ブラマンシュ商会トルミナ星系営業部長のコルドン・ブルー・ヴィンセント氏は、結局出世の夢を叶える事は出来なかった。

 

 

 


 ブラマンシュ商会営業部長の職務はその肩書きから想像されるものよりも遥かに多岐に渡る。
 宇宙デパート船の船長兼店長を主として、仕入れ部・販売部・広報部・生産部・流通部からなる各部署の総括もその職務のひとつである。
 当然各部署にも部長の肩書きを持つものがおり、それ以外にも総務部・人事部が存在するが、その職権は営業部長のそれに遠く及ばない。
 この一見奇妙にも見える部長間格差が生まれた要因は、ブラマンシュ商会の成り立ちに由来する。
 現在でこそ皇国最大規模の財閥の中核をなすブラマンシュ商会だが、その出発点においては惑星ブラマンシュを中心とするひとつの商会でしかなかった。部署も現在の様に細分化されておらず、営業部・人事部・総務部が存在するのみだったのだ。
 ブラマンシュ商会が肥大化していく過程において先に挙げた各部署が誕生し、それが営業部の下に置かれるようになった。その名残が部長間格差として現在でも残っているという訳だ。
 だからブラマンシュ商会には同業者がそうであるように星系を総括する、いわゆる星系長なる役職は存在しない。
 それほどまでに重要な役職であるブラマンシュ商会営業部長であるから、当然その任にあたる者は無能ではありえない。トルミナ星系営業部長コルドン・ブルー・ヴィンセントは三十七歳であり、異例の若さとまでは言えないかもしれないが、十分な若さと実力の持ち主である事に疑いは無い。
 彼にとって出世は働く事の目的そのものであり、夢であり生きがいだったのだ。
 その為に彼は利用できるものはなんでも利用した。上司だろうと、部下だろうと、外部の人間だろうと利用価値のある人間は徹底的に利用した。必要であれば幾らでも媚びを売り卑屈になれた。そして利用価値が無くなると容赦なく切り捨てた。
 その結果、彼は現在ブラマンシュ商会営業部長の肩書きを得ている。
 彼は現在の地位を自らの実力と手腕で手に入れたものだと思っていたし、それは紛れも無い事実であったが、その事に満足はしていなかった。
 まだ上がある。まだ上るべき階段がある。
 ヴィンセントにとって営業部長は通過点でしかないはずだった。


 えいっ。
 ぱさ。
 たったったっ。んしょ。
 
 ……えいっ。
 ぱさ。
 たったったっ。んしょ。
 
 …………えいっ。
 ぱさ
 たったったっ。んしょ。
 
 えいっ。
 ぱさ。
 たったったっ。んしょ。


 エオニア戦役において最も被害が大きかったのは、皮肉にも反エオニアの勢力拠点となった第三方面ローム星系付近だった。
 黒き月の攻撃によって惑星そのものが壊滅的なダメージを受けた惑星ロームは言うに及ばず、戦場となった宙域の有人惑星の被害も決して小さなものではい。
 皇国軍には黒き月が持つ無限の生産能力は無く、当然の事ながら戦闘を行うには補給拠点となる場所が必要で、その多くは有人惑星の衛星都市や宇宙港が使われる事になったのだが、戦争が終わった時その機能を果たし得るほどの状態を保っていた場所は極少数であった。
 宇宙港や衛星都市が機能しないと言うのは、星間ネットワークの崩壊を意味する。
 商業や工業を中心として発展してきたある星は食料の自給率が非常に低く、他星からの輸送が途絶えた時に極めて深刻な状況に立たされた。経済の中心であった星はその存在意義を失い、農耕を中心としていた星々ではエネルギーが不足した。
 この様な状況下にあって、エオニア戦役後の皇国の対応は早かった。皇王として即位したシヴァ――後に女皇となる――は、比較的被害の少なかった衛星都市や宇宙港の復旧を第一とし、早急な復興が不可能な星に関しては近隣惑星への一時的な避難を勧めたのだ。
 一時的なものとは言え住み慣れた星からの移動には複雑な思いを抱く者も少なくなかったが、自ら陣頭に立って出来る限りの早期復興に力を注ぐシヴァの姿は多くの国民に好意を持って迎え入れられ、避難は大きな混乱も無く進められた。
 それでも問題は少なからず存在する。中でも重要で深刻なのは人材の不足であり、各地の復興や避難はエオニア戦役において人的被害の大きかった皇国軍のみで行えるものでは無い。
 シヴァはその問題に対して民間からの協力を仰ぐ事で解決を図った。シヴァは既に皇王であり、その気になれば協力ではなく強制も出来たのだがシヴァはそれをしなかった。仮にシヴァが暗愚な暴君であればこの時皇国は崩壊していたかもしれない。トランスバール皇国は過去最悪の危機を迎えたこの時期に過去最良とも言える君主を得たのである。
 ……協力に名乗りを上げた民間組織のひとつにブラマンシュ財閥があった。資金援助・技術支援・人的補助などその規模は極めて大きく、復興の大きな助けとなっている。そしてトルミナ星系営業部長に与えられた役割は、移動商船団を率いてローム星系に向かい人々の避難の手助けを行う事であった。


 えいっ。
 ぱさ。
 たったったっ。んしょ。

 えいっ。 
 ぱさ。
 ………あ。

 船長室を目指して歩いていたヴィンセントの足元に何かが寄って来た。
 視線を落とすとそこには紙飛行機らしきもの。
 身体を屈めて手に取り、辺りを見渡してみるとすぐ傍に持ち主らしき女の子。
 年の頃は六・七歳くらいだろうか、肩で切りそろえた栗色の髪に小さな水色のリボンが飾られている。薄紫色のワンピースと白いスカートが良く似合っていた。
 ヴィンセントは商売柄子供の扱いにも慣れたもので、この時も得意の営業スマイルを少女に向けて紙飛行機らしきものを手渡そうとしたが、
「はい、どうぞ」
 たったったっ。
 少女は背を向けて一目散に逃げ出した。
 ヴィンセントは営業スマイルを崩す事無く再び歩き始める。
 手の中の物をもう一度見てみると、やはりそれは紙飛行機……らしきもの。
 元は白い紙なのだろうが、ホコリで薄汚れている。何度も折り直したためか折り目が幾つもついていて、しかも翼が対称ではなくゆがんでいた。紙飛行機と呼ぶにはあまりにも酷い出来だ。
 これではろくに飛ばない、いやそもそも紙飛行機なのか? そんな風に思える……紙飛行機だった。


 船長室に到着したヴィンセントは紙飛行機をゴミ箱に放り投げ仕事に取り掛かる。
 ヴィンセントが船長兼店長を勤めるデパート・シップは他星に避難する人々を乗せて惑星トルミナに向けて航行中だった。人数は数百人を数え、航行中の収容人数としてはギリギリである。
 ティッシュペーパーから大型ミサイルまで、と品揃えの豊富さを誇るブラマンシュ商会のデパート・シップだったが、当然の事ながら居住には適していない。
 普段は販売品が置かれているブロックから商品や什器を全て撤去し、人々はそこで移動中の生活を営む事となった。生活とは言っても仕切りなどは存在せずプライベートなどは無いに等しいが、少なくとも衣食に関してはある程度の満足があったし、またブラマンシュ商会の活動がボランティアである事を人々も知っていたから、それを不便には思っても不満としてぶつけるような事は無かった。

 ヴィンセントは今後の航路の予定と補給計画に目を通しながら思考を続ける。

 エオニア戦役後、クーデター鎮圧の中心となったのが儀礼艦エルシオールとエンジェル隊であり、そしてエルシオールが新しい皇王シヴァを保護して逃避を続けていた事を知った時、ヴィンセントは驚き、喜んだ。
 戦役時、ヴィンセントは危険である事を承知の上でエルシオールからの補給要請に応えていた。
 エルシオールが惑星ロームまで無事に行き着く事が出来た要因の中で、自分の行った補給は小さなものでは無いはずだ。皇王やエルシオールの司令官、同乗していたブラマンシュ財閥会長の一人娘たちが恩を知る者であるなら、自分の売った恩は安いものでは無い……。
 彼はそう思っていたのだが、結局彼の元には感謝の知らせと、本当に望んでいたそれに伴う昇進の知らせはやって来なかった。
 代わりにやって来たのは現在の仕事を担当する事が書かれた指示書であった。
 もしかしたら。
 補給の際、司令官の若い軍人に賄賂を贈ろうとして固辞されたが、それが失点となってしまったのだろうか。世の中には正義感を持ち出して賄賂を悪だと罵る人間がいるが、冗談では無い。あれは『挨拶』のようなものではないか。そんな事で自分の功績が否定されてしまったのか。
 ……さすがにそれはヴィンセントの考えすぎというものだった。シヴァもエルシオールの人々も恩を忘れてしまった訳では無かったが、単純にそれに報いるよりも先にやるべき事があった。それだけの話だったのだが、彼にとっては投資に見合った回収が出来ていない現状が全てだった。

 そこまで考えてヴィンセントは息を吐いた。
 まあ、過ぎてしまった事は仕方が無い。問題はこれからどうするか、だ。
 自分の今の仕事は人々を無事惑星トルミナへ送り届ける事だ。これは会長から直々に指示のあった仕事だから、優秀な結果を残せば自分にとって大きなプラスとなる。
 そしてその為に必要なのは……人々を『思いやる事』、か。
 ヴィンセントはニヤリと笑った。
 ブラマンシュ商会トルミナ星系営業部長コルドン・ブルー・ヴィンセント、三十七歳独身。出世の為ならば他人を思いやる事に思いを馳せる事の出来る人間だった。

 


 /

 


 毎日艦内時刻1200から1700の間は航行がストップしてアミューズメントブロックが開放され、ほとんどの施設が無料で利用できる。
 ノンストップで惑星トルミナを目指した方が当然到着は早いのだが、移動中の人々のストレス解消を目的とした時間が必要だった事と、多人数を抱え各機関のメンテナンスに普段以上の慎重さと時間が求められる事のふたつの条件が重なった為の措置であり、それを決定したのはヴィンセントだ。
 アミューズメントブロックには映画館・図書館・ゲームセンター・子供用遊戯施設などが立ち並び、移動に疲れた人々の憩いの場となっていた。
 ヴィンセントはその一角に存在する休憩所エリアでアイスコーヒーを飲んでいた。

 えいっ。
 ぱさ。
 たったったっ。んしょ。

 ヴィンセントは必ず休憩をとる主義であった。
 休むべき時に休んでおかないと脳は思考力を失い、身体は健康な状態を損なう。
 本当に優秀なビジネスマンというものは二十四時間戦う様な状況にはならないのだ。
 どんな状況下においても自分のスタイルを崩さない私、なんて格好良いんだ。
 彼はニヤニヤ怪しげな笑みを浮かべながら手に持っていた飲みかけの紙コップを握りつぶし、紙コップをゴミ箱に捨てて背広の内ポケットから取り出したハンカチで手を拭い、自販機から新しくアイスコーヒーを購入すると何事も無かったかの様にベンチに腰を下ろした。
 
 えいっ。
 ぱさ。
 たったったっ。んしょ。

 …………。
 ヴィンセントの視界の端にちょこまかと動くものが映っている。昨日も出会った少女だった。

 えいっ、と紙飛行機を投げて。
 ぱさ、とすぐに墜落して。
 たったったっ。駆け寄って、んしょ。拾う。

 他の子供たちが遊んでいる輪に入るでもなく、たった一人で紙飛行機を投げ続ける少女。
 何度か飛ばしては紙飛行機を開いて、折りなおし、また飛ばし始める。
 そんなに紙飛行機が好きなんだろうか。
 ヴィンセントはしばらく少女を眺めていたが、不思議な事に気がついた。
 何度も、何度も繰り返し紙飛行機を飛ばす少女だが、それをひたすらつまらなさそうに続けているのだ。
 顔には他で遊んでいる子供達の様な笑顔は無く、ぶすっとした仏頂面が浮かんでいる。
 ぱさ。
 何度やっても紙飛行機は飛ばない。それでも少女は諦めない。
 つまらなさそうに紙飛行機を飛ばそうとする少女を、ヴィンセントは気付けば休憩時間中眺めていた。
 だが、結局その日紙飛行機が飛ぶ事は無かった。

 

 
 

 
 
 本日のヴィンセントの昼食はハンバーガーだった。
 彼はチーズが嫌いだったのでチーズバーガーは食べない。さらにピクルスも嫌いなので普通のハンバーガーやビッグバーガーも食べない。彼のチョイスは消去法でテリヤキバーガーだったのだが、食事をとった後になって自分はハンバーガーが好きではない事に気付き、当分ハンバーガーは食べない事にしよう、などと考えながらアミューズメントブロックの休憩所にやって来ていた。

 えいっ。
 ぱさ。
 たったったっ。んしょ。

 アイスコーヒーを購入しようとしたのだが、お気に入りの銘柄のものが売り切れていたので仕方が無くアイスティーを購入し、ベンチに座る。
 ところで、休憩所はヴィンセントが休憩をとっている場所以外にもう一ヶ所ほど存在するが、そちらは販売機の飲み物が無料で提供されており、補充も優先的に行われている。
 これは限りある物資の消費を計画通りにコントロールする為の措置であったのだが、当然の事ながら人々は飲み物が無料の休憩所に流れ、ヴィンセントが使う休憩所は人の姿がまばらであった。

 えいっ。
 ぱさ。
 たったったっ。んしょ。

 …………また、やってる。
 ヴィンセントの視界の隅に紙飛行機を飛ばそうとしている少女。
 昨日と同じ様にたったひとりで。
 昨日と同じ様につまらなさそうに。
 昨日と同じ様に何度も何度も。
 少女は紙飛行機を飛ばし続けている。
 でも、飛ばないのだ。その紙飛行機では飛ばないのだ。
 形がゆがんで、翼も対称についていない様な紙飛行機では飛ばないのだ。
 それでも。
 
 えいっ。
 ぱさ。
 たったったっ。んしょ。

 少女は諦めない。
 そうしていればいつか紙飛行機が飛ぶかのように。
 ヴィンセントはこの日も休憩時間が終わるまで少女を眺めていた。
 けれども、紙飛行機は飛ばなかった。

 

 

 
 
 
 翌日はちょっとした事件が起こった。
 宇宙インフルエンザの病人が出てしまったのだ。それ自体は良くある事なのだが、現在は状況が良くない。
 大勢の人々が共同で生活している為、万が一にも感染を拡大させる訳にはいかなかったのだ。
 医療スタッフによる診察の後、すぐに入院の手続きがとられた。病状が軽いため艦内の施設で十分対応出来るレベルだったのは幸いだった。
 ヴィンセントはスタッフへの指示、人々への状況説明などに忙しく動き回っていたため昼食をとることが出来なかったが、仕事を一段落させるとアミューズメントブロックの休憩所に足を運んだ。
 普段よりずっと遅い時間だったから、あの少女はいないだろうな。そう思ったヴィンセントだったが、私は休憩をとりに行くのであって少女に会いに行く訳ではない、と心の中で自分の考えを否定する。
 果たして、少女は今日もそこにいた。

 
 
 えい。
 ぱさ。
 た……た……た。……んしょ。

 …………。
 ぱさ。
 …………………。

 少女の動きが止まった。
 唇を噛み、うつむいて肩を震わせている。
 ――――泣く。
 それを認識した瞬間ヴィンセントは少女の傍に駆け寄っていた。
「良かったら、紙飛行機の作り方を教えてあげましょうか?」
 声をかけるが、反応が無い。
 数瞬の後少女の視線が上がりヴィンセントと目が合う。目が赤い。
「紙飛行機の作り方を、教えてあげましょうか?」
 もう一度問うと少女は呆けた様な表情を浮かべ、背を向けて一目散に逃げ出した。
 ヴィンセントは落ちている紙飛行機を拾ってベンチに座り直す。
 少女と出会って四日目、紙飛行機を飛ばしている所を眺め始めて三日目、ヴィンセントは休憩をとりながら『紙飛行機の少女』を眺めていた。
 少女はいつもと同じ様にたったひとりで、いつも以上につまらなさそうに紙飛行機を飛ばしていたが、数えるのも馬鹿らしくなる程の繰り返しの末、ついに彼女の動きが止まったのだ。
 状況から判断すると、少女はいつもヴィンセントの休憩が終わった後も紙飛行機を飛ばし続けていたのだろう。そして今日はヴィンセントが来る前からやっていたに違いない。
 ヴィンセントは手の中の紙飛行機を見つめる。
 最初に出会った時に拾った紙飛行機と同じく、薄汚れていて、ゆがんでいた。
 やっぱりこれでは飛ばないだろうな、と思う。
 そんな紙飛行機を、少女はどんな気持ちで飛ばそうとしていたのだろうか。
 どうして飛ばそうとしていたのだろうか。
 少女はもういない。
 飛ばすのを諦めてしまったのだろうか。それとも、明日になればまたひとりぼっちで紙飛行機を飛ばしているのだろうか……。

 ふと気配を感じてヴィンセントは顔を上げた。
 そこにいたのは、ベンチに座ったヴィンセントよりもまだ背の低い少女。
 走ってきたのだろうか、息を切らせている。
 少女は真っ白な紙を両手で突き出して仏頂面で言った。

「…………作り方、教えて」

 


 /

 


 少女が紙コップを両手で持ち上げ、コクコクと喉を鳴らす。
 
 紙飛行機を飛ばし続け、さらに息を切らせるほど走ってきた少女の為にヴィンセントはジュースを買い与える事にした。
「どれを飲みますか?」
 尋ねるが、返事は無い。
 仕方なくオレンジジュースを選ぼうとしたところで少女が小さく、
「すっぱいのは嫌」
 と言うので、ヴィンセントは苦笑して少女を後ろから抱きかかえてボタンを押せる位置まで持ち上げる。
 少女の視線がミルクセーキとアップルジュースを行ったり来たりする。どうやらどちらを飲むかで迷っている様子だ。
 アップルジュースをじーっと見つめ、ミルクセーキをちら。
 じーっ、ちら。じーっ、ちら。じーっ、ちら。じーっ、ちら。
 ヴィンセントの腕が痺れかけてきたところでようやく少女がボタンを押した。
 少女が選んだのはミルクセーキだった。

 やはり喉を乾かせていたのだろう、少女は半分以上を一気に飲んでようやく一息つく。
 そのタイミングを見計らってヴィンセントは尋ねた。
「お名前はなんて言うんですか?」
 子供相手でも敬語は崩さない。
 少女からの返答は無い。もしかして聞こえなかったのか? そう思ってしまう程の沈黙の後反応が返ってくる。
「…………ナナ」
 まだジュースが残っているのですぐに紙飛行機作りを始める訳にもいかず、ヴィンセントは紙飛行機の少女、ナナとの会話を試みた。
「ナナさんは、紙飛行機が好きなんですか?」
 とたんにむっとした表情になるナナ。ヴィンセントの知る彼女の表情は、つまらなさそうな仏頂面と泣き出す寸前の顔と呆けた表情だったが、それに怒った顔が加わった。
「嫌い」
 短く答える。
 ではどうして、と続ける事は出来なかった。
「でも……」
 ヴィンセントは言葉の続きを待ったが、今度はその先が紡ぎ出される事は無かった。
 ナナはむすっとした表情のまま両手でミルクセーキをあおる。小さな顔と大きな紙コップがひどく不釣合いだ。
 ヴィンセントは少し迷ったが笑顔を形作り、言う。
「紙飛行機作り、やりましょうか」
 ナナは紙コップを両膝の上に下ろし、コクリと頷いた。


 ぱた。
 紙が半分に折られる。が、綺麗に半分とはいかなかった。角がぴったりと重なっておらずゆがんでいる。
 ヴィンセントはまず見本をひとつ作った。その時、もしかしたらナナは良く飛ぶ紙飛行機が欲しいのかと考えたのだが、飛ばしてみますか? というヴィンセントの問いかけに対して、ナナはいつもの仏頂面で、
「…………わたしが作る」
 と首を振った。
 そうして紙飛行機の折り方を教え始めたヴィンセントだったが、予想以上の苦戦を強いられていた。
 あるいはナナの作った紙飛行機の出来栄えから想像できた事かもしれないのだが、ナナはそれはもう大変に不器用だった。
 なにしろ紙を半分に折る事からして苦労してしまう有様なのだ。紙飛行機の折り方の前に紙の折り方から教えなければならない。
「こうやって角と角を合わせて折るんですよ」
 そう教えるのだが、どうしても綺麗に合わない。片方の角が合った時でも、折る時にずれてしまって半分にならなかった。
 折っては綺麗に半分にならなかった紙を不機嫌そうに眺め、開き、また角を合わせる。
 一枚目の紙は、結局半分に折る事すら出来なかった。
 それでも二枚目の紙はなんとか半分に折る事に成功した。お世辞にも綺麗に半分とは言えない出来ではあったが……。
「今度はこの折り目に合わせてこうやって折るんです」
 最初に作った紙飛行機を解体して、折り方の実演をする。
 ぱた。
 ナナがその通りに折ろうとするが、折りすぎた。折り目よりかなりはみ出している。
 開いて、もう一度折る。今度は折り方が足りなかった。
「こうやって紙の端の部分と折り目を合わせて折るんですよ」
 ぶすっと頷いて折り目がついてしまった方とは反対側を折る。今度も折り方が足りない。
 二枚目の紙はこの部分から先に進む事は出来なかった。
 三枚目は最初の半分に折るところが上手くいかず、その為目印になるはずの折り目が多数出来てしまい、次の部分であえなく失敗。
 四枚目でようやくこの部分が成功したが、既に随分ゆがんでいる。
 ……ここからが難所だな。ヴィンセントは思った。
「ここをずれない様に押さえながらこうやって……」
 折る。ナナの表情がますます不機嫌になってしまった。
「こうやって、こうです」
 もう一度実演。
「……分かった」
 頷いて自分の紙に挑戦するナナ。
 一度目は押さえる部分が上手くいかずにずれた。二回目は押さえに意識を集中してしまい折り目に沿って折れなかった。三戦目は折り方が足りなかった。四度目、押さえが弱かった上にずれた状態で無理やり折ったから紙が潰れた。
 ナナは何も言わずに五枚目の紙にとりかかる。
 半分に折る。
「…………」
 初めて、綺麗に折れた。
「うまく折れましたね」
 ヴィンセントが言うとナナは視線を紙に落としたままでコクンと頷いた。 
 そうだ。不器用だったとしても、才能が無かったとしても、何度も何度も諦めずに挑戦していれば、努力していれば、実を結ぶ事があるのだ。
 それがたとえ他の誰もが苦も無く出来てしまうような、紙を半分に折る事だったとしても、それは確かにひとつの成果だった。
 それ程までにナナは一生懸命だった。自ら嫌いだと言った紙飛行機作りに一生懸命だったのだ。
 ――――五枚目も難所で返り討ちにされた。

 
 十一枚目を手に取った時、ナナの表情が変わった。
 これまで何度失敗しても不機嫌な顔をするだけで泣き言を言わなかったナナが見せた悲しそうな表情。
 何度失敗しても、頑張り続ければ、いつかなんとかなるかもしれない。でも、頑張りたくてもそれができない場合はどうすればいいのだろう。
 つまり、これが最後の一枚。
 これで失敗したら、もう……。ナナはそう思ったのだろうか、真っ白な紙を前にしてそれを折ることも無く黙ってうつむいている。
 恐らく、と言うよりは間違い無くこのまま挑戦すれば失敗してしまうだろうな、とヴィンセントは思った。
 ナナは頑張った。不器用だったけれど彼女なりに精一杯頑張った。それでも届かなかったのだ。努力が足りなかった、とはヴィンセントには思えなかった。
 ヴィンセントは立ち上がって動かないナナの背後に回って座りなおす。後ろから抱く様にしてナナの手に自分の手を添えた。
「二人で折りましょう」
 ……ヴィンセントの手の甲に雫が落ちる。ポツ、ポツと落ちてくる。
 悔しくないはずがない。悲しくないはずがない。だからヴィンセントは返事を待った。
 名前を聞いた時よりもずっとずっと長い沈黙。

 手の甲の雫が乾ききった頃、
「…………うん」
 ナナがいつもより若干穏やかな、それでもやっぱり不機嫌そうな顔で頷いた。


 ぱた。
 二人で紙を半分に折る。ヴィンセントは力を抜いて手を添え、ずれそうになった時に力を入れてナナの手を導く。
 これまで何度も失敗してきた難所。ヴィンセントが紙を押さえ、ナナが折り目に合わせてゆっくりと折ってゆく。少しずれてしまったけれど、なんとか折る事が出来た。
 反対側も慎重に慎重に折る。折りすぎて紙が少し重なってしまう。ゆっくりとずらして、もう一度折る。
「…………うん」
 ナナが頷く。次いで最初に折った折り目に合わせて半分に折り、翼の部分を作る。
 ここもヴィンセントが紙を押さえて、ナナがゆっくりと折る。ここでは少し折り方が足りなかったからヴィンセントが重なった手に力を込めた。それでもキッチリ綺麗には折れなかった。
 反対側の翼は折りすぎそうになったが、ナナがゆっくりと紙をずらして、端と端がくっつく様に慎重に折る。 
 そして――――

 ―――――――十一枚目の紙は、紙飛行機として完成した。

「出来ましたね」
「……うん」
 二人の手の中にある紙飛行機は、翼が対称ではなくて少しゆがんでいたけれど、これまでナナが作ったどの紙飛行機よりも綺麗に出来ているように見えた。
「さあ、飛ばしてみてください」
 ヴィンセントが促すと紙飛行機を手に持ってナナは立ち上がる。
 毎日毎日飛ばない紙飛行機を飛ばそうとしていたナナ。たったひとりで、つまらなさそうに、それでも諦めなかったナナ。
 ヴィンセントはその姿を思い浮かべた。 
 ナナは何度もそうしてきた様に、紙飛行機を飛ばす。

 えいっ。 
 ――――――――ぱさ。

 ナナから仏頂面が消え、呆けた表情をしている。
 その視線の先には、普段よりもずっと長い距離を飛んで落ちた紙飛行機。
 
 たったったったったったったっ。んしょ。

 駆け寄って、拾って、もう一度投げる。

 えいっ。
 ――――――――ぱさ。
 たったったったったったったっ。んしょ。

 紙飛行機を拾って呆然とするナナ。
「飛びましたね」
 ヴィンセントが声をかけるとこの少女にしては珍しく慌てた様な動きで振り返って答える。
「う、うん」
「良かったですね」
「…………うん」
 ナナが頷いた時、艦内放送がアミューズメントブロックに流れた。

『ヴィンセント店長、ヴィンセント店長、至急ブリッジまでお越しください。ヴィンセント店長、至急ブリッジまでお越しください』

 ヴィンセントは天井を見上げ、次いでナナに微笑みかける。
「呼び出されてしまいました。私は戻らなくてはいけません」
 言って立ち上がり、ナナの頭をそっと撫でた。栗色の髪は柔らかく指の間を流れた。
「……あ」
 ナナが小さく声を上げる。
「それでは」
 歩き始めるが、すぐに呼び止められる。
「あ、あのっ。あの…………ばい、ばい……」
 ナナが小さく手を振った。ヴィンセントも手を振って、今度こそブリッジに向かって歩く。
 紙飛行機を胸に抱いた少女は、その後姿が見えなくなってもその方向を見つめていた。

 
 
  
  

 

 ヴィンセントは昼食をとらずに休憩所にやって来ていた。仕事が忙しくてとる事が出来なかったのではなく、とる時間があったのにも関わらず休憩所に来ることを優先したのだ。
 目的地にたどり着き辺りを見渡すが、いつもそこで紙飛行機を飛ばしている少女の姿は無い。
 ため息を吐いてベンチに座る。
 ヴィンセントはそこにいない少女の事を考える。昨日、なんとか飛ぶ紙飛行機を作る事ができた。少女はそれで満足したのだろうか。
 いや、そもそも私はナナがどうして紙飛行機を飛ばしていたのかさえ知らないのだ。だから今この場にナナがいなかったとしても、その理由など分かるはずが無い……。
 ヴィンセントは自分が落胆している事に気づき、慌ててその思考を否定する。
 私は人々を安全かつ少しでも快適に移動させる事が仕事だからあの少女の事を気にしているにすぎない。そうに決まっている。ナナが満足したのならそれで良いではないか。今更会ったところで話すべきこともやるべきことも無い。
 だって昨日まで一言も会話を交わした事も無かったではないか。人々の中にほんの少しだけ縁があって紙飛行機作りを教えた子供がいた。ただそれだけだ……。
 
 ふと気配を感じて視線を移すと、そこにはスカートと足があった。顔を上げると、栗色の髪の女性がそこにいた。髪の色からも、面影からもあの少女を思い起こさせる女性だ。
「あの……紙飛行機のおじさん、ですか?」
「は?」
 おじさん、と言われた事にびっくりしたのではない。ヴィンセントは三十七歳、十分におじさんである。驚いたのは『紙飛行機の』という形容をされた事だ。ヴィンセントにとってその言葉がつくのは少女であって自分ではない。
「す、すみません。人違いでしたでしょうか?」
 口元に手を当てて顔を赤くする女性。
「あ、いえ。多分そうだと思います。えっと、ナナさんの……?」
 ヴィンセントが立ち上がり言葉を続けると女性は口元の手を胸に移して、息を吐いた。
「はい。ナナの母でエイミーと申します。昨日は娘が大変お世話になりました……」
 深々とお辞儀をするエイミー。
「い、いえとんでも御座いません。私はただ……」
 ただ、何だと言うのだろうか。
 ――――仕事のためだから?
 ――――出世のためだから?
 どちらも違う様に感じた。結局無難な言葉が口から出てくる。
「……当然の事を、しただけですから」
「ブラマンシュ商会の方だったんですね」
「これは申し遅れました。ブラマンシュ商会トルミナ星系営業部長のヴィンセントと申します」
 言って反射的に内ポケットから名刺を取り出して渡してしまう。
 突然出された名刺に驚くでもなく、エイミーは優雅な手つきで受け取った。
 二人は並んでベンチに座る。
「お忙しいでしょうに、本当にありがとうございました。あの子……とっても不器用でしたでしょう?」
「はい……あ、いえいえ、そんな事は無かったですよ」
 慌てて自分の言葉を否定するヴィンセントをエイミーは柔らかな微笑で見つめる。
「ナナさんは、その、確かに紙飛行機作りは嫌いだと仰っていましたが、それはもう一生懸命頑張っていましたから」
「そうですか……」
 七割の嬉しさと三割の悲しみを同居させたような口調と表情でエイミーが頷く。その横顔がやはり母親なのだな、と思わせる程度にナナと重なる。
「ナナは手先を使う事が苦手で、本当は大嫌いなんですよ。かけっこや身体を動かす遊びは大好きで得意なんですけどね」
 そう言って笑うエイミーは自慢の娘を誇る母親そのものだったが、ヴィンセントはそれを不快には思わなかった。
 むしろその話を聞いて納得できた。やはりナナは紙飛行機作りは苦手なのだ、と。
 それならば何故、という疑問が浮かんでくる。ついにナナには訊く事が出来なかった質問だった。
「あの……」
 その先を言葉にするには若干のためらいがあったが、ためらいに勝る何かがヴィンセントを動かした。
「ナナさんはどうして紙飛行機を……?」
 苦手なのに、大嫌いなのに、あれほど一生懸命に。どうして、と思わずにはいられなかった。
 ヴィンセントとエイミーは初対面だ。あるいはぶしつけな質問で、答えが返ってこないかもしれなかったが、それでも答えを知りたいと思ったのだ。
 そしてヴィンセントの行動は彼の望む形で報われる事となる。


「約束、だったんです」
「約束ですか」
「ええ。ナナと私と……軍人だったナナの父との約束です」
 エイミーの口調とその言葉だけで、ある程度の想像がついてしまった。
 何故なら、今はそういう時代だったから。
「あの人が最後に家を出た時、ナナに言ったんです。帰ってきたらお父さんが紙飛行機の折り方を教えてやるぞって。そしたらナナが作った紙飛行機をお母さんが飛ばしてみんなで遊ぼうって」
 それはきっと、どこにでもある平凡な日常で……。
「ナナは折り紙が苦手だったから少し嫌な顔をして、お父さんが教えてあげるから大丈夫だよって言ったらじゃあ約束だねって、三人で指切りをして」
 それは多分――――
「でも、あの人、帰って来なかった」
 ――――決して珍しくないありふれた悲劇。
「あの人が帰って来ない事を知らせる一枚の紙が届いてから、私ずっと塞ぎこんでしまっていたんです」
 だけどそれは、当事者から笑顔を奪ってしまう程には大きな出来事で。
「この船に乗ってからもずっとそんな調子で……お恥かしいんですけれど、ナナが何をしているのかも知らなかったんですよ」
 だからなのだろうか。だから少女は……。
「そうしてたら昨日ナナが、お母さん、紙飛行機作ったから一緒に飛ばそうって、そう言ったんです。子供って親とした約束をちゃんと覚えているんですよね。あの人も私もその約束を守れなかったのに……」
 たったひとりで紙飛行機を飛ばしていたのだろうか。
「ナナの作った紙飛行機を私が飛ばして、お母さん飛んだねってナナが笑って……。私はそれを見て、本当に久しぶりに笑って…………そして、あの子を抱きしめて泣いていました」 
 悲しい気持ちに、負けない為に。


「私、母親失格ですよね」
「え?」
「あの子がそんなに一生懸命になっているのに自分は落ち込んでばかりで……本当は私がしっかりしてナナを慰めてあげなくてはいけなかったのに……」
「いいえ、いいえ、それは違います」
 ヴィンセントは即座に言葉を返す。
「ナナさんは貴女にそんな風に思っては欲しくないはずです。貴女がそんな風に思ってしまったらナナさんがかわいそうではありませんか」
 ずっとナナを見てきたヴィンセントだから、たった数日の間だったけれど少女の一生懸命さを目の当たりにしてきたヴィンセントだから、その言葉には真摯な気持ちが篭っていた。
「だから、頑張ってください」
 頑張れという言葉は残酷だと言う人がいる。
 確かにそうかもしれない。既に十分に苦しんでいる人に対して当事者でもない人間が無責任に頑張れと声をかけたところで、それは何の慰めにも励ましにもならないのかもしれない。
 でも、それでも頑張って欲しいと願う気持ちを持つことは……罪なのだろうか?
「ヴィンセントさん……」
 見つめ合う二人。流れる空気は重いものではなかったが、気恥ずかしさから先に目を離したのはヴィンセントだった。
「す、すみません。変な事を言ってしまいました」
「いいえ、良いんです。ヴィンセントさん、本当にありがとうございました」
 穏やかに微笑んでエイミーが答える。
 ……美しい女性だ、と今更ながらにヴィンセントは気付き、不謹慎だとも思った。自分の気持ちを誤魔化す様に会話を逸らす。
「ところで、今日はナナさんは?」
「もうじき……いえ、まだまだ時間がかかるかもしれませんけれど、ここに来ると思います。あの子ったら私には手伝わせてくれないんですよ」
 言って楽しげに笑うエイミー。ヴィンセントは言葉の意味を理解できずにいた。
「それでヴィンセントさん……よろしかったらなんですけれど、昼食をご一緒にいかがでしょうか?」
「は? わ、私とですか?」
「ええ、ナナが来ましたら、一緒に」
「それはその……よろしいのですか?」
「ナナも喜びますから」
 そう言われては断る理由が無い。いや、理由を考える必要が無い。
「それでしたら、その、喜んでご一緒させて頂きます」
「どうもありがとうございます」
 ヴィンセントが承諾するとエイミーは嬉しそうに頭を下げた。
「いえそんな、こちらこそありがとうございます」
 慌ててヴィンセントも頭を下げる。
 二人して頭を下げあって、顔を見合わせて笑い合ったところで、
「あら、ナナが来たみたいです」
 『紙飛行機の』少女が駆けて来た。
 エイミーが立ち上がり、ヴィンセントも立ち上がる。駆けて来たそのままの勢いでエイミーのスカートにばふっと突っ込むナナ。
 隣に立つヴィンセントと目が合い、
「こんにちは」
「……こんにちは」
 声をかけるとエイミーの後ろに隠れて、少しの間をおいて挨拶を返してきた。
 思えば、ナナと挨拶を交わしたのはこれが初めてである。
「ナナ、出来たの?」
「うん」
「じゃあ、隠れてちゃ駄目じゃない」
「……うん」
 母親に促されておずおずと前に出てくると、ぐいっと両手を揃えて突き出した。
 
 揃えた掌に載っていたのは……水色の紙で作られた紙飛行機だった。

「……昨日は、ありがとう。だから、お礼」
「私に、ですか?」
「……うん」
「ナナさんが作ったんですか?」
「…………うん」
 ナナの掌の上の紙飛行機をそっと持ち上げて見つめる。
 昨日の、今日である。
 ナナは昨日あれだけ苦労して結局ひとりで紙飛行機を作る事が出来なかった少女だ。努力の末に望んだ結末を得る事が出来ずに打ちのめされた少女だ。
 その少女が、お礼、ただそれだけの為にあれからまた努力を重ねたのだ。
 この紙飛行機を作るのにどれほどの失敗を繰り返して、それでも諦めずに作り続けたのだろうか……。
 ナナに視線を移すと、不安そうな面持ちでヴィンセントを見上げていた。
 ヴィンセントは優しく微笑んで右手をナナの頭の上に置く。それはきっと、営業スマイルではない微笑だった。
「どうもありがとうございます。とっても、良く出来ていますよ」
「…………」
 
 そこにあったのは、いつもつまらなさそうに紙飛行機を飛ばしていた少女の……
 不機嫌そうな顔で大嫌いな紙飛行機作りをやり続けていたナナの……
 ヴィンセントが見た、初めての笑顔だった。
 
 それは他のどんな表情よりも少女に似合っていて温かだった。


「じゃあ、行きましょうか」
 エイミーがナナの右手を取る。ナナが何かを言いたそうにヴィンセントを見上げる。
「ええ、今日は私も一緒ですよ」
 言うと、ナナがヴィンセントのズボンをきゅっと握った。
 ヴィンセントはその左手を取り、三人並んで歩き始める。
「ハンバーガーが食べたい」
「あらあら……、ヴィンセントさん、よろしいですか?」
「ええ、私も丁度ハンバーガーを食べたいと思っていたんですよ」

 
 ヴィンセントの右手の中にあるぬくもりと左手の中にある紙飛行機。

 
 その紙飛行機は――――

 
 やっぱり少しゆがんでいて、翼も不恰好だったけれども

 
 見ただけで一生懸命さが分かるような

 
 優しい気持ちが伝わってくるような


 ――――そんな、紙飛行機だった。

 

 

 

 

 


 /

 

 

 

 

 


「仮設住宅が完成していない?」
 惑星トルミナへ到着した一行を待っていたのは意外な知らせだった。
 人々は惑星トルミナに到着した後、仮設住宅で生活を営む予定となっていたのだが、その仮設住宅が完成していないと言うのだ。
 ヴィンセントはすぐに仮設住宅の建設を担当する事になっていたトルミナ星系駐留軍の総司令官に面会を求める連絡を取った。
 この総司令官はエオニア戦役後あらたに赴任してきた貴族出身の軍人で、准将の階級を持っている。
 しかし、ヴィンセントはこの連絡の返事を予想外の長さ待ち続けることになる。
 二日経っても三日経っても返事は来ない。
 その間、ヴィンセントは独自に調査を行っていた。調査で分かった事だが、仮設住宅の建設が遅れている原因は物資の不足にあった。人々の避難はシヴァ皇王の指示で行われている事だったから、物資も当然必要量確保されて送られて来ているはずだが、現実にはその物資はどこかに消えていた。どうやら軍内部で物資の横流しが行われているらしかったが、真相は不明である。
 人々は惑星トルミナ到着後もデパート・シップでの生活を余儀なくされている。さすがに苛立ちから「どうなっているんだ」という声もあがったが、それに対してヴィンセントは黙って頭を下げた。
 面会を求める連絡を取ってから四日目、宿舎などの軍施設の一部が未使用である事が判明した。現在軍人の多くは復興の為に他星系に派遣されているが、それを差し引いても人々が暮らすのに十分な規模の施設が未使用であった。
 ヴィンセントは再び面会を求める連絡と、この未使用の軍施設の人々への開放を求める連絡を送ったが、やはり返事は来ない。
 人々の苛立ちが日に日に高まってゆく。ヴィンセントはその都度「もう少しお待ちください」と説明するのだが、その回数が増えるにしたがって説得力は減り、説明にかかる時間は増えていった。
 エイミーの「ヴィンセントさんのせいではありません」という慰めと、ナナの「……がんばって」という励ましがヴィンセントを奮い立たせていた。
 最初に面会を求める連絡をしてから十二日目、ようやくヴィンセントの元に面会時間を知らせる文書が届けられた。そこに記されていた日付はそれからさらに三日後であった。


「君の意見は良く分かったが、こちらにも色々と都合と言うものがあってだね。すぐにその通りにするという訳にはいかんのだよ」
 言って手にした葉巻の煙をぷかりと吐き出す。
 ようやく総司令官の准将と面会する機会をえたヴィンセントは、仮設住宅の建設が遅れている事、長い移動で人々が疲れている事、軍施設が未使用である事、その軍施設を人々に開放して欲しい事を熱心に語った。
 しかしそれに対する反応は淡白なものだった。興味が無さそうに葉巻をくわえ、明らかに真面目に聞いていない。
 この男は中流貴族出身の軍人で、准将の地位を三十代後半で得ている。エオニア戦役前まで同じ地位にいたルフトは平民出身で五十台である。
「しかし准将……」
 なおも続けようとするヴィンセントを葉巻を持った手で制する。ヴィンセントは不満であったが、続く言葉を飲み込んだ。
「君の意見は分かったと言っただろう。もうこれ以上聞く必要は無い。それはともかく……」
 まだ火を点けたばかりの葉巻をクリスタル製の灰皿に押し付ける。
「君は『挨拶』の仕方も知らんのかね?」
「……は?」
 灰皿の横に置いてあるケースから新しい葉巻を取り出し、火を点けて口にくわえる。
「私は忙しい身でね。『挨拶』も出来ないような人間とはなかなか会う時間をつくれんのだよ。ブラマンシュ商会の営業部長ともなればその程度の社会常識は心得ているものと思っていたのだがね」
 ソファーに深々と身体を沈め、勢い良く煙を吐き出した。
 ヴィンセントは言葉の意味を正確に把握していた。
 つまり、准将が言っている『挨拶』は――――。

 ヴィンセントは頭に血が上る、という感覚を実感していた。
 この男は今がどういう状況か分かっているのか?
 エオニア戦役によって多くの被害が出て、復興に向けて皇国が動き出そうとしているこの時期に。
 住み慣れた星からの避難を余儀なくされた人々が目の前にいるというのに。
 『挨拶』が無かったと言うだけで面会もしようとせず、そして今もまた……。
 ヴィンセントの脳裏にデパート・シップの人々の姿が思い浮かんだ。
 たったひとりで紙飛行機を飛ばしていた少女の姿と、夫を亡くした女性の悲しげな顔を思い浮かべた。
 自分達が辛い立場なのにヴィンセントを励ましてくれた母娘の言葉が浮かんできた。
 そして、エルシオールの司令官に賄賂を贈ろうとしている自分の姿が浮かんできた時、頭に上っていた血は一気に冷却された。
 ヴィンセントはかなりの苦労を要して営業スマイルを顔に張り付かせる。
「こ、これはこれは申し訳ありません。准将のお好みをお伺いしようとするあまりその事をお知らせする事を失念しておりました」
「んー、そうなのかね?」
「はい。絵画などはいかがでございましょうか? ちょうど高名な画家の作品がございますが」
「ほう、絵画かね。私は絵にもうるさいからな、しっかりとした良い品なんだろうね?」
「それはもう素晴らしい作品でございますから、准将にもご満足頂けるものと存じます」
「そうかね、そうかね。いや、君が話のわかる人間で良かったよ」
 満足そうに頷き、葉巻を灰皿に押し付ける准将。
 ヴィンセントは一礼して、
「それでは私は社に戻らせて頂きます。すぐに手配を致しますので……」
 部屋を出て行こうとしたが、礼をしたところで声をかけられた。
「ああ、ヴィンセント君」
「は、何でございましょう?」
「ついでに画商の手配もしておいてくれ。腕の良い画商の、な」
「…………承知致しました」
 今度こそヴィンセントはこの不愉快な空間から解放された。
 デパート・シップに戻ったヴィンセントは、絵画を准将の自宅に届ける手配と、絵画の買い取りを行っている画商を訪問させる為の手続きを行った。


 翌日、軍施設の人々への開放が決定された。

 
 

 

   

 ミント・ブラマンシュはひどく不機嫌であった。
 現在エルシオールはロストテクノロジーの調査のため辺境へと赴いているが、エンジェル隊でそれに同乗しているのは司令官の恋人兼副官であるフォルテ・シュトーレンのみである。
 その他のエンジェル隊メンバーは、復興支援のため皇国の各地へと派遣されていた。
 紋章機自体は大型の戦闘機であるから復興作業に向いているとは言えないが、皇国を救った白き月のエンジェル達の名は軍内部で広く知られており、それは彼女達がそこにいるだけで人々に勇気を与える結果を生み出した。
 復興支援の為に各地を飛び回っていたミントにブラマンシュ商会から面会を求める連絡が来たのは、補給の為に惑星トルミナに到着したその日であった。
 ミントは出来る限り実家やブラマンシュ商会との接触を拒んでいたから、その様な連絡が来るだけでも不愉快な事なのに、さらに彼女を不機嫌にさせたのは送り主の名前だ。
 トルミナ星系営業部長コルドン・ブルー・ヴィンセントはエオニア戦役中、エルシオールがシヴァ皇子を連れてローム星系へと逃避行を続けていた時、その補給に応じた事でミントの記憶に席を確保していた。
 しかし通常であれば好意を持って記憶されてもおかしくはないその名前だったが、ヴィンセントはエルシオールの司令官とミントに面会した際、お近づきのしるしとばかりに司令官に対して賄賂を贈ろうとしたのだ。司令官はそれを謝絶する事でミントの評価を高めたが、ヴィンセントは逆にその評価を地に落としていた。
 そのヴィンセントからの面会希望の連絡であったから、ミントは当然断りを返した。一度目は多忙を理由にしてである。ところがすぐに二度目の連絡が来た。ミントの都合に合わせるからなんとか会って欲しいというのだ。ミントはこれも体調不良を理由に断った。にも関わらず三度目の連絡が来た。丁寧な見舞いの言葉と共にほんの少しの時間でも会って欲しいという連絡が来るに至って、ついにミントが折れて翌日の面会を約束する返事を送ったのだった。

 こちらから出向くというヴィンセントの申し出をミントは断り、宇宙港ではなく惑星トルミナ本土にあるブラマンシュ商会専用港に着陸していたデパート・シップに直接足を運ぶ事にした。
 現在ミントが所属しているのが気心の知れた仲間の多いエルシオールでは無かった為、他の軍人に自分がブラマンシュ商会の人間と接触しているのを見られたく無かったからである。
 
 ミントが応接室に通されると、待ち構えていたヴィンセントは勢い良く頭を下げた。
「これはこれはミントお嬢様、ご多忙の折、またご体調の優れない中わざわざご足労頂きまことに申し訳ございませんでした」
「そうですわね。あまり良い気分ではありませんから、ご用件は簡潔かつ手短にお願いいたしますわ」
 冷ややかに応じたミントにヴィンセントは再び頭を下げる。
「はい、実はミントお嬢様から会長にご進言をお願いしたい事がこざいまして……」
「…………」
 どうせそんな事だろうと思っていた。この営業部長は自分を利用する事しか考えていないのだ。
「お嬢様もご存知の通り、現在私は第三方面復興の為の支援を仰せつかっております」
「…………」
 ミントは皇国軍に所属していたから、ブラマンシュ商会が復興支援を行っている事は知っていたが、ヴィンセントがその担当をしてる事など知らなかった。あえて反論する事はしなかったが。
「それでお恥かしい話なのですが、現在人手と物資が不足している状態なのです。特に医療品と医者の不足は深刻でございます。慣れない環境で体調を崩される人々が後を絶ちませんが、それに対応する医療スタッフがいないのです」
「………………」
「現在医療スタッフ以外の者も総出で対応にあたっておりますが、専門的な事になりますとどうしても限界がございまして……。ブラマンシュ本社からの人材派遣の規模の拡大と時期の前倒しが必要であるかと存じます」
「………………」
「私から本社に進言するのが筋と言うものとは存じますが、それではすぐに派遣が決定するという訳にはまいりません。この様な事にお嬢様のお力をお借りするのは大変失礼とは存じますが、なんとかミントお嬢様の方からお父君にお取り成しをお願いできませんでしょうか」
「………………」
 ヴィンセントは三度深々と頭を下げた。ミントは話の途中から驚いた顔でヴィンセントを見ている。 
 しばらくの沈黙。ミントの反応が全く無い事に気付いたヴィンセントがゆっくりと頭を上げる。
「……ミントお嬢様?」
「はっ、え、ええ聞いておりますわ」
 慌てた様に返事をするミント。
「あの……ヴィンセントさん」
「はい」
「ご用件はそれだけですの?」
「はい、左様でございます」
 ミントはテレパシー能力の保持者である。世の中に嘘や欺瞞が満ちている事を身をもって知っているミントだったが、この時の意外すぎるヴィンセントからの申し出が本心からのものかどうかは判断がつかなかった。
 だから、普段その様な目的で使う事の少ないテレパシーを使ってヴィンセントの心を覗こうとした。覗こうとしたのだが……結局テレパシーを使うことはしなかった。
 どうしてだか、テレパシーを使って今のヴィンセントの心を覗く事に抵抗を感じたからだった。それはミント自身が彼の言葉を信じたいと思ったからかも知れなかったが、自覚するにはその気持ちが漠然としすぎていたから、今のミントには掴む事が出来なかったのだ。
「ヴィンセントさん、承知いたしましたわ。早速今夜にでも連絡を取ってみることにいたします」
「お嬢様……ありがとうございます!」
 言ってまたしても頭を下げるヴィンセントに、ミントは声をかける。
「さあ、ヴィンセントさん、参りましょうか。案内してくださいませ」
「……は?」
「お仕事をお手伝いいたしますわ。人手は幾らあっても足りないのでしょう?」
「は、はい。しかし、よろしいので……?」
 その質問に答えずミントはさっさと歩き出してしまう。慌ててその後を追うヴィンセント。
「…………ちょっとしたお詫びですわ」
 その呟きは小さなものだったから、すぐに空気に溶けて消えてしまい、ミント以外に聞いた者はいなかった。


 その日の夜、ミントは久しぶりに父親との会話を持った。
 ダルノーはミントの体調を気遣う言葉をいくつかかけたものの、ミントが事前に覚悟していた実家に戻って来いといった類の言葉がその口から出てくる事は無かった。 
  


   
 
  
 
  
   
 デパート・シップの船長室にある通信機のモニターにブラマンシュ商会会長ダルノー・ブラマンシュの姿が映し出されている。
「なるほど、そう言う事ならすぐにでも本社から人員を派遣しよう」
「会長、どうもありがとうございます」
「しかしそれにしても、皇国軍の腐敗ぶりは呆れるほどだな」
 モニター越しにダルノーがため息を吐く。
 人員はともかく、物資の不足は皇国軍内部での横流しが大きな原因となっていた。
 集められた物資を裏で闇業者に売りさばく軍人が少なく無いのだ。集められた物資が必要としている人々の元に届かない……そんな理不尽が横行しているのが現状だ。
 復興が軌道に乗り出した最近になってようやくシヴァ皇王の手で軍紀の粛正が行われたが、それによって明らかになった不正の数々は人々を失望させた。
「時にヴィンセント君、君はエオニア戦役時にエルシオールに対して補給活動を行ってくれたそうだね」
「はい、エルシオールにはミントお嬢様が乗っておられましたので……」
「娘が君に対して感謝の言葉を述べておった。私からも礼をさせて貰おう」
「い、いえとんでもございません。私はただ……当然の事をしただけでございますから」
 通信機横のプリンターから一枚の紙が印刷されてくる。
 紙を手に取り、内容に目を通したヴィンセントは目を見開いた。
「差し当たって本社に営業部総括のポストを用意させてもらった。君には本社でその手腕を存分に振るってもらいたいのだ」
 それは昇進の辞令書であった。ヴィンセントが望んでいたその連絡。
 彼の目の前に昇進への道が拓かれていた。
 彼の目の前には夢への架け橋があった。
 彼の、目の前には…………。
「…………会長」
 ヴィンセントはモニターを見据え、言葉を続ける。
「私などに分不相応な評価を下さり、まことにありがとうございます。しかしながら、今の私はトルミナ星系営業部長というすでに過分な地位を頂いております。その地位に見合った仕事も満足に出来てはおりません。どうか私が営業部長として今後も仕事をする事をご容赦ください」
「すると君は昇進を固辞する、と言うのかね?」
「申し訳ありません」
 ヴィンセントは背筋を伸ばし、ゆっくりと頭を下げた。
「ふむ、君がそう言うのであれば強制はするまい。だが辞令書は君に預けておこう。気が変わったらいつでも申し出てくれたまえ」
 ダルノーのその言葉を最後に、通信が切られた。


 

 

 

 ヴィンセントは通信を終えると、デパート・シップのオープンエリアに足を運んだ。
 アミューズメントブロックから出る事ができるその場所は、空気や風を直接感じる事が出来る。航行中や宇宙空間では当然閉鎖されているが、地表での営業を行う時は開放されてオープンカフェや展望台として使われている。
 現在ブラマンシュ商会専用港に停泊中のデパート・シップは営業をしていなかったから、辺りに人影は無い。
 一歩外に出ると柔らかな風がヴィンセントを撫でる。天気は快晴だった。雲ひとつ無い空というのは実際には滅多に無いことだったが、この日はまさにその雲ひとつ無い蒼天が広がっている。
 濃いブルーの空は全ての音を吸い込んでいるかのようで、風が運んでくるかすかな喧騒すら耳には届かない。
 
 蒼い静寂の中、ヴィンセントは辞令書に目を落とす。
 彼の働く目的であり、生きがいであり、夢だったもの。
 ヴィンセントはゆっくりとそれを半分に折った。
 開いて、また折る。

 ぱた……

 ぱた……

 ぱた……

 ぱた……

 ぱた……

 ヴィンセントの手の中に紙飛行機が生まれる。
 
 あの少女がしていた様に、振りかぶって、投げる。
 
 す、と紙飛行機が手から離れる。
 
 すぐに落ちると思っていたそれは、ヴィンセントの予想に反して、風に乗った。

 

 蒼い空に吸い込まれる様に舞い上がってゆく紙飛行機。

 


 
 


 

 

 ヴィンセントの夢を乗せた紙飛行機が飛んでゆく

 

 

 

 

 


 風に乗って、どこまでも高く、遠く、飛んでゆく

 

 

 

 
     

 

 

 その行く先を見届ける事無く、ヴィンセントは背を向けて歩き始めた――――――。