レーザーやビーム等の光学兵器と、ミサイルやバルカン砲といった実弾系の武装の最も大きな違いは、その速さであると言える。自動追尾型のレーザーですら、ある程度速度を犠牲にしているとは言え、実弾と比べると遥かに高性能であった。特に宇宙空間での戦闘は相手との距離が大きく開くため、弾速が速く射程の長いレーザーやビームは戦艦や戦闘機の主だった武装として用いられている。
しかし、破壊力の面では一概に光学兵器が優れているとも言えない。それは防御側がシールドとしてエネルギー中和フィールドを展開する事で対抗している為で、シールドに阻まれてその威力を十分に発揮する事が出来ないからである。
実弾兵器の場合は当たりさえすれば直接的なダメージとなるので、ダメージ効率の面では光学兵器に勝っているのだが、射程と速度に問題のある実弾兵器を有効に使うためには二つの条件のどちらかを満たす必要がある。
相手が軍事衛星などの動かない標的である事、もしくは接近戦に持ち込むことでその弱点を打ち消してしまう事。
後者の戦法を得意としているのが、エンジェル隊における蘭花・フランボワーズが操るカンフーファイターであり、ヘルハウンズにおけるギネス・スタウトの機体であった。
エルシオールとヘルハウンズ隊の緒戦における最初の砲火はこの二人の機体によって放たれた。
お互いが射程内に入った瞬間に轟音とともに砲門が開き、砲弾が至近距離をかすめて、一瞬の後に機体が交差する。
「やるなぁっ。熱い戦いをするヤツが相手にもいたかあああ!!」
ギネスが叫び、旋回して後を追おうとするが、その為にスピードを落としたところを狙ってレーザーが襲う。シールドが激しく発光して機体を揺らす。致命傷には程遠かったもののこのまま旋回を続けては狙い撃ちの的になってしまう、そう判断したギネスは慌てて旋回を中止してスピードを上げるが、その一撃を放ったハーベスターはギネスの動きを完全に無視してカンフーファイターの後を追う。
エルシオールの司令官は紋章機の運用に関して、カンフーファイターとハーベスターを攻撃の起点として用いる計画を立てていた。
防御性能と耐久性能に不安のあるカンフーファイターに、修理機能を搭載したハーベスターをフォローとしてつけるという理由もあったのだが、カンフーファイターのスピードについてゆける機体がハーベスター以外にいなかったのも大きな理由の一つだった。
単純なスピード性能ならラッキースターの方がハーベスターより優れているのだが、タクトの戦術構想は、カンフーファイターの先制攻撃によって敵軍を分断した後に自らを囮として相手を引き付ける間に、残りの機体によって素早く敵軍を撃破するというものだったのだ。
この作戦を実行するためには、ラッキースターの性能は攻撃にこそ活かされるべきであったし、ハーベスターの防御性能から生まれる粘り強さはカンフーファイターと組ませる事でより発揮されるもののように思われた。また、ラッキースターの方がスピードが上とは言ってもそれは機体コンディションが好調な時の事で、安定の悪いラッキースターと比較的安定しているハーベスターでは、実際に実戦で発揮される速度には殆ど差が無かったのだ。
今回の戦闘にはラッキースターが参加していないから、この作戦を想定通りに機能させることは出来ないだろうが、タクトはカンフーファイターとハーベスター、トリックマスターとハッピートリガーを二分化して運用する事でヘルハウンズに対抗しようと考えたのだ。
そしてその作戦は見事に成功する。
ギネス機との交戦の後に突っ込んできたカンフーファイターに対して、ヘルハウンズは一斉に攻撃を仕掛けた。自動追尾レーザー砲、ミサイルなどが濁流のようにカンフーファイターに襲い掛かってゆく。
しかし、ヘルハウンズ隊のメンバーは紋章機の性能を、そして相手指揮官の技量を大きく見誤っていた。
攻撃はことごとくカンフーファイターを捕らえる事が出来ず、機体が通った後の幻影に向かって降り注ぎ虚空へと消えた。
これはカンフーファイターのスピードがヘルハウンズの予想を上回っていた事もさることながら、タクトの指揮による功績が大きい。
タクトは蘭花に対して最初のギネス機に対する攻撃の後に、ヘルハウンズの後方のポイントを指定して、そこに向かって全速で移動するように指示を出していた。ヘルハウンズは突っ込んできたカンフーファイターの攻撃を警戒して回避運動を取りながら応戦したため、目的地に向かって一直線に進むカンフーファイターに追いつく事が出来なかったのだ。
もしタクトが攻撃命令を出していたら、回避運動をしたヘルハウンズを捕らえる為に後を追って、結果として敵の攻撃を受ける事に繋がったかもしれない。
敵の只中に突っ込みながら、攻撃する事無く通り過ぎるという命令を出した司令官に対して、コックピットで蘭花が感嘆の声をもらす。
「やるじゃない、アイツ」
一瞬の後にハーベスターもカンフーファイターの後に続く。蘭花機ほどのスピードを持たないヴァニラ機だったが、それでも敵の攻撃は掠める程度しか届かず、ハーベスターの防御フィールドを破るまでには届かなかった。
ここでヘルハンズ、特に現場指揮を任されているリセルヴァはひとつの選択を迫られる。このまま前進して前方の二機を叩くか、反転して後方の二機と戦うか。しかし結局選択する機会を与えられないまま戦局が変化した。
「うおおっ、ダメージがでかすぎるぜぇっ、一旦後退する!!」
ヘルハウンズの戦績の中でも、これほど早くギネスが撤退に追い込まれた例は皆無である。
ギネスは確かにその性格から猪突の傾向があるものの実力は決して低くなく、敵中に突っ込んだとしても簡単にダメージを与えられるような事はない。それ以上に早く敵を倒してしまう事の方が圧倒的に多いのだ。
しかし歴戦の傭兵と言えどもトリックマスターのフライヤーからの攻撃で動きを固められたところにハッピートリガーの弾幕が襲ってきたのでは、全てを回避する事が出来なかった。それでも下手に逃げるのではなく、弾幕の薄いところを見切って機体を飛び込ませ、被害を最小限に抑えた腕前はやはり並のものではない。
「ベルモットはギネスの援護にまわれ!」
「りょ、了解っ」
リセルヴァの鋭い指示を受けてベルモットとギネスが戦線から離脱してゆく。
これで戦闘機の数の上では四機対三機と不利になってしまったが、カンフーファイターとハーベスターとは大きく距離が開いている。
「僕達は前方の敵を叩く!」
素早く前方の紋章機を仕留めればまだこちらが有利。そう考えたのはリセルヴァだけでなく、レッドアイとカミュも同じだった。
三機の機体が一斉にトリックマスターとハッピートリガーに向かう。
「ストライクバースト!!」
しかし、ハッピートリガーの高密度広範囲の凄まじい弾幕が眼前に展開されると、三人は慌てて散開して弾幕を迂回する形で前進せざるをえなくなる。
「く……予想以上の出力だ……」
レッドアイは追尾してくるレーザーをかわす為に紋章機を追うのを一旦中止して、天頂方向に向かって全速力で機体を飛ばした。
ヘルハウンズの足並みが乱れると、紋章機は素早く反転してエルシオールに向かって後退してゆく。
「逃がすか!」
後を追うリセルヴァだったが、速度を上げようとした瞬間にその進路に向かって側面から砲撃が加えられる。
―――トリックマスターのフライヤー。遠隔操作できる小型砲台はリセルヴァの機体ではなくその進路を遮るように攻撃を続けた。その攻撃は的確で、リセルヴァ機はスピードを思うように上げる事が出来ない。
「くそっ、後ろに目でもついているのかっ」
逃げながら的確に攻撃をこなすトリックマスターに対して苛立たしげに言葉を吐き出す。
普段どれほど自信過剰に見えても、リセルヴァの戦局全体を見渡して味方に的確な指示を出す指揮能力は確かなものである。だからこそプライドの高い歴戦の傭兵であるカミュやレッドアイ、ギネスといった面々がリセルヴァに前線指揮を任せているのだ。
だがこのエンジェル隊との緒戦に限っては相手を過小評価するあまり、普段の能力を発揮できていなかったのかもしれない。
攻撃をかいくぐりながらようやくトリックマスターを射程内に捕らえたと思ったその瞬間――――。
「リセルヴァッ、後ろだ!」
カミュの声が通信されてくるのと同時に背後からバルカンが直撃した。トリックマスターが時間を稼いでいる間にカンフーファイターが戻ってきていたのだ。
なおも追撃を加えようとするカンフーファイターをカミュ機が牽制攻撃で押し留める。
リセルヴァは機体を立て直して今度こそトリックマスターとの接近戦を試みた。
それとほぼ時を同じくして戦線に復帰したベルモットとヴァニラも互いに牽制をしながら戦闘を開始している。
このまま乱戦になってしまうと思われたとき、それまで指揮をリセルヴァに任せていたヘルハウンズ隊のタクトが初めて高速リンクシステムから指示を出してきた。
タイミングが少しでもずれていたら成功しなかっただろう。場所が僅かでも狂っていたら失敗していたに違いない。
戦場を駆け巡るように飛び回るカンフーファイターと要所を強力な火力で攻撃するハッピートリガーの軌道が直線状に並ぶその瞬間に、ヘルハウンズの攻撃が集中した。
多方向からの攻撃だったが、カンフーファイターは回避に、ハッピートリガーはシールドでの防御に成功する。しかしその一瞬の機体運動の乱れで生まれた攻撃範囲の死角をついてカミュがエルシオールに突進したのだ。
紋章機の移動のタイミングと攻撃範囲を完璧に予測した指揮だった。
紋章機もすぐにカミュ機の後を追うが、スタートの遅れは明白でエルシオールに対しての攻撃を完全に防ぐのは不可能に思えた。
「敵戦闘機から距離を取りつつ砲撃用意! シールドと対衝撃準備!!」
エルシオールのブリッジにレスターの指示が飛ぶ。
「タクト、間に合いそうか?」
「いや、敵の方が先だね」
「無傷と言う訳にはいかなかったか」
「シヴァ皇子が乗ってるから、できればエルシオールには損害を出したくなかったんだけどなぁ」
言いながらもタクトは高速リンクシステムを使って紋章機に指示を出してゆく。
レスターはタクトの指揮が間違っていたとは思っていなかった。
むしろ数で劣っている状況から完璧に戦闘をコントロールしたとさえ言っても良かった筈であった。だが中途で幾ら勝っていてもエルシオールを落とされてしまえばこちらの負けなのだ。
いや、まだ負けてなどいない。エルシオールが直接攻撃にさらされる危機に陥っただけだ。絶体絶命と言うべき状況ではない。
レスターの頭脳は冷静に状況を分析していた。しかし、それにしても……。
こちらの思惑通りに進んでいた戦いを、指揮を完全に読み取り一瞬で突き崩した敵。
「思った以上に苦戦するかも知れんな」
これまで何度か戦ってきた無人艦隊とは明らかに力量の異なる敵の出現にレスターは顔をしかめた。まだ第三方面への逃避行は始まったばかりなのだ。毎回大苦戦しているようでは、いくら紋章機とエルシオールが高性能と言っても限度がある。
前途に不安があろうとも、先ずは目の前の危機を脱しない事にはその不安とも向き合う事が出来ないのだが、救いの手は意外なところからもたらされた。
アルモがはじかれたように通信機器から顔を上げ、早口で報告をする。
「ラッキースター、エンジン出力が上昇! 出撃可能です!」
タクトとレスターは一度顔を見合わせてから応えた。
「良し、すぐに出撃だ!」
ラッキースターのコンディションを示すモニターに目を落とし、その出力が今までの戦いの中で最も高い数値をたたき出している事を確認したタクトは、誰にともなく呟いた。
「なるほど、これがミルフィーの強運か……」
突然目の前に現れた敵機にカミュは完全に翻弄されていた。
光り輝く機体。
花が咲くように繰り出されるレーザー砲。
虹を描くようなその軌道。
攻撃をかわす事で精一杯の状況で、それでもカミュの瞳はその機体に釘付けだった。
勇ましく、可憐で、美しい……。
「これが、紋章機か……」
――――間もなく、ヘルハウンズに対して撤退命令が出された。
/
「それであっさり軍を引いたと言う訳か。なかなか見事な手並みだったな」
「逃げ足には自信があるんですよ」
モニターの中で悪びれた様子も無く笑うエルシオール追撃部隊司令官。シェリーの皮肉を含んだ物言いもまったく意に介していない様子だ。
シェリーとて有能な軍人であるから、タクトからの報告に目を通してその撤退の判断が正しかったであろう事は理解していた。あのまま想定外の要素を含んで紋章機と戦ったところで味方の損害が増すばかりであったろう。
それに戦況推移報告の中にあった、タクトが一度だけ見せた、一瞬で戦局をひっくり返した指揮。それは凡人のするところではなく、シェリーですら舌を巻くものだったのだ。口にこそ出さないが、タクトの戦闘指揮における力量は認めざるをえなかった。
「まあいい。紋章機とそのパイロット達のデータを転送しておくから有効に利用しろ」
「使わせてもらいます。それと、ひとつお願いがあるんですが」
「……何だ」
「ヘルハウンズの新しい機体を用意してもらいたいんですよ。ノア……様に伝えてもらえませんか?」
エオニア軍の中でもノアの存在を知るものは数少ない。そしてタクトはエオニア軍の中で唯一、ノアの引き合わせてエオニア旗下に入った人間であった。
「今のままでは勝てないとでも言いたいのか?」
「ええ、多分」
タクトは即答した。
一度戦っただけの相手に対して、しかも相手より多くの戦力を有して、その上それほど大きな損害を与えられた訳でもないのに勝てないなどと発言すれば、臆病者とのそしりを受けても強くは反論できないであろう。
タクトもその点を心配しないではなかったが、シェリーはモニターの前で少しの時間考え込むとゆっくりと頷いた。
「分かった。伝えておこう」
タクトが敬礼するのを見届けて通信を切ったシェリーは得体の知れない人物に対して考えをめぐらせる。
タクトはトランスバール本星を陥落させた直後、ノアによってエオニアの元に連れられて来た。
タクト本人の前では語られなかったが、ノアの説明によるとタクトは黒き月の内部を徘徊していたらしい。黒き月自体はエオニア軍の補給軍事拠点として使われていたから、内部に人がいたとしても不思議ではないのだが、タクト・マイヤーズという人物をそれまでのエオニア軍の中に見つけることは出来ない。
明らかな不審人物であったのだが、タクトの登用を積極的に進めたのはノアだった。すぐに処分してしまうよりも、ある程度泳がせてその目的や背後関係を調べた方が良いというのがその理由だ。
それなりの説得力を有してはいたが、シェリーはタクトがノアの腹心ではないかという疑念を捨て去る事が出来なかった。
だとしたら、タクト・マイヤーズの目的は何なのか。そして、ノアの真意は……。
もう、あの時のような失敗は二度としない。
シェリーは自分に言い聞かせ、タクトからの要望をノアに伝える為にモニターに背を向けて歩き始める。その左手は頬の傷痕に添えられていた。
通信が切れたのを確認したタクトは、印刷された資料を手に取ってデスクの上に腰を下ろした。
シェリーとの会話には機密事項が含まれる事もあるので、通信はブリッジではなく司令官室で行われている。周りに誰もいないのでタクトは誰に遠慮する事も無く身体を弛緩させて、姿勢悪く足を投げ出す。
「はあ、やっぱりこういう仕事は苦手だ……」
その性格から上司への報告やデスクワークを苦手とするタクトだったから、シェリーのような「優秀な軍人」との会話は彼を疲れさせるのだ。
そういった雑事を代行してくれる有能な副官の存在を欲する気持ちは日に日に高まってくるが、ヘルハウンズ隊では未だ人材を見つけ出す事は出来ていない。
それまでの自分がいかに人材に恵まれていたのかを今更ながらに自覚するタクトだったが、どうにかして楽に仕事は出来ないものかと不毛な思考をめぐらせたところで、答えはノーであるから、嫌々ながら仕事に従事していた。
タクト自身は大いに真面目に仕事をやっているつもりだったが、それでもヘルハウンズ隊の傭兵達から軍人らしくないという評価を下されるあたり、彼を知るものであれば「タクトらしい」と思ったであろう。
「俺って、もしかして軍人に向いてないんじゃないかなぁ」
本人は真剣なつもりでも、司令官としてはまことに滑稽な問いを空中に放り投げると、タクトは送られてきた資料に目を通す。
そこにはエルシオールと紋章機、その乗組員やパイロットたちの詳細なデータが記されていた。
シェリーからの報告と要望を受け取ったノアは一人で黒き月に戻って来ていた。
兵器製造を司るブロックに足を運び、機器の前でムチ状の左手をかざすと、低い音とともに機器に明かりが点り動き始める。
黒き月と意識そのものが繋がってゆくような感覚がノアの心を満たす。
タクトの提案によりヘルハウンズ隊の新しい機体を作る事を了承したノアは、皇国のデータバンクから入手した紋章機のデータを元に、黒き月の紋章機とも言うべき機体の設計と製造に取り掛かっていた。
欲を言えばデータだけではなく実際に見てみたいところではあったのだが、黒き月はエオニアの希望によりトランスバール本星付近に留めてあったから、白き月の紋章機の分析よりも製造を優先させたのだ。
シェリーの「黒き月を公表してはどうか」という提案はエオニアの気に入るところとなり、エオニアからの相談を受けたノアも迷いはしたものの強く反対する事はせず、近く提案は実行に移される手筈となっていた。
そしてその直後に新しい機体をつくるように言ってきたシェリー。
ノアは意識を紋章機の製造から思考へと変化させる。
エオニアは今のところノアの思惑通りに動いていた。利用されているとも知らずにノアを心から信頼しているように思われる。だが、その腹心のシェリーは違う。ノアはそれを自覚していた。
時折ノアに向けられる視線は決して友好的なものだけではなく、もしかしたら計画を実行する上で邪魔な存在になるかもしれない。
ノアのその思いに一層拍車をかけているのが、タクト・マイヤーズいう男の存在だった。
トランスバール皇国本星攻略直後の黒き月に突然姿を現した男。黒き月はエオニア軍が軍事拠点として用いていたから、人間がいる事自体は不思議ではない。
しかしタクトがいたのは黒き月の中でも深部と言えるような場所であり、しかもノアと対面したタクトは口を開いて最初にこう言ったのだ。
「ノア……?」
ノアの存在を知る者は極めて少ない人数だったから、明らかな不審人物である。
すぐにでもタクトを処分しようと思ったノアだったが、それを思い止まらせたのはタクトの事を報告した際のシェリーとエオニアの反応だった。
エオニアだけではなく、シェリーもこのタクト・マイヤーズという人物の存在はエオニア軍に無い、と口を揃えたのだ。
いくら人間がいても不思議ではない状態だったとしても、エオニア軍以外の人間が容易に入り込めるほど黒き月のセキュリティは甘くは無い。
ノアが最初に疑ったのはシェリーだった。
表面では知らぬ素振りをしているが、存在の露見した密偵をこちらに処分させようとしているのではないか。エオニアには無断でこちらの意図を探るための手を打っているというのは十分に考えられる。
だとしたら、タクト・マイヤーズの目的はなんなのか。そして、シェリーの真意は……。
結局ノアはタクトをエオニアの旗下に入れるように進言した。ある程度泳がせておいてその目的と背後関係を判明させるつもりなのだ。
処分はいつでもできる。
「邪魔はさせない……」
ノアは呟き、再び紋章機の製造へと意識を落とす。
ノア、シェリー、タクト、三者の決意と思惑が螺旋状に絡まりあい、事態はゆっくりと、しかし確実に動いてゆく。
エオニアのクーデターから始まった戦いは、当事者達の想像しえない方向に向かおうとしていた。
/
「ミルフィーユ・桜葉、それが愛しのマイハニーの名前か。ああ、響きも可憐だよマイスウィートハニー」
ブリーフィングルームで紋章機とパイロットのデータを渡されたヘルハウンズの面々がそれぞれ感想をもらす。
「蘭花・フランボワーズ! お前を俺のライバルとして認めてやるぜえっ!」
前回の戦いの完敗は彼らの矜持をいたく傷つけたかに思われたが、実際にはそれほどの精神的ダメージは無い様子で、気持ちの切り替えはすでに完了しているらしかった。
「醜い戦いを続けて得た勝利などなんの価値も無いからね。今回は引かせてもらおう」
とは、前回の戦いの際にタクトからの撤退命令を受けたカミュが放った言葉だが、あるいは他のメンバーも似たような感想を持ったのかもしれない。戦いはまだ始まったばかりなのだから。
「ブラマンシュのお嬢様か! 姑息な手で成り上がった家の娘だけあって攻撃手段も姑息だったな」
前回の戦いは結果としては敗北だったのだが、司令官のタクトの評価は敗北によって下がるどころかむしろ上昇した。
最も評価を受けたのはシェリーを驚嘆させた攻撃指揮ではなく、鮮やかなタイミングで出された撤退指令だった。
金で雇われた傭兵達は戦場ではとかく道具扱いされがちで、そのように考えている司令官の下に配属されてしまうと、どれほど不利な状況になっても撤退指令を出してもらえず全滅してしまう事が少なくないのだ。自分達の判断で撤退などしようものならそれが正しい判断だったとしても、何故生きて帰ってきたのだと罵られ臆病者のレッテルを貼り付けられ、挙句に敗戦の罪を擦り付けられたりもする。
そのような司令官を過去幾度も見てきた傭兵達にとって、戦局を冷静に見極めて軍を引くべき時にはためらわずそうしたタクトは新鮮な存在であった。
「不正規隊出身……フォルテ・シュトーレン、か……」
大型戦闘機のパイロット達も一度の戦闘指揮でタクトの能力が非凡なものである事を見抜いていたが、一度だけではまぐれという事もありうる話だったから、信頼に足る人物かどうかの見極めは今後、といったところが彼らの見解の大部分を占めていた。
「ナノマシンなんて邪道だよ。だいだいマシーンってヤツは自分の手で整備したり直したりするのが……」
しかし、通常正規軍人の司令官など信頼できないのが当たり前という傭兵の世界だったから、その意味でタクトはようやくスタートラインに立ったのだと言えるのかもしれない。
「えっと、そろそろ良いかな」
データ資料をヘルハウンズに渡した後、まったく無視されていた存在感の無い司令官、タクトが苦笑いを浮かべつつ口を開く。
「データを見たら分かると思うんだけど、紋章機の機体性能はこちらを大きく上回ってるから正面から戦うのは得策じゃない。無人艦を使って包囲戦に持ち込むか、新しい機体が到着するのを待ってから攻勢をかけるっていうのがオレの基本方針になる。何か質問はあるかな?」
「新しい機体が来るのは悪くない話だが、僕達の力が見くびられているみたいで愉快じゃないな。次に戦う時には前回のようにはなりはしない、今のままの戦力でも十分に戦える!」
ヘルハウンズの中でも最もプライドの高いリセルヴァがタクトに食いつく。
それに対してのタクトの返答はシェリーに答えたものとほぼ同じものだった。
「今のままじゃ勝てないよ、多分」
多分、という言葉を使ったものの、短く即答したタクトの態度からは自信が感じられた。
前回の戦いで指揮を任されながら良いところが無かったリセルヴァだったから、司令官の言葉に沈黙せざるを得ない。
ヘルハウンズに不満は少なくなかったものの、紋章機の実力が彼らの想像を遥かに超えるものであった事は自覚できていたし、その戦力をタクトが正確に見抜いていた事も理解できていたから、やむをえないながらもタクトの方針には従うつもりであった。
「では、こちらからは戦闘を仕掛けず、様子を見ると言う事なのか……?」
レッドアイが疑問を口にする。
このような作戦会議において、もっぱら発言役を務めているのはレッドアイとリセルヴァだった。エルシオールとの接触前のブリーフィングではその二人しか出席していなかったが、他のメンバーがいたとしても作戦の立案と討議はレッドアイとリセルヴァの役割なのだろう、とタクトは理解した。
「いや、そうしてしまうとエルシオールに行動の自由を与えてしまう事になる。ちょくちょく攻撃は仕掛けるつもりだよ。もし勝てそうになればもうけものだし、そうでなくても相手を牽制できるだろうしね」
リセルヴァの身体がぴくりと動く。なるほど、それならばチャンスはあるではないか。
「タクト指令、ボクにひとつ提案があるんだ」
カミュに一堂の視線が集まる。
タクトは先ほどの認識を改める必要があるのかと思ったのだが、レッドアイとリセルヴァの意外そうな表情を見るに、やはり発言自体は珍しいものなのだろう。
「エルシオールに偵察用プローブを送り込むのさ。上手くすればシヴァ皇子がエルシオールにいるのかどうかを確認できるし、それに……ああ、愛しのマイハニーの姿を捉える事が出来るかも知れないじゃないか!」
恍惚とした表情で両手を広げながら放たれた言葉にギネスが反応する。
「それだあああ! オレのライバル、蘭花・フランボワーズの実力を知る上でも良い作戦だぜええぇ!! 敵を知る事は明日の勝利に繋がるのだ! そうだろう、タクト指令!!」
「あっ、ああ。そうかも……」
「そうと決まればプローブの用意はオイラに任せてくれよ!」
「よっしゃあああ!!」
「ああ、マイハニー、今行くよ」
勢いに押されたタクトの返答を聞いた次の瞬間にはブリーフィングルームから三人の人影が消え去っていた。
残された三人は揃って呆然としている。
タクトは右手で頭をかきながら言った。
「まあ良いか」
細かい事を気にしないのは彼の長所であった。
「エオニア様、準備が整いました」
「ああ」
シェリーに促され、演説用の原稿に目を通していたエオニアが顔を上げる。
黒き月の存在を皇国全土に公表する演説の準備が整ったのだ。
エオニアの目的は皇国版図の拡大とそれに伴う皇国の繁栄だ。いわば、宇宙大航海時代の再来を目論んでいるのだが、その為には外宇宙に対する興味と希望的観測を喚起しなくてはいけないだろう。
黒き月の存在が公表されれば、まだ見ぬ外宇宙に未知のロストテクノロジーが眠っている事を示す証拠になる。エオニアの志に賛同する者も多く出現するに違いない。
また、第三方面に集結しつつある抵抗勢力が黒き月の存在を知ればどうなるであろうか?
皇国の守り神であった白き月だけでなく、未知の黒き月を敵に回して戦いたいと思うような者が果たしてそれほど多くいるだろうか。
白き月は未だシールドに守られエオニアにも手出しが出来ない状態だったのだが、白き月が沈黙を守っている以上抵抗勢力の味方ではなかったのだ。
内部分裂でも起こしてくれれば戦場で砲火を交える前から勝利は確定的なものとなるだろう。
シェリーの狙いはそこにあった。
黒き月の存在が公表される事によって事態は加速してゆく。
その行く末を想像する者は数多くいたが、知る者は誰もいなかった――――。