――それは遠い記憶。

 

「とうさまはやくはやく!」

「おいおいちとせ、待ってくれよ」

 

  手を引かれて連れて行ってもらった夏祭り。わたあめやりんご飴、普段はあまりたくさんは食べさせてもらえないお菓子も今日ばかりは特別で。普段より優しい父が財布の紐を緩めたせいで私が口の周りを汚しては2人で母にたしなめなれて。

  広場の盆踊り会場で、迷子にならぬよう手を繋いだ父が言った言葉をよく覚えている。

 

「知っているかちとせ。盆踊りはな、踊っている人たちにまぎれて亡くなった人たちも踊っているんだよ」

「なくなったひとも?」

 

  その頃の私はまだ死の概念がわかっていなかったけど。

 

「お盆だからな、帰ってきてるんだ」

「おじーさまも? ここにいるの?」

「そうだな、いるかもな」

「どこ? だれがおじーさまなの? どのひとが『なくなったひと』なの?」

「はは、薄暗くてよくわからないな。『たそがれ(誰そ彼)』だからなぁ……」

 

  黄昏。薄暗くなり顔が良く見えず、誰が彼だか、彼が誰だかわからない。そんな夕暮れ。夏のひとときふるさとへ戻ってきた霊魂たちはつかの間の宴を楽しむ。

  何も知らなかった私は、その不思議さにはしゃぎ、その謎めいた不気味さに少し怯え。

  その後家に帰るまで、怖いとは言わなかったものの父の手を握り締めて離すことは無かった。

 

 

 

 

   ゆふぐれほの暗く彼の者誰ぞと皆知らぬ    

 

 

 

 

 タクト・マイヤーズが休暇を合わせて恋人であるちとせの故郷を訪れたのは1週間前のことだった。2、3日で発って2人で気ままに近隣の惑星をめぐるはずであったが、ちとせの母にもすっかり気に入られ、なんとなくそのまま長逗留してしまっていた。

 お盆であるということで、ちとせ母娘と共に午前中に墓参をし、精霊馬を眺めながらまったりと過ごしていた午後。ちとせの母から夏祭りに行ってはどうかと誘われたのだった。

 

「マイヤーズ司令の浴衣は夫のもので構いませんでしょうか。丈は合うと思うのですけれど」

 ちとせの母、千尋が奥の間から男性用の浴衣を持ってきてタクトの前で広げて見せる。

「え、オレが着ちゃってもいいんですか?」

「勿論ですよ。箪笥の中で誰にも着られず朽ちていくよりもずっといいです。それに、この浴衣にもう一度ちとせをお祭へ連れて行ってあげさせて頂けませんか?」

「あ……」

 そう、それは最後の浴衣。翌年は、もうそれを着る人間が居なかった。

「……わかりました。オレなんかでよければ」

「あの人もきっと喜びます」

「母さまー?」

 先に浴衣に着替えに別室に行っていたちとせの声。まだ着替え中なのだろうか、姿は無い。

「あら、どうしたのかしら。マイヤーズ司令、着付けは‥」

「あ、オレ浴衣着たことありますから。どうぞちとせの所へ行ってください」

「申し訳ございません、それでは」

 

 千尋がちとせの部屋に向かうと箪笥の中身をあれこれ出して着物と格闘していた。

「母さま、肌襦袢はどこ? 仕舞い場所を変えたの?」

「なあに、肌襦袢なんてどうするの?」

「着るに決まってるじゃないの。し、下着の線が出ちゃうでしょう?」

「下着なんてつけなきゃいいでしょう? 元々素肌の上に着るものよ浴衣は」

「そ、そんなわけにはいかないわよ最近は」

「あら、でも肌襦袢なんて着てたらそれこそ『なにも』できないわよ」

 整った千尋の笑顔が、いたずらが成功した子どものように緩む。

「なっ! かっ、母さま!?」

「マイヤーズ司令も悲しむのではないかしら?」

「な、何もしません! 変なこと言わないで!」

「はいはい、肌襦袢は箪笥の2段目です。で、ちとせ本当は――」

「もうっ! 母さまってば!」

 

「タクトさん、お待たせしました」

 着替え終わって暇になっていたタクトの元へやっと戻ってきたちとせはなぜか頬を染めていて。

 会話を聞いていないタクトにはその理由はさっぱりわからなかったけれど。浴衣で髪を纏めたちとせの魅力を更に引き上げることに貢献していたのは間違いない。

「マイヤーズ司令、ちとせのことよろしくお願いしますね」

 ちとせの後から現れた千尋が笑いながらタクトに頭を下げる。

「あ、はい」

 暗い夜道でのエスコートを頼まれたのだと深い意味で捉えなかったタクトが軽く返事をするとなぜだかまたちとせが赤くなるのだった。

 

「タクトさん、母の言ったことは気にしないでくださいね。私たちをからかってるだけなんですから」

 行きがけの道でちとせが顔を紅くしながら話す。

 日が大分傾き、空がオレンジ色に薄暗くなる中で遠くに光る提燈の明かりとかすかな祭囃子だけの静かな世界。そこに下駄のカラコロなる音と虫の声が加わり実に風流だ。

 そういった文化をこれまで知らなかったタクトでもこの情景がとても雰囲気のいいものであるということを感じていた。

「……なんか、からかわれてたの?」

「い、いえ。気にされていないならいいんです」

 タクトにとってはまるで心当たりの無いことであっただけに疑問符を浮かべる。だが、目の前の情景に心を奪われているタクトにとってはその疑問は詮索するほどのことではなくて。

「それより、さ」

「はい?」

「その、さっきは千尋さんがいたからなんというか言えなかったんだけど、その――。浴衣、似合ってる。とっても」

「あ、あう……」

 落ち着きかけていたというのにタクトの不意打ちでまたも打たれた様に紅くなるちとせであった。

「とっても可愛い。それに綺麗だ」

「ありがとう、ございます……」

 真っ赤になって俯きながら発した小さな声は、近づくにつれて大きくなっていた祭囃子にかき消される直前に、

「…うん」

 本当にかすかに、同じように赤くなっているタクトの耳に届いた。祭をやっている神社の境内はもうすぐそこである――。

 

 

 その後はもう普通に恋人同士の縁日めぐり。

「タクトさん、何から食べます?」

「こういうとこに来るんだったらミントに色々教えてもらっておけばよかったなあ」

 駄菓子を食べ――、

「あれを取れればいいんですね?」

「あれ〜…取ってちとせにあげようと思ったのになんで取ってもらってるんだオレ・・?」

 射的をし――、

「まあ見てなちとせ。オレこれでも芸術的センスはあるつもりだからさ」

「で、でもタクトさんは少々集中力が……」

 型抜きでもいいところを見せられず――、

「くじ引きですか」

「ああ、英雄とまで呼ばれた運のよさを見せてやる!」

 最初から当たりの無い戦いに身を投じて過ごした――。

 もちろんちとせのことを昔から良く知っている近所の人が多くいて、タクトの事でからかわれたり驚かれたりもしたが。

 

 気がついた頃には2人は盆踊りの広場まで辿り着いていた。

「へえ、これが『ボンオドリ』か。踊りって言ってもダンスとは随分違うんだね」

「ええ、社交ダンスのように洗練された優雅なものとは違いますがこれも趣があると思いませんか」

「うん。ステップとか気にしないでめいめい自由に踊れるこっちの方がオレは性にあってるや」

 貴族出でありながら格式ばった場の嫌いなタクトらしい意見だった。たくさんの人が楽しそうにやぐらの太鼓と音頭に合わせて自由に踊る。そこにはタクトの良く知るパーティにつきものな邪さは一切感じ取れない。

 ただ、提燈の明かりだけでは今の時期と言えど薄暗く、踊る人々の顔までははっきりとわからない。

「タクトさん、盆踊りは亡くなった人たちが成仏できた嬉しさから、地獄の受苦を免れた喜びから踊る様をまねたものなんですよ」

「へえ、そりゃいちいちステップなんて気にせず楽しく踊るわけだ」

 すでにタクトはちとせからお盆がどういったものか聞き及んでいる。霊魂がこの時期に家に戻るということも。

「じゃあこの中には亡くなった人が混じってるかもしれないんだ」

「ええ、夕闇にまぎれて一緒に踊っているのだと聞いたことがあります」

「ちとせのお父さんもこの中にいるのかな」

「……え?」

「会ってみたいなあ」

 タクトの言葉にちとせは目を閉じる。父が帰ってきて盆踊りを踊る人たちに紛れている。考えたことも無かった。父から聞かされた話だと言うのに。

 この中に、父がいるのだろうか。

 いるのならば――、逢いたい。

 逢って話がしたい。隣にいてくれるこの人を紹介したい。

 踊りの輪の中の誰が故人なのかと聞いたとき、父は暗くてわからないからこそ紛れているのだと答えた。

 ならば一人ひとり声を掛ければ探し人は見つかるものなのだろうか。

 答えは否である。哀しいけれど、探しても見つからない。そう言うものなのだ。

 だからこそ胸の奥に疼く想いを抑えてちとせは目を開けタクトに言う。

「タクトさんにそう言っていただければ父も喜ぶと思います、――!?」

 

 

 その瞬間奇妙な感覚に包まれるとともにちとせの目の前に『異変』が生じた。

 隣にいたタクトがいない。

 馬鹿な、ほんの一瞬眼を瞑っていただけの間ですぐ隣にいたタクトが消えている。

 目を閉じていたとき隣にいるタクトを感じていたはず。

 目を開けた瞬間からまるで世界が変わったようだ。

 急に辺りの闇がましたようで、やぐらの太鼓も祭囃子もなんだか遠く聞こえる。

 踊っている人たちも。元々暗くて顔がよくわからなかったけれど、今そこに踊っているのはみんなまるで知らない人に見える。近隣の小さな祭で、参加しているのは昔馴染みばかりのはずなのに。

 ちとせの心臓がどくんと大きく跳ねる。

 これはもしや、『帰ってきた人たち』なのではないか?

 ならば――?

 

(とうさま、は……?)

 

 心臓が、先ほどよりも更に大きな音を鳴らす。

 先程の胸の疼きがどうしようもないほど大きくなり、ちとせは迷子の子どもの様に辺りをきょろきょろと見回した。

 こんな時隣のタクトの言葉があれば、落ち着いた行動が取れるのに。

 こんな時隣にタクトがいれば、迷い無く父を探せるのに。

 こんな時隣でタクトが手を繋いでくれたら、こんなにも不安で、逢いたくて、どこか期待してしまうもどかしい気持ちをきっとわかってくれて安心させてくれるのに。

 タクトか、父か。今探さなければいけないのはどちらか。探したいのはどちらか。

「ううん、やっぱりタクトさんを探さなきゃ」

 いないかもしれない、いるはずの無い父を探すよりもはぐれてしまったタクトを探す方が先だ。

 ざわついた気持ちを、声に出すことで無理やり抑えつけて深呼吸。頭を落ち着かせて、辺りを見回す。

 隣にいてくれたのに。隣にいたはずなのに、何処に消えてしまったのか。

「タクトさん‥?」

 あの浴衣は。ちとせから少し離れた踊りの輪の中にいる父の白い浴衣。髪も、表情も、暗いからはっきりしないけれどタクトのはず。

「…。ちとせ?」

 向こうも気づいた。踊りの手を止め、こちらを見て笑う。その途端――、

「……とう、さま?」

 ありえない。ちとせの目が驚きに見開かれる。

 そこにいるのは、まさしく10余年前の在りし日の父の姿。

 黒髪も、翠の目も、優しそうな笑顔も、笑顔の端にわずかによった皺さえも。

 ――あの日自分を祭りに連れて行ってくれた父と同じ。

「父さま?」

 信じられずもう一度名を呼ぶ。ありえないことだと姿を前にしている今も思う。

 心臓はいまや早鐘の様に鳴り、鼓動はどんどん強く、速くなっていく。 

「どうしたちとせ、一緒に踊らないのか?」

「父さま!」

 もう間違いない。駆け寄る。

 昔のように脚に飛びつくようにしがみつこうとしてちとせは戸惑いを覚えた。今や目の前にあるのは足ではない、胸だ。

 自分はもうあの頃と同じ背丈ではない。それを思うとなんだか気恥ずかしさを感じて、側に寄ったところで止まってしまった。

「本当に……」

「なんだ、大きくなったなあちとせ」

 父は昔のように頭に手を置いて撫でてくれた。

 記憶通りに父の手は大きく、柔らかく、温かい。

「父さま……」

 安心感で黙り込んでしまいそうになる。違う。そうではない。言いたいことが、伝えたいことがいっぱいあるのだ。

「あの、父さま私――、」

 けれど、みなまで言うことはできなかった。ちとせの焦る気持ちでつまる言葉を父は首を振って遮った。

「ごめんな、ちとせ。ひとつだけ聞かせてくれないか」

 父の笑顔は温かくて、優しくて、どこか寂しげで。

「…え」

「――――」

「父さま?」

 

 

「ちとせ?」

「父さま?」

 ちとせは名前を呼ばれて返事をする。けれどなんだか違和感があった。

「いや、オレはタクトだけど?」

「え、タクトさん?」

「ど、どうしたの急に?」

「……タクトさん!?」

 思わず大きな声を出して周りを見回す。祭の喧騒。やぐらの太鼓に音頭。薄明かりの提燈。楽しく踊っている人たち。

 さっきと何も変わらない――、いや、どこか違うような気もする。気もするが、何処が違うのかと問われてもちとせには答えられそうに無い。

 ただ直感的に感じた。元の場所に戻ってきた、と。

 先程居たのが別空間だったなどと夢見事を言うつもりではないが、そんな感覚で。

「は、はい。タクト、だけど?」

 目の前のタクトは急に大声を上げて吃驚しながら自分を見る恋人に驚くばかり。

「タクトさん、どうして――?」

 まだ頭がよく働きだしておらず混乱しているちとせにタクトも混乱するばかり。

「どうしても何も。話してたら急にちとせが止まるんだもん。電源が切れたロボットみたいにさ。それで2、3度名前呼んだら『父さま?』ってオレの事」

「話し、ですか。あのタクトさん、どんな?」

「どんなって。今話してたまんまだよ。オレがちとせのお父さんに会いたいって言ったらちとせが『父も喜びます』って」

「……え?」

 おかしい。それからタクトが2、3度呼んだだけと言うのであれば本当にそれから1分と経っていないのではないか。

 ちとせの体感時間では違和感とともにタクトが消えてから父を見つけるまで少なくとも数分は経っている筈だというのに。

 タクトの話ではそもそも自分の前から彼はいなくなってなどいない。離れずにずっと隣にいたことになる。

 それではまさか。それではまるで。

「大丈夫ちとせ? 具合悪くない? 休むか帰るかしたほうがいいかな」

 止まっていたかと思えば父さまと自分を呼び混乱し、ついさっき話したことを聞いて何やら考え込む恋人を心配そうにみるタクト。

 あまり心配を掛けているわけにはいかない。大丈夫ですと、ちとせは首を横に振って顔を上げタクトを見つめた。

「タクトさん。私今、父に会いました」

「え、お父さんに?」

「はい。信じられないかもしれませんが、今そこの踊りの輪の中で」

 タクトは驚いた表情こそしていたが、『故人に会った』というありえない現象を疑ったり否定したりするようなことは何も言わなかった。

「……なにか会話はしなかったの?」

「短い時間だったのであまり。『大きくなった』と頭を撫でてもらいました」

「そっか……」

「それと…」

「それと?」

「いえ、最後にひとつだけ」

 

 ――ちとせは思う。

 きっと父は自分を見てくれていた。

 日々の行いも。それに度々行う父への報告もきっと聞いていてくれていた。

 だから自分のことは父は全部知っている。

 あえて自分から父に伝えなければいけないことなどもう何も無かったのだ。

 だからあのわずかな時間。自分の言葉を遮り父は何よりも聞きたかったことを聞いた。

 とは言え、『そんなこと』はちとせは普段の報告で何度も言っている。

 それでも、父は娘にそれを聞きたかった。何度でも。

 それ以外のことなど、そのことに比べれば何ほどのことではないのだ。

 

 ちとせはタクトの手を取り、きゅっと繋いだ。タクトもその手を優しく、そして力強く握り返す。

 そしてちとせは改めて盆踊りの輪を見つめた。笑顔で踊る人々の中に、きっとあの人もいる。

 

 

―――――――ちとせ、幸せかい?

 

 

「はい、幸せです。父さま。私、今とても幸せなんです……」

 きっと、これからも。

 繋いだ手から感じる熱いものが、胸の鼓動がその証明。

 

 

―――――――そうか、それはよかった。

 

 

 その声はちとせに届いただろうか。

 太鼓が跳ね、音頭が浮かれる。祭囃子は人々の幸せを増して鳴り響く。輪を囲むは喜びの踊り、輪の中の笑顔は喜びの宴。

 風は優しく、星が瞬き。そしてそれらの全てを、大きな真円を描いた月が見守っている。