7th 』

 

 

 電車のドアが開き、車内は本来の季節を取り戻した。

 冷房で無理矢理冷やされた車内の空気が我先にとドアから飛び出し、かわりに熱を帯びた外気が次々に電車に乗り込んでくる。

 このような場所に居なければさえ常に私に纏わりついて離れない熱気ではあるが、徐々に冷房に慣れはじめていたこの体には少々辛い。

 車内に僅か残る冷気が恋しくて、このままここで涼みたいという悪魔のささやきが脳裏をよぎる。

 だが悪魔が私を誘惑するその前に、下車せんと乗降口に迫る波にのまれ、私は電車から搾り出された。

 睨みつけるような視線をこちらに向けつつ、いかにも“上司にこき使われてストレス溜まってます”な顔つきをしたサラリーマンが私の横をすり抜け、早足でホームを歩いてゆく。

 乗降口の前に居座っているのはさすがに迷惑だったか。

 私は電車から離れるように歩を進める。

 先程出て行った冷気がこの辺をうろついての良いものだが、あれほど私の身体に馴染んでいた空気は薄情にも私を置いてどこかへ行ってしまったらしい。

 次に会った時は人との関わりを大事にするよう言い聞かせなければ。

「……………」

 頭に浮んだくだらない思考に苦笑する。

 どこかネジが外れた思考を脳から追い出すように嘆息してみるが、それは蒸すような空気に侵され、不快な風を外界へ送るに過ぎなかった。

 9月。

 夏も終わりだと言うこの時期に、太陽はこれでもかとばかりに未練がましく光を投げ込んでいる。

 まるで在庫が余った夏物の服を破格で売りさばくような大盤振る舞いだ。

 ………迷惑な事この上ない。

 ホームを守るかのように長く伸びる屋根のおかげで太陽の光を直接浴びることはないものの、真夏の太陽と風がもたらす熱風は屋根などものともせずに私の身体へと纏わりついている。

 ただその場に立っているだけで、不快な汗が肌を滑っていった。

 私はポケットからハンカチを取り出し、額にあてる。

 ハンカチはみるみるうちに湿り気を帯びていく。

 ちょっとでも絞れば溜まった汗が滴り落ちそうだ。

 

 ――暑い。

 今さら言うまでもないが、暑い。

 

 私はすっかりびしょびしょになってしまったハンカチを折りたたみ、ポケットの中に入れる。

 

 ――が。

 

「………?」

 ポケットに入れた手に違和感を感じ、その正体を引き抜く。

 私の手にあるのは小刻みに震え続けている携帯電話。

 電車に乗ってからマナーモードに設定したまま解除するのを忘れていたことを思い出した。

 私は折りたたまれた携帯電話を開き、そのディスプレイを見る。

 無機質に並ぶ、11桁の数字。

 

 私は溜息を一つ吐き。

 

 ――ピッ

 

 電話を切った。

 

 あと少し、あと少しで完成する。

 そう自分に言い聞かせ、携帯を折りたたむ。

 

 向かい側のホームに一人の青年が立っていた。

 ダークグレーの上着を小脇に抱えながら、今何処にいるんだと言うかのように頭を左右に動かしている。

 年齢的にみて、新入社員か何かなのだろう。彼が何処に勤めているかは分からないが、この時間にここにいるようじゃ遅刻はほぼ間違いない。

 そんなプレーリードックのような彼を見ていると、妙な既視感を覚える。

 仕事のイロハも知らなくて、失敗が続く憂鬱な日々。あの頃の私は、きっとさっきのサラリーマンのような顔つきだっただろう。

 彼のような遅刻も何度もした。そのたび上司に小言を言われ、落ち込む私にそのたび肩を叩きながら輝く笑顔を振り撒く彼女―ひと―。

 

 その笑顔を思い出し、再び携帯が開かれる。

 相変わらずさっきと同じ数字を映し出すディスプレイ。顔は見えずともその数字を通して彼女の感情は伝わってくる。

「きっと怒ってるだろうな」

 苦笑しながらそう呟く。

 しかしそんな怒ってる顔でも、徹夜明けの私の身体を優しく癒してくれているような気がするから不思議だ。

 

 体が軽い。思考回路も正常だ。まだまだいける。

 

 両側から電車がやってきた。ストレス疲れのサラリーマンが降りても中はそれなりの人で溢れている。

 さっきまで私を包んだ熱気は引き剥がされ、代わりに包み込む冷風は涼しさよりも肌寒さを感じる。

 人の感覚とは勝手なものだ。

 向かいの車両もそれなりに混んでいるようでさっきのプレーリードックは見えない。しかし、おそらくはあの電車に乗り込んだのだろう。これから身に降りかかる悲劇を予期しながら。

 外界と内を遮断するドアが閉まる。ガクリと衝撃が走り電車は動き出す。

 

 あと少し、あと少しで完成する。そして、男、荒木勇次―あらきゆうじ―の一世一代の大勝負が始まる。

 そう自分に言い聞かせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 切れた携帯をなおざりに机に置く。

 彼が会社を突然やめた後、電話もメールも帰ってくることは一度もなかった。

 ここは東京にある会社のビル。綺麗に整頓されたオフィスに白を基調とした壁紙。一年通して代わり映えしないこの風景に半ば飽き飽きして来ている。

 あたしの周りでは他の社員たちが忙しなく仕事に没頭している。

 そんなに頑張り過ぎなくてもいいのにねぇ。

「さて、さっさと片付けるとしますか」

 軽く身体を伸ばすと作りかけになっていた企画書に目を向ける。

 とは言ってもこの企画書、ほとんど完成に近いもので誤字脱字などの間違いはない。

 唯一つだけ修正しなくてはならないところがある。

 この修正点を見つけたら、あたしは電話を掛けずにはいられなかった。

 

 『企画発案者   七之瀬優美 荒木勇次』

 

 あたしの名前『七之瀬優美―しちのせゆみ―』の隣にある名前。ディスプレイには無味乾燥に映っているが、あたしに言わせれば彼の名前の周りに花丸マークでもつけてあげたいほどだ。事実この企画書の約70%は彼があらかじめ書いていた物だ。

 本当のことを言えばこの名前の順番も気に入らない。企画の中核は彼の発案だし、あたしはそれに少し意見や問題などの揚げ足を取っただけ。名前の順は逆になるはずだ。

 それをあの馬鹿は

「先輩のようなしっかりした良識を持つ人がいるから、私は突飛な発案が出来るんですよ」

 と言いくるめて最初の名前を譲っちゃってさ。

 

「しっかりとして良識があるのはあんたの方だろうが」

 どこかの空にいる渦中の彼に意味もなく毒づく。

 窓際のこの席は空がよく見える。別にあたしが窓際族で、リストラ寸前だとは思わないで欲しい。そうなのかもしれないけど。

 でもあたしをここの席に置いたどこかの上司に感謝したい。一年中同じ景色、同じ気温のこのフロアで唯一季節感を感じられる、特等席なのだ。

 あたしは頭を上げ、ガラスを通して広がる青と白のコントラストを瞳いっぱいに映し出す。

 天井の高い空。そこに移る群青は凛としていて、他のどんなものよりも高い空を舞っている。そんな非常に高い空に触発されてか、雲たちも夏の綿飴からその姿を白い絨毯に変え、高くなった空を悠々と泳いでいる。

 そんな秋らしく涼しそうな空なのに日差しだけは全く変わらなくて、あたしの嫁入り前の顔に容赦なく差し込んでくる。

 しばらくその映像に見惚れていたいが、日差しの強さと首の痛みに耐えられず目を離す。

 白は白でも情緒のない、面白みのない壁紙が広がる。

 空の雲の色をした壁紙でも売ってないだろうか。

「おっ、それいいかも」

 取り留めない考えが時にヒットを生むかもしれない。あたしは手帳に『雲の色をした壁紙』と書くと満足そうに手帳をしまった。

 すぐに修正点を直しても良いのだが、久しぶりに見た彼の名前だった。急に懐かしさにとらわれ、なかなかその名前から目を離せない。

 いなくなってから二ヶ月もたってないのにね。

 

 しばらくパソコンの画面とにらめっこしているあたしを見て、今日は雪でも降るかもと思う人はそう少なくないような気がする。

 大体のあたしの行動パターンをここの人間は理解している。期日ギリギリにならないと真面目にやらない。すぐにサボりたがる。

 でもなんだか知らないがあたしの発案する企画は成功を収めて、今では主任なんて言う大仰な肩書きまで貰ってしまった。

 全く神様ってのはとんでもない采配を振るうもんだ。

 一人で勝手に苦笑する。

 そんなあたしの元に

「あの、主任? 七之瀬主任? 資料のコピー終わったんですけど……」

 少し遠慮気味にかかる声。

 聞きなれない声だったから、おそらく新しく配属された子だろう。

「うん、ありがとう。あぁそれと七之瀬って呼びにくいでしょ? 優美でいいわよ。」

 これはあたしが勝手に決めたルール。このほうが、親しみがあるし仲間って感じでしょ。

「えっ? あっ、……はあ……」

 突然の言葉に一瞬言葉を失う彼女。

 ここに慣れるには少しばかり時間がかかりそうね。

「あの、これで資料に関しては全部揃いました。後は企画書の本文だけなんですけど……。失礼ですけど出来上がりましたか?」

「ええっ!!? あっ、あははははは。うん、もう少し、もう少し待って頂戴。すぐ終わるから」

 あたしの素っ頓狂な声に周りにいた社員たちが忍び笑いをしている。

 チームの主任が新人に書類の催促をされているという、普通ではありえない光景。でもここでは当たり前になりつつある。

 さっきまでの硬い空気が少し変わったわね。これはこれで良かったかな?

 確かに緊張感も必要だけど、少しは余裕もないとね。

 予期せぬ事態による予期せぬ効果に微笑みながら、あたしの隣の名前を消そうとする。

 いざ消そうとするとやはり名残惜しいのか、なかなかキーを押せないあたしがいた。

「あれっ、荒木勇次さん? 一体どなたなんですか?」

 近くから聞こえる声に驚く。振り向くとそこに資料を持ってきた彼女がいた。

「ああ、そっか。あなたこいつのこと知らないのよね、ちょうど入れ違いで。」

「そうなんですか。それでこの人って……」

 彼女を尻目にあたしは彼のことを思いながら彼の名前の下へポインタを置く。

 自然と顔がほころぶのを感じた。

「こいつはあたしが育てた中で、一番バカで……」

 彼の名前の部分をドラッグする。彼の文字だけが黒から白にその色を変える。

 

 

 

 

 

「………最高の仲間だったわ」

 

 

 

  タンッ!

 

 わざわざ大仰にキーを押すと、彼の名前は忽然と消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼からの連絡は突然だった。しかも電話やメールの類ではなく葉書で、職場仲間全員に。

 葉書の彼の顔を見ていると、あたしは微笑みを隠せずにはいられなかった。

 

 会社の中ではいつもそっぽを向きながら憂い顔をしていたあいつ。感情の起伏も乏しく、泣いてるんだか笑ってるんだかさっぱりわからなかった。

 気配もそんなに感じられないようで、一時期部下の連中に『荒木さん幽霊説』を唱えられたりもした。

 

 

 薄明かりに灯された店内。壁には様々な置物が飾られ、カウンター席の向こうには様々な形をしたビンが所狭しと並んでいる。

 そんなカウンターの前に、彼は子どものような笑顔で手を振りながらこちらに笑いかけている。

 職場ではもちろん、あたしにさえもこんな笑顔を向けたことはほとんどなかった。きっとこの葉書を貰ったメンバーの中で驚かなかった人はいないだろう。

「まさか本当に始めちゃうなんてね」

 葉書の彼から目を離し、今いるこの見慣れない場所を見回す。

 明るい照明が灯った大型チェーン店の居酒屋やカラオケボックス、ちょっと妖しげなスナックなどが並んでいるが、目的の店は全く見つからない。

 あたしはもう一度彼のはがきを覗き込む。写真の下に書かれている手書きの地図と住所の言う事には、目的の店はこの近くにある筈だった。

 あたしは地図の配置とこの場所の配置を照らし合わせ、目的の場所をあぶりだそうと試みるがなかなか上手くいかない。

 立ち尽くすあたしの周りをたくさんの人の流れが押し寄せる。

 これから仕事帰りの美酒を味わおうとする二つの流れ。その二つの流れは互いにぶつかり合って、大きな濁流を作り出す。その中にすでに蛇行している流れが入り混じり中は混沌としているが、確実にその流れは当初の流れに沿っている。

 あたしはその流れの真ん中に立っている。流れからすればあたしは通行を邪魔する杭だろうか。

 流れに少し流されながらあたしは、やっとの思いで地図に描かれている場所を確認した。

 少し古ぼけた雑居ビル。一階には開店してるんだかしてないんだか良くわからないスナック。

 住所はこのビルの三階を指していた。

 こんな古ぼけたビル、しかもその三階を選んだ彼に言いたい。

「あんた、やる気あんの?」

 もちろん彼に聞こえるわけがない。

 誰に放たれたとも知らない言葉は、ビルを見上げるあたしの口を飛び出し、星すら見えないくらい夜空へ飛び上がり、霧散していく。

 霧散していった言葉を見送り、あたしはビルのエレベーターに乗り込んだ。

 

 小型のエレベーターはあたしを乗せて彼の元へ向かう。

「そういえば、一ヶ月半ぶりか……。」

 そう思うと突然胸の高鳴りや顔の火照りを感じる。

 いても立ってもいられず、あたしはそれを誤魔化すように手で髪を整える。上手く整ったかは天のみぞ知るところ。

 化粧も確認したいところだったが時すでに遅し、ベルの音と共にエレベーターの口は開き、上部のランプは三を示している。

 洒落た曇りガラスの扉の向こうに蛍のような薄明かりが灯っている。確認の為葉書を取り出し、店の名前を確認するが、ここにも葉書にも店の名前は載っていなかった。

 意を決したあたしは取っ手を掴み

 

 

 

 

 ゆっくりと

 

 

 

 

 その扉を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなに広くない部屋、小さなカウンター。広いとは決して言えない普通のバー。

 目の前には、佇む彼がいた。

 心なしか痩せたように見える彼は、バーテンの服装を身に纏い、薄く、優しく微笑んでいる。

 適材適所という言葉があるように、服も着る人を選ぶといったところか。申し訳ないがバーテンの服装はあまりきまっていなかった。

 さっき抑えたはずの感情がまたしてもひょっこり表れ、あたしを朱に染めようとしたが、それを必死に抑える。

 彼はあたしの姿を確認すると微笑みを深くし、言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃい、私の店にようこそ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 約束の時間五分前、もうすぐやって来るはずだ。

 あの人は時間にだけはうるさいから、絶対に五分前ほどには目的地にやってくる。

 さっきから緊張しすぎて、時計の時間を確認すること数十回。いい加減やめようかと思った瞬間それは訪れた。

 ベルが鳴った。

 ベルの音が聞こえた瞬間、私は驚いて飛び上がってしまう。

 焦りながら服装をチェックする。

 最近になってこの服を着始めたものの、なかなか様にならず結局見切り発車。

 優美さんには間違いなく笑われるだろう。

 半ば諦めながらも最後のチェックに余念がない。

 幸い扉はなかなか開かずに私に執行猶予を与えているようだ。

 これで違う人だったら少し悲しいな。

 そんなくだらない事を考えながら私は彼女を待つ。

 

 そして、ゆっくりとそのドアは開かれ、彼女は現れた。

 

 

 薄いグレーのスーツに身を包み、電話やメールが来るたびに思い起こした彼女がここにいる。

 およそ一ヵ月半、日にちに直して五十日ほどしかたっていないというのに目の前の彼女は心の中の彼女より更に綺麗に感じた。

 短い黒髪、シャープな眉。心なしか少し赤くなっているようにも見えるが気にしないことにする。

 自然と顔がほころぶのを感じつつ

 

「いらっしゃい、私の店へようこそ」

 

 あらかじめ決めていたフレーズだったが、いざとなるとかなり恥ずかしい。

 

 

 彼女はまるで銅像になったかのように動かない。

 奇妙な間が私と彼女を包み、居心地の悪さを感じさせる。

 

 はずしたかな?

 そのようなことを考えていると、

 

「あっはっはっはっはっは、いやーそう来たか」

 突然彼女はおなかを抱えて笑い出す。

「なッ、何で突然笑いだすんですか!? 別に変なことは……」

「だってあんた、そんなに合わない格好で『私の店にようこそ』なんて言われたら、はっはっはっは……」

 うっ、そう言われるとどうしようもない。

 

 

 しばらくの間彼女の笑い声のみが響く。

 何も言えない僕を見て満足したのか、笑い声を収めると、少し真剣な顔で。

「本日はお呼びいただいて本当にありがとう。今夜は酔いつぶれるつもりだからヨロシク。」

 後半は笑いながらだが、その内容は前半よりも真剣な響きがあった。

 こういうことを予期して、だいぶ多めに買ったつもりではいるが、なにせ医者に『鉄の肝臓』と言わしめたその身体。一体どれだけの量が入れば酔いつぶれるのか皆目見当がつかない。

 今日は、色々覚悟した方がいいかもしれない。

「……今失礼なこと考えてるでしょ。なに考えてるの?」

 顔をにゅっと覗かせながら、冷たい視線で睨んでくる。

「そんな事ないですよ! ここに立っててもしょうがないですから、こちらの席にどうぞ」

 心を読まれたことに驚きながら、彼女の機嫌を損ねないようにカウンター席に向かわせる。

 

 

 長い夜が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうして電話もメールも返さなかったの?」

「えっ……」

 突然の質問にすぐの反応できなかった。

「だからなんで返信をしなかったって聞いてんの」

 あぁ、そのことか…。

 お酒と簡単なつまみを前に置くと、優美さんはうっすら怒りに似たものを浮ばせながらこっちを睨んでくる。

「どうして……」

「……『願掛け』ってやつですかね……」

 三回目の言葉に割り込んで、私は話し始める。

「私って、そんなに意志が強い方じゃないんです。何か予定外のことが起こるとすぐに嫌になってきて、そしてやめてしまう。熱しやすく冷めやすい性格とでも言いましょうか。今回ももしかしたらそうなるんじゃないかって思いまして、だったら自分の中のすべてを賭けようと私のすべての友人と連絡をやめたんです。一人になりたくなければ完遂することだなって、もう一人の自分に言い聞かせる為に」

素直に自分中をさらけ出す。

そう、これは願掛け。自分の意志を固める為、後悔などしないための願掛け。

 

 

 

 

そして、私はその願掛けに成功した。

 

 

 

 

 

その成功と同時に、私はもう一つ願掛けをしている。

 

 

 

 

 

 

それはまだ、叶っていない。

 

 

 

「ふーん」

 グラスの中のものを傾け、彼女は呟く。少しつまらなそうな表情だった。

 彼女の瞳は飲みながらも決して私を放そうとはしていない。

 やっぱり怒ってるな。

 心の中で溜息を吐く。

 無言の空間が私に非難してくる。彼女の沈黙が痛い。

「じゃあ……」

 グラスを空にして彼女はこちらを向く。好奇心を持った子どもの表情だった。

「どうして今頃になってお店を開こうとしたの? そんな覚悟があったってことは、店を始めることに何か重要な意味があるってことだよね? それは何なの?」

 そんな事か。

 私は彼女の顔を微笑みながら見つめる。

「それは……」

「それは?」

 彼女が私を覗き込む。

 

 

 

 

「先輩、あなたのおかげですよ」

 

 

 

 

 

 

「えっ?」

 

 

 

 

 

「先輩が言ってくれたから、私はここまでやろうって考えられたんだと思います」

 困惑する彼女に向かって言う本心の言葉。

 彼女の後輩にならなければ、彼女と出会わなければ、私は決してこのようなことをしなかっただろう。

 彼女のあの言葉がなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――たいした努力をしてないのに、簡単に『夢』を諦めようなんて思うんじゃない!――

 

 

 

 酔った勢いで言った言葉なのかもしれない。

 しかしその言葉は私に深く染み入り、語りかけてきた。

 

 

 それはある酒場での出来事。仕事の成功を祝して二人で飲みに行った時のこと。

 その時の私はちゃらんぽらんで、仕事が成功しようがしまいがほとんど関係なかった。

 ただ彼女だけは大喜びのようで、いつも以上に笑顔が輝いていた。

 

 

 ――あんた、今何か夢って持ってる?――

 

 

 何気ない話をしていると彼女は突然たずねてきた。

 彼女は私の答えを聞こうとせず、昔はスポーツ選手になりたかっただの、自分が抱いてきた、そして今抱いている夢を語っている。

 私は迷っていた。確かに夢は一つ持っている。でもそれは……。

 

 彼女の一人講演は終わり、「あなたは?」と、私のほうを見つめてくる。次は私の番だった。

 彼女が見つめる中、私の一人講演は始まった。

 

 

 「店を持ちたいんです」

 

 

 開口一番そう呟く、聞こえたかどうか定かじゃないほどの大きさで。

 私は店を持ちたかった。たくさんの人がワイワイガヤガヤするようなのではなく、ゆっくりとした時間が流れるような、隠れ家的な店と言うべきだろうか、そんな店をやってみたかった。

 

 でも……。

 

「でも、もう諦めてるんです」

 

 照れ隠しのつもりだったのかもしれない。でもそれは言い訳に過ぎないってことは自分が一番良く知ってるはずだった。自分には無理という一種の自己暗示をかけて、『夢』を『夢』のままにさせようと無意識に言ったこと。

 口々から出る言い訳の数々。いつの間にか私はその毒素に侵され言い訳を雄弁と放っていた。そんな言葉を聞きながら彼女は急に立ち上がりながら、あの言葉を言う。

 

 

 ――たいした努力をしてないのに、簡単に『夢』を諦めるんじゃない!――

 

 

 明らかに怒っていた。仕事の失敗にも大体寛大に扱ってくれた彼女が怒ったことはこれが初めてだった。

 侮蔑した目を向ける彼女はさっきまでの笑顔が消え、無味乾燥な能面のような表情だった。

 

 彼女はそれ以上何も言わず、そのまま扉を潜っていった。

 一人取り残される私。呆然として何も考えられなかった。

 

 ただ彼女を怒らせてしまったことだけは理解できた。

 酒場の空気はまるで変わっていないし、周りの人やバーテンダーにはいつも通りに時が流れる。でも、私の周りだけは時が止まってしまったように静かだった。

 

 

 彼女の言葉が私の頭を駆け巡る。

「たいした努力、か……」

 努力したって報われないことの方がごまんとある。だからやりたくなかった。楽な道を選んで、楽な人生を送りたかった。そのために夢を捨てた、努力なんかしないで捨てた。そのつもりだった。

 でもそれは捨てたんじゃなかった。隅っこに追いやっただけだった。

 そんな隅っこの眠ってしまった心は先の言葉に突然目を覚まし、夢を忘れ荒んだ心に語る。

 

 ――これでいいのか――

 

 と。

 

 久方ぶりに帰った心は私に甘美な誘惑を向ける。しかし、今まで培った理性という名の守護者は私を守ろうとする。

 左右に傾く両天秤。夢を見るか、夢を消すか。

 私は結局夢を選んだ。今までたいした努力しなかったのなら、今からしてやろう。それでダメだったら、しょうがないさ。

 そんな半ばやけっぱちの心理がうずを巻く。

 

 悪い気はしなかった。

 

 

 カウンターの店員を呼び、手始めとばかりにこう言った。

 

 

「ここでしばらく、勉強させて頂けませんか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私が語っている間、彼女は黙って、注がれたお酒を含みながら聞いている。

 驚いているようだったが、話には割って来ないで静かに聞いてくれた。

 それに感謝しつつ、私は話を締めくくる。

 

「あんなことで、あの酒が入った状態の言葉なんかでここまでやったってわけ?」

 優美さんは呆れながらそう呟く。

「ええ。あの一言のおかげで吹っ切れたって言うんですかね。あの言葉があったからここまでやれたんです。だから先輩には感謝しています、本当にありがとうございます」

 彼女はまた何も言わずに感謝の言葉を聞いてくれた。

 お酒がまわってきたのか少し顔が赤い気がした。

 

「えらいえらい!!」

 そういいながら拍手をしながら彼女は笑いかけてくる。満面の笑みだった。

「いやいや、あの言葉だけでここまでやってしまうとは、あたしもとんでもない後輩に出会ったみたいだね」

 笑い続ける彼女。その笑顔を見るだけで、実現できてよかったなと思った。

 

 時間は二十分を過ぎようとしている。彼女だけに先行してきてもらうように、時間を三十分早く葉書には書いたが他の連中が早く来る可能性もある。急がなくてはならなかった。

 

「正直言って怖かったんですよ。あの後もまだ怒ってるんじゃないかって」

「最初は怒ってたけどね、よくよく考えたら結構ひどい言い分じゃなかったかなって思ってね。夢を見るのもいいけど、現実も見ないとね」

 明るく受けてくれる。怒っていないとわかって嬉しかった。

「たいしたもんだよ、やっぱりあれかね? 願掛けが効いたのかもね」

 

 

 

 願掛け……。

 

 

 

 その言葉が耳に入ると、私は激しい緊張に苛まれる。

 ここしかない。そうもう一人の自分が囁く

「実を言うと、それと同時に、もう一つ願掛けをしているんです」

 緊張を悟られないようにゆっくり、確実に言葉にする。

 ゆっくりとカウンターを降り、彼女の元へ向かう。

 近づくにつれ心臓の早鐘は間隔を狭めていく。心臓の音がひどくうるさくて周りの音が聞こえない。

「この店がオープン出来たら言うつもりだったんですけど」

 彼女は立ち上がりこちらを見つめる。

 顔に火が付いたように感じた。いや、本当に顔に火が付いたようだ。

「優美先輩………」

 口がジッパーで閉じてしまい、なかなか話すことが出来ない。口の中がカラカラだ。

 彼女も心なしか赤くなっているように見える。お酒による作用かはハッキリしない。

「私と………」

 口が開いてもなかなか声が出ない。

 彼女は何も言わずその結末を待っていた。

「私と………」

 腹に力が入る。腹の中のものをすべて吐き出すように言葉の流れが押し寄せる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――付き合ってください――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 口から流れ出る瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突如として扉は開き、そこから開口一番。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お邪魔しま〜す!! 今日は酔い潰れるまで飲みに来ましたよ〜!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 雰囲気も何も合ったもんじゃない。さっきまでの空気を返して欲しかった。

 

 

 

 茫然自失の私の脇をすり抜けていく元仲間の皆。私は生返事しか出来なかった。

 さっきまでの緊張は消え失せ、代わりとでも言うようにおかしな虚無感が入り込んできた。何も言えてない筈なのに。

 

 

 ――結局、言えなかった? 彼女に……。――

 

 

 めまいを感じ、倒れそうになるのを必死に堪える。

 彼女も同じようで、呆然と立ち尽くしていた。

 呆気に取られている二人。先に正気を取り戻したのは彼女だった。

 

「はっはっはっはっはっはっは」

 おなかを抱えて笑う彼女。こっちに近づいてくる。

「惜しかったね。後もう少しだったのに」

 私に肩を回しながらそう囁く。

 

「二つあたしからアドバイスをするよ。まず、店をオープンするときは、その服は着ない方がいいね。あんたには似合わないよ。それと、早めに店の名前考えときな」

 黙ってアドバイスを聞く。でも頭にはあまり入っていない。

 

「それと……」

 少し間をおきながら彼女は耳元に呟いてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さっきの返事だけど、ちょっと待っててくれない? なに、悪い返事はしないつもりだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女は顔を赤らめながら小さな声で囁く。

やっと正気に戻ったような気がした。でも彼女の言葉を理解するには時間がかかった。

パッと肩を放すと。彼女は群集の方を向き、声を張り上げる。

 

 

「よくきた野郎ども!! 今日は飲むだけ飲むぞ〜〜!!」

 

 

 

 

 

 お〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

 

 

 

 

 威勢の良い返事が店を圧倒する。

 

 現実感のない私は、優美さんに突然肩を叩かれる。彼女は満面の笑みを浮かべていた。

 

「ほら、勇次。さっさと持ってきなさい。あんたの店でしょう?」

 

 

 自然と顔がほころぶのを感じた。彼女も笑顔を隠さず見つめている。

 

「はいっ! わかりました、じゃんじゃん持ってきますよ」

 

 

 今日の夜は長くなりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前から聞きたかったんだけど。なんで『7th』なの?

 

 

 

 『7th』? ああ、それですか。

 あれは先輩の名前の最初の字『七』と、私の最後の字『次』を合わせて、『7次』。『第七次』ってことでそれを英語にして…。

 

 

 

 『7th』ってわけね。わかり辛い名前ね。

 

 

 

 そうですか? いい名前だと思いますけど。

 

 

 

 わかり辛いわよ。うん、どうやら今月はギリギリ黒みたいね。

 

 

 

 助かった〜。段々上向きだし、これで安泰ですかね?

 

 

 

 楽天的な発想ね。まあ、そうかもしれないけど。

 

 

 

 ガチャッ

 

 

 

 あのう、スイマセン。ここもう開いてますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハイッ、ようこそ『Bar 7th』へ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

FIN