『 sky 』
その少女を呼んだ客は親子連れだった。
食べ残しが転がっているテーブルを慣れた手つきで拭いていたウエイトレスの少女は、ただいま参りまーす、と大きな…しかし澄んだ可愛らしい声で返事をする。
そして、汚れた布巾をそのテーブルに置き、客に見えないように小さく手を払うと、パタパタと小走りで親子のもとへと駆けていった。
母親の手には伝票が握られている。
会計なのだろう。
「お会計、失礼いたします」
少女がレジカウンタに入ると、母親が少女に伝票を差し出す。
それを笑顔で受け取ると、少女は伝票に書かれている内容を流れるようにレジに打ち込んだ。
まるで軽快にステップを踏んでいるかのような、テンポ良く、かつ無駄のない入力を終えて少女は顔を上げる。
「お待たせいたしました。お会計は1470円になります」
実際のところ大して待たせてはいないのだが、テンプレートに則り金額を読み上げた。
ミートソーススパゲティと野菜サラダ、アイスコーヒー、オレンジジュース、お子様ランチ。それにチョコレートパフェ。
これだけの量を注文してこの金額なのだから、この店は本当にお財布に優しいなぁ…とレジを打つたびに少女は思う。
もっとも、だからこそ今ここで接客出来る要員が店長と少女しか居ないわけなのだが。
本当はもうひとり接客要員のアルバイトがいるが、今日は来ていない。
一月ほど前から「今日は休む」と宣言していたので、今頃はどこかを遊び歩いているのかもしれない。
母親は伝票を見てあらかじめ用意していたと思われる1470円ぴったりの代金をレジカウンタの上の受け皿に載せる。
少女は金額を丁寧に確認してレジスターに入れ、ありがとうございました、と嫌味なくぺこりとお辞儀をした。
子供の手を引いて店を出る母親を見送り、最後にもう一度「ありがとうございました」と親子の背中に笑いかけ……そして、少女は目の前の壁に掛けられている時計を見上げた。
午後の2時10分。お手軽な値段の昼食を求めて来店した客も次第に減る時間帯。
店内には空いているテーブルが目立つようになってきた。
お昼時を過ぎれば、あとしばらくは遅い昼食を求める客が時折来店する程度。
基本的には勤務時間内でありながらもちょっとした休憩のようなひとときを過ごす事になる。
もちろん、少女も例外ではない。
レジカウンタの影で制服の皺を伸ばすと、少女は静かに息を吐いた。
お昼時の混雑で張り詰めていた気持ちがゆっくりと解けていくのが分かる。
今までは気付く事すらも出来なかった、店内に僅かに残る料理の匂い。
「……そういえば、私もお昼まだだったなぁ」
少女は眉をハの字にして小さく呟く。
きゅるるる。
そして間髪いれず、少女のお腹が切なげな鳴き声を漏らした。
少女は慌てて両手でお腹を押さえると、頬を真っ赤に染めて店内をきょろきょろと見回す。
目に付くのは空いたテーブルばかり。
奥に一つだけ、若いスーツの男性が席についているテーブルがあったが、当の男性は何かを書いているのか、食い入るようにテーブルを見つめたまま右手を忙しなく動かしていた。
この時間帯にはいつも同じ場所に座って書き物をしている、ある意味常連ともいえる男性なのだが、幸い少女のお腹の虫の鳴き声は男性の耳に入っていなかったようだ。
あるいは、耳に入っていても気にしていないだけなのかも知れないが。
少女はお腹をぎゅっと押さえたまま、ほっと息を漏らした。
ウエイトレスは食事時が一番の稼ぎ時であり、故に昼食や夕食は一般的な時間帯には食べられない事が多い。
自分のお腹が空いている時に他人の食事を眺めてなければいけないというのはもはや拷問でしかないのだが、いざ食事時になると忙しさのあまり空腹も忘れてしまうのはある意味幸運と言えるかも知れない。
もっとも、それは忙しい時間帯だけ。
食事時が過ぎれば、少女の中で無意識のうちに押さえ込んできた腹の虫がゆっくりと活動を再開するのだ。
そう、今のように。
「今ならお客さんも少ないだろうし、休憩を入れようかな…」
店長は客が引き始めたところを見計らい、少女よりも少しだけ早く休憩室に入った。
そろそろ、交代しても良い頃だろう。
お腹の虫に、そして自分自身に栄養を与えなければ。
少女は奥の席に座っている男性を見る。
相変わらず書き物に集中しているようで、少女を呼びつける様子は無さそうだ。
迅速に引継ぎをすれば、問題なく休憩に入る事が出来るだろう。
少女はそう思い、休憩室に向かおうとしたその時。
からーん、からーん。
店の入口に付けられたベルが鳴り響く。
先程の男性が外に出たとはさすがに考えられないので、おそらくは遅い昼食を摂りに来た客か。
ううっ、こんな時に…っ。
内心毒づきながらも、少女は全ての感情を笑顔の奥に隠して振り向いた。
「いらっしゃいませーっ」
「お、おお、おとなしくしろおぉっ!」
「…………………………………」
頭にパンスト右手にナイフ。
ステレオタイプの強盗を前に、少女は接客用の笑顔を引きつらせたままフリーズしていた。
最近ろくなことがない。
普段は遅刻なんてないのに大事な単位のかかった試験の当日に限って寝坊するし、注意していたはずなのにちょっと目を放した隙に父親にパンツを一緒に洗われていたし、保証期限が切れたその日にコンタクトを落とすし、自転車を停めていたらその日に限って回収されていて、しかもサドルに鳥のフンが見事正鵠を射止めているし。
挙句にコレだ。
少女は自分の星の巡りを疑わうしかなかった。
「い、いいからおとなしくしろぉっ!」
入ってきた男は手のナイフを振り回し、緊張ガチガチの口調で叫ぶ。
恐らくはあらかじめ考えていた台詞なのだろう。
まあ固まったまま動かない少女に言う台詞とはちょっと思えない。
「す、素直に金を出せば危害は加えない! れ、レジスターを開けろ!」
緊張の為か少々吃音気味になる男の声がようやく少女に届いた。
少女は背を折って全身で長々と溜息を吐き、全身を使って腹へ息を入れると、営業スマイル全開で顔を上げた。
「申し訳ありません。私は当店のサービススタッフ以外に売り上げを渡す権限を持ち合わせておりませんので、店長に直接申し上げていただけませんか?」
不自然な、間が空いた。
「え゛……店‥長?」
「はい、只今奥で休憩されておりますが、御用の様ですからお呼び致しますね」
「や、あの! その…店長じゃなくて、君に、頼んで、るん、だけど…」
急にしどろもどろとあせり出す男の反応に少女の営業スマイルは輝きを増していく。
「店長では都合が悪いことがあるんでしょうか?」
「いや、その、あの…そう! 店長は既に奥で伸びている!」
「ではなぜ奥にある金庫からお金をお取りになられないんですか?」
「う゛! それは…」
「裏にいらっしゃったのならなぜ正面から入店し直されたのでしょうか?」
「ぐぬ! あの、えっと…」
ここまで来ると少女の営業スマイルにはどんどん悪意の黒が滲み出て、対照的に男の顔色はパンスト越しでも明らかに青くなっていくのが丸分かりである。
「そろそろ白状しちゃいませんか? ……店長」
ぎくぎくぎっく〜〜〜〜ん!
なにやらめちゃめちゃステレオタイプな擬音が静かで小ぢんまりとした店内に響き渡ったような気がした。
「馬鹿ナ事ヲ言ッちゃあイケナイYO! ボクが店チョーナンテアリ得ナイぢゃナイか!?」
しかし完全に裏声だった。
「だって店長の服着てるじゃないですか。ほら、ネームプレート。『店長 バカ田』って」
「誰がバカですか! 赤田です!」
「やっぱり店長じゃないですか」
すでに完全に少女の手のひらで踊らされていた。
「ち、ちがうちがう、違うぞ! えっと…えっと…店長に罪を擦り付ける為に裏で店長を倒して服を拝借したのだぁ!」
「『だぁ!』って…じゃあまあそういうことでいいですけど。じゃああなたが逃げた後『店長が犯人だ』って通報しても構いませんね」
「いや、それはちょっと勘弁していただけると助かるんですが…」
「望みどおり『店長』に罪擦れるじゃないですか。何が不満なんですか、店長?」
3秒。彼が返答に要した時間だった。
「だぁ〜〜〜〜っ! もういい! 問答してる暇はないのだ! 刺されたくなければ金を出せえい!」
赤田店長、もとい強盗パンスト男は自分にできる最大の見得を切った!
右手のナイフが窓から差し込む光を浴びて白く光る!
「…そのお子様のお土産用に販売してる『こども食器セット』のプラスチックナイフで、ですか?」
ミス!
ウエイトレスの少女には脅しは効かなかった!
「………」
「店長? もう終わりですか?」
店長、もとい強盗パンスト男にはもはや為す術がなかった。
全てに於いて優位に立たれ、攻撃(的態度)を無力化され、精神的に追い込まれたのだ。
ここでこの男、赤田修平(53)について語っておかなければならないだろう。
彼がどうしてこんなに追い詰められる結果になったかではなく、彼がこれまでの人生で如何に今回同様不遇の運命を背負い歩いてきたのかを。
あれは、彼が11歳の臨海学校の時から既に始まっていたのかもしれない。
(ここから本編となんら関係のない、おっさんの、おっさんによる、おっさんの為の、ご覧になってもあまり愉快ではない少年時代が時にキモグロいレベルであまりに長々と表現されている為、企画小説参加規程の「容量」と「内容」に抵触致しますので10KB程中略させていただきます)
けれど、そのどん底の暗闇の中で修平は清く美しい女性と出会った。山吹葵、現在の妻である。
(いいところのようですが、本編と関係なくまだ続いておりますので、さらに10KB程中略させていただきます)
可愛い娘、自慢の美空が2歳の誕生日を迎えたその日だった。修平が海山商事から解雇処分を言い渡されたのは。
(なにやらヘビーな内容がここからさらに続いているようですのでもう15KB程、結局最後まで中略させていただきます)
こうして今のこのファミレス『sky luck』で店長を務めることになったのだ。
それはまさに修平にとっての「sky luck」、天上の幸福であったことだろう。
妻と娘も家に帰ってきた。
これ以上の幸せなど修平にはいらない。
だが、この幸せを奪われたらもはや修平は生きる意味すら見失う。
だから、今。
修平は折れようとした心を暴力的なまでの叫びで支えた。
右手と心に持った「luck(幸運)」の剣を「pluck(勇気)」の剣に持ち替えて!
たたかう→
そうび→
ラックのけん→プラックのけん
こうげき→
ウエイトレス 1ひき
「うおおおおおおっ!」
店長は激しく切りつけてきた!
「なっっがい回想やって読者どころか当事者まで置いてけぼりにしておいて…結果『逆上して刃物振り回した』って! 一言で表せるじゃないですか!」
少女はこうげきを受け流した!
そのまま店長の右手を逆関節に極めた!
「痛だだだだ!!!」
店長の右手から(プラスチックの)ナイフがこぼれ落ちた。
「言ってませんでしたっけ? 私2年前から合気道やってるって」
店長をやっつけた。
34のけいけんちをかくとく。
店長はたからばこを落としていった。
なんと やぶれたパンスト を手に入れた。
こうして、少女の活躍により県内にファミリーレストラン『sky luck』は強盗の危機を逃れた…
「さて、一応通報前に凶行の理由を訊きましょうか?」
「凶行って言わないでください」
「頭からパンスト被っておもちゃのナイフ片手に自分の店に押し入る。どことっても凶行じゃないですか」
「それには事情が…」
「事情ったって…お客様がいるのにこんなことされたらもう通報しないわけにいかないじゃないですか」
少女は振り返って奥の男性客の様子を今更ながら伺った。
青年は店長が押し入る前と同じ姿勢で何かを書き続けていた。
怖がって係わり合いにならないようにしていたか、それとも集中しすぎて気づいていないだけか。はたまた動じてない大物か。
少女には青年の右手がさっきより盛んに動いているように見えた。
とにかく店としての非礼をお詫びしなければ、と少女は青年のもとへ小走りに寄って行った。
「お客様、この度は当店のチーフスタッフが大変な事をしでかしてしまい申し訳ありません。然るべき処置を持って対応を…」
「素晴らしいです!」
いきなりペンを置き、立ち上がって諸手をしっかと握り締めてきた。
青年の予想外の賛辞と行動に少女は思わず面食らってしまった。
「普通だったらパニックになっちゃうのに冷静に目の前の強盗にツッコミを入れて最高にコミカルな展開にしてくれるなんて! 感動です!」
青年は常連客だが、いつも物書きをしているだけで、少女は注文とコーヒーの御代わり以外ちゃんと話したことはなかった。
正直声もあまり覚えていないと言うのに今日に限ってこのハイテンションは何なんだろうか。変なスイッチでも入ってしまったのか?
「ですから僕はこの水城さんに頼まれて強盗役を演じてただけなんですよ」
「店長? 頼まれて演じてたって…?」
「ああ、ボクは水城蓮。劇作家をしてるんです」
「劇作家?」
「ええ、脚本家。ドラマなんかも書いてて結構有名なんだけど…なんかのスタッフロールで『雛鸞』って見た覚えないですか?」
そう言われて少女は記憶を巡らせてみた。
ドラマはよく観るが、正直脚本家の名前など気にしたことはない。
極々有名な2、3人ですら「言われたら思い出す」程度であり、「結構」程度の知名度では少女の脳髄には刻まれなかったようだ。
考えが顔に出ていたのか、青年、水城蓮の顔が瞬間ブルーにテンションダウンしていく。
「ああ…やっぱそんなものかなあ。店長さんも知らなかったし」
「いやその…ごめんなさい」
「いえ、それよりおどかしてごめんなさい。でも本当に素晴らしい対応を見せてくれたよ。名前訊いてもいいかな?」
「えと、かすみ。白石香菫です」
「香菫さん。本当にありがとう、今コメディ作品に行き詰ってたところだったから凄く参考になったよ」
「お役に立てたのなら嬉しいです」
「にしても見事だった。お芝居の経験とかあるの?」
「いえ、何も」
「じゃあ人生経験が豊富って事なのかな」
ふとその言葉を聞いて少女、香菫の頭によぎるものがあった。
人生経験が豊富。なるほど、そうかもしれない。
耐え難いほどの痛みも、過ぎ去った今は自分を支える基盤になっているのかも。
そう考えれば小気味いいし、そうでも思わなければ今でも押しつぶされてしまいそうだ。
「あ、すいません。悪いこと言っちゃったかな?」
「…へ?」
考え事をしていたのはほんの一瞬。
いきなり謝りだす蓮に香菫は何のことか思い当たらなかった。
「芝居とは言えいろんな人の人生を垣間見させてもらってきたせいかな。つい突っ込んだこと聞いちゃうんだけど人によっては辛い思い出も多いから」
「あ、いえ。大丈夫ですから」
「そう? ごめんなさい」
「人間」を長年見続けてきた人間は、相手と少しコミュニケーションを取るだけで相手の人間性やその確立までの経緯を感覚で察すると言う。
香菫は自分の内面を一瞬でそこまで覗いてきた水城と言う青年の鋭さに少々恐れすら抱いた。
しかし、自分には隠すような過去はない。
話す必要も機会もないだけで、囚われているわけではない。
自分は昔のことをもうちゃんと思い出にして今を生きているのだから。
だから笑顔で返す。
「本当にだいじょぶですよ。それよりいつから店長とそんなドッキリ企画を考えてたんですか?」
「いや、今日いきなりですよ。水城さんが『協力してくれませんか』って」
「常連だし店長とは何度も話して面識もあったから」
なるほど、それであの拙い演技と変装だったのか。
…ん? 香菫の頭の端に何か引っかかる。
何か…流してはいけない事が…そう、大事なことが。
そこまでで香菫は気がついた。
「店長………今日いきなり言われたんですよね…」
既に笑顔が引きつって震え始めていた。
「そ、そうだけど…何?」
「その、『パンスト』…どっから調達してきたんですか?」
「…いや、そのこれはだな! えっと…白石くん、あの、違うの」
「て、店長さんまさか‥?」
蓮もさっと青ざめて巻き添えを避けるかのように席を立ち店長から後ずさりで距離をとった。
「…この伝線してる箇所…私が今日着替える時に見つけて捨てたのと同じ…」
「違う! 違うぞ! 決してゴミ箱の中にストッキングが捨ててあるのを見つけてラッキー、なんてことは…」
「私のなんですね…」
「えと…その…」
「私のなんですね…!」
「………すいませんでした」
「馬鹿ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!!!!」
「うわっ! 目にも留まらぬ早さで連続の正面打ち!?」
「すごい! 崩しから四方投げまでの動作が流れるようだ!」
「えっ! 倒れた店長の足を持ち上げて!?」
「けっ…『蹴った』ぁぁぁぁぁぁっ!?」
蓮は思わず自らの急所に手をやり縮こまって震えた。
男としてそれは…想像するだけできつい。
蓮はやったことはないが合気道に関しては多少知識を持っている。
あんな技は演舞じゃやらない、使えるわけがない。
恐ろしい。
この女、恐ろしい。
水城蓮は白石香菫を怒らせてはいけない人間の筆頭として心に刻んだ。
「とにかく! 訴えさせてもらいます!」
気が済むまで(?)暴力の限りを尽くした後、香菫は顔を真っ赤にさせて言い放った。
「こ、これだけやった後で!? 水に流してくれてもいいんじゃ…」
「性犯罪者がそういうこと言いますか!? ひっ、人のパンストに、それも‥な所に顔を長時間当ててたなんて…!」
「さすがにちょっと気持ち悪いよな…」
「でしょう!?」
蓮の呟きに「我が意を得たり」とばかりに賛同する。
「まったく、本店の社長が泣きますよ!」
「ま、待って! 社長には言わないでくれ!」
店長は香菫の「社長」の一言に敏感すぎるほど反応した。
「さっき話したろう? 僕がどれだけあの人にお世話になったか! その感動の物語を!」
でろでろでろでろで〜ろん♪
おきのどくですが、ぼうけんのしょ2は(諸般の都合で)きえてしまいました。
「セクハラの罪は死を持って償うしかないでしょうが!」
「助けてぇぇ〜! 悪気はなかったんです! 本当に!」
「あの、さ。ボクが強盗役をいきなり頼んだせいもあるし…訴えるのはやめてあげられません?」
さすがに店長が可哀想になり蓮は2人の間に入ることにした。
香菫も、蓮とは一応客としての付き合いが長かっただけに、彼を無下にすることは躊躇われた。
瞳の中の殺意の炎も消火されたようだ。
「…じゃあこの店で無期限に何でも食べ放題の権利と有給休暇10日で手を打ちましょう」
黒い野心は消えるどころかますます燃え盛っていた。
「や! あの‥白石くんそれはちょっと…」
「なんですか? セクハラ訴訟で社会的に半ば殺されるのと自腹で自分のハレンチ罪の尻拭いをして事なきを得るのとどちらがいいですか?」
自分が「相手を許す側」に回るとなると多少無茶な示談交渉を始めるこの手腕。
蓮は似たような手口をテレビで見た覚えがある。
援助交際をする女子高生の特集とか。
(香菫さん、それは刑法249条の恐喝罪に相当するよ)
心には思っても、自分にとばっちりが降りかかるのではと思うと口に出せない小市民な蓮だった。
雛鸞の豆ちしき法律チェック!
刑法249条 恐喝罪 人を恐喝して財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。
2 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。
刑法250条 未遂罪 この章の罪の未遂は、罰する。
そもそも「恐喝」とは 暴力、及び相手の公表できない弱みなどを握るなどして恐喝すること。
相手を畏怖困惑させることで金銭その他を脅し取ること。
未遂でも年単位でお勤めが待っている重い犯罪ですので、皆さんは人の弱みを見つけても軽々しく脅さないように。
相手が罪が罰金数万円とかの罪だと割に合わないこともあるのですよ。気をつけましょう!
ちなみに、
刑法174条 公然わいせつ 公然とわいせつな行為をした者は、六月以下の懲役若しくは三十万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
「拘留」…1日以上30日未満
「科料」…1000円以上10000円未満
と言うことなので、明らかに香菫のやってることのほうが罪が重いんですが、この世には「ハレンチ系の罪は社会的に信用を失う」と言う最強の罰が!
人生をひとつふいにします。本当に、未遂でも冤罪でもハレンチ系の罪でだけは捕まりたくありませんね。
以上、読まずにすっ飛ばして問題ない、よい子の為の法律チェキでした。
以上のことから、店長が首を縦に振るのにはさして時間はかからなかった。
「…わかりました。それで水に流してくれるんなら……」
「うむ、反省したまえ」
こうして、ファミレス史に残る『sky luckの闘争』はバイトの女の子の圧勝として永く語り継がれることになる。
「まあそれはいいとして」
店長は少しでも早く話題を変えたいと言うのが見え見えの声掛けを行った。
これ以上追い込むのも何と言うか哀れなので香菫も蓮も敢えて口を挟もうとはしない。
もはや赤田修平は店長にして店の長にあらず! とでも言ったところだろうか。
「どうでしょう。『銀行強盗をテーマに面白可笑しい舞台』とやらの参考にはなりましたかな」
「ええ、さすがに実際やってみると想像もつかない展開になったりしてそれだけでも楽しめましたよ」
「って…さっきのってあれで銀行強盗を想定してたんですか?」
「いや…まぁ、一応」
「いやぁ、店長のアレは完全に中学生のコンビニ強盗レベルでしたよ」
「実際ここはファミレスなわけですから仕方ないとは思うよ。店長さんも頑張ってくれてたし」
「ま、セクハラして倒されただけですけどね」
「し、白石くんそれは言わないで‥」
「で、もう一回やってみませんか?」
「へ?」
「はい!?」
香菫の突然の提案に蓮も店長も一瞬面食らってしまった。
「さっきのあんまり良くなかったところを修正してやればもっといいものができると思うんです。私もう一回やりたい、今度はちゃんとヒロインらしく」
ちゃんとヒロインらしく。
どういうことを「ヒロインらしく」と香菫がとらえているのかはともかく、蓮は個人的なヒロインイメージを漠然と浮かべてみた。
「いや…それは無理なんじゃないかな…」
「え? どこが?」
しまった。
思わずツッコミを入れてしまった。
下手に口を出したら殺されそうだとさっきからのやり取りで既に知っている。
蓮の中で赤の警報ランプがフルコーラスを奏で始めた。
「や…その…そう! ほら、えっと、だから…」
蓮は脚本家である。
とっさの言い訳や嘘の理由など普段は得意分野ではあるのだが。
蓮は役者ではない。
どうにも矛盾が生じるこの不得意分野、アドリブが利かないことはなんとも悔やまれた。
「…だから、なに?」
もはや蓮にとっては小さな取調室で拷問を受けながら尋問されている位のプレッシャーを感じていた。
香菫は本当に何気なく訊いているだけなのだが。
言ったらこの絶望的な苦しみから解放される。
けれど、言えば「有罪」としてかんなりヤバイ刑を即執行されることは目に見えている。
まだ、誤魔化しは訊くだろうか?
それとももはや手遅れで、さっさと「ごめんなさい」と謝れば被害は最小だろうか。
蓮の背中を流れる汗は、イメージ、冬の日の冷水シャワー。
と言うが、香菫は「お客様」には手出しはしない。
「だから、あの、えっと、いざ劇だと思ってやると反応とか展開とか強引だったりグダグダに…その…ね?」
何が「ね?」なのか。
と言うか結局誤魔化してしまった。
これで既に手遅れだったとしたら、最悪の結末すら…し、死ぬ!?
蓮はもはや震え出していた。
と言うが、香菫は「お客様」には手出しはしない。
「あ〜、そっかぁ。でもそうならないようにちゃんと打ち合わせをしておけばなんとかなりますよ、きっと♪」
「……………………」
誤魔化せた。
もう全治一週間は覚悟していたのに。
過剰な被害妄想に取り憑かれていた蓮はその解放から真っ白になっていた。
「ん? 水城さん?」
目の前で急に固まったかと思ったら弛緩して真っ白になってしまった青年を前に香菫は戸惑うことしかできなかった。
「ちょっと、水城さん? 気持ちは痛いくらいわかるけど早いとこ帰ってきて」
「……えっ!? あ! そ、そうですね。う、うん。そうしよう!」
水城蓮、生存確認。
精神構造の一角が中破しているものの、正常に動作。
戦闘続行に支障は軽微、無視できるレベル。
被害状況はこんなところだろうか。
「やったぁ! じゃあもうちょっとリアリティとか凝ってみましょうよ。犯人像とかも」
「そうですね。僕もさっきの犯人役はいささか準備不足のせいで満足いくものとは言えませんでしたし」
「人のパンストは盗っといてよく言いますね」
「だから許してくださいって」
「じゃあちょっとじっくり考えて見ましょうか。犯人設定」
営業時間中のファミリーレストランとは言え、平日の3時過ぎ。
それに人口も、全国でも下から数えたほうが圧倒的に早い。
どうせ客などあと2時間近く来ないだろう。
来たって、いっそ巻き込んでしまってもいい。
そんな気持ちからか、3人はコーヒーを飲みながらまるで友達同士のように語り合った。
「やっぱり社会の醜さとか浮世の闇とか浮き彫りにしたい気がしません?」
「え〜〜、そういう考えは古いんじゃないですか?」
「そうですねえ、見るものに訴えかけるテーマがあるのは重要なことですけど、それ以前にまず作品として面白くあるべきで…」
「あ〜、なるほど」
「いやでも、犯人の人間性を出すとなると自然にそう言う方向性に…」
「人質とか必要じゃないですか?」
「あ〜〜、でも動きが制限されて一長一短が…」
「人質なしに警察は突破できないでしょう。銀行強盗犯がここに逃げ込んできたって設定なら」
「そうするとやっぱ既に周りは警察に囲まれてるって事ですよね?」
「おお! 篭城の図式ですか!」
「ビバ! 篭城!」
「人質はやっぱり子ども…女の子とかですよね。外から母親とかの声が必要じゃないですか?」
「それはむしろ犯人の母親が呼びかけるんじゃない?」
「いっそ人質の子のお母さんもここにいればドラマ性はましそうですけど…」
「銃撃戦とか必要じゃないですか?」
「それって、どっから銃調達するんです?」
「警官から奪ってて・・・」
「あ〜〜。でも銃撃戦はまずないですよね」
「あれじゃないですか? 隙を見せた犯人と揉み合っているうちに『ずきゅーーーん! うっ!』みたいな」
「いや、そこで顔芸はいらないですから」
「でもそれは盛り上がりそうですよね」
「じゃあ、死んじゃうんですか?」
「いや、すぐ病院行けば…」
「それを許す犯人じゃないでしょ?」
「あ! 逆転ホームラン!」
「香菫さん、こんなトコであずまんがパロはいらないですよ。一応訊きますけど、何ですか?」
「人質の中から『私は医者だ!』ってやつ、いけません?」
「…ベタですね」
「…ベッタベタですね」
「やっぱだめ?」
「ベッタベタですが…アリですね」
「オッケーですね。医者ネタ」
「じゃ、私かんごふさん」
「およめさん」
「何が!?」
「あ〜、なるほど。そこで黒幕の発覚ですか」
「で、ラストは?」
「やっぱ自首かなあ?」
「いや、でもさっきの店長の犠牲を無駄にせず警察が突入。犯人を射殺ってのも…」
「いつ僕が犠牲になる話に!? しかも犯人射殺!?」
「ああ、その展開はまだ保留でしたよ、香菫さん」
「そうでしたっけ?」
「店長さんの生々しい半生を語った説得が功を奏して心が揺らいで‥って話もまだなくなったわけじゃないですし」
「水城さん、生々しいってさり気に酷くない?」
『そして、およそ1時間にわたる、夢と希望を熱く語りあった会議が終盤を迎えた頃…「悲劇」は、起こった。
「で? 誰が犯人役やるんですか? 私も店長も水城さんも普通にいますよ。ついでに人質とそのお母さんと警察の人たちと…」
「!」
「!!」
長きにわたる奔走の結果、3人は気づいた。
ばっちり人数キャパオーバーだと言うことに。
そして、およそ1時間にわたる、机上の空論を熱く語り合ったあの輝く時間を3人が酷く後悔した頃…「事件」は起こった。
からーん、からーん。
店の入口に付けられたベルが鳴り響く。
もう4時を回っている。
さすがに今までは客が来なかったが、おそらくは早めの夕食を摂りに来た客か。
ううっ、こんな虚しい気分の時に…っ。
内心毒づきながらも、香菫は全ての感情を笑顔の奥に隠して振り向いた。
「いらっしゃいませーっ」
「お、おお、おとなしくしろおぉっ!」
「…………………………………」
頭にパンスト右手にナイフ。加えて左手に女の子。
先ほど話していたような強盗を前に、香菫は接客用の笑顔を引きつらせたままフリーズしていた。
時間は巡る。
されど世の中は、進まず。
ときは、らせん。
デ・ジャ・ヴュ。
香菫も、蓮も店長も、どこかで聞いたことがあるような無いような文句を思い出していた。
あまりの出来事に香菫は平静でいられなくなり、思わず仁王立ちをしてしまった。
「ただの強盗には興味ありません。この中に『願ったとおりに物事が進んでいく』能力がある人はあたしの所に来なさい、以上」
「香菫さん、あの、だからパロディはちょっと。ネタとしても今更微妙だしさ」
「そう言う水城さんが一番疑わしいんですけどね」
「そんな能力なんて常識的に考えてありえるはずがないでしょ?」
「じゃあこの状況は常識的にありえるって言うんですか?」
「奇跡的な偶然が…」
「いくらなんでもこんな偶然は…」
「てめえらふざけてんのか! 大人しくしやがれ!」
3人は完全に強盗の存在を忘れていた。
しかも人質までいる。
偶然だろうと能力だろうと、そんなことを論議している暇はない。
それに…。
香菫は強盗にわからない様こっそり笑った。
偶然だろうと能力だろうと、この展開はさっき自分達が考えたのと今のところまったく同じなのだ。
この先も同じになるなら、これは、ハッピーエンドだ。
怖くはなかった。
「ちくしょう…思わず逃げ込んじまったぜ」
強盗にとっては予定外だった。
震える足で銀行を襲った。
思ったよりも簡単に金を取れた。
罪悪感で胸は痛かったが、銀行にいた女の娘を人質にして、なんとか逃げてきた。
車を使ったのだが、パトカーに包囲された。
人質の少女を抱えて追いすがる警官を脅しながら走りに走った。
あまりに疲れたので、どこか一時身を隠せる場所を、と思わず駆け込んだのがこの『sky luck』だったのだ。
「…ウエイトレスのおねーちゃん?」
人質の女の子がぽつりと呟いた。
人質にとられてすぐに、男から「乱暴なことしたくねーから静かにしててくれな」と言われて以来、健気にも大人しく沈黙を保ってきた。
男の逃走中、そこは本当に助かった。
暴れられていたら、とっくに捕まっていたかもしれない。
「へ?」
香菫が目を上げると、少女とばっちりと目があった。
あれ? 最近見たような…?
「何だ、嬢ちゃん? 知ってる奴なのか?」
女の子は男に怯えることはなかった。
人質として刃物を突きつけられて吃驚することは多かったが、あの最初の言葉としっかりと抱き上げていてくれる男に優しさを感じていた。
「うん、だって茜さっきここでお昼ご飯食べたもん」
その瞬間、香菫は自らを茜と呼んだ女の子のことを思い出した。
「あ、あなたお昼の…!」
2時頃、母親と一緒に楽しそうにお子様ランチを食べていた光景が浮かぶ。
何と言うか、世界は狭い。
もしやこれは全て誰かの陰謀じゃないのかと言う線がなにやら濃厚になってきた気がする。
「も、もしかして。は、犯人のあなたも実は私の生き別れの兄…とか?」
さっきの設定なら、そうなる。
しかし、すると店長が実の父親で、蓮とも義理の兄妹と言う図式の疑いまで限りなく黒に近づくのだが。
「はあ? お前が…妹ぉ?」
男は何を言われてるのか分からなかった。
強盗の逃亡中に入ったファミレスでウエイトレスからいきなりこんなことを言われたら動転しても仕方ないのだが。
そして、後に事情聴取の中でこんな発言を残している。
『北里銀行強盗事件 供述調書より一部を抜粋、
(省略)
俺はその時、そこのファミレスのウエイトレスの怖さをほんのちょっぴりだが体験した。
い…いや…体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
あ…ありのままその時言われた事を話すぜ!
『も、もしかして。犯人のあなたも実は私の生き別れの兄…とか?』
な…何を言ってるのかわからねーと思うが、
俺も何を言われたのかわからなかった…。
頭がどうにかなりそうだった…。
勘違いだとか超が付く馬鹿だとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ。
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
(後略)
9月28日木曜日 被疑者 藍羽剛(31)(拇印)』
「…なんか、さすがに調子に乗りすぎなんじゃないですか?」
「水城さん? 誰のことを言ってるんです?」
「あ、いえ。何でもないです。どうせネタですから」
「ネタ? どういうこと?」
「分からないならいいんですよ。ボクが一人で憤ってるだけなんですから」
「…そう? ま、いいけど」
「で? あなたは私のお兄ちゃんなの? 違うの?」
「お、お兄ちゃんって。お前なあ」
訳が分からない。
絶対違う。
ずっと一人っ子だし、見た目でも10歳近く歳は離れているから、妹が産まれて育てられなかった、とかなら知っているはず。
さらに言えば、両親は見合いで、どちらも浮気ができる甲斐性はなし。
と、分かっていてもなんとなくじろじろと香菫のことを探るような目つきで見た。
髪はさらりとした黒のセミロング。
瞳は大きく、唇は少しとがった感じで小さめ。
まだまだ暑いと言うのに袖はきっちりと手首まである白地長袖のウエイトレス服の襟元からはきめ細かい白い肌と、玉の汗。
胸部の膨らみはそれなりにあって、少々きつめに締めているベルトは女性特有の腰の丸みを何気に強調している。
膝上5センチほどの黒プリーツスカートに、白いニーソックス。動くと一瞬チラリと僅かに腿が覗く。
ごくり。
「…今、どうして唾を飲まれたんですか?」
「明らかに生唾ゴックンしましたよね」
蓮と店長のツッコミは素早く、冷酷無比の正確さだった。
「ちがっ! これはっ…!」
「おじちゃん顔赤いよ? どきどきしてるし。お風邪ひいたの?」
藍羽は慌てて否定するも、茜の無邪気な一言で撃沈した。
「ほほう、惚れましたね?」
藍羽もいい年だが、まだまだ店長にとっては若者だ。
年寄りにとって、若者の色恋沙汰は楽しいものだ。
「おやおや、『お兄ちゃん』とか呼ばれたいわけですか? 強盗さんは!」
蓮は心なしか不機嫌そうにきつい非難の声を藍羽に浴びせた。
そこで店長はまたも気づいた。
蓮も香菫に惚れた、と。
この心理をうまく扱えば、この状況を無事に収め、自分がヒーローとなることも夢ではないかもしれない。
そこの恩を以って、香菫にまた店長としての威厳を回復させることもできるかもしれない。
香菫がそもそも最初から自分に威厳など微塵も感じてなかったことには気づかない赤田修平であった。
「ふん、ま、そーゆー目で人のこと見るんだったら兄ってのは無さそうですね」
「いや、あってたまるか」
藍羽は常識的に返答してから気が付いた。
なにやらこいつらのペースに嵌まっている、と。
なんとなくだが、良くない予感がする。
本能的に藍羽は感じとった。
「いいから大人しくしろ! 危害を加える気はねえ! まずは飲み物と食事を用意しろ。俺とこの嬢ちゃんの2人分だ!」
「わ〜い、じゃあ茜デザートにDXパフェ食べていい?」
昼、母と食べた時には我慢させられた品だ。
この店にあって2650円と言う高額の値段のせいもあるが、大きさもかなりのもので、普通大人でも食べきるのに苦労する量なのだ。
当然と言えば当然だが、子どもの「食べたい」気持ちの前にそんな言い訳は通用しない。
「ああ、かまわねえよ。嬢ちゃんには迷惑かけてるからな」
藍羽は基本的に子どもが嫌いではないし、悪いことが躊躇いなくできる性格でもない。
「おい! 早く用意しろ! 俺にはこの店で一番高い料理だ!」
ナイフを振り、虚勢を張って精一杯の脅し文句を使うが、店長はその人生経験で半ば見抜いていた。
蓮も同様ほとんど安心しきって、実際の強盗犯を観察するつもりでいた。
そう、男2人はもはや硬派に突っ張ろうとしている優しい男、藍羽に可愛さすら感じていた。
それに、なんなら香菫の合気道技で倒してしまえばいい。
けれど、期待を受けた当の香菫は違った。
さっきまでどうも打ち合わせの時の妄想と現実との区別が曖昧になっていたせいで大胆な物言いをしていたが、いい加減目が覚めた。
本物のナイフを目の前にして、緊張感が急激に高まっていたのだ。
藍羽の精一杯の演技をそれと見抜く余裕が無くなっていた。
レストラン内の空気も、冷房が変わらず利いているのにも関わらず、暑く、重くなっていく気がする。
「ねえ、その子のお母さんは? どうしてるの?」
我知らず汗を拭いながら尋ねる。
「銀行から嬢ちゃんと出て、それっきりだよ」
「そう…」
「なんだ? 別にどうこうする気はない。いずれこの嬢ちゃんは母親の元に帰すよ。それより早く…うっ!」
藍羽が急に苦しみだしうめき声を上げる。
驚いてよく見ると、首もとに紐のようなものが食い込んで天井に伸びている。
天井は…板が一枚外れている。
「い、いつから? ていうか何者!?」
「ど、どなたか知りませんがお店壊さないでくださいよぉ!」
驚きと悲鳴を上げる蓮と店長であったが、聞こえてくる声に耳を澄ます。
いや、これは、「唄」だ。
「ひと〜つ、人より貧乏で〜♪」
…そう、数え歌だった。
「ふた〜つ、2人で暮らしてる〜♪」
若い女の声で。
「み〜っつ、みだらな未亡人〜♪」
……台無しだった。
「み〜っつ、みんなの人気者〜♪」
さすがに愉快な歌詞でない事は自分でも分かったらしい。
「………そう言えばわたし友達いなかったわ」
黙っておけばいいのに天井裏でいらん事を言い出した。
「み〜っつ、……み〜っつ……あ!」
なにやら思いついたらしい。
ちなみに、藍羽は首が絞まったままである。
「み〜っつ、みるみる悪を討つ!」
凄い嬉しそうな声が響くが、確かに藍羽の顔色はみるみる赤から紫になっていく。
「とうっ!」
そして、救世主(?)はついに天井裏から飛び降りた。
と同時に、藍羽の体が空中に持ち上がった。
「愛しい我が子を悪から護る、必殺仕事母。青木緑、推参!」
「ママ!」
…すでに分かっていたことだが、なかなかお茶目なシングルマザーだった。
「ってか強盗死んじゃいますって!」
慌ててツッコミを入れる蓮と対象に、緑は冷静だった。
「何を言うの。人の娘を人質に逃げるような外道な振る舞い。人間じゃないわ。外道死すべし!」
「死すべしじゃありませんって! あなたが人殺しになっちゃいますよ!」
「…じゃあ殺さない程度に苦しめるわ」
「もうやばいから! めちゃめちゃやばいから!」
「ええ? あと30秒くらいは…」
「戻ってこられないところまで逝くには十分です!」
「でも空に魂が浮かんで消えていった後でも輸血して心臓動かせば生き返ったし‥」
「何の話ですかー!?」
すでに、藍羽は白目を剥いていた。
しかし最後の力で必死に右手を振り上げ、ナイフでテグスをなんとか切った。
「ぐはっ! げぼっ! ぜほっ! かはっ! はっ! はっ!……」
「ちっ、助かったか」
「めちゃめちゃ殺す気だったじゃないですか!?」
「はぁ…はぁ…てめぇ〜〜、何しやがんだ!」
「ああ、茜。良かった無事で!」
緑はコロリと母親の顔に戻ってしまい、娘を抱擁しながらさめざめと涙を流した。
「しかしまあ凄い技を持ってますね。普通にやっても取り押さえられるんじゃないですか?」
「は? わたしがですか? そんな、無理です。わたし腕力も体力も昔からぜんぜん駄目なんですよ」
それは嘘だろう!
その場にいた全員が同じ思いを抱いた。
急に「母親化」して沈静化してしまったらしい。
「と言うか…青木さん、でしたよね」
「緑で結構です」
藍羽と茜の食事を用意し、店長が緑に話しかけた。
緑が改めて名乗ったのを聞いて香菫と蓮が会話に割り込んでくる。
「青木緑…あおきみどり…青、黄、緑。いじめられたりしませんでした?」
「ええ、あの時は親を恨んだものですが、高校くらいからいい印象をもたれるようになったんですよ?」
「あの…それでも、『茜』は酷いんじゃないですか? 青、黄、赤ねって信号機ですか」
「わたし、やられたらやり返す性分なんです」
「う〜わ〜。茜ちゃんとばっちり〜」
「って2人とも、話に割り込まないでください。緑さん・・・あなた、この状況でどうやってここまで入ってきたんですか?」
店長のいつになくまじめな顔は香菫を困惑させた。
「どうやってって…え?」
そう、香菫は今の今まで外の状況を見ていなかった。
「ほ…包囲、されてる」
窓の外の景色をパトカーと機動隊がびっしりと埋め尽くしている。
テレビドラマでしか見たことのないこの光景。
「強盗が押し入って間も無くでしたよ。どんどん集まりだして。白石くん本当に気づいてなかったんですか?」
こんな時の擬音は、「ぽか〜ん」といったところだろうか。
香菫は本当に気づいていなかった。
「確かに、天井裏から現れてありえないくらいのテグス扼殺技術を見せたり…何者なんですか?」
こちらもまじめモードに入った蓮が疑問をぶつける。
回答者、緑は…固まっていた。
「えと…わたし、が?」
こんな時の擬音も、「ぽか〜ん」で大体あっているだろう。
「あの、ごめんなさい。覚えて…ないんですけど」
警察の包囲を一般人が潜り抜けたことも、殺人の意思とその未遂を惜しげもなく披露した超絶仕事人テクも。
「これって二重人格の一種なんでしょうかねえ‥」
無論、蓮のこの言葉に答えられる者もなく。
きょとんとした緑を囲み、3人は、「初めて見た…」と言う思いで一杯だった。
「ふう、食った食った」
「おなかいっぱいー♪」
大人4人が二重人格談義をして呆けているうちに藍羽と茜は食事を終えていた。
「外ものっぴきならない状態になってやがるし。そろそろ行こうかねえ」
「おじちゃん行っちゃうの?」
「あ〜、悪いんだけどよ嬢ちゃん。もうちょっと一緒に来てくんねえか? ちゃんとお母さんのトコには帰してやるからよ」
「うん、いいよ」
「すまねえな、つき合わせちまって」
「ううん、パフェ食べさせてくれたもん!」
無邪気な笑顔が藍羽の胸を締め付ける。
こんな心の綺麗な子と、情けない自分。
だが、後にはもう引けない。
捕まりたいわけもない。
やるしか、ないんだ。
だから、この希望への決意をした途端耳に届いた声は、藍羽を絶望に落とす神の一手であった。
『剛、かーちゃんだよ!』
外から拡声器でデカデカとそこいら中に鳴り響く声。
藍羽の母、藍羽多美の声に間違いはなかった。
「へぇ〜、強盗さんツヨシって名前なんだ」
「それがこんなことになって。まったくもって『ツヨシ、しっかりしなさい!』ですよね」
「だから店長さん、面白くないですって」
「てめーらは黙ってろ!!!」
『剛アンタ…人様には迷惑かけるなってあれだけ言ったのに』
「か…かあちゃん…俺…俺、親父を…」
店内で呟いても母に通じるはずもない。
はずはない、が。
潤みかけた眼を瞬きで誤魔化す。
それでも、視界は霞んで止まない。
『とーちゃんから聞いたよ、電話に出た後、急に飛び出してったって。あんた言ってたそうじゃない。「大変だ親父! 親父が車で子ども撥ねちまったんだ! 早く1000万円振り込まないと手術ができなくて親父が人殺しになっちまう!」って…それって振り込め詐欺じゃないのかい? なんでとーちゃん居間にいるのに慌てていっちまったんだよこの馬鹿息子…』
視界が、急に乾いた。
乾いたと思ったら、眩んだ。
涙がまた滲んで来たと思ったら、笑えて来た。
自分の人生ひとつ捧げて親父を救ったつもりだった。
悪いことをしたと苦しんだが、後悔はしていなかった。
なのに。
悔しい。
情けねえ。
悔しい。
情けねえ。
悔しい。
情けねえ。
悔しい。
情けねえ。
悔しい。
情けねえ。
悔しい。
情けねえ。
恥ずかしい!
「こらオフクロォ! そんな恥世間に晒すんじゃねええええええ!!!!!」
頬が熱かった。
恥ずかしくて、そして涙で。
「うわっちゃ〜、親孝行のつもりでとんだ馬鹿息子だぁ」
「こんな時ってかける言葉もありませんよね」
「人生って何やっても裏目に出るんですよね…」
「さすがに犯人さんに同情しますね」
「おじちゃん、何が悲しいのかなあ?」
店内の面々も笑ったら悪いとは思いつつも慰めも思いつかず、ニヤニヤするばかりであった。
『まったく、31歳にもなって働かずに家でごろごろしてるから簡単に騙されるんだよ。剛、いいかげんしっかりしな!』
「出ましたよ、生『ツヨシしっかりしなさい』!」
「あ〜、ツヨシさんニートの人かぁ。ほんと、しっかりしなさいだねそれは」
「香菫さん、笑っちゃ悪いですよ。本人としては働いたら負けなんですから」
「テメーも笑うんじゃねえよっ! ニートじゃねえ! 雇ってもらえねえから働けてねえだけだ!」
「店長、それって無能ってことですよね?」
「まあ、私の失業中でもアルバイトくらいはできましたからねえ、よっぽど…」
「『よっぽど…』なんだこら! ほんとに刺すぞ!」
「ねえママー。『にーと』ってなに?」
「人間失格のことよ」
「おめーも娘に変なこと教えんじゃねえ!」
しかもかなり偏見の入った教え込み方であった。
外の母、多美からの声は、確実に藍羽剛を絶望の縁へと追いやったのだ。
悪魔の拡声器は、母から警官の手にようやく戻った。
『藍羽ー! お袋さんの声が聞こえたろう! お前がナイフ突きつけた銀行員もおおよそ気づいてたから偽業者への送金の振りだけで止めといてくれてる! 今出てくれば罪は軽いぞー!』
『今出てくれば』
その言葉は飛び付きたいほどありがたい言葉だった。
けれど、あの警官の声は笑いをこらえていた。
馬鹿にされ続けた人生、また馬鹿なことをやって、今出て行ってもいい物笑いだ。
出て行きたく、ない!
「行くぞ、嬢ちゃん」
藍羽は、逃げる道を選んだ。
「ついて行っちゃ駄目よ、茜」
母の声は、立ち上がった娘を振り返らせた。
「おじちゃんといっちゃ駄目?」
「お母さんと一緒にいて。お願い茜」
「…おじちゃん、ごめんね」
娘はぺこりと礼儀正しく頭を下げて母に駆け寄り、抱きしめられた。
「なあ、嬢ちゃん頼むよ。おじさん一人じゃここから出られないんだ。嬢ちゃんのお母さん。人質はポーズだけだ。絶対危害は加えねえ、だから」
「悪いことは言いません。自首しましょうよ、ええと、藍羽さんでよかったんでしたっけ?」
店長がゆっくりと立ち上がった。
「今更情けない姿で出て行けるかよ」
「だから、女の子を楯に逃げるんですか? それこそどうなんです。情けなくはないんですか? それでもう一度やり直すことはできるんですか?」
「うるさい」
他の者は何も言えなかった。
蓮も香菫も、あの打ち合わせのときに「長い人生の経験を活かして犯人を説得する」と言うのはあったけれど、店長が実際に語りだすとは思えなかった。
今、追い詰められた藍羽は逆上するかもしれない。
精神的に不安定になっているのは眼を見れば一目瞭然だった。
店長、赤田は内心震えていた。
自分だって大きなことを言えるわけではない。
ただ、藍羽と同じか、それ以上に苦汁を嘗めて生きてきた、それだけだ。
50年生きてきて、度胸は結局さっぱり身につかなかった。
バイトの小娘にも言い様にあしらわれる日々。
それでも、道を踏み外そうとする「後輩」を放ってはおけない。
じっくり、一歩一歩藍羽に詰め寄っていく。
「かっこわるくていいじゃないですか」
「うるさい」
「情けなくって、世間に顔向けできないくらい恥ずかしくたっていいじゃないですか」
「うるさい!」
「だってまだやり直せるでしょう?」
右手のナイフに、赤田の手が届いた。
「うるせえって!」
「しみったれたうだつの上がらない安月給のヘボ店長でも…1日の終わりの一杯は美味いんですよ。幸せだって思えるんですよ」
力を篭める。指に手をかける。
「うるせえって言ってんだろぉ!!!」
赤田の腹に衝撃が走る。
「店長ッ!?」
左手、ナイフじゃ、ない。
それでも藍羽のやり場のない拳は赤田をそのまま昏倒させる威力はあったようだ。
一言呻くと、赤田はその場に倒れ伏した。
「店長!」
「待って香菫さん! 今の彼は危ない!」
思わず赤田のもとに駆け寄ろうとした香菫を蓮が後ろから羽交い絞めのように止めようとした。
が、あっさり抜けられて投げられた。
反射的に合気道の技を使ってしまったようだった。
「ご、ごめんなさい!」
「いや、でもこれしかない」
「…え?」
「嬢ちゃん、頼む! 俺と一緒に来てくれ!」
「おじちゃん、怖い…」
「…! 分かったよ、じゃあ無理やりでも連れてくしかない!」
しっかと互いに抱き合う親子にナイフを持った狂気が近づく。
母は、我が身を楯に子を護ろうと、より深く丸く抱擁した。
「ま、待て!」
震えながら声をかけたのは蓮だった。
藍羽がゆっくりと振り向く。
こちらも、既に恐怖に震えていた。
「何だ…お前も…邪魔、するってのか?」
ナイフがぎらりと光るのが見えて、蓮は息を呑んだ。
怖い。
でも。
「うわあああっ!」
叫びながら藍羽に突進していく。
藍羽の、右手の側に。
「あああああああああああああああっっっ!!!!」
藍羽も、眼を瞑り、叫びながら右手を突き出した。
死んだ、と思った。
蓮は体中の感覚がすべて無くなって、死を意識した。
次の瞬間、どっと血液が流れ込んだように全ての感覚が戻った。
かわしてる。
刺さって、ない。
そそけだつ恐怖の感覚までも共に戻ってきたが、そんなことに構ってはいられない。
「いまだぁっ!」
声を聞いて藍羽もびくりと眼を開けた。
刺してない。
殺してない。
安心する前に反射的に頭の中で警告ランプがなった。次の認識は、左手側だった。
ウエイトレスの少女が迫っている。
無防備の左手に飛びつく。
これが蓮の作戦だった。
いくら香菫の合気道でもナイフを持ってキレた相手には怯える。
腰が引ければそれは致命的なものになるかもしれない。
だから、自分が囮役を務めた。
そもそも、暴漢相手に女の子に頼るのは嫌だ。
相手も冷静じゃない。
突っ込んでいって避けるだけなら何とかなるかもしれない。
せめて、それくらいはやってやりたい。
そして、それは見事上手くいった。
「あああっ!!!」
思わず振り回した右手が、香菫の左肘の少し下に当たった。
鋭利なナイフは制服を難なく裂き、血が飛んだ。
「きゃぁあああっ!」
「ひあああっ!」
右手先から伝わる感触に恐怖した藍羽はナイフをとり落とした。
その瞬間、強盗犯、藍羽剛は宙を舞った。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
「か、香菫さん、大丈夫!?」
「う、うん。それよりこの人縛らないと」
「その必要はねえよ」
藍羽が呻いた。
「あ、頭から叩きつけたのに…」
「痛かったけどよ。お蔭で目ぇ覚めた。…すまなかった。止めてくれなかったら、俺はとんでもないことしちまうとこだった」
それを聞いて、蓮の腰は安心してくだけた。
「落ち着いたんですね、藍羽さん」
「ああ。嬢ちゃんも、お袋さんも悪かった。…捕まりにいくよ。店長さんにも、礼言っておいてくれ」
「はい、承りました」
怪我をした左腕を押さえながら、香菫は営業スマイルで応えた。
「ほんとすまねえな、腕。治療費、かーちゃんに頼んどくよ」
「あら? 私は引っ掛けて転んだだけですよ、お客様」
せっかくやり直せるこの人に傷害罪のおまけまでつけるのは誰の幸せにもならない。
切り傷は慣れているし、黙っておけば、それでいい。
「へへ、ウエイトレスさん。ありがと、いい店でご馳走になったよ」
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
取って置きの笑顔。
こんなの、いつもの仕事でも使わない。
「おじちゃん…いっちゃうの?」
「ああ、ごめんな、嬢ちゃん」
「ううん、また遊んでね、おじちゃん」
「…! ………ああ、また、きっと、な!」
茜のその言葉を聞いて、藍羽は背を向けてしまった。
だから、震える声で頷く藍羽の表情は誰にも分からなかった。
「じゃあな、茜ちゃん」
「またねー!」
「あ! 藍羽さん、お会計!」
雰囲気をぶち壊すのは、程々にしましょうと言う教訓。
「そうだ、香菫さん。腕! 大丈夫なの?」
藍羽がいなくなった店内で、蓮が思い出したように騒ぎ出した。
「ああ、大丈夫ですよ、慣れてるし。」
「慣れてるってそんな! 血が出てるんだし、手で抑えてるだけじゃ駄目だって! ほら見せて!」
「ちょ、ちょっとやめてください!」
「いいから!」
蓮が香菫の制服の長袖を捲くる。
「あ……!」
手首から、肘にかけてあったのは、傷跡。
もう薄赤い痣になっているだけなのだが、幾重も、いくつも刻まれたこれは、紛れも無い、切り傷の後。
手首に、他より太い跡が残っている。
自らの命を、絶とうとした傷。
「あ…ははは、いっぱいの線で、まるで縞模様でしょう? その、だから『慣れてる』って言ったじゃないですか。ほら、もういいでしょ?」
香菫は笑って袖を戻す。
蓮は黙ったまま自分のネクタイを乱暴に引き剥がし、ハンカチを傷口に当ててきつく縛った。
「…応急処置」
「あ、ありがとうございます」
店長を起こし、全員で外へ出た。
店内の時計は6時にさしかかろうとしている。
香菫にとって、10時間ぶりの空の下。
思わず伸びをした。
普段もっと働いてる日だってあるのだが、いつもよりも、凄く、気持ちよかった。
そんな香菫を蓮はじっと見つめていた。
この少女は自分など想像もできない苦しみを自分より短い生の中で味わってきたのだろう。
それでも、今この少女は笑っている。
あの明るさは演技なんかじゃない。
そうできるようになるまでに、さらに辛く、厳しいことを乗り切って来たに違いないのだ。
強いな、と蓮は思った。
この少女のように、強く在りたい、と。
「ね、どうしてそうやって笑っていられるの?」
思わず聞いてしまった。
心に立ち入るような質問は、しないように気をつけていたのに。
けれど、香菫は空を見て笑っていた。
「う〜〜〜ん、難しい質問ですね…そうだなあ、このお店と店長にも凄く感謝してる部分はいっぱいあるけど…」
家族、恩人。
けれどそれだけじゃない気がした。
辛いとき。
自分がどうしようもないものに見えて仕方ないとき。
また手に刃物をあてて立ち尽くしてしまったとき。
自分が見たものは…
少女を、救ったものは…
「あっ、空!」
「そら?」
「そう、空を見て元気になれたんですよ!」
青空も、朝焼けも、夕焼けも、今のように昼と夜が入り乱れる時間も。
月夜も、真っ暗の夜は…ちょっと苦手だけど。
雲も、お日様も。
「なんだか、すこ〜し元気をもらったんですよ」
「なるほど、『すこし』か」
「え? どういうことですか?」
「いやいや、独り言」
すこし。
それはほんの些細なものだけど、それは心を支える大切な『すこし』で。
その『すこし』が無い為に悲しい思いをする人も大勢いる。
そして、それらは自然がくれるだけではない。
ボクがこの女の子から貰う元気も、その大切な『すこし』だろうから。
蓮は胸にぐっと手を当てて、改めて香菫の眼を見た。
「またこんな風に香菫さんと楽しくてどきどきする一日過ごしたいな。また『誘って』いい?」
「あれ? まるで自分が今回の事件起こしたような口ぶりですね」
「まさか。ボクはありふれた普通の脚本家だよ」
「はいはい。と言うか…水城さんこんな『キズモノ』が気に入ったんですか?」
左手を上げながらにたりと笑う。
「気にはしないつもりだけど…ボクじゃ嫌?」
そう言うと香菫はまた笑顔で笑い出した。
蓮が心惹かれた笑顔で。
「あははっ! お友達くらいからならいいですよ。私理想高いんで」
「とほほ、安売りとかしないんだ?」
「あったりまえでしょ!?」
笑い声は空に吸い込まれていって。
胸にたまった何とも言われぬ気持ちを誰かに伝えたくて。
思わず仰ぎ見た空。
夜の帳が落ち始めたそこに、2人は同時に見つけた。
あれは、どちらの声が早かったのだろう…
「あ! 一番星!!!」
Fin』
「って言うラスト、感動しません?」
「なんで水城さんと私がいい感じにならなくちゃいけないんですか!?」
「それより僕の出番殴られて終わり!? なにそのフェードアウト!?」
「だめですかぁ?」
「私の美少女っぷりを前面に押し出すシーンは満点をあげられます」
「青木親子もなんか都合で出してる感が否めませんよ。もうちょっと細かな描写を…」
「でもそれは容量の関係で…」
「…なんの?」
「それより強盗の理由が『振り込め詐欺』って…呆れるにも程が…」
「店長さんの希望通り現代社会の闇とか浮き彫りにしてるじゃないですか」
「それだって見せ方がありますよ。僕の見せ場如何にも『うらぶれたオヤジ』って感じじゃないですか」
「それ言うなら私だって自殺歴も自傷癖もありませんよっ!」
「だからそれはドラマ性を…」
・・・強盗劇再試行のための話し合いは、終わることなくまだ続いていた。
現在、5時37分。
ファミリーレストラン『sky luck』に、まだお客は来ない―――――