事の起こりは、タクトとレスターが初めてちとせに出会った時にまでさかのぼる。
強奪船団に襲われた2人の前に颯爽と現れ、敵を撃退したちとせ。
距離6千から敵艦の動力部を貫いたピンポイント射撃。
レスターはそれに魅入られた。
戦略とはいかに味方を安全に、楽に、勝たせるかという方法論である。
敵の射撃は届かない。しかしこちらの射撃は届く。しかも一撃で、敵を行動不能にできる。
ちとせの超長距離射撃は、戦略論の理想そのものであった。
この時、レスターの頭の中で新戦略の草案が生まれた。
それまでのエンジェル隊の戦いは、何だかんだと言っても各人の個人技に頼ったものだった。それを改める。シャープシューターを
主軸に据え、もっと組織的な戦闘力を発揚する。
彼は案をまとめ、タクトに提出した。タクトも大いに乗り気になった。
当初、2人はゆっくりと計画を進めていくつもりだった。
じっくりと案を練り、エンジェル隊の日常訓練にそれとなく織り交ぜ、あわよくば実戦でも試してみる。実戦の裏付けがあれば、い
つか新戦略が完成し軍の上層部に提案した時も、頭の固い保守派の老人たちを黙らせることができる。
実際、計画はうまく行っていた。
エンジェル隊は自分たちでも気付かないうちに新戦略の訓練を施され、知らず知らずのうちに実戦でもそれを実施していた。その成
果は少しづつ、だが確実に上がっていた。
2人は確信を持った。これなら間違いない。彼女たちをより安全に、より楽に、勝たせてあげることが出来る。あとはじっくり時間
をかけて、案を煮詰めていけば良い。
若い2人の指揮官は、希望に燃えていた。
「……だけど、状況が変わった」
タクトはそこで言葉を切り、溜め息をついた。
病院の喫茶室。面会時間を過ぎて人気の無くなったこの場所を特別に借り、タクトはエンジェル隊の面々に真相を語っていた。
ヴァニラを除いたメンバー全員が、一様に口をつぐんで彼の話を聞いている。各人の前にはミントがいれた紅茶があったが、誰も手
をつけないまま、冷たくなっていた。
タクトはちとせに目をやる。
パニック状態こそ収まったものの、ちとせは死人のように顔を青ざめさせていた。
タクトと目が合ってビクリと小さく身を震わせる。
「大丈夫かい? ちとせ」
ちとせはぎこちなく、小刻みにうなずいた。
「……続けてください」
タクトは息を吐き、話を続けた。
「みんな、2ヶ月前に健康診断を受けたのを覚えているかな」
ある日突然、状況は変わった。
年に2回の定期健康診断。検査内容はナノマシン透析検査。
そこで、ちとせの目の異常が発覚した。
通常、隊員の健康状態は現場の司令官を通さず中央の専門機関に直接報告するのだが、検査を担当したヴァニラはその手順を破って
タクトに報告した。
タクトとレスターは愕然とした。
ちとせの片眼失明。それはシャープシューターの戦線脱落を意味し、ひいては新戦略の破綻を意味していた。
事実、話を聞いた時点でタクトは新戦略を諦めたのだ。
だが、レスターは諦めなかった。
数日間、彼は部屋にこもって何かの計画を立案した。
そして数日後、こう宣言したのである。
「ちとせに眼球の移植手術を受けさせる。俺の眼をくれてやる」
彼は宇宙図を広げて説明した。
エルシオールの航路を確認し、最終補給地点とされる惑星に目をつけた。
「この星だ。ここで手術を行う。ヴァニラ、病院の確保と手術の段取りを頼む」
確かにその星から先は、いつ何が起きるか分からない戦闘宙域であった。手術をやるとしたら、その星でやるしかない。だが。
「レスター、おまえ正気か!?」
タクトは本気で親友の正気を疑った。ヴァニラも反対した。2人がかりで他の方法を探そうと説得した。
が、結局は押し切られた。
レスターの計画は今すぐ強行する、平行してタクトとヴァニラで他の方法も探す――――それが精一杯の妥協点だった。
時間が無くなった。
その惑星に到達するまで、約2ヶ月。それまでにレスターがやらねばならない事は山積していた。それらは大きく分けて3つに分類
できる。
まず1つは、新戦略の完成。
具体的に、細部まで、上層部に提案し実用できる状態にまで、至急とりまとめなければならなくなった。
2つ目は、役職の申し送り。
エルシオールの副司令という仕事は、極めて特殊な仕事だった。他の艦の副司令を務めるのとはわけが違う。皇国軍を象徴する儀礼
艦という特殊性から様々なしがらみがあり、軍内部のあらゆる部署と複雑な調整をしなければならない立場にあった。本来、それは
司令官の仕事なのだが、レスターは「タクトはエンジェル隊と強い信頼関係を築かねばならない」と考え、彼をフリーにするため、
それらの仕事を全部引き受けていたのだ。それがこの時、アダとなった。
そして3つ目は、烏丸ちとせの育成であった。
彼はどうしても、自分が作った新戦略を、自分の手でエンジェル隊に授けてやりたかった。しかし、あると思っていた時間は無くな
った。とても全員に訓練をほどこす余裕は無かった。そこで、新戦略の主軸であるちとせを、集中的に鍛え上げることに方針を定め
たのだ。
地獄の日々が始まった。
やり遂げるべき3つの仕事。それらはどれ1つ取っても最低、半年は見込まなければならないものばかりだった。それを僅か2ヶ月
で、3つとも仕上げようと言うのだ。単純計算しても、レスターは9倍の速度でその後の日々を過ごさねばならなくなった。
9倍の速度とはどんなものか? 通常9日かけて行う仕事を、1日で仕上げるという事である。24時間休みなく働いてやっと仕上
がる仕事を、わずか2時間半で仕上げるという事である。
普通に考えて、出来るわけが無かった。しかし彼は、敢えて不可能に挑んだ。
まず睡眠時間が削られた。次に食事の時間が削られた。人間が生きていくための、ありとあらゆる時間が削られ――――最終的には
ナノマシンによって、辛うじて生命を維持するだけという状態にまで追い込まれた。
それでもレスターはやめなかった。己の使命を果たすのが先か、それとも己の生命が果てるのが先か。時間と生命力との勝負であり、
賭けであった。
「そして……あいつはやり遂げた」
タクトは懐からCDの束を取り出し、テーブルの真ん中に置いた。
「勝ったんだ。間に合ったんだよ、あいつは」
エンジェル隊の面々は、言葉も無くそれに見入っていた。タクトは隣を見やる。涙も枯れ果て、真っ赤に腫らした目で、呆然とCD
の束を見つめるちとせ。
「本当は、君を指導できるような状態じゃなかったんだ。立っている事すら、声1つ上げる事すら、辛い状態だったんだ。それでも
あいつは、君を叱り続けた。……なぜだか分かるかい?」
「………………」
「新戦略の中で、君がエンジェル隊の主軸になるからさ。どんな逆境が訪れようと、君は決して潰れてはいけないんだ。あいつは君
に、誰よりも強くなってほしかったのさ」
「………………」
ちとせは答えなかった。その体が小刻みに震えだす。震えを止めようと自分で自分を強く抱きすくめるが、それでも止まらない。
「ちとせさん……」
隣に座っていたミントが、気遣うように彼女の肩に手を置いた。
「……なんでよ……」
それまで沈黙を保っていたランファが、ポツリと呟いた。
「なんでよ……なんでそんな大事な事、アタシ達に話してくれなかったのよ!?」
ばんっ
テーブルに手をついて立ち上がり、タクトに向かって叫ぶ。
「アタシ副司令に言っちゃったわよ! あんたなんてサイテーって! この拳で、思いっきり殴っちゃったわよ! だけど何? ふた
を開けてみたら何!? アタシのした事って……どうして教えてくれなかったのよっ!?」
それは恐らく、エンジェル隊全員の気持ちを代弁した言葉だったのだろう。
タクトは静かに首を横に振る。
「言ったら、ランファはどうしてた?」
「どうって」
「もしオレが『ちとせは目が見えなくなる。だけどレスターの目を移植するから大丈夫だ。君らは通常どおり、業務を続けてくれ』と
言って、君は了解しましたとうなずいてくれたか?」
「…………」
「いいや、きっと君は反発した。他のみんなもだ。大騒ぎして、みんなでちとせの目を治す方法を探しただろう。事実、君らはそうし
たしね」
一瞬言葉に詰まるものの、ランファはすぐに憮然として言い返した。
「何よ、そんなの当然じゃない。それが悪いとでも言いたいの?」
だがタクトは、その言葉にあっさりとうなずく。
「ああそうだ。悪い。ちとせの目のことで、君らに大騒ぎされちゃ困る事情があったんだよ。少し前までね」
今度こそ言葉をなくすランファ。
フォルテが怪訝な顔をして尋ねた。
「どういう事だい?」
「情報部に嗅ぎつけられるからさ」
「情報部?」
あっけにとられる皆に、タクトは説明した。
「ちとせが学生時代、情報部からスカウトされたことがあるって話は、みんな知ってるよね?」
「ちとせさんの情報処理の成績が素晴らしかったから是非に、というお話でしたね」
と、うなずくミント。
「情報部はね、いまだにちとせを諦めていないんだよ」
「え……?」
「情報部ってとこは昔から学歴偏重、キャリア組が卒業校ごとに学閥を作って争っている部署なんだ。今年度の首席卒業生、しかも
情報処理能力に特に秀でた烏丸ちとせは、センパール学閥組からすれば、期待の持てる有力な手駒なのさ。軍の上層部では今でも、
ちとせを情報部に引き抜こうと水面下での駆け引きが続いている」
「そ、そうなんですか?」
圧倒されたように呆けるミルフィーユに、タクトはうなずく。
「もし君らがちとせの目のことで、大騒ぎして動き回ったらどうなっていた? 奴らは必ず嗅ぎつけてくる。片目になったって情報
処理は出来るからね。奴らにしてみればちとせを引き抜く、またとないチャンスだ。しかも今度は皇国を救ったエンジェル隊の元隊
員という肩書きまでついてくる。センパールのいい看板だ」
「でしょうね……」
「奴らはプロだ、俺達がどんなに隠密に動いたって、どこからか秘密を探り出してしまう。だったらオレと、レスターと、ヴァニラ
と。これ以上秘密を広げるわけには行かなかったんだ。悪いとは思っていた。だけど君たちに話すわけにはいかなかったんだ、ちと
せを守るためには」
フォルテは溜め息をついた。
タクトの言う事は正しいと感じたからだ。
もし仮に「これは絶対の秘密だ」と教えてもらっていたとしても、自分たちはジッとしていられなかっただろう。ちとせのために、
何かやっていたに違いない。そして結果、情報部に嗅ぎつけられ、ちとせを進退の窮地に追い込んでしまっていたに違いない。
タクトは正しかった。くやしいが、他のメンバーに話さなかったのはエンジェル隊の指揮官として正しい判断だった。
タクトはちとせに振り返って言った。
「ちとせ」
「はい……?」
「今のはオレが考えた事じゃない」
「え」
「レスターの読みだよ。あいつが俺に、他のメンバーには秘密にしろと釘を差してくれたんだ。信じてやってくれないか……あいつは
ただ、君をエルシオールに留めようとしていただけなんだ。君をエンジェル隊のままで、居させてやろうとしていただけなんだ」
「………………」
ちとせは思い出していた。
まだレスターが豹変する前。
彼と仲良く出来ていた頃。
彼が口癖のように言っていた言葉を。
「ちとせ。エンジェル隊は好きか?」
あれは、そういう意味だったのだろうか?
そんなにも前から、彼は情報部と戦い続けていたのだろうか?
……私を守るために。
もう耐えられなかった。
ちとせはついに、心に渦巻く疑問を口にした。
「……どうしてですか……?」
自分の声が震えているのは分かっていたが、もうそんな事に構っていられなかった。
「どうして副司令は……私なんかにそこまでして下さるんですか……?」
「それだけ君を見込んでいたって事さ。あいつは君の超長距離射撃に希望を――――」
「だって!」
タクトの言葉をさえぎり、立ち上がって叫ぶ。
「私は放っておいても、片目を失うだけで済みます! エンジェル隊を辞めることになっても、何とか生きていく事だけはできま
す! でも副司令は……すでに片目のあの人は……!」
声に嗚咽が混じる。もはや言葉にすらなっていないのかも知れない。
それでもちとせは、あらん限りの声で叫んだ。
「完全に盲目になってしまうじゃないですか!!!」
部下を救うためとは言え、自分から進んで盲目になるなど、どう考えても正気の沙汰ではない。自分など片目を失うだけで、あん
なに恐かったのに。
どうしてレスターがそこまでしてくれるのか、ちとせには理解できなかった。
「……それは、オレが答えていい事じゃない」
泣き叫ぶちとせを見上げながら、タクトは穏やかに首を横に振った。
「でも、あいつの気持ちはオレにも分かるな。もしもミルフィーがちとせみたいな目の病気にかかって、目が見えなくなるとした
ら……オレも、ミルフィーに自分の目をあげていたと思う」
「答えになっていません……」
「なってるさ。それに第一、オレが答えていい事でもない。レスターに直接訊けばいいよ」
「私には……分かりません……」
ちとせは立ったまま、きつく目を閉じる。歯を食いしばって耐えるが、ボロボロと涙がこぼれて止まらなかった。枯れ果てたと思
っていたのに、止まらなかった。
「ちとせ」
タクトは立ち上がり、ちとせの肩にそっと手を置いた。
「その質問には答えられないけど、オレはオレの口から言える事だけを言うよ。あいつはね……君を色々なじっていたけど、本当
はこの銀河中で誰よりも、君を高く評価していた。銀河中の誰よりも……君の力を信じていたよ」
そのままゆっくりと肩を押し、椅子に座らせる。
「それにしても……」
泣き伏せるちとせを横目に、ミントが言った。
「そんなにすばやく手を打てるなんて、副司令はよくちとせさんの目の病気をご存知でしたね。あんな……何と申しましたか、難
しい名前の病気のことを」
「ああ、それなら」
タクトが答えようとしたその時だった。
「……それなら簡単です……」
不意に、あらぬ方向から声がした。
全員が驚いて振り返る。
ドアが開き、白い軍服の少女が入って来た。
「ヴァニラ」
「……遅くなりました。申し訳ありません」
ヴァニラはタクトに向かってペコリと頭を下げる。
そして、ミントに振り返って言った。
「……副司令がなぜ急性網膜異常光彩拡散症という病気をご存知だったか……答えは簡単です」
「どうしてですの?」
「この病気の通称を聞けば、すぐに分かると思います」
ヴァニラは確認をとるように、ちらりとタクトを見やる。
言ってもいいか?という意味だ。タクトは黙ってうなずいた。
「この病気は……一般に『クールダラス病』と呼ばれているのです……」
「クールダラス……!?」
「クールダラス病が初めて発見されたのは10年前、トランスバール本星にて。第一号患者の氏名はレスター・クールダラス。
当時12歳の少年でした……」
エンジェル隊の面々が言葉を失う中、タクトが補足するように言った。
「あいつは言ってたよ。当時の俺は何の力も無いガキだった。しかし今は違う。こんなふざけた病気ごときに、ちとせを潰され
てなるものか、ってね。ちょっとした復讐劇の気分だったんだろうな」
「じゃあ、眼帯がついていたあの左目は」
「ああ。10年前、ちとせと同じ病気で失明したんだよ」
知っていて当然だった。
彼は10年も前に、その病気を自分自身で経験していたのだから。
治療法が無い、という絶望感も。徐々に視力が失われていく恐怖も。すべて経験していたのだから。
「ちとせさん」
ヴァニラはちとせに歩み寄った。
「副司令が今、目を覚まされました。ちとせさんを呼んでいます。私は、あなたを呼びにここへ来ました……」
「……っ」
目に見えて動揺するちとせ。ヴァニラは穏やかに言った。
「……心配ありません……私の方から、全て説明しておきました。副司令はすでに、ご存知です……」
「で、でも」
「病室へご案内します。ついて来て下さい……」
そう言って先に立ち、部屋を出て行こうとする。
だが、ちとせの足は動かなかった。
「……ちとせさん……?」
怪訝そうに振り返るヴァニラ。
「……私……行けません……」
ちとせは頭を振って言った。
「今さらどんな顔をして、あの人に会えばいいんですか? あわせる顔がありません……」
「……勇気ある提供者に、挨拶もしないおつもりですか……? それは、失礼です……」
「それは分かっています! でも」
「………………あ」
ヴァニラが何かに気付いたように、小さな呟きをもらした。
スタスタとちとせの前まで戻ってくる。
「ちとせさん……前髪にホコリがついています」
「え?」
「違います、そっちではありません……そっちでもありません」
「どこですか?」
「屈んで下さい……取ってさしあげます」
「す、すみません」
言われるまま、膝を屈める。
瞬間、ヴァニラの目がスッと細められ、鋭く光った。
パンッ
乾いた音が、室内に響き渡った。
その場にいた全員が、信じられない光景を目撃していた。
「ヴァニラさんが……」
「ひっぱたいた……?」
口に出して言ってみても、まだ信じられない。
叩かれた本人ですら、信じられない様子だった。ちとせは赤くなった頬を押さえ、呆然とヴァニラの顔を見つめる。
「……情けない事をおっしゃらないで下さい……」
ヴァニラは目をそらし、押し殺した声で言った。
「あなたが、そんな情けない事をおっしゃらないで下さい……副司令がお聞きになったら……どんなにがっかりなさるか……。副司
令は、あなたのことを敬愛して……そのあなたが……そんな、情けない……」
一瞬、泣き出すのではないかと思った。
途切れとぎれの呟き。たくさんの想いに言葉がついていっていないような、そんな断片的な呟き。
しかし彼女の目から、涙がこぼれることは無かった。
彼女はポケットに手を入れ、1枚の紙片を差し出す。
「……これは、副司令のお部屋に飾ってあったものです……」
戸惑うちとせに、押し付けるようにして手渡す。
「……習字、というものだそうです。お守りとして持って来られていたのを、お借りして来ました……」
4つ折りに折りたたまれた和紙。
「……私はずっと……そこに何が書かれているのか、知りたいと思っていました……あの副司令が、お守りにするような言葉とは
何なのか……。あなたなら、これが読めるはずです……」
ちとせは恐る恐る、その紙片を受け取った。
レスターの部屋にあったという習字。
異国人である彼が大事に持っていた、自分の故郷の文字。
そっと、広げる。
『 武士道 』
息が止まった。
見事な達筆だった。
この文字だけを繰り返し繰り返し練習し、清書した努力の跡が見られる力強い書。
「副司令……」
そうだった。彼はそういう人だった。
『千歳』の文字をユガケに縫って贈ってくれた時もそうだったではないか。
あきれるほどに誠実で。愚かなまでに献身的で。だけど決して揺るぎない、磐石の信念を胸に秘めた人。
そんな彼なればこそ語った、祖国の誇り高き倫理。
武士道。
いつかの日。桜舞い散る中の逢瀬。
今にしてようやく、ちとせはそれらを思い出した。
「……ヴァニラ先輩……」
「はい」
「副司令は、どちらに」
「ご案内します」
ちとせを先に廊下に出し、ヴァニラは皆に振り返って言った。
「……皆さん。すみませんが、本日はもう面会時間を過ぎています。今日のところはお引取りください……」
ランファが慌てて文句を言う。
「ちょっ、ここまで来てそれは無いじゃない! アタシ達も副司令に……」
「規則ですから」
「じゃあちとせは何なのよ!」
「ちとせさんは、今夜から当病院に入院です……」
「あ、そっか……う〜、ちょっとぐらい融通きかせてよ!」
「規則ですから」
なおも言い募ろうとするランファを、タクトが遮る。
「分かったよ、また明日来る」
「ちょっとタクト!」
「ランファさん、どのみち副司令にはお会いできませんわ。副司令はちとせさんを、お呼びになっていらっしゃるんですから」
「ランファ、2人っきりにしてあげよ?」
「ここから先は、私らが立ち入れる領域じゃないのさ……帰るよ、みんな」
皆でランファをなだめながら、喫茶室を出て行く。
ヴァニラは彼らを見送ってから、改めてちとせの横に並んだ。
「お待たせしました……こちらです」
「はい」
力強い返事に少し驚いて、ヴァニラは隣を見上げる。
ちとせは唇を引き結び、出陣前のような顔をしていた。
そこに先ほどまでの、迷いに曇った弱々しさは無い。
張り詰めた弓の弦のような。触れれば凛と音が鳴りそうな。裂帛にして静寂なる気迫に満ちている。
これが、烏丸ちとせ。
これが、あの人が見初めた――――。
ヴァニラは静かに溜め息をつく。そして、その溜め息の意味が分からず、自分で戸惑うのだった。
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