エルシオールが港に着いた翌日。
午前10時。
エルシオール第4搭乗口から、3人の人影が出てきた。
「ここでいいぞ」
1人はレスター。彼は振り返り、ついて来ていたタクトにそう言った。
いつもの白いコートに、小さな旅行鞄が1つ。
今日は彼が艦を降りる日だった。
理由不明の職務放棄。隊員との不和。そして、烏丸ちとせ少尉への婦女暴行未遂。
もはや弁解の余地なく、懲戒免職と即時退艦が宣告されたのだ。
彼の隣にはヴァニラがいる。ナノマシンのリスを肩に、小さな手提げを1つ。彼女が付き添って、この後レスターは病院へ向かう事
になっていた。
他に、人は居なかった。副司令の退艦だというのに、見送る者はタクトの他に誰一人として居ない。それはレスター自身の希望だった。
「笑顔で送り出してくれる者など居まい。罵られるのがオチだ。もちろんそれは当然の報いだが……できれば、せめて最後だけは、心
静かに退艦したい」
彼の最後の希望をタクトが聞き届けたがゆえであった。
3人だけの、退艦式。
レスターは、学生時代からずっと行動を共にしてきた親友に、薄く微笑んだ。
「土産は俺の部屋の机に置いてある。後で確かめてくれ」
「…………」
タクトは言葉を探す。
沈黙し、この親友に最後に送る言葉を探す。
「お前は……すごい奴だよ」
呟くように言う。
「銀河中の誰が何と言おうと、俺は知っているからな。お前は、素晴らしい男だ」
そして口をつぐみ、目を逸らす。
こんな言葉で良かったのだろうか。もっとこの場にふさわしい言葉が、他にあったのではないか――――そう悩むように。
「そうか」
レスターは軽くうなずいただけだった。
いたたまれなくなったのか、タクトはごまかすように隣りのヴァニラに声をかける。
「じゃあヴァニラ、レスターをよろしく頼むよ」
「……了解しました。病院に着いたら、ご連絡します」
そして、それが潮時だった。
「それじゃあ」
レスターはゆっくりと、右手を差し伸べる。
「後は……任せたぞ」
最後の、固い握手を交わす。そして踵を返して歩き出した。
ゆっくりと、しかし迷い無く、力強く。
ヴァニラがその後を、一定の距離を保ってついていく。
「レスター!」
タクトの声。
「お前、最高の相棒だったぜ!」
その声にも振り返らず。軽く右手を上げるだけで答えて。
この日、レスター・クールダラスはエルシオールを降りた。





「烏丸少尉、入ります」
ちとせは司令官室のドアをノックした。
が、返事が無い。
「タクトさん? ちとせです。指示された入院届を持ってきました」
やはり返事が無い。
留守だろうか? 何気なくドアのボタンに手を触れる。
サッとドアが開いた。ロックはかかっていなかったらしい。
また無用心な……多少呆れつつも、いつものことなのでちとせは大して気にしなかった。
「失礼しま〜す。書類、置いて行きますね〜……」
誰も聞いていないのにそう断って中に入る。
机の上に、明日の手術のための入院届を提出する。
これで良し。司令官の印鑑をもらって書類は完成、今夜から入院だ。さあ、部屋に戻って入院準備をしなければ。
ちとせはさっさと部屋を出て行こうとした。
その時だ。

PiPiPiPiPi・・・・・

不意に、電子音が部屋中に響き渡った。
「きゃっ……?」
一瞬驚いて身をすくませるが、見れば机上の通信機が鳴っているだけだった。
どうしよう。
ちとせは考えた。司令官室に直接かかってくる通信という事は、相手は軍の上層だ。程度の差はあれ、秘密保持を前提とした話をする
ために使われる回線だ。自分のような下っ端が触っていいものではない。
だが、呼び出し音はなかなか切れない。何か火急の連絡なのかも知れない。
考えた末、ちとせは出ることにした。最初に自分の氏名と身分を名乗れば、用件を話すか否かは向こうが判断するだろう。
通話ボタンを押し、通信を開く。壁際のスクリーンに、初老の老人が映った。
「はい、こちらムーンエンジェル隊所属……」
「ならんっ、ならんぞタクトッ!!!」
ちとせの名乗りは、老人の大音声にかき消された。
「何を考えておるのじゃ、わしに相談も無く、何という事を……お?」
老人は激怒している様子だったが、そこで気がついたらしい。通信の相手が自分の教え子ではなく、敬礼をしかけたまま呆然としてい
る少女だという事に。
「お……君は、ちとせ……?」
「ル、ルフト将軍……」
そう。
通信の相手は、いまトランスバール本星で皇国軍全軍の指揮を執っているはずのルフト将軍であった。
ちとせは気を取り直し、再度敬礼する。
「ムーンエンジェル隊所属、烏丸ちとせ少尉であります。申し訳ございませんが、マイヤーズ司令は不在です。火急の用件でしたら私
が承るべく、勝手に通信を開きました。申し訳ありません」
「お、おお、そうだったか……タクトは今、おらんのじゃな?」
「はい。いかが致しましょう。ブリッジに連絡して、艦内放送をかけましょうか」
「いや、丁度いい。呼び出しは後にするとして、まずは君にお願いしよう」
ルフトはそう言うと、厳しい表情に変わった。
「は、私に……ですか?」
「そうじゃ。烏丸少尉、君にじゃ」
戸惑うちとせ。
だがルフトはお構いなしに、彼女に向かってこう言った。
「事情は聞いておる。じゃがちとせよ、今しばらく待ってくれ。眼球の提供者は、わしらが何としてでも探し出す。君からもレスター
に、早まるなと説得してくれ」





「あそこに見える病院です」
ヴァニラはそう言って、遠くに見える白い建物を指差した。
バスを降り、大きな公園の前を通りかかった時だった。
見晴らしの良い公園の向こうに、目的地である病院が見える。
レスターは立ち止まり、いま歩いている道の前後を見回した。
「……道路を歩いたら遠回りになるな」
「公園を横切ればショートカットできますが……どうされますか」
「行こう」
即決し、公園へ足を踏み入れる。
大きな公園だった。噴水のある広場に芝生のグラウンド、右手には体育館らしきものも見える。市民の運動公園らしい。
いい天気だった。
日差しは柔らかく、温かな風が吹いていた。
街の人間が、思い思いに時を過ごしていた。
ゆったりしたペースでジョギングに汗を流す中年夫婦。芝生で犬と戯れている親子連れ。木陰のベンチで昼寝をしている老人。噴水で
何事か語らっている若い男女。
「あ……」
そんな中で。
レスターは自分が歩いていた遊歩道の先を見て、小さく声を上げた。
声につられて、ヴァニラも前方を見やる。
遊歩道の両側に、桜並木が続いていた。
満開だった。
「この星は、いま春だったんだな……」
レスターは心なしか嬉しそうに呟くと、その中へと進んで行った。
青く澄み切った空を背景に、薄紅色の花びらが、春風に吹かれて舞っている。
「綺麗だな……」
ほのかに漂う、桜花の芳香。
記憶を呼び覚ますように、レスターの脳裏に美しい黒髪の少女の面影が浮かんだ。
その面影に、彼は思いを馳せる。
ひどいことをした。
出来れば全てを正直に打ち明けて、許しを乞いたいが。
それも永遠に叶うまい。
だけど、悔いは無い。
俺は何一つ、間違った事などしていない。
誉められるべき方法ではなかったかも知れないが、自分に出来得る最善の方法だった。
彼女に道を開けた。もう彼女が道に迷うことは無いだろう。
これから彼女は、遥かな高みへと昇って行ける。
どこまでも、どこまでも。もう俺が手を伸ばしても、決して届かない遥かな高みへ。
そんな道を、彼女に開けた。こんな俺が、だ。
何と嬉しい事だろう。何と名誉な事だろう。
「…………」
そこまで考えて、レスターは自嘲気味に薄く笑い、小さく首を横に振った。
いや。
初めから俺など必要無かったのだ。
そう思い直す。
彼女は素晴らしい人間なのだ。俺など居なくても、きっとその高みへ昇って行けたはずだ。
自惚れるな。俺のやった事など、しょせん鵜の真似をする鴉。
彼女の役に立っているつもりが、その実彼女の障害にしかなっていなかったのではないか? すんなり行けるはずの道で、彼女の足を
引っ張っていただけではないのか?
「……っ」
コートのポケットに手を突っ込んだまま、舞い落ちる花を見つめる彼の姿を、ヴァニラは見つめていた。
何かに耐えるような、苦しげな横顔。何かを思い出しているような、遠い目。
「綺麗だな……」
なぜか寂しげな、その呟き。
何を思っているのだろうか。単に花が綺麗だと言っているのではない。彼はこの儚げな光景と、薄く漂う芳香の向こうに、何かを見て
いる。
いつしか、彼は歩みを止めてうつむいていた。
「?」
どうしたのだろう。ヴァニラは不思議に思って彼に近づく
だが、傍まで行かずに立ち止まることになった。
「本当に……とても……」
泣いていた。
あのレスター・クールダラスが。
きつく目を閉じ。歯を食いしばり。それでもとめどなく、涙を流して嗚咽を洩らしていた。
「とても……綺麗だ……」
薄紅色の花吹雪の中で。
鬼と恐れられ、最低と罵られ、人間失格とまでに蔑まれた青年が。
迷子のように1人立ちすくみ、泣いていた。



「え……?」
ちとせは思わず訊き返す。
ルフトが何の事を言っているのか、理解出来なかった。
「君の心情を思えばわしの方こそ非情なことを言っておるのは分かっておる。じゃが聞いてくれ、いま皇国は非常な窮地に立たさ
れておる。ただでさえ人手不足なのに、先の戦いで更に多くの優秀な人材を失ってしもうた。ことに現場司令官クラスの人的欠乏
は破滅的じゃ。このうえレスターを、皇国軍の象徴たるエルシオールの副官を失うのは致命的すぎる。自分の教え子をこう言うの
は何じゃが、レスターは稀にみる逸材じゃ。英雄タクト・マイヤーズを補佐できるのはあやつを置いて他におらん。タクトと同様、
今すぐ代えが利くような男ではないのじゃ。君の目が特別なのは知っておる。じゃがレスターだけは駄目じゃ、他から提供者を必
ず見つけてくるから……!」
「…………」
なに? なにを言っているの?
ちとせは混乱していた。
皇国軍の人手不足は知っている。
レスターが優秀だから手放したくないというのも理解できる。
だけど私の目の事で、あの男を説得しろとはどういう意味なのだろう?
  早まるなって、何を?
戸惑うちとせに気付いた風もなく、ルフトはしゃべり続ける。
「じゃから頼む、ちとせよ。もうしばらく辛抱してくれ。エルシオールは、皇国は今あの男を……独眼竜を失うわけにはいかんの
じゃ!」
嫌な予感がした。
言いようの無い悪寒に、背筋が震えた。
これは、自分が知らない話だ。自分も関わっていたのに、自分の知らない所で進んでいた話だ――――それを直感で悟った。
恐かった。いったい何の事なのか、それを知るのは恐かった。
知らない方がいいと、本能が警鐘を鳴らしている。このまま適当に話を終えて、司令官室を出て、何もかも忘れてしまった方が
いいと、そう告げている。
しかしちとせの口は、勝手に言葉を紡ぎ出していた。
「あの……副司令と私と、何の関係が……?」
そして――――。
「何を言っておる」
ちとせは真実を、ルフトから知らされることとなる。
「君はレスターから、眼球を移植してもらうのだろう?」
「……え……?」
時が、凍ったような気がした。





薄暗い病院の廊下を、彼は進む。
その背中を見つめながら、ヴァニラは後に続く。
静寂の中で、2人分の靴音が無機質に響く。
リノリウムの床が、わずかな光を冷たく反射している。
退廃的で寂しさしか感じられない、そんな光景の中で、彼の背中は大きく見えた。
『威風堂々』
そんな言葉がよく似合う。
闇へ続く道を、迷いなく進んで行く。
決して後ろなど振り返らずに。
やがて2人は、手術室の前へと辿り着く。
「副司令」
ヴァニラはその背中を呼び止めた。
扉を開けようとしていたレスターの動きが止まる。
「何だ」
「…………」
沈黙。
ヴァニラ自身が、驚いていた。
何か言う事があったわけではない。なぜ自分は、彼を呼び止めてしまったのだろう。
分からない。
ただ、彼があまりにも迷いなく進んで行くから。
あまりにも恐れ無く、運命を受け入れようとしているから。
待ってほしいと思ってしまった。
何てことだろう。
私の方が慌てている。私の方が、覚悟を決められないでいる。
情けない。
「…………」
彼女のそんな葛藤を知らぬレスターは、扉に手をかけたまま次の言葉を待っている。
何か、一言を。
ヴァニラは必死に考えた。
目の前に立つ、偉大なる彼に、何かふさわしい一言を。
やがてヴァニラは顔を上げ、言った。
「副司令」
「ああ」
「今。この場で。こうしてあなたにお供できている事を……誇りに思います」
エンジェル隊の誰でもなく。
タクトですらなく。
この自分が、最後まで彼について来る事ができた。
まだ13年しか生きていないけれども。
きっとこれは、人生でも数えるほどしかない、この上なく名誉な瞬間だ。
それは彼女の、一片の嘘偽りも無い一言だった。
レスターは扉を押した。
開く扉の隙間から、光が差し込む。
ヴァニラは見た。
彼が、こちらを向いて笑っていた。
「ありがとう」
光の中で。澄み切った笑顔で。

笑ってくれていた。





タクトは片付けの手が入るより早く、レスターの部屋に入っていた。
目的のものは、すぐに見つかった。
机の上に丁寧に積み重ねられた、数枚のCDロム。
親友の置き土産。彼がこの2ヶ月、血を吐く思いをして作り上げた努力の結晶。
「レスター……」
タクトはそっとCDの束を手にとる。
「こんな姿になっちまいやがって……」
ひんやりとした感触に、涙がこぼれそうになる。
だが、泣いている暇など無い。彼の意志を継がなければならない。
ここに収められたものの全てを、今すぐ掌握しなければならない。
俺がしっかりしなければならない。彼はもう居ないのだから。
タクトは決然とうなずくと、CDの束を持って部屋を後にした。
廊下を歩き、司令官室にたどり着く。
ドアを開けようと、手を伸ばしたその時だった。

シュッ

指がボタンに触れるよりも早く、ドアの方が勝手に開いた。
と思ったら、中から人影が飛び出してくる。
なすすべもなく、まともにぶつかった。もつれあって、廊下に転がる。
「いててて……」
「す、すみませ……タクトさん!」
ちとせだった。
彼女はぶつかった相手がタクトだと知ると、立ち上がる間も惜しむかのように、そのまますがりついてきた。
「タクトさん、副司令は……クールダラス副司令は、今どこに!?」
「えっ?」
意外な問いかけ。彼女の顔を見てさらに驚く。
青ざめた顔。恥も外聞もなくボロボロに涙をこぼし、追い詰められた小動物のような目をしていた。
「教えてください! 副司令はどちらに行かれたのですか!?」
「ちとせ、いったいどうし……」
「お願いします! 教えてくださいっ!」
ただならぬ様子だった。こんなに取り乱したちとせを見るのは初めてだった。
タクトは戸惑うばかりで、どう対処していいのか頭がうまく回らなかった。
「落ち着いてくれ、どうして今さらレスターのことなんて……」
「あの人の居場所を教えてください! それとも知らないんですか!?」
ちとせはほとんど泣き叫んでいた。
迫力に負けて、タクトはつい首を横に振ってしまう。
「し、知らない……」
それを聞くとちとせは、タクトを突き放すようにして立ち上がった。
そのまま走り去って行こうとする彼女の手を、とっさに掴む。
「待つんだ! いったいどうしたんだ!?」
「放してください! 私、謝らないと……あの人に謝らないと!」
ちとせはものすごい勢いで暴れた。いつもの彼女からは想像もつかない勢いに、掴んだ手は簡単に振り解かれる。
走り去る彼女を呆然と見送る。
「いったい、何が……」
その時、部屋の中から彼を呼ぶ者があった。
「タクト、戻ったか」
「ルフト先生!」
スクリーンに映る恩師の顔。老人は戸惑った顔をしていた。
「いったいどうなっておるのじゃ?」
「それはこっちのセリフです! ちとせに何を言ったんですか!?」
「目新しいことなど何も言っとらん。移植手術の事を話しただけじゃ」
「――――――ッ!!!」
それで全て分かってしまった。
タクトの顔から血の気が引いた。
なんてことだ、まさかこんな所からバレてしまうなんて!
「なのに、ちとせのあの様子は何事じゃ? まるで何も知らんかったかのような……」
「知らなかったんですよ! ちとせは! 今回のことは何一つ!」
あまりに呑気なルフトの言葉に、タクトは思わず叫び返していた。
「なんじゃと!? おいタクト、それはどういう――――」
「すみません、また夜にでもこちらから連絡します!」
「おい待てタクト、タク」
一方的に通信を切る。
なんてことだ、なんてことだ、ここまで来て、そりゃないだろ!
タクトは運命を呪った。
これじゃああんまりだ。これじゃあ何のために、あいつはボロボロになったんだ!
「くそっ……!」
吐き捨てて、走り出した。





「ん……今の、ちとせじゃなかった?」
廊下の交差点を横切って行った人影に、ランファはそう言った。
「たぶん、そうだったと思うけど」
戸惑いがちに同意するミルフィーユの横で、ミントが首を傾げる。
「どうなさったんでしょう? あんなに慌てて……」
「ちとせって、今日入院するんじゃなかったっけ?」
フォルテも頭上に?マークを浮かべる。
そんな彼女たちの前に、今度はタクトが姿を現した。
焦って辺りを見回し、こちらに気がつく。
「みんな! ちとせを見なかったか!?」
「どうしたんですか? タクトさんまでそんなに慌てて」
ミルフィーユが尋ねるが、首を横に振る。
「ごめん、説明している暇は無いんだ。ちとせを見なかったか!?」
「あちらに走って行かれるのを見ましたわ」
「ありがとう!」
タクトは風のように走って行く。呆然と見送る4人。
やがて、遠くから声がした。
「ちとせ! レスターの居場所なら俺が知ってる! 教えるから止まってくれ!」
4人は顔を見合わせた。
「……いま、レスターって名前が出ましたわね」
「何でちとせが、あの男探して走り回ってるわけ?」
「こりゃ何かあったね」
コクリとうなずき合う。
そして4人も、ちとせとタクトの後を追って走り出した。





薄暗い病院の廊下に、けたたましい靴音が響く。
数時間前、レスターとヴァニラが歩いた廊下を、今度はちとせが走っていた。
やがて突き当たりに見えてくる、手術室のドア。
そこまでたどり着くと、ちとせは拳でドアを叩く。
「副司令……副司令!」
押してみるが、ドアは開かない。まだ室内で手術が執刀中である証拠だ。

ドン!ドン!

なりふり構わずドアを叩く。密かに自慢であった黒髪は乱れ、汗で頬や首筋に張り付いていた。
背後から複数の足音が近づいてきた。タクトとエンジェル隊の皆が追いついたのだ。
普段の凛々しさは見る影もなく、家を締め出された子供のように泣きながらドアを叩くちとせの姿を、呆然と見守る。

キィ……

開かずの扉が、不意に開いた。
中から手術衣の小柄な人物が出てくる。
ヴァニラだった。
「ヴァニラ先輩! ふ、副司令はっ!?」
とりすがるちとせには目もくれず、ヴァニラは目の前の人間たちを確認する。
タクトに目を止め、彼女は口を開いた。
「タクトさん……これは、どういうことですか……」
「ごめん……ルフト将軍にバレちゃったんだ。その通信を、ちとせが聞いてしまって……」
ヴァニラは落胆した様子で目を伏せる。
そしてようやく、自分の服を掴んでくるちとせに目を向けた。
「……何をしに来られたのですか、ちとせさん……」
「副司令は? ヴァニラ先輩、副司令は!?」
ちとせはそれしか言わない。
まともな会話が出来る状態ではないと察したヴァニラは、小さく息をつく。
そして、彼女が欲している答えだけを教えてやることにした。
「もう……手遅れです。たったいま、眼球の摘出手術は終わりました……」
「――――!」
ちとせは、掴んでいた手を離す。
「……副司令……」
よろよろとドアに手をつき、そのまま床に泣き崩れる。
「副司令――――ッ!!!」
悲痛な叫びが、薄暗い廊下に冷たく響き渡った。





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