トランスバール皇国所属の儀礼艦エルシオールには、通常の戦艦からは考えられないスペースが多数存在する。銀河展望公園もそのひとつで、全天型モニターや気候や気温を調節するための機能が備え付けられており、そこに存在する動植物はイミテーションでは無く全てが本物である。
 本物の土やそこから生まれる植物は、本来戦争には不要のものであり、その存在は弾薬などの軍事物資の格納庫のスペースに取って代わられるのが普通である。しかし、草木から得られる安らぎや動物から与えられるぬくもりが、幾多の戦いをくぐり抜けてきたエルシオールにとって不可欠であった事を否定する者は、少なくともエルシオールの乗組員にはいない。
 その銀河展望公園の全天型モニターは、現在照明が落とされ、煌く星々を映し出している。
 
 星明りの下を軍服を着た青年が歩いていた。
 ……タクト・マイヤーズ。廃太子エオニアが起こしたエオニア戦役、黒き月の復活に端を発したネフューリアとの戦い、銀河の命運を賭けるまでに発展した『ヴァル・ファスク』との決戦。その全ての戦いにおいてエルシオールを、そしてトランスバール皇国軍最強にして最後の切り札『ムーンエンジェル隊』を指揮し、皇国を勝利へと導いた皇国の若き英雄である。
 しかし、タクトに英雄のイメージを持って彼との面識を得た人間は、大抵において英雄という言葉からくるイメージと本人とのギャップに戸惑う事になる。それもそのはず、初対面どころか彼を良く知る者からですら「英雄らしいタクトなんて想像も出来ない」と言われてしまう始末なのだ。もっとも、そんな事を気にするタクトではなかったし、本人がそんな調子なのだからおそらくこの先も同様の事が繰り返されるのであろう。
 「英雄らしくない英雄」、タクト・マイヤーズは銀河展望公園を散歩中だった。
 特に理由があったわけでも、目的があったわけでもない。ただなんとなく歩いているだけだ。
 ここエルシオールにおいては特に珍しい光景では無い。タクトの「散歩」は彼が初めてエルシオールに来た時から続けられている、いわば彼の仕事の様なものだ。最初の頃こそ艦内をうろつき回る司令官に疑惑の視線を向ける者もいたが、幾らも経たないうちにすっかり慣れきってしまっていた。
 司令官本来の仕事はタクトの優秀な副官が補ってくれているし、「エンジェル隊や乗組員達との親交を深める事で信頼を得る」という大義名分もあっての事だったが、戦いが終わった今でもこうして散歩をしているのを見ると、どうやら大義名分以上の意味は無かったらしい。結局、タクト・マイヤーズはそういう性格だったのだ。

 タクトが小さな花壇の前で立ち止まった。
 特に理由があったわけでも、目的があったわけでもない。ただなんとなく目に付いただけだ。
 タクトが両手を広げた程の幅をもつ花壇には二種類の花が植えられていた。
 ひとつは濃い紫色の花だ。小さな花弁が五枚集まり、可愛らしい姿を見せている。小さな花が一本の茎に幾つも咲き、見た目にはその集まりがひとつの花の様だ。
 もうひとつは非常に上品な淡青紫色で花弁の形が特徴的な花だ。葉の色も花の色も隣に咲く花に比べて薄いが、際だった香りを放っている。
 タクトはその香りに惹かれるものを感じた。どこか懐かしさを感じさせる香り……。
「なんだったかな、この香りは……」
 声に出してみるが、うまく思い出す事ができない。
 ふいに、背後から気配と声が生まれた。
「そいつはね、ローズマリー、さ」

 

 

 /

 

 

 ムーンエンジェル隊所属、GA003・トリックマスターパイロットのミント・ブラマンシュにとって、ティーラウンジはお気に入りの場所のひとつだった。
 ティーラウンジでお気に入りの紅茶を飲みながらとっておきの駄菓子を食べる、この幸せに匹敵するのは秘蔵の着ぐるみを身に着けるときの感動くらいのものですわ、と誰に言うわけでもなかったが、彼女はそう思っていた。
 この時ミントは色とりどりの棒状のスナック菓子、通称宇宙うめえ棒をピラミッドの様に積み上げていた。以前挑戦した時は蘭花の邪魔が入り4段のこじんまりとしたピラミッドしか作ることが出来なかったが、今は積み上げは慎重に、色の配置は大胆に着々と積み上がっている。ちなみにミントのお気に入りはひときわ真っ赤な色の宇宙めんたい味だ。
 一番下の段が7本の宇宙うめえ棒からなるピラミッドが完成すると、ミントは満足そうに頷き、紅茶を淹れにかかる。ピラミッドを作っている間、ポットとカップを温め、茶葉を蒸らしていたのだ。美味しい紅茶を飲みたければ手間ひまを惜しまないことですわ、これはミルフィーやヴァニラ相手に良く言っている事であったが、彼女はそう思っていた。

「少しお邪魔しても良いかの?」
 ミントが紅茶をカップに注いでいる時に向かいに現れたのは、軍服を着た初老の男性……トランスバール皇国宰相、ルフト・ヴァイツェン将軍だった。
 ミントは辺りに視線を走らせる。席は幾らでも空いていた。と、言う事は自分に用事があるのだろう。
「ええ、構いませんわ」
「おお、そうか。すまんの」
 どっこいしょ、と腰を下ろすルフト。そんな光景を見てミントは小さく笑みを漏らす。
「どうぞ、とっておきの紅茶ですのよ」
「おお、これは旨そうじゃな。早速頂くとしよう」
 決して優雅とは言えないが、ごく自然な動作で紅茶を口に運ぶルフト。
「うむ、実に旨い」
「どうもありがとうございます」
 ルフトに笑顔を向けるミント。その笑顔の裏側で彼女の思考は回転を始めていた。
 ルフトと自分は決して仲が悪いと言う事は無い。むしろ良好な関係と言えるだろう。しかしそれはあくまで将軍とエンジェル隊のメンバーとしての仲で、これまで他のメンバー抜きでこうやってお茶を一緒に飲んだ事は無かった。
 そのルフトが突然自分の前に現れるその理由……ひとつ心当たりがあった。と、言うよりはそれ以外に理由は考えられなかった。
 ひとつため息を吐き、ルフトに尋ねる。
「……父が何か言って来たんですの?」
 驚き顔のルフト。
「やはりミントに隠し事は出来ないのう」
 ミントはテレパシー能力を持っている。ルフトはテレパシーで思考を読み取られたと思ったのだが、ミントはそれを否定した。
「テレパシーを使わなくてもわかりますわ。行動が不自然すぎますもの」
「おお、そうか。いやはや……」
 などと言いながら大げさに肩をすくめるルフト。
 ……喰えない人ですわ、ミントはそう思った。
 ルフトはゴホンと咳払いをひとつすると、話を切り出した。
「単刀直入に言うとな、ミント。一度実家に戻ってみてはどうじゃな?」
 やはり、とミントは思った。ルフトは話を続ける。
「戦いも一段落した事じゃし、暫くは休暇を取る事も可能じゃろう。もう長い事実家に帰っておらんのだろう? ダルノーも心配しておったよ」
 ミントはその言葉に軽い違和感を覚え、すぐにその正体に気づく。ルフトが自分の父の事を「ダルノー」と呼び捨てにした事だ。
「ルフト将軍は父をご存知ですの?」
「ご存知も何も、昔からの友人じゃ。言ってなかったかの?」
 ミントにとってこの答えは本当に意外なものだった。何故なら、自分がエンジェル隊で戦ってくる事が出来たのは、軍には父の影響力が及ばず、その為に無理やり連れ戻されるような心配が無いからだと思っていたからだ。
 ところが、軍どころか直属の上司であるルフト将軍と知己であったなら話は変わってくる。何故父はその人脈を利用して自分を連れ戻さなかったのか、何故自分はエンジェル隊でいられたのか。
 ミントのそんな考えを感じての事か、ルフトは表情を引き締める。
「ダルノーは本当にミントの事を心配しておった。確かに最初の頃は連れ戻そうと考えておったようじゃが、自分の子供が戦場に立つのを喜ぶ親などおらん。ワシも人の親じゃからその気持ちはわかる」
 ミントは黙ってルフトの話に耳を傾ける。
「だがの、エオニア戦役が終結した頃、ダルノーにも何か感じ入る事があったのじゃろうな、連れ戻そうとはしなくなった。……そしてそれ以降、別の方法で娘の為に力を尽くして来たのじゃ」
「……別の方法?」
「皇国軍への資金援助や技術支援じゃよ。最前線に配置される艦の殆どに何らかの形でブラマンシュ財閥が関わっておる。エオニア戦役で瓦解した皇国軍が短期間で『ヴァル・ファスク』に対抗できるまでに回復できたのは、ブラマンシュ財閥をはじめとする民間からの協力があったからじゃ。ブラマンシュ財閥以外からの協力をとりつける為に色々飛び回ったりもしたらしいの」
 思い当たる節はあった。エオニア戦役時は無人艦隊にすらまったく対抗できなかった皇国軍が短期間でエンジェル隊と共闘できるレベルにまでなっていたではないか。
 少数での戦いを余儀なくされる事が多かったエンジェル隊にとって、友軍の戦力増強は負担軽減に直結する。友軍艦に救われた事も少なくなかった筈だ。
「どうして……」
 ミントの呟きにルフトが続ける。
「あやつは、頑固で素直ではないからの。口には出さないじゃろうが、自分の娘の事を心配しながらも、その考えや行動を誇りに思っておったのじゃろう」
「そう、ですの……」
 視線を下げるミント。ずるいな、と思う。こんな形で優しさを見せるなんて卑怯すぎる、と思う。
 
 だって、こんなにも、胸があたたかいですもの……。

「どうじゃな? 一度実家に帰ってみては」
 表情を和らげルフトが問う。
 ミントは視線を上げ、花の蕾のような柔らかな微笑をたたえて、
「……嫌ですわ」
 ルフトの予想しなかった答えを返した。
「な、何故じゃ?」
「私決めましたの。父が直接その気持ちを伝えてくれるまでは実家に帰りませんわ」
 蕾がゆっくりと花開く。ミントの頬に朱が差し、満面の笑みが浮かぶ。
「ご存知ありませんでしたの? 私、父に似て頑固で素直ではありませんの」
 一瞬の間。
「ハ……ワーハッハッハ! なるほど、そうか。そうじゃったな! それならば仕方が無いわい」
 余程可笑しかったのだろう、声を上げて笑い続けるルフト。
 ミントは父の事を考えていた。再開の日はいつになるだろう。案外すぐにやってくるかもしれないし、あの父の事、ずっと先になってしまうかもしれない。
 やがて来るであろうその日を待ち遠しく感じるミントだった。

 

 

 /

 

 

 タクトが振り返ると、そこには長身の女性。エンジェル隊のリーダー格にして「英雄らしくない英雄」タクト・マイヤーズの恋人、フォルテ・シュトーレンが立っていた。
「フォルテ」
 タクトの呼びかけに、よっ、とウインクで応じたフォルテはタクトの横に並び、荷物をその場に下ろす。
 彼女が持ってきていた荷物は、じょうろやハサミ、軍手といったいわゆる園芸グッズだった。
「元気だったかい、あんたたち」
 慈しむような微笑みを花壇に向ける。
 タクトが好きな表情だ。愛する者に向けられる温かな微笑み。この微笑みに何度勇気付けられた事だろう。
 タクトの胸の中に大きな温かさと、小さな小さな嫉妬が生まれる。
 ……花に嫉妬とはオレも独占欲が強くなったのかな、とタクトは苦笑して右手で頭をかいた。
「この花壇はフォルテが世話を?」
「ああ、そうさ。こっちがローズマリー、こっちがミオソティスって花だね。ローズマリーはハーブとして料理にも良く使われるからね、ミルフィーが肉料理を作る時やなんかに入ってたりするだろ?」
「それで香りに覚えがあったのか」
「そういう事」
 笑って、フォルテは作業に取り掛かる。育ちすぎて絡まった葉をほぐし、倒れかけている苗を一本一本丁寧に立ててゆく。
「花と言えば、ちとせがエンジェル隊に配属された頃、フォルテに鉢植えを育ててもらってたっけ」
「ああ、そんな事もあったねぇ」
「フォルテは花が好きなのかい?」
 タクトは恋人としてフォルテの事を十分に理解しているつもりだったが、実際にはまだまだ知らない事も多いんだなぁ、と思った。
 しかしそんな事で落ち込むタクトではない。それならそれでこれから知ればいいさ、と気持ちを切り替える。
「好きでなければ花壇の世話したりなんかしないさ」
「じゃあこの花はフォルテの好きな花だとか?」
「そうだね……それもあるけど、この花はあたしにとって特別なのさ」
 言葉にほろ苦い響きが混じる。
「そっか」
 こんな時、深く追求しない方が良い事をタクトは知っていた。尋ねたい気持ちはあるけれど、彼女が話してくれるのを待つべきだと思った。
 フォルテはじょうろで花壇に雨を降らせている。
「あれ? ミオソティスにばかり水をやってるけど、ローズマリーには良いのかい?」
 タクトが疑問を口にする。確かにフォルテの水のやり方は偏っていた。ローズマリーにはほんの少し、ミオソティスにはたっぷりと水を与えている。
「ああ、ローズマリーは乾燥を好むからね。花の量が少なければ霧吹きでも十分なくらいだよ」
「へえ、詳しいんだなぁ」
 思わず感心してしまうタクト。
 フォルテはニヤリと笑い、
「あたしが花壇の世話をしてて、しかも花に詳しかったら、意外かい?」
 質問を投げかけた。
「いや、そういう意味じゃ……」
 言いかけて、思い出す。
 そう言えば、いつだったか同じような質問をされた事があった。まだフォルテと出会って間もない頃、フォルテが香水をつけている事を知った時だった。その時はフォルテの期待する答えを返す事が出来なかったんだっけ。
 成長してないなオレは、と苦笑しかけてしまう。
「そうだね、少し意外だったよ。そこまで詳しいとは思わなかった」
 その返答を聞いたフォルテは、ギリギリ合格点だよ、とでも言いたそうな表情を浮かべていた。
 しばらく無言で作業を続けるフォルテ。
 タクトも黙ってそれを見ている。
 沈黙を破ったのはフォルテだった。
「訊かないのかい?」
「訊きたいとは思うけど、フォルテが話したくないのなら訊かない。話したくなるまで、オレは待つよ。でも……」
 フォルテは作業の手を止めている。
「でも、オレはフォルテに話して欲しいって、思ってる」
 向かい合う二人。フォルテの顔には満足そうな表情が浮かんでいた。
「……昔の話さ」
 水滴のついた花たちは星明りに照らされて、小さな光を放っていた。

 

 

 /

 

 

「ケーラ先生は、どうして軍医をしているのですか?」
 ヴァニラの問いかけにケーラは眼を丸くした。
 従軍医師。その名が示すとおり、戦地に赴く軍と行動を共にして、負傷者の治療にあたる医者のことである。
 しかし、軍医が活躍する場は想像より遥かに少ない。宇宙空間での戦闘の結果、「負傷」で済む者があまりにも少ないからだ。大抵のものは爆発する戦艦や戦闘機と運命を共にして、遺体さえ残らない。
 そう言う意味では、軍医にかかる事の出来たものは幸運であると言えるのかもしれない。
 ……医者を志す人間にとって、動機は千差万別であっても、根底に流れる気持ちは多くの者に共通するであろう。エルシオールの医務室を預かるケーラも例外では無い。
「そうね、やっぱり命を救いたいからよ」
 そう、命を救いたいからだ。命が数多く失われてゆく戦争の中であっても、救える命は救いたい。その思いを共有しない軍医は稀であろう。
「では、何故軍医を続けているのですか……?」
「え?」
 真剣な表情で問いかけを続けるヴァニラ。
「軍でなくとも、医者はできます……そして戦場では、どんなに力を尽くしても、救えない命が、あまりにも多すぎます……」
 搾り出すような言葉がヴァニラの口から漏れる。隣にいるナノマシンペットが悲しそうな表情で身体を丸めた。
 ケーラはそうね、とヴァニラの言葉を肯定した。
「戦いの中で、たくさんの命が失われました……私は……それを、救う事もできず、ただ、見ている事しか、できませんでした……」
 そうね、とケーラは再び頷く。
 命を救う事を願うものにとって戦場の現実は残酷だ。命を救うために身に付けた技術がなんの役にも立たずに、消えてゆく命を見ている事しかできない。
 その度に死者が語りかけてくるのだ。お前はなんのためにそこにいるのか、と。何故救ってくれないのだと責めるのだ。
 鋭利な刃物で存在そのものを切りつけられるような痛みに耐えなくてはならない。戦場において医者でいるというのは、そういう事なのだ。
 ヴァニラが言いたいこと、訊きたい事をケーラは察した。二人とも、命を救う事を願っていたから、理解することが出来た。
「ケーラ先生は……どうして、軍医をしているのですか……?」
 ヴァニラが最初の問いをもう一度繰り返した。
 ケーラはコーヒーを口に含み、少し考える。ヴァニラの真剣な問いかけにどのように答えれば良いのか、その純粋さ故に誰よりも苦しんでいる少女に必要な言葉はなんなのか。
「私もね、ヴァニラ。何度も医者を辞めてしまいたいって思ったわ」
「そう、なんですか……?」
「ええ、そうよ。目の前で命が消えていく度に、何度も何度も思ったわ」
 ケーラ先生も自分と同じなのか、とヴァニラは思った。救えなかった命の重さに潰れてしまいそうになった事があるのだろうか。
「でもね、そう思う度に考えるの。ここで辞めてしまったら、これから私が救える命はどうなってしまうんだろう、って」
「これから、救える命……?」
「ええ」
 ケーラは頷いて膝の上で握り締められていたヴァニラの左手を取り、両手で包む。
「私の……私たちの力はとても小さなものだわ。助けたくても、救いたくても、それが出来ないほどに小さな力。でもね、そんな小さな力でも、救える命はあるの。必要としてくれる人は確かに存在するの」
 ケーラの両手に力が込められる。
「私が医者を辞めてしまったら、医者を続けていた時に救えた筈の命が失われてしまうかもしれない」
 ヴァニラはじっとケーラの瞳をみつめている。  
「私が救える命、それは消えていく命の大きさに比べたらちっぽけなものかもしれない。でもどんなに小さくてもゼロじゃないわ」
「はい」
 ヴァニラが頷く。ケーラの言葉がゆっくりとヴァニラの心に溶けてゆく。
「だから私は……そんな小さな命を救うために、医者を続けているのよ」
 
 やっぱりケーラ先生と私は違う、とヴァニラは思った。
 私にはケーラ先生のような強さも、優しさも無い。
 包まれた手から伝わる温かさも、かけられた言葉から伝わる安心感も、自分には到底かなわないものだ。
 だって私は、シスター・バレルを救えなかった時も、『ヴァル・ファスク』の青年を助けられなかった時も、多くの命が目の前で消えていった時も、それを自分の力の無さのせいにして、それなのに自分の力の無さを認めることができず、ただがむしゃらに足掻いていただけだから。
 私はなんて未熟なんだろうか。 

 …………だけど。
 これから変われるだろうか。
 少しずつでも良いから、ゆっくりでも良いから、前に向かって進んでゆけるだろうか。
 変わりたいと思う。後ろではなく、前に向かって進みたいと思う。
 そして、いつか……。
「私は、ケーラ先生のように、なりたい……です」
 ケーラは握っていた手を解き、優しくヴァニラの髪を撫で付けながら、にっこりと微笑んで答えた。
「なれるわ。ヴァニラなら、きっとね」
 隣で見ていたナノマシンペットが、嬉しそうに一声鳴いた。

 

 

 /

 

 

「どういうつもりだ?」
 怒気が謁見室の空気を重くして、声がそれを揺らしていた。
「どういうつもりもなにも、言葉通りよ。あたしは皇国から出て行くわ」
「何故だ!? これから、という時に……!」
 二人の少女が謁見の間で向かい合っている。二人とも見た目には子供と言っても差し支えのない容貌で、実際まだ子供だったが、課せられた責任の重さは子供どころか、殆どの大人のそれさえ遥かに凌駕していた。
 方やトランスバール皇国女皇シヴァ・トランスバールであり、方や『黒き月』の管理者たるノアである。
「だからこそ、よ」
 涼しい顔で答えるノア。
「どういう事だ!」
 対して声を荒げるシヴァ。
「『ヴァル・ファスク』との戦いが終わり、タクトとフォルテを助ける事もできたわ。これからトランスバール皇国は復興の道を歩んでいかなくちゃいけない」
「その通りだ。だからこそ、多くの力が必要な時ではないか!」
「皇国は傷を癒さなくちゃいけないわ。『ヴァル・ファスク』との戦いの傷を。そして……黒き月との戦いの傷跡を、ね」
「……ッ」
 その言葉にシヴァの身体が弾かれ、髪が揺れる。
「そんな時に黒き月の管理者であるあたしが、救国の英雄や皇国の女皇の近くにいるなんて知れたらどうなると思う?」
 シヴァは拳を握り、歯を食いしばる。
「皇国は求心力を失い、ただでさえ不安定な皇国は下手をすれば分裂してしまうわ。ほんの少しの想像力があれば分かる筈よ」
 黒き月との戦いでは、多くの犠牲者が生まれた。生き残っている者たちの中には家族や友人、恋人を失った者も数多くいる。そしてその者たちからすれば、ノアは決して許す事の出来ない存在であるに違いないのだ。
 シヴァとて、父親や親類を黒き月との戦いで失っている。
「これから先、あたしはきっとシヴァにとって……女皇にとって重荷になる」
 シヴァの女皇としての理性がノアの言葉を正しいと認めている。
「皇国にとって、あたしの存在は決してプラスにはならない」
 シヴァの上に立つ者としての判断がノアの考えと同様の結果を導き出す。
「だから……」
 ノアは優しげな微笑すら浮かべて、
「だからあたしは皇国を出ようと思うわ」
 シヴァに別れを告げた。

「だがそれは……ッ」
 エオニアが起こした反乱で、ノアのせいではない。
 それはひとつの事実ではあったが、その余りにも不器用な責任転嫁では大勢の人間も目の前の少女も納得させる事は出来はしない。
「だが、しかし……」
 ノアが協力してくれたからこそ、『ヴァル・ファスク』との戦いに勝利する事が出来たのだ。より多くの犠牲者が仮定の数字で済んだのだ。
 それも確かな事だ。しかし仮定はどこまでいっても仮定であって、黒き月がつけた傷跡という現実の前では無力だ。
 シヴァは苦しんでいた。
 どうしたら良いのか、そうすれば良いのか、そしてどうしたいのか……。
「もういいいわ、シヴァ」
「…………………………」
「どう足掻いても、黒き月との戦いの過去を消す事はできない」
「………………………だ」
「そしてあたしは黒き月の管理者で、シヴァは皇国の女皇よ」
「…………………いのだ」
「シヴァは女皇として一番利益の大きい道を選ぶべきよ」
「……………くないのだ」
「だからあたしは……」
「私は失いたくないのだ!!」
 今までで一番大きな声。それは叫びであったのかもしれない。
「私はノアを失いたくないのだ! 私の初めての……唯一の友達を失いたくないのだ!」
「とも……だち?」
 それは発芽だった。永くシヴァの内に閉じ込められていた感情の発芽だった。
「私が誰からも友達だとは思われていないだろう。それは知っている。私は女皇だ。それも致し方ない事なのかもしれん」
 一度表に出た芽は止めようも無い速さで成長してゆく。茎は幹となり、枝を張り、葉を茂らせる。
「私はずっと独りだった……周りに誰もいなかったわけではないが、皆にとってそこにいるのは私ではなく皇子であり、女皇だった!」
 それは大樹となり、揺ぎ無いものとなってゆく。
「挫けそうになるたびにノアの言葉に救われてきた。投げ出したくなるたびにノアの態度に助けられてきた。ノアが初めてだったのだ……私の事をシヴァ、と呼んでくれたのは。ノアだけだったのだ……!」
 それはトランスバール皇国女皇の言葉ではなかった。
「私はノアを……大切な友達のノアを……失いたく、ないのだ……!」
 年不相応な責任を背負いながら懸命にそれと向き合い、けれどその為に孤独を余儀なくされた一人の少女の姿がそこにはあった。
 
 ノアの顔からは表情が消え、シヴァは肩で息をしている。
 突風は去り、凪のような沈黙が訪れた。
 シヴァは己の大樹に何を見たのだろうか。
 やがて、決意をたたえた表情でシヴァが口を開く。
「分かっている。これは私のワガママだ。ノアにとっては迷惑なものかもしれないし、エオニアとの戦いで傷ついた者達からすれば、耐え難い裏切りであるに違いない」
 黒き月との戦いと表現しなかったのは、シヴァの弱さであり優しさだった。
「だから私のこの気持ちは、私の罪だ」
 人を想う気持ちが罪になる。それはやりきれない程の悲劇だ。しかしシヴァは悲劇を悲劇のままで終わらせたくはないと思った。
「私は罪を償う。これから先、トランスバール皇国の女皇として一人でも多くの者の幸せを実現させる事で償う。大変な困難を伴うだろうし、許してはくれない者もいるであろう。しかし、それでも私は私のやり方で罪を償いたいと思う」
 誰かが見ていたら、思わずその場にひれ伏したかもしれない。それほどまでに強く、気高く、美しい……。そこにいたのはまぎれもなくシヴァ・トランスバール。トランスバール皇国の女皇だった。
「だから、私にノアの力を貸して欲しい。私と共に歩んではくれないだろうか……?」

 ……なんて、バカな選択。
 プラスよりもマイナスの方が大きいと分かりきっているのに。
 容易な事よりも困難な事が多いに違いないのに。
 賞賛ではなく罵声を浴びせられるのに。
 どんなに頑張っても、理解されないかもしれないのに。
 どんなに尽くしても、報われないかもしれないのに。
 それなのに、どうしてそんな選択をしてしまうのだろうか。
 あたしが何のために自分から皇国を出ようとしたか分かってるのだろうか。
 挫けそうな時に救われた? 投げ出しくなった時に助けられた?
 違う。そんなの全然違う。
 本当に救われていたのは、本当に助けられていたのは……あたしだ。
 永い孤独から救われたのはあたしだ。
 出口のない罪の迷路から助けられたのはあたしだ。
 未来を見据える力強い瞳に、決して後ろを振り向かない気高い背中に、何度も何度も救われてきた。助けられてきた。
 だから今度はあたしが返さなくちゃいけないのに。
 あたしがいなくなる事でシヴァの進んでいく道を切り開かなくちゃいけないのに。
 あたしがいる事でシヴァに辛い思いをさせたくないのに。
 あたしの誰よりも大切な友達を傷つけたくないのにっ……。
 伝えなくちゃ。その選択は間違ってるって。もっと別の道があるって言わなくちゃ。
 ……伝えなくちゃ、いけないのに。
 ……永い孤独に苛まれていた時にも、戦いに敗れて悔しかった時にも、一度だって流れた事の無かった涙が、あふれ出していた。
 睨み付けたつもりだった瞳は焦点が合わず、胸から上がってくるのは嗚咽だけだった。
 あたしには、伝えなくちゃいけない事があるのに。
 目の前の優しすぎる友達に言いたい事があるのに。
 それなのに、結局あたしの口から出てきた言葉は、たった一言。
「…………ありがとう…………」

 大樹に花が咲いた。

 

 

 /

 

 

『ほらフォルテ! はやく、はやく!』
『ちょっ、マリア! そんなに引っ張らないでってば!』
『良いから良いから! とにかく早く来てよ!』
『……はあっ、はあっ、一体、どうしたって…………うわぁ』
『えへへ』
『すごい、すごいよ、マリア! 咲いたんだ!』
『うん! 水をやりに来てみたら咲いてたの』
『うわぁ、綺麗だなぁ』
『あのね、あのね! わたし、この花をもっといっぱい育てるの! この場所をお花でいっぱいにするの』
『そうなったら、もっともっと綺麗だろうなぁ』
『そしたらね、ここでみんなでピクニックをしようよ!』
『きっとみんな、驚くだろうなぁ』
『それまでこの場所はわたしとフォルテだけの秘密だよ』
『うん!』
『えへへ……』


「あたしの生まれた星は貧しくてね。毎日の食べるものにも苦労するような、そんな環境だった」


『寒いねぇ、フォルテ』
『うん、寒いね』
『でもほら、星が綺麗だよー』
『うん、とっても綺麗だね』
『……みんな心配してるかな?』 
『うーん、きっと大丈夫だよ。こっそり抜け出してきたんだから、気づかれて無いと思うよ』
『うん、そうだと良いね。……じゃーんっ!』
『わぁ、どうしたの、それ?』
『えへへ、わたしのお昼ごはん、とっておいたんだぁ。フォルテに半分あげるよ』
『えっ? いいの?』
『うんっ。フォルテと一緒に食べようと思ってとっておいたんだもん。……はい、半分』
『わぁ、ありがとう、マリア!』
『……美味しいねぇ』
『うん、美味しいね』
『星も綺麗だよね』
『うん。とっても綺麗だね』
『星は綺麗だし、パンも美味しいけど……やっぱり寒いねぇ』
『うん、寒いね……』
『フフフ』
『アハハ』


「マリアって娘がいてね。いつもあたしと一緒だったよ。遊ぶ時も、怒られる時も、寝るときも。そうそう、二人揃って風邪をひいちまった事もあったねぇ」


『ゴホッ、ゴボッ』
『ゲホッ、ゲホッ』
『フォルテ、大丈夫? ゴホッ』
『う、うん。大丈夫。ゲホッ。マリアは?』
『わ、わたしも何とか……ゲホッ』
『ううー』
『風邪……ひいちゃったね』
『……うん』
『昨日、寒かったもんね……』
『うん、寒かったよね……』
『でも……星は綺麗だったよね』
『うん。パンも美味しかったよ』
『えへへ……。だからさ、また行こうね』
『うん。また行こうね』
『えへへ……ゲホッ、ゲホッ』
『ゴホッ、ゴホッ』


「その娘かい? ……死んだよ。殺された。さっきも言ったけどあたし達は貧しかったからね。生きていく為に盗みもやってたんだ。……その日もいつもと同じように盗みに入って、いつもと違ってみつかっちまったのさ」


『いたぞ! こっちだ!』
『このクソガキども!』
『いやぁ!!』
『おらこっちこい!!』
『助けて、フォルテ……!!』
『マリア!』
『フォル……』
『マリアッ、マリアーー!!』


「あたしも撃たれてね。気がついたらベッドの上、さ。あたしの左目の視力が悪いのもその時の怪我が元だよ」


『生き残ったのはお前だけだよ、フォルテ』
『…………』
『マリアは井戸でみつかった。手足を縛られて……放り込まれたんだ』
『…………』
『でも、フォルテだけでも助かって良かったよ』
『…………』
『とにかく、今は身体を休めるんだ』
『…………マリア……』


「それからあたしは銃を取った。戦い方を身につけた」


『なあっ、あんた昔軍人だったんだろ! あたしに銃の撃ち方と、戦い方を教えてくれよ!』
『…………』
『あんたは知ってるんだろ!! あたしに、教えてくれよ!!』
『……この銃が欲しいのか? フォルテ』
『欲しいっ……。あたしにはそれが必要なんだっ』
『……なぜだ?』
『そんなのっ、そんなの決まってる!』


「なあタクト、覚えてるかい? 前にタクトがクロノブレイクキャノンの事を、強すぎる力だって、出来る事なら使いたくないって言ってただろ? あたしはそれを聞いて、タクトはなんて立派で強い男なんだろうって思ったよ。あたしにはタクトみたいな心の強さは無かった。力を手に入れたあたしは、力に溺れていったんだ」


『……ひどい格好だな』
『バカにするんじゃないよ。全部返り血さ。あたしは傷一つ負っちゃいない』
『……そうか』
『自分の身くらい自分で守れるさ』


「なんの為に力を欲したのか、何故力を使うのか……すっかりいい気になってたあたしはそれを忘れちまってたんだ」


『……なんで助けたんだよ』
『…………』
『なんで助けたんだよ! あたしは助けてくれなんて言ってなかっただろ! あたしは自分の力だけでなんとかできたのに!』
『…………ッ!』
『うあっ……、テ、テメエなにすんだっ!!』
『……ついて来な』
『ふざけるなっ』
『良いからついて来い!!』
『くっ……わ、わかったよ』


「決して忘れちゃいけない事だったのに、ね」


『こ、ここは……。なんであんたがここを知って……それに花が……咲いてる……』
『ミオソティスは生命力が強いからな。一度根を張ればそうそう枯れはしない』
『ミオソティス?』
『ああ、この花の名前だ』
『ふん、それがどうかしたのかよっ』
『ミオソティスにはもうひとつ別の名前があってな』
『だからそれがどうかしたのかよ……』
『忘れな草という名だ』
『忘れな、草……?』
『この花には色々と逸話があってな。あるところに仲の良い姉妹がいたんだと。妹は花が大好きで、姉はそんな妹が欲しがった川辺に咲いていたこの花を摘もうとした。ところが姉は足を滑らせて川に落ちてしまった』
『…………』
『姉は最後の力を振り絞って、花を妹の足元に投げて、川に流されていったそうだ。一言、わたしを忘れないで、って言い残してな』
『わたしを、忘れないで……』
『フォルテ、お前はマリアを忘れてしまったのか?』
『…………ッ』
『思い出せ、フォルテ。お前は何故銃を取ったのだ』
『あたし……あたしは……』
『お前のその力はなんの為の力だ?』
『あたしの……力は……』
『あとは自分で考えな。……マリアが泣いてるぞ』
『あ、あ、マリ、ア……マリア……マリア! うわあああああああああ!!』


「だからあたしはこうして花を育ててるのさ。あたしは何故銃を持っているのか、どうして力を振るうのかを忘れないようにする為に、ね。ミオソティス……忘れな草を育ててるのさ」

 

 

 /

 

 

 月の巫女、と呼ばれる者たちがいる。
 白き月のロストテクノロジーの研究、技術開発を行っている者達の総称で、その名から想像されるように大半が女性である。
 男性技術者も少数ながら存在し、その者達からすると、月の巫女という呼び名は気恥ずかしさと心地悪さとを混ぜ合わせた味がするものだから、当然評判が悪い。
 しかしながら大半の女性研究者が月の巫女と呼ばれる事を誇りに思っており、またその名が一般の人々にとって尊敬の対象となっている為、名称を変えようなどと声を大にして主張する者は誰もいなかった。
 エルシオールの乗り組み員にはこの月の巫女が多数名を連ね、紋章機の整備を引き受ける整備班の班長、クレータもその一員である。
 『ヴァル・ファスク』との戦いが終わってからは、戦闘に紋章機を送り出したり戻ってきた紋章機の修理や整備といった仕事が当然の事ながら激減し、本来の研究に時間を割けるようになったのだが、クレータは時間を見つけてはぼんやりと紋章機を眺めている事が少なくなかった。
 この時もいつもと同じようにただ紋章機を見ていたのだが、いつもと違ってクレータと同じ様に紋章機を眺めている者がいた。 
 長い黒髪と黒い瞳。背筋の伸びた立ち姿がその場の空気を凛としたものにしている。
 その少女、烏丸ちとせは自らの愛機、シャープシュータをみつめていた。
「ちとせさん、どうしたんですか?」
 クレータの言葉に紋章機に注がれていた視線が移動する。
「はい、少し考え事を……していました」
「そうなんですか。私と同じですね」
「クレータ班長もですか?」
「はい、そうなんですよ」
 二人は笑いあい、揃って紋章機を見上げた。
 ちとせの雰囲気がそうさせたのか、それとも傍に人がいる安心感がそうさせたのか。クレータはポツリと言葉を漏らした。
「……紋章機は、どう思っているんでしょうか?」
「え?」
 ちとせがクレータの横顔を見る。
 もしかしたらその言葉は無意識のものであったのかもしれない。自分の口から出た言葉に意外そうな表情すら浮かべている。
「い、いえっ。なんとなく思っただけなんですけどね?」
「はい」
 頷いて会話の先を促す。
「紋章機は戦いが終わったら本来の力を封印されてしまいます。私もそれは当然の事だと思いますし、正しい事だと……思ってました」
 紋章機は通常その全ての能力を開放できない様にリミッターが設けられている。厳しい戦いが予想される際、そのリミッターが取り外されるのだ。
「でも最近になって考えたんです。紋章機自身はどう思ってるんだろうって。もしかしたら都合の良い時だけ自分達を利用して、用が済んだらまた勝手に封印するのかって、そんな風に怒ってるんじゃないかと思ったんですよ」
 もし自分に翼があったとして、その翼が他人の都合で縛られたりしたら……それはとても悲しい事ではないか。クレータはそう考えたのだ。
 クレータの言葉を聞いて、ちとせは視線を紋章機に移す。
 紋章機は穏やかに佇んでいる様に見えた。クレータには憮然と座っている様に見えるのだろうか。
「……刀は武士の魂」
 ちとせは紋章機を見上げたまま言った。
「カタナはブシのタマシイ、ですか?」
「そうです。クレータ班長は刀や武士が何の事かご存知ですか?」
「知っていますよ。これでも研究者ですから」
 ちとせは頷いて言葉を続ける。
「武士は片時も刀を手放さず、自らの傍に置いたと言われています」
「そうなんですか?」
「はい。普段は鞘に封印されていますが、刀は武器です。その力は人を傷つけるものとなります」
 ちとせが封印という言葉を使ったため、クレータはちとせの言いたい事を諒解する。
「抜き身の刀は凶器です。どんな理由をつけたとしても、その事実は変わりません」
「そうですね」
 クレータが同意する。その意見には何の反発も無く同意できた。
「でもだからこそ、刀は封印されているのだと私は思います。みだりに抜かれた刀は際限の無い凶器となり、人を傷つけ、己の魂をも汚します」
「魂を、汚す……」
「そうです。自らの誇りを汚し、己の魂を汚し、そしてそれは何より刀自身を傷つける行為となるのではないでしょうか」
 クレータと目が合う。
「だから私は、紋章機達はきっと分かってくれてると思います」
 クレータはしばらく考え込んでいたが、なるほど、と呟くとまた紋章機を見つめた。
 クレータは納得したともしないとも言わなかった。
 ちとせはそれで良いのだ、と思った。
 答えは自分で見つけたものが一番価値があるのだ。ちとせがエンジェル隊に来て学んだ事の中で、最も大切な事のひとつだった。

 ちとせも紋章機を見上げて考える。
 ちとせは父親の事と、タクトの事、フォルテの事を考えていた。
 ちとせの父親は、事故を起こした軍用艦の中にあって最後まで仲間の救出に力を尽くし、自分は逃げ遅れて死んだ。
 そんな父をちとせは誇りに思っていた。自分も父の様になりたいと思っていた。
 その為に軍人になり、エンジェル隊に配属された。これで父と同じ様に誰かを守れると……思っていた。
 『ヴァル・ファスク』の秘密兵器の正体が判明した時、そしてその対処法が明らかになった時、ちとせは自らを犠牲にしてそれを実行しようと考えていた。
 しかし、それを実行したのはフォルテであり、タクトだった。
 その時ちとせは気づいたのだ。自分にはあれ程の力を引き出す事は出来ないのではないかと。
 最初漠然としていたその気持ちは、帰ってきたタクトとフォルテが笑い合う様子を見てますます大きく、確かなものになっていった。
 もしかして、自分はとんでもない勘違いをしていたのではないだろうか?
 父が辿った道筋は、フォルテとタクトが示したやり方は、自分がやろうとしていた身投げの様な行為の中には無いのではないだろうか?
 ……答えは、まだ分からない。
 でも自分で考え、その答えを見つけよう。そうしたら、父の気持ちが分かるだろうか? あの大きな背中に手が届くだろうか……。
 ちとせは穏やかに微笑んだ。

「でも一度くらいは、戦いの無い宇宙を自由に翔ばせてあげたかった気もしますね」
 それもまた、クレータの優しさだった。
 やり方は、ひとつだけじゃない。答えもきっと、ひとつじゃない。
「私にひとつ提案があります」
 そう言ったちとせは、今までとはうって変わった悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 

 

 /

 

 

 このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
 エルシオール副指令レスター・クールダラスはさながら古典演劇の主人公の様に苦悩していた。
 恋の軽い翼で石垣は飛び越えました。石垣などでどうして恋をしめ出せましょう。ある物語の主人公は言ったが、彼の背には恋の翼などなく、目の前にあるのはただの扉である。
 その手にはティーラウンジで買って来たアップル・タルトの入った紙製の白い箱。目の前にあるのはブリッジへとつながる扉。現在ブリッジには通信担当とレーダー担当の二人の女性が詰めているはずだ。
 レスターにとっては、ケーキを買うという行為だけでも珍しい事なのに、それをブリッジに持っていくなど通常ではとても考えられない行動だ。ブリッジは当然飲食禁止である。
 それでもレスターはケーキを二人の元に届ける事を決めた。決めて、誰もいない時間を見計らってティーラウンジでケーキを購入した。購入して、ブリッジの扉の前まで来たところで……見事に固まってしまったのだ。
「なんと言って渡せば良いんだ……」
 つまらないものですが、どうぞ。……渡すのはケーキだ、お中元やお歳暮ではない。
 こちらをお納め下さい。皆には内密で。……渡すのはケーキだ、賄賂ではない。
 おめでとう! 二人の未来に幸あれ。……渡すのはケーキだ、結婚祝いではない。
 レスターはブンブンと頭を振る。普段は素晴らしい性能を発揮する彼の脳細胞もこの時ばかりは精彩を欠いてた。
 タクトだったらもっと上手く言うんだろうな、と思う。
 何も考えていない様で、考えている様で、でもやっぱり何も考えていない様な笑顔で「やあみんな、ケーキを買ってきたんだ。一緒にどうだい?」と誘うに違いない。
 ふむ、悪くないかもしれんな。
「ヤアミンナケーキヲカッテキタンダイッショニドウダイ?」
 返事が無い。相手はただの壁のようだ。
「……何をやってるんだ、俺は」
 うなだれるレスター。そのまますごすごと扉の前から引き返し、12歩ほど歩いたところで結局引き返してきた。
 そうだ、やはり考えるよりまず行動だ。案ずるより産むが易しと言うではないか。
 そう思ったら肩に入っていた力が抜けた気がした。「良かったら食ってくれ」それでいこう。うむ、過不足の無い良い言葉だ。
 いざ。レスター・クールダラスはブリッジへの扉を開いた。

 おお、クールダラス副指令、あなたはどうしてクールダラス副指令なの?
 エルシール通信担当のアルモがその台詞を口にしたかどうかは誰も知らないが、アルモがレスターに好意を抱いている事は誰もが知っていた。気付いていないのは本人のレスターくらいだろう。
 現在ブリッジにはアルモとレーダー機器担当でアルモの親友、ココの二人しかいない。
 戦いが終わった今、油断は禁物だが、常にレーダーや通信に神経を尖らせている必要は無い。二人の間に会話が生まれるのも自然と言える。
「で、結局クールダラス副指令にはまだ告白してないの?」
「うー、だってぇ」
「良いの? 戦いも終わって、マイヤーズ司令達を助け出す事も出来たし、私達は白き月に戻って月の巫女本来の研究を続けなくちゃいけないんだよ?」
「うう……」
「そうなったら、もしかしたらクールダラス副指令とは離れ離れになっちゃうかも……」
「そっ、それはイヤだ!」
「でしょう? だったら」
「それはイヤだけどぉ……」
 ココはこっそり小さなため息を吐いた。
 アルモが明るく表裏の無い性格をしている事は彼女を知る誰もが感じている事で、それはアルモの長所である。
 ところがこと恋愛に限ると、アルモはとたんに不器用になってしまうのだ。持ち前の積極性はどこへやら、普段の彼女からは想像も出来ないほどの引っ込み思案っぷりを発揮してしまう。
 アルモがレスターと出会ってから、そしてアルモがレスターに好意を抱いてから随分経つが、未だに告白出来ないのにはアルモのそんな性格が災いしていた。
 しかし、アルモの気持ちは真剣なのだ。真剣だからこそ余計に臆病になってしまう。
 アルモの親友であるココはその事を良く理解していた。彼女の気持ちが本物である事も、それ故身動きが取れなくなっている事も。
 だからココは時に焚きつけ、時に励まし、時に焦らし、様々な方法でアルモの背中を押してきた。しかし、ココの努力は今のところ実を結んではいない。 
 ココはもうひとつため息を吐いた。
 ブリッジの出入り口が開いたのはその時だった。

 とかく恋というものは、子供のようにたわいなく、軽はずみで愚かしくて無様な事をさせるものです。
 ココはその言葉をしみじみと実感していた。
 レスターがその思考を知ったら断じて恋ではないと否定しただろうが、その行動が明らかに怪しい。
 白い箱を持ってブリッジへと入ってきたレスターはアルモ達を一瞥すると、ぎくしゃくと音が出そうな動きで副指令用デスクへと歩いて行った。手と足が同時に出ている。
 箱をデスクの右端に置くと、着席。一瞬の後に立ち上がり、箱を持ち上げデスクの左端に移動させる。再び着席。座ったままで箱を右端へと移し、起立。箱を左端へ……と繰り返し繰り返し。
 悲劇だ。レスターは思った。計算通りに事が運ばんではないか。
 喜劇ね。ココは思った。副指令にこんな意外な面があるなんて。
 クールダラス副指令素敵……。アルモにはそもそも舞台が見えていなかった。
「クールダラス副指令、その箱はなんなんですか?」
 ココが尋ねたのはデスクの上を箱が八往復した後の事だった。
 レスターは心の中でガッツポーズをする。
 良し、思いの外時間がかかったが計算通りの質問だ。これで筋書き通りに事が運ぶに違いない。
 レスターの計画はこうだ。
『クールダラス副指令、その箱はなんですか?』
『む、この箱か? 何だと思う?』
『そうですね、ケーキが入った箱に見えます』
『その通りだ。偶然にも手に入れてな』
『そうなんですか』
『うむ。折角だ、良かったら食ってくれ』
『え、良いんですか? じゃあありがたく頂きますね』
 完璧な作戦、レスターがそう自画自賛する舞台の幕が上がった。
「こっ、この箱か? こ、これはだな」
「ケーキ、ですか?」
「そっ、その通りだ」
「もしかして、私達の為に買って来て下さったんですか?」
「……は?」
 計画はいきなり頓挫した。
「えええええーっ」
 ブリッジに響くアルモの叫び声。
「クールダラス副指令があたし達にケーキを? ほ、本当ですか? 何かの間違いじゃないんですよね? 夢じゃないんですよね?」
 身を乗り出さんばかりの勢いだ。
「いや、まあその……その通りだ」
 レスターは少年の様に赤面した。

 ……人の思考は計算では計れない。
 レスターがまだ皇国士官学校に入学したばかりの頃の話だ。
 基礎戦術論の講義でチェスを用いた設問が出された。
 限られた持ち駒を使って相手のキングを追い詰めるといった問題を何人かのグループに分かれて解いてゆく。
 レスターが所属したグループは彼自身の活躍もあって優秀な成績だったが、ある問題で行き詰まってしまった。
 その問題は敵に追い詰められた自分のキングを援軍が到着するまでの間守りぬく、といったものだったのだが、幾ら考えても解けない。ある程度まで逃げたところで敵に捕まってしまう。周りを見ると、やはりどのグループもその問題で苦戦している様子だった。
 実はその問題は教官の出題ミスだったのだ。どうやっても規定の手数逃げ切る事は出来ない問題で、多くのグループは解くのを諦め、あるグループは「どうやっても逃げ切る事は出来ない」という答えを提出した。
 ところが、レスターと同じグループに所属していたある生徒が、この問題に誰も思いつかなかった答えを示して見せた。
 その生徒は事もあろうに戦場の横にもう一枚のチェス板を置き、誰もいない無人の野にキングを逃がしてしまったのだ。
「逃げ道が無いなら、作ってやれば良いんじゃないかな?」
 そう言って笑っていた彼だったが、自分のミスを認めなかった教官が「どうやっても逃げ切る事は出来ない」という答えを正解とした為、レスターのグループに点数が与えられる事は無かった。
 レスターとその生徒は後にお互いを親友を呼ぶほどの関係になるのだが、差し当たってこの話は現在の状況に関係が無い。

「ほ、本当に……?」
「まあその、本当だ……」
 そのまま固まってしまったアルモとレスターを、ココは微笑ましく思った。
 どうやら不器用なのは彼女の親友だけではなかったらしい。
 放っておくといつまで経っても固まっていそうなので、ココが時計の針を動かす。
「副指令、私が準備しましょうか?」
「あっ、ああ、よろしく頼む」
 レスターから受け取った箱を開けると、中にはアップル・タルトが3切れと紙皿、紙布巾とプラスチック製のフォークが入っていた。
 紙皿にアップル・タルトを載せ、フォークを添える。
「副指令、飲み物の準備はしていないんですか?」
 ココの言葉にレスターはあっ、とした表情になる。
「しまった、用意するのを忘れていたぞ……」
 きっとケーキを用意する事で頭が一杯だったんだろうな、とココは思った。こんなところまで親友にそっくりだ。
 レスターはうなだれて大きくため息を吐いた。
「やはり慣れない事はするもんじゃないな。タクトの様にはでき……」
「そんな事ないですっ!!」
 固まったままだったアルモがレスターの言葉に反応して動き出す。
「そんな事ないですっ! あたし嬉しいです! それはもうとにかく何と言うかつまりですね……嬉しいんです!」
 そんなアルモを驚いた顔で見ていたレスターだったが、やがて表情を緩めて、
「ありがとう」
 と言った。
 またしても固まるアルモ。
 クールダラス副指令はこんな表情も出来るんだ……。
 アルモも、ココも今まで一度も見たことの無い笑顔をレスターは浮かべていた。普段の精悍な表情とは違う優しい笑顔。
 普段とは違う雰囲気のレスターをもっと見てみたい、そんな風に感じるココだったが、彼女には他にやるべき事があった。
「じゃあ、私は何か飲み物を用意してきますね」
 二人にそう言い、アルモだけに聞こえる小声で「頑張ってね」と言い残し、ココはブリッジの出入り口へと向かう。
「ク、クールダラス副指令! い、いえっ、そのっ、レスター、さん……」
 アルモのそんな声を遮る様に背後で扉が閉じられた。その場でしばらく立っていたが、ブリッジ内の音は外に聞こえない。
 さて。ココはゆっくりと歩き出す。
「一番遠い販売機はどこだったかしら?」

 

 

 /

 

 

「だからあたしはこうして花を育ててるのさ。あたしは何故銃を持っているのか、どうして力を振るうのかを忘れないようにする為に、ね。ミオソティス……忘れな草を育ててるのさ」
 そう言って、ミオソティスにそっと触れる。指先からひんやりとした感触が伝わってくる。
 タクト時折り相槌を打ちながら話を聞いていたが、この時は黙ってフォルテを見つめていた。
 フォルテが答えを欲していない事をタクトは知っていた。いや、彼女は既に答えを持っているではないか。ならば自分の役割は答えを提示する事ではなく、話を聞くことだ。タクトはそう思った。
「ところがこの話にはとんでもないオチがあってね」
 表情と口調を一変させ、フォルテが続ける。
「ミオソティスの逸話に出てくる登場人物は、実際には仲の良い姉妹なんかじゃなかったのさ」
「へえ」
「アイツ、絶対知ってて嘘をついたんだよ。そうに決まってるね」
 呆れた様な言葉とは裏腹にフォルテは笑みを浮かべている。
 例えそうだったとしてもその時の言葉の価値は少しも変わる事はない。だからこそ、フォルテはミオソティスを育てているのだ。
 タクトはそれも察し、やはり何も言わなかった。
 ……でも。
 やっぱり、ほんの少し。いや、多少。と言うより、それなりに。……嫉妬を感じてしまうな。
 こっそり苦笑してタクトは右手であたまを掻いた。
 そしておもむろに話し始める。
「ねえフォルテ。あの星の名前、知ってるかい?」
 空を見上げる。タクトがさした指の先に、明るく輝く星。
「いや、知らないねぇ」
「あの星の名前はスピカっていってね」
 スピカは青白い光をたたえて強く輝いている。
「スピカは他の星とはちょっと違う特徴を持ってるんだ」
「ふんふん、どう違うんだい?」
「スピカは連星なんだ」
「連星?」
「うん。見た目にはひとつの星に見えるけど実際には二つの星で、その二つの星がお互いに寄り添いながら強い輝きを放つ……そういう星」
「それで?」
 フォルテはニヤリと唇の端を上げて尋ねる。
「……言わなきゃ分かんないかな?」
「分かるよ。でもタクトに言って欲しいのさ」
 フォルテにはタクトの思考などお見通しだったのかも知れない。小さな嫉妬も、大きな優しさも……。
 タクトはまたしても右手で頭を掻いて、続ける。
「オレはあのスピカの様になりたい。ふたつの星が寄り添って輝きを増すスピカの様になりたい。……フォルテ、これからもオレと一緒に歩いてくれるかい? 星のスピカを目印に……」
 フォルテは黙ってタクトを抱き寄せた。
 フォルテの背はタクトより少し高いから、タクトの視線が見上げるようになる。
 二人の視線が絡み合い、ひとつになり、消えてゆく。
 ……唇が重なる。
 銀河展望公園には二人しかいない。星と花だけが、その光景を見つめていた。

 

 

 /

 

 

 アタシの一番好きなケーキはビターチョコを使ったガトー・ショコラなの。
 この言葉は先日、蘭花・フランボワーズがミルフィーユ・桜葉に、蘭花はどんなケーキが一番好き? と訊かれた時に答えた台詞だが、これには理由がある。
 最近観た映画に、ヒロインがオープンカフェで優雅にガトー・ショコラを口に運ぶシーンがあった。要するに蘭花は映画に影響されていたのだ。
 その映画は愛し合っていたはずの恋人達がお互いに違う道を見つけ、それぞれの道を歩むために別れてしまう、という内容のもので、ビターチョコの様なほろ苦いエンディングが印象的であった。
 蘭花はこの映画をいたく気に入り、もう十回以上繰り返し見ているのだ。

 蘭花の前にチョコレートケーキが運ばれてきた。
「じゃーん! ミルフィーユ特製、チョコレートケーキでーすっ!」
 シンプルなデコレーションのチョコレートケーキを運んできたのは、この部屋の主、ミルフィーユ・桜葉である。
「そしてこっちはお手製のミックスジュースだよー」
 続いて飲み物が運ばれてくる。
 テーブルの上にケーキとジュースを置いたミルフィーユが蘭花の正面に座った。
「ありがとう、ミルフィー。……で、そろそろ教えてくれるんでしょ? 今日は一体何の日なの?」
 ミルフィーユに招かれて来た蘭花だったが、幾ら訊いても理由を教えてもらえなかったのだ。
 自分の誕生日でも無ければ、ミルフィーユのそれでも無い。何かの記念日かとも思ったが思いつかない。エンジェル隊に関する事であれば、二人だけでやる理由は無い。
 ミルフィーユは少し顔を赤くして答える。
「うん。えっとね……今日は、お詫びとお礼なの」
「お詫びとお礼?」
 予想していなかった答えを蘭花が反復する。
「あたしと蘭花って、もう出会ってから随分経つよね」
 そして予想もしていない方向に話が飛ぶ。
「そ、そうね。士官学校に入学する時からだから、腐れ縁も随分になるわねー」
「だから、そのお詫びとお礼」
「……はい?」
 言葉の意味が理解できずにいる蘭花にミルフィーユが続けて言う。
「蘭花にはこれまであたしの強運のせいでいっぱいいっぱい迷惑かけちゃったから、そのお詫び。いっぱい迷惑かけちゃったのにお友達でいてくれた、そのお礼」
 ミルフィーユの強運は、本人が望む望まないに関わらず発動してしまう。ミルフィーユの近くにいると、普通では考えられない様な事が次々と起こるのだ。それは良い事ばかりではない。むしろ悪い事の方が多いだろう。
 その結果ミルフィーユは他人を避けるようになった。否、彼女が他人から避けられるようになった。
「それと……できれば、こんなあたしだけど、これからもよろしくって、できれば良いなぁって……」
 一言一言、区切るように言うミルフィーユ。徐々に声は小さくなってゆく。
 蘭花は初め呆然とし、次に困惑して、そして怒った。
「なっ、何言ってるのよ! そんなのっ」
 が、言葉が続かない。困惑と怒りと焦りと恥かしさで肩を震わせ、表情にはその全てが同居している。
 それでも何とか言葉を搾り出した。
「……この前一緒に観たドラマ」
「……え?」
 ミルフィーユに負けず劣らずの話の飛びっぷりだ。
「この前一緒に観たドラマに良い台詞があったじゃない?」
 ミルフィーユはうーんと考えて、思いついた台詞を言う。
「えっと、人という字はぁ、人と人とが支えあってぇ……だっけ?」
「それも良い言葉だけど違うわ。ついでに言っておくと、似てないわよミルフィー」
「じゃあ……お前が好きだ! お前が欲しいぃぃ!!」
「うんうん、そんな告白されてみたいわよね。ってそれも違うわ」
「銀河屋、そちも相当のワルよのう。うえっへっへっ」
「ぜんっぜん違うわ! それのどこが良い台詞なのよ!」
 さらにうーんと考え込むミルフィーユ。
「もう、どんどん遠くなってるじゃないのよ。もう良いわ、こうよ!」
 立ち上がり、拳を握る蘭花。
「人生は悲しみの谷と困難の山の連続だ。しかし山を削って谷を埋めてしまっても、そこには平坦な道しか残らない。頂で得られる幸せも川辺で感じられる安らぎも消えてしまうだろう……よ」
「ああ! うんうん、あったねー。それにしても蘭花、良く覚えてるね」
「ま、まあね。つまりは、そういう事なのよ。分かった?」
「……?」
 ミルフィーユは小首をかしげている。頭の上には複数のクエスチョンマーク。
 結論。分かってない。 
 いつもこうなのだ、ミルフィーは。こっちの言いたい事が全然伝わらない。いつもいつも一人で突っ走って、アタシはそれを追いかけて、巻き込まれて。
 一度ガツンと言ってやらなくちゃ分からないのだ、この娘は。
 そう決心した蘭花は、大きく息を吸い込んで気合を入れる。
「だからっ!」
 たとえそれが転がり落ちるような急な坂道であっても……。
「だからねっ!」
 たとえそれが這い上がっていくような切り立った崖でも……。
「だからミルフィーと出会えた幸運に比べたらちょっとやそっとの凶運くらいどうって事ないの! アタシたち親友でしょ!」
 ガツンと言ってやった。
 ミルフィーユは初め呆然とし、次に困惑して、そして歓喜した。
 泣き笑いのような表情で蘭花を見つめていたが、やがて感極まって喜びを身体全体で表現する。
「ランファー!」
 ミルフィーユも立ち上がり、蘭花に飛びつく。その身体を受け止める蘭花。 
 ずる。
「……はい?」
 その時、滑るようなものは何も無い筈の場所で、蘭花は偶然にも足を滑らせた。
 倒れこむ二人。
 偶然にもミルフィーユの足が傍にあった小さなテーブルを蹴り上げ、その上に置いてあったチョコレートケーキとミックスジュースが宙を舞う。
 そして、偶然にもチョコレートケーキは蘭花を、ミックスジュースはミルフィーユを直撃した。
「やっぱり凶運なんてもうコリゴリだわ……」
 チョコレートまみれの笑顔と、
「えへへ、ゴメンね」
 ミックスジュースに濡れた笑顔が並んでいる。
 ……チョコレートケーキは蘭花の好きな甘い味がした。

 

 

 /

 

 

『エンジェル隊のみなさんとマイヤーズ司令は、格納庫までお集まりください。繰り返します。エンジェル隊の皆さんとマイヤーズ司令は、格納庫までお集まりください』
 その艦内放送はティーラウンジ、医務室、ブリッジ、シャワールーム等エルシオール艦内全域に流された。
 銀河展望公園も例外ではなく、タクトとフォルテの耳にも入ってくる。
「なんだろう?」
 触れていた身体を離しながらタクトが呟く。つないだ手は、離さない。
「さて、格納庫って事は紋章機関係の事かもしれないねぇ。まあ、行ってみれば分かるさ」
 そう言って名残惜しそうに手を離す。手に残る温もりを確かめるように、フォルテは拳を握った。
「そうだね。それじゃ、行こうか」
 タクトが歩き始めようとするが、フォルテが呼び止める。
「ああ、タクト。ちょっと待った」
「うん?」
「悪いけど、先に行ってておくれよ。あたしはこれを片付けてからすぐ行くからさ」
 園芸グッズを指して言う。
「手伝おうか?」
「いや、大した手間でもないしね」
 タクトは少し悩んだが、結局フォルテの言葉に従う事にした。
「そっか。じゃあ先に行ってるよ」
「ああ。すぐに追いつくよ」
 去ってゆくタクト。
 フォルテはその後姿が見えなくなるまで見つめていたが、やがてその視線をスピカへと向け、それから荷物の整理を始める。
 ……荷物を整理するフォルテの顔に浮かんでいたのは笑顔だった。
 作業の量は少ない。すぐに整理を終え、花壇の前に立つ。
 花壇を見つめるフォルテ。
 花壇にはミオソティスとローズマリーが並んで咲いている。
「マリア……」
 ……ローズマリーはミオソティスと同じ時期に花を咲かせる。少し背の高いローズマリーと背の低いミオソティスが並んで咲くその姿は、見る人によっては姉妹を想像させるかもしれない。
 その香りは懐かしい人々を思い起こさせる優しい香り。
「あたしは、忘れないよ」

 花言葉は…………思い出。

 マリアの笑顔が、見えた気がした。

 

 

 /

 

 

 波の音が聞こえる。
 サアアア、サアアア、と波が砂浜を洗い流している。
 波の音以外には、何も聞こえない。
 静かだ、とクジラルームの住人である宇宙クジラのパートナー、クロミエ・クワルクは思った。
 クジラルームの照明は落とされ、銀河展望公園と同じ型の全天型モニターは、現在エルシオール外部の映像をそのまま映し出している。
 人工的に創り出された星空より少し暗いその空を、クロミエは砂浜に寝そべって見上げていた。
「…………」
「もう、そろそろかな」
 宇宙クジラの声が聞こえる。他の誰にも聞こえなかったが、彼にだけは聞こえていた。
「…………」
「そうだね、演奏会にはこのくらいの静けさが丁度良いね」
 宇宙子クジラがふわふわと飛んできた。
「おいで」
 ふわ、ふわ、と危なっかしい足取りでクロミエの元に飛んでくると、彼のおなかの上に着地した。
「さあ、もうそろそろだね」
「…………」
「もうすぐ、はじまるよ」

 

 

 /

 

 

 エルシオール下部のハッチが徐々に開いてゆく。これまで戦闘の度に繰り返されてきた光景だが、今回はいつもと違って戦闘中ではない。
 紋章機に乗る少女達の眼下には宝石をちりばめた夜の海。
『おいこらお前達! 一体何をやってるんだ……ってタクト!?』
 レスターの声がモニター越しにハッピートリガーのコックピットに響く。
「いやあ、偶然にも格納庫にみんなが揃ってね。それでちょっと散歩でもしようかって話になっちゃってさ」
『偶然にもって、さっきの艦内放送があっただろうが。しかも紋章機を使って散歩か?』
 そうこうしている間にハッチが完全に開く。
「まあそう硬い事を言いなさんな、副指令」
 操縦桿を握るフォルテが続ける。
 ハッピートリガーのコックピットに二人が入ると少し狭いが、この場所はタクトとフォルテに大切な思い出を思い起こさせる。それは決して不快なものではなかった。
『あのなあ、今この艦にはシヴァ女皇陛下もいらっしゃるんだぞ。もしバレたりしたら……』
『私ならここにいる』
『シ、シヴァ陛下っ、何故ここに……』
「じゃあ、そういう事でよろしく。通信終わり!」
 通信が切られ、モニターからレスターの顔が消える。タクトとフォルテは顔を見合わせて笑う。
 六機の紋章機を固定するアームがゆっくりと艦外に押し出されてゆく。 
 
 


 一番機、ラッキースターがアームから解き放たれた。
「ラッキースター、あたしに色んなものを運んできてくれてありがとう! あなたはあたしの幸運の星よ!」
 その背に、春の優しさを宿したかのような、桜色の翼が生まれる。

 
 二番機カンフーファイターが続く。
「さあ行くわよカンフーファイター! 誰よりも速く! 誰よりも強く!」
 太陽の暖かさと炎の激しさを持った橙色の翼を羽ばたかせる。


 三番機トリックマスターがゆっくりと宇宙へ飛び立つ。
「トリックマスター、意地っ張りで素直じゃない私ですけど、あなたにだけ私の気持ちをお教えしますわ。……私、今嬉しいんですの! とっても喜んでいますのよ!」
 澄み切った空のような蒼の翼をはためかせ……。


 五番機ハーベスターが先を行く紋章機を見守っている。
「ハーベスター、私と共に……歩みましょう……」
 その輝きは生命の輝きか、新緑の翼が芽吹く。


 六番機シャープシューターはその行く末を静かに見据える。
「シャープシューター、あなたは私の……魂です!」
 その色は高潔を、その花は謙虚、誠実を体現する花。菫色の翼がその姿を見せる。


 そして四番機ハッピートリガーは……。
「ハッピートリガー、ありがとうよ、あたしに大切なものを守らせてくれて……」
 それは正に天使の翼。白よりもなお白く、純白よりもなお輝かしい。輝白の翼……。
「そして、なによりもフォルテを守ってくれて、ありがとう」
 それは海の深さ、海の広さ、海の優しさ、それは、紺青の翼……。
 二対の翼をその背に煌かせていた。

 


「さあ! 行こうかみんな!!」

 

『了解!!』

 

「さあ行くよハッピートリガー、エンジン全開だ!」

 

 


 六機の紋章機と七色の翼が宇宙を翔けてゆく。
 
 
 
 その羽ばたきは星屑を生み、流星となって駆け巡り、

 

 その軌跡は虹となって七色の橋を架ける。

 

 それは天使達が奏でる夜明けの交響曲。 


 
 それは天使達の唄う未来の歌。

 

 旋律は物語を乗せ響いてゆく。

 

 遠く、遠く、どこまでも……。

 

 

 

 

 そして、天使達の物語は、未だ道程半ば―――。