『 sky 』
その少女を呼んだ客は親子連れだった。
食べ残しが転がっているテーブルを慣れた手つきで拭いていたウエイトレスの少女は、ただいま参りまーす、と大きな…しかし澄んだ可愛らしい声で返事をする。
そして、汚れた布巾をそのテーブルに置き、客に見えないように小さく手を払うと、パタパタと小走りで親子のもとへと駆けていった。
母親の手には伝票が握られている。
会計なのだろう。
「お会計、失礼いたします」
少女がレジカウンタに入ると、母親が少女に伝票を差し出す。
それを笑顔で受け取ると、少女は伝票に書かれている内容を流れるようにレジに打ち込んだ。
まるで軽快にステップを踏んでいるかのような、テンポ良く、かつ無駄のない入力を終えて少女は顔を上げる。
「お待たせいたしました。お会計は1470円になります」
実際のところ大して待たせてはいないのだが、テンプレートに則り金額を読み上げた。
ミートソーススパゲティと野菜サラダ、アイスコーヒー、オレンジジュース、お子様ランチ。それにチョコレートパフェ。
これだけの量を注文してこの金額なのだから、この店は本当にお財布に優しいなぁ…とレジを打つたびに少女は思う。
もっとも、だからこそ今ここで接客出来る要員が店長と少女しか居ないわけなのだが。
本当はもうひとり接客要員のアルバイトがいるが、今日は来ていない。
一月ほど前から「今日は休む」と宣言していたので、今頃はどこかを遊び歩いているのかもしれない。
母親は伝票を見てあらかじめ用意していたと思われる1470円ぴったりの代金をレジカウンタの上の受け皿に載せる。
少女は金額を丁寧に確認してレジスターに入れ、ありがとうございました、と嫌味なくぺこりとお辞儀をした。
子供の手を引いて店を出る母親を見送り、最後にもう一度「ありがとうございました」と親子の背中に笑いかけ……そして、少女は目の前の壁に掛けられている時計を見上げた。
午後の2時10分。お手軽な値段の昼食を求めて来店した客も次第に減る時間帯。
店内には空いているテーブルが目立つようになってきた。
お昼時を過ぎれば、あとしばらくは遅い昼食を求める客が時折来店する程度。
基本的には勤務時間内でありながらもちょっとした休憩のようなひとときを過ごす事になる。
もちろん、少女も例外ではない。
レジカウンタの影で制服の皺を伸ばすと、少女は静かに息を吐いた。
お昼時の混雑で張り詰めていた気持ちがゆっくりと解けていくのが分かる。
今までは気付く事すらも出来なかった、店内に僅かに残る料理の匂い。
「……そういえば、私もお昼まだだったなぁ」
少女は眉をハの字にして小さく呟く。
きゅるるる。
そして間髪いれず、少女のお腹が切なげな鳴き声を漏らした。
少女は慌てて両手でお腹を押さえると、頬を真っ赤に染めて店内をきょろきょろと見回す。
目に付くのは空いたテーブルばかり。
奥に一つだけ、若いスーツの男性が席についているテーブルがあったが、当の男性は何かを書いているのか、食い入るようにテーブルを見つめたまま右手を忙しなく動かしていた。
この時間帯にはいつも同じ場所に座って書き物をしている、ある意味常連ともいえる男性なのだが、幸い少女のお腹の虫の鳴き声は男性の耳に入っていなかったようだ。
あるいは、耳に入っていても気にしていないだけなのかも知れないが。
少女はお腹をぎゅっと押さえたまま、ほっと息を漏らした。
ウエイトレスは食事時が一番の稼ぎ時であり、故に昼食や夕食は一般的な時間帯には食べられない事が多い。
自分のお腹が空いている時に他人の食事を眺めてなければいけないというのはもはや拷問でしかないのだが、いざ食事時になると忙しさのあまり空腹も忘れてしまうのはある意味幸運と言えるかも知れない。
もっとも、それは忙しい時間帯だけ。
食事時が過ぎれば、少女の中で無意識のうちに押さえ込んできた腹の虫がゆっくりと活動を再開するのだ。
そう、今のように。
「今ならお客さんも少ないだろうし、休憩を入れようかな…」
店長は客が引き始めたところを見計らい、少女よりも少しだけ早く休憩室に入った。
そろそろ、交代しても良い頃だろう。
お腹の虫に、そして自分自身に栄養を与えなければ。
少女は奥の席に座っている男性を見る。
相変わらず書き物に集中しているようで、少女を呼びつける様子は無さそうだ。
迅速に引継ぎをすれば、問題なく休憩に入る事が出来るだろう。
少女はそう思い、休憩室に向かおうとしたその時。
からーん、からーん。
店の入口に付けられたベルが鳴り響く。
先程の男性が外に出たとはさすがに考えられないので、おそらくは遅い昼食を摂りに来た客か。
ううっ、こんな時に…っ。
内心毒づきながらも、少女は全ての感情を笑顔の奥に隠して振り向いた。
「いらっしゃいませーっ」
入店してきたのは学生風の若い男女の二人で、ハヤシライスと本日の日替わりランチである三色サンドイッチセットを注文する。少女は手馴れた要領で注文を書き込み一礼した後、踵を返し休憩室に向かった。
休憩室として使われている部屋は調理場から近い場所にあり、ドアの前には周辺に複数のハートマークのビーズが鏤められたように付けられたプレートが掛けられており、手書きと思われる可愛らしい文字で『休憩室』と書かれていた。
「明さーん、ちょっと良いですか？」
少女はその休憩室のドアの正面に立つと、軽くノックを二回行う。
「明さーん、新しいお客様です。料理の方お願いできますか？」
そして声を掛けながらもう一度ノックをしようとしたその時、中から「はーい」とおっとりとした響きを伴った返事が足音とともに近付いてきた。
「雅ちゃん、ごめんなさい。今ちょっと立て込んでいて、少しだけ遅れそうなの」
本当に申し訳なさそうな声と同時に、これもまた本当に申し訳なさそうな顔が少しだけ開かれたドアの隙間から垣間見えた。
隙間から顔を出したのは、一まとめに長い髪を結んだ若妻を連想させる女性の姿。その姿形は上品な専業主婦のような貞淑さを感じさせ、やや垂れ気味の目元がおっとりとした雰囲気に拍車を掛けていた。
そして、私服の上に身に着けただけのフリルのついた子犬の絵が描かれたファンシーさ満載のエプロン。
貞淑な若妻と言う印象からは想像も付かない少女趣味なパーツを装着しているが、この女性はれっきとしたこの店の店長であり、雅(みやび)と呼ばれた少女――支倉(はせくら)雅(みやび)の上司である。
「分かりました。それじゃ私、明さんが来るまでに仕込みをしておきますね」
「ええ、助かるわ。わたしも用意が出来たらすぐに行くから、用意のほうお願いね」
「はい、任せてください」
明(めい)と呼ばれた女性、成宮(なるみや)明(めい)は少しの焦燥感も見られない笑顔で頷くと、忙しない動きで部屋へ踵を返した。おっとりとした雰囲気からは想像も付かない機敏な動きだったが、長いこと接客業に携わってきた経験が彼女にあのような動きを与えていることを雅は悟っているために、もはや驚くことでもなかった。
何故ならば、雅がここのウエイトレスになる前は、接客から調理、清掃から材料などの買出し、経営に至るまで明一人でこの店を切り盛りしていたのだ。たとえどんな呑気な気質の持ち主であろうと、そんな日常を過ごしていればイヤでも機敏になれるというもの。
普段は結構のんびり屋さんなんだけどね。
それでも、この辺ではマスコミに取り上げられるほど有名な店にするほどなのだから、彼女が純然たる立派な人物であることは間違い無いだろう。
雅は人知れず微笑むと、調理場へ向かう。その途中、近くの壁に貼られたカレンダーが目に入った。
そういえば……
一旦足を止めて、もう一度カレンダーを見やる。
様々な大自然を素材にした二ヶ月表示のカレンダー。日付の上には、紅に色づいた葉が茂った木々の風景画が描かれていた。
そっか、もう九月なんだ……
もうすぐ、この店で働き始めて早一年が経過しようとしている。
昨年の今頃の自分は、まだ右も左も知らない一アルバイト店員に過ぎなかったが、慣れと言うものはいつしか目的と時間を忘却させるものだと彼女は思う。何故ならあれだけ忙しく辛いと思えるほど神経を張り詰めさせていたこの仕事が、今では忙しい、の一言に集約されてしまうほどの印象しか持たないのだから。
初めの頃と比べると雅はこの店での仕事がかなり気に入ってしまっている。好きだといっても良い。働いている最中は時間を忘れてしまうほど忙しく、そして楽しくなっている現状。それが以前と現在の時間の進み方の違いだった。
この店で働き始める前の自分は、これからは自分一人の力で生きていかなければならない現実に直面し困惑していた。
物心付いたときから家族や親戚といった身寄りが居らず、福祉児童施設で義務教育を受け過ごした。だが昨年の春、経営難からの維持が困難となった結果、施設は閉鎖に追い込まれ、子供達は他の施設に移されるか、名乗り出た里親に引き取られるか、それぞれ別々に離れることを余儀なくされた。雅もその一人だった。
雅はすでに義務教育を終えた年齢であったために里親に引き取られる必要は無かったが、今まで人生を過ごしてきた居場所を失ったことは大きなものであり、同時に自分自身の存在意義が希薄になった瞬間でもあった。
施設側の好意で安アパートの住まいを確立することは出来ても、それからどうやって生きていこうか結論すら出ていなかったのだ。衣食住それらを確保するには困難な道が待ち受けている。それ以上にスタートすらおぼつかなかった。
こんな将来が不安なままどうやって生きていこうか……
そう迷いに迷いながらの昨年の今頃、求人募集の紙が貼られていたこの店を見つけたのである。
この店は女性一人の手で経営されており、その女性は非常に大らかな性格の持ち主で深いことを気にしない性質だった。
そのせいか面接では根掘り葉掘り聞いてくることはなく、やる気があるといっただけで採用してくれたのだ。それは今でも不思議であり、そして感謝していることでもある。
彼女が居なければ自分は今どうなっていたのかも分からず、こうやって生きているかもどうか定かではない。
そうして、すっかりこの店に馴染んだ最近、ふと思うことがあった。
自分はこの店の従業員に相応しい人間になれたのだろうか？
何処からとも無く湧き起こった疑問。決して自分一人では出てきそうも無い答えを求めている自分が居る。別に後ろめたいことなど何も無い、何気無い問い掛け。しかし自分から聞くのが躊躇われる疑問。たとえ他の人間に尋ねたとしても、納得の行く答えを得られそうも無いかもしれないというのに、答えを欲する自分が居た。
この相反する感情と欲求。誰からも答えを得られていない以上、自らで答えを出すしかないのか。
明さんなら、なんて言ってくれるかな……。
明のことを思い出した瞬間、雅は冷や水を掛けられたように我に返ると、準備があることを思い出し、慌てて調理場へ足を向けた。
あぶないあぶないっ、すっかり忘れてた……！
いつの間にやら物思いにふけていたことに反省しつつ、調理場へ辿り着いた。
雅は冷蔵庫の傍にあるダンボールからレタスや玉葱、人参といった野菜類を取り出して流し台へと赴く。そして、一旦水洗いを行ってからまな板の上にレタスを一玉載せると、葉の大きさに沿って割き始めた。
この店ではレストランのような専門のコックやシェフなどおらず、店長である明が調理全般の役割を担っている。別段、雅やもう一人のアルバイトが料理できないわけではないので、明の代わりにある程度ならばメニューを用意出来る自信がある。ただこの店がオープンした初めの頃からの味というものが存在していて、その味を初期から長い間提供してきた明の料理はこの店にとって必要不可欠なものとなっており、今更変えることなど許されないところまできていた。
それにたとえ調理を任されたとしても、雅には明と同等の腕前など持ち合わせていない以前、明に教わりながら試しに料理してみたが、どうしても同じ味にすることは出来なかった。
何が違うのか、まだよく分からないのよねぇ……
ならば、せめて仕込みや準備ならば率先して行い、いずれは明の料理に並ぶような腕前になることを目標に、雅はウエイトレスの領域からはみ出ることを承知で材料の準備を行っていた。
「ごめんなさい、待たせちゃったかしら？」
雅が必要分のトマトを切り終えた時、背後からまるでデートの待ち合わせ時間に遅れてしまったような台詞に似た言葉が足音とともに近付いてきた。
「いえ、ちょうど終わったところですから大丈夫です」
「良かった。それで注文は何かしら？」
振り返ると、頭に清潔そうな白い三角頭巾を巻いた明が佇んでいた。
「ハヤシライスが一つと日替わりランチの三色サンドイッチセットが一つです。飲み物の注文は特にありませんでした」
「はい。じゃあ、すぐに用意しましょうか」
嬉しそうに微笑みながら腕まくりをすると、明は楽しそうな様子で調理に取り掛かった。
鼻歌交じりに食パンにバターを塗りつつ、その下にレタスを敷きトマトやハム、薄く輪切りにしたゆで卵を挟む。手早く無駄の無い動きでメニューを完成させながらも、鼻歌を歌うことを止めないその横顔は、心から料理することを楽しんでいる様子だった。
そんな幸せそうな光景そのものを眺めていた雅は、自然と口元が緩むのを感じた。
「ん？ なぁに？」
視線を感じたのだろう。明は手を動かしながら雅に視線を向けると、首を傾げながら微笑みを崩さなかった。
「いえ、明さんって、本当に楽しそうに料理するんだなぁって思って……」
「あら、そうかしら？」
「はい。料理だけじゃなくて、どんな仕事でも楽しそうにしてますよね」
正直な気持ちを吐露し、雅は微笑み返す。嘘偽りなど無い、ただ純粋に自らの想いを真正面に伝えるように。
「そうね……。やっぱり毎日充実な時間を過ごしているからかしら」
「充実……ですか？」
「ええ」
明はサンドイッチを作り終えると、今度はハヤシライス作りに取り掛かりながら言う。
「わたしね、休みの日を過ごしている時より、この店で働いている時の方がずっと充実している感じがするのよ」
ぶつ切りにした人参と玉葱を熱したフライパンの中に入れて、万遍無く火が通るよう箸を使って炒める。その最中にも話は続き、雅も耳を傾け続けた。
「勤勉は日本人の美徳ってわけじゃないけど、わたしはきっと、家でゴロゴロしているよりも働くことが好きなのよ。だから毎日が充実していて、自然と楽しそうになっちゃうのね」
心地良い音と香ばしい匂いが辺りに充満する。その間微笑みを失しなわずに作業の手を止めない明の姿から、雅はなんとなくその理由が分かった気がした。
働いていることが楽しいということ。それはただ働くと言う行為に没頭することが楽しいと言うのではなく、この店で働くということが大切な要素であり何よりも肝心なものだということ。
そして、それは先程自分が思っていたことの一つだった。
「……私もそう思ってました。ここで働いてると時間も忘れちゃうくらい、毎日が充実した一日を過ごせますから」
その一言にフライパンの火を止めようとした明の手が止まり、きょとんと目を丸くさせた顔を雅の方へ向けた。
「他の人から見たら何気無い日常に映るかもしれないけど、私にとって何よりも大事な時間なんです」
自分の言っていることは変だろうか？ だが、これは嘘偽りの無い本心からの言葉であった。
「そうね。雅ちゃんの言う通り、何気無い日常を自分が好きな場所で毎日過ごせるのは、何よりも贅沢で幸せよね」
「……はい！」
ガスコンロの火を止めた後、何度も満足そうに頷く明の姿を見た雅は、自分の言っていたことが間違いではないことを思い知らされ、胸を撫で下ろしつつ笑みを浮かべた。
「そう言えるようになったってことは、雅ちゃんもすっかりこのお店の人間ね」
「えっ……」
そのあまりにも、ごくごく自然な口調で呟いた明の言葉に、雅は一瞬呆気に取られる。
「もう一つ付け加えるとしたら、同じ日常を同じ場所で過ごす時、いつもかけがえの無い人と一緒に居ることが最高の宝物なんだと思うわ」
「……明さん」
まるで自分自身に言い聞かせているような明の言葉。その満足そうな笑顔を視界に収めながら、雅は自分の求めていた答えを手に入れたことに気付き、胸の内に僅かながらに巣食っていた蟠りが消えたような気がした。
「だから、わたしはこの店を含めた全てが好き。雅ちゃんもそうなの？」
「……はい」
呆気なく出た答え。今まで自分が悩んでいたことに対する馬鹿馬鹿しいくらいの感情。しかし、考えていた以上に爽快で納得の行く回答を得られたことに、雅はこれ以上ない満足感を得ることが出来た。
「大好き、です」
店の向こう側から鳴り響くベルの音。
その音に雅はハッと我に返ると慌てて明の方へと目を向けた。
「雅ちゃん、お客様」
「は、はい！ 今行きます！」
その何もかも承知の上と言わんばかりの微笑みに後押しされるように、調理場を出て入り口へ向かうまで雅は考えた。
どんな人でもいつも同じものを見て、聞き、感じるものは、それを当然と思い特別な感情は起こらないもの。しかし、いつも同じ日常を続けられると言うことがどれだけ大切なものか。それに気が付くのは、自分の中で何かが変わった時でしか決して分かることなど無い。
充実した時間がありふれた日常であること。時間、仲間、環境、大切なもの全てが揃って出来るもの。どんなものよりもかけがえの無い大切なものだと気付いたその時、達成される瞬間なのだ。
「いらっしゃいませーっ！ おタバコのほうはお吸いになられますか？」
ならば、この充実した時間を今あるうちに精一杯過ごそう。
この充実な時を大切な人達と過ごせる、『喫茶 sky』で。
〜fin〜