暗い部屋に、カタカタとキーボードを叩く音だけが静かに響いていた。
その日もレスターは、変わらずに作業を続けていた。
ヴァニラは部屋の中央にあるソファーに腰かけ、その背中を見守っていた。
何をするわけでもなく、本当にただ見守っているだけだ。
「……あと、15日程度か」
ふと、レスターが独り言のように呟いた。
かすれた声。衰弱しきった彼にとっては、本当は言葉を発するのも辛いはずである。
「……はい……」
辛さをおして言葉を発したという事は、その言葉には大きな意味があるという事だ。
ヴァニラはコクリとうなずいた。
「もういいだろう。ちとせに、知らせてやってくれないか」
「……よろしいのですか? 情報部に、察知されます……」
「今、撒き餌をばらまいたところだ。2R日はもつ。そうすればもう大丈夫だ。たとえそのあと察知されようと、充分に逃げ
切れる」
「……分かりました。では早速……」
ヴァニラはソファーから立ち上がる。
彼はまだ、振り返りもせずに作業を続けている。
「それに、ちとせももう辛いだろうからな……」
最後の呟きは、本当に独り言だったのだろう。
ヴァニラは無言で、部屋を出て行った。
ティールーム。
久々に開いたお茶会だったが、そこには拭いようもない沈痛な空気が流れていた。
もっとも、今日のお茶会が楽しいものであるはずが無いことは、誰もが予想済みであった事だが。
「……すみません」
その原因が自分にあることを痛感しているちとせは、消え入りそうな声で言った。
「先輩方、お気持ちは嬉しいのですか私には構わない方が……もしこれで、先輩方の戦いにまで影響したら……」
テンションの低下による紋章機の性能ダウンを懸念するが、それをフォルテがやんわりと諌める。
「ちとせ、分かってるだろ? つまらないことを言うんじゃないよ……」
「……はい」
そう言われては、口をつぐむ他にない。
「私達に、何かできることがあれば良いんですけどね」
ミルフィーユの言葉にミントもうなずく。
「どんなことでも致しますのに……」
「手も足も出せないってのが、何かくやしいわよね」
途切れがちの会話。
重苦しい雰囲気。
「……せめて……」
そんな空気の中で、ヴァニラが呟いた。
「phec-β型の眼球提供者が見つかれば……移植が可能なのですが……」
そう言って、静かに紅茶をすする。
彼女にしてみれば、皆の話に相づちを打った程度のセリフだったのかも知れない。
だが――――
「……?」
ティーカップを置いたヴァニラは、皆が自分を見つめていることに気がついた。
誰もが驚きに目を見開き、食い入るように自分に注目している。
「ヴァニラ……いま、何て言った?」
フォルテが呆けたような声で訊いてくる。ヴァニラは小首を傾げながら繰り返した。
「……ですから、せめてphec-β型の眼球提供者がいれば、移植ができるのにと……」
「目の移植なんて出来るの!?」
ミルフィーユの問いに、ヴァニラは彼女にしては珍しく戸惑いがちにうなずく。
「はい……眼球の内部構造の修復はできなくても……移植ならば、神経をつなぐだけですから……ナノマシンを使えば、造作
もありません」
「なんでそれを早く言わないのよっ!」
ランファが怒鳴る。だがそれは、むしろ歓喜の悲鳴だ。
「ですが、問題があります。何度も申し上げている通り、phec-β型の眼球となると極めて希少です。本星のアイバンクにも
問い合わせましたが、ストックは無いそうです。銀河中を捜してみても、眼球を提供してくれる人がいるとは……」
「あーもう、つまんないこと言うんじゃないわよアンタも!」
「ちとせさん……!」
ミントが歓喜の瞳でちとせを見上げる。
ちとせは呆然と皆の顔を見回すばかりだった。
「ほら、なにアホ面かましてんだい!」
「ちとせ、治るんだよ! 目を探し出しさえすれば、治るんだよ!」
「こりゃもう探すっきゃないってカンジ!?」
「忙しくなりますわね!」
もはやお祭り騒ぎだった。
皆が皆、我が事のように歓声を上げて手を取り合う。
「治る……治るんですか? 私の目……」
ちとせは呟いた。
熱いものがこみ上げてきた。
我慢のしようもなく、涙が溢れてきた。
嬉しかった。
現実問題、ヴァニラの言う通り眼球を見つけるのは極めて難しいだろう。
だが、そんなことは問題じゃないのだ。
希望。
それこそが、ちとせとエンジェル隊の皆が渇望していたものだったのだから。
「よーし、こうなりゃ前祝いだ! シャンパンで乾杯といこうか!」
「シャンパンなんて無いですよー?」
「無いなら探しゃいいでしょ? これから難しいもの探すのに、シャンパンごとき見付けられないんじゃ話になんないわ!」
「その通りです、ランファさんたまには良いことおっしゃいますわ!」
「たまに、は余計よぉ!」
「それもそうだね! よーし、みんなでシャンパン探しにゴー!」
ミルフィーユの掛け声に、皆が嬉々として席を立つ。
「ほらぁ、ちとせも! 誰が一番にシャンパンを見つけるか競争だよっ!」
「は……はいっ!」
手を引かれ、泣き笑いの顔で立ち上がるちとせ。
「………………」
そんな光景を、ヴァニラは見つめていた。
間違いない。きっとこれで良かったのだと。
「ヴァニラー、何してんだい、置いてっちまうよ」
「……はい。今、行きます……」
うなずいて、小走りに皆のもとへ駆けていった。
そして10日後――――。
奇跡が起きた。眼球提供者が見つかったのである。
探し当てたのは、またもヴァニラだった。
「タクトさんにお話して来ました。……5日後に、ティル=ナンヴという惑星に寄港します。ちとせさんにはそこで一旦
エルシオールを降りてもらい……入院して、移植手術を受けてもらいます」
ヴァニラの説明もそこそこに、乾杯の音頭が上がる。
大騒ぎするので、場所はティールームではなくて食事時を外した食堂の一角を借りている。
「いやー、良かった良かった。今回の一件じゃ、ヴァニラさまさまだな」
「ホントですよねー、ヴァニラ偉い! お手柄だったわよー?」
上機嫌で言うフォルテとランファ。
「先輩方……本当にありがとうございました。このご恩は一生……!」
早くも感極まっているちとせの肩を、ミルフィーユがバシバシと叩く。
「ほらぁ、しんみりしない! 今日はお祝いなんだから」
「そうですわ。さあさあ、ちとせさんもまずはお1つ」
酒のお酌でもするかのような手つきで、ちとせのティーカップに紅茶を注ぐミント。
それは本当に久しぶりに訪れた、楽しいお茶会だった。
そのせいか、以前よりさらに皆が浮かれていた。
「かんぱ〜い! フォルテさんもかんぱ〜い! はいヴァニラもかんぱ〜い!」
ミルフィーユが意味も無く、1人1人とカップを合わせて乾杯して回る。
「1番、ランファ! 歌いま〜す!」
ランファは椅子を蹴倒して歌い始める。
「いや〜、ホント! 可愛い顔してやるじゃないか、こいつ〜っ」
「……痛いです、フォルテさん……」
フォルテがヴァニラに絡んでいるかと思えば、その隣では。
「まあ、何て素適な飲みっぷり。いけませんわ、ドキドキしてしまいます」
「ミ、ミント先輩、おかしな事を言わないで下さい」
「あら、つれないですわね。さあさあ、もう一献どうぞ」
人に酌をするという行為が気に入ったのか、ミントが芸者のように艶っぽくしなを切り、ちとせにべったりと付いていた。
誰もが笑顔だった。
アルコールなんて無いのに、まるで酔っ払ったように楽しげだった。
奇跡のような幸運に感謝し、見えざる手によって与えられた喜びを、全身で享受していた。
けたたましい音を立て、レスターは椅子ごと床に倒れる。
「む……ぐうっ……!」
右の太腿を押さえ、床をのた打ち回る。
太腿に、万年筆が突き刺さっていた。白いズボンが赤く染まっている。
事故ではない。自分で刺したのだ。
過労のため遠のきかける意識を、無理やり覚醒させるために。
「がぁっ……ガッ!」
机上に肘をつき、這いずるようにして自分の体を押し上げる。
椅子に体を滑り込ませ、姿勢を整えようとする。
激痛が襲った。
「ぐあああああぁぁぁっ!!!」
絶叫。
レスターはとっさにコートの襟を引っ張り、それに噛み付いた。
「ふーっ、ふーっ……!」
歯を食いしばり、声を押し殺す。目は血走り、狂気の光さえ宿し始めていた。
しかし、それでもなお、彼は作業を再開する。
震える指が、キーを押す。
カタ……カタ……
孤独で、惨めで、そして悲惨な音が、途切れ途切れに響いていた――――。
ナノマシンの光が大腿の傷を癒していく。
「……無茶を……なさらないで下さい」
傷口に手を添えながら、ヴァニラは哀しげに言った。
レスターは答えない。
その目は忌々しげに傷を見ているだけだ。
どう見ても、無茶をしたと反省している感は無い。むしろ逆に、自分の体の脆弱さに嫌悪している感だ。放っておけば、彼は
きっとまた同じ事を繰り返すのだろう。
ここまで自分自身に対して無慈悲な人間を、ヴァニラは見たことがなかった。
「エンジェル隊の皆の様子は?」
全然違う事を尋ねてくる。
「……みなさん喜んでおられます。ちとせさんも、とても……」
「そうか」
レスターは満足げにうなずいた。
「ならば……明日、最後の務めを果たすとするか」
ヴァニラは思わず顔を上げ、レスターを見つめた。
「何を……なさるおつもりなのですか……?」
最後。
万年筆を自分の足に突き刺すような無茶を、無茶とも思わないような人間が口にする、『最後の務め』。
言いようの無い不安が胸に湧き上がる。
そんな彼女に、レスターはニヤリと笑って見せた。
「楽しみにしておけ、最高の道化芝居をお目にかけるぞ。お代は見てのお帰りだ」
そして、翌日。
時刻は午前10時ジャスト。
エンジェル隊が一同に会したティールームに、レスターは姿を現した。
最初に気が付いたミントが、小声で皆に伝達する。
エンジェル隊の面々は、みな同じ顔をして彼に振り返った。
――――能面のような、無表情で。
「烏丸少尉、ここにいたのか」
レスターは朗らかな声でちとせに話しかけた。
「聞いたぞ。目の移植手術をするそうだな。治る見込みだというじゃないか、おめでとう」
まるで以前の衝突など、きれいさっぱり忘れてしまったかのような馴れ馴れしさで近づいて来る。
「さあ、そうと決まればこんな所で油を売っている暇はないぞ。さっそく今から訓練を再開しようじゃないか。すぐに準備しろ、
シミュレーションルームだ」
ちとせはしばし彼の顔を見上げて――――ふいと、視線を落とす。
「? おい、烏丸少尉」
「…………」
「聞こえなかったのか? 訓練を再開する。たった今、これからだ。すぐに支度をして、シミュレーションルームに来い」
「…………」
「おい、烏丸少尉……」
レスターの声に、不穏な色が混じり始める。
頑なに下を向き続けるちとせをしばらく見下ろす。貼り付けたような笑みが消え、代わりに憎々しげな歪んだ顔が浮かんでくる。
いきなり彼女の肩を強く掴んだ。
「おい、無視するとはいい度胸だな。何様のつもりだ、あぁ? 能無しのくせして一丁前に命令拒否か。調子に乗ってるんじゃ
ないぞ」
無理やりこちらを向かせ、脅しかけるように言う。
ちとせはそれでも、顔だけそむけて目を合わせない。
「………………」
「……俺を舐めているのか? この!」
レスターは右の拳を大きく振り上げた。それを思い切り振り下ろそうとして――――
ガシッ
何者かに掴まれる。
振り返ると、いつの間にそこに立っていたのか。
ランファがレスターの手首をしっかりと掴んで止めていた。
「……アンタこそ、人をナメるの大概にしたら?」
冷え切った声で言う。
「最初にちとせを捨てたのはアンタの方でしょ。なのに何?その態度。今までちとせのこと放っておいて、また目が見えるよう
になるって分かった途端、訓練再開? アンタの方こそ何様よ」
「フランボワーズ中尉、誰に向かって口をきいている? 誰がアンタだ、副司令と呼ばないか!」
全然的外れな反論をするレスター。ランファは呆れたように溜め息をついた。
「……サイテー。バッカじゃない? アンタなんかアンタで充分よ」
汚いものでも手放すように、掴んでいた手を振り払う。
「貴様ァ、上官に向かって何だ、その態度は!?」
「上官として必要最小限の資質も備えていないような人間が、言えたセリフではありませんわね」
ランファに向かって凄もうとしていたところへ、ミントが横槍を入れる。
外見こそいつものように落ち着き払って、ティーカップを傾けて見せたりしているものの。その目は好戦的な光でギラギラとし
ていた。
「何だと……ブラマンシュ中尉、いま何と言った」
「無能な馬鹿犬が、一丁前にギャンギャン吠えるんじゃない、と申し上げましたの」
いつもの飄々とした口調ではない。
本気で相手を潰しにかかる、殺気さえ漂わせた声。
「貴様も……命令不服従と上官侮辱罪だ、処罰ものだぞ!」
「上等ですわ。いかようにもなさったらよろしいです。この先、紋章機なしで無事に航行できる自信がおありなら」
「脅す気か? 恐喝罪も追加だぞ!」
「最初にちとせさんを恐喝したのは、どこのどなたでしたっけねぇ?」
本気になったミントを論破できる者など、居るわけがない。
言葉に詰まるレスターに、ミントはこれ見よがしに、ハアと息をつく。
「……あなたとなら、もっとレベルの高い論争が出来ると思っておりましたのに……何ですの? その低能丸出しの脅し文句は。
まったく、がっかりさせてくれますわね」
「き、貴様……貴様……!」
顔色を変え、歯をギリギリ鳴らすレスター。
「ふん、これだから女は。まったく、タクトの奴が甘やかすからこんな事に……」
「タクトさんを悪く言わないで下さい!」
今度はミルフィーユが噛み付いた。
「あたしは、みんなみたいに上手く言えないけど。でもあたしはタクトさんのためなら戦えます、でも副司令のためには戦いた
くありません! タクトさんの方が立派な人だと思うからですっ!」
「ミルフィーの言う通りさ」
後を引き継ぐようにフォルテが口を開く。
「あんた、自分が何してるのか分かってんのかい? タクトは親友なんだろ? あんたは女に言い負かされて、それを親友のせ
いにしてるんだよ。……分かるかい? ただの人でなしだね、あんた」
レスターは呆然と周囲を見回した。
なぜ自分がこんなに追い詰められているのか、なぜ自分が彼女たちを従わせる事が出来ないのか、まるで理解できない様子だった。
「何だ貴様ら、何なんだ! 俺の言うことをきけ! 俺はこの艦の副司令だぞっ!」
悲鳴のように叫ぶ。パズルが解けなくて癇癪を起こす子供と同じだった。
「……もう黙んなよ、あんた」
フォルテが同情さえするような声で言う。
実際、レスターの姿はもはや道化(ピエロ)以外の何者でもなかった。見ている方が痛々しいくらいの。
だが哀しいことに、そういう人間に限って自分の立場を最後まで理解できないものなのだ。
彼はもう一度、ちとせの肩に手をかける。
「おい烏丸少尉! 貴様がモタモタしているから、こんなことになったではないか! さっさと訓練を始めるぞ、シミュレーシ
ョンルームに来い! 大至急、今すぐだっ!」
力任せにガクガクと揺さぶる。
ちとせは人形のように揺さぶられるままで居たが――――。
「……で……さい……」
やがて彼女の口から、小さな呟きが洩れた。
「……ないで……ください……」
「何?」
「――――触らないでくださいっ!」
近づけてきたレスターの耳に向けて、ちとせは思い切り叫んだ。
弾かれたようにのけぞるレスター。
「ランファ先輩のおっしゃる通りです、今さら何なんですかあなたはっ!」
これまで溜め込んできたものを全て吐き出すように。
「一番居てほしい時に居てくれなかったくせに! 一番苦しい時に知らん顔してたくせに! なのに自分に都合が良くなったら
途端に上官面して……」
一息に、あらん限りの声をぶつける。
「私のこと馬鹿にしないでくださいっ!」
レスターはもはや顔面蒼白だった。
「よ、よくも、よくも……女のくせにっ!!」
気が触れたような形相で、拳を固めてちとせに殴りかかろうとする。
ズギュン!
銃声が響き渡った。
レスターの前髪が数本、ハラリと落ちる。
「……女だから、何だい?」
硝煙の立ち昇る銃口を向けたまま、フォルテは静かに言った。
呆然とし、動きを止めるレスター。その肩に、ポンと手が置かれる。
「……?」
何かと思って振り向いた瞬間。
ドカッ
ランファの、全体重を乗せた拳が振り下ろされた。
叩きつけられるように床に倒れる。
「いいかげん気付きなさいよね……ここにはもう、アンタの居場所は無いの」
「見苦しいから、さっさとお行きなさいな。この負け犬」
容赦の無い、冷徹な言葉と眼差し。
「……ふ、ふふふ……」
レスターは不気味な笑い声をもらしつつ、ヨロヨロと立ち上がった。
「問題だ……これは問題だぞ貴様ら……」
下卑びた笑みを浮かべながら、少しずつ後すざる。
どこまでも自分の敗けを認めることが出来ない、下衆の笑いだった。
「軍法会議にかけてやる。覚悟しているんだな。ふ、ふははは……」
そのままティールームを後にする。
「………………」
終始、言葉を発することが無かったヴァニラ。
ただ1人、舞台裏を知る観客は。
無様で哀れな道化の退場を。
ただ1人、いつまでも見送っていた――――。
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