sky 』

 

 その少女を呼んだ客は親子連れだった。

 食べ残しが転がっているテーブルを慣れた手つきで拭いていたウエイトレスの少女は、ただいま参りまーす、と大きな…しかし澄んだ可愛らしい声で返事をする。

 そして、汚れた布巾をそのテーブルに置き、客に見えないように小さく手を払うと、パタパタと小走りで親子のもとへと駆けていった。

 母親の手には伝票が握られている。

 会計なのだろう。

「お会計、失礼いたします」

 少女がレジカウンタに入ると、母親が少女に伝票を差し出す。

 それを笑顔で受け取ると、少女は伝票に書かれている内容を流れるようにレジに打ち込んだ。

 まるで軽快にステップを踏んでいるかのような、テンポ良く、かつ無駄のない入力を終えて少女は顔を上げる。

「お待たせいたしました。お会計は1470円になります」

 実際のところ大して待たせてはいないのだが、テンプレートに則り金額を読み上げた。

 ミートソーススパゲティと野菜サラダ、アイスコーヒー、オレンジジュース、お子様ランチ。それにチョコレートパフェ。

 これだけの量を注文してこの金額なのだから、この店は本当にお財布に優しいなぁ…とレジを打つたびに少女は思う。

 もっとも、だからこそ今ここで接客出来る要員が店長と少女しか居ないわけなのだが。

 本当はもうひとり接客要員のアルバイトがいるが、今日は来ていない。

 一月ほど前から「今日は休む」と宣言していたので、今頃はどこかを遊び歩いているのかもしれない。

 母親は伝票を見てあらかじめ用意していたと思われる1470円ぴったりの代金をレジカウンタの上の受け皿に載せる。

 少女は金額を丁寧に確認してレジスターに入れ、ありがとうございました、と嫌味なくぺこりとお辞儀をした。

 子供の手を引いて店を出る母親を見送り、最後にもう一度「ありがとうございました」と親子の背中に笑いかけ……そして、少女は目の前の壁に掛けられている時計を見上げた。

 午後の2時10分。お手軽な値段の昼食を求めて来店した客も次第に減る時間帯。

 店内には空いているテーブルが目立つようになってきた。

 お昼時を過ぎれば、あとしばらくは遅い昼食を求める客が時折来店する程度。

 基本的には勤務時間内でありながらもちょっとした休憩のようなひとときを過ごす事になる。

 もちろん、少女も例外ではない。

 レジカウンタの影で制服の皺を伸ばすと、少女は静かに息を吐いた。

 お昼時の混雑で張り詰めていた気持ちがゆっくりと解けていくのが分かる。

 今までは気付く事すらも出来なかった、店内に僅かに残る料理の匂い。

「……そういえば、私もお昼まだだったなぁ」

 少女は眉をハの字にして小さく呟く。

 きゅるるる。

 そして間髪いれず、少女のお腹が切なげな鳴き声を漏らした。

 少女は慌てて両手でお腹を押さえると、頬を真っ赤に染めて店内をきょろきょろと見回す。

 目に付くのは空いたテーブルばかり。

 奥に一つだけ、若いスーツの男性が席についているテーブルがあったが、当の男性は何かを書いているのか、食い入るようにテーブルを見つめたまま右手を忙しなく動かしていた。

 この時間帯にはいつも同じ場所に座って書き物をしている、ある意味常連ともいえる男性なのだが、幸い少女のお腹の虫の鳴き声は男性の耳に入っていなかったようだ。

 あるいは、耳に入っていても気にしていないだけなのかも知れないが。

 少女はお腹をぎゅっと押さえたまま、ほっと息を漏らした。

 ウエイトレスは食事時が一番の稼ぎ時であり、故に昼食や夕食は一般的な時間帯には食べられない事が多い。

 自分のお腹が空いている時に他人の食事を眺めてなければいけないというのはもはや拷問でしかないのだが、いざ食事時になると忙しさのあまり空腹も忘れてしまうのはある意味幸運と言えるかも知れない。

 もっとも、それは忙しい時間帯だけ。

 食事時が過ぎれば、少女の中で無意識のうちに押さえ込んできた腹の虫がゆっくりと活動を再開するのだ。

 そう、今のように。

「今ならお客さんも少ないだろうし、休憩を入れようかな…」

 店長は客が引き始めたところを見計らい、少女よりも少しだけ早く休憩室に入った。

 そろそろ、交代しても良い頃だろう。

 お腹の虫に、そして自分自身に栄養を与えなければ。

 少女は奥の席に座っている男性を見る。

 相変わらず書き物に集中しているようで、少女を呼びつける様子は無さそうだ。

 迅速に引継ぎをすれば、問題なく休憩に入る事が出来るだろう。

 少女はそう思い、休憩室に向かおうとしたその時。

 

 からーん、からーん。

 

 店の入口に付けられたベルが鳴り響く。

 先程の男性が外に出たとはさすがに考えられないので、おそらくは遅い昼食を摂りに来た客か。

 ううっ、こんな時に…っ。

 内心毒づきながらも、少女は全ての感情を笑顔の奥に隠して振り向いた。

「いらっしゃいませーっ」

 

 入ってきたのは手に大きな書類袋を持った青年だった。

(……あ)

 少女―穂積紗代(ほづみさよ)―は思わず声を出しそうになったが、何とか踏みとどまった。

 青年はどうやらその紗代の様子に気づかなかったようで、青年は暫く無言で周りを見渡す。

 暫くして青年は若いスーツを着た男性の座っている席に向かって歩き出した。

(……あいつ、今日もあの人に挑む気なのかしら……ほんっと、相変わらずよね…)

 紗代は心の中で呟いた。

 どうやら紗代は青年のことを知っているようだった。

(……とと、いけない。お水を持ってこなきゃ)

 紗代は自分の仕事の事を思い出し、再びカウンタの所に歩いていった。

 紗代が水を汲み、運ぼうとした、その時だった。

「…………だな」

 何やら、声が聞こえた。どうやら男性の声のようだ。

 少し遠くて聞きづらい。

「…んな、こ……も……回目で…………」

 今度は青年の声のようだ。

 こちらも、少し遠くて聞きづらい。

 だが、紗代はその会話を聞いて、深い溜め息をつくのだった。

 会話は聞きづらいが、一体どんな内容なのか、紗代には分かっていたからだ。

 いや、予想していた、と言った方が正しいのか。

 そして暫くして、男性は席を立ち上がり、そしてやがて店を出て行った。

 静かに閉じられる扉を見ながら紗代は予め焼いておいた二枚の食パンをオーブンから取り出し、一人の青年だけが取り残された席に持っていった。

「はい悠斗。通算29連敗おめでとう」

 紗代は微笑み、しかし皮肉を言いながら青年―伊野塚悠斗(いのづかゆうと)―に先ほどの食パンを一枚、水を一杯差し出した。

「……どうもありがとうございます、へっ」

 悠斗も同じく微笑み、しかし顔をかなり引きつかせながらその食パンを口に運んだ。

 紗代もその場で立ちながら食パンを口に運ぶ。

「というか紗代、なぜお前まで食パンを頬張る」

「別に良いでしょ。ちょうど昼食を食べようとしたらあんたが着たんだもの。ま、一枚だけでも私のおなかは満足するけどね」

「そうじゃなくてせめて食べるなら休憩室とかに入ってから食べろ。ここじゃ外の誰かに見られてしまうだろ」

「別に良いわよ。私は一気に頬張るし、それに食べていたところで誰も注目しないわ」

「相変わらず気楽だなぁ、お前」

「褒め言葉として受け止めておくわ」

 紗代は口元に手を置きながらふふっと笑った。

 その紗代の様子に悠斗は溜め息をつき、そして再び食パンを食べ始めた。

 その様子を見ながら紗代は悪戯っぽく言った。

「あ、それから食パンはローンは利かないわよ。ちゃんと一括でね。一切れ100円。合わせて200円。水代合わせて300円」

「ちょっと待て。俺はどこのガキだ。それから何だそのぼったくりのような金額は。そしてなぜお前の食パン代も入っているんだ。さらになぜ水代まで入ってる」

「まあまあ細かいことは気にしない」

「細かいですますなよ」

 そんな二人の漫才みたいなやり取りが数分続いた後、悠斗は顔を引き締めて言った。

「……すまんな、紗代。いつもいつも世話を焼かせて」

 その悠斗の一言に、紗代は溜め息をつきながら、そして少し微笑んだ。 

「別に気にしないの。一応、あんたとは幼馴染だしね。それに、今更そんな事を言われても逆に困るわよ。あんたのその“夢追いの馬鹿”は昔からだし、気にしたら負けよ」

「夢追いの馬鹿…って、お前の命名じゃないか。そんな事お前しか呼ばないっての」

「あら? あんたの事を的確に表している良い言葉だと思うけど」

 紗代の冗談めいた言葉に悠斗は少し気が楽になった。

 すると、今度は紗代が口を開いた。

「それよりも、あんたは大丈夫なの?」

「何がだ?」

「あんたよ。もう既にあの人に挑むのはさっきも言ったけど29回じゃない。いちいち原稿代だって安くは無いでしょ?」

 紗代の言葉に、悠斗は少しばかり顔を伏せた。

「あんたが度を過ぎた夢追いの馬鹿ということは分かるけど、他の出版社の方が遥かにやり易いじゃない。わざわざそんなにこだわらなくても…」

「紗代、お前の言いたい事はわかるが、俺はあの人に賭けているんだよ。だから、俺がどれだけになろうとも、それも覚悟のうちだ」

「それはあの編集者さんがあんたの憧れの漫画家さんだったから?」

「まあ…な」

 紗代はそれを聞いてまた溜め息をつき、今度は心の底からの呆れ顔を見せるのだった。

 紗代もあの男性からある程度の話を聞いたことがあったのだ。。

 あの若いスーツを着た男性の事を。

 あの男性の名前は上埜啓次(うえのけいじ)。

 数年前に漫画家として活躍していたのだが、一年の漫画執筆の後突然編集者になったという。

 なぜ突然編集者になったのか、それまでは聞いた事はないが、その話を聞いている時の啓次の顔が少し寂しさを持った顔をしていた事をよく覚えていた。

「まあ、あの人がこの店に出入りしてるってあんたが聞いたときには本当にびっくりした顔をしていたわよね。あんたはあの人の執筆していたアクション漫画に憧れていたようだし」

 実は、啓次の書いていたただ一つのアクション漫画が、悠斗が夢追いの馬鹿になるきっかけになったのだ。

 その作品は、決して有名でなければ、TVアニメなどにされた訳でもない。

 だが、確実にその作品が悠斗の道を決める事になった。

「あの時は本当に驚いたわよ。あんなにも絵が下手だったあんたが、突然漫画家になる! って言い出したときには」

 紗代は思い出していた。

 数年前に悠斗が決意を口にした時の事を。

 最初のころはコマ割りどころか絵すら満足に書くことができなかった。

 それを悠斗は独学で一年を費やしてようやく上手な絵を書く事が出来たのだ。

 悠斗がそんなにも本気で物事に対して熱心にやるという事に紗代はとても驚いていた。

 いつもいつも中途半端で不真面目な悠斗がここまで本気でやるという事に。

 そして同時に紗代も…。

「私もいつか悠斗のように…って思ったのはこの時だったよね」

「ん? 何か言ったか、紗代?」

「ん、別に」

 紗代は悪戯っぽく微笑んだ。

 悠斗はその紗代の様子に少しばかり首をかしげながらも追求しない事にした。

「さて、そろそろ小休憩は終わりっと。悠斗はどうする?」

 紗代は悠斗の前に置かれた皿を片付けながら尋ねた。

「そうだな…今日の所はもうそろそろ引き上げるよ。とりあえずまた明日来る。もうすぐもう一本原稿が出来上がりそうなんだ」

「明日って…あんたもよくやるわね。さっき原稿代の事も言ったけど、ネタの方もそうポンポン思いつくものでもないでしょ?」

「でも、やってみなけりゃ始まらない」

「あんたは少しは立ち止まるということを知りなさい」

 またもや二人の漫才のようなやり取りの後、悠斗は食パン代を机の上に置き、そして店を出て行った。

「さて…そろそろまたお客さんが来る頃ね…。そろそろ仕込みをしておかなくっちゃ」

 紗代はそう言ってまた再びレジの方に戻っていった。

 そして、紗代の言っていた通り、この後にお客が数人来る事になる。

 そしてそれを皮切りに大量のお客が店に入ってきててんやわんやの大騒動のような時間になっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、時間は既に夜8時。

「ありがとうございましたー」

 紗代は最後の客を見送った後、業務スマイルを解いて気だるい表情をしながら門の前に掛けてあった「OPEN」の札を裏返しにして「CLOSE」にし、そして扉の鍵を閉じた。

「ふう…今日もようやく終わったなぁ…」

 紗代が休憩室の椅子にもたれ掛かって座っていると、隣から初老の男性が出てきた。

 この店の店長である。

「お疲れ様、紗代さん。今日もご苦労様だったね」

「いえ、とんでもないですよ。それに、今日はもう一人のアルバイトは休みでしたし、その分も働かなくちゃいけませんでしたし」

「ははは、相変わらずのしっかり者だね。君がそのままの調子で行ったら夢の実現ももしかしたら可能かもしれないね」

 店長の言葉に紗代は頬を掻きながら、少し顔を赤らめた。

 と、その時店長は何かを思い出したかのように手を合わせた。

「ああ、ところで門の前に誰かが待っているようだよ。何か青年のようだが」

「へ?」

 店長の言葉を聴いて紗代は腑抜けた声を出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で? 何であんたがここにいたの」

 紗代は悠斗をジト目で見ながら静かな夜の帰り道を歩く。

 先ほど店長が行っていた青年というのは悠斗の事だったのだ。

「いや、ちょっと画材が足りなくなって買ってきたんだよ、ほれ」

 悠斗はそういって手に持たれた袋を差し出す。

 その中には色々な画材道具一式がどっさりと入っていた。

「それで、ちょうどお前の店が閉店時だったことを思い出してそれで寄ったって訳だ」

「ふ〜ん」

 紗代は少し興味なさげに呟いた。

「それで? あんたはどうなの?」

「ん? なにが?」

「何がって、あんたの漫画の事よ。少しは進んだの?」

 紗代は悠斗の手に持たれた袋を見ながら言う。

 それに対して悠斗は頬を掻きながら言った。

「まあ、ぼちぼちって所かな。今度のは自信作になりそうなんだ。30回目はきっとばっちりだぜ」

「キリのいい数字で返り討ちにならないと良いわね」

 またいつもの様に軽快な漫才が繰り広げられている中、突然悠斗が空を見上げだした。

「悠斗?」

 紗代がその様子に何だろうとと思ったとき、突然悠斗が話し出した。

「俺はな…この空が好きなんだよ…とてもとても、この自由な空がな」

「?」

 紗代は、悠斗が一体何を言いたいのかさっぱり分からなかった。

 悠斗は変わらず話す。

「俺もな、こんな空のように自由に好きなように生きたいんだ」

「自由に…ね。何の話かいまいちピンと来ないけど、それがあんたのもう一つの原動力って事?」

「それは違う。誰かを憧れるのも、目標にひた向きに頑張るのも、それはそれぞれ自由なんだ。もちろん、あきらめるのもな」

「それがあんたの言う、空のように自由、って事?」

「そう。なんだ分かってるじゃないか」

「遠回し過ぎて分かりづらいわよ」 

 紗代はその時の悠斗の言葉を少し分からないながらも頷いた。

 その数分後の会話の後、2人は別れて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紗代の自宅。

「さて、と」

 紗代は机の上のノートに目を向けながら椅子に座る。

「それじゃ、今日も忘れないうちにメモっておかないと」

 そう言いながら紗代は開かれたノートに手馴れた感じでカリカリと書いていく。

「これでまた一歩夢に近づいた気がするわ。まあ気がするだけだけど」

 紗代は書きながら苦笑する。

 そこに書かれていたのは、紗代の夢、そして目標。

 彼女が自分の夢を、目標を忘れないように、彼女が毎日つけている日記だ。

「そういえば、あいつといつも一緒にいたのが、この行動を何年も続けている理由なのよね……」

 紗代は思い出していた。

 悠斗が夢に向かって歩き出した時の事を。

 悠斗が“夢追いの馬鹿”なった、その日の事を――――――。

 

 

「紗代、俺は漫画家になる」

 悠斗の突然の言葉に紗代は目を丸くした。

「は? あんた突然何変な冗談言い出してんのよ」

「残念だが俺は本気だ」

 紗代の流しの言葉も、悠斗の前では何の効果も成さなかった様だ。

「まずはこれを見てくれ」

 悠斗はそう言って一つの漫画を紗代に見せた。

「何、これ?」

「俺が漫画家になろうと思った直接の理由だ」

 紗代はその漫画をパラパラと見てみる。

 その漫画のタイトルは――――「空のように自由に」

 作者は――――「上埜啓次」

 ストーリーは、一人の少年が世界を自由に旅をしながら、立ち寄る場所で起こる事件を解決していくという作品だった。

 まるで、そのタイトルのsky―空―ように自由なそのストーリーに、悠斗は惹かれたのだろう。

「でもあんた、ただでさえ絵が下手なのに、漫画なんてどうやって書くつもりなのよ」

 そう、悠斗はお世辞にも絵が上手いとは言えない。

 それでどうやって漫画を描こうというのか。

 しかし、悠斗は―――。

「だったら、何回でも描いて描いて描きまくればいい」

 と、そう言い切った。

「ハッキリと言い切ったわね。でも、あんたに出来るの?」

「できるさ。努力をしていけばいつか出来るようになる」

 紗代の言葉にもハッキリと返した悠斗。

 

 

 悠斗が“夢追いの馬鹿”になった瞬間だった。

 

 

 そして、それから一年。

 悠斗は全くの言葉通りに自己流で我武者羅に絵を書き続けた。

 そして、その効果は確実に出ていた。

 最初は全く下手だった絵が、とても同じ人物が描いたとは思えないくらいに綺麗になっていた。

 

 紗代はかなり上達した悠斗の絵を見て、

「なんと言うか……呆れた、もといすごい集中だわね」

 一言、そう呟いた。

「ああ、人間やれば何でも出来るもんだ」

「まさに“夢追いの馬鹿”ね」

「何だそれは」

 紗代の言葉に悠斗は怪訝な顔をした。

「そのまんまよ。夢を見つけたらそれに向かって突き進むしか知らない大馬鹿」

「あのなぁ……」

 悠斗は少し呆れながら紗代を見た。

「でも…そんな大馬鹿も数人位はいないと駄目よね」

 紗代はぼそっと呟いた。

「ん? 何か言ったか?」

「ん、別に」

 悠斗の問いかけに紗代はしれっと答えた。

「それで? あんたはどうしたいの? これから」

「そうだな…俺はあの漫画の作者に…俺にこの道を教えてくれた先生に会いたい」

 悠斗は空を見上げながら答えた。

 その答えに紗代は溜め息をつきながらも、少し微笑んで言った。

「そう…まあ、あんたの進む道だし、あんたが決めなさいな」

「何だか親みたいな発言だな、お前」

 悠斗は苦笑しながら言った。

「それはそうと、お前はどうなんだ?」

「何が?」

「お前は、何か夢を持ったことはあるか?」

 悠斗があまりにも真剣な顔で言ったので、紗代は一瞬あっけに取られたが、その後すぐにいつも通りに戻った。

「そうね…私はあまり考えたことはないわね…ぼんやりとは考えたことはあるけど」

「そうか…もし見つけたらまあ頑張れよ、俺みたいに」

「あんたはやりすぎなのよ」

 紗代はあまり気にしない風を装っていた。

 だが、実はもう既にこの時には紗代の夢は決まっていたのだ。

 その夢は――――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う、ううん……」

 紗代は身じろきしながら体を起こした。

 いつの間にか眠っていたようだ。

「……すっかり眠っていたみたいね」

 紗代は欠伸をしながら呟いた。

「それにしても…えらく懐かしい夢がでてきたものね…」

 紗代は思い出した。

 あの時、夢に向かって歩き出した悠斗を見て、自分も歩いていこうとした事を。

「まあ、悠斗が頑張っていこうとしたんだから、私も頑張らないとね」

 自分に気合を入れるように紗代はそう言いながらテレビの電源を入れた。

『明日の天気は、東京を中心に大雨、所により雷が降るでしょう』

 どうやらちょうど天気予報の時間らしい。

 明日の天気を見ながら紗代は憂鬱な表情を浮かべた。

「明日は大嵐じゃない…洗濯物どうしよう…」

 紗代は溜め息をつきながら言った。

 その時、紗代の背筋に何か得体の知れないものが通り過ぎたような気がした。

 何か、明日嫌な事が起こる、そんな感じの。

「嫌な予感するなぁ…なんだろう…この感じ」

 明日は、何かが起こる。

 それも、何か嫌な事が。

 紗代はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日。

 紗代はいつも通りに店で働いていた。

 今はお昼で、一番の稼ぎ時のはずだが、今日は朝からお客が来ていない。

 それもその筈、今日は天気予報の通り、外は土砂降りの大雨。

 この天気では人はあまり来ないのも当たり前である。

「何だか暇だなぁ…」

 紗代は一人ごちた。

 もう一人のアルバイトもキッチンで仕度しているが、紗代と同じ気持ちらしく首を回しながらである。

 そして、本来このだらけた態度を取る二人に対して起こるべきなはずの店長でさえ、今の二人と同じ表情で自分の肩をもんでいる。

 要は、三人とも暇ということだ。

「店長、もうお昼ですけどとりあえずどうします?」

 紗代は肩を回しながら尋ねた。

「そうですねぇ…今のところお客も来なさそうですし、とりあえずお昼でもしましょうか」

 店長はそういって冷蔵庫から幾らかの食材を取り出して料理を作って休憩室内のテーブルの上に乗せた。

「それでは、いただきましょう」

「「いただきます」」

 店長の言葉に合わせて紗代ともう一人のアルバイトは手を合わせて食べようとした、その時。

 からん、からん♪

 扉に設置されていた鈴りんが鳴った。

 それを意味することはただ一つ。

 来客だ。

「あ、い、いらっしゃいませ! 少々お待ちください!」

 紗代は慌てて乱れていた服を元に戻して休憩室を出て行った。

「お待たせしまし―――――」

 紗代は挨拶をしようとして―――言葉が詰まった。

 店内に入ってきたのは、一人の青年。

 悠斗。

 だが、一瞬紗代はそれが悠斗だという事を疑った。

 雨でずぶ濡れになり、その手に持たれた、ボロボロの封筒。

 そして、生気が失われたような、衰弱しきった顔。

 その、昨日とは似て非なる、それどころか初めて見る悠斗のその様子に紗代は一瞬どうすれば良いのか分からなかった。

「て、テーブルにご案内しますね」

 紗代はとりあえずいつもの様に席に促す。

 悠斗は言われるがままに紗代に付いて行った。

 そして、テーブルに着いた悠斗は席に座る。

 紗代はカウンターにあったコップを持ってきて、ポットの中の水をそのコップに入れた。

「ご注文は、何にしましょう」

 紗代は用紙を取り出しながら注文を受けようとする、が。

「……いや、いい」

 悠斗はそう言ったきり、何も話そうとしなかった。

「……分かりました。注文がありましたら、またお呼びください」

 紗代はそう言って、そのまま休憩室に入っていった。

 

「…おや、どうかしましたか? ご注文は?」

 店長は紗代に尋ねた。

「いえ、注文は無いそうです」

 紗代は答えた。

「そうですか。でも、念の為ですし、一応いつでも外に出られるようにカウンターで食べてなさい」

 店長はそう言って紗代の分の野菜炒めを渡した。

「って、良いんですかそんな事をして」

「まあまあ、どうせ客は来ないですし、誰も気にしませんよ」

 そういう問題ではないでしょ、と紗代は思ったが、敢えて口にしなかった。

 かなり寛容なこの姿勢、これがこの店長なのだから。

 仕方なく、紗代はこの好意に甘えることにし、カウンターで昼食をいただいた。

 その間、悠斗が何か言葉を発することは……無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、それから何事も無く夜の8時、閉店時間になった。

 結局、今日は数えるほどの人数しか客は来なかった。

 そして、この客も。

「ほら、悠斗。いつまでそこで項垂れてるの。もう既に閉店時間よ」

 悠斗は結局、何も言わないままその場に座り続けていた。

 水にも、結局口を付ける事無くそこに置かれたままだった。

「……ああ」

 悠斗は力無く頷いた。

「ほーら!」

 紗代は悠斗の手を無理矢理力強く引っ張った。

 すると悠斗は何の抵抗もすることも無く立ち上がった。

 そして二人揃って同じように店を出て行った。

 

 それから二人は朝ほどではないにしろ未だに雨が降り注ぐ帰り道を歩いていたがいつもの様な二人の軽快な会話が交わされることは無かった。

 その永遠に続くかのようなこの沈黙を先に破ったのは紗代だった。

「……ねぇ、何かあったの?」

「…………」

 しかし、悠斗は何も喋ろうとしない。

 顔はずっと下を向いたままだった。

 何も話をしたくないのか。

 紗代がそう思った時、不意に悠斗が口を開いた。

「……別に、何も無い」

 悠斗はそう言ったが、そのか細い声からは明らかに「何も無い」はずが無い

「嘘ね」

 だから、紗代はそう言った。

「……」

 やはり、悠斗は何も言わない。

 こりゃ、かなりの重症ね。

 そう思った紗代は、一つの手を打つ事にした。

「どう? これから私の家に来ない? 丁度食材も余ってたからあんたの飯ぐらいは出せるわよ」

 とりあえず、言ってはみたのだが、多分来ない様な気がした。

 だから、すぐに顔を振り向かせた、が。

「……ああ、良いって言うのなら、頼みたい」

 紗代の予想に反して、悠斗は素直に申し出を受けた。

 それを見て紗代はまた思った。

 こりゃ、かなりの重症ね、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、紗代の家に着いた悠斗は、紗代からタオルを受け取り、さっそく座布団に座った。

 紗代はそのままキッチンの方へ歩いていく。

「悠斗は何か飲む?」

「……そうだな、とりあえずお茶」

 悠斗は髪を拭きながら言った。

「了解」

 紗代はそう言って、湯飲みに熱いお茶を注いでいく。

 そのお茶を悠斗の前のテーブルに置いた。

「ほら。これで落ち着いて」

「……すまない」

 悠斗はテーブルに置かれたお茶を口に含んだ。

 少しぬるいお茶、しかし体を温めるには十分な暖かさだった。

「それで? 少しは話す気になった?」

「…何がだ?」

「とぼけないの。あんたは昔っから判り易いのよ。喜ぶ時とか落ち込んでいる時とか」

 紗代は悠斗に顔を勢いよく寄せながら、でこピンを喰らわした。

「痛ッ!」

 悠斗はおでこを抑えながら紗代を恨めしそうに見た。

 だが、紗代はそれでも物怖じしようとしない。

「あんたに隠し事とか似合わないのよ。素直に白状した方が良いわよ」

 紗代の強い言葉に悠斗は少したじろいた。

 しかし、次の瞬間には紗代の表情は優しい表情に変わった。

「前にも言ったけどね、一応、あんたとは幼馴染なのよ。別に私に世話を焼かせたって構わないわよ」

 言わせる立場が逆なような気がする紗代の言葉。

 しかし、悠斗はその言葉を聴いて、何かに観念するかのように深い溜め息をついた。

「……そうだな……別にお前に言うくらいなら別にいいか」

「そうこなくっちゃ」

 紗代は嬉しそうに呟いた。

 だが、次の瞬間には紗代は鋭い目つきをした。

 その目つきの先には――――ボロボロになった封筒。

「私の予想だけど、多分その封筒が原因なんじゃない?」

 それを聞いた悠斗は、黙って頷いた。

「これも私の予想だけど、それはあんたが昨日言っていた漫画ね」

「そうだ」

「それが何でそんなボロボロに?」

 紗代は当然の疑問を口にする。

 わざわざボロボロの封筒に新品の原稿を入れるはずが無い。

「勘が良いな……そうだ、実はこれはある事が起こって、こんな姿になってしまったんだ。無論中の原稿もな」

「どうして?」

 紗代の疑問に、悠斗は間を空けて答えた。

「潰されたんだ……目の前で」

「……へ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、朝の事。

 悠斗はついさっき苦労して出来た原稿を手に、いつも通り紗代の働く喫茶店に向かおうとした時だった。

 そこではいつも通り啓次がお茶を飲んでいる頃だろう、そう思って。

 その道の途中で、偶然に啓次と出会ったのだ。

 悠斗はその姿を見つけるなり啓次に声をかけた。

「あ、啓次さん」

「…ん? 君は…」

 その時の啓次の顔は、とても険しい表情をしていた。

 いや、漫画を見てもらう時には必ずと言って良いほどこんな顔をするのであまり気にしない。

「丁度良かった。実はまたあなたに漫画を見てもらおうと思いまして、原稿を持ってきたんですよ」

 悠斗はいつもの調子で手に持たれた封筒を啓次に渡そうとした。

 だが、啓次はそれを見たまま険しい表情を崩さない。

 いつもと違うその様子に悠斗は少し疑問を感じた。

 不意に啓次が口を開く。

「君は…なぜこんなにも漫画を描き続けるんだ?」

 その声は不機嫌な様子を隠そうとしないで。

 だが、悠斗はいつもの通りに返す。

「それは…俺の憧れの先生に出会って、そして挑戦したいからです。いわば、俺の夢のためです」

 悠斗の返答。

 それに対し、啓次は表情をさらに険しくした。

「ふん……“夢”のため………か」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くだらん」

「え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間、啓次の取った行動に悠斗は一瞬目を疑った。

 何と、悠斗の手に持たれた原稿の入った封筒を叩き落とし、それを踏んづけたのだ。

 そして、残ったのは、踏まれてボロボロになった封筒だけだった。

「け、啓次…さん!?」

 悠斗は啓次の取った行動を信じられないような表情で見ていた。

 否、実際に信じることが出来なかった。

 本来、漫画家をアドバイスしたりする立場にあるはずの編集者の取った行動が。

「なぜ…こんな事を!」

 悠斗は啓次を睨んだ。

 だが、啓次はまったく物怖じしようとしない。

「“夢のため”だなんて、下らない事を言うからだ」

 まるで、現実を知れと言わんばかりのその啓次の言葉に悠斗は言葉を失った。

「そんな下らない事をしている暇があったら、とっとと就職して、地道に生きていくんだな」

 そんな無茶苦茶な理屈を言う啓次に対して、悠斗は何も言うことが出来なかった。

「もうこれ以上、私に関わるな」

 そう啓次は言い残してその場を立ち去っていった。

 その場に残された悠斗は、その場でずっと立ちすくんだ。

 その足元には、ボロボロになった封筒だけが残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………………」

 紗代は、言葉を失った。

 まさか、憧れの先生からそんな仕打ちを受けてしまうなんて。

 それも、「夢なんてくだらない」と言い切られて。

 それだったら、ここまで落ち込むのも無理は無い話だった。

「………俺は、何をしていたんだろうな……」

 悠斗は溜め息をついた。

「…………よく考えたら、あの人が夢に対して嫌悪感を持っていたのは容易に想像できたんだ…あの日以来な」

「あの日?」

「あの人が何故今編集者としているか紗代は知ってるか?」

 悠斗の問いかけに紗代は首を振った。

「一度だけ聞いた事があるんだけど…あの人は“夢”に裏切られたんだ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、数年前の話。

 啓次がまだ漫画家として活躍していたときの事。

 彼の漫画が少しずつではあるが広まり始めた時。

 きっかけはある一つの手紙。

 

 

 

 

「くだらないものを描くな」

 

 

 

 

 

 それは、啓次の描いた漫画に対する評価。

 否、批判だった。

 それから漫画を描くたび描くたび批判が相次いだ。

 啓次は苦悩した。

 何故ただこうやって自由に描いているだけなのに批判ばっかり来るのか。

 もちろん、好評も幾らかあった。

 だが、それ以上に批判が目立っていた。

 そして、止めの一文。

 

 

 

 

 

 

 

「お前みたいなのが夢を語ってんじゃねーよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それからだ……あの人が夢に対して嫌悪感を示すようになったのは」

 紗代は何も言わなかった。言える筈が無かった。

 あの人が、啓次が今まで受けてきた仕打ちの事を思うと。

 漫画家をやめて編集者になったのは、漫画に対する未練がまだ残っていたからだったのだ。

「その話を聞いて俺は何も言えなくなった……夢に裏切られるということが、どういう事なのか、俺には良く分かっていたからな…それなのに…俺は…ずっと…」

 悠斗はそれっきり黙りきってしまった。

 紗代はもどかしかった。

 確かに、啓次があんな仕打ちを受けて夢について嫌悪感を示すということは分かる。

 だが、それでも―――。

「それで、あんたは諦めるの?」

 紗代はまじめな顔をして悠斗に詰め寄った。

 だが、悠斗は俯いたまま言った。

「仕方ないだろう………あの人は夢に裏切られた…俺が何と言おうとあの人は俺を受け入れてはくれなかった…諦めないで何度も何度も挑戦していたのにな………でも、根本から受け入れる気はなかったんだ…仕方ないさ……」

 悠斗のその言葉に、紗代はついに堪忍袋の緒が切れた。

「何が仕方ないよ!!! あんた馬鹿じゃないの!!?」

 紗代はがばっと立ち上がり、テーブルを勢いよく叩いた。

 悠斗は目を丸くしてそれを見ていた。

「あんたは確かに不真面目で、何事にも中途半端だった!! でも、あんたが自分の道を見つけたら、それに向かってずっと我武者羅に頑張ってきたんでしょ!? 例えどんなに苦しくてもずっとひたむきに頑張ってきたんじゃない!!」

 紗代は止まらない。止まろうとしない。

「それが何!? ただ憧れの人に夢を拒絶されただけで諦めるって言うの!? あんたはそんな程度で諦めるはずが無いじゃない!! もしあんたが諦めるって言うのなら、今まであんたを目標に頑張ってきた私の立場はどうなるの!? 夢を追い続ける純粋な姿に惹かれていった私の気持ちはどうなるの!?」

 紗代の言葉に、悠斗はハッとした。

「お前……」

 そう、悠斗は気がついたのだ。

 紗代もまた、“夢追いの馬鹿”だという事に。

「……ふう」

 紗代は、一息ついて、今度は静かに語り始めた。

「……私はね、あんたが夢に向かって挑戦するって聞いた時から、密かに決心していたの。もしあんたがお腹が空いたり、疲れたとき、私が支えになってあげたいって。いつでもおいしい紅茶や料理を出して、元気を出してあげたいって。だからね、私はずっとファミレスで働きながら勉強してきたの。例えあんたが「疲れた」って言った時にも、すぐに助けられるように」

 紗代は、少し照れながら話す。

「……そうだったのか…でも、なんで俺の為に?」

 悠斗は当然の疑問を口にする。

 ただの幼馴染なだけの夢を聞いただけで、それを目標にするというのはどうなのだろう、と。

 それを聞いた紗代は、少し俯きながら。

「…………」

 顔を赤らめながら。

「………一度しか言わないから、しっかり聞いておきなさい」

 しかし、決意を決めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………あんたが、好きだからよ…」

 言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………!!!!!」

 悠斗は声も出さずに驚いた。

 それはそうだろう。

 目の前で突然に告白されたのだから。

「な…な…な…な…な…!?」

 悠斗の思考回路が追いつかない。

 紗代は続ける。

「いつの頃からか……あんたのその夢に対する直向さに…私はいつしか心を奪われていった…いつの間にか、あんたの事が、心の底から好きになってしまっていた…愛してしまっていた…あんたの人生を…支えられる存在になりたいと思ってしまっていたの…」

 その話をする間の紗代の顔は既にトマトみたいに真っ赤で。

 それを聞いていた悠斗の顔を真っ赤で。

 だが、不意に紗代はまた真面目な顔に戻る。

「でも、夢を諦めるって言うのなら、私はもう知らないわ。勝手にやって」

 紗代はそう言って、もう既にお茶を飲み干し、空になった湯飲みを手に取り、立ち上がろうとした。

 そんな時、悠斗は口を開いた。

「………そうだったのか…済まなかったな、全く気がつかなくて」

 その言葉はとても自嘲気味で。

 紗代は動きを止めた。

「でも、俺はな、十分お前に支えられていたよ。俺は、お前から食パンを出してもらう度に、憂鬱な気持ちもどこかに吹き飛んでいった。お前の出す料理が、いや、お前そのものが、俺にとってすごく良い気付け薬になった。いつしか俺は、ずっとお前と共にいたい。穂積紗代という女性(ひと)を、心の底からから愛したい、そう思ったんだ」

 悠斗は頬を掻きながら、照れくさそうに言った。

 それを聞いていた紗代は、顔を赤らめながら、呆気に取られた表情をしていた。

「すまなかった、泣き言なんか言っちゃって。でも、俺はもう吹っ切れた。俺に期待してくれる、俺を愛してくれる人がいるから、俺は何度だって挑戦してやる。誰が何と言おうと……な」

 

 そして、悠斗は誇らしげに言った。

 俺は、“夢追いの馬鹿”だ、と。

 そして、紗代も誇らしげに言った。

 私も、“夢追いの馬鹿”よ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人は静かに…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 唇を重ねた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから翌日。

 いつもの通り啓次はテーブルに腰掛けて何かを書いていた。

 ずっと書いていたその正体は、漫画。

 読者から下げずまれ、自ら執筆を断念した、最初で最後の彼の漫画。

 彼の無念がにじみ出た漫画。

 もう二度と掲載することも無い漫画。

「……さて、今日はどうするかな」

 啓次は自嘲しながら、原稿を封筒に直す。

 その時、その封筒が不意に宙に浮いた。

 誰かが持ち上げたのだ。

 その主は――。

「どうもいらっしゃいませ」

 紗代だった。

 その澄んだ声と裏腹に顔はかなり険しい表情をしていた。

「…ん? 何だね? まだ注文は決まってはいないのだが…」

 啓次は変わらぬ態度で話した。

 紗代の内心の燃え滾った怒りを知らないで。

「申し訳ありませんが、お客様にお出しする注文はありません」

「…何?」

 その啓次の言葉と同時に、封筒を床に叩き落し、そして踏んづけた。

「な、何をするんだね!」

 啓次は紗代を睨んだ。

 だが、紗代は物怖じしない。

「どうですか? 目の前で大切なものを台無しにされる気分は?」

 紗代の怒りの言葉。

「貴方があいつにしたことを再現してあげましたよ。目の前で“夢を見るな”と言ってあいつの熱い想いを踏みにじったことを」

「な…!」

 啓次は言葉を失った。

 まさか、ウェイトレスからこんな仕打ちを受けるなどと。

「な、何をするのだね! それがお客に対する態度か! 店長を呼ぶぞ!」

 啓次は激しく怒鳴りつけた。

「残念ながら、店長は出張でおられません」

 対して紗代はしれっと答える。

 だが、その直後には目を鋭くして啓次を見た。

「貴方が過去にどんな仕打ちを受けてきたのかを聞いたときには、正直な話同情しましたけど、それで他人の夢を否定するのだったら、話は別ですよ」

 その目の内に凄まじい怒りを込めて。

「夢を見るな? 下らない事を言うな? あんたこそ何馬鹿な事を言ってんの?」

「な…!?」

「あんたがどんな仕打ちを受けてこようとも、それで他人の夢を否定するって言うのはね、ただの餓鬼のする事よ」

「な、何だと!? もう一度言ってみろ!!」

「ええ、何度でも言ってあげるわよ。ただの餓鬼よ。あんたがしている事はね、今まで虐められていた子供が虐め返している様にしか見えないのよ。はっきり言って餓鬼以下ね」

 啓次は歯をギリギリさせながら紗代を睨み続ける。

 だが、紗代は一歩も引かない。

 顔も引きつかせない。

 それどころかどんどんその口調も激しいものに変わっていく。

「あんたは、漫画家を発掘するのが今の仕事でしょうが!! “夢”を作り出すのがあんたの今の仕事でしょうが!! 漫画はね、ノンフィクションとかそんな夢の無い話ばっかりじゃないのはあんただって分かってるんでしょ!? むしろ、夢を売っているのよ!! 漫画とか作品って言うのは!! それをね、“夢”っていうのを根本から否定したら、後は一体何が残るって言うの!!」

 紗代はテーブルを激しく叩いて大声で叫んだ。

 その迫力に啓次は何も言えなかった。

 紗代は封筒を啓次の前に突き出しながら再び叫ぶ。

「あんたが未練がましくこんなのを書いていても、今更過去に戻る事なんて出来やしないのよ!! 今あんたがすべき事は、あんたが叶えられなかった“夢”を誰かに託して、その夢を後押ししてあげる事でしょうが!! 夢を託す立場であるあんたが、他人の夢を否定してどうしようっての!!」

 紗代は力の限り激しく叫んだ。

 悠斗の為に。

 自分が愛した男性(ひと)の為に。

 全身全霊をかけて、可能な限り叫んだ。

 暫く叫んで、はあ、と大きく溜め息をついた後、少し穏やかな口調で話す。

「……あんたが、心無い読者の言葉でどれだけ傷ついてきたかは正直知らないけど…でもね、あんたの作品に感銘した奴をね、私は知っているわ。今もそいつは直向きに原稿を書き続けている、そして、憧れの人に裏切られようとも何回でも挑戦し続ける、本物の“夢追いの馬鹿”をね」

 紗代の言葉に啓次はハッとする。

 啓次の脳裏に浮かぶのは、何回落とそうとも必ず這い上がってきて挑戦する青年―――。

「あいつはね、あんたを目標に頑張ってきたのよ。あんたは不幸事しか見えてなかったようだけど、確実にあんたの漫画は誰かを魅了したのよ。少なくとも、一人はね。」

 それを言う紗代の顔には、もう既に怒りの色は一切無く―――。

 とても穏やかだった。

「もしね、あんたがまだ、どんな形になろうとも漫画が好きだって言うのなら、真面目に原稿をチェックしてみなさい。そして、あんたが叶えられなかった“夢”を、託してあげなさい」

 その穏やかな紗代の言葉に、いつしか啓次は涙を流していた。

 啓次は、ずっと縛られていたのだ。

 自分の受けてきた仕打ちに。

 夢を否定された啓次はいつしか夢自体を恨むようになってしまっていた。

 そして、漫画を夢の語りの材料にすることを許せないようになっていた。

 決して、漫画自体が嫌いだったわけではない。

 漫画で夢を語るという事が許せなかったのだ。

 だが、それは単なる思い違いだということに、この少女から説教されてようやく気がついた。

 自分は、ただ漫画が“嫌いではなかったのではない”。

 漫画が“好きだったから”こそ、“自分の意思を本気で受け継いでくれる人物”を探していたのだ。

 いつか、自分が出来なかった事を、誰かに託す為に…。

「あの青年……悠斗君は?」

「悠斗は……今は漫画を書いてます。また貴方に挑戦するために」

「……そうか」

 啓次はテーブルに置かれた。足跡の付いた封筒を紗代に差し出す。

「…?」

 何? と紗代が思ったとき、啓次は話す。

「……これは私が書いていた漫画の原稿だ。参考程度に使ってやってくれ、と悠斗君に言ってやってくれ。」

「……いいんですか?」

「…別にいいとも。私の目を覚まさせてくれたお駄賃だ」

 啓次はそう言って封筒を紗代に渡し、啓次はドアを開けて出ようとした時、不意に振り向いた。

「それから、私はいつでもここに来る、いつでも君の挑戦を受ける、そう言っておいてくれ」

 その、先ほどの険しい表情とは違う、とても穏やかな表情だったから。

「……ええ」

 紗代も穏やかに返した。

 紗代の返事を聞いて啓次は静かに微笑み、そして店を出て行った。

「ありがとうございましたー」

 紗代はそう言い残し、そして休憩室に目を向けた。

「……と、いう訳で納得してくれたかしら、悠斗?」

 紗代のその言葉と同時に青年と初老の男性が出てきた。

「納得も何もなぁ、お前からやるって言い出したんだから。俺にはなんとも言えないぞ。な、店長」

「ははは、まあ確かに」

 出てきたのは、悠斗と店長だった。

 実は店長が出張に出ていたと言うのは嘘で、本当は休憩室から悠斗と一緒に今までの状況をずっと見ていたのだ。

 ちなみに、もう一人のアルバイトは今日も休みになっているようだが。

「それにしても店長、こんな勝手な事をして申し訳ありませんでした」

 紗代は深くお辞儀をした。

 だが、店長は怒る事無く穏やかな顔のまま話す。

「いえいえ、あの人もこれからも来ると言っていますし、結果オーライですよ。それよりも、君の悠斗君に対する一生懸命さが伝わってきてむしろ清々しかったですよ」

 その言葉を聞いて悠斗と紗代は顔を真っ赤にして俯いた。

「ははは、反応も可愛いですねぇ」

「店長……」

「ははは、いや失礼」

 紗代の睨みに、店長はすぐに話を取りやめた。

「さて、重要なのはこれからですよ、二人とも」

 店長は真面目な顔になり、二人と向き合う。

 それに対し、二人も真面目な顔になった。

「これから、君達がどう頑張っていくのか。未来はこれで変わってくるのです。例えどんな事があろうとも、諦めなければ必ず突破口は見えてくる。頑張っていきなさい」

 店長の言葉。

 その言葉に二人は。

 

 

 

 

 

 

 

 

『はい!!!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 力強く、そう返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、それから数年後…。

 

 

 

 

 

「店長、お疲れ様でしたー」

 そう言って休憩室から出てきたのは、高校生の少女。

「はい、お疲れ様。ちゃんと親孝行はしてる?」

 そして、声をかけるのはこの店の若き店長。

「ええ、ちゃんとアルバイト料は母に8割渡してますし、私自身料理の腕も少しずつ上がっていっています」

「それは良かったわ」

 お互いが微笑み合っていると、突然少女が声を出して慌て始めた。

「ああ!」

「どうしたの?」

「す、済みません! 早く帰らないと明日は朝が早いんです!」

「そう? だったら早く帰りなさい。時間は待ってはくれないわよ」

「は、はいーー!」

 少女は「お疲れ様でしたーーーー!」と大声で叫びながら全力疾走で走っていった。

 その様子を店長―伊野塚紗代―は、微笑みながら見送った。

 あの時のお客が、今では立派な高校生だものね…そう思いながら。

 丁度その時。

「はい、アシスタントの皆さん、お疲れ様でした」

『うーっす』

 店内から一人の男性と数名の男性の声が聞こえた。

 それを聞いた紗代は店内に入っていった。

「あら、原稿出来上がったみたいね。みんなお疲れ様」

『あ、店長お疲れ様です!』

「何処の集まりだ」

 男性達の掛け声を聞いて横にいた男性がすかさず突っ込みを入れた。

「まあ、いいんじゃない、悠斗。毎回の事だし、別にかまわないわよ」

「…ん? まあ、それもそうか」

 紗代の言葉に、男性―悠斗―は苦笑気味に話した。

「うわー、相変わらずアツアツ夫婦ですねぇ、先生と店長」

「ちぇー、うらやましいですねぇ、先生」

 アシスタントの者達は口々に色々と言った。

「お前らなぁ…」

 そのアシスタントの言葉に悠斗は顔を抑え、紗代は苦笑した。

 そう、この二人はそれぞれの夢を果たしたのだ。

 悠斗は漫画家に。

 紗代はファミレスの店長に。

 そして、二人は無事に結婚を果たし、二人の子を儲けた。

 ちなみに、悠斗の担当は、もちろん上埜啓次。

「貴方達に晩御飯を炊いてあげたのだけれど…いらないかしら?」

 紗代の意地悪な言葉に、アシスタントは慌てて全員首を横に振った。

 その様子を見て悠斗と紗代は声を上げて爆笑した。

 その様子をアシスタント達は恨めしそうに見た。

「ああ、ごめんごめん。冗談よ。まさか本気にするなんてね…ぷぷぷっ」

「店長……」

「ははは、お前ら面白いな…そういえば子供たちはまだ食べていないのか?」

「いや、まだよ。多分そろそろ出来上がる頃じゃないかと思ってずっと待ってたのよ」

「そうか…それじゃ呼んでこようか?」

「…いや、その必要はなさそうよ」

「え?」

 悠斗が疑問に思う前に、どたどたという足音と共に一人の女の子と一人の男の子が出てきた。

 悠斗と紗代の子供、伊野塚優衣(いのづかゆい)と、伊野塚健也(いのづかけんや)だ。

「あ、お父さん! お疲れ様!」

「後で見せてね、お父さん!」

 現れるなり抱きついてくる二人の子供に苦笑する悠斗。

「あ、ああ、また今度見せるから今は離れてくれ…身動きが取れない」

 悠斗の言葉に「ハーイ」といって二人は素直に離れた。

「ふふふ、大人気ね、大人気作家さん」

「うーん…」

 紗代のからかいの言葉に悠斗は苦笑した。

 悠斗が命懸けで描いた漫画が今では世界に広まるまでの大人気漫画にまで行っていると言うのだから、本人としては嬉しいのだろうが…。

「でも、そのせいで毎日が忙しくて…お前にもこいつらにも満足に家族サービスできない…すまないな」

 悠斗のその言葉を聞いて紗代は悠斗の肩に手をポンと置いた。

「別にいいわよ。私がこうやって自分の店を建ててられるのも、あんたや子供たちにこうやって手助けできるのも、あんたのお陰なんだから。むしろ、私の方がお礼を言いたい気分だわよ」

 そして、悠斗と紗代は向き合った。

 静かに微笑みながら。

「これからも、あんたの支えになるように頑張っていくからね」

「紗代…ありがとう。俺もこれからも頑張ってお前達を支えられるように頑張るよ」

「悠斗……」

 そこにあるのは二人の世界だけだった、と。

『おーい、先生、店長! ノロケは良いですから、早く食べましょうよ!』

『お父さん、お母さん、まだー!?』

 アシスタントと子供たちが不機嫌さを隠そうともせずに叫ぶ。

 よく考えてみれば、そういえば晩御飯を用意しようとしていたのだ。

「あちゃ、早く用意しないと、仕舞いにはみんなキレちゃうわね」

「ははは、俺も運ぶの手伝うよ」

 こうして、二人は手を取り合って部屋の奥に入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空のように、自由に生きていけばいい。

 

 

 

 例えそれがつらく苦しいものだったとしても。

 

 

 

 決して自由に生きる事を忘れないで。

 

 

 

 空は、ずっと私達を見てくれるのだから。

 

                         伊野塚紗代

                       夢日記より抜粋  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢は何処までも何処までも自由にあるものだ。

 

 

 

 それはなんびとたりとも侵害できるものではない。

 

 

 

 この空のように、自由に飛び立つのだ。

 

 

 

 この空を自由に飛ぶ、鳥達のように…。

 

                         伊野塚悠斗作 『 sky 』

                            第一話から抜粋