ちとせは病室の入り口に立ったまま、しばし室内の光景を見つめていた。
部屋の灯りはついておらず、窓から差し込む月明かりだけが室内を青白く照らしている。ベッドの上に、レスターはいた。上体を起こ
して壁に背を預け、見えない目を窓の外へ向けている。両目に巻かれた包帯が痛々しい。口元は真一文字に引き結ばれ、その感情まで
窺い知ることはできなかった。
部屋に1歩、足を踏み入れる。
電灯のスイッチを入れようとして――――ああそうか、と気がつく。
もう彼に、灯りなど関係ないのだ。
「ちとせか?」
名を呼ばれた。懐かしい呼ばれ方だった。
「……はい……」
「こっちへ。たぶん、椅子があるはずだ。座るといい」
「はい……失礼します」
ちとせは言われた通りに、彼のもとへ歩み寄った。ベッドの脇に置いてあったパイプ椅子に、静かに腰掛ける。病衣をまとい、月明か
りに浮かび上がる彼の姿は、別世界の幻の様だった。
「タクトから、話を聞いたそうだな」
「はい」
「情報部のことも?」
「はい」
「まさかとは思うが、俺のことまで聞いていないだろうな?」
「副司令のこの2ヶ月がどんなものだったか、というお話でしょうか」
「タクトめ……余計なことまで……」
レスターは顔をそらし、舌打ちでもしそうな声で呟いた。
「まあいい。なら、事情はだいたい、理解しているな?」
「はい」
「俺の企図も、理解しているな?」
「はい」
「そうか。なら……」
彼は一瞬の間を置き、わずかに力のこもった声で尋ねる。
「明日の手術は、受けるのだな?」
まばたき2つ分の間を置いて、ちとせは静かにうなずいた。
「……はい」
レスターがホッと息をはいたのが分かった。
「そうか。ならいい」
胸のつかえが取れた様に、彼は言う。
「話はそれだけだ。足労、感謝する。もういいぞ、明日の手術に備えてゆっくり休め」
「………………」
だが、ちとせは椅子から立ち上がろうとはしなかった。
代わりに、紙片をそっと差し出す。
「副司令……これを」
「何だ?」
「副司令のお習字です。ヴァニラ先輩が私の手から副司令に返すようにと……」
「ああ……あれか」
レスターが手を伸ばす。その手に紙を渡す。
「本家の目から見てどうだ。下手くそだったろう」
「いいえ……お見事な書でした。私、感動しました」
「そうか。世辞でも嬉しい」
「本当です」
わずかな、ほんのわずかな笑みを交わす。
「……どうしてですか、副司令……」
「何がだ?」
「どうして私に、ここまでして下さったのですか?」
「……タクトから話を聞いたのではなかったのか?」
「お話はうかがいました。でも……私には、理解できませんでした」
「ほう? 聡明な烏丸少尉にしては珍しいな」
「からかわないで下さい。副司令のなさった事は……私の理解を、超えているんです」
「それは」
「こんなのってありません。血を吐くような思いをされたのでしょう? 苦しむだけ苦しんだのでしょう? なのに……それなのに、
誤解されて……罵られて……」
「………………」
「たった1つしかない眼を差し出す、その相手にまで憎まれて……」
「………………」
「……どうして、なのですか? せめて、私だけにでも……話して下されば……」
レスターは天井を見上げた。
見えない目で虚空を見つめ、何事か思案に耽る。
「副司令」
すがるような、ちとせの声。
レスターは息を吐いた。
「誤解があろうと無かろうと。本気で人を育てようと思ったら、仲良しでは育てられん。教育の場に、憎まれ役はどうしても必要だ」
「でも」
「俺がやらねば誰がやる? タクトか? あいつは実戦でお前達の指揮をとる人間だ、憎まれ役などさせられるものか」
「でも! もっと他にやりようが」
「あったのかもな。だが、それを模索する時間が無かった。俺がやるのが一番良かったんだ。考えてもみろ、お前に眼を移植したら、
俺はもはや現場司令として使い物にならん。どのみちエルシオールを降りなければならなかった。憎まれ役を割り当てるに、こんな
に都合のいい人間が他にいるか? 俺は神の意志すら感じたよ。これこそ俺の役目だと思った。こんなに名誉な使命を授けられた事
を、俺は天に感謝した」
ちとせは首を振る。
「信じられません。どこをどうやったらそんな結論に達するんですか? 自分から捨て駒になるなんて馬鹿げています。名誉だなん
て、勘違いもいいところです。惨めで無意味な、ただの犬死です」
怒気さえはらんだ声で、レスターの言葉を否定する。
だが、それを聞いたレスターは、薄く微笑むのだった。
「何を言っている。お前が言ったんじゃないか」
「え?」
「人の一生には、たとえ命を捨ててでも、守るべきものがある。その『何か』に出会えたならば、それはとても幸せな事。さらばと
笑みをたたえ、清く散れるは最高の名誉」
「――――っ!」
「……それが、『武士道』だと」
月明かりが、部屋を照らしていた。
レスターは再び習字の紙を取り出し、そっと広げる。
そこに書かれているはずの文字を指先で確かめるように、表面を軽く撫でる。
「ちとせ」
やがて独り言のように、彼は言った。
「俺は、サムライになりたかった」
ちとせは答えない。黙ってレスターの話を聞く。
「お前の故郷で最高の男に与えられる称号を、俺も手に入れたかった」
「………………」
「だが、最後の最後でしくじった。結局、お前に辛い思いをさせてしまった。桜花のように、清く散ることは出来なかった」
「………………」
「俺は、サムライにはなれなかったよ」
寂しげな笑い。
ちとせはゆっくりと、椅子から立ち上がった。
「侍とは、単なる称号ではありません」
静かに、彼へと身を寄せる。
「武士道を貫く者。己の志、信念に殉じることが出来る者。そんな生き様を辿る者が、侍なのです」
そっと手を伸ばし、レスターの頬に触れた。
「あなたは、侍です」
その手から、レスターは彼女の体が震えている事に気が付いた。
「……泣いているのか?」
「泣いていません」
気丈な返事が返ってくる。目の見えないレスターは、手を伸ばして彼女の顔に触れようとする。彼女の言葉の真偽を確かめようとする。
しかしちとせは、それを嫌がるように身を離した。
「そうか。ならいい」
レスターは諦めて言った。そして、その代わりというように彼女の手を引く。
今度は特に抵抗するでもなく、ちとせは素直に彼の傍らへ身を落ち着けた。
レスターの手が動く。
手探りでちとせの頭を触る。
「?」
抱き寄せるわけでもない。あちこち手を動かして、髪に触れているだけだ。
「副司令?」
いったい何をしているのか。不思議に思って問いかけると、レスターはこう言った。
「いや……すまん。確かめたくなったのでな」
「え?」
「今、ふと思ったのだ。もう俺は、お前のリボンがほどけていても気付いてやれないのだなと。そう思ったら、今ちゃんと結んである
のか確かめたくなったのだ」
「………………」
シュル
ちとせは、自らリボンの尾を引っ張っていた。
「副司令。実は、ほどけてしまってるんです。結び直して、頂けませんか?」
「? お前、いま自分でほどかなかったか? 音が」
「ほどけたんです。お願いします」
「いや、しかし俺には直せないと今」
ちとせは、ほどいたリボンをレスターの手に握らせた。そして、その手を自分の両手で包み込む。
「お願いです……」
レスターはしばし沈黙し、やがてうなずく。
「……分かった。どうなっても知らんからな」
ちとせは背中を向ける。
レスターは手探りでちとせの髪を束ねた。指先の感覚だけが頼りの作業だ。
夜の静寂に包まれた病室に、髪のすれる音だけがサラサラと鳴る。
電灯のついていない室内。窓から差し込む月の光が2人を照らし、床に2つの影が長く伸びている。
「副司令、ご存知ですか?」
「何をだ?」
「私の故郷では、女はこの人と決めた男性にしか、髪に触れることを許さないものなんですよ」
「………………」
束ねた髪にリボンを結ぼうとしていた、レスターの手が止まる。
「あなたが好きです」
ちとせは静かに告げた。
「今さら虫が良いのは分かっています。ですけど、どうかこれだけは言わせて下さい。本当は、ずっと前から。ずっと……お慕い
していました」
「………………」
しばしの沈黙のあと。
レスターは止まっていた手を再び動かし始めた。
ちとせの髪を束ね、リボンを強く結びつける。
できたぞ、とポンと両肩を叩く。
「……悪いことは言わん。俺はやめておけ」
そのまま、世間話のような口調で言った。
「俺はもう、お前の役には立てん。余計な荷物を背負うこともなかろう。共にいても、俺はタクトのように優しくもしてやれない。
お前を笑わせたり、楽しませたり、そういった事もしてやれん。恋愛向きの男ではないのだ。……悪いことは言わん、俺はやめて
おけ。お前ほどの女が、よりにもよって俺のような男を選ぶことはないだろう。」
「副司令」
ちとせは振り返った。
憂いをたたえた眼差しで、レスターを真っ直ぐに見つめる。
「ご自分を卑下なさらないで下さい。……私は、副司令が思われているような立派な人間ではありません」
「お前こそ自分を卑下するな。お前ほどの女が、どこにいる。しかしだからこそ、俺などに」
「副司令。私が今、何を考えているのかお分かりですか?」
「……なに?」
レスターは戸惑った声を上げる。
ちとせは膝の上で、両の拳をギュッと握り締めた。
「いったい自分は何ということを言っているのだ、と。そう思っています。あなたは侍です。大義のため、信じるもののために礎と
なった本物の侍です。峻烈なる、志持てる侍に向かって、こともあろうに恋の告白とは。何と恥知らずな真似をしているのだ……と。
そう思っています」
「………………」
「この人が我が身を犠牲にしたのは何のためだ。烏丸ちとせの超長距離射撃に、自分の夢を託したからだ。なのに……その烏丸ちとせ
は、色恋に現を抜かしている。……この恥知らず……この、恩知らず……。厚顔、無恥とは……私の、事だって……そう思って……」
声に嗚咽が混じり始めた。
「……ごめんなさい……」
最後に振り絞るようにそう言ったきり、ちとせの言葉は途切れる。
目の見えないレスターには確認のしようもなかったが、後はただ、押し殺したすすり泣きが聞こえてくるばかりだ。
「……俺はお前を、泣かせてばかりだな……」
レスターは自分自身に呆れたように溜め息をついた。
「死に損ない、両目をなくして、もはや何の役にも立たないガラクタ同然の男を……それでもお前は、サムライだと言う……」
ちとせは鼻を鳴らしながら、こくりとうなずく。
「嬉しかった。誰よりお前に認めて欲しかった。武士道を教えてくれた、お前にな」
「………………」
「お前が俺に生きる道を示してくれたように、俺もお前に道を切り開いてやりたかった。お前にお礼がしたいと、ずっと思っていた。
この眼を差し出す事に、なんのためらいも無かった」
「……私は……」
「ちとせ。聞いてくれるか」
何事か言いかけるちとせを遮って。
レスターは彼女の名を呼ぶ。
ちとせは言いかけた言葉を、ぐっと呑み込む。
「俺は、諦めていた。この2ヶ月、お前に辛く当たったのはもちろんお前を育てるためだったのだが……。本当は、俺自身がお前を
諦めるためだったのかも知れん。最後までお前と共に居られないのなら、いっそ嫌われてしまえと……俺は、そう思っていたのかも
知れん」
「………………」
「俺はこんな生き方しか出来ない男だ。だが、こんな男がもし女に惚れる事があるとしたら……相手はお前以外に考えられない。
気障な男だと思わないでくれ。この身も。この心も。レスター・クールダラスの名のもとにある全てを、お前のために役立てたいと
思っている。今でも」
「………………」
「ちとせ。俺も、ずっとお前のことが好きだった。そして今も……好きだ」
静寂が、訪れた。
触れ合ってはいないが、2人はすぐ傍にいた。
夜の冷気の中で、じんわりと互いの温もりが感じられる距離に。
気配を感じた。
レスターは彼女に問いかける。
「泣いているのか?」
先程も発した問いだった。
「……はい……」
ちとせは、今度は素直に認めた。
「もったいないお言葉、ありがたくて涙が出ました」
泣きながら、世にも幸せな笑顔を浮かべていた。
目には見えなくても、レスターには彼女が笑っているのが分かった。
だから、微笑を返す。そして語りかける。
「ちとせ。お前には素晴らしい才能が眠っている。その才は、現在のエンジェル隊の戦闘様式を根本から覆すものだ」
「はい」
「自分を信じろ。タクトを信じろ。お前がエンジェル隊の、皇国の主砲となるのだ。お前なら出来る、俺は確信している」
「はい」
「父親の想いを継げ。我が身をもって味方を守る、誇り高き烏丸の血脈に敬意を表して、俺はこの眼をお前に託す。……どうか受け
取ってくれ。ちとせ、皇国一の弓取りとなれ」
ちとせは背筋を伸ばし、古(いにしえ)の作法にのっとって深々と礼を返した。
「はい。あなたの仰せのままに」
それはおよそ時代錯誤な、誓いの儀式。
簡単に愛だの恋だのと言う現代の人間には、及びもつかない高潔な絆。
互いへの敬虔な想いで結ばれた、命よりも重い約束。
「……副司令、ありがとうございます」
「礼には及ばん」
「不肖、烏丸ちとせ。副司令の右目、ありがたく頂戴いたします」
「ああ。後は頼む」
「それから……」
ちとせは何事か言いよどんだ。
「ん?」
「……はしたない女だと、思わないで下さいね」
かすかな衣擦れの音がした。
「何を――――」
言いかけたレスターの言葉が途切れる。
唇に、柔らかいものが触れた。
髪のすれる音が、すぐ前で聞こえた。
桜花香の香りが、すぐ前から漂ってきた。
それはほんの一瞬の事。
「お前、今……」
「………………」
ちとせは何も言わず、そっとレスターの胸にもたれた。
「少しだけ、こうしていてもいいですか?」
レスターは何かを言いかけ――――苦笑して、口を閉じる。
「ああ、気の済むまで」
そして、優しくちとせの髪をなでる。
「……髪。あとで鏡を見るか人に頼むかして、直しておけ。きっと恥ずかしい出来だぞ」
実際、それはひどい出来だった。左右ちぐはぐに束ねられ、結んだリボンも形がよれよれに崩れている。
しかし、ちとせは微笑んで首を横に振った。
「いいえ、副司令の手で結んで頂いた髪です。恥ずべき事など何もありません」
「……そうか」
月明かりに佇む2人。
長く伸びた影は、いつまでも静かに寄り添っていた
「………………」
閉め忘れの病室のドア。廊下に出たその陰で。
ヴァニラは壁に背を預けていた。
「……よかった……」
そっと、呟く。
そう、これで良かった。
私もうれしい。
それでこそ、こっそりルフト将軍にお知らせした甲斐があったというものだ。
……大丈夫。
哀しくなんてない。
胸の痛みなんて、気のせいに決まっている。
「………………」
ぐっと奥歯をかみしめて。
ヴァニラは静かに、廊下を歩いて行った。
第12節へ ― 第14節へ