後退。
「ぐっ……せ、正解だ。しかし当てずっぽうでも確率7分の1だからな、理由まで答えられなきゃ正解とは言えんぞ」
往生際が悪いわね。
私はフーッと見せつけるように溜め息をつくと、悠然と黒板に向かった。
チョークを手に取り、彼に確認する。
「7人居て、1人増えて、そのせいで1人どかなきゃならなくなったのよね?」
「お、おう」
私は勝利を確信して、これでもかという位に、黒板いっぱいに書き連ねてやった。
『 7+1−1= 7tH 』
ポカンとアホ面さげて黒板を見つめる彼に向かって。
「乙女のド根性、ナメんじゃないわよっ!」
私は会心の笑顔で、言ってやるのだった―――― 。