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――――エルシオールのブリッジに沈黙が翼を広げて覆い被さっていた。
言葉を発する者は無く、呼吸音さえ聞こえてこないような沈黙が横たわっている。
あるいはマヒしたのは声を出すための声帯ではなくて聴覚ではなかったか、そのようにすら思える長く、重い沈黙。
ブリッジに誰もいないわけではない。
タクトもレスターも、ココやアルモそしてエンジェル隊のメンバー全員がその場に存在していた。
トランスバール本星から発せられたエオニア軍の発表は、見えざる縄となりエルシオールの乗組員達の身の自由を奪い金縛りにあわせているかのようであった。
ブリッジのモニターには見慣れたトランスバール本星と、その隣に凛然と輝く白き月が映し出されている。
そして宇宙の闇よりもなお暗く、深く、黒く煌く人工天体。
――――黒き、月。
「まいった、ね、これは……」
ようやく声がその場に現れると、ブリッジにいた全員が息苦しさから解放された安堵のため息をもらす。
彼女らを金縛りから解放したのは、エルシオールの司令官タクト・マイヤーズだった。
タクトは誰もが認めるように基本的には楽天的な性格をしている。どのような状況においても「なんとかなるさ」と余裕を持って対応するようなタイプの人間だ。そのタクトですらあまりの衝撃の大きさにしばらくの自失の時間があり、未だ呆然としていた。
「うっ、ウソです、こんなっ!」
アルモが声を荒げて立ち上がる。
「こんな、黒き月だなんてっ。絶対にウソです!! そうじゃないと、白き月が……っ」
ココが遅れて立ち上がり、アルモの両肩に手を添えてなだめるように瞳をあわせて頷いた。
エオニアの発表はそれほど多くの事を知らせた訳ではない。エオニア軍に黒き月がある事、黒き月が無限の生産能力を持っている事、そして黒き月は白き月と対となる存在である事、外宇宙には黒き月に匹敵するロストテクノロジーが今も眠っている事……。
しかしこれらの知らせがエルシオールの乗組員に与えた影響は多大なものだった。とりわけクーデターの発生前まで白き月に所属していたエンジェル隊や、『月の巫女』達の動揺は激しい。
もしエオニアの言う事が真実であったとしたら、黒き月と対の存在である白き月も兵器製造を目的として作られたものだからだ。ロストテクノロジーの研究と有効利用を旗印にしていた月の巫女達にとって、それまでの白き月に対する尊敬と敬愛の気持ちを一変させてしまいかねない程の事実だった。
「とにかく」
タクトが重苦しい空気を振り払うように努めて明るく振舞う。
「当面第三方面に逃げるっていう方針に変更は無いし、黒き月の事に関してはオレとレスターで考えるから、皆は心配しなくて良いよ」
タクトとレスターに視線が集まると、レスターは落ち着いた様子でゆったりと頷いた。
未だ不安定なタクトへの信頼と違って、レスターは卓越した軍務遂行を見せる事である程度の信用を勝ち取っていたから、彼の落ち着いた態度は動揺しかけたエンジェル隊やブリッジ要員達に鎮静剤として作用した。タクトはそれを狙ってレスターに話を振ったのかもしれない。
「大丈夫、何とかなるよ」
「アンタが言うと逆に不安になるのよね」
タクトの言葉に蘭花の突っ込みが入って、ようやくブリッジに笑顔が戻ってくる。
「良し、じゃああたしらはティーラウンジで一息入れさせてもらうよ。構わないだろう?」
そしてフォルテの先導でエンジェル隊がブリッジを後にする。落ち着きを取り戻したアルモとココに司令官が声をかけた。
「じゃあ、オレとレスターは司令官室でちょっと話があるから席を外すよ。何かあったら呼んでくれるかい?」
いつ敵襲があるか分からないような状況で司令官と副指令が揃ってブリッジを留守にする事は好ましくないが、今回に限ってはやむをえない。そう思ってレスターも口を挟まない。
「ハイ、了解しました」
アルモが元気良く答えるのを確認してタクトが、続いてレスターも司令官室に向かって歩き始めた。
司令官室はその名前の通りタクト専用の部屋である。デスクや通信機器など軍務をこなすための設備は一通り完備されているのだが、雑事全般を副指令に任せっきりにしているタクトだったから、この機能に優れた司令官室を有効に利用しているとは言えないだろう。
その上、普段はエルシオールの中を見回りと称して徘徊するのが日課となる程なのだから、司令官室に意思があったとするならば持ち主に不満を唱えたかもしれない。
そのタクトがエルシオールに着任して以来あまり使われる事の無かった部屋が、司令官と副司令官の対談の場として選ばれた。
「さて、どう思う?」
先に口を開いたのはタクトだった。司令官デスクの上に直接腰を下ろして両足を投げ出している。
「情報の真偽性という意味では難しいところだ。こちらの混乱を狙ったもの、あるいは皇国民の支持を得るための偽の情報という事も十分に考えられるからな」
司令官は黙って頷く。
「ただ、情報が真実だとすればこれまで疑問だった点が幾つも説明出来るのも事実だ。辺境に流刑になった筈のエオニアが何故あれほどの戦力を持っていたのか、倒しても倒しても無人艦隊が現れるのは何故なのか」
「うん、オレもそう思ってたんだ。発表するタイミングも、シヴァ皇子が未だ第三方面軍と合流していない今が一番効果的だろうしね。情報の信憑性は高いと考えて良いと思うよ」
無意識のうちに組んでいた腕を解いて今度はレスターが問いかける。
「どうする?」
「逃げるよ」
短く答えてレスターの反応を窺うが、彼の表情に変化は無い。タクトとの付き合いが長いレスターだから、この程度の事ではいちいち驚かないのだ。タクトはひとつ肩をすくめて続ける。
「第三方面まで逃げる、この方針に変わりは無い。これまでだってエルシオール単独では戦えないと考えていたんだし、敵の戦力が判明したとなっては尚更だよ。黒き月と戦うには第三方面に集結している皇国軍との合流は不可欠だと思う。問題は……」
「エルシオールが到着するまで第三方面軍がもってくれるかどうか、だな」
二人が苦い顔をあわせて頷いた。
「第三方面軍の総司令官って誰だっけ?」
皇国軍人としての基礎知識であるような事を副司令官に確認するタクト。
「ジーダマイア大将だな。……ハッキリ言ってあまり評判の良い人物じゃないぞ」
「人望が無い?」
「ああ、お前と良い勝負かもしれん」
「それは大変だ」
口ぶりにはまったく大変そうな様子を出さずに答えるが、二人はその危険性を認識していた。
強大な敵と戦うには、十分な戦力と何よりも兵士の士気が不可欠である。軍を束ねる総司令官に人望が無いと言うのでは勝利どころか戦う事すらままならないではないか。皇族の生き残りであるシヴァの行方も知れないとなれば尚更だ。
タクトとレスターのやるべき事は決まった。一刻も早く第三方面軍と合流してシヴァ皇子の無事を知らせる。白き月の象徴であるエルシオールと紋章機、そしてシヴァの健在を知れば士気にも影響してくるだろう。どうやって戦うのかといった事はそれからだ。
「エルシオールと紋章機が無事で良かったよ」
もしクーデター発生の際に紋章機とエルシオールまでもが敗れていたとしたら、現状はもっと絶望的なものとなっていたに違いない。圧倒的に不利な状況である事は間違いないが、まだ打つ手はある。動けるのだ。
「沈黙しているとはいえ白き月もエオニア旗下に入った訳ではないからな」
皇国民の信頼と尊敬をある意味皇王以上に集める存在、月の聖母。そして、白き月。
白き月のシールドはそう簡単には破られない。この時点ではタクトもレスターも知らない事だったが、白き月の封印を解けるのはシャトヤーンとシヴァだけなのだ。いかに黒き月が強大な力を持っているとしても、そう簡単に白き月は征服できるものではなかった。
皇国の守り神の白く輝く姿を、二人は同時に思い浮かべていた――――。
――――――――A
――――白き月。
月の聖母との謁見に使われる広間に複数の人影が見える。
その中心にいるのはその中でもひときわ目立つ容貌の少女だ。背は低いものの美しく長い金髪が背中から腰に流れ、強い意志を宿した瞳が集まった者達を射抜く。
一人一人と瞳をあわせ、視線を前方に固定する。
「クロノ・ハイバネーション・システムの暴走が原因だったわ」
少女がゆっくりと口を開いた。言葉の意味はすぐには浸透せず、沈黙をもって言葉の先を促すが少女はそれっきり口を開かず拳を握り締めていた。
「ハイバネーション?」
「……冬眠、の事でしょうか。ハイバネーション・システムは人工冬眠システムの事だと思います」
沈黙を破って発せられた問いに答えたのは金髪の少女ではなく、黒い長髪と黒い瞳の少女だった。
「具体的にどういう事ですの、ノアさん?」
問われた金髪の少女―――、ノアは再びゆっくりと語り始める。
「白き月と違って黒き月の管理者は代替わりしないわ。普段はインターフェイスに全てを任せてあたしはコア・クリスタルの中で眠っている。そのコア・クリスタルに組み込まれているのがクロノ・ハイバネーション・システムよ」
/
「そのクロノ・ハイバネーション・システムってのと、普通の人工冬眠システムはどう違うんだい?」
白き月の謁見の広間に集められたエンジェル隊のリーダー、フォルテ・シュトーレンが、黒き月の管理者であるノアに疑問を投げかける。
「普通の人工冬眠システムは、対象者の生命活動を抑制する事によって長期間の休眠状態にするの。それに対してクロノ・ハイバネーション・システムは、対象者の存在する空間をアナザースペースに隔離して『時間の流れ』から切り離す事が出来るシステムよ」
その言葉にエンジェル隊のメンバーの顔が二分される。理解した顔と、疑問が浮かび上がった顔と。
「……え、えーっと、蘭花、分かった?」
「なっ、何言ってるのよミルフィー。……分からないわよ」
蘭花がそっぽを向いて顔を赤くした。
フォルテが補足を求める視線をノアに送り、彼女は少し苦笑して答える。
「少し前に『ヴァル・ファスク』との戦いが終わった後、タクトとフォルテを助けるために色々苦労したでしょう? あの時助けるまでに結構時間がかかったのに、アナザースペースに閉じ込められていたタクトとフォルテは無事だった。それはその空間が『時間の流れ』の概念が存在しない空間だったからよ。クロノ・ハイバネーション・システムはコア・クリスタルの内部に意図的にその空間を作り出せるシステムなのよ」
その説明を受けてフォルテが大きく頷く。やはり実際に体験していると理解が早いのだろう。
ミルフィーユと蘭花は余計に分からなくなった、というような表情になっていた。
すました顔のミントが一歩前に出て発言する。話が停滞しそうなタイミングを狙っての事だ。
「先ほどノアさんはそのシステムが暴走した、と仰いましたが、それは?」
「ええ、原因はまだ分からないけれど起こった事は説明できるわ。クロノ・ハイバネーション・システムが空間を『時間の流れ』から切り離すと言っても、通常は完全に切り離すわけじゃないのよ。タクトとフォルテの時みたいに帰って来られなくなってしまう。でも、暴走したクロノ・ハイバネーション・システムは外部の空間に向かってエネルギーを放出して、その結果、辺りの空間を『時間の流れ』から切り離した上に、アナザースペースの向こう側に弾き飛ばしてしまった」
雫が水面に落ちて波紋が広がるように、ノアを中心として空気の色が変わってゆく。誰もが呆然とした表情を浮かべ、次いで怪訝な表情。そして次第に驚愕が広がる。
その場にいる全員が突然重い荷物を背負わされたかのような身体の動きの鈍さを感じていた。
懸命の努力をもって口を開いたのは、やはりエンジェル隊のリーダーであるフォルテだった。
「じゃあ……、タクトはそのクロノ・ハイバネーション・システムの暴走に巻き込まれたって言うのかい?」
言葉から発せられた雷鳴が背筋を貫き、呼吸困難にも似た感覚に襲われるエンジェル隊。視線がゆっくりと、しかし確実にノアの元へと集まってゆく。
タクト・マイヤーズ。これまで皇国の危機を幾度となく救ってきた英雄、エンジェル隊とエルシオールの司令官、フォルテ・シュトーレンの恋人。
そのタクト・マイヤーズはこの場にはいない。
数日前、白き月の内部に安置されていた黒き月のコア・クリスタルから異常なエネルギーが発生したその日から行方不明になっていた。
それ以来タクトの捜索が懸命に行われたものの発見には至らず、ノアが進めていた調査によってタクトの行方が判明した、とエンジェル隊のメンバーが集められたのだ。
ノアが頷くと、スイッチが入ったように質問が集中する。
「タクトさんは……無事なのでしょうか……」
「それはたぶん……ううん、きっと無事よ。確かに予想の出来ない事態だけど、クロノ・ドライブがアナザースペースを使って距離の壁を越えるものだとしたら、クロノ・ハイバネーション・システムは時間の壁を越えるものよ……タクトは他の時間で絶対に無事でいるわ」
「それって、タイムマシン!?」
「暴走の結果、概念としてはそれに似た機能を発揮した、ってところね。実際はそんなに便利なものじゃないわ」
「だとしたら、タクトさんは今どこにいるのでしょうか?」
ちとせの質問に一瞬問答の流れが止まる。
そう、タクトは何処にいるのか。それは全員が最も知りたい事であり、不安を煽っている要素なのだ。
「過去よ」
『過去!?』
それはエンジェル隊全員の声ではなかったか。ノアの台詞を声に出して言う事でその意味を確認する。
「ええ、どの程度の過去なのか詳しい事はまだ分からないけど、エネルギーの方向だけは特定できたわ。過去に間違いないわ」
再び沈黙が謁見の広間に広がり、思考の渦が展開される。
「そっ、それって大変じゃない!!」
顔を赤くして叫んだ蘭花の勢いに押されて何人かが足を一歩後ろに運んだ。
「ほら! 過去に行ったら歴史が変わるとかって良く言うじゃない!」
「そう言えばそうだよね!」
ミルフィーユと蘭花が顔を一度見合わせて頷きあってノアに視線を投げかけるが、二人分の視線を受けてもノアは動揺しない。さらりと言ってのける。
「その事に関しては心配しなくても大丈夫よ」
「でも」
「例えば」
なおも続けようとした蘭花だったがノアの言葉に押し留められる。
「例えばタクトが過去に行って、黒き月のコア・クリスタルを破壊したとして、そうしたらどうなると思う?」
「え? えーっとそれは……」
ミルフィーユがうんうんと唸って考え込む。
「コア・クリスタルの存在が無くなり、今回の事故が起こらなくなるという事でしょうか」
答えたのはちとせだった。
「あれっ? でもそうしたらタクトさんが過去に行かなくなって、コア・クリスタルは壊されなくって、そしたらまた事故が起こって……あれ、あれ?」
両手の人差し指を立てたり交差させたりしながらミルフィーユが思考を進めるが、混乱の度合いはさらに増して行くばかり。
「そう、そうやって矛盾が起こってしまう。でもね、実際にはそんな事は起こらないの」
「それはどうしてでしょうか?」
「こういう事よ」
ノアは言って、片手を宙にかざす。ブウン、という音と共に半透明のモニターが浮かび上がる。
「あたし達の存在する歴史、時間の流れの世界。そうね、仮に時間軸Aとでも言いましょうか、それがこれよ。そして現在がここ」
ノアの言葉に反応するようにモニターに一本の直線が描かれ、その中心より少し右の線上部分に青い点が浮かぶ。
「タクトが現在から過去に行ったとするわ」
今度は中央より左側に赤い点が生まれた。
皆黙ってノアの説明に聞き入っている。
「そうすると、この赤い点は『未来から来たタクトが存在する世界』になるのよ。それは、あたし達が存在する世界、時間軸とはもう別のものだわ」
赤い点から枝分かれするように線が延びて、そして最初の線と平行に未来の方向に向かって伸びてゆく。
「だからタクトが何らかの行動を起こしたとしても、影響があるのはこの枝分かれした世界の未来にであって、あたし達の存在する世界の歴史が変わったりはしない、って訳。分かった?」
エンジェル隊は言葉の意味が分からなかった訳ではない。しかしあまりにも驚きの要素が大きかったので咄嗟に返答できるものでは無かった。
誰かがゴクリと喉を鳴らす音がやけに大きく聞こえた。
「じゃあ……」
「タクトは」
「タクトさんが過去に行った事によって」
「あたし達の歩んできた時間軸から分岐した世界」
「未来から来たタクトさんが存在する世界」
「時間軸Aとは異なる流れの世界」
「そう、時間軸Aダッシュの世界の中にいるわ」
GALAXY ANGEL
Another History
・――――――――A´
「ハックション!!」
ケルベロスの司令官室で雑務をしていたタクトは、急に鼻にむず痒さを感じて大きくくしゃみをした。人差し指で鼻をかきながらぼんやりと視線を宙に泳がせる。
「誰か噂でもしてるのかな」
そう言って思い浮かべるのは、やはり自分の仲間達の事だった。
エオニア戦役の時に初めて出会った少女達、幾多の戦いを共に潜り抜けてきた仲間。信頼できる最高の親友にして副官。敬愛できる君主。
その全ては現在タクトの傍にいない。
「まさか、もう一度エオニア戦役を体験する事になるとはなぁ……」
ポツリ、とらしくない溜息と共に愚痴がタクトの口から漏れてくる。
タクトにとってエオニア戦役は当然過去のものであったはずだった。それなのに、どうして自分はこんな状況の中にいるのだろうか。
黒き月のコア・クリスタルが紅い光を放っていた事は良く覚えている。あまりの眩しさに腕で両の瞳を防御していただけのはずだった。それなのに、気がついた時にタクトがいたのはそれまでの白き月の内部とは似ても似つかない場所だったのだ。
今なら黒き月の内部だった事は理解できるが、その時のタクトには分かるはずも無い。それも当然で、いくらタクトでも想像の遥か彼方にも存在しないような事態だったのだ。
そして出会った少女。
見慣れているはずの少女が見慣れない……否、過去の記憶の中にかすかに存在する格好で目の前に現れた時に、タクトは初めて現状が何かおかしい事に気づいた。
「ノア……?」
「…………何者?」
「いや、オレ。タクトなんだけど」
「…………タクト?」
「あ、ああ。ノアじゃ……ないのかい?」
付いて来なさい、としばらくの沈黙の後にその少女……ノアに言われて、その言葉のままに歩き始めたノアの背中を追ったタクトの目の前に、かつて戦っていた無人艦隊が現れるに至って、この異常な状況を確かなものとして認識したのだった。
「そして気がついたらエオニアの部下、か」
呆然と呟いたタクトの言葉に答える者は誰もいない。周りに誰もいないからだったが、たとえ誰かが聞いていたとしても彼の心境の全てを見通せる者は存在しないであろう。
異常な事態に巻き込まれたとは言え、タクトは運が良かったと言えるべきだろう。ノアはタクトの事をシェリーの手の者ではないかと疑い、シェリーは彼をノアの腹心ではないかと疑っていたのだ。
もしノアとエオニア達の間に確固たる信頼関係が存在したのなら、タクトは不審人物として処理されてしまっていたかもしれない。
そう考えると、タクトはシェリーとノアの間に張られた一本の細い糸の上に危なっかしいバランスで立っているのだった。すぐに状況が激変するとは思わないが、状況が変わった時の為に自分の居場所を確保しておかなくてはならないだろう。その意味ではヘルハウンズ隊に配属された事も、タクトにとっては幸運であった。
どんな理屈でこの世界にいるのかはっきりとは理解していないタクトだったが、必ず元の世界に戻るという意思ははっきりしていた。相談できる相手と言えば黒き月の管理者のノアか、シャトヤーンのどちらかだろう。その為にもまずは生き残らなくては話にならない。こんな場所で死ぬわけにはいかないのだ。
元の世界では自分の帰りを待ってくれている人がいる。……いや、待ってなどいないだろう、必ず自分を連れ戻すための努力をしてくれているはずだ。
「とは言うものの……」
もう一つ大きなため息を吐く。
過去に飛ばされただけならまだしも、よりにもよってエオニア戦役の真っ只中である。しかもエオニアの旗下に入ってしまう事になってしまった。
それはつまり、エンジェル隊との戦いを意味していた。戦いに関する限り、これ以上の恐怖をタクトは感じた事が無かった。信頼する仲間と戦火を交えなくてはいけないなど考えた事も無く、考えたくも無い事が現実のものとなって目の前に存在している。その事実はタクトの心に重くのしかかった。
しかしそれでも、現状では戦う以外の選択肢が存在しないのだ。逃げ出したところで事態は好転しない、タクトはそう考えていた。勝つ訳にはいかない、けれども負ける訳にもいかないという難題を、今のところタクトはクリアしていた。
それに、タクトが来た事により明らかに事態の流れが変わってきている事を彼は自覚していた。
以前から多少は感じていた事ではあったが、黒き月の存在が公表された事によって確定的となった。
タクトは自分の体験したエオニア戦役を思い出す。
エンジェル隊との出会い、ヘルハウンズ隊の襲来、補給の危機、絶体絶命の危機、そして……ラストダンス。
黒き月との戦いは本当に熾烈なものだった。
それらが全てではないにしろ、変化してきている。
エオニア戦役では多くの悲劇が生まれた。味方の側にも、敵の側にも。
もちろん、その過去があったからこそ現在のタクトがあるのだが、もし自分が未来から来た事によって事態が大きく変わろうとしているのであれば、起こりうる悲劇を未然のものとする事が出来るのではないだろうか。
あるいは、タクトのその考えは勝手な考えとの批判を浴びる類のものであったかもしれなかったが、戦乱を目の前にして無関心でいられるような性格のタクトではなかった。
この時タクトの思考には蘭花が心配したような『歴史が変わる』事に対する懸念は無かった。ノアが示したような理論的な裏づけがあった訳では無かったが、タクトはそれを直感で感じていたのだ。
直感と言えば聞こえが良いが実際にはなんとなくそんな気がすると言った程度のものであったから、もし蘭花の懸念が現実のものであった場合、その行動はまったくの考えなしに映ったであったろう。
しかし現実のところ今ある現実の中で最善を尽くす、というタクトの行動方針は決して間違っていなかったのだから、タクトなどは結果オーライと思っただろうし、他の仲間達ですらタクトの事だからそんなところだ、と考えたに違いなかった。
どちらにせよ、過去に来てしまったタクトが少なくない悩みを抱えながらも最善を尽くそうと努力をしていたのは事実である。
タクトは再び現状の分析に取り掛かる。
エンジェル隊とヘルハウンズ隊の接触は思っていたよりも早いものとなっていた。現在エルシオールにプローブを送り込む作戦が実行されているが、タクトの経験ではこの作戦がヘルハウンズとの最初の接触だったはずだ。
その時はプローブがクロノドライブ中に破壊されたから情報が漏れる事は無かったが、今回は確実にそうなるとは限らない。それは、エルシオールの司令官に自分と同じ名前の人物が存在する事が露見する事を意味していた。
それほど過去に対して敏感ではないヘルハウンズ隊の事である、実際に偽名を使っている者も少なくは無いのだから、名前が同じだったからと言って過敏な反応が起こるとも考えにくかったが、対応を考えておくにこした事はないだろう。
「言い訳を考えておかなくちゃ」
まるで浮気がばれる寸前の男の思考だな、と考えて思わず苦笑してしまい、そして遠く離れてしまった恋人の事を思い浮かべる。
「フォルテ……」
それまでの戦いで常に傍にあり、支えられ、励まされた大きな存在。
大きな喪失感は黒い染みとなってタクトの心を侵食してゆく。
何度かかぶりを振って瞳を閉じる。頭の中で時間の流れが逆流し風景が形を変えて過去の情景が浮かんでくる。その景色の中でタクトはフォルテと笑いあっている。
交わした言葉のひとつひとつを思い出し、触れ合ったあたたかなぬくもりを思い出し、共にいると誓った心を確認する。
ゆっくりと瞳を開いた時、景色は変わらずケルベロスの司令官室だったが、心の中の黒い染みは何処かへ消え失せていた。
「よしっ」
タクトは気合を入れてブリッジに向かって歩き出す。
トランスバール皇国暦四百十二年の戦いは『未来から来たタクト』の存在を内包して予想のつかない方向へと動き出している。
多くの戦いと幾多の悲劇の種子を持ちながら、未だ発芽したものは数少ない。
そこからどのような樹が芽を出すのか、どのような花を咲かせるのか。
まだ、誰も知らない――――――。