sky 』

 

 その少女を呼んだ客は親子連れだった。

 食べ残しが転がっているテーブルを慣れた手つきで拭いていたウエイトレスの少女は、ただいま参りまーす、と大きな…しかし澄んだ可愛らしい声で返事をする。

 そして、汚れた布巾をそのテーブルに置き、客に見えないように小さく手を払うと、パタパタと小走りで親子のもとへと駆けていった。

 母親の手には伝票が握られている。

 会計なのだろう。

「お会計、失礼いたします」

 少女がレジカウンタに入ると、母親が少女に伝票を差し出す。

 それを笑顔で受け取ると、少女は伝票に書かれている内容を流れるようにレジに打ち込んだ。

 まるで軽快にステップを踏んでいるかのような、テンポ良く、かつ無駄のない入力を終えて少女は顔を上げる。

「お待たせいたしました。お会計は1470円になります」

 実際のところ大して待たせてはいないのだが、テンプレートに則り金額を読み上げた。

 ミートソーススパゲティと野菜サラダ、アイスコーヒー、オレンジジュース、お子様ランチ。それにチョコレートパフェ。

 これだけの量を注文してこの金額なのだから、この店は本当にお財布に優しいなぁ…とレジを打つたびに少女は思う。

 もっとも、だからこそ今ここで接客出来る要員が店長と少女しか居ないわけなのだが。

 本当はもうひとり接客要員のアルバイトがいるが、今日は来ていない。

 一月ほど前から「今日は休む」と宣言していたので、今頃はどこかを遊び歩いているのかもしれない。

 母親は伝票を見てあらかじめ用意していたと思われる1470円ぴったりの代金をレジカウンタの上の受け皿に載せる。

 少女は金額を丁寧に確認してレジスターに入れ、ありがとうございました、と嫌味なくぺこりとお辞儀をした。

 子供の手を引いて店を出る母親を見送り、最後にもう一度「ありがとうございました」と親子の背中に笑いかけ……そして、少女は目の前の壁に掛けられている時計を見上げた。

 午後の2時10分。お手軽な値段の昼食を求めて来店した客も次第に減る時間帯。

 店内には空いているテーブルが目立つようになってきた。

 お昼時を過ぎれば、あとしばらくは遅い昼食を求める客が時折来店する程度。

 基本的には勤務時間内でありながらもちょっとした休憩のようなひとときを過ごす事になる。

 もちろん、少女も例外ではない。

 レジカウンタの影で制服の皺を伸ばすと、少女は静かに息を吐いた。

 お昼時の混雑で張り詰めていた気持ちがゆっくりと解けていくのが分かる。

 今までは気付く事すらも出来なかった、店内に僅かに残る料理の匂い。

「……そういえば、私もお昼まだだったなぁ」

 少女は眉をハの字にして小さく呟く。

 きゅるるる。

 そして間髪いれず、少女のお腹が切なげな鳴き声を漏らした。

 少女は慌てて両手でお腹を押さえると、頬を真っ赤に染めて店内をきょろきょろと見回す。

 目に付くのは空いたテーブルばかり。

 奥に一つだけ、若いスーツの男性が席についているテーブルがあったが、当の男性は何かを書いているのか、食い入るようにテーブルを見つめたまま右手を忙しなく動かしていた。

 この時間帯にはいつも同じ場所に座って書き物をしている、ある意味常連ともいえる男性なのだが、幸い少女のお腹の虫の鳴き声は男性の耳に入っていなかったようだ。

 あるいは、耳に入っていても気にしていないだけなのかも知れないが。

 少女はお腹をぎゅっと押さえたまま、ほっと息を漏らした。

 ウエイトレスは食事時が一番の稼ぎ時であり、故に昼食や夕食は一般的な時間帯には食べられない事が多い。

 自分のお腹が空いている時に他人の食事を眺めてなければいけないというのはもはや拷問でしかないのだが、いざ食事時になると忙しさのあまり空腹も忘れてしまうのはある意味幸運と言えるかも知れない。

 もっとも、それは忙しい時間帯だけ。

 食事時が過ぎれば、少女の中で無意識のうちに押さえ込んできた腹の虫がゆっくりと活動を再開するのだ。

 そう、今のように。

「今ならお客さんも少ないだろうし、休憩を入れようかな…」

 店長は客が引き始めたところを見計らい、少女よりも少しだけ早く休憩室に入った。

 そろそろ、交代しても良い頃だろう。

 お腹の虫に、そして自分自身に栄養を与えなければ。

 少女は奥の席に座っている男性を見る。

 相変わらず書き物に集中しているようで、少女を呼びつける様子は無さそうだ。

 迅速に引継ぎをすれば、問題なく休憩に入る事が出来るだろう。

 少女はそう思い、休憩室に向かおうとしたその時。

 

 からーん、からーん。

 

 店の入口に付けられたベルが鳴り響く。

 先程の男性が外に出たとはさすがに考えられないので、おそらくは遅い昼食を摂りに来た客か。

 ううっ、こんな時に…っ。

 内心毒づきながらも、少女は全ての感情を笑顔の奥に隠して振り向いた。

「いらっしゃいませーっ」

 入ってきたのは少女と同じ年ぐらいの少年だった。

 しかも、ただの少年ではない。

「お、丘野くん!?」

 声量MAX。

 叫びにも似た素っ頓狂な声が店内に響き渡る。

 はっと少女は両手で口を塞ぎ、周りをキョロキョロと見渡す。

(せ、セーフ……)

 客が少ないことが幸いした。

 もしこれが客の多い時間帯だったら……、ああ考えたくもない。

(だけど、思いっきり叫んじゃったし……。ああ、もう何で丘野くんの前であんな恥ずかしいことしちゃったのよ!?でもでも、これってもしかしてチャンスなのかな?)

 突然のことに頭のCPUの処理が追いつかず、熱暴走を起こす寸前だ。

「柏木さん、ここでバイトしてたんだ……」

 はあ、とため息をつき肩を落とす。

 はて、と少女に一つの疑問が湧く。

 何故彼はこんなにも落胆しているのだろう。まさか、自分が何かしたのだろうか。いやいや、まだ何もしてないし。ちょっと叫んだくらいだ。

 うーん、と唸っている、その時、

「来てくれたのね、祐介くーん!」

 バンッと休憩室のドアが勢い良く開けられたかと思うと、弾丸列車の如く女性がこちらへと走ってきた。そしてそのまま少年を力いっぱい抱きしめた。

 このハイテンションな彼女こそ、この店『sky』の店長である。

「もう、もう少し早く来てくれればよかったのにぃ」

 ぶぅ、と頬を膨らませる。

 まるで、待ち合わせに遅れてきた彼氏に拗ねる恋人のようだ。

「ちょっ、何やってんだよ、人前で!」

「えぇ〜、いいじゃない。スキンシップよ、スキンシップ」

「人目を気にしなさい!」

「別にお客さんいないし〜」

「いるだろ、客じゃないけど柏木さんが!」

「見せ付けちゃえばいいのよ」

 離れる気全く無し。

 戸惑う少年。

 それを呆然として見ている少女。

 やがて、正気に戻り、

「な、な、何事!?」

 先ほどよりも1.5倍増しの叫びが店内に響き渡った。

 

 

 

「えっと、つまり二人は親子なんですね」

 少し時間を置き、落ち着いたところで、少女は二人から状況説明を受けていた。

「そうよ。この絵里さんと祐介くんは正真正銘親子でーす」

 ニコニコしながら言う。

 はあ、と心の中で安心してため息をつく。

 要するに、祐介は母親である彼女に、呼び出されたらしい。呼び出された本人は、その用件をまだ聞いていないらしいのだが。

 少女は改めて二人の顔を見比べる。

 なるほど、どことなく似ている気がする。

 でもまさか自分のバイト先が知り合いの親が経営する店だったとは思いも寄らなかった。確かに苗字も同じだったが、誰が予想しようか、見た目二十代後半にしか見えない彼女に、息子がいるなどと。

 それに、あのテンションの高さ。自分の描いている母親像はもっとこう、落ち着いている、というイメージがあった。ここでバイトを始めて一ヶ月くらい経つが、時々彼女のテンションについていけなくなるときがある。それなりに慣れたつもりだったが、先ほどの光景を思い出すと、まだまだだなぁ、と感じた。

「全く困った母親だよ。ごめん柏木さん、ビックリしただろ」

 ため息をつくと、謝罪の言葉を述べる。

「平気よ。確かにビックリしたけど、絵里さんの性格を考えれば納得できるし」

 本当に恋人に見えてしまった、ということは胸の中に閉まっておいた。

「そういえば凪ちゃんと祐介くんはクラスメイトなんですってね」

 そうなのだ。

 丘野祐介と柏木凪は同じ学校に通うクラスメイトだ。クラスメイトといっても、親しいわけではなく、挨拶を交わす程度で、異性ということもあり、交流はほとんどなかった。だから、お互いの接点に気付かなかった。

「こんな可愛い娘と知り合いだったなんて、祐介くんも隅におけないなぁ」

 このこの、と脇腹を小突いてくる。

「可愛いだなんて……」

「勝手に言ってろよ。ったく……で、何のようだよ。わざわざ店に呼び出してさ」

 学生である彼にとって休日というのは、唯一学業に縛られない自由な時間であり、一日中家でゴロゴロできる最高の日なのだ。

 それを、何の理由も言わずに呼び出された上にクラスメイトに恥ずかしいところを見られたのだ。おまけに昼食は食べずに来いと言われているので、時間帯的に空腹もいい具合に限界に近づきつつある。これでただ単に呼んだだけだったら、親子の縁を切ることも辞さない覚悟だ。

「まあまあ、焦らない。とりあえず、特製ナポリタンでも食べねぇ、食べねぇ」

 いつの間に用意したのか、気がつけば二人の目の前には料理が置かれていた。

「二人ともお昼まだでしょ。さあさあ、遠慮なく食っておくんなましぃ」

 ナポリタンのトマトケチャップの香りが食欲を誘う。

 二人とも空腹が限界にきていた。

 祐介は渋々ながら、凪はやっと、という感じでそれぞれ料理に手をつけた。

 この店のナポリタンは定評があり、昼食としては満足のいくものだった。

「フッフッフ……食ったね、食ったね」

 突然、不敵は笑みを浮かべ、にじり寄ってくる。

(い、嫌な予感がする)

 二人の心がシンクロした瞬間だった。

「ねぇ、祐介くん、これから父さんと出かけなきゃいけないの。だからね……」

「嫌だ!」

 言い終わる前に、その先の言葉を拒絶の一言が遮った。

「まだ何も言ってないのに」

「や、分かるから。俺は手伝う気はないぞ」

「いいもんね〜。さっき食べた分は凪ちゃんのも合わせてお小遣いから引いておくから」

「んな!?」

 これぞまさに最終手段。

 バイトもしていない彼にとって唯一の収入源である小遣いが減らされるということは、ある意味死を意味する。

 このままでは、毎週楽しみにしている週刊誌や、以前から目をつけていた服も買えなくなってしまう。まさに運命の選択。

「それにね、女の子を一人留守番させておくのも心配よね。大丈夫、ちゃんとバイト代は出すから」

 確かに、女の子一人だけに留守番をさせるのは気が引ける。それが、知り合いならなおのことだ。考えたくはないが、世の中何が起こるかわからないのだ。

 それに、今は客がいないが、もし増えてきたら、彼女一人で対応するのは困難だろう。バイト代も出るというのだ。

 ここは引き受けるべきのなかもしれない。

「……分かったよ。でも知らないよ、俺接客なんてしたことないし」

「その辺は抜かりなし。凪ちゃんが教えてくれるわよ。ね」

「あ、はい。何とか、がんばってみます」

 いきなり声をかけられ少し驚いたが、はっきりと返事をした。

(やった!ナイスです店長!!)

 密かにガッツポーズ。

「うんうん、二人なら安心ね。じゃあ、もう行かないといけないから。伸一さーん」

 夫の名前を呼ぶと、奥の席に座っていた男性が立ち上がり、こちらへ歩いてくる。

「へ?」

 その男性を凪はポカンとした表情で見つめる。

 絵里は男性の腕に自分の腕を絡ませる。

「行ってくるわね。凪ちゃん、出来の悪い息子だけどお願いね」

 手を振りながら店を後にした。

 男性のほうも、ぺこりとお辞儀をした。

「今の誰?」

「誰って……家の父さんだけど」

「うそ……」

 全く気づかなかった。

 ただ、いつもいる常連さん、くらいにしか思っていなかった。

 だって店長は何も言っていなかったし、それに夫だというのなら仕事の合間に声ぐらいかけるだろう。凪がここにバイトへ入ってから、一度もそういうことはなかった。

「何で黙ってたんだろう」

「多分、その方が面白そうだと思ったんだろうな」

 ああ、と納得する。

 彼女のならあり得る。それに店を出るとき、こちらの反応を面白そうに見ていた節があった。

 あの女性には一生勝てない気がした。

 

 

 

 はっきり言おう。

 今私は最高な気分だ。

 だって、偶然とはいえ、彼がこの店の店長の息子だった上に、今は二人で留守を預かることになったのだ。

 丘野くんと二人っきり。

 考えただけ頬が緩んでしまいそうになる。

 今日ほど神様に感謝したことはない。ビバ、神様!いや、この状況を作ってくれたのは店長だから、ビバ、絵里さん!

 私がこんなにまで焦がれてしまったきっかけは、そう、去年の入学式のことだ。恥ずかしいことなのだが、私は入学式当日道に迷ってしまった。

現在通っている高校は隣町にあり、電車で通学している。中学まであまり町を出たことがなかった私にとって隣町というのは未知の世界であり、土地勘など全くない。加えて、どうやら私は若干方向音痴なところがあるようだ。

 そういう経緯で、途方に暮れていた私に救いの手を差し伸べてくれた少年がいた。その少年は「どうしたの?」と優しく問いかけてくれた。そのときの私は初対面ということもあり、あまり上手くしゃべることが出来なかった。それでも少年は私の意を察し、学校まで連れて行ってくれた。

 後で分かったことなのだが、その少年が丘野祐介だった。本人は多分忘れていると思うけど。

 今思えば、単に入学式に向かうついでだったのかもしれないが、以来私は彼に特別な気持ちを抱くようになった。

 いわゆる『一目惚れ』というやつだろうか。

 とにかく、今はこの瞬間は存分に満喫しないと。こんな幸運もう二度と起きないかもしれない。

 そのためにも、しっかり彼に接客を教えないと。まあ、この時間帯を過ぎればあまり人も来ない。店長もその辺を考慮して頼んだのだろう。だが、万が一ということも十分あり得る。その万が一のために準備をしておくことに越したことはない。私は留守を任されたのだから、その信頼には出来る限り応えたい。

 さて、まずは挨拶から、かな。

 

 

 

我が母親ながら困った人だと思う。

 全く何を考えて接客経験もない息子を留守番させるのか。

 そもそも、自分から食べさせた後で代金を要求するなんて手口が汚い。しかも柏木さんの分まで。まあ、空腹が限界に来ていたとはいえそれに気付かなかった自分もうかつであったことは確かだ。

 でも母さんのいうことに一理ある。女の子一人、しかもクラスメイトを一人で留守番させるのははっきり言って心配だ。

 確かに彼女とは挨拶を交わす程度で、ほとんど交流はないが、話を聞いてしまった以上放っておくことなど出来ない。自分のそういうところを含めて、母さんは頼んだのだろう。

 まったく……いつかギャフン、と言わせたいものだ。

 とはい言うものの、ここの手伝いをするというのも結構悪くはない気がするのも確かだ。自分の母親が経営する店が普段どんなことをしているのか、実を言うとほとんど知らない。小さい頃は父親に連れられて頻繁に足を運んでいたらしいが、覚えていない。現在は店に行くと高確率でからかわれるので覚えている限りでは、一回か二回程度しか行ったことがないような気がする。

 だから、これを機会にこの店について知りたいと思っている。

 それに、だ。

 正直彼女と二人っきりというこの状況に少なからずドキドキしている自分がいる。はっきり言って柏木凪という少女は可愛い部類に入る。クラスの男子が女子の話をするときも、彼女の名前が結構挙げられていた。一ヶ月ほど前に母さんから「可愛い娘がバイトに入った」と嬉々として報告してきたのを覚えていたが、なるほど、彼女なら納得だ。

 そんな娘と仕事が出来るという事は割りと幸運なことなのかもしれない。これをクラスの男子に話したら、一体どうなることやら。

 そして何より、これは自分の思い違いかもしれないが、時々彼女からの視線を感じるときがある。自分に気があるのかもしれない、というほど自惚れてはいないが、何か言いたそうな目をしていた。

 それを確かめるためにも、今回の留守番はちょうどいいかもしれない。

 とりあえず、恥をかかないようにしなければ。下手なことをして、彼女に迷惑を掛けるわけにはいかなし、母さんの店の評判を落とすわけにもいかない。

「よし、やるか」

 案内してもらった更衣室でウェイター用の制服に着替えると、彼女の待つ店内へと戻った。

 

 

 

「じゃあ、まずは基本的なことから教えるわね」

 そう言ってポケットからメモ帳を取り出した。

「それは?」

「マニュアル。私がここに入ったばかりの頃に使ってたものよ」

 はいっと、手渡す。

 適当にパラパラとページをめくると、そこには色々と書き込まれており、彼女なりに接客をマスターしようとした姿勢がよく分かる。そして1ページ目にでかでかと書かれていた一言。

『常にお客を第一に』

(母さんもなかなかの逸材を雇ったもんだ)

 この娘がいる限り、この店の評判は落ちることはないだろう。

 思わず笑みこぼれる。

「じゃあ、まずは挨拶から。私が手本を見せるからそれに習って」

「分かった」

 お互い向き合う形で立つ。

「いらっしゃいませーっ」

 スマイル全開の完璧な挨拶。

 見ているこっちは気持ちいいくらいだ。

 ここまで清々しく気持ちのこもった挨拶を出来きるウエイトレスはそういないだろう。

「はい、次丘野くんよ」

「お、おう」

 スーハーと深呼吸。

「い、いらっしゃいませー」

 先ほどとは打って変わってぎこちない挨拶。

30点」

「厳しいな」

 と言いつつも、祐介自身それが妥当な点数だと分かっている。

 凪の挨拶に比べれば、祐介の挨拶が未熟であるのは明らかである。彼女はそれをクラスメイトだからとか、転調の息子だからといって遠慮することなく、適切な厳しさで評価してくれたのだ。

 祐介は素直に感謝した。

「いい、まず背筋をピンと伸ばして、次に自分の出来る最高の笑顔で、そして、お腹から『いらっしゃいませー』ってはっきりと声を出すの」

「い、いらっしゃいませー」

「笑顔はもっと自然に」

「いらっしゃいませーっ」

 こうして、凪指導による接客講習会が始まった。

 祐介にとっては全てが初体験であり、また基本的に、普段の生活では馴染みのない敬語を使用しなければならないので疲れる。それに色々なことに気を配らなければならないし、テーブル拭き、料理の運搬、注文の取り方、レジ打ち……は流石にやらせてはもらえなかったが、どれもハードなことばかりであった。

 これを毎日やっているのかと思うと、母親の偉大さを感じると同時に、自分と同年代の娘でもこんなにがんばっているのだな、と感心する。

「さてと、これで大体のことは網羅できたはずよ」

「これで終わり?」

「ええ、後はお客が来るのを待つだけだわ」

 しかし、凪としては今日だけは誰も来ないで欲しい。

 お客が来てくれることは嬉しいが、この祐介と二人だけのハッピーな時間をもっと満喫したいのだ。色々話してみたいことだって沢山ある。

 そう思ったのもつかの間、運命とは非情なり。彼女の願いは見事に粉砕され、三、四人ほど女性客入ってきた。皆四十代後半といったところだ。

 時刻は4時過ぎ。

 おそらく近所のおば様方だろう。買い物袋を持っているので、スーパーに寄った帰りのようだ。

この店は値段もさることながら、絵里の意向により、お客が寛げるような内装にしている。そのためおば様方の世間話の場所になったり、平日では学校帰りの学生の溜まり場などにもなっている。ちなみに凪たちの通う高校は隣町にあるので、クラスメイトがここへくることはほとんどない。

 凪は手本を見せるように、素早く対応に当たった。

「いらっしゃいませーっ。お客様何名様でしょうか?」

「四人よ」

「タバコはお吸いになられますか?」

「吸わないわ」

「それではあちらのお席へどうぞ」

 案内すると、今度は祐介の方へ手でサインを送る。

(お冷を持っていけ、ってことだな)

 すぐに準備し、テーブルへ運ぶ。

 四人分を配り終えると、指導されたとおり、

「ご注文がお決まりになられましたらお呼びください」

 一礼し、カウンターへ戻る。

「き、緊張したぁ……」

 はぁ、と肺の中の空気を全て吐き出した。

「ちゃんと出来たみたいね。この調子でがんばりましょうね」

「はは、足を引っ張らない程度にはこなしてみせるさ」

 その意気込みを試すかのように、入店を知らせるベルが鳴る。

「ほら来た。さあ、店長がいない間がんばるわよ」

「あいよ」

 

 

 

 一時間ほど経過したけど、一体どうなっているのだろうか?

 あれから客足は絶えることなく続いている。一人出て行ってはまた入ってくるという感じで、捌いても捌いてもキリがない。この状況はあり得ない、あり得なさ過ぎる。普通なら、この時間帯、多少忙しくなることもあるが、昼以上の忙しさに見舞われることはまずない。

 な・の・に、だ。今の状況ときたら、昼並み、いやそれ以上の忙しさだ。これでは一息つく暇もない。猫の手も借りたい、というのはこういう状況を言うのだろう。

 あーあ、仕事の合間に、彼と話でもしようと思っていたのに。これは神の陰謀、運命の悪戯!?

 これでは私達だけではキャパシティオーバーになってしまう。彼も慣れないながらがんばってくれているけど、流石にいきなり実戦投入ではそろそろ限界かもしれない。

 ああ、もう、何でこういうときに限ってあいつは休んでいるのだろ。あいつがいるだけでも大分違うのに。今こうしている間にも暢気に遊んでいるかと思うと腹が立ってくる。

 いや、何物ねだりをしても仕方がない。今はとにかく、自分に出来る最大限のことをしなければ。このまま諦めたのでは留守を預けてくれた店長に申し訳が立たない。何より、彼に顔向けできなくなってしまう。

 よし、何が何でもが閉店まで乗り切ってみせる。

 

 

 

「丘野くん、八番にお冷持っていって」

「分かった。柏木さん、レジが終ったら2番を拭いてくれ」

「お任せあれ」

 時刻は6時。

 閉店時間は7時までなのであともう少しだ。

 二人は一人目の客が来店してからの約二時間、全く休憩を取れず、店内を駆け回っていた。

「お水くださーい」

「はい、ただいま」

「お会計をお願いしたいんですけど」

「ただいま参りまーす」

 お冷を運ぶ、注文を取る、料理を運ぶ、空いた皿を下げる、会計を済ませる……。

 一息つく間もなく客を案内して、またお冷を運び、注文を取り、料理を運び、空いた皿を下げ、会計を済ませる。

 これがエンドレス状態で続いているのだ。

(そろそろ意識が朦朧としてきたかも)

 そう感じた瞬間、ポンと肩を叩かれた。

「キツイかもしれないけど後もう少しよ。がんばって」

 凪だった。

 祐介に激励の言葉を掛けると、すぐに「すいませーん、注文にですかー」と呼ばれ、

「はい、ただいまー」

 と小走りで駆けていった。

 まだ感触の残る肩に触れる。

 そしてあの言葉。

『がんばって』

 ここの奥から温かいものがこみ上げてくる。

 不思議とやる気も出てくる。

 そうだ、彼女は自分の何倍も仕事をこなしているのだ。その上、全く表情を崩していない。

 それに、一度引き受けたことだ。音を上げるわけにはいかない。

「丘野くん、九番の食器下げて」

「よし来た。柏木さん、5番がそろそろ食べ終わりそうだからデザートを運んでくれ」

「おお、そんな発言が飛び出すなんて。流石、店長の息子」

「先生がいいからね」

 フフッと笑い合う。

 そしてまた仕事に戻った。

 

 

 

「ありがとうございましたー」

 最後の一人を見送ると、店の前の看板を『OPEN』から『CLOSE』に変える。

 ようやく終ったのだ。

「はあー、終ったー!」

 適当な席に座ると、同時に疲労感が一気に襲い掛かった。

 テーブルに突っ伏し、ぐったりしていると、凪がジュースを運んできてくれた。

「お疲れ様、はい、冷たい飲み物でどうぞ」

「ありがとう〜」

 気の抜けた返事で情けないことこの上ないが、虚勢を張る元気も残っていない。

 それに比べて彼女はどうだろう。足腰もしっかりしているし、言葉にも覇気がある。これが経験の差というやつなのだろう。

「柏木さんはまだ元気みたいだね」

「まあ、こういうのは気合でしょ、気合」

 そう言って祐介の目の前に座る。

「でも丘野くん今日はがんばったわね。ダウンするんじゃないかって、心配してたんだから」

「見直した?」

「すごく」

 あはは、と笑い合う。

 祐介は改めて、目の前の少女を見た。

「ど、どうしたの?私の顔に何か付いてる?」

 あまりにも真っ直ぐ見つめるので赤くなってしまう。

 まして、自分の意中の人から見つめられているのだ。

「そうじゃないよ。ただ、母さんも良い娘を雇ったなぁ、って思ってさ」

「そ、そう……」

 更に顔に赤みが増す。

(そんなに褒められたら、まともに顔を見れないよ)

「柏木さんの『いらっしゃいませ』っていうのは心から来てくれてありがとう、っていう気持ちが伝わってくるんだよ。だからまた来たくなるような気持ちになる。母さんも柏木さんのそういうところに惹かれて雇ったんだろうね」

「か、買いかぶり過ぎよ。私はただ、その、一生懸命やっただけ」

 恥ずかしさを誤魔化すために、ジュースを一気に飲み干す。

 その仕草がおかしく、また可愛らしく見え、笑みがこぼれる。

「ねぇ、一つ聞いていかな?」

「ん、何?」

「どうして君は『sky』でバイトしようと思ったの?」

 祐介の問いに、んー、と首をかしげる。

 やがてマンガの様な、頭に電球が点いたように、思いついたとばかりに、

「ちょっとついてきて」

「え、何、ちょ、ちょっと!?」

 困惑する祐介の手を引き、凪はある場所へと向かった。

 案内された場所は『sky』の二階。

 ここはオープンカフェとなっており、外の風景を楽しみながら食事が出来るようになっている。

「ここって……」

「そう、ここが『sky』一番の売り。パンフレットにも書いてあるけど『青空の見えるオープンカフェでゆったりとした食事はいかが』っていうキャッチコピーなの」

「うん、知っている。母さんが何度も言ってたから」

「今は工事中で使えないんだけどね」

 よく見ると所々に壁が未完成であったり、布が被せてあったりする。

 凪は適当なところに腰をかけると、

「ねえ、空を見て」

「……うわぁ……」

 見上げた夜空には無数の星たちが瞬いていた。

 それは美しく、壮大で、太陽のように照りつけるのではなく、ひっそりと地上を照らし、輝いている。

この辺りは店仕舞いする時間が早く、また比較的都会から外れているため、星がよく見えるのだ。

「二ヶ月くらい前かな。私がここに家族と食事をしに来たとき、ここに案内されたの。そのときの青空はとても澄み切っていて、気持ちが良くて、ああ、こんなお店で働けたらなぁ、って思った。そうしたら、店長にヘッドハンティングされちゃった」

 えへへ、と恥ずかしそうに笑った。

 確かにこんな見晴らしのいいところでなら、仕事をしたいと思うのも納得だ。

 なんともまあ、面白い巡り会わせだ、と祐介は思った。

 『sky』に憧れる少女の前に現れる店長。まるでシンデレラみたいだ。差し詰め凪がシンデレラで、絵里が魔法使いというところだろう。

「私も聞いてもいいかな?」

「ああ、いいよ」

 凪は息を整え、

「去年の、入学式の日のことなんだけどね」

 あの日の出来事を話した。

 自分が道に迷っていたこと、そのとき彼が助けてくれたこと。

 話し終えると、祐介は申し訳なさそうに、

「ごめん、覚えてない」

 と謝った。

「謝らなくていいのよ。一緒にいたの少しだけだったし、それにそれって自然にごく普通の行動を取ったってことよね。私はとても素敵だと思うわ」

 謝る祐介に関係なく、凪はにっこりと微笑んだ。

 何て前向きな娘なのだろう。

 彼女こういうところが、可愛いだけではない、魅力なのだろう。

「あの時はお礼が言えなかったけど、改めて言うわね」

 立ち上がり、祐介と向かい合う。

「ありがとう。おかげでとても助かりました」

 ぺこりと頭を下げた。

 そして頭を上げると、やり遂げたような顔をしていた。

「あ、あはは、やっと言えた。ずっと言いたかったんだ」

「もしかして、時々何か言いたげに見ていたのってそういうこと?」

「うん。私達去年は違うクラスだったでしょ。だからなかなか言う機会もなかったし、かといって今更言うのもなんだかなぁ、って」

(本当はそれ以外にも理由があるんだけどね)

 敢えてそれは口にしない方向で。声にしてしまえば、今のこの一時が崩れてしまう気がするから。

「さてと、お礼も言えたし、そろそろ帰ろうか」

「うん、そうだね。綺麗な星空も見れたことだし」

 

 

 

 店の戸締りを終えると、俺達はそこで別れた。

 すでに辺りは真っ暗なので送っていこうかと思ったが、彼女は「いいよ、大丈夫だから」と言って断った。

 一人になり、改めて夜空を見上げ、今日の出来事を振り返った。

 親に呼び出され、突然留守番しろ、と言われ、クラスメイトと共にバイトをすることとなった上に、客が押し寄せてくるというハードな展開。正直体育の持久走以上に辛かった。

 でも、楽しかったとはっきり言える、充実した日であった。また気が向いたら手伝ってもいいかな。

 物思いに耽っていると、携帯が鳴った。ディスプレイの表示を見てみると、相手は母さんだった。

「もしもし、母さん?」

『あ、祐介くん。ごめんね、戻って来れなくて。ちょっと用事が長引いちゃって。忙しかった?』

「とっても。客足が絶えなくて捌いても捌いてもキリがなかったよ。でも何とか乗り切ったよ」

『あらら〜、それはご愁傷様。じゃあ、来月のお小遣いは大奮発しないとね。うんうん、やっぱり二人に任せて正解だったわ』

 全く、調子のいいことを言ってくれる。

 でも、小遣いアップと言うのはなかなか魅力的である。来月はリッチに過ごせそうだ。

『で、どうだった?』

「どうって何が?」

 含みのある声で聞いてくる。

 これはあまりよくない話だと、自分の本能が告げる。

『凪ちゃんのことよ。若い男女が二人っきりなんだから何か進展とかなかったの?』

「な!?」

 何をおっしゃいますか、この母親は!?

 そういうのを期待する親が一体どこにいやがりますか。

「そんなのあるわけないだろう!まったく、何考えてんだか」

『ええ〜、つまんなーい。祐介くんたら奥手なんだから〜』

 奥手とかそういう問題じゃないだろ。

 確かに彼女は可愛いと思うし、性格だって良い。

 でも、ほとんど口を聞いたこともない相手だぞ。それが一日でどうこう鳴るもんじゃないだろ、普通。

『まあ、そのうちくっつくだろうけどね。あ、祐介くん、父さんが言いたいことがあるって』

 母さんの勝手な憶測は放っておくことにして。

 何だろう。

 今日の手伝いに対するねぎらいの言葉だろうか。

「もしもし、父さん?」

『……孫は女の子がいい』

 瞬間、俺は力いっぱい携帯を投げ飛ばした。

 

 

 

 本当はもう少し一緒にいたかった。

 でもあのまま送ってもらっていたら、なかなか別れられなかったと思う。人の欲って限りがないからね。人間何事も物足りないくらいがちょうどいい。

 それに今日は本当に幸せだったし。

 彼が突然目の前に現れたかと思うと、二人で留守番することになって、一緒に星を眺めて、そしてずっと言いたかったことも言えた。

 これ以上のことを求めるのは贅沢というものだ。

 実を言うと、二人で星を眺めていたとき、結構ドキドキしていた。見た目こそさっぱりした感じで話していたけど、もう心の中はいっぱい、いっぱい。何とか乗り切った、という感じだ。

 これでちょっとは彼と親しくなれたかな。また学校で今度は色々とおしゃべりできるかな。できたらとても嬉しい。まだまだ話したいことが一杯ある。聞きたいことが一杯ある。

 そのためのきっかけになったらいいな。

 これから少しずつでいいから私のことを知ってもらいたい。彼のことを教えて欲しい。

 そしていつか聞いて欲しいの。

 この、誰にも負けない想いを。

『あなたが好きです』

 この一言を、いつか聞いて欲しいの。

 それまで私はがんばる。

 あなたが振り向いてくれるその瞬間まで。

 そう、いつか、また青空の見えるあの場所で、聞いてください。