エルシオール 午前0時。
消灯時間を過ぎ、艦内の明かりも落とされて、通路は常夜灯だけがボンヤリと薄暗く灯っていた。
その通路の奥、トレーニングルーム。この夜更けに煌々と明かりがつき、サンドバックを叩く激しい音が響いてきていた。
ランファだった。
ただ一人で、髪が乱れるのにも、息が上がるのにも構わずにサンドバックを叩き続けている。
ラッシュの練習、というわけではない。その証拠に、コンビネーションは滅茶苦茶だ。こみ上げてくる激情のままに、力任せに殴り
続けているだけだ。
だが、ペースを考えない無呼吸運動が、いつまでも続けられるわけがない。やがて渾身の一撃を叩き込んだところで、ついに体が動
かなくなった。
「ゼエ……! ゼエッ……!」
その場にへたりこみ、荒い息をはく。
呼吸がまともに出来ない。体中の筋肉が酸欠にあえぎ、痛みさえ感じる。それなのに、感情だけが高ぶる一方だった。
「バカ……バカよ、本当に……!」
息も絶え絶えに呟き、拳で床を叩く。
「バカ! バカじゃないの? 何なのよそれ!? バカ……!」
誰が馬鹿なのか。
1人で何もかも抱え込んで、行ってしまったレスターか。
彼の真意も知らず、彼に反抗したちとせか。
それとも何一つ知らず、彼に最後まで踊らされていた自分自身か。
自分が誰を罵倒しているのかさえ分からないまま、ランファは叫び続けた。
床を拳で叩き続けていた。




同時刻、射撃訓練室。

ドン!

リボルバーが火を噴く。フォルテは立て続けに6発、全弾を撃ち尽くす。
発射された6発は、1発も的に当たっていなかった。
人型をした射的。その胸部にある円形の的には、1発も当たっていない。弾丸は全て、射的の頭部を打ち抜いていた。
素早く薬莢交換。次の射的が出現する。6連射。
またしても弾丸は的を無視して、その頭部を粉砕する。
「………………」
フォルテは無表情だった。機械的に、いつも通りに、洗練された流れるような動きで薬莢を交換する。
たちこめる硝煙の匂い。出現する次の射的。

ドン!ドン!ドン!

立て続けに3発。
「………………」
そして――――フォルテは何を思ったか、定位置を離れて前進を始めた。
柵壁を乗り越え、射的に近づきつつ銃を構える。

ドン!ドン!ドン!

残りの3発を撃ち、また薬莢を交換する。
連射。薬莢交換。連射。薬莢交換。連射――――。
頭部はとっくに吹き飛んで、無くなっていた。フォルテはどんどん近づく。頭部の次は肩部が弾け飛び、続いて胸部が粉々になる。
そしてついに。

ドン!

零距離の射撃。わずかな破片を残し、射的は完全に破壊し尽くされていた。
冷徹なまでの無表情で、無くなった射的を見下ろすフォルテ。
不意に、その顔が歪んだ。
「……くそっ!!!」
その、短くも血を吐くような叫びが、彼女の心情の全てだった。




ミントは歯を食いしばって、その作業を続けていた。
コンピュータールーム。彼女は2時間も前から、ここでレスターが残したプログラムや資料をチェックしていた。
新戦略の全容。導入手順。軍各位への調整計画。現時点における問題点と、その解決法の提起。実施段階でのエンジェル隊の具体的
な戦術パターン。それぞれのパターンに即した各個人に対するレッスンプラン。特にシャープシューターの操縦手に対する個別教育
資料(ちとせに課せられていた宿題はこれが原本だった)。危機管理と不測事態に対する各人の対処法。計画書にマニュアル。シミ
ュレーションプログラム。さらに、彼はこれまで自分がこなしてきた庶務を自動化するプログラムまで自力で開発していた。補給・
兵站その他庶務をすべて網羅したチェックリストと、その全自動化プログラム。自動化が困難な細部事項については調整事項と要領
を示した申し送り書。エルシオールの兵装関係の全部署所要連絡事項を示したリスト。中央本部との連絡・折衝の要領を示したマニ
ュアル。
まだ終わらない。
その他、多域に渡る細部雑務の着眼と対処要領、解決のためのコツ・秘訣等を示したメモはこれまで紹介してきた事項の倍以上の量。
加えて情報部との、熾烈な駆け引きのログ。組織の弱点、有効なレトリック、内部工作員との連絡法と指示の出し方、買収済みの上
層幹部と買収見込み幹部のリスト、その抱き込み方、利用法、非常時の彼らの活用法――――目を疑うような、裏世界とのコネと利
用法、そして生き残り方まで。


もはや数え切れない。
膨大な資料だった。
これらをたった1人の人間が、僅か2ヶ月で作成したなど、誰が信じられるだろう。
またこれらの業務を、今までたった1人の人間が全て取り仕切っていたなど、誰が信じられるだろう。
独眼竜――――。その2つ名の意味を、ミントは初めて肌で感じていた。
彼女はずっと、それらのファイルを1つ1つ開いてチェックしていたのだが。
「……くっ……!」
ついに耐えかね、悲痛なうめき声を上げて両の拳をパネルに叩きつけた。

ガン

叩きつけたそのままの姿勢で、ガックリとうなだれる。
「……完璧です、副司令……」
独り言のように呟く。
ミントは探していたのだ、レスターが残したこのプログラムの不備を。
どんなにささいな事でもいい、不完全な個所は無いかと、鵜の目鷹の目になって探していたのだ。
それさえあれば、彼に「戻って来い」と言えるから。このプログラムではあなたの代わりにはなりません。だから戻ってきて下さい、
と言えるから。
だが――――。
彼のプログラムは完璧だった。不備も無ければバグも無い。バグどころか、メモ書きの誤字脱字さえ見当たらない。
完璧だった。残酷なまでに、完璧だった。
どうしてここまで出来るのだろう。
どうしてここまで完全に、自分の居場所を消してしまえるのだろう。
これでは彼を連れ戻す理由が無い。あるとすれば、「戻ってきてほしい」という自分の情だけだ。
しかし彼にとって、情など戻って来る理由にはならないだろう。彼と同じように、理論で生きてきたミントには分かる。彼は、安っ
ぽい情などでは決して動かない。現に彼は、あんな道化芝居まで演じて、残される者達の心の中からも立ち去ろうとしていたではな
いか。


どんな思いで居たのだろう。
この狂気じみた量の仕事をさばくため、どれほど苦しい思いをしたのだろう。
1つ1つ、自分の存在理由を消していくのは、どんな思いだったのだろう。
暗い部屋で。たった一人で。身を削り。心を裂いて。
そんな彼に、自分は何と言った?


『上官として必要最小限の資質も備えていないような人間が、言えたセリフではありませんわね』
『無能な馬鹿犬が、一丁前にギャンギャン吠えるんじゃない、と申し上げましたの』


「 ―――――ッ!」
こらえきれず、ミントはパネルに突っ伏した。
自分はテレパス。自分は人の心が読める。人の心の裏側が見えてしまい、嫌になる。
何という思い上がりだったのだろう。彼の真意など、彼の本当の思いなど、大切な事は何一つ分かっていなかったくせに!
顔を伏せ、嫌悪と羞恥と後悔で背中を震わせるミント。
プログラムだけが、無情なまでに順調に流れ続けていた。





ミルフィーユが司令官室のドアをノックすると、弱々しい返事が返ってきた。
「はい……ミルフィーかい?」
そっとドアを開け、首だけつっこんで部屋の中を伺う。部屋の灯りはついておらず、机上のスタンドだけが室内をボンヤリと照らして
いた。
「ミルフィー。まだ、寝ないのかい?」
タクトは机に座って微笑んでいた。声と同様、弱々しい笑みである。
「……タクトさんこそ、まだ寝ないんですか?」
ミルフィーユは控えめに言いつつ、部屋に入って机に近づいた。机上にはハードカバーの大きな本が広げられていた。それはタクトの、
士官学校の卒業アルバムだった。
「俺たちの代で、おかしな企画があってさ。卒業詩集ってのを作ったんだ。1人1篇、俺なんて文才ないから、ホント苦労したよ」
言って、開かれているページを撫でるタクト。ミルフィーユが覗き込むと、整然と編集された詩の中で、一際目を引く1篇の詩があった。


『 己が為に怒るな 己以外の為に怒れ


  賞賛を望むな  憎まれてこそ完全である


  善行は隠せ   愚かにこそ振舞え


  人に尽くし   人の仇となれ


  誠を墓まで   罵られて逝け


  貴様は唯    道を開きさえすれば良い


  貴様が清明は  天知る地知る己知る


  これ以上    何を望むことがあろう  』



「レスターの詩だよ」
タクトは口の端を歪めながら言った。
「バカな奴だろ? みんなふざけて書いてるのに、1人だけこんな大真面目にさ。見てくれよ、こんな歯が浮くような事をさ……
大真面目に……本当に、バカな奴でさ……」
「タクトさん……」
ミルフィーユは詩とタクトの顔を交互に見やる。何と声をかければいいのか、見当もつかなかった。自分の頭の悪さが嫌になった。
例えばミントくらい頭が良ければ、きっと良い励ましの言葉1つでもかけてあげられるのだろうに。
「私、副司令にひどいことを……」
「いや、ミルフィーは何も悪くない。誰も、悪くなんてない。こうなるように仕向けたのはあいつだ。あいつが自分で自分の首を絞め
ただけの話さ」
タクトはアルバムを閉じ、溜め息をついた。
「……ダメだな、オレは……」
「え?」
「けっきょく、あいつの力になってやれなかった。ミルフィー、あいつがちとせに暴行しかけた夜のこと、覚えてるかい?」
「……はい」
「オレさ、あの夜。レスターの傍にいたんだ」
あの夜。
ヴァニラから、レスターが目を覚ましたという報告を受け、タクトは彼の部屋を訪れたのだった。
胸に1つの決意を秘めていた。それはレスターを説得すること。
タクトは親友の心の内に、薄々気がついていた。彼がちとせに対して抱いている感情に、薄々気がついていた。このまま放ってはおけ
ないと思ったのだ。
「だけどさ……ドアを開けてみたら。あいつ、何してたと思う?」
「…………」
「乾杯してたんだ。独りで。自分で自分のグラスに酒を注いで……」
その姿を見たら、タクトは何も言えなくなってしまった。
自分と彼と、男として格の違いを見せつけられたような気がしたのだ。
「あいつは信念を持って行動していた。自分の成すべき事を知り、鉄の意志をもってそれを成し遂げた。迷いも、後悔も無かった。
犠牲にしたものを女々しく引きずったりしていなかった。……そして、堂々と祝杯をあげていたんだ」
タクトはグスリと鼻を鳴らす。泣きそうだった。
しかし泣くわけには行かなかった。偉大な親友の話をしているのに、無様に泣くわけには行かなかった。歯を食いしばって、続ける。
「そんなあいつに、オレなんかが今さら何を言える? 黙ってグラスに酒を注ぎ足してやる以外に、オレなんかがあいつに何をして
やれる?」
「………………」
「それくらいしか、してやれなかったんだ。それくらいしか、しちゃいけなかったんだ。なのに、オレは……」
タクトはその時、沈黙に耐え切れなくて、訊いてしまったのだ。
『おまえさ。本当はちとせのこと……好きだったんじゃないのか?』と。
それに対して、レスターはこう答えたのだ。
『……俺があいつを、どうして嫌える。こんな俺になついてくれて、いつも副司令副司令と呼びながら子犬のように後をついて来る
あいつを、俺がどうして嫌える……』
それはちとせとレスター、以前の2人の姿だった。
その答えを聞いて、タクトは愚行を犯してしまった。
やがてレスターが酔いつぶれたのを確認して、ちとせを呼んでしまったのだ。
そして、あんなことになってしまった。
「ちょっと考えればさ……すぐ分かったはずなんだ。あいつが今さら、ちとせと仲直りなんてするはず無いって……むしろ自分の想い
と、刺し違えるはずだって……簡単に予想がついたはずなんだ……」
結果的に、彼を余計に追い詰めてしまっただけだった。
瀕死の彼に、さらなる苦痛を強いてしまっただけだった
そこまで言って、タクトは不意に言葉を詰まらせる。
「……ミルフィー……」
絞り出すような声。ふらりと立ち上がったかと思うと、タクトはミルフィーユに歩み寄る。彼女にもたれるようにして、その細い肩に
自分の額をつけた。
「ミルフィー……ミルフィー……」
「タクトさん?」
いきなり頭を預けられ、どうしていいか分からずにうろたえるミルフィーユ。
だが、すぐに気が付いた。タクトの体が、小刻みに震えている。食いしばった歯の隙間から、小さな嗚咽がもれていた。
「タクトさん……泣いてるんですか……?」
まるでその言葉が合図であったかのように。
タクトはミルフィーユを抱きしめ、叫んだ。
「許してくれ、俺はレスターを止められなかった。独眼竜とまで呼ばれた男を、かけがえのない親友の人生を、台無しにしてしまった。
俺は逃げた。取り返しのつかない黙認をしてしまった……!」
それはミルフィーユに言った言葉でも、タクトが自分自身に言った言葉でもなかった。それは例えるなら、咎人が神父を介して神に許し
を請うときのような。もっと超越的なものに対する罪の告白。それはミルフィーユを介しての、タクトの懺悔であった。
「あいつは俺なんかには出来過ぎた副官だった! 行く所に行けば参謀長、いや幕僚長くらいになっておかしくない奴だった! あいつ
がいなきゃ、俺なんて地方艦隊の司令官にすらなれたかどうか怪しいものだったんだ! 助けてもらったのに! 一生かかっても返しき
れないくらいに支え続けてもらったのに! なのに俺は助けてやれなかった! 結局あいつ1人にすべて背負わせてしまった……っ!」
そこから先は、もはや言葉になっていなかった。
タクトは号泣し、その場に泣き崩れる。
「タクトさん、タクトさん……」
ミルフィーユは一緒になって床にへたりこみ、ひたすらタクトを抱きしめ返していた。
震える背中に必死で手を伸ばし、優しく何度も撫で続ける。
そんなことしか、してあげられなかった。自身もすでにとめどなく涙は流していたが、せめて少しでもと、歯を食いしばって堪える。
この、愛しい人がバラバラになってしまわないように。
夜の司令官室。そこから忍び洩れる嗚咽は、いつまでも続いていた――――。






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