料理は芸術だと誰かが言った。
 美しく盛り付けられた彩りは絵画のようで、口にしたときの感動は小説や映画にだって負けていない。
 
「A定食四丁でーす!!」
「はいよー!」

 この日、エルシオールの厨房は久方ぶりのにぎわいを取り戻していた。
 白き月の直轄におかれていた儀礼艦エルシールは、廃太子エオニアがクーデターによってトランスバール本星を制圧した際、白き月にいた為難を逃れて皇族唯一の生き残りとなったシヴァ皇子を連れて第三方面ローム星系に向けて逃避行を続けている。 
 クーデターが突発的だった事に加え、エオニア軍の侵攻は早くエルシオールの逃避行は孤立無援となり、補給活動すらままならない状況に追い込まれた。
 食料品などの物資は不足し、使用制限が加えられる事となったのはやむをえない措置であっただろう。
 トランスバール本星出立以降エルシオールを悩ませ続けたその問題は、ブラマンシュ商会から補給を得る機会に恵まれた事で解消された。
 ここ数日は文字通り火の消えたような状態であった厨房にもようやく活気が戻ってきたのだ。

 次々と注文が舞い込んでくる。
 注文を伝える声、野菜をリズム良く切る軽快な包丁の音、熱を持ったフライパンに肉が落とされる音、様々な音が厨房に溢れている。
 その様子はさながら主旋律の無い音楽のようで、けれども聴く者の心を沸き立たせた。

「つぎー、ハンバーグ定食三丁!」
「はいよー!!」

 誰よりも大きな声で答えてフライパンに油を流し冷蔵庫からハンバーグを取り出したのは、恰幅の良い体格に真っ白なエプロンをつけた中年の女性だ。
 フライパンが温まってきたところでハンバーグをプランパンに入れる。ジュウ、と小気味の良い音と煙を立てながら油がフライパンの上で輪舞を踊る。
 この女性の肩書きは儀礼艦エルシオール調理主任となっているのだが、主任と呼ぶのは同僚のコック達だけである。その他の乗組員は気さくで面倒見の良いこの女性の事を、親しみを込めて「食堂のおばちゃん」と呼んだ。
 片側に火が通ると、ひっくり返して赤ワインを振りかける。染み出した肉汁との香りのデュエットが鼻腔を優しくくすぐった。
 フライパンに蓋をしておばちゃんが食堂に目を向けると整備班班長のクレータと、同じく整備班所属の二人の女性乗組員が見えた。
 ご飯茶碗を取りに食器棚へと移動し、定食用の茶碗の横に置いてあった一回り大きい茶碗をみっつ手に取る。
 大きい茶碗にご飯をよそってトレーにセッティング。フライパンの元へ戻り蓋を取ると、閉じ込められていた音と香りが一気に飛び出す。ハンバーグの表面を指で押さえると張りのある弾力が指を押し返してきた。頃合である。
 ハンバーグを皿に盛り付けて、フライパンにたまった肉汁に特製ソースをからめてワインをほんの少量。軽く火にかけてハンバーグの上にトロリとかける。付け合せのポテトとキャロットスティックを添えると、皿の上で熱と彩りと香りが三重奏を奏でた。
 トレーには既にスープとサラダがセッティングされていた。主役のハンバーグを乗せて、エルシオール食堂特製ハンバーグ定食の出来上がりである。

「はいよ、ハンバーグ定食みっつ、お待ちどう」
 クレータたち三人にトレーを渡す。
「あー、それと間違えて大きい茶碗にご飯をよそっちまってねえ。良かったら食べてくれない?」
 三人は顔を見合わせて、照れ笑いを浮かべた。
「あ、じゃあ頂きますね」
 三人を代表してクレータが言うと、他の二人もトレーを受け取っておばちゃんに礼を言う。
「頂きます。おばちゃん、どうもありがとう」
 トレーを持って席に歩いて行く後ろ姿をおばちゃんは満足そうに眺める。
 少し想像力を働かせれば分かる事だが、整備は非常に体力を使う仕事だ。技術職の多い月の巫女たちの中にあって、肉体労働とも言える仕事なのだ。
 肉体労働をすれば、当然お腹も空く。食料の消費制限が行われていた時ならともかく、それが解消されたのだから沢山食べたいと思うのが人情というものだ。体重だって気になるけれど、食べなくちゃ力だって出ない。腹が減っては戦は出来ぬと言うではないか。しかも今はその戦真っ只中である。
 けれども月の巫女の大半は妙齢の女性であり、整備班のメンバーも例外ではない。
 つまり、言い難いのだ。「大盛りでお願いします」と言えないのだ。


「おばちゃん! スープカレーのランファスペシャル! 大盛りでね!!」
 ……中にはこういう女性もいるが。
「はいよ、とびっきり美味しいのを作るからね」
 パチリと似合わないウインクをして厨房に戻って行く。
 ランファスペシャル。エルシオールにおいて唯一それを食する事が出来る者の名前を冠したこのメニューは、ベースとなる料理に通常の数百倍以上の辛さを加えたのもだ。
 カレーライスやラーメンなど複数のメニューがランファスペシャル対応となっており、蘭花は三日に一回は通常のメニューではなくランファスペシャルを頼んでいる。ここのところは補給が無かったのでずっとご無沙汰だったから、久しぶりのランファスペシャルである。
 蘭花が美味しそうに食べる姿を見て、何人もの乗組員がこのランファスペシャルに挑戦してきたが、その結果は数多の屍が山となるだけであった。
「飲み込もうとすると食道が焼けそうになる」
「三途の川が見えた」
 などが挑戦者の感想である。
 おばちゃんはスープカレーを小鍋に取り分けスパイスの分量を量りながら、ランファスペシャルを食べる時に彼女が見せる嬉しそうな顔を思い出す。他の者にはただの辛いメニューにしか見えないが、おばちゃんが作る料理なのだ。辛い中にもしっかりとした味付けがなされている。
 それは、辛くて深い味だった。

 

 
  


 まだ蘭花がおばちゃんに対して敬語を使っていた頃……。

 

 

 

 初めてその注文を受けた時、罰ゲームか何かに使われてしまうのかと思った。
 なにしろ口に入れるだけでも苦労してしまう程の辛さなのだ。
 おばちゃんは作った料理は楽しく食べて欲しいと思っていたから、楽しく食べてもらえるのなら大食いや早食い大会も悪くはないと思っていたし、実際過去に何度か大会用料理を作ったこともあったが、さすがに食べられない料理を作る事にはちょっとした抵抗があった。
 ところが蘭花は常人では食べることすらままならないその料理をそれはもう美味しそうに食べたのだ。
「こんな美味しい激辛料理を食べたのは初めてです」
 とまで言われて料理人が嬉しくないはずがない。
 美味しそうに嬉しそうに食べてもらえるランファスペシャルを作る事が密かな楽しみになるまでに長い時間は必要なかった。
 
 おばちゃんの食事の時間が蘭花のそれと重なって一緒に食事を取った時の事である。
「美味しいかい?」
「ええ、それはもう! おばちゃんの作るランファスペシャルはもう絶品ですよ!」
 きのこパスタのランファスペシャルを頬張りながら答える。おばちゃんが食べているのは普通のきのこパスタだ。
「本当に美味しそうに食べるねぇ。辛くはないのかい?」
 自らが作ったとはいえ、いやだからこそその辛さを十分に知っているおばちゃんからすれば当然の疑問かもしれない。
「そりゃ、辛いですよ。でもこの辛さが美味しいんですよー。あとは慣れですね」
 フォークにパスタを巻きつけ先端にきのこを突き刺して口に運びながら蘭花が答える。
「慣れかい?」
「ええ、アタシは辛いものを食べ慣れてましたから」
「へえ、そうなのかい?」
 おばちゃんの表情を見て蘭花がしまった、という顔になる。
「蘭花ちゃんがどうして激辛料理が好きになったか、興味があるねえ」
「そ、そんなに面白い話じゃないですよ?」
「良いから良いから。話してごらんよ」
 にこにこと笑みを浮かべるおばちゃんを目の前にして蘭花は苦笑する。こうなってしまっては我を押し通す事は出来ない蘭花である。彼女は一見我が道を行くタイプに見られる事が多いが、これで結構気を使っているのだ。
「え、えーっとですね。アタシん家って大家族で、弟達やなんかはいつも玩具とかお菓子の取り合いをしてたんですよ」
「ふんふん」
「ご飯時なんてそれはもう大変で。好きなおかずだったりした時はもう戦場ですよ。好きなものを最後までとっておこうとしたら絶対に食べられちゃいますからね。真っ先に食べて他のお皿に箸を伸ばすんですよねー」
 最初は渋りながら話し始めた蘭花もすぐに饒舌になる。おばちゃんはそんな蘭花を目を細めて見ていた。
「最後には必ず喧嘩になっちゃって、とられたお皿にソースを山ほどかけたり醤油を流し込んだり、からしまみれにしたり。自分達でそうしちゃったのに食べられなくしてから泣くんですよね」
 溢れんばかりの笑顔で続ける蘭花。
「そうなっちゃったらアタシが自分のと交換するんですよ。姉ちゃん辛いのが好きだから交換してあげる、だからもう喧嘩したらダメだよって。もう本当に困った弟達で…………」
 そこまで言って、おばちゃんの視線に気づく。
「蘭花ちゃんは優しいお姉ちゃんなんだね」
「やっ、えっ、そっ、そんなんじゃないですよ! アタシはただ……そう、勿体無いから食べてただけでそんな優しいとかじゃっ」
 きのこパスタを大量に口に放り込んで、さすがに辛かったからむせて、水を一気に飲んで目の端にたまった涙をこする蘭花を見て、おばちゃんはさらに目を細めるのだった。

 

 

 

 この出来事以降蘭花はおばちゃんに対して敬語を使わなくなったが、些細な変化だったので当事者二人以外にその違いに気づいた者はいなかった。

 

 

 

「はい、スープカレーランファスペシャルお待ちどう」
「きたきた、おばちゃん、いっただっきまーす!」
 真っ赤に染まった見るからに辛そうなスープカレーの載ったトレーを持って蘭花は嬉しそうに席に歩いていった。
 横合いから声がかかる。
「こんにちは」
 視線を移すとそこには軍艦には相応しくないが儀礼艦にはこの上なく相応しい佇まいの女性。
 シヴァ皇子の侍女の女性であった。
「皇子が『おばちゃん特製オニギリ』をご所望です。作って頂けますか?」
 おばちゃんは破顔して握り拳を胸にあてた。
「もちろん。ちょっと待ってておくれ」
 
 ボウルにご飯を取り分けて塩を振る。振りすぎるとご飯の甘みが消えてしまうし身体にも良くないのでさじ加減が大事だ。
 宇宙たくあんを包丁で刻み、醤油をたらしたカツオブシを混ぜる。それを中心にいれて綺麗な三角形になるように、力を入れすぎると口に入れた時に柔らかくほぐれないから、優しく握る。 
 続いては鮭の出番である。焼いた鮭の身を手でほぐして、ご飯に混ぜる。これを握るとピンクの彩りが美しいオニギリが出来上がるのだ。
 シヴァ皇子の年齢を考えて少し小さめに作るのを忘れない。

 

 

 

 ――――ブラマンシュ商会の補給から遡る事数日前の夜半。

 

 


   
 翌日の仕込みの為一人厨房に残っていたおばちゃんは料理受け渡し場所の向こう側から妙な気配を感じていた。
 こちらをこそこそと伺うようにしている。おばちゃんがそちらの方を向くと、急いで隠れましたよと言わんばかりの勢いで頭が消える。
 つかつかとカウンターに歩み寄ってひょいと覗き込むと、目が合った。
 しばらくぽかんと見詰め合う二人。
 子供、であった。エルシオールには数多くの乗組員がいるが、子供の乗組員はただ一人。
 トランスバール皇国第一王位継承者たるシヴァ皇子である。
 シヴァ皇子がエルシオールに乗っている事は最重要機密であったから乗組員全員に公表されているわけではない。それでも艦内の雰囲気から皆それを薄々は察していた。
 おばちゃんも艦内の噂と、服装や雰囲気から目の前の子供がやんごとなき身分の方である事を理解した。
「どうしたんだい?」
 であるにも関わらずごく普通の口調で話しかけるのは、多くの人が認めるおばちゃんの長所であり、ごく稀には短所となりうる性格であった。
「別に。ただ艦内を散歩していただけだ」
 立ち上がり、ついっと視線を背けて言うシヴァだったが、次の瞬間きゅぅーと可愛らしい音でお腹が鳴った。
「なんだ、お腹が空いてるのかい?」
「べっ、別に空腹など感じてはいない!」
「すぐにオニギリでも作ってあげるよ」
 保温器に入っていたご飯をボウルに取り出そうとたおばちゃんをシヴァが止める。
「今は食料品が不足しているのではなかったのか?」
「そうだね。だけど一人分くらいは何とかなるさ」
 シヴァの制止を聞かずにおばちゃんはご飯をしゃもじでかき混ぜた。
「皆が飢えて我慢しているのに私だけが食べる訳にはいかない。私は食べないぞ!」
 そう、シヴァはこういう性格なのだ。タクトが不足は無いかと聞きに来た時、侍女は大丈夫だと答えていたが、実際にはシヴァも自分の意思で食事の量を減らしていた。シヴァとの付き合いが短いタクトはそこまで気が回らなかったのだ。
 ご飯に塩を振りながら言う。
「子供が遠慮なんかするんじゃないの」
 その言葉の爪が怒りの琴線を軽く弾く。
「私は子供ではないッ!!」
 激昂したシヴァを一瞬驚いた顔で見たおばちゃんだったが、すぐに微笑んで続ける。
「子供だよ。あたしにとっちゃあ、料理を食べてくれる人は全員子供みたいなもんだからね。ミルフィーちゃんや蘭花ちゃん、新しく来た司令官さんもみんな子供だよ」
 その答えはおよそ考えられるものの中でも最良の部類に入る答えだった。怒りに傾いていた感情の秤の反対側に重しが加えられる。
 そうか、エンジェル隊の皆やマイヤーズでも子供なのか。そういう意味か。まあそう言う事なら私も子供になるのかもしれないな……。
「だから遠慮なんかしないで、ほらそっちから入っておいで」
 今度は素直に厨房の中に入るシヴァ。
 差し出された小さな丸椅子に座ってオニギリが出来上がるのを待つ。
「はい、お待たせ。何にも具の入ってないオニギリだけどね」
 皿に載った小さなふたつのオニギリを手渡される。
 少しためらいを見せた後ひとつを手に取って、パクリ。
 人気の無い厨房で、背もたれの無い丸椅子に座って、具の無いオニギリを食べる。何もかもがシヴァにとって初めての経験だった。
「美味しいかい?」
「……美味しい」
 そのオニギリは何の変哲も無いものだったのに、暖かな優しい味がした。
 ひとつめを平らげ、ふたつめのオニギリに手を伸ばす。
「子供はね、いっぱい食べないと大きくなれないんだよ。早く大きくなりたかったら、先ずは沢山食べる事さ。それと、食べ過ぎない事。お腹を空かせてたり無理をして食べたりしたんじゃ大きくはなれないからね」
 食べるのを止めて、ポツリと呟く。
「私は、子供なのだな……」
 おばちゃんは答えず、ただ微笑むだけだった。

 オニギリを全て胃の中に収めて立ち上がる。
「馳走になった。またいつかそなたの作った料理を食べたいものだな」
「その時はちゃんとした具の入った『おばちゃん特製オニギリ』を嬢ちゃんの為に腕によりをかけて作ってあげるからね」
「わっ、私は女ではないっ」
「おや、そうなのかい? 綺麗な顔をしてるからてっきり女の子かと思ったよ」
 顔を赤くしたシヴァを見て、おばちゃんは朗らかに笑った。

 

 

 後にシヴァは、この出来事とタクトに初めて出会った時の事を次のように語っている。


「マイヤーズは、私を子供扱いしない事で私の考えの至らなさに気づかせてくれた。食堂のおばちゃんは、私を子供扱いする事で私の未熟さを教えてくれた」  
 

 

 

 

「はい、おばちゃん特製オニギリお待たせ」
 海苔の巻かれたオニギリと、鮭の身でピンクに染まっているオニギリ、そして具の無い真っ白なオニギリが皿に並んでいる。
「どうもありがとうございます。それと、皇子からの伝言です。感想は必ず会って伝える、すぐに言えぬ事を許して欲しい、との事です」
 おばちゃんは満面の笑顔で大きく頷いた。


「しゅにーん!! 次チャーハン二丁をお願いしますー!!」

 お腹を空かせてやってくる乗組員がいる限りおばちゃんの仕事は終わらない。

「はいよー!!」

 


 

 

 鍋とお玉が重なり合い、カーン、と乾いた音を響かせた。