夢を見た。
以前、実際に起こった出来事。
それは別に大した事ではない、日常のハプニングのようなものだった。
久々にお菓子作りに挑戦し、完成した三色おはぎ。
会心の出来だった。ちとせは盆に乗せ、ほくほく顔で先輩達に配って回っていた。
廊下でレスターに出会った。
「副司令、こんにちは」
「ちとせか。どうした、嬉しそうな顔をして……何だそれは?」
「おはぎです。よろしかったら、副司令もお1ついかがですか?」
レスターは怪訝な顔で、盆に乗ったそれを見つめた。
「……食べ物なのか?」
ちとせはショックを受けた。自信作だっただけに、余計。
「ふ、副司令、あんまりです……」
「いや、すまん、初めて見たものでな。では遠慮なくもらおう」
慌てて取り繕うように、おはぎに手を伸ばす。
彼なりに何とかフォローしようと考えたのだろう。だが。
「……美味い」
一口食べた彼は、呆気に取られた顔をした。
「何だこれは……ミルフィーユのケーキより美味いのではないか?」
「そ、それは大袈裟すぎます」
「いや、真面目な話だ」
それはフォローで言っているのではない、完全に素の表情だった。
ちとせは頬を赤くした。
単に味覚の問題であるのは分かっていた。本人も知らなかったようだが、レスターは洋菓子よりも和菓子の方が口に合う人間なのだ。
しかしそれでも、尊敬する先輩のケーキよりも美味いと言われれば、嬉しかった。
「そ、それでは私は失礼します」
赤くなった顔を見られまいと、急いで頭を下げる。
「ん、そうか。馳走になった……待て、ちとせ」
早く行こうとして、後ろから呼び止められる。ちとせは微妙な角度で振り返った。
「……は、はい。何でしょう?」
「リボンがほどけかけているぞ」
「え?」
確かに彼の言う通り、ちとせのトレードマークである赤いリボンが緩んでいた。本人には確認のしようも無かったが、言われてみれば
後ろでまとめた横髪が垂れてきているような感じがする。
「あ……っと。えっと……」
慌てて直そうとして、困る。
両手はお盆で塞がっている。食べ物なので、いったん床に置くということも出来ない。近くに置ける場所があればいいのだが、生憎と
見当たらない。
ああもう、どうしてこんな時に……!
「ふむ」
1人であたふたしているちとせを見て、レスターは小さくうなずいた。
「少し待っていろ」
そう言い残して、近くの洗面所に入って行く。
すぐに出てきた。ハンカチで手を拭いている。手を洗ってきたのだろう。
「後ろを向け」
「え?」
「直してやる。菓子の礼だ」
戸惑うちとせ。レスターは首を傾げた。
「ん? 嫌なのか? ならやめるが」
「い、嫌というわけでは……むしろありがたい……です、けど……」
もはや真っ赤になった顔でボソボソと答える。
「? おかしな奴だな。これしきの事で遠慮するな」
「はい……お願いします……」
目が合わないだけ救いだ、と後ろを向くちとせ。
リボンが解かれる。彼の指が、自分の髪を整えている。
「………………」
長くて真っ直ぐな髪。実は内心で、密かに自慢の黒髪。
ちとせにとって髪に触れさせるという行為は、自分がその相手にどれほど気を許しているかの、1つの目安であった。
育った家庭環境のせいもある。母や祖母から「髪は女の命」と繰り返し説かれ、丹精こめた手入れを躾られた。
今ではさすがに、そんなのは大袈裟だと思うものの。
それでも未だに同性ならともかく、武骨な男の手にこの髪を触らせる事には大きな抵抗がある。
男の人に、髪を許してしまった――――ごく個人的に、これは一大事だったのである。
そんなこととは知らぬレスター、悠々と髪をまとめ、器用にリボンで結ぶ。
すっかり元通りだった。
「よし。できたぞ」
ポン、と肩に手を置く。

ビクンッ!

ちとせの全身が跳ね上がった。
「ど、どうした!?」
「い……いえ何でもっ! ありがとうございました、でわ私わこれでっ!」
振り向きざまにものすごい勢いで頭を下げ、間髪入れずに脱兎のごとく逃げ出す。
後にポツンと残されたレスターは。
「何だあれは……?」
ポリポリと頭を掻いていた。

顔から火が出そうだった。死ぬほど恥ずかしかった。
だけど……嬉しかった。とても光栄だと思った。

あの時の胸の高鳴りは、今でも憶えている――――。





「この馬鹿! のろま! なにをグズグズしている、早く撃て!」
シミュレーションルーム。
容赦の無い怒鳴り声が耳朶を打つ。気が散って集中できず、ちとせは唇を噛み締めた。
「撃てと言うのが聞こえんのか! 耳が聞こえんのか烏丸少尉! 撃てーーーーッ!!」
「くっ……!」
思わず指に力が入り、トリガーを引いてしまう。
あっ、と思った時には遅かった。自機の放ったビームは大きく目標を外れ、闇の向こうへ消えていく。
途端に、機関銃のように浴びせかけられる罵詈雑言の嵐。
「こォの……、馬鹿がァ! 何をやっている! 何てザマだ! それでも首席卒業か! よくその程度の腕で首席など取れたもの
だ! 貴様の代はよっぽど下手クソの能無し揃いだったのだろうな! エンジェル隊やめて輸送シャトルの運転手にでもなるか!?」
あなたが五月蝿いから――――ッ!
喉元までせり上がった言葉を、奥歯を噛み締めてこらえる。それを言ってはお終いだ、と理性が歯止めをかける。
「……すみません……」
言い返したい言葉を呑み込み、代わりにその言葉を口にする。
が、ちとせの内心の葛藤など、何ら斟酌されずに更なる雑言が降りかかる。
「何だァ、その声は!? やりたくないのなら何時でもやめていいんだぞ! しょせん温室育ちのエリートのお嬢様だ、その程度の
根性しか無いことぐらい分かってるんだ!」
叱られているうちが華なのだ、なにも言われなくなったら、見捨てられたも同然なのだから。必死に自分に言い聞かせる。
「はい……すみませんでした。もう一度お願いします」
「声が小さいと言っているんだ! ああ、もういい、もうやめだ! 帰れ帰れ! お前など要らん、とっとと出て行け!」
「すみませんでした! もう一度、もう一度だけお願いします!」
ほとんどやけくそで叫ぶ。
すると、まるで相手がひざまずくのを愉しげに見下ろすような、上機嫌な声が返ってきた。
「ふん、最初からその声を出せばいいんだ。特別にもう一度だけチャンスをやろう。早く撃てよ、ちゃんと当てろよ、下手クソ」
「はい! ありがとうございますっ!」
士官学校の教官にさえ、ここまで陰湿に嬲られたことは無かった。悔しくて、目じりに涙が滲んでくる。
ちとせは歯を食いしばって、再び始まったシュミレーションの目標を睨みつけた。こんど外したら、どんな屈辱的な言葉を投げかけ
られるか分かったものではない。
ちとせは必死だった。




暴風のような訓練も、時間が来れば終了する。
電源が切られ、ホログラフが消える。無限に広がる宇宙空間が消え、暗くて狭いただの四角い小部屋の壁になる。
「今日は終わりだ。とっとと出ろ、閉めるぞ」
シートの上でグッタリと力尽きているちとせに、素っ気無い言葉がかけられた。
「……ありがとう……ござい、ました……」
憔悴した声で独り言のように呟き、ちとせは肘掛けに手をついて立ち上がる。「ご苦労」の一言ももらえない。それどころか、早く
出ないとまた怒鳴られるだけなのだ。
よろよろしながらドアを開け、外に這い出る。外に出ても、すでに照明の落ちて薄暗い戦闘訓練室だ。先に訓練を終えた他のエンジ
ェル隊のメンバーが、ちとせを待っていた。
「えっと……お疲れ様、ちとせ」
前回よりももっと気遣わしげな、無理のある笑顔でミルフィーユは言った。
「お待たせして……申し訳……あ……?」
世界がグルリと反転する。
「ちとせ!?」
ランファが慌てて駆け寄り、倒れかかるちとせの体を支える。
「す、すみませ……」
「謝らなくていいわよ! ヴァニラ、ヴァニラ! あんたの出番!」
言われるまでも無く、ヴァニラは前に進み出ていた。手をかざし、ナノマシンの光をちとせの全身に振り撒く。体が浮き上がるように、
スッと軽くなる感覚。ようやく人心地つき、ちとせはホッと息をはく。
「すみません、ヴァニラ先輩。ランファ先輩、もう大丈夫です。ありがとうございました」
「本当に平気? 手、放すわよ?」
「ええ、本当にご迷惑を……」
その時だった。
「先輩に肩を貸させるとは、いいご身分だな、烏丸少尉」
冷淡な声が響く。振り返ると、レスターが侮蔑の眼差しでちとせを睨みつけていた。
「誰に寄りかかっているんだ? フランボワーズ中尉だぞ。先の戦闘では5隻も沈めた、優秀な先輩だ。お前と違ってな」
「あ……」
ちとせは慌てて、ランファから離れる。
「ちょっ、あんたまだグラグラしてるじゃない! 無理するんじゃないわよ!」
「いえ、大丈夫です。軽い戦闘機酔いです、すぐに直ります。すみませんでした」
ランファはなおも支えてやろうとするが、ちとせの方が拒否して身を離す。左右にフラフラとしながらも、自分の足で立って見せる。
ランファはキッとレスターに振り返った。
「副司令? 無理してんの見りゃ分かるでしょ!? 何が気に食わないのよ。ちとせが新人だからってんなら、私が勝手に肩かした
のよ。それなら文句無いでしょ?」
レスターはその怒鳴り声を無視した。
ちとせに歩み寄り、持っていた分厚いプリントの束を手渡す。

ドサリ

「う……」
差し出した両手に、ズシリとした重量。ちとせは思わず、小さなうめき声を洩らす。
「宿題だ。明日までに全部、目を通しておけ」
それだけ言い、レスターは呆れて声も無いエンジェル隊の面々を尻目に、さっさと踵を返して出て行ってしまった。
「ひでえな、こりゃ」
フォルテが振り返り、ちとせの手の上にあるプリントを見つめて、溜め息混じりに呟いた。
「確かに。さすがにこれは……」
ミントも非常識なその量に、眉根を寄せる。パッと見ただけでも、1日仕事となる量だ。それを今から、訓練もやって疲労困憊のちとせ
にやらせるなど。
「副司令、あんまりです! これじゃあただのイジメですっ!」
ミルフィーユに至っては、もはや完全に怒っていた。
「先輩方」
そんな中、ちとせは細い声で言った。
「ありがとうございます、私のために……。でも、大丈夫ですから……」
「ちとせ」
「用事ができましたので、お先に失礼します。お疲れ様でした……」
用事、とはもちろん、その膨大な宿題のことだろう。
5人は余りの悲惨さにかける言葉も無く、その背中を見送るしかなかった。




部屋にたどり着いた、そこが限界だった。
ちとせはプリントを抱いたまま、部屋の隅に畳んで重ねた布団の上に、ドサリと前のめりに倒れ込む。『精根尽き果てる』という表現
を、身をもって実感している感じだった。
「………………」
起きないと。起きて宿題をやらないと。
頭では分かっているのだが、体が動かない。宿題どころではなかった。お腹は減っているのに、食べる気がしない。汗をかいて気持ち
悪いのに、シャワーを浴びに行く気になれない。全てが億劫だった。このまま眠ってしまいたい。
「……副司令……」
自分でも思いがけず、その名前が口をついて出た。
ミントの揶揄ではないが、彼の背中を子鴨のようについて回っていた頃を思い出す。
別に無理して否定するのもみっともないし、認めてしまってもいい。
確かに自分は、あの人に憧れていた。何でも知っているし、それを鼻にかけることもなく丁寧に教えてくれたから。
幼い頃、父親に誉めてもらいたいばかりに頑張って勉強していた様に。
ほんのわずかにしろ、あの人に頑張っている自分の姿を見てもらいたい、優しい労いの言葉をかけてもらいたいという下心があったの
も事実だ。
嫌われてはいないはずだった。
決して自惚れではなく、程度はともかくとして、彼の好意らしきものを感じた時もあった。
嬉しかった。いつか、ひょっとしたら――――と、愚かしい想像をふくらませてみたりもしていた。
だが現実は、この有様だ。
分かっている。自分が馬鹿だったのだ。現実はそう甘くない、そんな都合のいい事などありえるはずもない。最初から自分の想像が馬
鹿げていることは知っていたし、だからそんな勝手な想像を自分で否定し続けてもいた。
だが、自分で否定するのと、現実から否定されるのとでは大違いだった。
ひょっとしたら、副司令と――――。
馬鹿らしい。本当に馬鹿らしい。数ヶ月前に戻って、そんな世間知らず丸出しの妄想を膨らませていた自分を思い切り嘲笑してやりたい。
自己嫌悪も相まって、余計に気が滅入ってくる。本当にこのまま眠ってしまおうか……?

「……なんて、やってる場合じゃないのよね」
重い体と心を無視して、布団から身を引き剥がす。
こうしていたって宿題は片付かない。現実とはどこまでも冷淡なもので、疲れているなどと、こちらの都合など聞いてはくれない。
現実のあの人は、優しくなんかない。決して甘えさせてはくれないだろうし、第一、今のあの人に甘えるなど自分のプライドが許さない。
ちとせは立ち上がり、机に向かった。
それにしても、なんて人だろうか、あの人は。あんな人だとは思わなかった。口汚い言葉で、どこまで私を貶めれば気が済むのか。
手にしたプリントを見つめる。もはやこれは、ただの宿題ではない。学校の宿題とはわけが違う。あの人に対する、私のプライドをかけ
た戦いだ。
言い知れない怒りが湧いてくる。絶対に負けるものか、あんな人に。
机の前に座ろうとして――――。
でも……
ふと、こんな考えが頭をよぎった。
もうちょっと優しくしてくれたなら、私だってもっと頑張れるのに……

バシン!

ちとせは紙束を机に叩きつけた。
冗談じゃない。さっきの今で、私はいったい何を考えているのか。
あの人に憧れていたのは昔の話だ、今は違う。昔の事は認めてもいいが、今は断じて違う。
認めるものか。誰があんな人を――――!
ちとせは怒りに任せて、猛然と宿題にとりかかった。


あんな人。レスター・クールダラスなんて大嫌いだ。





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