心を映し出す唯一の鏡――――それは書道。

 

 

そこには化粧などというものは存在しない。ごまかしは効かない。

 

 

「すぅ〜〜〜はぁ〜〜」

 

 

深呼吸をして雑念を消し去る。

 

 

シュッ

 

 

私は筆をとった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恋の正鵠

第四矢『想い風』

 

 

 

 

 

 

スーーーーッ

 

 

急用ができたというのは、本当は嘘。

 

少し距離を取りたくなって……だからそのための口実。

 

揺らぎすぎて、今にも崩れ落ちそうなこの気持ちに整理をつけたかった。

 

何故私はあの人が好きなのか?今更そんなことを疑問に思ってしまった私自身と真正面から向き合う時間が欲しくて…。

 

そのためには、まずあの人から離れなければならない。そう感じてすぐに行動に起こした。

 

私は今、実家にいる。

 

 

ーーーーッ、シュッ

 

 

恋とは不可思議だ。全く理解し難い。

 

傍にいるのに……鼓動が高鳴るのに…背伸びしてもあなたに追いつくことはなくて、力の限り手を前に出してもかすりもしない…。

 

悲愴感がつのるばかりなのは、きっとわたしが臆病すぎるから…。

 

スイーーーー スイーーーー  ピタッ

 

「ふぅっ………」

 

見えた……私の心の姿……。

 

汚い文字――――のようなもの。これが、今の私。こんなの、誰にも見せられないよ…。

 

 

まだ落ち着いてない。と言っても、それは至極当たり前のこと。

 

少し前に帰ってきたばっかりで、まだ何もしていなかったわけだし…。

 

でも、普段通りに書けていたとしても、その文字を人に見せるのは少し恥ずかしい。

 

ただ筆に随い、記したのは“恋”の一文字。

 

今の私の、唯一にして全て。

 

「ちとせ、入るよ」

 

そんな時不意に隣の部屋から声がした。私は慌てて清書した和紙を隠す。

 

ガラッ

 

「お婆様……」

 

「久しぶりに孫が帰ってきたんじゃ、いろいろと話がしたくなってのう……」

 

開けられた襖から入ってきたのは、私の祖母だった。緑茶の入った湯飲み茶碗が二つ乗った盆を持っていた。

 

祖母は私の傍まで来ると腰を下ろし、私にそれを一つ差し出す。

 

「………………」

 

「どうした、飲まないのかい?」

 

「え?いえ、飲みます……」

 

昔から、お茶を渡していたのは私の方だったから、少し戸惑っていたのかもしれない…。

 

声をかけられて前に置かれたそれを手に取る。

 

 

 

ズゥーーーー

 

 

 

「ふう……とても美味しかったです…」

 

「そうかい……ところで……」

 

私が飲み終わっても自分のには手をつけないで、祖母はじっと私を見つめていた。何かを探るような目で、じっと。

 

私の顔に何か付いているのだろうか、そう思ったとき。

 

「ちとせ…あんた、何か悩んでいるね?」

 

「えっ?」

 

口を開いて何を言うかと思ったらいきなりそんな……返答に困って固まってしまう私。

 

「ずばり、恋の悩みだね…?」

 

しかしそんな私の気持ちなど全く知らないといった風で祖母は続けた。

 

「!?…どうして……」

 

見事に言い当てられてしまった。どうして?顔には出さないようにしていたのに……。

 

いや、そうじゃない。もしいかにも悩みを抱え込んでいるような顔を少しでもしていたとして、どうしてそこから恋だなんて……。

 

知らず知らずに口元に手を当てて考え込んでしまう私。そんな私の様子を見て、祖母が微笑する。

 

「ほほほ、どうやら図星のようだね。何故分かったか教えてやろうか?」

 

「は、はい…お願いします…」

 

 

 

 

 

 

理由は単純だった。それがあまりにも単純すぎて理由になっているのかも疑問だったけど。

 

「…“恋する乙女”の顔になっておるよ」

 

「……は、はい?」

 

一瞬意味が理解できなかった。けど、なんだか凄く恥ずかしい…。

 

顔が火照っているのが自分でもよく分かった。思わず視線を逸らしてしまう。言われたことが、それほど恥ずかしかった。

 

 

「しかし成就してないね…。そんな顔もしとるよ…」

 

凄い…まさにそのとおり、祖母の言っているとおりだった。きっとこの方なら…私の悩みを解決してくれるかも……。

 

「あ、あの……お婆様に、一つ聞きたいことがあるんですけど…」

 

逸らした視線を元に戻して、しっかりと見つめて……

 

「ん?なんだい?」

 

「お婆様は…その…どのような恋をされていたんですか!?」

 

言い切った。静かに答えを待つ…。

 

「私の恋か……ん……そうだね……詳しいところまではもう覚えてないけど…」

 

 

 

 

 

答えは冷たいもの…。

 

「お前のような、臆病な恋はしてなかったよ……」

 

「……そう……ですか……」

 

「何一つ見返りなど求めず…言葉にせずとも通じ合っていた……」

 

言葉にせずとも通じ合う……私達はどうだったか…いや、考えるまでもない……わよね…。

 

そんな深いところまで進んでいたら、わざわざ離れる必要なんてなかったわけだし…。

 

 

「ちとせ…肝心なところでお前はいつも弱いね…。待つだけの恋なんて、もう恋なんかじゃないよ。ただのわがままさ…」

 

分かっています…大事な場面でいつも引いてしまうこの性格…よく言えば控えめ、悪く言えば消極的…。

 

だから……そんな自分を少しでも変えたくて、自分を見つめ直したくて…ここに戻ってきたんです……!

 

 

 

黙りこくって下を向いてしまった私を見る祖母の視線が痛かった…。

 

 

「……!書道か…それも久しぶりだね…何を書いたのか見せておくれよ」

 

しかしふとそれを感じなくなった。と思ったら、どうやらそっちの方に目線を向けたみたいだった。

 

「……いえ……とても人に見せられるようなものでは…」

 

顔はそのままにして言う。

 

「うん……そうかもしれないね…字は心、心は字。今のお前を見れば大体分かるさ……」

 

「………………」

 

それも全て知っている上で頼むなんて……ちょっと意地悪ですよ……。

 

「ふう…今日はこんなにも天気が良い、少し散歩にでも行っておいで。屋内でずっと考えているよりは、ずっとましじゃろう……」

 

祖母はわずかに光を取り込んだ障子と、開いたそれの隙間から差し込む陽光をチラッと見て言う。

 

確かに…そうかもね。そっちの方がずっと健康的だし。

 

「ありがとうございます。では少し外に行って参ります…」

 

私はゆっくりと立ち上がって、祖母に感謝の意を込めてお辞儀をした。

 

「ああ、行っておいで」

 

祖母は笑っていた。私はすぐに部屋を出た。

 

 

 

 

 

「やれやれ」

 

 

ズゥーーーーー

 

 

「ほっ。まだまだ未熟じゃの…ちとせ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暑くもなく、涼しいというわけでもなく、ぽかぽかとした暖かい陽気が心地良い。

 

それは雲ひとつなく、降り注ぐような青さで見上げる者の心を奪う。

 

それのおかげか、いくらか気分も晴れてきた。素直に言うことを聞いておいて正解だったかな。

 

 

久しぶりの散歩。些細な変化すらない故郷の町並みには、包み込むような優しさが感じられた。

 

そしてふと想い人のことを思う。今頃はどうしているのかと。今は傍にいない私のことをどう思っているのかと。

 

そんなことを考えながら歩いていると、心なしか周りの景色も少し変わって見えた。

 

空しくは映らない。自分の育った場所だもの。けど、どこか変わって見えた。

 

 

トコ トコ トコ

 

歩みは止めない。思考も止まってしまう気がするから。

 

ただ父に似ていたから好きになったんじゃない。そんな簡単に人を好きにはなれない。私は彼のどこが…。

 

トコ トコ トコ トコ トコ トコ

 

トコ トコ トコ トコ トコ トコ

 

 

 

「……あっ」

 

意識せず、ただ足の赴くままに動いていた私は、思わず歩みを止めてしまった。

 

ここは……今は春だったんだ……。それを見て初めて気付いた。

 

「桜…」

 

目の前には小さな公園…そこに一本桜の木が立っていた。

 

満開の後の、ゆっくりと、少しずつ散ってゆく、見ていて淋しい姿でそこに立っていた。

 

「……儚い……」

 

もし、この想いが咲き誇ることなく散りゆくのだとしたら……。

 

でも…それなら、この桜よりは悲しくはないのかもしれない……。

 

刹那に輝き、刹那に消える夢を見るくらいなら…せめて咲かずに枯れたほうが…。

 

 

フゥーーーーー

 

 

後ろから風が吹いた。

 

地に落ちようとする花びらを、もう一度上に押し上げる。そして再びひらひらと落ちていく。

 

美しく去ろうとする者には少々邪魔だったのではないだろうか……。

 

しかしそれは肌をなでるような柔らかさも持ち、私の髪を小さく揺らす。まるで、感傷的になっていた私を慰めるかのように。

 

やがて風は大空へと舞い上がっていった。

 

 

見送った春風には、もうすぐ過ぎる季節の甘い香りと、ほんのわずかな苦味があった。

 

季節は巡る、色を変えて幾度も繰り返す…。それは人の心も同じ。それは自然の理…。

 

 

フゥーーーーー

 

 

ちょっとだけ、胸がちくりと痛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何かが欠落している…物理的に、精神的に。 

 

 

 

 

喉が渇きを感じている…物理的に、精神的に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんな結末って……ありなのか……?」

 

ある小説の結末に俺はどうしようもないほどの胸の痛みを感じた。誰が読んでもそう感じるはずだ。

 

でも、きっと俺の方が誰よりもこの痛みを重く感じているに違いない…。

 

「何故……死んだ……?」

 

読み返してみたって…納得できない。信仰のため?…そんな…だったら俺は、ある意味もっと不幸じゃないか……。

 

 

 

二人は再会した。自分達がもう子供ではないことを感じ、互いの慕情は高まっていった。

 

だけど、女は男の求愛を拒んで死んだ。それは最大の拒絶だ…。何故だ、どうして…。

 

 

パタン

 

 

自分が情けなくなってきた。いくら小説とはいえ……あまりにも救いようのない結末だったけど…

 

ちゃんと告白した……なのに……俺は…。

 

何一つ終わっていない、始まってもいない。互いの想いはもう分かりきっているのに…告白もできていない。

 

その先に待つ一つの停滞した関係の向こう側の終着点に全然近づいていない。

 

それはこの小説の主人公より、ある意味もっと不幸だ。

 

もしこのまま、進展することなく少しずつほころびていったら?嫌だ…想像したくない…そんなの考えたくもない。

 

「会いたいなー」

 

そう思うとますます愛しく感じてしまう…。

 

「早く会いてー」

 

あー、俺もうすっかり依存症だな…ちとせ依存症。

 

「どうしよっかなー」

 

本当だ。彼女がいない間、どうやって休暇を過ごそう。

 

他のみんなは、今の彼女と同じで実家に帰っているとか、旅行とか、遊びに行っているとかしていて、エルシオールに残っているクルー達は多くない。

 

 

実家に帰るという選択肢は俺にはなかった。

 

俺はあまり貴族が好きじゃない。かくいう俺も、実は小貴族の家柄だけど、あそこは居心地が良いとは言えない。

 

一人で遊びに行くってのもなー。あーどうしよう、ホントどうしよう。

 

「なんか不健康だなー」

 

まったくだ。部屋の中でずっと悩んでいるなんて、不健康極まりない。

 

「久しぶりに巡回でもするか…」

 

今の状況ではすることに意味なんてないけど、このまま閉じこもるよりはいくらか気分も晴れるだろう。

 

気が病みそうなほどの閉塞感が自己を完全に支配する前に、俺はそこから抜け出した。

 

 

 

 

 

 

 

艦内をただ進む。どこに行こうなんて考えずに、意識などしないで、ただ進む。

 

 

「あれ、ここは」

 

足が勝手に止まった。彼女の部屋の前だった。

 

「そういえば…」

 

ふとある光景が脳裏に浮かぶ。

 

「前にここで、ちとせの弓道の稽古を見せてもらったことがあったな…」

 

普段とはまた違った印象を与えられた、彼女の弓道着姿。いつもの彼女より、一層凛々しく、それでいて可憐な…。

 

「駄目だ…ここは…」

 

動悸が何故か激しくなってきた…少し息苦しい。直感で俺は、すぐにこの場から離れなければならないと悟った。

 

 

 

 

「駄目だ……」

 

シミュレーションルームも

 

「ここも…」

 

銀河展望公園も…

 

「くそ、どうして…」

 

彼女との深い思い出の残る場所に行くと、何故か胸が痛くなる…。

 

すぐにそこから離れた……まるで、彼女から逃げているみたいだ…どうして…どうして…

 

「どうして!!」

 

俺は走った。何で走ったのか、逃れるため?振るい払いたいから?そんなの知らない、知るわけもなく、ただひたすらに、徒に……。

 

 

 

 

「ハア…ハア…ハア…ハア…」

 

遂に息が切れて、意に反して動きが止まった。

 

「ハア…ハア…ここは……」

 

足元を見てみる…砂だ。正面を見てみる…海だ。どうやらクジラルームに来ていたらしい。

 

 

ザザーー  ザザー

 

 

小波の音。一気に力が抜けた。俺は砂浜の上に仰向けに倒れ込んだ。

 

 

ドサッ

 

 

俺の心とは正反対に、目の前にはホログラムだが澄んだ青空が広々と横たわっている。

 

「ハア…ハア…暑い……」

 

走りすぎたのと、クジラルームの室温が高いせいで俺は喉の渇きを覚えた。

 

しかし渇いているのは喉だけじゃない……心も……。

 

そしてこの心を唯一潤わせてくれるのは、今は傍にいない彼女だけ…。

 

 

 

/

 

 

 

 

「とりあえず、何か飲もうかな…」

 

暫く虚空を寝ながら見つめていた俺は重い体をなんとか起こす。

 

 

ヒューー

 

風が吹いた。潮の香りがする。海にしか吹かないその風が俺の髪を微かに揺らす。

 

ホログラムの太陽から降り注ぐ光を浴びて、水面がきらきらと輝いている。

 

見ていてとても眩しい。俺は目を細めた。

 

ヒューー

 

また風が吹いた。再び潮の香りが嗅覚を刺激する。

 

ふとそれを見上げてみる。汚れなき空、汚れなき雲、そして…汚れなき風…。

 

「ちとせ……」

 

この風に想いを運ばせられたら…。愚かな夢想だって分かっていても、そう願わずにはいられない。

 

だって、こんなにも汚れのない自然の情緒の中にたった一人でいる孤独感が……あまりにも痛くて……あまりにも怖くて……。

 

 

ヒューー

 

 

潮風に吹かれながら、君を想う。

 

 

 

 

 

 

                                                     To be continued