モニターに映る銀河の光景。
生命の息吹のように煌く星々が、網膜に張り付く。
あまりの魅惑的な空間に溜息を漏らす。
「まだこの眼に焼き付けることが出来たなんて……」
感慨を持って呟くが、そんな暇は無い。
精密なコンピューターが立ち並ぶこの場所にある、操縦席に向かって歩き出す。
途中、地面から生えてきた―――いや、伸びてきた手に足首を鷲掴みされ、歩みを止められる。
「……まさか、貴様が黒幕だったとはな…」
くぐもった怨嗟の声の主は、先程後ろから不意打ちを喰らわせた筈の白髪の男だった。
「あの無人艦隊の正体に気付けばこんなことには……」
「ふんっ」
苦しげに息を荒げ、こちらを睨み上げる顔をブーツで何度も踏みつける。
「ごぼっ」
顔を伏せたと同時に不快な音を立てて血が流れ、足を掴んでいた手から力が抜ける。
左目にあったインターフェイス・アイが壊れ、後頭部から大量の血を流しているのにも拘らず、地面を這いずりながら私の進路を止める気迫は賞賛に値する。
まるで、あの時倉庫で戦い、私の胸に傷を負わせたあの乗組員のように。
「ふん…」
つまらなげに鼻を鳴らす。
妙だったのは、あの男がこの艦の乗組員章を付けていなかったことだが、もはや私には関係の無いことだ―――
―――私には最後の一仕事が待っている。
ふと歩きながら周りを見渡す。
周りにあるのは、コントロールパネルに突っ伏している姿と、白いコンクリートの地面に転がる、複数の物言わぬ物体が痙攣を起こしていた―――
死んでいない者も居るかも知れないが―――
「どうせ全員死ぬのよ……」
私も含めてね―――
操縦席に近づき、操縦桿を握り締める。
急な発進に、ガゴンッと艦全体が揺るぎだす。
―――全員を道連れにするために、この艦を突貫させる。
「方向TRV586………目標―――」
トランスバール本星、軌道衛星付近―――
―――誰にも聴こえない呟きをこの艦に乗せて着く先は、天国か地獄か。
「―――そうは、させない」
行き先が視えて来ないまま、運命は目標へ向かって突き進む―――
*
深海に漂うような朦朧とする意識、全身を電流が走っているような痺れ。
「はぁ…はぁ………ぅぅ…」
機関室から出てどのくらい時間が経ったのかよく分からない。
艦内の照明が機能を取り戻した所を見ると、異常は無くなったのだろう。
だが、まだ事態は解決してはいない。
きっとさらに悪化しているような気がした。
現在(いま)オレが歩いている場所は、Aブロック、銀河展望公園付近―――
「痛ッ」
意識が無くなるような頭痛に、顔を顰め、頭を押さえる。
レーザーガンを直接喰らっておきながら、短時間で動ける程度にまで回復しているのは、奇跡なのかもしれない。
とはいっても、膝が笑っている状態で今にでも倒れそうだが………
*
あの時に気付くべきだった―――
ヴァニラが重傷を負った、あのタイミング良く、無人艦隊が現れた時に………
死んだ筈の彼女を見たときに………
逃げている途中、反応が鈍かったミルフィーとちとせに………
Dブロックのエレベーターホールに着いた時、レスターから通信が入った。
切羽詰った叫びに只ならぬ何かを感じたオレは、急いでクロノクリスタル―――通信機を取り出し、どうしたのかを訊いた。
その一言一言は、胸元を抉られる様な響きがあった。
その内容は、オレたちが調査していたあのロストテクノロジーが、実はブローブの類のものであったと言うこと、爆発の正体は機関室からではなく、エルシオールの主砲が誤作動を起こし、船体に誤爆して起きたこと、現在、制御室に侵入者が居る事など………
それら全ての絶叫じみた報告に、時間を忘れるほど混乱した………
しばらく時間を要し、辛うじて返答した後の通信機から発された言葉は、頭の中を稲妻が迸ったかのようなこれ以上無い衝撃を受けた―――
―――襲撃してきた無人艦隊は、カモフラージュを施した皇国軍の艦
パチリと、最後のピースがはまり………
パズルが一枚の絵画となって完成した瞬間であった―――
解明した謎は単純明快にして、様々な思惑が交錯した複雑な答え。
巧妙化されたトリックにイレギュラーが混じり、公開せざるをえない真実。
そんな混乱した中で、落ち着け等とは見当違いも甚だしい―――
その時、急にレスターからの通信が途切れもう一度かけ直そうとしたが、そんな状況ではなかった。
これだけの真相を突きつけられても、何の反応も無い後ろの2人に異変を感じたからだ。
後ろを振り向いた時、視界に飛び込んできたのは………
虚ろな表情をした2人の少女と、こちらに向けた震える銃口―――
咄嗟に身を翻し、銃口の数は1つではないことを知ったのは、背中に電撃のような衝撃が、何度も焼けるように熱く、迸った時であった。
崩れ落ちる身体、漆黒に閉ざされる意識………
最後に見えたもの。
それは赤く点滅する通信機と、視界の奥で小さくなっていく2つの背中だった―――
*
「考えて、みればっ……」
機関室から逃げている道中、息切れもせず、話しかけてもぼんやりとしていた姿は、おかしいと言う他無かった。
これらに気付いたのが全て手遅れの後というのは、何という皮肉なのだろう。
(………いや)
頭を振る。意識を克明にするために。
まだ、全て手遅れなんかじゃない。
それを止める為に、オレはブリッジへ行くんだ………
「ふぅ…」
深呼吸をしながら、目を瞑って心の整理を行う。
心よ落ち着け……痺れよ治まれ……意識よ明確になれ……苦痛よ伝えるな……
(―――ぁ)
すぅっと身体が落ち着きを取り戻す。
まるで夢だったのかと疑いたくなるような感覚であった。
普段縁の無い神を信じたくなると、思わず自嘲しそうになった。
今、目の前にあるのはブリッジという真実へ誘う運命の扉。
ここを開けた時、自分(オレ)を迎えるのは、天使か死神か。
非常用の司令官権限を使用して、無言でドアのスイッチを押すと、ドアが左右に開かれる。
本来ならすぐに開く筈の扉が、この時ばかりスローモーションのように視えた………
そして―――
開かれた扉の奥に映る光景は―――
瞼を擦っても覆しようも無い、非現実的な空間が広がっていた―――
目を見開く―――
ブリッジ内部は、アルミ製の手摺、パネルデスク、強化プラスチック製ホワイトシート等が随所破壊され、まるで大軍隊に襲撃されたかのように荒らされていた。
普段、モニターやパネルに向かって作業を行っている乗組員―――クルーたちが、ピクリとも動かずにデスクに突っ伏して眠りについている―――否、気を失っていた。
そして、例外無くあの2人も―――
(アルモ………ココ―――)
下に視線を向けると、同じくピクリとも動かずに倒れているクルーたちの姿があった。
そしてその中には見間違えようの無い、見知った姿があった―――
(レスター―――)
声もかけるまでも無く、びくびくと痙攣を起こしているのを見れば、気を失っているのが判る。
だが、気に留めることはしない。いや、留めることなど出来なかった。
何故なら、それら全てを霞ませるぐらいの光景に目を奪われていたからだ………
奥にある操縦席。
その前で周りが気にならないかのように、背を向けて立ち尽くす1つの人影。
腰まである長い銀髪を下ろしている後姿は、星々の光に照らされて一種の神秘的な空間を醸し出していた―――
綺麗だ………なんて陳腐なセリフなのか。
もっと気の利いたセリフがあるはずなのに、あの凶悪なまでの禍々しさに言葉が出てこない。
それでも、何か言わねばならなかった。
そのままにしておけば、必ず、取り返しの付かないことが起きる。
そして、止めようとしなければ―――
「―――目標……トランスバール本星、軌道衛星付近」
「―――そうは、させない」
その姿だけではなく、大切なもの全てが失われることとなる―――
大きめの声で言ったつもりだが、喉もやられているのか掠れがちになってしまった。
あの姿に声が届いたのかどうか判らない。
だが、聴こえようが聴こえまいが、相手からの返答は無かった………
周りで倒れている皆は全員意識すら戻っていないのだろうか。
オレたち2人の呼吸音以外何も聞こえず、ただ悪戯に時間だけが過ぎてゆく。
この艦の乗組員の制服を着た銀髪の人影は、モニターに映る宇宙空間を黙したまま眺めていた。
相手は何も喋ろうとはしない。
だが、オレは真実を確かめたかった。
いくら皇国が混乱の途中とはいえ、復興中でも比較的治安の安定しているローム星系から、無人艦隊が出現してくること事態不自然だったこと。
無人艦隊というだけで、きちんと調べなかったのはこちらにも原因があること。
爆発騒動の時、制御室内部から偽の艦内状況を送信した者の正体。
そして、あのロストテクノロジー……
いや、あのブローブに変身機能があるのなら、
それに基づく“オリジナル”が必ずあり、その正体こそが―――
(いや……)
今となっては浅はかな、どうでもいい考えに溜息を洩らす。
こんな理屈など相手に、いや、オレたちには必要は無い。
自分でも判っていると思われることを、相手に確かめる必要なんて無い―――
今、相手に確かめること、言える言葉はたった一言でいい。
なんとなくそれでいいような気がした。
何故ならオレだけではなく、相手もそれを承知で沈黙しているだけなのだから。
沈黙は時に熱弁以上に饒舌に真実を語る、とは良く言ったものだと思った―――
オレは一歩前に進み、沈黙を続けている背中を見据える。
そして、あのロストテクノロジーの“オリジナル”となった人物に向けて、言葉を放った―――
「まさか君が首謀者だったとはね………
シェリー・ブリストル…元皇国軍人さん」
親しみのある名前を呼ぶかのような軽い口調ながら、真摯な眼差しは相手を見据えていた。
「………………」
彼女―――シェリーからの反応は無い。
頷きもしない、だが、否定もせずに背中を向けたまま立ち尽くしている姿は、何よりも如実に物語っていた。
「君を機関室で見た時は、まだ夢を見ていたのかと思ったけど……」
一呼吸置いて相手を見据え直す。
「こうして近くで見ると夢じゃないことが実感できるよ」
「………………」
「何故君が生きているのかは訊かないよ。今こうしてオレが見ているんだから」
「………………」
「だけど、一つだけ教えてくれないか? 君がここにいる理由を……」
「………………」
まるで飾り棚に展示された人形のような無反応………
今のオレに考えられる原因を述べるとするのならば。
これを訊いた時、相手はどんな反応を見せるのだろうか………
それでもオレは迷わずに、ゆっくりと、囁くように確かめた―――
「………エオニアの……仇…かい?」
その名を口にした瞬間―――
「――――――」
ぴくりと、気配が動いたような気がした………
彼女は何も言わず微動だにせず、変わらずにその場に佇んでいる。
ただ、僅かに気配が動いたような気がしたのだ。
―――それは何よりも、核心を突いた明確な答えに視えた。
「それ以外に、オレたちの前に姿を現す理由なんか無いんじゃないのか?」
もう一歩、ゆっくりと前に出る。
背を向けている彼女の表情は、まだ窺うことは出来ない。
「それとも……」
また一歩、近づく。
この一件の原因を確かめるために。
「君は、本当に、この世に存在しないものなのかい?」
一字一句噛み締めるように言葉を紡いだ。
再び静寂がブリッジ全体を包み込む。
観測レーダーには、『Distance remainder 30000』の表示が見えた。
(残り距離…30000…)
クロノドライブを使用せずとも、目標に辿り着く時間はそう多くは無い。
このままの状態が続くのは好ましいことじゃない………
けど、彼女が反応を示すまで待ち続けたい。
真実を、この事件を引き起こしたと思われる彼女の口から―――
静寂は予想していた時間よりも早く破られることとなった―――
「不思議ね……」
「……えっ?」
ぽつりと。
独り言のような不意の呟きに反応が遅れてしまった。
「貴方達を見ていると、そう思わざるをえないことばかりだわ……」
微かに感じる自嘲の響き。
「まったく解らないことばかりだわ。それこそ不愉快になるほど」
彼女の心境にどのような変化が表れたのか、背中は雄弁に語り続ける。
「記憶障害に罹ったはずのあの2人は、何故立ち直ることが出来たの?
自分達にとって、掛け替えの無い大切なものではなかったの?
生き甲斐といっても変哲の無いものだったはずよ!?
……それなのに、何故あんなに意志を取り戻した瞳(め)をしてるのよッ!?」
その言葉に秘められた偽りの無い純粋な思い―――
こちらに背を向けていながら、激情を帯びていくのが分かる。
「君がミルフィーやちとせを襲ったのか?」
その叫びに、僅かに拳を握り締める。
「………………」
彼女は答えない。
それが肯定なのか否定なのか。彼女だけが知る沈黙。
「あの2人だけではないわ……他の者たちもそうよ………」
笑いとも怒りとも取れないくぐもった声が、怨嗟となって表れる。
「どんな状況に立たされても、決して諦めようとしない瞳……
自らを犠牲にしても仲間を守る勇気……
そして、仲間だけではなく、敵まで助けようとする心……」
何故だろう……彼女の表情など見えはしないというのに……
「……何故なの?」
彼女の心境など視えはしないというのに………
「……貴方達は何をそこまで信じていられるの?
何故貴方達は、そんなに満ち足りた表情(かお)が出来るの!?
ねえ答えて―――!」
どうして………
「―――どうして、私だけこんな目に遭わなければならないのよ!?」
バァン!!
「――――――」
両手でパネルを叩いた音がキーン、と辺りに反響する。
コントロールパネルを叩き、俯きながら震える後姿からでも表情は窺えない。
何かに対しての伝わる感情は、戸惑い、怒り、悲しみ、羨望、嫉妬………
―――その姿が例えようも無く、“憐れ”だと感じてしまった。
「……本当に解らないのかい?」
だが、憐れだと感じても、言わなければならないことがある。
それは、相手が憎くても、恨んでいるわけでもない。
本当に彼女が憐れに見えるからこそ、伝えなければならないことがある。
「本当に解らないのかい? 彼女たちが何を信じ、何故あれほどまでに充実した表情が出来るのかを……」
息を呑む声が聞こえた。
彼女の背中が小刻みに震えているのが判る。
それを見ながら、オレはまた近づいていく。
「彼女たちは、心から信頼できる仲間がいるから、どんな困難にもお互い支えあって立ち向かっていける……
彼女たちは、かけがえの無い大切な仲間が傍にいるからこそ、どんな境遇にも充実した表情が出来るんだ……」
それはオレじゃなくても、彼女たちを見れば判ることだ。
何よりも大切な仲間、かけがえの無い仲間………
それは先輩後輩、所属を超えた、家族に近い信頼関係だった。
「君なら、いや、他ならない君だからこそ判ることなんじゃないか?」
「………っ」
震えはもはや全身にまで拡がっていた。
押さえきれない感情に大気が振動する。握り締めた拳が汗ばむのが分かる。
「何よりも、誰よりも、自分よりも―――」
次の言葉を放つ躊躇いも無く、彼女に対する恐怖も無い。
ただ自分の中で、辛く、悲しく、そして………
「大切なかけがえの無い人とずっと共にいた君が、一番よく分かっている筈だ」
「――――――」
―――悔しさが溢れていた。
(―――どうしてだろう?)
己の歯痒さに唇を噛み締める。
何故、こんなの感情が沸き起こるか、原因はよく分からない。
だが、彼女を見ているとそう感じてしまうのだ、救われない………と
理屈なんかじゃない、漠然とした“想い”が、そう感じさせる。
(何をするべきなんだオレは? 彼女を止めるのか? それとも―――)
気が付いたときには、彼女の背中から震えが止まっていた。
言葉も何も無く、再び佇む。
いつの間にか、オレたちはいつの間にかその繰り返しを甘受していた。
彼女は直立姿勢を維持したまま、天を仰ぎ、溜息を吐いた。
「そうね……」
哀愁漂う後姿は何を思っているのだろう。
「その大切さ……ありがたみは、私にもかけがえの無いものだった……」
天を仰ぎながらの、感傷的な呟き。
優しげに、懐かしむように、そして愛しいものを思い浮かべるように―――
「もしそれが、永劫に持ち続けることが出来たのならば、例え自らを犠牲にしても守りたいものだったわ―――」
相変わらず彼女の表情を見ることは出来ない。
その時、星の光に照らされた、一筋の煌きが彼女の頬から流れ出る。
(泣いている―――?)
声が震えていたわけでもない、物悲しげな呟きなど感じ取れない。
けど、彼女は声も無く、悲しげに表情を歪めるのでも無く、泣いている………そう思ってしまった。
また一歩近づく。これで彼女までの距離が手を伸ばせば届くほどに。
「君は……これからどうする気なんだ?」
言ってから顔を顰めた。
これからどうなるのかなど、決まり切った事まで訊いてしまった自分に苛立ちを覚える。
「―――エルシオールを軌道衛星へ向けて爆沈させるわ」
当たり前にして、不吉な回答が躊躇いも無く返ってくる。
心なしかエルシオールの速度が上がったような気がした。
このまま行けば、トランスバール本星、軌道衛星に激突する。
そうなれば、エルシオールの船員、エンジェル隊………
オレたち全員の命が―――
「君も死ぬことになるんだぞ」
止めなければならない。
―――何を?
「せっかく助かった命を、復讐なんかで無駄にする気なのか?」
エルシオール司令官として、エンジェル隊の司令官として、国家の命を与る軍人として。
―――本当に?
「こんなことをして、死んでしまったエオニアが喜ぶと、本当に思っているのか!?」
彼女を止めなければいけない。
―――それは本当に………本心から来る言葉なのか?
「……くくくっ」
「……何が可笑しいんだ?」
しかし、彼女から返ってきたのは、嘲笑うかのような含み笑い。
瞬間的に怒りを感じ、すぐさま抑制する。
「勘違いしているようね。
私は復讐なんかで貴方達を滅ぼすわけではないわ……」
「…何だと?」
予想だにしない返答に動きが止まる。
動揺しているこちらの雰囲気が伝わったのか、彼女は全て悟りきったように呟く。
「ただ……これ以外私が生きていく意味が無かったのよ……」
それは諦めなのか、寂愁漂う後姿。
再び天を仰ぐその瞳に映るものは、一体何なのであろうか?
「簡単には殺さず、苦痛を味あわせ、後悔に苛ませ、戸惑わせ、そして―――」
絶望のどん底へ叩き込ませる―――
「………………っ!」
言葉にならない呟きはまるで呪詛の響き………
その呟きは、今まで感じていた彼女の印象を、全て破壊する響きを持っていた。
オレは口を挟むことも出来ず、自分の中で静かに目を覚まそうとする獰猛な黒い獣を、押さえつけようとしていた。
言い知れようの無い熱き怒りが、ふつふつと身体の奥底から湧き上がる………
「記憶に障害を持ったと思い込んだあの2人を、遠くから眺めているのも結構楽しいものだったわ」
楽しくて仕様が無い、愉悦が混じる呟き。
―――獰猛なる黒い獣が、熱きマグマの中から唸り声を上げる。
「仲間を死の淵へ誘いそうだったあの者達を見ると、これ以上無い快感が沸き起こった」
表情が見えなくとも分かる、悪魔めいた思考回路。
―――黒い獣が目を覚まし、今、目の前に居る悪魔の姿を睨みつける。
「そして、仲間と戦わなければならない状況に追い立たされた時の表情―――」
―――ダメだ、抑えきれない。
あの姿を見ている限り、この黒い獣を止めることなど出来ない―――!!
「―――全てが終わった時、自分達はあの世に行くことになるとはね!」
「貴様―――!!!」
紺色のマント翻させ、地面を蹴りつける。
―――黒い獣が咆哮を上げ、悪魔の咽喉を食い千切らんと牙を剥く。
バキッ!!
ガシャンと、凄惨なる大音響を上げてコントロールパネルに激突する。
銀髪の姿は、長い髪で顔を隠しながら、よろよろと崩れた身体を起き上がらせようとした。
「うああああああああああああ!!!!」
荒れ狂う心は絶叫となって、身体を突き動かしていく―――
ドガッ!!
止まらない―――
ガッ! ドゴッ!
爆発し、猛り狂う獣は、命尽きるまで止まろうとはしない―――
ベキッ! ズドッ! ガツッ!
相手が人間であろうが無かろうが、男であろうが女であろうが―――
ゴッ! ガンッ! グシャッ! ゴキィッ!
壁に激突しようが、地面をのた打ち回ろうが、握られた拳は納まる術を持たない―――!!
どれだけ打ち付けたのか判らない―――
気付いた時には、彼女に対して馬乗りの体勢で紅蓮に染まった拳を構え、息切れをしていた。
「……許さない」
息を荒げ、その口から出てきた第一声がこれだった。
「人の感情を弄ぶその心……」
銀髪が床に散乱した彼女の素顔を見下ろす。
白皙の素肌を覆い尽くすかのような痛ましい左頬の巨大な傷は、しかし、彼女の美貌を妖しげに際立たせていた。
「一生後悔するぐらい生きさせて―――」
胸元を煌かせるそれは、銀のロザリオ。
痣と裂傷に覆われ、血を流している口元へ向かって―――
「エオニアなんか忘れさせてやるくらい、殴りつけてやるからな―――!!!」
もう一度拳を勢い良く打ち落とした―――
ザクッ
―――だが、その拳は、似つかわしくない音とともに届くことは無かった。
「あ―――」
間の抜けた声が耳朶を振わす。
胸元に熱いものを感じ、視線を落とす。
そこには白刃の煌きが深々と埋もれ、その色を朱に染められようとしていた………
「あつ―ッ――」
遅々として迫り来る、じんじんとした疼痛。
鈍痛はやがて激痛と形を変え、患部の熱さはやがて急激に体温を下げていく。
「――ふっ――」
喉がやられているのか声が出ない………
自分が今何処にいるのか、どうなっているのか、何をしようとしているのか、認識することすら出来ない。
ただ、茫洋とした意識の中で判ったことは―――
ドゴッ!
痛みも無く顔に衝撃が走り、けたたましい音を立てて何かにぶつかり、色々な物が散乱している地面に転がったということだけだった………
「―――貴様のような輩に何が判る?」
声の方向―――まるで幽鬼のように佇むその表情は、凄惨な傷と手に持っているナイフが相まって、形容出来ない恐怖を醸し出す。
「特定の者を選ぼうとせず、ただひたすらに周りと合わせて、その日暮をしていた貴様に―――」
ドゴッ!!
「ごふっ!」
傷口に対し、容赦無い攻撃。
びちゃっ、と口から鉄じみた熱いものが溢れ、床を朱く染める。
「真に愛する者とともに歩んだことの無い貴様に、何が解ると言うの!?」
ドゴッ!!
「ゲフッ!! がはっ!」
胸元の焼けるような激痛が、落ちようとする意識を無理矢理、明確化させる。
傷口に突き刺さるブーツの爪先が、流れ出る血をさらに増加させる。
「辛うじて生き延びた私に残された道が、これ以外無くしたのは貴方じゃない! 貴方達じゃない!!」
ドゴッ!!!
「―ふ――っ―――」
悲痛の叫び。
彼女をそこまで追い詰めた原因は何なのか、何がそこまでさせるのか―――
「私からエオニア様を奪い、何もかも奪いつくした貴方達に、この私の何が判るというのよ―――!!!!!」
彼女の瞳から溢れ出るものは、絶望という名の涙―――
「もう私に残されたものは、貴方達を滅ぼすこと以外、残り少ない命の使い道は無かった!!!」
ガゴンッ!!
「――――――」
後頭部を踏まれ、視界が一瞬黒く塗り潰される。
攻撃の手が緩んだと思った瞬間、両手で胸倉を掴まれ、起き上がらされる。
朦朧とする意識の中で瞳に映ったものは、平然としていた筈の彼女の口内から流れ出る大量の血液だった。
「最愛の方を失った私だけが苦しみ……愛する者を持たない貴方達が何故、幸せな顔でのうのうと生きているのよ―――!!!」
がはっ、と、彼女から出た大量の吐血によって、悲鳴じみた絶叫は途切れた。
朦朧とした顔を赤く穢す血飛沫―――
「――――――」
考えてみれば―――
あの爆発の中で、生き永らえても、無事に済むことなど無かったんだ。
あの星系の近くにあった数々の惑星でさえ、そのほとんどが人の住める環境じゃない………
「………そんな貴方達を……私がどんな想いで見ていたのか……貴方に解ると言うの……」
「………………」
―――彼女がどんな心境でオレたちの関係(こと)を見ていたのか、今のオレには想像もつかない。
それは………
決して届かない夜空の星々に、地上から手を伸ばすような、気付くことの無い切ない想いならば、尚更のこと―――
エオニアとともに歩むことが出来ず、さりとて生き返ってくるわけでもない。復讐を行っても無意味になってしまった状態で、もはや生き延びた命も尽きようとしている中で、残されていた道はたった一つ………
“オレたち”を滅ぼすこと以外、彼女の存在意義は成り立たなかった―――
どちらの血なのか判別出来ない赤い液体が、嗚咽とともに白い地面を赤く彩り続ける。
それに混ざり合うようにして落ちる、透明な正体の掴めない液体………
「――――――」
顔を悲痛に歪め、震えながらオレの襟元を掴んでいるその姿を見た途端、先程まで自分が何をしたかったのかが判った―――
―――ああ、そういうことだったんだ………
オレはここにきて、本当に自分がやりたかったことがわかった。
何故、彼女のことがこんなに気になっていたのかが。
(オレ……彼女が微笑んでいるところを、一度も見てなかったんだ……)
きっと彼女は、悲しむ顔よりも、心から嬉しげに微笑っているほうが似合っている。
(けど―――)
どうやって彼女を微笑ませればいいか分からない。
今のオレには無理な注文なのかもしれない。
だけど、それでも、彼女を微笑ませたい―――
プレゼントやムードなど贅沢なことは言わない。
たった一言でいい。
彼女を心から微笑ませるようなセリフだけでいい。
彼女を救えるような、たった―――
(―――ぁ)
あった―――
たったそれだけで彼女を微笑ます、いや、救えるような一言が―――
身体中の血液が底を尽きかけているのか、体温だけでなく感覚すら無くなりかけていた。
身体も動かない。呼吸をしているのかも判らない。
ただ、機能しているのは………
「―――死ね」
涙で顔を濡らし、無表情にナイフを振り翳す、銀髪の女性の姿を映す視覚だけだった―――
(ぁ―――)
スローモーションのように白刃が迫り来る。
それを遠くから眺めるように、呆然と見つめていた―――
聴覚すら失っているのか、物音すら聞こえないその場面はまるで、無声映画のように思えるのを、他人事のように感じている自分に気付く―――
オレの命が尽きることによって彼女が微笑むのならば、ある意味では本望なのかもしれない―――
例え、エンジェル隊を怒らせても、彼女の美しい微笑が見ることが出来るのならば―――
(あ………)
そういうことだったんだ………
オレは彼女が憐れだと思ったから、微笑(わら)わそうと考えたんじゃない。
苦しそうな顔よりも、微笑んでいる表情のほうが似合うと思ったのは―――
ナイフの先端が、頭部に突き刺さろうとした寸前。
「君を救いたいんだ―――」
「―――――――!?」
ピタリ、と、その動きが止まった―――
耳が聴こえない今の自分には、先程の言葉が届いたのかどうか判らない。
ただ、目線を合わせた彼女の瞳が、驚愕と戸惑いに震えているのが判った。
――――――! ――――――!!
ガクガクと身体を揺らされ、何かを叫ばれているのが判る。
だが、今の言葉はあくまでも建前だ。
本当に伝えなければならない言葉を口にするまで、死ぬことなんか出来ない!
君のことが好きなんだ―――
っ!!!!!
無音なる世界で放った言葉は、唐突にして心からの告白―――
そうなんだ………
これは同情でも憐れみなんかでもなく、司令官からの責任からでもない………
全てが悲しさに溢れていた彼女が、例えようも無く美しいと感じた………
苦しみに喘ぐ彼女を幸せにしてやりたいと感じた………
そして―――
エオニアに出来なかったことを、オレが変わって、彼女にしてやりたいと思ってしまった―――
ああ、そうか………
彼女がオレたちを憎らしく、そして羨ましいと思ったのと同じく。
オレも彼女たちが羨ましいと思ったんだ―――
死んでもなお想い続けるその心。
死してもなお残り続けるその存在。
そんなエオニアに、オレは嫉妬している―――
彼のことを想い続けている彼女に、オレは嫉妬している―――
そうなるのは―――
オレが彼女のことを、好きになってしまったからだった―――
―――!!!
バン、と、音の無い状態で、背中と後頭部を強打されるほど地面に叩きつけられた。
呻き声一つ上げられないほど弱り、痛みすら感じない。
もう残された時間は無いのか、命の灯火が尽きようとしているのか………
どくん……どくん……と、弱々しい心音が、何も聴こえない耳朶を打つ。
それはまるで、死刑囚が昇る、13段の階段の音のように―――
彼女は気が狂ったように全身と銀髪を振り乱し、顔が涙で濡れ、苦しげに何かを叫んでいた。
―――星々の光に照らされ、その空間を銀色に彩る姿は、一種の幻想的な空間を醸し出していた。
それを見た瞬間、オレは一つの叶うことの無かった恋が、終わったことを確信した―――
(ああ……オレ……振られたんだろうな……)
漆黒に閉ざされようとしている意識の中で、漠然とその想いがよぎった。
彼女にこれ以上無い悲しみを与えた。
彼女にこれ以上無い苦しみを与えてしまった。
(ごめん―――)
自分を振った、今でも愛しい彼女に、心で謝罪の言葉を送った―――
―――!!!!!
激情のままオレに馬乗りになり、逆手でナイフを振り下ろす。
完全に息の根を止めんと、白刃の先端が心臓に迫り来る。
どうしてスローモーションのように見えてしまうのか?
どうして苦痛が無くなっているのに、すぐ死なせてくれないのか?
それは―――
今まで出会った人達の顔が、走馬灯のように流れ込んできたから―――
それには見間違えようの無い、エンジェル隊の皆の微笑んだ表情も―――
その映像にどんな魔力が秘めていたのかは解らない。
―――死んじゃダメだ。
闇色に閉ざされた空間に、僅かな光が灯る。
―――オレが死んだらみんなの命が………
その光に手を伸ばした時、指先に当たる硬い感触。
―――オレが死んだら誰が彼女を救ってやるんだ!
掴んだ右手に宿るものは、意志という大いなる力。
―――それに死んでしまったら………
前を見据えたその先にあるものは、今まさに閉ざされようとする、白き光。
その光を取り戻さんと、その先を見据え―――
―――みんなの微笑っている顔が、二度と見られなくなる!!!!!
閉ざされた闇を破壊せんと、右手を突き出す―――
ザシュッ―――
一瞬、何が起こったのか解らなかった………
ただ、右手に何かを掴み、それを前に突き出したということだけが解った………
最後の力を振り絞り、ゆっくりと瞼を開く………
彼女の首にかけてあった銀のロザリオが落ちたところを、この目が鮮明に認識する―――
視線の先にあるものは、手摺の破片と思われる、先端の尖った棒と―――
右手に添えられる、陶磁器のような弱々しい白い両手と―――
青白い喉元を深々と棒で貫かれ、今まさに血を吹き流そうとしている、銀髪の女性の姿があった―――
その光景は不可抗力でも偶然でもなく、自らが生み出した現実(モノ)………
暗澹と、だが明確に、自分の意志で行った行動だった………
――――――……
胸元に届いていたナイフは、心臓に突き刺さることなく、地面に落下し―――
喉元に棒が突き刺さったまま、彼女は力無く、ゆっくりと後ろに倒れていった―――
(…………あっ)
声が出ない喉で声を上げようとしてしまった………
視界が再び闇に閉ざされようとしている偶然だったのかもしれない………
ただ見えたのだ………
彼女が倒れようとしていた、秒も待たないその瞬間………
“ありがとう”……と―――
初めて見ることの出来た、心からの優しげな微笑みで呟いたのが―――
何に対しての感謝なのか………
本来ならば恨み、憎まれるようなことしかしていないはずなのに、何故感謝をしたのか………
ただ、オレはこれだけは、彼女が生きているうちに言いたかった………
オレなんかに感謝するよりも、彼女にこの言葉を………
こちらこそ、ありがとう………と………
そして―――
“――ト! ―――クト! タクト!!!”
先程から自分の身体を支えてくれた、着ているチャイナドレスをボロボロにした、血と傷だらけのこの少女に―――
涙で顔をくしゃくしゃにしながら、オレを必死な表情で呼び覚まそうとしている、この長い金髪の少女に―――
ごめん………と………
例え、終わったこととは言え、自分の命を捨ててまで救おうとした存在があったこと………
そして、彼女を今まで見たことも無いほど、泣かせてしまったことを………
心からの謝罪で許して欲しかった………
もう、呼吸をする力も残っていない―――
身体の力が全て抜け、漆黒に塗り潰されようとされる意識の中で感じたものは―――
冷たくなった身体を揺すりながら、叫び続けるランファの姿と―――
冷たくなった身体にポタポタと降り続ける、涙雨の感触だった―――
青く清く輝くトランスバールの星の光は希望の証
白く眩く煌く崇高なる『白き月』の聖なる光は慈愛の証
今ここに「愛憎」と「悲恋」の物語は、長い一日をもって幕を閉じた