その日も、ヴァニラはレスターの部屋にいた。
何をするでもなく、彼の背中を見守りつづける。
たまに彼が力尽きたら、ナノマシンの光を浴びせて起こす。
それだけだ。
何もかもが、変わってしまった。
もう、この人には何も残っていない。
心を通わせる仲間も。安らげる居場所も。そして、もうすぐ……光さえも。
なぜこの人ばかりが、失わなければならない? 奪われなければならない?
いくら尋ねても、彼は答えてはくれなかった。


カタ……


静かに、キーが鳴った。
それっきり、あれほど忙しく鳴っていた音が、ぱったりと途絶える。
不思議に思って、ヴァニラは顔を上げる。
まるで時が止まったように、レスターが動きを止めていた。
「……どうなさったのですか……?」
「終わった」
「……え……?」
一瞬、彼が何を言ったのか分からなかった。
彼は机に手をつき、よろよろと立ち上がる。
ゆっくりとこちらを向き、どことなく焦点の合っていない目でつぶやく。
「終わったんだ……完成だ」
「!」
ヴァニラは目を見開いた。
大偉業が達成された瞬間――――それは、静かな幕切れだった。
歓声も、拍手もない。
深い眠りにつくような。天寿をまっとうしたような。
そんな、静かな幕切れだった。
おめでとうと、言おうとした。
だけど、それでは足りないと思った。
おめでとうよりも、もっとたくさんのおめでとうを言ってあげたかった。
この2ヶ月間、彼を一番近くで見守ってきた者として。
彼が心から安らげるような言葉を、かけてあげたかった。
ヴァニラはゆっくりと、頭を下げる。
「……おつかれ、さまでした……」
その声は、果たして彼の耳に届いたのだろうか。
「………………」
糸の切れた人形のように。
レスターは床に倒れ伏した。
「副司令……!」
ヴァニラは小さい悲鳴を上げて、彼に駆け寄って行った。




………………………




「桜花は、私の故郷で最も愛でられている花です」

竹箒を手に、弓道着姿のちとせはそう言った。
この日、レスターが弓道場を訪れると、彼女は砂地を掃き清めているところだった。
うららかな小春日和。場側で咲き誇る桜が、ひらひらと花びらを散らしていた。
「桜には薔薇のように、鮮やかな色合いも、濃厚な香りもありません。でもその代わり、薔薇のように美しさの陰に棘を隠して
いたり、枝についたまま朽ち果てるような、生への執着を見せることもありません」
後から後から落ちてくる花びらを、ちとせは飽きもせず掃き続ける。
「私の故郷では遥か祖先の代より、自然のおもむくままに散り行くこの花に、自分の人生を重ねていました。決して華美でなく、
ほんのひととき淡い芳香を放ちつつ、風の吹くまま永遠に散り去ってしまうこの花こそ、侍の理想の生き様であると称えてきま
した」
「……サムライ?」
初めて聞く言葉に、レスターは首を傾げて尋ねた。
「武を生業とし、草民を守る封建社会の武力階級です。騎士(ナイト)のようなもの、と言えば分かり易いでしょうか。私の故
郷ではその者達を、侍あるいは武士と呼んでいました」
「ほう。――――サムライ、か」
その時、一陣の風が吹いた。
蒼穹の空に舞い上がる桜花。
「わぁ」
ちとせは風に踊る髪を押さえながら、小さな歓声を上げた。
「…………」
レスターは、その光景に思わず目を見張っていた。
薄紅色の花吹雪に、艶やかな黒髪が鮮明に映える。
しっとりと穏やかな微笑みで、花びらの行方を見守るその横顔。
異国の衣装を身にまとった少女が佇む様は、夢のように幻想的で美しい光景だった。
「綺麗ですね、副司令」
花を見つめて、ちとせは言った。
「ああ……とても、綺麗だ……」
ちとせを見つめて、レスターはうなずいた。
「 ――――生きとし生けるもの、すべて命はただ1つ。どんなに大切にしても、し過ぎる事は無いもの。それが命です」
舞い落ちる花びらの中にそっと手を伸ばしながら、ちとせは歌うように言った。
「でも私の故郷では、こう考えられています。人の一生には、その命を捨ててでも守るべきものがある。命より、大切なもの
がある」
空中で柔らかく拳を握り、ゆっくりとレスターのもとへ歩み寄る。
「その『何か』に出会えたならば、それはとても幸せな事。さらばと笑みをたたえ、清く散れるは最高の名誉」
ちとせはレスターの前で拳を開く。手の平に、ひとひらの花びらが乗っていた。
「それが『武士道』というものです」
不思議な微笑みに、レスターは言葉も忘れて魅入られていた――――。





グラスの中で、氷がカランと音をたてた。
「………………」
何だろう、懐かしい夢を見ていたような気がする。
どんな夢だった? 酔いが回って、頭がうまく働かない。
レスターはおぼつかない手つきで、机上の時計を取る。
深夜11時50分。もうすぐ日付が変わる。
ウイスキーの瓶を取り、グラスに注ぎ足す。
さっきまでタクトが隣にいたような気がするが、どこに行ったのだろう?
かなり酔っているな、俺は。久々の酒だからだろうか。
「すこし、醒ますか……」
展望公園にでも行こう。外周を1周歩けば、落ち着くに違いない。
レスターは立ち上がり、部屋の出口へと歩く。
それにしても、さっきの夢は何だったろうか? とても幸せな。狂おしいほどに暖かな記憶。酔いが醒めれば、思い出せるだ
ろうか……。
そんなことを、ボンヤリした意識で考えていた。




公園は、遠すぎた。
レスターは廊下に座り込み、壁に背中をあずけていた。
「……無様な……」
情けなくて、もはや笑えてくる。
部下に見放され、酒に酔って、こんな天下の往来にだらしなく座り込んでいるとは。
だが、今の俺にはお似合いか。深夜で人通りが無いのが、せめてもの救いだ。
そのとき、遠くから靴音が響いてきた。
「ん……?」
そちらを見やる。常夜灯に照らされて、こちらに歩いて来る人影がある。
誰だ? 視界がかすんで、よく見えない。くそ、酒など飲むのではなかった。
「……副司令」
声がした。聞き覚えのある声。
ちとせだった。
レスターはギクリとした。
慌てて立ち上がろうとして――――ふと、そんな必要が無いことを思い出す。
「おーう、誰かと思えば烏丸少尉か」
逆に、なるべく軽薄に聞こえるように、明るく言った。
「こんな所で……」
すぐ前で立ち止まり、不愉快そうにレスターを見下ろしてくる。
その目にあるのは、失望、幻滅、そして嫌悪。
「へへへぇ、奇遇だなぁ。運命かも知れんぞ」
「酔っ払うならご自分の部屋で酔っ払っていて下さい。こんな公共の場所で、他の人に迷惑です」
確かに、レスターはしたたかに酔っていた。
が、正体不明になるほど酔っているわけではなかった。
強過ぎる彼の理性は、どれほどアルコールが入っても決して崩れない。
男とはそうあるべきだと信じて、鍛えに鍛え上げた精神力だったが。
この時は、その強さが逆に疎ましかった。
「お部屋に戻ってください。タクトさんも探されていました」
……タクトが?
それでピンとくる。
なるほど、そういうことかタクト。
余計なことを。実にお前らしい。
「へいへい……よっこらしょ、と」
しまりなく笑って見せながら、立ち上がる。
定まらない千鳥足は、半分は本当だが半分は演技だ。
ちとせが後からついてくる。
分かっている。タクトよ、これが最後のチャンスだというのだろう?
ここで本当のことを言えというのだろう? 誤解を解けというのだろう?
「……ふ……」
悪いな、友よ。
それは出来ない。
「ひっく、う〜い……っと、おお?」
「副司令」
バランスを崩す。
ちとせが駆け寄って、彼を支えた。

ふわっ

ほのかな香りが、レスターの鼻腔をくすぐった。
その香りは、彼を支えるちとせのものだった。
「……桜花香……」
我知らず、レスターは呟いていた。
その一瞬だけ、素に戻って。


そうか。


思い出した。先程の夢を。

そうか……俺は、だから……。

レスターは心の中で、深くうなずいた。
万感の思いだった。
タクトよ、お前は残酷な奴だな。
先日の一件で、こいつとの決着はついたと思っていたのに。
今一度、大切なこいつを、傷つけなければならなくなったじゃないか。

「ん〜、いい香りだぁ」
「きゃっ……!?」
レスターは不意にちとせを抱きすくめ、のしかかるようにして廊下に押し倒した。
「ちとせぇ、お前よく見たら、なかなか可愛い顔してるなぁ……」
「ふ、副司令? 冗談は」
腕の中でちとせは驚き、怯えるような目で見上げてくる。


――――心配するな、何もしない。
俺はずっと、お前を見てきた。
あれほどの陰湿な虐めに、決して腐らず。
甘えに流れず、何者にも媚びず。
気高く。清く。凛として。
そんなお前に、俺のような卑しい男が、何かできるはずがない。


「どうせ手術したって見えるようになるとは限らんだろう? 危ない橋渡るより、このまま俺の物になるってのはどうだ?」
「何をわけの分からない事を……!」


治るさ。また見えるようになる。
散った桜が、また次の春に美しく咲き誇るように。
そのために、俺がいるのだから。


「あなたなんかの物になるくらいなら、舌を噛んで死んだ方がましですっ!」


そう、それでこそだ。
見事だ、ちとせ。
お前の勝ちだ。
本当に……おめでとう。


「いろいろ世話焼いてやっただろぉ? ちょっとばかし感謝の気持ちってもんを見せてもらいたいなぁ」
「きゃっ!? ……や、やめて……っ!」



だから……



「暴れるんじゃねえ! 役立たずは大人しく人形にでもなってりゃいいんだよ!」



だから……



「副司令……ッ!」





もう、俺は終わってもいいよな――――?





パチイイイイィィィン





強烈な平手の音が、廊下の静寂を打ち破った。
無様に吹き飛び、壁に頭をぶつけるレスター。
「はぁっ……! はぁっ……!」
荒い息をはき、自分の体をかき抱きながらレスターを睨みつけるちとせ。
廊下の照明が灯る。
バタバタと複数の足音が近づいてくる。
「ちとせっ!」
「ちとせ、どうしたの!?」
「今の悲鳴は一体……!?」
角を曲がってエンジェル隊の面々とタクトが姿を見せる。
彼らが目にしたのは。
「みなさん……」
髪を乱し、破れかけた軍服の前を両手で寄せた格好で、床にへたりこんでいるちとせと。
「へ、へへへぇ……よう、タクトじゃないか」
壁にもたれ、口からよだれを垂らし、濁った目で見上げてくるレスターの姿だった。











……ああ。


思い出す。


目に浮かぶ。


あの日のお前が。


美しかった情景が。


全てが眩しい。


泣きたいほどに、尊くて。


焦がれるほどに、いとおしい。




ちとせ……。



君に しあわせあれ――――。






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