7th

 

 

 電車のドアが開き、車内は本来の季節を取り戻した。

 冷房で無理矢理冷やされた車内の空気が我先にとドアから飛び出し、かわりに熱を帯びた外気が次々に電車に乗り込んでくる。

 このような場所に居なければさえ常に私に纏わりついて離れない熱気ではあるが、徐々に冷房に慣れはじめていたこの体には少々辛い。

 車内に僅か残る冷気が恋しくて、このままここで涼みたいという悪魔のささやきが脳裏をよぎる。

 だが悪魔が私を誘惑するその前に、下車せんと乗降口に迫る人の波にのまれ、私は電車から搾り出された。

 睨みつけるような視線をこちらに向けつつ、いかにも“上司にこき使われてストレス溜まってます”な顔つきをしたサラリーマンが私の横をすり抜け、早足でホームを歩いてゆく。

 乗降口の前に居座っているのはさすがに迷惑だったか。

 私は電車から離れるように歩を進める。

 先程出て行った冷気がこの辺をうろついていても良いものだが、あれほど私の身体に馴染んでいた空気は薄情にも私を置いてどこかへ行ってしまったらしい。

 次に会った時は人との関わりを大切にするよう言い聞かせなければ。

「……………」

 頭に浮かんだくだらない思考に苦笑する。

 どこかネジが外れた思考を脳から追い出すように嘆息してみるが、それは蒸すような空気に侵され、不快な風を外界へ送るに過ぎなかった。

 9月。

 夏も終わりだというこの時期に、太陽はこれでもかとばかりに未練がましく光を投げ込んでいる。

 まるで在庫が余った夏物の服を破格で売りさばくような大盤振る舞いだ。

 ………迷惑な事この上ない。

 ホームを守るかのように長く伸びる屋根のおかげで太陽の光を直接浴びる事はないものの、真夏の太陽と風がもたらす熱風は屋根などものともせずに私の身体へと纏わりついている。

 ただその場に立っているだけで、不快な汗が肌を滑っていった。

 私はポケットからハンカチを取り出し、額にあてる。

 ハンカチはみるみるうちに湿り気を帯びていく。

 ちょっとでも絞れば溜まった汗が滴り落ちそうだ。

 

 ――暑い。

 今さら言うまでもないが、暑い。

 

 私はすっかりびしょびしょになってしまったハンカチを折りたたみ、ポケットの中に入れる。

 

 ――が。

 

「………?」

 ポケットに入れた手に違和感を感じ、その正体を引き抜く。

 私の手にあるのは小刻みに震え続けている携帯電話。

 電車に乗ってからマナーモードに設定したまま解除するのを忘れていた事を思い出した。

 私は折りたたまれた携帯電話を開き、そのディスプレイを見る。

 無機的に並ぶ、11桁の数字。

 

 私は溜め息を一つ吐き、

 

 ――ピッ

 

 電話を切った。

 事前連絡で、言い訳は容赦しないって言ったはずなのに。

 あんたは何十匹、自転車で猫を轢き殺せば気が済むワケ? アンカウント率高すぎでしょ。どう考えても。

 心の中で毒づいていると、またもや携帯が震えだした。

 半ばウンザリして開いてみると、ディスプレイには「メール受信完了」の文字が。

 なになに…

 

ハハ○、

キトク.

カナリ

オクレル

カモ○、

シレナイ

 

 嘘つけ。

 ていうか母親が死にそうになっているのにも関わらずデートには来るのかね、君は。「危篤」の意味分かってないのか。

 どーでもいいが、何故に電報風?

 仕方がない、返信してやろう。せめてもの情けじゃ、ありがたく受け取るがいい。

 

こっちなんて

伯父さんの

3回忌の

予定を

無理に

変更して

来てるん

だからね

 

 どうだ。

 親戚を殺すことは間々あれど、死んでから三年経ったなんて嘘つく奴はそういまい。

 ……私は、一体何をあいつと競っているんだろう?

 まぁいいわ。えいっ、送信。

「ふぅ…」

 それにしても、暑い。

 学校は始まるのは明日からだが、こんな暑さが続く中で授業を受けるのはかなりキツい。

 このままいくと十二月には百度を超えますなーなんて、使い古しのギャグを考えてみる。

 いかんいかん、相当暑さで脳が参っているようだ。

 キヨスクでジュースでも買ってこようか。幸い、財布はちゃんと持ってきてある。

 私はお気に入りの白いワンピースを翻しつつ、ベンチを経って階段を上がり始めた。

 ・

「あれ? ひとみちゃん?」

 

 ふと、知っている声に名前を呼ばれた。

 いかにも、私は藍川ひとみですが何かー?

 振り返ると、半袖のブラウスに、赤いチェック柄のミニスカートという出で立ちの、結城加奈子先輩が。

 先輩には文芸部の後輩として、入部当初から随分とお世話になっている。背丈は私の方が随分と高いが。

 そんな加奈子先輩はセピア色のショートカットヘアーに帽子を被り、キャラクターの編みぐるみがぶら下がったトートバッグを持っている、お出かけスタイルだ。

 

「こんな所で会うなんて奇遇だね~。今日はどうしたの? ひとみちゃんもお出かけ?」

 

 まるで小さな子供のようにはしゃいで尋ねてくる。まあ、加奈子先輩はもともと容姿・言動ともに子供っぽいんだけど。とても高三には見えない。

 

「あぁ~。そうなんですけど、連れのバカから、遅刻するってメールが来て」

「連れって、勇くん?」

 

 勇(いさみ、と読む)とは、私を待たせている男のことで、私にとってそいつは“恋人”と書いて“かちく”と読む存在。名字は夢堂(むどう、と読む)。

 デートの時には、必ず私よりも二分先に来るようにと常日頃言い聞かせているのだ

 だってそうすれば

 

「ごめん、待った?」

「いや、俺も今来たところでさ」

 

 という王道やりとりが展開できるじゃないか。

 ん、男女が逆だって? 気にするな。

 だから今回のイレギュラーな状況は、私にとって非常に腹立だしいものなのである。

 

「よりにもよって遅刻の言い訳が『ハハキトク』ですよ? 嘘つくならもっとマシなのをつけと言いたいわ」

 

 そんな事を言ったら、私も伯父を三年前に殺してしまっているのだが。そこはほれ、ノータッチでお願いします。

 

「まあまあ、怒っちゃダメだよ。それに、本当かもしれないもん」

「?」

「遅刻するってことは、来てくれるんでしょ? お母さんが大変なときにもデートに来てくれるなんて、ひとみちゃんすごーく大切に思われてるってことじゃないかな」

 

 まったく、この人は。物事の良い面しか見ようとしない。騙されやすいタイプだな。

 ハンコとかツボとか簡単に買ってしまいそうだ。

 そいで騙されたと気付いても、ツボを花瓶にしたりネット通販を利用しまくってハンコを使う機会を増やしたりと、精一杯のフォローをしそうだな。プププのプー。

 加奈子先輩の旦那になる殿方は、相当太い堪忍袋の緒を持っていなければなるまい。

 などとひとり悦に入っていたら、またもや携帯が震え、メールが届いた。

 なになに…

 

やべえ●●●

超やべえ●、.

母ちゃんの.

血が足んねえ

今輸血してる.

まじやべえ

すまんが●●

必ず行くから.

遅れるけど

 

 チィッ、まさかハハキトクを掘り下げてくるとは思わなんだわ!

 てか、輸血してるそばからメール打ってるんですか?

 病院内ではケータイ使用禁止じゃないんですか?

 いい加減イラついてきたぞ。

 

「どうしたの? 勇くんから?」

 

 加奈子先輩が背伸びしてディスプレイを覗き込んでくる。

 案外無遠慮ですねあなた。

 

「ありゃりゃ、大変だね勇くんも」

 

 信じてるというのか。この言い訳を。

 荒唐無稽極まりない、あやつの言い訳を。

 もうこうなったらヤケだ。

 あいつが到着するまでの、退屈しのぎのゲームとして楽しもう。

 一文字、変身だ!……じゃなくて、一文字返信だ!

 

 

 どうだ。

 せいぜい混乱するがいいわ! 私を待たせた罰よ!

 なんだか自分がすんごく無意味で寂しいことをしてる気がするが、どうせゲームだし。気にしない気にしない。

 人生万事楽しんだもん勝ちじゃあ。

 送信、っと。

 

「あ、ダメだよーひとみちゃん。必死になってる勇くんをからかうようなことしちゃ」

 

 怒った顔でたしなめる加奈子先輩。だが、童顔で声も幼い感じなので、絶望的なほどに迫力がない。

 というか、そもそも何の用事でここにいるんだ?

 乗り継ぎか何かなら、こんな場所で私に構っている暇などないと思うし。私と同じように待ち合わせだろうか。

 

「先輩、他人より自分の心配したらどうですか」

「え?」

「先輩だって、何か目的があってここにいるわけでしょう。こんなところで私に構ってていいんですか?」

「あぁ~、それはね…」

 

 苦々しく顔を歪め、言葉を濁す先輩。

 一体何があったというのか。

 

「弟と吉岡くん連れて、買い物でもしようと思って電車乗ったら、吉岡くんが、痴漢に間違えられちゃって…」

 

 加奈子先輩の幼馴染みであり、彼氏でもある吉岡研二先輩は、前髪が少し長いのと、いつも怒ったような顔をしてる以外は、ごく普通の男子高校生だ。加奈子先輩とは家が隣同士で、しかも互いの両親は長期海外出張中という、ぶっちゃけありえな~い設定。

 加奈子先輩、プライベートでは彼のこと、親しみを込め「ケンくん」と呼ぶらしい。あくまで噂だけども。ちなみに吉岡先輩、文芸部の顧問からは「ヨシケン」。あはは、なんか流行ってないスーパーみたい。

 加奈子先輩の弟・結城巧巳(ゆうき たくみ)くんは中学三年生で、私も何度か顔を合わせたことがあった。

 それにしても、彼氏がよりによって痴漢と間違えられるとは…。

 えてしてこういった冤罪や疑惑というものは、一度かかるとなかなかどうして晴らすのが難しい。

 「○○でない」ことを立証する事、すなわち『悪魔の証明』には、苦労や時間がとてもかかる。ええそりゃあもう。

 実際私も幼い頃、余所の家の車にイタズラ書きした容疑をかけられ、随分責め立てられた経験あるし。

 あの時は、家に乗り込んできた被害者さんとやらを、必殺の『デルタホース・バスター』で返り討ちにしてやったっけ。

 鼻血と血反吐と悔し涙を撒き散らしつつ捨てぜりふを吐いて逃げていった、情けないおぢさんの姿は、今も忘れられない。

 加奈子先輩は吉岡先輩の『悪魔の証明』が済むまで、ここに足止めをくらっているわけか。

 私は少し意地悪に、冗談めかして尋ねてみる。

 

「本当にやったんじゃないですか?」

「ち、違うよ! 吉岡くんはそんなことしないもん! それに…」

「それに?」

 

「……相手が、巧巳なんだよ……」

 

 私は一瞬、耳を疑った。

 へ? どゆことー? 相手が弟くんだって?

 

「そ、それは一体どーゆーこと…なんですか…?」

 

 加奈子先輩は顔を真っ赤にして答えを返した。

 

「だ~か~ら~、電車が混んでたの! そいでギュウギュウ詰め状態になったの! そいで電車がガタンて揺れた拍子に吉岡くんが、巧巳にドンてぶつかったの! そしたら近くにいたサラリーマンのおじさんが吉岡くんの手を掴んで『この男、痴漢を働きました』って…そのおじさん、巧巳を女の子だと勘違いしたらしくて。それでややこしいことに…」

 

 ああ、なるほどね。

 確かに弟くんは、加奈子先輩に(姉弟だから当たり前だが)うり二つな美少女フェイス(でも♂)だし。声も甲高くて可愛いし。未発達な身体つきが中性的、というか少女的な印象に拍車をかけているし。

 

「それでそのおじさんとやらが、吉岡先輩が弟くんに対して痴漢行為を働いた、と。そう早合点したわけですか」

「そうなの~。はあ…せっかく夏休み最後の思い出作りになるはずだったのに」

「今、吉岡先輩は取り調べを?」

「うん。巧巳と一緒に」

 

 加奈子先輩の言によると、吉岡先輩を捕まえたおじさんは、ひどく勝ち誇った顔をしていたという。いたいけな少女を魔の手から救った英雄気分てか。

 今頃部屋の中では、吉岡先輩が鋭い三白眼をギラつかせて「俺はやってない」と主張し、駅員が「いい加減認めなさい」と責め立て、また別の机で弟くんが「僕は男です」と必死に(可愛らしい声で)主張し、別の駅員とおじさんが笑いながら「またまたあ。なんでそんな嘘つくんだい」と流し、平行線を辿る一方の話し合いが繰り広げられているのだろう。

 ん? 待てよ。

 

「あのー、私思ったんですけど」

「?」

 

 なぜ彼女ほどの重要人物が、こんな場にいるのだろうか。

 

「先輩が行って、事情を話せばいいんじゃないですか? 」

「あ」

 

 恐ろしくマヌケな声が、加奈子先輩の口から出た。

 「そんなこと、全然思いつかなかったよ!」とでも言いたそうな顔だ。

 小さな背中が、早足で人ごみへと消えてゆく。

 それくらい自分で気付いてください。天然って罪ね、姉さんと同じく。

 ヴヴヴヴヴヴヴッ。

 おおう、またメールが来たか。

 

滋点赦出弧袈詫

蘆掏摸剥卦汰.

鋳手衛余○○:.

酢解恵居手荏,

氏鴨拙伊琴煮

滋点赦画拉下蛇

柴樂舞ってて呉

王ゐ手○○○k;

夷手手手○○p

 

 よほど慌てているのだろうか。読めないこともないが、誤変換が何だか凄まじいことになっちゃってるぞ。

 たぶんこう言いたかったのだろう。

 

自転車でコケた

膝擦りむけた●●

痛えよ●●●m●

すげえ痛えm●.

しかもイヤなことに

自転車がひしゃげた

しばらく待っててくれ

おう痛っっっっっっp

いててて。。。。。。。

 

 見たか私の読解力! どんな難文もイチコロだぜい。

 それにしても「柴樂舞ってて」とは。何かの踊りみたいだ。でもどうしよう。私、阿波踊りと薪能くらいしか出来ないわ。柴樂(しばらく)ってどんな踊りなのかしらん? 知らない踊りなんて、ひとみ舞えません~。でもちゃあんと返信しなくてはいけませんわ。それがルールですもの~。

 

菜留邊駈急威弟寝

(訳:なるべく急いでね)

 

 送信~。

 さぁてと。ジュース買って、そいでキヨスクで何ぞ本でも買って、ゆるりとあやつを待つとするかの。

 私はマナーモードを切ってから280mlボトル入りのジュースと文庫本を一冊、そしてミニうちわを買って、待ち合わせ場所である、駅の西口に向かった。

 構内を出ると、暑さはさらに強くなった。

 そびえ立つビル群。土の見えないネズミ色の地面。

 まさにコンクリートジャングル。灼熱の園。

 ジリジリと照る太陽光線が、地上のもの全てを焼き焦がさんとばかりに叩き付けられている。

 喉を触ってみると、汗でヌルリと指が滑った。

 本能が告げている。日を避けなければ。このままではローストヒューマノイドになってしまうぞ。

 私の自慢・ロング黒髪ワンレングスは、既に日差しでその温度を上げ始めている。

 どこか落ち着ける場所はないものか。

 休める場所を探し、辺りを見回すと、西口から出てくる加奈子先輩、吉岡先輩、そして弟くんの姿が見えた。

 

「あ、ひとみちゃんだ」

 

 加奈子先輩は私を見つけるやいなや駆け寄り、手を取って言った。

 

「ありがとう。ひとみちゃんのお陰で、吉岡くんと巧巳の誤解が解けたよ~」

「いえ、お礼を言われるようなことは何もしてませんよ」

「またまた謙遜しちゃって」

 

 いや、本当に礼など言われる筋合いはないんですが。

 だって気付くでしょ、普通。

 

「いやー参ったぜ。いっくら言っても全然信じてくんなくってよ。何度ぶん殴ろうと思ったか」

 

 眉を引きつらせ、恨み言を述べる吉岡先輩。

 ああ、その気持ち分かりますよ。

 もっとも、私の場合は実行に移してしまったんですが。

 あれは十余年前。冤罪を着せられ、あんまりウザかったもんでつい「コキャリ」と。

 

「…研二さんなんてまだ良いですよ。ボクなんか、男としての尊厳を踏みにじられたんですから!」

 

 わなわなと震えつつ、弟くん。

 女の私には分からぬ苦しみだが、さぞ辛かろうて。

 昔何かのドラマであったなー。

 森進一という名前の主人公が職務質問にあって、何度名乗っても全然警官が信じてくれないってヤツ。それと同じ感じだろうか。

 それはそうと、フード付きの赤ジャージに短パンというファッションがまたかわゆいのぉ。

 思わず視姦したくなってしまうわい。

 可愛いBOYを視姦するのは、浮気には入らないよね?

 

「そしてついには最後の手段発動だもんね。ほんとに巧巳災難だったね~」

「よしてよ…思い出したくない…」

 

 能天気に笑う加奈子先輩の隣で、蒼く沈んでゆく弟くん。

 同じ顔なのに、見事すぎる対比だ。

 男であることを証明する、最後の手段…。

 ああ、何となく分かるぞ。アレか。

 確かに災難だったな、うん。

 

「そんで終いにゃ『君はショタ属性なのか? 男なのに!?』だもんな。もう呆れちまった」

 

 吉岡先輩も渇いた笑いを吐き出した。

 どうあっても、そのおじさんは吉岡先輩を痴漢にしたかったらしい。

 その横では、弟くんも笑顔を浮かべている。

 吉岡先輩のそれとは異質な、なにやら含んだ笑い。

 

「そいで姉さん、いい加減焦れてきたもんだから大声で…」

「わぁーっ、言っちゃダメだよ巧巳ぃー!」

「いいじゃん。イヤな思い出をほじくり返された仕返しさぁ!」

 

 真っ赤になって飛びかかる加奈子先輩。ニヤニヤして逃げる弟くん。

 なんぞ加奈子先輩、人に知れると恥ずかしいことでもしたんかいな?

 

「何を言ったのかと申しますと…」

 

 弟くんは私の元へ駆け寄り、耳打ちした。

 

(…姉さん大声で『私は彼の恋人で、あの男の子は私の弟です!!』って…)

 

 ほほう。

 そりゃあ何とも何とも。

 ご馳走様ですな。

 

「うううぅ~…巧巳、あんたって子はぁ~!!」

 

 おお。加奈子先輩が怒りのあまり、炎のエレメントを纏っている。

 この暑いのに、ご苦労様です。

 でもどうせなら、風か氷のエレメントなら涼がとれてよかったかも。

 

「絶対許さないんだから~!」

 

 頭からプスプス煙を上げて、加奈子先輩が弟くんめがけ躍りかかってきた。

 

「おおっと!」

 

 弟くんは慣れた様子でジャンプして避ける。

 そのトリッキーな動きは、巨大ロボットを駆って悪と戦う、手から糸が出る某蜘蛛男を想起させた。

 どうやら結城家では、姉弟喧嘩は日常茶飯事であり、弟くんは加奈子先輩の、怒ると鉄砲玉のように突進してくるという特性を長年の経験から熟知し、迅速な対応がとれるようだ。

 すんでのところでよけられてしまった加奈子先輩は、方向転換など思いもよらない。

 ということは。

 

「ひとみちゃん、よけてええええ!!」

 

 そういうことになるわな。

 必然的に、弟くんの隣に立っていた私が的になる。

 冷静にモノログってないで、回避運動とるべきだった。

 弟くんと吉岡先輩が「あっ!」と叫んだが、もう遅い。

 ご愁傷様でした。

 どっすん。

 

「あいたたた…」

「やれやれ…」

 

 私たちは見事なまでに折り重なって倒れた。

 本当にやれやれである。

 

「あ、ひとみちゃん、以外と胸あるね」

 

 揉まないでください。

 私は先輩たちに別れの挨拶をして見送り、日陰になっているベンチに腰掛けた。

 いやー、やっぱ直射日光は体に毒だわね。

 ふーと一息つくと、勇から四回目のメールが。

 

まずいぜ○○

ピンチだ○…

マッチョなっ;

男たちに○y

捕まった○:.

変な所に,

連れてがれ..

そうだぜ/

 

 んもう、勇ったら。

 嘘つくの下手ね★

 だんだん言い訳がムチャクチャになってきたわ。苦しすぎる。

 本当に来る気あるのかね?

 でもまあ、よくよく考えてみれば。

 勇は身長180mオーバーで、細身だけど筋肉質で均整とれた身体してるし。

 十分ハンサムと呼ぶにふさわしいキリリとした顔立ちに加え、髪は透き通る銀髪、瞳は藍色のエキゾチック・フェイス。

 女の私にはよく分からないが、「そっち系」の男の子達にも、モテそうといえばモテそうだ。

 こんなメールしてくるってことは、あいつ自覚があるのか。なんだか悲しいな。彼女(=私)持ちなのに。

 ♪ぺぺぺぺ~♪ぺ~ぺぺぺ~♪ぺ~♪

 お、立て続けに五通目が。

 

うわあっ●p

よせえっ●p

膝の傷を

舐めるな

息遣いが

なんだか

この男達

荒いぞ!

 

 べつに実況せんでもよろしくてよ。

 ハナから信じてないからね、あたしゃあ。

 

バカなこと○・

やってないで

早く来なさい。

 

 こちとら炎天下に晒されてんじゃい。

 男なら、やられる前にやってしまえ!

 女もそうさ、見てるだけじゃ始まらない。

 これが正しいって、言える勇気があればいい。

 ただそれだけ出来れば、英雄さ。

 嘘八百並べてないで早く来いってんだい。

 さてと、次はどんな嘘が来るのかな?(激皮肉)

 文庫本でも読んで待つとしようか。

 私はビニールから先ほど購入した文庫本を取り出した。

 表紙にはなにやらサイケな色調で描かれた劇画タッチのイラストが…ておい、小説じゃなくて漫画文庫かい。

 しかもタイトルは『ヨコシマイザー3』だって? こりゃまたジャリ番くさい題名ね。

 帯には煽り文句が。

 ふむふむ…

 

『悪魔の血が、邪悪なる力が、

正義の心と結びつき、

異形の戦士を生み出した!

今こそ見よ、必殺・火の玉アタック!

鬼才・尾藤マサヒコの描いたコミック版ヨコシマイザー

待望の初単行本化!!』

 

 ………

 適当に手に取った本買ったら、またすごいの当てちゃったわ。

 そういえば聞いたことあるなー。

 お父さんが、小さい頃にファンだと言っていた特撮ヒーロー番組。

 たぶん、放映時に児童向けTV雑誌とかに載ってたやつを、編集して単行本にしたんだろう。

 帰ったらお父さんにあげよっと。

 きっと顔から色んな汁を出して喜ぶぞ、フフフのフー。

 パラパラめくってみると、どうやら五百ページ近くあるようだ。

 こりゃあ時間潰しにはもってこいだあね。

 私は読む漫画や小説に、ジャンルでの喰わず嫌いはしないタチだ。

 やっかみや先入観は、作品の本質を見抜けなくさせるからね。

 人生万事楽しんだもん勝ちじゃあ。

 見せてもらおうか、噂のヨコシマイザーの性能とやらを!

 読んでみると、これがなかなかに面白い。

 主人公・レグルスは邪悪な種族・癌魔族のプリンスであったが、博愛の心を持つ優しい性格であり、そのため人間撲滅の強行を主張するタカ派に命を狙われる。

 味方のハト派は全員殺され、辛うじて人間世界へと逃れたレグルスは、輝石有紀(きせき ゆき)という少女と出会う。

 醜悪な容貌のレグルスを、拒絶することなく受け入れる有紀の優しさに、人間の心のすばらしさを信じた彼は人間世界を守るべく、癌魔族を裏切って人間側についた2人の仲間・フォボス、ダイモスと共に、苛烈な戦いへと身を投じてゆくのである。

 とまあこんな感じのストーリー。

 さすがに現代人の目から見ると、シナリオ的に突っ込みどころも多々あるし、絵柄や台詞回しには時代を感じてしまうが、昨今のマーケティングが先行した、絵が小綺麗で中身が××な漫画に比べれば、荒々しさが迫力満点のタッチと、熱血全開な怒濤のストーリーには圧倒される。こりゃ掘り出しものですぜ旦那!

 私は勇のことなどすっかり忘れて、作品世界に浸っていた。

 

 物語はいよいよ佳境へ。

 癌魔族と同じ姿であるレグルスたちは、人間たちから誤解され、迫害を受けてしまう。

 必死で自分たちは味方だと弁明しても、心なき大人たちに、信用できないと一蹴されるだけだった。

 自分たちは人間のために戦ってきたのに!? 非道い仕打ちにレグルスたち三人は、人間への信頼を失いかける。

 そんな彼らに、有紀は優しく声をかけるのだった。

 

――信じてあげてほしいの、人間のこと。

○○だってレグルスたちは、ただ正直なこと言ってるんでしょ?

○○ならきっと、信じてもらえるよ。――

 

 ……正直なこと、ねえ。

 私は帯を栞代わりにして差し込み、疲れ目をこすった。

 うーんと伸びをしながら上を見上げると、木漏れ日がまぶしい。

 死んだおじいちゃんが、よく言ってたっけ。

 『七度たずねて人を疑え』。

 人の言うことを、頭ごなしに否定したり疑ったりしていけないという、教え。

 おじいちゃんは、人の心を信じることを、何よりの美徳としていた人だった。

 まさか漫画を読んでて思い出すとは思わなかったわ。

 ひょっとして、加奈子先輩の言うとおり、勇も正直なことを――

 ♪ぺぺぺぺ~♪ぺ~ぺぺぺ~♪ぺ~♪

 あ、六通目が来た。

 

車に轢かれた

口が切れたぜ

脚も挫いたぜ

歩くのキツイぜ

 

 もうダメ。信じらんない。

 嘘をつき! 嘘をおつきでないよぉ!!

 私は頭痛を感じてうずくまってしまった。

 車に轢かれて、なんでそんな軽傷で済むの?

 もうあやつの言い訳など信じてやるものか。

 顔合わせたら、どんな風に罵ってやろう。

 第一声は「この若白髪!」だな。

 それから、もうとても字では表せないような冷酷で残忍な言葉責めを…フフッ。

 覚悟しな、勇。

 私は中学時代、告白してきたサッカー部のエースを言葉責めでフって、登校拒否にさせたことがあるんだからね。

 あんたはどこまで耐えられるかなぁ?

 ごめんね有紀ちゃん、そしておじいちゃん。

 これではさすがに信じる方が無理ってもんです。

 ♪ぺぺぺぺ~♪ぺ~ぺぺぺ~♪ぺ~♪

 あ、7通目が来たぞ。

 

 

今、お前の後ろにいる

 

 

 この期に及んでこんな嘘はないだろう。

 どこぞの都市伝説じゃあるまいし。

 

「おい」

 

 うっさいなあ、誰だよ。

 

「おーい」

 

 だからぁ…

 

「ひとみ!」

 

 だから誰だってのよ! こちとらイライラしてんじゃい!

 私は不機嫌さを隠そうともせず、地面を蹴って立ち上がり、振り返った。

 そうしたら、思わず言葉を失ってしまった。

 

「い、勇…?」

「よお、待たせたな」

 

 後ろに立っていたのは、間違いなく勇だった。

 間違えるもんか。銀髪碧眼のモンゴリアンなど、探したってそうはいまい。

 ではなぜ絶句してしまったのか。

 それは、彼の姿が異様だったのだ。

 顔面は蒼白、というか土気色。かなり顔色悪い。

 なんか右の膝小僧はジーンズが破れて痛々しく擦りむけてるし、左足は重そうに引きずっていた。

 いつもの思わず触りたくなるようなサラサラヘアーは乱れに乱れ、シャツはしわくちゃ。ボタンも所々外れ、紫がかった唇の左端は、切れて血が滲んでいる。

 そして、全身がピクピク痙攣していた。

 爽やかな笑顔ではとてもカバーしきれていない、死人のごとき様相。

 私は怒る気も失せて、疑問を口に出した。

 

「い、一体何があったのよ!?」

「ん、逐一メールで報告してたじゃねえか」

 

 ま、まじっすか。

 

「いやー参った参った」

 

 後頭部をボリボリ掻きながら、勇。

 って、ちょっと待て。メールの内容が真実ってことは!

 

「お母さん大丈夫なの!? 危篤状態って…」

「母ちゃんなら心配いらねえ。殺したって腐ったって埋めたって砕いたって塩でシメたって死ぬような染色体してねえから。ただ今回はちとヤバかったがな。輸血したくらいだから」

 

 随分たくましい母上ですこと。

 

「顔青いのはひょっとして…」

「輸血したんで、自転車こぐと頭クラクラしちまってさ」

 

 血の少ない状態でそんな運動するなよ。

 

「じゃあ膝のケガは…」

「勢い余って、カーブで曲がりきれねーでこけた。思いっきりな」

 

 膝だけで済んでよかったね。

 

「じゃあ、その後マッチョな殿方たちに捕まって…」

「ああ。幸い全員ぶっ飛ばして逃げたんだが、危うく新境地を開発されるとこだったぜ」

 

 着衣の乱れはそのためか。

 だが…

 

「彼女の前で、遠回しでも下ネタ使うな!」

 バキッ。

「ぐおっ」

 

 私のツッコミ拳を受けた勇は、簡単にのけ反って片膝をついた。

 貧血気味な上に激しい運動をしたので、相当弱っていたのだろう。

 私はしゃがみ、ハンカチで勇の唇の血を拭ってやった。

 

「いでぇ! しみるなこれ!」

「ああそっか。汗拭いたんだっけ、このハンカチ。ま、男だったら我慢なさい」

 

 今度は擦りむけた膝に押し当てる。

 苦悶の表情を浮かべる勇。

 ああ、綺麗な顔してる男をいぢめるのは楽しいわ。

 私は悦に入りつつ、続けた。

 

「そいで逃げたら、車に轢かれたと」

「ていうより、当て逃げってやつ? 文句言おうとしたら、ロケットダッシュで逃げていきやがんの」

 

 笑って言うことか?

 まあ、土気色した顔の白(銀)髪男がいきなり顔をのぞかせたら、さぞビビるだろうけど。

 それよりも、頑丈すぎるわあんたの身体。

 

「で、最後のメールに繋がるわけね」

「ああ、そーゆーこと。ちゃんと来ただろ?」

 

 勇は勝ち誇った笑顔を浮かべて、ガッツポーズをとった。

 なるほどね。

 私が『7番目の嘘』だと思ったのは、勇にとって『7番目の正直』だったということか。

 ごめんね有紀ちゃん、そしておじいちゃん。

 私、勇を信じてやれなかった。

 危篤状態の母親よりも、私を優先したバカな男を。

 正直すぎて笑えてくる、この男を。

 でも言い訳させて。あんな非常識なシチュエーションの数々、信じるのは至難の業よ!

 だっておかしくない? ハハキトクで、輸血して、転んで捕まって轢かれてってそんなこと。

 ………ふぅ。

 仕方ないな、許してやろう。情状酌量の余地は十分にある。

 って、許しを乞うのは私の方か。

 彼氏(かちく)の不幸を笑い、あまつさえゲームとして楽しんだのだから。

 

「勇、ちょっと横になった方がいいわよ」

「ん、そうか?」

「もう今日はいい。そんな状態で、デートなんかできっこないでしょうが」

「あ゛ぁ~…そっか、ごめんな。遅刻しまくったうえに、なんにもしてやれなくて」

 

 いえいえそんな。

 悪いのはむしろ私の方だし。それに、けっこう楽しませてもらいましたよ?

 あんたが遅刻しなかったら、『ヨコシマイザー3』には出会えなかったしね。

 私はベンチの端に腰掛けると、自分の膝の上を指さした。

 藍川家が秘奥義、『膝枕』のサインである。

 勇の正直な弁明を疑ってしまったことへの謝罪の意と、遠路はるばるやって来た労いも込めて。

 

「…これなら、怪我した価値、少しはあったかもな…」

 

 勇は最初戸惑った様子を見せたが、やがて安心したようにベンチに寝そべって、私の膝に頭を置くと、目を閉じた。

 静かな勇の寝息が聞こえ始めると、私は読みかけの『ヨコシマイザー3』を再び開いた。

 

 

 

 

 ジワジワとうるさかった蝉の鳴く声が、いつの間にかひぐらしの透明なそれへと変わっていた。