sky 』

 

 その少女を呼んだ客は親子連れだった。

 

 食べ残しが転がっているテーブルを慣れた手つきで拭いていたウエイトレスの少女は、ただいま参りまーす、と大きな…しかし澄んだ可愛らしい声で返事をする。

 

 そして、汚れた布巾をそのテーブルに置き、客に見えないように小さく手を払うと、パタパタと小走りで親子のもとへと駆けていった。

 母親の手には伝票が握られている。

 

 会計なのだろう。

 

「お会計、失礼いたします」

 

 少女がレジカウンタに入ると、母親が少女に伝票を差し出す。

 

 それを笑顔で受け取ると、少女は伝票に書かれている内容を流れるようにレジに打ち込んだ。

 

 まるで軽快にステップを踏んでいるかのような、テンポ良く、かつ無駄のない入力を終えて少女は顔を上げる。

 

「お待たせいたしました。お会計は1470円になります」

 

 実際のところ大して待たせてはいないのだが、テンプレートに則り金額を読み上げた。

 

 ミートソーススパゲティと野菜サラダ、アイスコーヒー、オレンジジュース、お子様ランチ。それにチョコレートパフェ。

 

 これだけの量を注文してこの金額なのだから、この店は本当にお財布に優しいなぁ…とレジを打つたびに少女は思う。

 

 もっとも、だからこそ今ここで接客出来る要員が店長と少女しか居ないわけなのだが。

 

 本当はもうひとり接客要員のアルバイトがいるが、今日は来ていない。

 

 一月ほど前から「今日は休む」と宣言していたので、今頃はどこかを遊び歩いているのかもしれない。

 

 母親は伝票を見てあらかじめ用意していたと思われる1470円ぴったりの代金をレジカウンタの上の受け皿に載せる。

 

 少女は金額を丁寧に確認してレジスターに入れ、ありがとうございました、と嫌味なくぺこりとお辞儀をした。

 

 子供の手を引いて店を出る母親を見送り、最後にもう一度「ありがとうございました」と親子の背中に笑いかけ……そして、少女は目の前の壁に掛けられている時計を見上げた。

 

 午後の2時10分。お手軽な値段の昼食を求めて来店した客も次第に減る時間帯。

 

 店内には空いているテーブルが目立つようになってきた。

 

 お昼時を過ぎれば、あとしばらくは遅い昼食を求める客が時折来店する程度。

 

 基本的には勤務時間内でありながらもちょっとした休憩のようなひとときを過ごす事になる。

 

 もちろん、少女も例外ではない。

 

 レジカウンタの影で制服の皺を伸ばすと、少女は静かに息を吐いた。

 

 お昼時の混雑で張り詰めていた気持ちがゆっくりと解けていくのが分かる。

 

 今までは気付く事すらも出来なかった、店内に僅かに残る料理の匂い。

 

「……そういえば、私もお昼まだだったなぁ」

 

 少女は眉をハの字にして小さく呟く。

 

 きゅるるる。

 

 そして間髪いれず、少女のお腹が切なげな鳴き声を漏らした。

 

 少女は慌てて両手でお腹を押さえると、頬を真っ赤に染めて店内をきょろきょろと見回す。

 

 目に付くのは空いたテーブルばかり。

 

 奥に一つだけ、若いスーツの男性が席についているテーブルがあったが、当の男性は何かを書いているのか、食い入るようにテーブルを見つめたまま右手を忙しなく動かしていた。

 

 この時間帯にはいつも同じ場所に座って書き物をしている、ある意味常連ともいえる男性なのだが、幸い少女のお腹の虫の鳴き声は男性の耳に入っていなかったようだ。

 

 あるいは、耳に入っていても気にしていないだけなのかも知れないが。

 

 少女はお腹をぎゅっと押さえたまま、ほっと息を漏らした。

 

 ウエイトレスは食事時が一番の稼ぎ時であり、故に昼食や夕食は一般的な時間帯には食べられない事が多い。

 

 自分のお腹が空いている時に他人の食事を眺めてなければいけないというのはもはや拷問でしかないのだが、いざ食事時になると忙しさのあまり空腹も忘れてしまうのはある意味幸運と言えるかも知れない。

 

 もっとも、それは忙しい時間帯だけ。

 

 食事時が過ぎれば、少女の中で無意識のうちに押さえ込んできた腹の虫がゆっくりと活動を再開するのだ。

 

 そう、今のように。

 

「今ならお客さんも少ないだろうし、休憩を入れようかな…」

 

 店長は客が引き始めたところを見計らい、少女よりも少しだけ早く休憩室に入った。

 

 そろそろ、交代しても良い頃だろう。

 

 お腹の虫に、そして自分自身に栄養を与えなければ。

 

 少女は奥の席に座っている男性を見る。

 

 相変わらず書き物に集中しているようで、少女を呼びつける様子は無さそうだ。

 

 迅速に引継ぎをすれば、問題なく休憩に入る事が出来るだろう。

 

 少女はそう思い、休憩室に向かおうとしたその時。

 

 

 からーん、からーん。

 

 

 店の入口に付けられたベルが鳴り響く。

 

 先程の男性が外に出たとはさすがに考えられないので、おそらくは遅い昼食を摂りに来た客か。

 

 ううっ、こんな時に…っ。

 

 内心毒づきながらも、少女は全ての感情を笑顔の奥に隠して振り向いた。

 

「いらっしゃいませーっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男性はその音を聞くと、それまで動かしていた手を止め、左腕に付けている腕時計を見やる。時刻は二時十分前。それから、今入ってきた客の顔を見る。

 

 遅かったな、と心の中で呟く。だが、約束していた時間は二時。遅いという事はない。むしろ早いほうだろう。

 

 単に、男性が早く来すぎていたというだけの話だ。それで遅いというのは、少々自分勝手だろう。

 

 今入ってきた客は、お一人様ですか?と訊ねる少女に答えず、店内を見回す。それから奥を―――つまり、男性が居る方向を見ると、対応に困っている少女に笑いかけ、待ち合わせている人が居るから大丈夫だよ、と口を動かした―――のが、見えたわけではないが、大方そのように話したのだろう。

 

 それからまっすぐにこちらに向かってきて、手を上げながら破顔した。

 

「やあやあ、待たせてしまったみたいだね」

 

「いえ、それほどではありません。単に私が早く来すぎていたというだけの話です」

 

「いつも通りか。…まあ、君に関しては遅刻なんて心配していないけれど。ところで、いつから居たんだい?」

 

「一時からです」

 

「ほう……あのかわいいウェイトレス目当てかな?この時間、彼女一人しか居ないみたいだし」

 

「…………」

 

 無言でにらみつける。それから、溜息をついて口に出した。

 

「そのかわいいウェイトレスに注文したらどうです?注文も無しに居座っていては、追い出されてしまいます」

 

「…うまくかわしたね、長瀬君」

 

 当たり前だ、と思う。というか、この店で待ち合わせるたびに同じことを言われていては、いい加減かわすということを覚えてしまう。最初はむきになって答えたものだ。

 

 もっとも、そういうとまたまた、照れちゃってなどといわれ、からかわれ続け、ますますむきになって答えると、途端に「さて、仕事の話をしようか」、などと本題に入るのだ。正直に言おう。ものすごく疲れる。

 

「すみませーん!」

 

 しかし、注文を取るのが少々遅かったようだ。当のウェイトレスは、休憩に入ってしまったようで、代わりに店長と思しき男性が注文を取りに来る。

 

「…ご注文ですか?」

 

「ホットのコーヒーを一つ。砂糖三本付けて。ミルクはいらない」

 

「かしこまりました」

 

 残念そうな表情を浮かべ、それでもいつもの注文をする。

 

 砂糖を三本も入れたコーヒーの味を想像する。…ものすごく甘そうだった。ブラックのコーヒーを口にする。やっぱり、コーヒーはそのままが一番だ、と頷く。飲みやすい温度になっていた。

 

「…よくそんなに苦いものがのめるね。長瀬君」

 

「あなたが甘党なだけです。よく砂糖を三本も入れた甘いコーヒーが飲めるなと感心しています」

 

「言うようになったね。初めて会った頃の君の初々しさはどこに」

 

「……初めから何も変わっていはいませんが。いつ私があなたに初々しくしましたか」

 

 などと騒がしく話をするうちに、コーヒーが運ばれてくる。

 

「熱いので、ご注意下さいませ」

 

 言って、音も立てずにカップとカップ受けとなっている皿を置く。その皿には、三本の砂糖が添えられていた。嬉々として砂糖を三本開け、同時に入れる。コーヒースプーンを持ってくるくるとかき回す。ざりざりした感触が無くなるまでじっくりとかき混ぜ、それからコーヒーカップを持って香りを楽しみ、一口飲んだ。

 

「ん〜、相変わらずこの店のコーヒーは美味しい」

 

「………」

 

 天敵を見るような目で、そのコーヒーを飲む男性を見る長瀬。

 

「さて。それじゃあ、仕事の話をしようか。原稿…プロットは出来上がりましたか?長瀬和人先生」

 

 途端に、今までの軽い空気はどこへやら、仕事をする人間へと空気が変貌する。

 

「はい。…こちらに。プロットの一つです」

 

 先ほどまで書いていたものではなく、カバンの中に入れていた原稿を取り出す。それはファイルの中に閉じられていて、くしゃくしゃにならないようになっていた。その数、およそ百枚。一枚四百字の原稿用紙に、綺麗な字で書かれていた。

 

 その原稿を、ものすごい速さで読み進めていく。

 

 遅れたが、ここで彼らの素性と関係を説明しよう。

 

 小説家である長瀬和人と、編集者である水谷浩介。小説家とその担当編集者という関係だった。

 

「……つまらないね。展開が普通すぎる。王道なのはいいけど、もう少しひねってくれなくちゃ」

 

「そういうと思いまして。…まだ完成していないのですが、こちらを」

 

 いいながら、長瀬は水谷に五十枚あまりの原稿を渡す。一番最後の原稿を見ると、確かに途中で止まっていた。

 

「未完成のプロットか…君らしいね。いつも、二つ以上のプロットを作ってくる。一つは完成していて、もう一つは未完成のプロットを」

 

 そちらも一枚わずか十五秒というペースで読み進め、あっという間に読み終えた。

 

「……面白いね。こっちは」

 

「ありがとうございます」

 

 素直に礼を言う。

 

「でも、まだ書いている途中なんだろう?いつこのプロットは完成をするんだい?」

 

「三日あれば」

 

「…OK。締め切りに十分間に合う。前回、ちょっと締め切り破っちゃったからね。今回で取り戻してくれると、仕事が減ってありがたい」

 

「その節は、失礼しました」

 

「その分、売れたからいいけどね」

 

 コーヒーを飲む。打ち合わせはこれで終わりだ。まだプロットに関する打ち合わせの段階。しかも、プロットは未完成という状態だ。

 

「…次の人のところに行かないといけないから、そろそろ失礼するよ。長瀬君」

 

 何よりも、あのひょうひょうとした雰囲気からは分かりづらいが、敏腕編集者だ。彼が担当している小説家は、他にも五名だ。

 

 おそらく、自分以外の五人のうちの誰かのところに行ったのだろうと、頷く。再び時計を見てみた。時刻は、四時。そんなに長く話をしていたのだろうか。

 

 それから、気が付いた。

 

「……伝票、置いていったのか……また……」

 

 また自分が払わなければならないのか、そう思うとどっと疲れる。財布の中身を頭の中で確認し、それから財布を取り出して確認する。記憶していた通りの枚数だった。これならば、十分に足りる。

 

 伝票を持って、レジカウンタへと向かう。

 

「コーヒー二つと、ベジタブルサラダ一つで、お会計は420円となります」

 

 あらかじめ用意しておいた500円を渡す。

 

500円お預かりいたします。80円のお釣りとなります」

 

 受け取り、レシートを財布の中にしまって店から出て行く。

 

「ありがとうございましたーっ!」

 

 元気のいい声に送り出され、長瀬は店から出る。それから図書館へと向かった。小説を書くための資料を探すためだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 資料を調べ、プロットを書き上げるためのデータをそろえる事が出来た。その結果に満足しながら帰っている途中に、携帯電話がぴりりとなった。初期設定のまま、流行の着メロや着歌に変えていない為である。

 

 何だろうと思い、サブ画面に映るナンバーを確認する。表示されていたのはナンバーではなく、『実家』と書かれているものだった。

 

 こんな遅くに珍しいな、そう考え長瀬は携帯電話の通話ボタンを押す。

 

「もしもし」

 

『和人か……』

 

「父さん?…どうかしたの?」

 

『母さんが……』

 

「母さん?母さんがどうかしたのか?父さん!」

 

 すすり泣くような声が聞こえる。心臓がどくどくと動機を始める。まさか、まさか、まさか。そんな思いがぐるぐると頭の中を回転し始める。

 

 病院に入院したという知らせもなければ、倒れたという連絡も聞いていない。全くの健康体でいるはずだ。

 

『……亡くなったんだよ……和人……』

 

「……え?」

 

 それを聴いた瞬間、何を言われたのか、理解することを脳が拒否した。

 

 果たして今日はエイプリルフールであったろうかと本気で考えるほどに、それはとても信じられない内容だった。

 

 だが、通話口から発せられた声は、それらの疑いの一切を許さないというほどに重く。

 

「…母さんが……?」

 

 死んだ……それを、頭が理解するまで、しばしの時間がかかった。

 

「…今すぐにそっちに向かうから」

 

 そうして、長瀬はそういうと、返事も聞かずに通話を切り、走るように駅へと向かった。カバンは半ば放り投げるようにして放ってしまったが、長瀬がそれに気が付く事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…長瀬君だったね、さっきの……?このカバンは、彼の……彼に何があったんだ?」

 

 拾い上げる。中身を見るような無粋なまねはしない。自分が編集者であり、長瀬和人という一人の小説家を担当しているといえど、カバンの中身を勝手に見ていいはずがないのである。

 

「仕方がないね……カバンを預かっていること、彼に伝えないといけないな」

 

 言って、携帯電話を取り出し、彼の番号にかける。

 

『おかけになった番号は、電波の届かないところにいるか、電源が切られています』

 

「…あら。…まあ、いいか。後でもう一度かけなおそう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駅に到着してから、カバンを放り出してしまったことに気が付く。財布はそのカバンの中だ。更に良く考えてみたら、電車賃すらない。

 

 こんなときに、帰ることが出来ないわけだ。

 

「……まだ、母さんには謝っていないのに……」

 

 駅に設置されているプラスチックのベンチに、長瀬は空を仰ぐようにだらしなく座る。

 

 その目はさながら死んだ魚のようで。どうしていいか分からず、途方にくれた少年のようでもあった。

 

 当り散らしたい衝動に駆られたりもする。しかし、そうした衝動はすぐになくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれほどの時間が過ぎただろうか。気が付けば、ポケットの中に入れている携帯電話が鳴っている。

 

 緩慢な動作でディスプレイを見ると、『水谷浩介』とあった。

 

「…もしもし」

 

『随分と暗い声だね、長瀬君。…何があったのかは知らないけど、まあいいや。君のカバン預かってるよ。僕の家の住所は知っているでしょう?』

 

「…すみません。締め切り、今回も間に合いそうにありません」

 

『なんだい、藪から棒に。締め切り今回も守れないって、それじゃあいつまでに出来上がるの?』

 

「分かりません」

 

『……理由は聞かないでおこうかと思ったけれど、仕事に関わる話だ。何があったのか、聞かせてもらうよ』

 

 間が空いたのは、やれやれ、と溜息でもついたのだろうと、長瀬は妙に冷静に考えた。

 

 それから、長瀬は嫌に冷静に理由を口に出す。

 

「…母が、亡くなったと耳にしました…」

 

『……ふむ。分かったよ。そういう事情なら、ね。本当だったら、の話だけど』

 

 本当だったら。

 

 それと聞いて、長瀬はそんなバカな、と考える。自分の父親は、珍しい、のかは分からないが、ともかく厳格な人で、嘘をつくという行為を最も嫌っていた。もちろん時に嘘をつくことの必要性は理解している人だ。でなければ、仕事が続けられるわけがないからだ。

 

 普通のサラリーマン。英語できちんと言うならば、ビジネスマン。やり手というわけでもない。それでも、長瀬は父を尊敬している。

 

 だから、嘘を吐くはずがないのだ。

 

『ともかく、カバンを取りに来てよ。帰郷するのにも、準備が必要だろう?』

 

「…はい」

 

 いつもの喫茶店の前で待ってるからね、という声がして、通話が切れる。つーっ、つーっ、という音がむなしく、通話口から流れ、やはり緩慢な動作で通信回線を切断する。

 

 立ち上がり、長瀬はふらふらと、水谷浩介の待っているという喫茶店へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やあ。待ってたよ。長瀬君」

 

 到着したその瞬間に、そんな声に迎えられる。

 

「はい。君のカバン。……しかし残念な話だよ、長瀬君。もう終電も出ちゃった時間だ。君が実家に帰るのは、もう今日は無理だね」

 

「そのようですね…」

 

「…やれやれだね、全く」

 

 溜息を疲れる。気分がいらっとする。こいつなら、殴ってもいいんじゃないだろうか。そんな考えが頭の中をよぎり、そしてそれが頭の中を支配し始める。

 

 そうだ。人の気も知らないで、いつもみたいにへらへらしているやつなど、殴っても構わないだろう。

 

「重症だね。君はいつから無責任に当り散らすようになったんだい?」

 

 途端、そんな声が投げかけられる。見ると、水谷の表情には、いつものひょうひょうとした笑みが浮かんでいない。至極真面目な表情。あるいは、仕事をするとき以上に真面目な表情になっているといっても過言ではない。

 

「…お勧めのバーがあるんだけどね。今日は奢ってあげるから、着いてきてよ」

 

「……はい」

 

 さほど魅力的な誘いだとは思わなかったが、長瀬は彼に着いていくことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 繁華街をしばらく歩く。車は時折走る。昼間と比べればの話だ。昼間はいつだって渋滞している状態だ。少なくとも、長瀬の故郷と比べれば、車の交通量が半端ではなく多い。

 

 今は夜だが、それでもやはり車の走る量は、長瀬にとっては多く感じられる。

 

 うっとうしい。そう思えてくる。

 

「こっち」

 

 と、水谷が立ち止まったところに、重たそうな扉が構えられていた。それを押して入る。見た目だけではなく、実際にも重いらしい。ぎい、という音がして扉が開かれる。同時に、あちら側で鐘の鳴る音が聞こえてくる。

 

「いらっしゃいませ」

 

「ほら、何してるの、中に入ってきなよ」

 

 手招きされる。されたので、中に入った。

 

 ばたん、という音は立てない。そこはサービス業を営む店の一つ。近所迷惑になる音が極力出ないようにしてあるわけだ。

 

「本日は、何をおのみになりますか?水谷様」

 

「ああ、今日は僕は飲まないよ。土方さん。…まあ、付き合いで飲むだろうけど」

 

 カウンターの席に座る。そして、先に座った水谷の右隣に座る長瀬。

 

「…ご注文は、何になさいますか?」

 

「……何でも……」

 

 土方というらしいバーテンダーはしばらく長瀬の様子を見る。それから、おもむろにトマトとビールを取り出す。トマトを搾り、絞ったトマトを、スプーンとフォークが一つになったような変わったスプーンを比較的大きなグラス―――というより、ジョッキに近い物―――に入れる。それからビールを入れる。下手にスプーンを動かさず、遅すぎず早すぎず、入れる。

 

「どうぞ。レッドアイです」

 

「……いただきます」

 

 一口飲む。トマトの甘みとビールの苦味が程よく交じり合ったような味。…そして、それはものすごく気持ちが落ち着く味だった。

 

 どうやら自分はものすごく動揺していたらしいことを自覚する。自覚してから、長瀬はぶるぶると手を震わせた。

 

 どうしようもなく、涙が流れ始める。

 

「…ちくしょう……なんで、死ぬんだよ……母さん………」

 

 しばらく、長瀬は肩を震わせて泣いた。それを、ただ、水谷と土方は黙って見守っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思い出されるのは、彼がまだ高校から大学に上がろうとしていたときのこと。

 

 趣味は特になかった。だが、昔から作文が上手いと言われてきたし、実際に読書感想文では金賞を取ることもあった。だから漠然と自分の将来は小説家か、あるいはそれに類する職業に就くものだと考えてきた。

 

 このことに関して、ぽつりと親に言ったことがある。

 

「小説家になりたい」と。

 

 勿論親は本気だとは取り合わなかったし、当時の自分にとってもまた本気ではなかったように思う。

 

 しかし、だ。暇つぶしに書いていた小説を母に見られた。それはいい。人のノートを勝手に見るなと憤ったことも、まあいいとしよう。

 

 問題は、それに関して、母が言った台詞だ。

 

「こんなくだらないことをやらないで、勉強をやりなさい。だから成績が悪いのよ」

 

 ふざけるなと思った。黙れとも思った。言われるほど成績が悪いわけではない。いいとも言いがたかったが、ともかく小説を書いてきたことと成績がさしてよくもなく、悪くもないこと。一体何の関係があると。

 

 もっとも、この程度では母に対して「うるせえ」というだけで事足りただろう。問題は、この後だ。

 

「あんたの部屋にあった小説、捨てたわよ。勉強の邪魔になるんだから」

 

 これにはさすがに切れた。あの中には大事にしていた小説が何冊かあったのだ。慌てて見に行けば、確かにごっそりと本棚から小説という小説がなくなっていた。ともかく、まだ生まれてより三十年も過ぎていないが、その三十年間で一番の大喧嘩になった。

 

 それ以来、母とは気まずくなり、父ともそれが関係してやはり気まずくなった。結果として、一人暮らしに踏み切ることにしたわけである。

 

 最低限の連絡方法だけ知らせておいて、大学を卒業。その後、バイトを行いながら小説を書いていた。

 

 碌でもないという小説家になることで、臍をかませようと考えたわけだ。

 

 そうして、今に至る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……うう………母さん……御免」

 

「…お酒に弱かったみたいだね…それとも、相当に参ってたのかな?」

 

 眠り、泣いている長瀬和人を横目に、水谷浩介は自分の酒を頼む。

 

「ウイスキーでも頼むよ。あまり高くないの。…シングルモルトの水割りでも」

 

「かしこまりました」

 

 程なくして水割りが出される。アルコール度数が水谷にとってはちょうど良く、三口で飲み終える。からん、とグラスの中で氷が音を立てた。

 

「…さて……身内の不幸に関しては、僕は何も言う事は出来ないねえ……愚痴に付き合う程度かな」

 

 唐突に口にしたその言葉に、答えるものはいない。当然だ。これは単なる独り言。あるいは、自分に言い聞かせているのかもしれない。

 

「…締め切りの延長、編集長に頼もうかな……僕の一存じゃあ、難しいかもしれないし」

 

 携帯電話を取り出し、電話をかけようとして、やめた。時刻が時刻だ。明日の朝にかけるべきだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、水谷は長瀬をつれて自宅へと向かう。すっかりと眠ってしまっている彼を運ぶのは、中々に大変だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。電車に乗り、席に座る長瀬の姿が確認できた。

 

 俯き、ものすごく暗く、明るく話しながら入ってきた二人組みの女子高生もその姿に声を潜めてしまうほどだった。

 

 それほど、暗いオーラを発していたわけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(あれ……いつものお客さんだ…)

 

 その二人組みの女子高生のうちの一人が、長瀬の姿に気が付く。喫茶『sky』にいつも来てくれているので、覚えているのだ。とはいえ、話をした事はない。彼が来る時間が、二人なら楽だけど一人だと少しきついか、という時間に来るからだ。

 

 休みの日は特にそうだ。

 

「どうしたの?」

 

「なんでもないよ?」

 

「なんで疑問系なのよ」

 

「何でだろう?」

 

 などと話をする。いつもの会話だ。既に約束事と化しているやりとりの一つに過ぎない。ともかく、それきり、彼女が長瀬のことを気にかける事は、ほとんどなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 故郷に到着する。通夜に間に合わなかったのは残念だった。が、まもなく葬式が行われるらしい。ともかく、家へと向かい、その扉を叩いた。

 

 がら、と扉が開かれる。

 

「父さん…」

 

「…和人か。入ってきなさい」

 

「…はい」

 

 頭を下げ、入る。久方ぶりに入る家は、しかしなにも変わっていなかった。

 

 荷物を昔の感覚で、自分の部屋に置きにいく。意外と綺麗だった。あるいは、自分がこの家を出て行ってからなにも変わっていないのかもしれない。

 

 荷物を置き、居間へと向かう。

 

 ソファに座る父と向き合うように、長瀬もまたソファに座った。

 

「……母さんは、何で…」

 

「…交通事故だ。相手の運転手はよっていたようだ。あまり速度は出ていなかったようだが……打ち所が悪かったのかもしれない。そのまま、母さんは死んだよ」

 

 つかれきったように、語る。白髪が増えたな、と他人事のように思える。まるで信じられない。これが現実であると。

 

 しかし、理性はこれは現実だと語る。多分に理性を重要視する傾向に長瀬はあるが、しかしそれでも信じたくないのだ。

 

「…お前のかく小説を、母さんは楽しみにしていたよ……お前の書いた本は、五年前にデビューしてから、ずっと買って読んでいたようだ」

 

 

「母さんが?」

 

 軽く目を見張って、長瀬は返した。

 

「当たり前だ。…一人前とはまだいえないが、しかしお前の小説には思いが込められているとも…」

 

 心配してくれていた上に、褒めてもくれていた。親の心子知らず、とはまさにこのことである。

 

 電話の一つでも、いいや、手紙でも、あるいは年賀状でも送ればよかったのに。そうしなかったことが非常に悔やまれる。

 

「他には、母さんはどんなことを……」

 

「あの子はどうしてるんだろうねえ、ちゃんとした食事を摂っているのか、服もきちんと洗濯して、アイロンをかけているんだろうかとか、そういったことを心配していたよ」

 

「…そうか。………そうか……」

 

 もはや、何も言う事は出来なかった。ただ静かに、長瀬は泣いた。申し訳なさと、悲しさと、…そして、喧嘩別れしたこんな馬鹿息子をずっと心配してくれていたことによる、嬉しさも、言葉では言い表すことも出来ないさまざまな感情によって、長瀬は泣いた。

 

 言葉にならず、ただ、心の中で、ひどいことを言って御免なさいと、心配してくれてありがとう、と繰り返し、繰り返し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 法要が済み、長瀬は長々と休暇をとるわけにも行かなかったので、すぐに戻ることとなった。

 

「もう行くのか?」

 

「ああ。…母さんにさ、胸を張っていいたいから。僕は、一人前とはいえないかもしれないけれど、それでも、小説家として頑張っているよって」

 

「そうか……なら、行って来い。和人」

 

 多くを語る必要はなかった。息子が、一回り大きく、大人として成長した。そのことを知ったのだから、何も言うことなどなかった。ただ、お前の帰ってくる場所はここだぞ、と口にした。辛くなったら、帰って来てもいい、と。

 

「行ってくるよ。父さん」

 

 その父の気持ちを理解し、やはり多くを語らず、長瀬は父に返した。それから背を向け、歩き始めた。駅に向かって、一歩ずつ。

 

 大きく見える息子の背中を、頼もしく感じながら、息子を見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、いつもの喫茶店。

 

「いらっしゃいませ〜」

 

 いつもの声に迎えられる。何気ないことだが、随分久しぶりに日常に戻ってきたような気さえする。ほんの一週間のことなのだが。

 

「お一人様ですか?」

 

「はい」

 

「喫煙席になさいますか?」

 

 分かっているだろうに、それでも聞いてくる。たまに気になるが、彼女は単にテンプレートに則って行動しているだけだろう。それでもスマイルを浮かべることを忘れない。気分は悪くない。むしろ気持ちがいい。

 

「禁煙席で」

 

「かしこまりました。席にご案内いたします」

 

「ああ、それから」

 

「はい」

 

「もう一人来るかもしれないから」

 

「分かりました」

 

 本当にいつものやり取り。こんな何気ないことでも嬉しくなるのは何故だろうか。

 

 ともかく、窓に近い席に案内され、いすに座り、それからベジタブルサラダとコーヒーを頼む。その他にも軽い食事を頼んだ。

 

 テーブルにいつもの仕事道具を広げる。最近購入したノートパソコンがあるが、あれはキーの配置を覚えてからではないと話にならないことが分かった。当面はこうして原稿用紙に手で書かなければならないだろう。

 

 そうして、しばらく没頭していると水谷浩介がやってくる。席に座るや否や、コーヒーと砂糖三本を注文する。

 

「一週間ぶりかな、長瀬和人先生」

 

「そうなりますね」

 

「もっと落ち込んでいるかと思っていたけど、大丈夫みたいだね」

 

「ますます手が抜けなくなったことを知っただけです。…その、死んだ母が、生前応援してくれていたそうなので」

 

 笑って、和人は答えた。その笑みを、水谷は見て、ただ彼は頷いた。

 

「それじゃあ、今までは手を抜いていたのかい?」

 

「抜いてはいません。いつも以上に、気合を入れて書かなければならないだけです」

 

「気負うのは結構だけどね。たまには肩の力を抜かないと」

 

「大丈夫です。あなたが僕の肩の力を抜いてくれますから」

 

「…どういう意味、それ」

 

「あなたの相手をするのは疲れますが、いい気分転換にもなる、というだけの話です」

 

「…言うようになったねえ、長瀬君も」

 

 そうして、甘いコーヒーをすすった。

 

「音を立てるのはマナー違反です」

 

「…分かったよ、全くもう」

 

 肩身の狭い思いをして水谷は座る。ところで今日は打ち合わせのある日ではないが、たまにこうして現れることが往々にしてあるので、先ほど長瀬はもう一人来るかもしれない、といったわけである。

 

 まもなくして「それじゃあ、締め切り一週間伸びたから、一週間で完成させてね」などと言い残して去っていった。伝票を残して。

 

「あの人は、全く…」

 

 その伝票を手にとって、長瀬は溜息をついた。それから、気を取り直して仕事に取り掛かる。

 

 締め切りが一週間延びた。締め切りが一ヵ月後である、ということに変化はなく、時間の余裕は以前とまるで変わらないというわけである。一週間伸ばすために、水谷がどれほど駆け回ったのか、長瀬は知らない。水谷は決して語ろうとしないだろう。だから、長瀬のやることは一つだけだ。締め切りまでに作品を完成させること。

 

 一ヶ月で時間が足りるかどうかは分からない。それでも、締め切りに間に合わせないと、いろいろな方面に迷惑をかけることになるな、などと考えながら、長瀬は窓の外を見上げた。

 

 窓の外には、突き抜けるような青い空が、今日も広がっていた。