『 sky 』
その少女を呼んだ客は親子連れだった。
食べ残しが転がっているテーブルを慣れた手つきで拭いていたウエイトレスの少女は、ただいま参りまーす、と大きな…しかし澄んだ可愛らしい声で返事をする。
そして、汚れた布巾をそのテーブルに置き、客に見えないように小さく手を払うと、パタパタと小走りで親子のもとへと駆けていった。
母親の手には伝票が握られている。
会計なのだろう。
「お会計、失礼いたします」
少女がレジカウンタに入ると、母親が少女に伝票を差し出す。
それを笑顔で受け取ると、少女は伝票に書かれている内容を流れるようにレジに打ち込んだ。
まるで軽快にステップを踏んでいるかのような、テンポ良く、かつ無駄のない入力を終えて少女は顔を上げる。
「お待たせいたしました。お会計は1470円になります」
実際のところ大して待たせてはいないのだが、テンプレートに則り金額を読み上げた。
ミートソーススパゲティと野菜サラダ、アイスコーヒー、オレンジジュース、お子様ランチ。それにチョコレートパフェ。
これだけの量を注文してこの金額なのだから、この店は本当にお財布に優しいなぁ…とレジを打つたびに少女は思う。
もっとも、だからこそ今ここで接客出来る要員が店長と少女しか居ないわけなのだが。
本当はもうひとり接客要員のアルバイトがいるが、今日は来ていない。
一月ほど前から「今日は休む」と宣言していたので、今頃はどこかを遊び歩いているのかもしれない。
母親は伝票を見てあらかじめ用意していたと思われる1470円ぴったりの代金をレジカウンタの上の受け皿に載せる。
少女は金額を丁寧に確認してレジスターに入れ、ありがとうございました、と嫌味なくぺこりとお辞儀をした。
子供の手を引いて店を出る母親を見送り、最後にもう一度「ありがとうございました」と親子の背中に笑いかけ……そして、少女は目の前の壁に掛けられている時計を見上げた。
午後の2時10分。お手軽な値段の昼食を求めて来店した客も次第に減る時間帯。
店内には空いているテーブルが目立つようになってきた。
お昼時を過ぎれば、あとしばらくは遅い昼食を求める客が時折来店する程度。
基本的には勤務時間内でありながらもちょっとした休憩のようなひとときを過ごす事になる。
もちろん、少女も例外ではない。
レジカウンタの影で制服の皺を伸ばすと、少女は静かに息を吐いた。
お昼時の混雑で張り詰めていた気持ちがゆっくりと解けていくのが分かる。
今までは気付く事すらも出来なかった、店内に僅かに残る料理の匂い。
「……そういえば、私もお昼まだだったなぁ」
少女は眉をハの字にして小さく呟く。
きゅるるる。
そして間髪いれず、少女のお腹が切なげな鳴き声を漏らした。
少女は慌てて両手でお腹を押さえると、頬を真っ赤に染めて店内をきょろきょろと見回す。
目に付くのは空いたテーブルばかり。
奥に一つだけ、若いスーツの男性が席についているテーブルがあったが、当の男性は何かを書いているのか、食い入るようにテーブルを見つめたまま右手を忙しなく動かしていた。
この時間帯にはいつも同じ場所に座って書き物をしている、ある意味常連ともいえる男性なのだが、幸い少女のお腹の虫の鳴き声は男性の耳に入っていなかったようだ。
あるいは、耳に入っていても気にしていないだけなのかも知れないが。
少女はお腹をぎゅっと押さえたまま、ほっと息を漏らした。
ウエイトレスは食事時が一番の稼ぎ時であり、故に昼食や夕食は一般的な時間帯には食べられない事が多い。
自分のお腹が空いている時に他人の食事を眺めてなければいけないというのはもはや拷問でしかないのだが、いざ食事時になると忙しさのあまり空腹も忘れてしまうのはある意味幸運と言えるかも知れない。
もっとも、それは忙しい時間帯だけ。
食事時が過ぎれば、少女の中で無意識のうちに押さえ込んできた腹の虫がゆっくりと活動を再開するのだ。
そう、今のように。
「今ならお客さんも少ないだろうし、休憩を入れようかな…」
店長は客が引き始めたところを見計らい、少女よりも少しだけ早く休憩室に入った。
そろそろ、交代しても良い頃だろう。
お腹の虫に、そして自分自身に栄養を与えなければ。
少女は奥の席に座っている男性を見る。
相変わらず書き物に集中しているようで、少女を呼びつける様子は無さそうだ。
迅速に引継ぎをすれば、問題なく休憩に入る事が出来るだろう。
少女はそう思い、休憩室に向かおうとしたその時。
からーん、からーん。
店の入口に付けられたベルが鳴り響く。
先程の男性が外に出たとはさすがに考えられないので、おそらくは遅い昼食を摂りに来た客か。
ううっ、こんな時に…っ。
内心毒づきながらも、少女は全ての感情を笑顔の奥に隠して振り向いた。
「いらっしゃいませーっ」
2メートルに近い人の影がそこにはあった。それは少女の挨拶など耳に入っていないかのようにピクリとも動かず、ただそこにいた。黒い衣服にぼろぼろのコートを羽織ったその巨漢はあまりにも店の雰囲気にはそぐわず、無言の空気はただ少女を威圧していた。
「あの…お客様?」
それでもこの店に入ってきた以上お客でかわりないわけで、恐る恐る少女はその巨体に話しかける。
見上げるように少女はその顔を見る。何も感じず、感情のない瞳。その瞳は焦点が合っていないかのようにただ真正面を見つめていたが、急にその少女の目を見る。感情のないその瞳は焦点が合うに従って狂気をはらみ、悪意のある歓喜が顔からほころんだ。
こうしてこの店の惨劇は始まった。
誰かの声が彼には聞こえていた。その声はどこから聞こえるのかわからない。ただ漠然とした二つの声が聞こえていた。
一人の男の声はだいぶガラの悪そうな口ぶりだったけれど、もう片方の少女の声は少し可愛げのある声で、でもそれを無理に凛々しくさせているように聞こえる。
彼は何を話しているのか聞きたくなったのだが、声は聞こえてもそれが何を言っているのかわからなかった。まるで何かフィルターのようなもので音が遮られて、漏れてきた音を聞いているような感覚である。
漠然と聞こえる声を聞きながら、彼は思い出そうとしていた。
この声は確か……。
漠然とした少女の声には聞き覚えがあった。しかし後一歩というところでその少女の名前は出てこない。
「ちょっとぉ、起きてる?」
外野の声に押され、話し声が少し遠くで聞こえるようになった。それでも懸命にその少女の声を聞き取ろうとしその少女を思い出そうとする。
しかし、外野の声はそれを許そうとしなかった。
「起きなさいっての!」
響く声と頭に電撃が走るかのような一閃。彼はその衝撃で目を覚ました。
彼の目に映るのは広いロビー。大きな電光掲示板に優しい声のアナウンスが響き、流れ出る喧騒のBGMは眠ぼけ眼の彼を起こす。どこからともなく通り過ぎる大きなトランクケースを備え付けのローラーで後ろ手に引く人たちは、おのおのの目的の場所へ向かいエンジン高鳴る機体に乗せられどこかへ旅立とうとしている。
空港の広場にあるベンチで彼はふとまどろみに耽っていた。
「迎えに来てくれるのはうれしいけど、するんだったらきちんと出迎えてほしかったかな」
彼の前には少女がしゃがんでいた。背中まで伸ばした亜麻色の髪にブルーの瞳、Tシャツにデニムのスカートとラフな衣服を着た少女は、そのブルーの瞳をまっすぐ彼のほうに向け、微笑みかけていた。
「………ウィンディ……?」
寝ぼけ眼な彼はおもむろにその名前を口する。ボーっとしたその表情はまだ事態を把握し切れていないようだった。その表情を確認したウィンディと呼ばれた少女はさらに笑みを深くした。
「おはよう、スカイ。ってもう二時だけどね」
可愛げのあるその声が笑っているように聞こえた。
「本当にごめん! 自分で迎えに行くって言ったくせにこんなことになっちゃって」
彼は顔の前で両手を合わせながら必死に謝罪の言葉を口にしていた。事態を把握した彼はその後ただただ謝罪を繰り返す機械となってしまっていた。
空港のフロアの外はこれでもかというほどの快晴で、まぶしい光を降らせぽっかりとした雲が漂っていた。
「もういいでしょ。何にも気にしていないんだからさ。スカイも気にしすぎだよ」
その光景をカラカラと笑いながらウィンディという少女は話しかけていた。
長期休暇を利用して1ヶ月ほどこの国で過ごすことを決めていた彼女は、旧知の仲である彼の叔父叔母の家にお世話になることになっていた。彼もその家に暮らしている。
「そういえばさ」
ふと思った彼は彼女に話しかける。
「いい加減に僕の名前を覚えてもらいたいんだけど。僕はスカイじゃなくて須涯だよ、ス・ガ・イ。わざと言ってるでしょ」
彼、須涯俊保―すがいとしやす―は少し不満そうな声を上げている。そんなことお構いなく彼女はただ笑っている。
「別にいいじゃない、この呼び名のほうが私は慣れてるし。私、ウィンディ・バーハイトにとってあなたの名前はスカイなの。いい名前だと思わない? 私は好きよ」
「そっちが勝手に間違えて、その名前を勝手に広めたんだろ。まぁべつに構わないけどさ」
ハァッと溜息をつきながら実に不満そうな顔を見せる。そのような顔を見て、何が面白いのか笑っている彼女がいた。
ふと須涯は彼女の持ち物に興味を持つ。大体の荷物を郵送で送ってきた彼女は、ほとんど荷物を持っていなかった。ただ、彼女が自分で持ってきたものには、小さめの鞄の他に普通の荷物とは異なるものがあった。長さは約一メートル、縦横約十センチほどの黒い木製の棒のようなものを、革のベルトのようなものに括り付けて肩に掛けていた。
そんな何に使うのかわからないもの、何で持ってきたんだ?
彼はその棒をまじまじと見つめる。彼女の肩で揺れるその棒はその並走をやめ、立ち止まる。
「さて……スカイ!」
急に立ち止まったウィンディは彼の名前を呼ぶ。彼は虚をつかれきょとんとしている。
そこにいる彼女にはさっきまで会った笑みは皆無で、陽だまりのような雰囲気は消えうせ空気に緊張が走る。
「私が来た理由、わかってるでしょ?」
「……うん、………まぁなんとなくね」
彼女の少し凛々しく聞こえる声に驚きながら、彼は曖昧に頷き肯定を示す。しかしその表情はあまり優れず、できることならこの話はあまりしたくないように見える。その回答を聞いて満足したのか彼女は表情を崩し、いつもの雰囲気になる。
「それならいいの、じゃあ早速で悪いんだけど……」
「ごめん、ちょっと待って」
振動を感じた彼は彼女の言葉を遮ると、おもむろに自分のズボンのポケットからその振動物を取り出す。
二つ折りの携帯電話は振動とともに音を出し自分の存在を主張し続けている。携帯を開くとディスプレイには彼のよく知る名前があった。小さいレストランで一緒に働いている少女、佐上陽―さがみよう―の名前が映っている携帯は着信を主張し、早く出るように彼を急かす。
「どうしたんだろう、何かあったのかな?」
彼は携帯に内蔵された時計を確認する。時間は大体休憩時間に入るぐらいだったが電話を掛けてくる理由が彼には見当たらなかった。
通話ボタンを押し、向こうの携帯の持ち主に呼びかける。
「もしもし、陽か?」
「…………………」
返答はないがわずかながら呼吸音を聞くことはできた。そこに誰かがいることはほぼ間違いないようだった。陽であるとは限らないが…。
「陽か? 返事をしてくれ、どうした」
「………須涯君………」
脅えるような声色が彼を耳を打つ。震えるような声には嗚咽も混じり少し聞き取りにくかった。が、それを無視して彼女が何を言いたいのかじっと待つことにした。
「……お店が……お店が……」
そうして彼女はポツリポツリと事の顛末を話し始めた。
陽はまだ取調べから開放されていない様だった。空港から警察署に到着してからかなり時間が経ち、日ももう落ちようとしているのに彼女を始め、助かった従業員たちは誰も事情聴取から解放されていないようだった。
特別に見せてもらった現場の写真には以前までの店とは様相を完全に異なるものが映っていた。テーブルはひっくり返り叩き割られ、潰れたいすはその以前までの姿を残してはいない。壁には所々に血痕が付着し、この現場の悲惨さを伝えている。
陽の話ではふとやってきた客が突然暴れだし、彼女を突き飛ばした。その光景を目の当たりにした残りの客は急いで逃げようとしたが、その男に捕まえられると突然痙攣し倒れこんだという。物音を聞きつけた店長と厨房の人たちがその男を取り押さえようとするが、巨体が繰り出す力を抑えることはできず。彼女は急いで厨房から裏口に逃げ込み、警察を呼び助けを求めたが警察が来る前に男は逃走、店にはたくさんのけが人がいたらしい。
結局、重傷軽傷合わせて二人、意識不明三人、うち店長は特にひどいらしく頭から血を流し意識不明の重体となっている。
それにしても長いな。
彼女をはじめ、怪我のない者数名は今警察から事情を聞いているはずなのだが、警察職員に『早く合わせてくれ』と頼んでも一向に取り合おうともせず『事情聴取中だから待っていろ』と一点張りだった。
無理もないのかも知れない。
須涯は漠然とそう考えていた。このような事件は何も今回が初めてではなく、ここ一ヶ月ほど前からこの町で起こり始めていた。この店での事件を含めると八件目、被害者は12人、全員意識不明で話を聞くことはできていない。『連続無差別襲撃事件』と名称付けられたそれはニュースにもとりあがられ、事件が起こるごとにマスコミは警察の無能を辛辣に批判し、一切の手がかりを見つけることができなかった警察はその批判を甘受せざるをえなかった。
その中でこの事件は少し異様だった。今までは深夜の人通りのない場所で行われた犯行が初めて昼間、しかも初めての目撃者を連れてきたのだ。警察はこの目撃者の証言で一気に事件解決を図りたいはずで、その聴取は相当の熱を帯びているのだろう。下手をしたらこのまま返してもらえない、なんて事態もあるかもしれなかった。
須涯は彼女が心配なのか、ウィンディが座っている布張りの椅子の周辺をウロウロと落ち着かない様子で歩き回っていた。
窓には傾きかけた太陽が映り、警察のオフィスは茜色一色に染まる。だんだんと夜の暗闇は空を染めようとする。
「そんなに心配?」
西日に目を細めながらウィンディは尋ねた。彼女は持ち物を両手で抱えるようにしながら彼を見つめる。
「そりゃそうだろ。彼女はバイトの同僚だし、……大事な友人だ」
「…そうよね。…だったらもう少し落ち着いたら? 彼女が無事なのはわかっているんだし、スカイにできることは不安になってる彼女を励ますことだけでしょ。」
そういいながら隣の椅子をポンポンと叩いている。ここに座りなさいといっているようだった。
隣に座ると彼は膝の上で両手を組み、そこに自分の額を乗せる。落ち着けと言われてもこの不安が解消されるわけでもなく、彼は無事であることを祈っていた。
ふと、奥から足音が聞こえる。
その音の気づいたウィンディはやがて出てくるであろうその足音の主を待っていた。そこに現れたのは少女だった。畳まれたウェイトレスの衣服らしきものを持つ少女は、茜色のロビーに到着すると辺りを見回し私達のことを見つける。
「須涯君」
掛けられた声に気づくと、彼はガバッと顔を上げ少女の姿を確認する。立ち上がった彼は少女へと歩み寄る。
「よかった…」
安堵する声を出すと、彼のさっきまでの不安の表情を変えふと目を閉じる。全身の力が抜け心から安堵した事が傍目でもよくわかった。
「本当によかった、陽が無事でいてくれて」
「うん、ちょっと痛かっただけで全然怪我とかしてないから大丈夫。それよりも店長のほうが……」
そういうと不安げに俯き、言葉を濁す。
「うん。店長のことも心配だけど、とにかく君で無事でよかったよ。やっと安心できたよ」
「えっと、それでその人は……」
少女は見慣れない彼の隣にいるウィンディを見つめる。
「はじめまして。ウィンディ・バーハイトです。ウィンディって呼んでね」
そう言い終わると少女に笑顔で手を差し出す。少女は恐る恐る手を差し伸ばし握手をする。
「佐上陽って言います。よろしく」
陽も笑顔で返答する。須涯は急に思い出したように少女に聞いた。
「それで、警察の人からは何か言われた? 聴取はもう終わったの?」
「刑事さんからもう帰っていいって言われたよ。ほかの人たちはもう少し残されそうだったけど」
少し不安げな顔でさっきまで彼女の通った道の先を見る。おそらくその先にほかの人たちがいるのだろう。
「今日は急いで帰ったほうがいいよ。もうじき暗くなるし、僕達も送っていくからさ」
そういって警察署の扉を開けようとしたときだった。
きゅるるる。
切なげに鳴るその声は、空気を止めるには十分な破壊力を秘めていた。
「…………」
赤面して俯いた少女が彼の後ろにいた。
「……陽?」
硬直した笑みを浮かべながら彼は後ろを振り向いた。
「だって……、お昼だって食べてないし。それに緊張も解けちゃったから……」
もじもじしながらボソボソと少女はおなかを押さえながら呟いた。
きゅるるる。
切ない必死な泣き声は確かに少女の空腹を声高に宣言していた。
少女の空腹を満たし、帰路に入ったころには空はすっかり闇に覆われていた。都会の空には星はほとんど瞬かず、唯一の夜空の住人というべき月も姿がない。新月だった。まさしく今日の空は闇一色に染まっていた
人通りの少ないこの道はなるべく選びたくはなかった。しかしここを通らないと少女の家に着くことはないため、三人は人気の少ない道を行く。人気のないアスファルトに太陽の光のかわりに電灯の明るく無機質な明かりが照らす。その濃淡を踏みしめながら三人は少女の家を目指す。
少女ははじめの人気のある場所では元気そうな表情を見せていたが、だんだんとその表情は薄れ不安な表所は少女の体をじわじわと蝕んでいるようだった。須涯はその少女の侵食を食い止めようと必死になって彼女に話題を振っている。
ウィンディは二人の周辺をうろちょろしながら何かを探しているようだった。少女を安心させようとしているのかも知れないが、逆に何かを発見するんじゃないかと少女を不安にさせているようにも見える。
「ウィンディ、うろちょろしないで一緒に歩こうよ」
前方の曲がり角を覗き込む彼女に向かって彼は言った。彼女は渋々といったような雰囲気で二人の元へ戻ってくる。
「逆効果だよ。どんどん陽が怖がってるじゃないか」
「そんな事いわれたって……、前もって確認しておけば安心するかなって思ったんだから。それに……」
「いいからおとなしくしてってば。もうすぐで彼女の家なんだから」
少女に聞こえないような小さな声で話すために二人で額を寄せて話す。その光景は少し間が抜けている様にも見える。少女は何を話しているのか気になったが、聞き取ることはできなかったようだ。
一人は再び少女を不安にさせないように話しかけを始める。もう一人は、二人のそばでしきりに周りを気にしていた。まるで何か異変を察知しようとしているように彼女は何度も何度も回りを気にする。
「それに………もう遅いかもしれないし……」
誰にも聞こえないような小さな声で彼女は呟いた。
少女の道案内に沿って、三人は少女の家に向かっている。…いるはずである。早く帰りたいはずの少女の道案内で一歩一歩歩んでいく彼等には、その一歩がいつも感じている一歩よりずっと短く感じていた。
そして何回目かの曲がり道で、その影はこの時を待っていたようだった。
十メートル先の蛍光灯の真下に映る漆黒の巨体。それはここに彼らが来ることを予期していたかのように真ん中で立っていた。
少女はその姿に恐怖し声も出せず、彼はただ驚愕していた。
「な、何で………いるんだよ」
かすれた声が彼の口から吐き出される。目の前の影はまるで歩いているそぶりもなくこちらに歩み寄ってくる。その光景に真っ先に反応したのは須涯だった。
「逃げろっ!! 陽!!」
その言葉に反応した少女は影から反対方向に逃げようとする。彼も一緒に走ろうとする。しかし、その影にとって間合いを開けるということは状況の好転にはならなかった。すでに彼らはその間合いにいたのだから。
駆けようとする足首に何か違和感。右足は前に進まず、須涯はアスファルトに体を打つ。それに気づいた少女は彼の右足を見て驚愕する。
そこには手があった。黒く変色した手は彼をつかみ、それにつながる黒い腕はまっすぐ影の体に続いている。異様なまでに伸びたその腕は、この者が普通のものではないことを如実に証明していた。
伸びた腕は次第に元の箇所に戻る。万力のようにびくともしない手につかまれ、彼は確実に影の元へ向かっていた。
「くそおぉぉっっ!!」
必死に右手をはずそうとするが、その右手はビクともせず確実にその距離を縮めている。
詰まる間合いに必死に抵抗する須涯。そして間合いが約5メートルとなったところで、彼の左足は奴の右腕を思いっきり踏みつけることに成功し、右足は開放される。しかしその間合いは十分に詰まり、影はその光景に歓喜した。踏まれた右腕は元の場所へ戻り、影の眼光はまっすぐに目の前の彼へと向かう。
繰り出される両手。その伸縮自在な両手は彼の首を正確に絞めようとしている。
もはや彼は何もできず、凍りつく時間。何もかもスローモーションとなった世界にその両手は首元へ着実に近づく。
そこに一陣の突風は吹き荒れた。
「……ここに存在する地の女神よ、かのものを守る盾となれ!!」
須涯の前に立ったウィンディは片手を突き出し両手の前に立ちふさがる。詠唱とともに彼女の前に現れる魔方陣。その光は両手に触れるやいなや、そのものを排斥しようと多大な衝撃を与える。
無論彼女側にもその衝撃は突風として彼女を通り抜ける。須涯はその光景をただ傍観するしかなかった。
次第に両手の勢いは衰え、陣はその手を持ち主の下へ吹き飛ばした。
「やっぱり来たってわけね。どうしてこうも単純なんだか」
吐き捨てるような口ぶりで彼女は影に言った。その表情は今までのものとは違い、その可愛げのある声は凛々しさを増している。
「スカイ!!」
彼を見ずに彼女は話す。その目は両手を飛ばす影の眼光をじっと見据えている。
「陽さんをもっと奴から離して! この間合いでもまだ危険よ。彼女をここから離して! 私が時間を稼ぐ」
呆然と地面に這いつくばっていた彼は、彼女の言葉を聞くとすぐに立ち上がりへたり込んでいる少女を立ち上がらせる。
両手をはじかれた影は突然咆哮をあげる。それが憤怒のものなのか、それとも歓喜のものかはわからないが、そいつはもはや人の姿であることにはこだわらなくなっていた。
背中から生え始める腕らしきもの、元々あった腕の手はその形を針のようなものに変え、顔にあった眼光はさらに鋭さを増している。異様なオブジェとなったそれは亜麻色の少女へ眼光を向け、4つになったその腕を彼女の元へ飛ばす。
「はあぁぁぁっっっ!!」
両手で展開する魔方陣は片手のものとは大きさが違っていた。陣は腕の侵入を許さず大きな壁となって立ちふさがる。その間に彼は状況を読み込めない少女を連れていた。
「ここまでくればもう大丈夫かな」
振り向けば三十メートル前方でひたすら耐える少女がいた。そばにいる少女はいきなりの全力疾走にかなりの疲れを見せていた。
「早く行かないと」
そのまま走り出そうとするが、服をつかまれているためそれができなかった。
「何なのよ、あのバケモノ。それにあの子って一体何なの!!」
陽はヒステリックを起こしそうだった。すがりつくような彼女の目は彼は違う、彼はこっちの人間なんだと信じて疑わないようだった。
「ごめん、今はそんな事してる暇はないんだ。僕も行かないと」
「何言ってるの? あんなのに敵う訳ないじゃない」
信じられないといいながら彼女は服を掴む手の力を上げる。
「彼女は守備が専門なんだ。彼女じゃ奴を倒せない」
「あなたなら倒せるって言うの? 私と同じ普通の人間なのに」
彼は言葉を噤んだ。衝動的に言葉を出そうとしたが、彼はそれをしなかった。したくなかった。
言ったらそれで、今までのものがすべてが終わってしまうような気がしたから。
「確かに僕は普通かもしれない。でも………あいつは僕にしか倒せない」
そういうと彼は少女の手を振り払い駆け出す。向こうの世界へ向かって。
いつの間にかその身長は3メートル、その腕は6本になっていた。6本の絶え間ないラッシュは障壁を打ち砕こうとしている。
魔法陣には亀裂が生じ、展開している本人も限界を迎えようとしていた。
こんなところで……
両手に力を込める。根競べだけは負けるつもりはなかった。しかし魔方陣のほうには限界が差し迫っていた。
陣の崩壊とともに障壁は決壊した。砕けた衝撃はそのまま術者に跳ね返る。
「きゃあぁぁっっ!」
吹き飛ばされたウィンディは迫りくるであろうものを睨み付ける。6本腕のバケモノは歩き難そうに体をふらつかせるが、じわりじわりと距離を近づけていた。
近寄るバケモノに対して彼女はカバンから取り出したガラスの小瓶を投げつける。6本腕はその一本で小瓶を叩き割る。飛び散るガラス片と中の液体。すると、四散する液体から鎖が迸り叩き割った腕に絡みつく。さらに鎖の奔流は手といわず足といわず、そのものすべてをを飲み込み拘束する。
拘束されたことを確認すると彼女はゆっくりと起き上がり後ずさる。拘束できたとはいえいずれこの鎖も砕かれることは目に見えていた。彼女にはこの状況を打破する切り札が必要だった。
「ウィンディ!」
そこに彼はやってきた。傷ついた彼女に手を貸し、二人は一歩ずつ後ろに下がっていく。
「ダメ、あいつ人の魂吸収しすぎて、私じゃ持ちこたえられない。さすがに十二人分の魂を持った異形者ってところね」
「わかってる。あいつは君じゃ倒せない」
悔しそうに話す彼女の口ぶりに反して、須涯の口調は淡々としたものだった。まるで何かを受け入れたように。
「その口調じゃ、覚悟はできてるってところかしら?」
「君が来るとわかった時から覚悟はあったよ。でも、まさかこんなに急になるなんてね」
「わかったわ」
そういうと彼女は彼の肩から離れ、彼の正面を向く。
「できることなら、これは最後の手段にしてほしかったけどね」
「今が最後の手段の使い時。これを逃したら後はないわ。使わなかったら、ここにできるのは三つの死体だけ」
「正確には二つでしょ?」
してやったりとした表情をした彼が目の前にいた。それを見て彼女は少し顔をほころばせる。
「そうね、行くわよ」
真剣なまなざしで彼女は彼の目の前で指を鳴らす。パチンッという音で彼を操っていた糸が切れたかのように彼はその体を彼女に寄せる。ちょうど彼の頭は彼女の肩に乗り彼女の口元に彼の耳があった。
後ろの鎖の塊は中のものをしっかりとパッケージしているように見えた。しかし突然その均衡は破られようとしている。鎖の所々に亀裂が走り、まさにはちきれんばかりだった。
倒れこむ彼を彼女はやさしく抱きしめ、そして耳元でつぶやく。
その瞬間に鎖はその目的を果たせなくなった。飛び散る鎖は地面に落ちる前に煙のように消えていく。解放されたその腕たちはまっすぐに二人の下へ向かう。
「……起きて、スカイ……」
その言葉は彼を目覚めさせる唯一の言葉。放たれると共に彼は解放される。
二人を狙う腕は突然動きを止める。何かおかしなものがそこに発生したことを感じた本体は二人に攻撃を加えることを躊躇っていた。さっきまでなかった比べようもない殺気、攻撃性の空気はそいつを困惑させるのに十分だった。彼女の肩に乗った男の顔がゆっくりと上がる。
「わかったよ。お嬢様」
皮肉たっぷりにそう言いながらスカイは目を覚ました。
「約一年ぶりだな、俺を起こすなんて」
ガラの悪そうな口ぶりでスカイは首を左右にひねりながら話している。
「そうね、できれば起こしたくなかったわ」
冷たい口ぶりを聞いた男はハッと鼻で笑った。すっと彼女から離れると目の前にいる怪物を見上げる。眼光鋭い彼の目は上で光る怪物の目を見る。
「どんなに俺が嫌われていても、どうしても俺の力が必要なときがあるってことだな。たとえば今みたいな状況とかな。こいつ何人喰らったんだ?」
十二人と彼女が答えると、男は手を額につけ、ヒャハハとせせら笑いを浮かべる。
「そんだけ喰らって、こんな使い方しかできないのか。こんなんじゃ使われてる魂のほうが気の毒で仕方がない。はっきり言って資源の無駄遣いだ。溝に捨てたほうがまだましかもな」
怪物に対して挑発を繰り返すが全く反応はなかった。つまらなそうに男はそいつを睨みつける。
「無駄よ。そいつにはもう理性というものがないわ。案山子に話しかけている様なものよ」
そういいながらウィンディは肩に掛けていた黒い箱を空け、その中身を男に放り投げる。黒塗りの鞘を筆頭に黒で装飾を統一された一振りの刀は主人を待っていたかのようにすっぽりと男の手に渡る。
「必要でしょ。手入れはちゃんとしてある筈よ」
「こいつを拝むのも一年ぶりか。よろしく頼むぜ『相棒』」
スラリと抜かれるその刃は一定の波目模様を描き、青白く光るその鋼の光沢は美しさすら感じる。彼の相棒『三日月』は一年のブランクを経てもその切れ味と美しさは衰えていないようだった。
「待たせたなぁ、怪物君。準備運動はすんだかい?」
ヒュンと風切音を響かせながら彼はニヤリと笑いかける。怪物は咆哮と同時に6本の腕をしならせ迫ってくる。そんな光景を見ても彼の余裕の笑みが崩れることはなかった。
敵の初太刀をするりと回避すると爆発的な加速を見せ、切りかかる。
「さあぁっ、遊ぼうぜ!!」
「何なのこれ?」
陽は目の前で起こっていることに呆然としていた。急に雰囲気の変わった須涯が刀を持って大立ち回りをしているのだ。今までこんな光景を目にしたことのない少女にはこの異様な光景が信じられず、怖いはずなのに少しづつその現場に近づいていた。
「それ以上近づいてはダメよ、巻き添えを食らっても知らないから」
ふと声の方向を向くとそこには息を荒くして、座り込んでいるウィンディがいた。目立った大きな傷はなかったがその呼吸は乱れきっていた。
「大丈夫なの」
心配する少女を確認すると彼女はわずかに微笑みを返し『大丈夫、魔力が戻れば問題ないから』という。『魔力』という単語を聞いて、少女は今とんでもない電波な話を聞いたのでないかと思った
向こうでは怪物と男が死闘を繰り広げている。男の放つ一閃は怪物の腕を切り落とす。しかし落とされた腕は暗闇に溶けてなくなり、断面からはさらに新しい腕が生え再び男を襲いだす。そんなことを知るか知らずか、男はせせら笑いを見せながら再び襲い掛かる腕を切っていた。
少女は決心すると座り込んでいる少女に尋ねた。
「あれはいったい何なんですか? あなた達も、須涯君って一体何者なんですか」
ウィンディは尋ねた少女の顔を見やる。その決して譲らないという決意の感情は彼女を衝き動かすには十分だった。
「いいわ。関わってしまった以上、話をしない訳にはいかないしね」
そういうと彼女は自分達の正体やバケモノの話を始めた。
須涯俊保という存在はすでにこの世には存在していなかった。つまり彼は一度殺されているのだ、あのバケモノたちによって。
異形者と呼ばれるそのバケモノは、表舞台に登場することなく歴史の裏側の存在として長く実在していた。そしてその異形者を狩る者達も長い間歴史の裏で活躍していた。
大抵狩る者はその永きにわたる歴史のなかでさまざまなノウハウを積み、門外不出の秘伝としその家の狩人たちに伝えられる。つまり長く異形者と関わった家系のみが狩人となり、そうでないものは生涯を通じて異形者という名前を聞くことはほとんどないのである。
しかし、ウィンディ・バーハイトと須涯俊保の二人は狩人の家系から輩出されたものではなく、一般的な家庭の人間だった。それがなぜ二人は狩人の道に踏み出したのか。
ウィンディの両親は異形者に殺された。ウィンディは助けに向かった狩人の一人のバーハイト家に養子として迎えらた。そして彼女は復讐者として自ら進んで狩人としての道を進んだ。バーハイト家は主に魔術を柱とした戦いを後世に伝え、彼女もそれに違わず魔術を学び今に至っている。
須涯はこの狩人の中でも最も異端にあるものである。彼は異形者に殺され、なぜか自我を持つ異形者となり、その身を狩人の力としている。狩人の中でも最も嫌悪され、最も実績を上げる狩人であった。
通常、異形者は人を殺す等して、その魂を喰らうことで生きながらえている。しかし彼の場合は殺したはずなのにその異形者は彼だけ魂を奪わず、さらにその異形者は彼に異形者としての力すら与えたというのである。そして生まれたのがスカイである。
研究者達は自我のある異形者に興味を持ち、研究と表した人体実験を行おうとしたが、スカイはそれを拒否。強制的に連行しようとするがスカイによって皆殺しにされ、一時研究は頓挫した。ウィンディは封印魔術の第一人者としてスカイを疎む者達と共にスカイの封印を決行した。それによりスカイは封印、代わりに元々の人間時の記憶が埋められ、ウィンディはその監視役を務めることとした。スカイの封印を解くことができるのはウィンディただ一人だからだ。しかし彼女は、須涯にすべてを話し、スカイと新たに契約を行っていた『封印を解く代わりに私の剣となれ』と。そうして彼は有事の際に彼女と手を組むチームとなった。
「ここ一年ぐらいは何もなかったんだけどね。でも、最近になって彼の住む町で大きな事が起こると感じたの。そして私はこの街にやってきた」
信じられない。その言葉がここまでしっくりと来る話はなかった。しかしバケモノはその姿を見せ、彼女は魔術を見せ、そして彼は今も戦っている。
これは紛れもない事実なんだろうか?
少女は急に詰めこまれた知識と悪戦苦闘しながら、目の前の戦いに目を向けていた。
スカイは二本の腕を同時に切り落とすと後方に下がり間合いを取る。斬られた黒い腕は音もなく霞と消え、断面からまた新たに腕が生えてゆく。
彼はその何度も見た代わり映えのない映像に飽き飽きしていた。
「つまんねぇ。つまらなすぎる」
退屈も一定のところまでくると笑いがこみ上げるが、それすら超えるとだんだんと苛立ちが募ってくる。
彼は間違いなく苛立ってきている。せせら笑いはとっくの昔に消え、眉間に皺を寄せた目はぎらぎらと光り始めている。
「三日月の試し斬りにはもってこいだが。それ以外は全部ダメだ。スピード、パワー、攻撃の意外性、全部落第レベルだな」
誰に対して論じているのかわからないが、彼にとってあの怪物はすべてにおいて低レベルの代物らしい。
「終わりにしよう。これ以上やったって時間の無駄だ」
おもむろに構えた彼は突撃を行う。それに対して6本腕をすべて集結させた渾身の一撃を打つ。
大上段に構えた刃を振り下ろすことで彼はその渾身の一撃に対抗する。互いの一撃はぶつかり合い衝撃を生む。腕の先端はいつの間にか硬化し刃の侵入を許さない。拮抗する一撃、しかし
彼の笑みは途切れることはなかった。
はじかれる腕たち。その腕すべてに三日月の刃を通すと、上段に構え飛び上がる。
「おやすみ、もう夜の時間だよ。子供は寝なくちゃ」
頭から続く必殺の一撃。真っ二つにされた怪物は頭からその影を霧のように霧散させ、消えていく。
影が消えるにしたがって、中にあった何か青白い人魂がゆらりと浮かんではどこかへ消えて行く。あれは魂なのだろうか。
そして影が消え、魂は元の場所に戻っていくと三人のいるところには何も残っていなかった。
「はい、おしまい。またつまらん仕事をやってしまった」
刀を鞘にしまうとスカイは二人のほうへやってきた。
「おいウィンディ。もうちょっとまともな仕事を持って来い。こんなんじゃレクリェーションにもなんないぞ」
「お疲れ様。今日は突発的に来た仕事だったのよ。敵のレベルに関しては、あなたを満足させる仕事は特Aクラスの仕事じゃないとダメよ。アマゾンの僻地に行きたい? そこにとんでもないのがいるらしいわよ」
彼女はスッと立ち上がり彼を適当にあしらっている。スカイは一瞬両手を上げそっぽを向いてしまう。拒否ということだろうか。
こんな風に見れば全く普通の人たちにしか見えない彼らが、実は全く普通の世界に生きていないとはにわかに信じられなかった。
「なぁ、これからどうすんだ?」
どうでもよさそうな口調でスカイは尋ねる。
「それはもう、家に帰りますよ。服はボロボロだし長旅で疲れたしね。でもその前に…」
最後の言葉をウィンディは言いながら、少女の顔を見る。
スカイも『あぁ、なるほど』といいながら彼女を見つめる。
え? 私何かされるの?
必死にこの状況を打開しようと考えたが、彼女を除いた二人はもはや私の常識を上回る存在のため何ができるのか皆目見当がつかなかった。
「陽…」
ふと呼ばれる自分の名前に驚きながらその人を見る。
ウィンディは彼女の瞳をじっと見つめていた。そして彼女の目の前に手を差し出し。指を鳴らした。
まるで睡眠薬でも服用したかのような突然の眠気。陽は彼女の体に寄りかかる。まどろみがかった意識の中で彼女の声はこの世界の絶対の事柄のように聞こえた。
「あなたの記憶を調整させてもらいます。あなたはさっきまでの出来事を忘れます」
忘れ……ます。
「あなたは私の正体とスカイの存在を知りません」
知り……ません。
さらに抗いがたくなっていく眠気。まどろみの中の意識は次第に薄れ、彼女の声も聞こえなくなってくる。
「最後にもうひとつ。……………」
切れようとする意識の中で最後の言葉は必死に聞く。
ごめんなさい
そう言っている様に聞こえた。
調整が終わると、少女は静かに寝息を立てていた。
「終わったか」
スカイは座り込みながら少女を見つめる。無垢な寝顔に男の顔が迫る。
「で、どうすんだこの子。ここには置いてけないぞ」
「家まで連れて行くわ。玄関の傍にでも置いて、家の人が出てくるように仕向ければそれで終わりよ」
彼女はあっけらかんとそういいながら彼女を担ぐ。
少女を家に届けると。二人はすぐさま自分の家に向かった。彼らの事情を知っている叔父夫婦はたいして気にすることもせず、二人を迎えてくれた。
「スカイ、ちょっといい?」
自分の部屋に入ろうとするスカイをウィンディは呼び止める。
「大丈夫だ。明日の朝には須涯のほうに変わってるよ。二人の決まりだったからな」
「うん。そうなら……いいんだけど」
「なんだよ。なんか文句でもあるのか?」
そう言いながら彼女を覗き込む。彼女はフイッとそっぽを向く。彼はため息混じりに後ろを振り向き部屋に入ろうとする。
「お前もそのほうが良いだろ」
彼はぼそりと呟く。
「暗闇の空より、青空の空のほうが、お前だって良いと思ってるだろ」
そう言って彼は扉を閉めた。
彼女は長旅で疲れているはずなのになかなか眠れずベランダで空を見ていた。星の映らない新月の空には暗闇があるだけだった。
この空も時間が経てば青に染まるんだなぁ。
彼女は漠然とそう考えていた。
暗闇の空より、青空の空のほうが、お前だって良いと思ってるだろ
彼が言っていたことを思い出す。
そんな彼の言葉をふふんと鼻で笑ってやる。
「馬鹿だなぁ。私には真昼の空の青は眩し過ぎるよ。だから私はいつも笑って目を細めてるんだから」
誰かに届かせるためではない言葉が暗闇の空を通り抜けた。
END