弓を引き絞り、つがえた矢を彼方の的に照準する。
射法八節にのっとり、基本を一から思い出し、全身の姿勢をチェックして的へと意識を集める。
待て。まだダメだ。もっと集中しなければ。
ちとせは更に的に全神経を集めようとした。まだ集中し切れていない。あの感覚が来ない。必中の確信が来ない。自分の集中力が
極限まで高められ、一瞬が永遠にも引き伸ばされるようなあの感覚。矢先から一条の筋が延び、的の中心を貫いてその向こう側ま
でも見抜けてしまいそうなあの感覚。
ギリ、と弓が軋みを立てる。が、待てど暮らせどその感覚は訪れない。的がぼやける。神経があとわずかという所で集中し切れず
に拡散する。
ダメだ――――。
限界だった。ちとせは諦めて矢から手を離す。思った通り、矢は中心を大きく外れて的の外環に突き刺さった。
「ふう……」
構えを解き、腰の手ぬぐいを取って額と首筋を拭う。別に汗はかいていなかったが、とにかく何かして気を紛らわせたかった。
絶不調だった。
目のことを知らされてから1週間。当然のように戦列から外され、訓練にも召集されず、ちとせは鬱屈とした日々を過ごしていた。
何もやることが無いと、余計なことばかり考えてしまう。皮肉な事に、レスターのあの猛特訓さえ恋しく感じてしまうくらいだ。
このままではいけない、と思った。このままでは自分はダメになってしまう。
そう思って、緊張の糸を今一度引き締め直そうと久々に取った弓だったが、結果は散々だった。
好不調の以前に、やはり的がよく見えないのが原因だ。視力は徐々に、だが確実に落ちてきている。それを思い知らされただけだ
った。よけいに鬱な気分になってしまう。
メガネでもかけようかしら。似合わないかな。目を良くするのは……ええと、ビタミン何だったかしら。
しばらく経ってから、自分がしょうもない事を考えている事に気がついた。
「疲れてるのかしら」
何もしていないのに。何だか、すっかりやる気も失せてしまった。もうやめよう。
ちとせは縁側にまとめて出してある荷物の所まで歩き、撤収を始めた。弓を長袋にしまい、矢を短筒に入れる。
「あ……矢、取って来ないと」
的に刺さっている矢を回収しなければいけなかった。
「……ちょっと、休憩」
すぐ行く気になれず、縁側に座り込む。
ペットボトルのスポーツドリンクを取り、ゴクゴクと飲み干す。
家でこれをやると、いたく怒られたものだ。飲む時はもっとこう、お上品に。楚々として飲まなければならないのだ。お神酒じゃ
あるまいし。
右手にはめたユガケ(弓道競技者が右手に着ける皮手袋)を取ろうとして。
「………………」
ふと気付く。手首の部分に刺繍されたネームに。
『千歳』
そのユガケは、自分で買ったものではない。人からもらったものだ。
ちとせは我知らず、昔の事を思い出していた。



それは3ヶ月ほど前のこと。
トランスバール本星で開催された弓道大会に出場した翌週のことだった。
白き月の一角に創ってもらった弓道場で、ちとせは稽古をしていた。

「ちとせ」
名前をよばれ、少々驚いて振り返る。
「副司令? こんにちは」
慌ててお辞儀を返した。
レスターがここへ来るなど、初めてのことだった。どうしたのだろう、何か急用だろうか?
「先週はお疲れ様。惜しかったな、あと1歩で入賞だったのに」
「いえ、そんな……。先輩方やタクトさんや、副司令までわざわざ応援に来て下さったのに不甲斐ない結果で、申し訳ありません」
レスターは笑いながら靴を脱ぎ、板張りに上がった。
「なに、10位なら立派なものじゃないか。俺なら気にしなくていい、話に聞く武道精神というものを堪能できて、とても有意義
だったからな。満足している。……それで、だ。その……色々考えたんだがな」
「はい?」
「こんなものしか思いつかなかった」
レスターは後ろ手に隠し持っていた紙袋を差し出した。
「え……」
ちとせは差し出されるままに受け取る。中を開けて見ると、新品のユガケが入っていた。
「タクトと俺から……敢闘賞、だ。」
ちとせは目を丸くする。
もらったユガケを紙袋ごと抱きしめ、深々と頭を下げる。
「あ、ありがとうございますっ! とても、とても光栄ですっ!」
「大袈裟だ。大会で見たとき、お前のが回りに比べて大分ボロボロだと思ったのでな。タクトと話し合って、それにしようと。
それより、名前なんだが」
「名前?」
言われて初めて気付く。
ユガケの手首付近に、名前が刺繍されていたのだ。

『千歳』

「その字で合っているだろうか? 文字を調べたのは俺なのだが、今さらながら心許なくてな……」
不安げに言うレスター。
返ってきたのは、ちとせの輝くような笑顔だった。
「感激です……!」
「そ、そうか。合っているのなら良かった」
レスターはホッと息を吐く。
実は厳密に言うと、正解ではなかった。烏丸ちとせの名は平仮名で「ちとせ」であり、漢字は当てない。
しかしレスターはトランスバール本星出身、異文化の住人である。漢字と平仮名の表記による微妙なニュアンスの違いなど分か
るはずも無い。
それに第一、大した問題でもなかった。「ちとせ」に敢えて漢字を当てるとしたら、それは「千歳」の字で間違いないのだろう
から。
だから、ちとせは素直に喜んでいた。
それよりも――――。
「でも副司令、漢字なんてどうやって調べたんですか? 私の故郷でだって、もう使っている人は誰も居ない文字なのに」
それが驚きだった。
ちとせの故郷ですらトランスバール星系の共通文字が普及し、漢字はもはや古語辞典か博物館に展示されている古い蔵書、ある
いは稀に人名に混じって形式的に使われているだけの絶滅した文字である。それを異文化の住人であるレスターが正しく使用し
ている事に、ちとせは驚いていた。
「ああ、ちょっと図書館に行ってな。辞書で調べた」
レスターは笑って答える。
口で言うほど簡単ではなかったはずである。
言語体系そのものが異なる異国の文字。その中から「ちとせ」の音を拾い上げ、何千種類もある漢字の中から正しい意味を持つ
よう「千」と「歳」の2文字を探し出して、組み合わせる。少なくとも大学レベルの語学的知識を習得していなければ不可能だ。
つまり彼は、このネームを入れるためだけに、それだけの労力を払ったのである。
……これは後から知り合いに聞いた事だが、閉館間際まで図書館で首をひねりながら語学入門を読みふけっているレスターが、
実際に目撃されていた。
「本当にありがとうございます。宝物にします」
改めて深々と頭を下げるちとせに、レスターは苦笑する。
「大事にしてくれるのは嬉しいが、使ってもらわなければ意味が無いぞ」
「はい、大事に使います。一生、大事に使います」
「いや、それは消耗品だろう。さすがに一生は」
「もしこのユガケが使えなくなったら、私も死にます」
「だから大袈裟だと言うのに」
2人で笑い合う。もちろん今の言葉は冗談半分だったが、ちとせはそれくらいに嬉しかったのである。
さっそく右手に着け、弓を構える。
矢をつがえ、弦を引き絞る。
的を睨み、神経を研ぎ澄まし――――放つ。


カッ


矢は的の中心に突き刺さった。
「見事」
「今なら私、百本射っても皆中できそうな気がします」
満足げに肯くレスターに、満面の笑みで答えるちとせ。
えもいわれぬ、穏やかな空気が2人の間に流れていた。
ふと、思いついたようにレスターは尋ねた。
「ちとせの目標は何だ?」
「目標、ですか? そうですね……やっぱり6位入賞すること、でしょうか」
「つつましい目標だな」
あまりに欲の無い答えに、レスターは苦笑する。
「実にお前らしいが、どうせならもっと高い目標を掲げてみたらどうなんだ」
「そうですか? じゃあ……」
少し考え、ちとせは答える。
「誰にも負けない名人に――――皇国一の弓取りになりたいです」
言ったそばから、自分で照れていた。
「なんて……ちょっと大きく出過ぎですよね」
「いやいや、良いではないか。豪気、豪気」
見果てぬ夢を描きつつ。
レスターとちとせは、いつまでもそうして笑っていた。





「…………」
ちとせは意味もなく、手にしたユガケを握り締めた。
あの頃は、あんなに優しくしてくれたのに。
どうしてあんなに変わってしまったのだろう。

『使えないんだよお前は! 四の五の言わずに引っ込んでいろ、この役立たずがっ!』

決定的な一言だった。
同じような罵りは、今までもあった。訓練で、実戦で、散々に言われ続けてきた。
あんな男は嫌いだと思い、敵視し、反抗的な態度に出た事もあった。
だけど本当は、心のどこかでまだ彼を信じていたのかも知れない。
そんな口汚い言葉は、すべて私を一人前にしようという親心からの厳しさなのだと、そう信じたかったのかも知れない。
ちとせは自分の胸に手を当てる。

……だって、こんなに胸が痛い。

彼は本当に変わってしまっていた。私のことなんて、本当に物と同じようにしか考えていなかった――――そう確信を持つに充分
過ぎる一言。その決定的な一言を耳にした時、ちとせの胸に去来したのは怒りでも憎しみでもなく。
痛みだった。胸を撃ち抜かれたような痛みだった。

どうして。副司令。
私のこと、そんなに嫌いなんですか?
何をどうすれば、あなたに気に入ってもらえたんですか?
一生懸命がんばりました。体中の力を使い果たしました。
それでも実戦で使えなくなったら、駄目ですか?
私のしてきたこと、みんなみんな、無駄だったんですか?
「……う……」
気が付くと、涙がこみ上げてきていた。
ちとせは慌てて歯を食いしばる。

今さら何を言っているのか、自分は。
そんな事、ずっと前から薄々分かっていた事ではないか。
だから反抗もしたのではないか。あの時、覚悟を決めたのではなかったのか。
そう思い、自らの気を奮い立たせようとする。

だが、そんな抵抗こそ無駄である事も、もうすでに分かっていた。
頭でどんなに認めたくなくても、心が寂しいと言っている。
目が勝手に、この場に居もしない彼の姿を探してしまう。
副司令。
どうして会いに来てくれないんですか?
慰めてほしいです。優しい言葉をかけてもらいたいです。
いつかみたいに、またこのリボンを結んでほしいです。
子供のように幼稚なことを、切実に願う。
「……いや……」
もう限界だった。
誰も居ない縁側で、ちとせはすすり泣く。
「盲目になんて、なりたくない……」
片方の目を失って、紋章機に乗れなくなって、エルシオールからも降ろされて――――その後、自分はどうなってしまうのか。
これまでの順風満帆な人生。未来が恐いと思ったことなど、一度として無かった。
だけど今は恐い。恐くてたまらない。積み上げてきた全てを失った自分に、何の価値が残っているというのか。
片目の女に、きっとどこにも行き場なんて無い。片目の女なんて、きっと誰も好きになってくれない。
「副司令……」
恐いです。寂しいです。
会いに来て下さい。ここに居て下さい。
「……助けて下さい……」
でないと、今度こそあなたを嫌いになってしまうかも知れません。
それが自分の一方的な身勝手だと分かっていても。
いつの間にか自分の胸で温め続けていた想い。
想いは深ければ深いほど、反動の憎しみもまた深くなる。
独りで居るには広すぎる空間。すすり泣きの声は圧倒的な静寂に呑み込まれて行く。

救いの手は――――。
決して、やってくる事は無かった。






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