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視界が白く霞がかり、目の前の人物の輪郭がぼやける。しかし声は頭に直接響いてくるようにはっきりと聞こえていた。
ああ、これは夢なのだ、と意識の内側で自覚している自分が存在するのだが、その意識すら次第に白く濁ってゆく。映画を見ているような感覚から次第に登場人物の視点へとうつろい、景色がはっきりと着色されてゆく。
『シャトヤーンよ! 何故私の考えを理解しない!?』
ひときわ大きな声が口から放たれた。
……知っている。自分はこの光景を知っている。そしてこの後の結末も知っていた。
駄目なのだ。そのやり方では駄目なのだ。薄い思考がその事実を自覚するが、夢に対してそれを伝える手段を人は知らない。
『この白き月に眠っているはずのロストテクノロジーがあれば、皇国の版図はさらに広がる。そうすれば皇国はさらなる繁栄を手にする事が出来るのだ!』
『いいえ、エオニア皇子。ロストテクノロジーはむやみに触れてはならないものなのです。ジェラール陛下も私の考えに賛同して下さいました』
『馬鹿な! ジェラールはただやる気がないだけではないか!』
『皇子……その様な事を仰ってはいけません』
『手にした力を使うでもなく、ただ弄ぶだけの俗物ではないか! 力は行使してこそ意味を成すものだと言うのに、あれではただ玉座にしがみついているだけだ』
そうだ、その通りだ。何故力を行使しないのか。より大きな繁栄はより多くの富と幸せを実現するのではないか。そうすれば皇国と人々は今まで以上に幸せを手にする事が出来ると言うのに、何故シャトヤーンはそれを理解しないのだ……。
『シャトヤーンとて悔しくは無いのか。聖地である白き月を軍靴で踏みにじられ、聖女を弄ばれ、子は自由を奪われて、それでもなんの不満も無いと言うのか。私に力を貸せ。そうすれば必ずシャトヤーンにとっても良い方向に事態は進むのだ』
私には分かる。シャトヤーン、お前は無理をしている。我慢もしているはずだ。私に力があればお前達の幸せも実現してやる事が出来るのだ……。
――――――。
――――。
――。
『あまりみないかおだな。おまえはなにものだ?』
幼い声が私を呼び止める。振り返り、声の主の幼い姿を認めてすぐにひとつの答えに辿り着く。この白き月にこのような幼子は一人しか存在しないだろう。瞳には母親と同じ光が宿っているように感じられた。
先ほどまでのシャトヤーンに対する怒気がまだ残っていたので、答えを返すまでに数回のまばたきの間を必要とした。
『ああ、少しお仕事があってね』
『そうか、ごくろうなことだな』
その物言いを聞いて幼子に対する確信を深める。白き月でも皇族に対しての教育は行き届いているらしい。
『シヴァは何をしていたのだ?』
念の為に名前を加えた問いを投げかける。
『べつに、なにも。ただあるいていただけだ』
やはりこの幼子は私の従姉妹のシヴァらしく、私の質問に対してつまらなさそうな表情で答えていた。
『共に遊んでくれる者はいないのか?』
何故そんな質問が口を付いて出たのか、自分でも分からないような言葉だった。
『いない』
短く答えてそっぽを向いてしまった。
私は苦笑しかけてふと考える。シヴァはその出生から皇族に疎まれて白き月で軟禁同然の生活を送っているはずで、そう考えると友人など出来る環境ではないではないか。
シャトヤーンは自分が親を名乗る事を許されてはいない。ジェラールなどがシヴァに会う為にわざわざ白き月に足を運ぶなど考えられない。おそらく、シヴァは……一人だ。
それは、私の境遇に近いものではなかったか。私も幼い頃に両親を亡くし、親族達に疎まれながら今まで自分の力で生きてきたのではないか。
そう考えた時、私はこの小さな従姉妹に対して奇妙な親近感を抱いていたのだろう。普段の私からは考えられないような態度を取った事が、自分の中で納得に変わる。
『そうか。寂しくはないか』
『べつに。シャトヤーンさまや、せわをしてくれるものがいる』
私から視線を外して真っ直ぐ前を見つめたまま答えると、従姉妹は口をきゅっと引き絞った。
――――視界の端から徐々に色が失われてゆく感覚が私を襲った。
『私にも、両親がいないのだ』
シヴァが私を目を丸くして見つめている様子を見下ろしている。景色は色を失い、徐々に真っ白な霧が覆いかぶさってきた。
『さびしいのか?』
そして、最後に声が聞こえなくなる……。
『いや、私にも傍にいて……………』
エオニアが瞳を開くと、傍に控えていたシェリーと目が合った。
「私は……眠っていたのか」
「はい。いいえ、僅かな時間です。お疲れですか?」
肯定と否定を同時に答えたシェリーは、主の視線が自分に注がれている事を奇妙な感覚を伴って実感した。まるで少年のような素朴な光と子供のような寂しげな波を持った視線に撃ち抜かれて、シェリーは精神的な空白の時間の中をさ迷った。
「エオニアさま? ……どうかなさいましたか」
シェリーが出口を見つけるまでにはたっぷり数十秒の時間が必要であった。その間エオニアも言葉を発する事無くシェリーと視線を交差させている。
「……シェリー?」
「はい」
「いや……なんでも無い。少し、夢を見ていたようだ」
答えて一度シェリーから視線を外したエオニアだったが、すぐに思い出したように瞳を元の位置に動かす。
「ノアからの連絡はまだ無いのか?」
エオニアの口から出てきたその名前を聞いたシェリーは一瞬身体を強張らせたが、すぐに柔らかく微笑む。
「いいえ、エオニア様がお休みになっている間に連絡がありました。黒き月の移動準備が整ったようです。ヘルハウンズ隊の紋章機も間もなく完成の見通しだとか」
満足げにエオニアが頷き、右手で黄金の絹糸のような髪をかき上げた。
「シェリー、もうすぐだ。ロームに集結した蛆虫どもを叩き潰して、私達の戦いは終わる。そこから五年前は出来なかった事を始めるのだ……」
シェリー自身は、総旗艦ゼルと黒き月までも動かしてエオニア自身が総力をもって反抗勢力と戦う、という作戦には反対であったのだが、エオニアがその戦いを私達の戦い、と表現した事がシェリーにとっては何よりも嬉しかった。
エオニアにとっても、それは自分ひとりの戦いではなかったのだ。辺境に流されてから、否、辺境に流される以前より、不遇な境遇や絶望の淵にあっても変わらず自分に仕えてくれた女性の志は、彼にとって自らのそれと同一のものであると信じていた。そして、それは彼が信じた通り真実である。
黒き月の存在を公表した事の効果はまず満足のいくものだった。民衆の混乱は目に見えて収まってきたようであるし、少しずつではあるがエオニアに恭順してくる者も現れ始めている。
第三方面の情勢は詳しく分かっていないが、黒き月の情報は間違いなく届いているであろうし、それならば混乱が小さいものであるはずがない。これまではエオニアの方針で第三方面に敵戦力を糾合させていたが、総攻撃をかける時期としては今以上の機会はそうそう訪れないだろう。
背後を安定させることは遠征攻撃において最低限の条件だし、敵が戦力を十分に発揮出来ない状況は攻める側にとって有利に働く事は間違いないからだ。
エオニア軍は戦いを始める以前の段階で極めて有利な立場に立ったと言える。これはシェリーの戦略的手腕が発揮された結果であり、恐らく右往左往しているばかりであろう第三方面に集まった皇国軍人などとは、軍人としての実力の違いを示すものであった。
シェリーとしては、戦いの前の準備段階において最善を尽くしたという自信はあったのだが、過去の経験が彼女をより慎重にさせていた。もうあの時のような失敗を犯すわけにはいかないのだ。エオニア自らが軍を率いて出征するのだから、どれほど注意深くしてもやりすぎという事は無い。シヴァを抑える事が出来ればエオニア軍の勝利は確実なものとなるが、それは相手側にも言える事なのだ。圧倒的に有利な状況とはいえ、過信は禁物であった。
無言のままエオニアが立ち上がり、シェリーに向き直った。
力強い鋭さと遠くを見るような柔らかさを含んだ視線の波がシェリーの届く。
しばらく視線を交差していた二人がどちらからともなく口を開きかけた時、第三者の声が二人の間を割って入った。
「お兄さま」
声と同時にエオニアの右腕にささやかな重みが加わった。
エオニアもシェリーも声をかけられるまでその存在に気づいていなかったから、軽い戸惑いに身体を支配されている。
「あ、ああノアか」
「……ノア様」
二人同時に声を上げたが一人の声は無視された。ノアはエオニアの右腕を握る力を強めて、兄と呼んだ男の顔を見上げる。
「お兄さま、黒き月もいつでも出発できるわ。それに、紋章機も完成させたわよ」
「そうか、ノアは良い娘だ。これで白き月の紋章機とも互角以上に戦う事が出来る」
「もちろんよ。ノアがつくった紋章機だもの。白き月のオモチャなんかには負けるはずがないわ」
くすり、と声を出さずに笑みを浮かべたノアの頭をエオニアの掌がやさしく撫でた。嫌悪の表情を浮かべかけたノアだったが、無表情を張り付かせて視線を黙ってその様子を見ていたシェリーに向ける。
「言われた通りに紋章機は完成させたわ。早くヘルハウンズ隊に届けた方が良いんじゃないかしら」
シェリーは空気の粒子の性質が変化したような感覚を味わった。それはエオニアと二人でいた時に感じていた包み込まれるような温かさではなく、冬の風が運んでくる突き刺すような冷たさだった。
一度エオニアの表情を窺い、無機質な笑顔を浮かべるノアを見て、シェリーは声を低めて答えた。
「エオニア様、わたくしが先行してヘルハウンズ隊に紋章機を届けたいと考えますが、よろしいでしょうか?」
唇の端を吊り上げたノアがエオニアを見上げるが、少女の期待に反してエオニアは即答しなかった。
瞼を半分ほど閉じて、視線を落とし何かを探しているかのようにさ迷わせている。
もしかして、迷っているのだろうか。自分を傍から離れさせる事に抵抗を感じているのだろうか、と、そこまで考えてシェリーは内心で赤面した。自らの感情を恥じた為だ。
「すぐに出発すれば、エルシオールが第三方面に到着する前にヘルハウンズ隊と接触できるでしょう。マイヤーズ指令も、エルシオールの予想以上の戦力に苦労しているようです。どうかお任せください」
それでも即答しなかったエオニアだったが、やがて顔を上げて頷く事で許可の意を伝える。
「分かった。だが、第三方面は未だ敵の勢力下だ。くれぐれも無理な真似は慎むように」
エオニアからこのような指示を出されるのは初めての事だった。
「はっ! 承知しております」
背を向けようとしたシェリーをエオニアの声が振り向かせる。
「シェリー!」
振り返った反動でシェリーの長い髪の毛がふわりと広がって、やがて重力に引っ張られてまとまってゆく。外側の髪の毛が完全に動きを止めるまでの沈黙の後にエオニアがゆっくりと口を開いた。
「お前は辺境に流される以前より、よく私に仕えてきてくれた。これからも私の傍にあって、私を補佐してくれ」
シェリーはゆっくりと、そう、ゆっくりと頭を下げた。髪の毛が再び投げ出され、やがて静かに着地してゆく。
「勿体無いお言葉、まことにありがとうございます。わたくしの能力の全てを以ってお仕えする事を誓約いたします。エオニア様のお言葉が何よりもわたくしの力となりましょう」
それは図らずも五年前と同じ問いであり、同じ答えだった。しかし、お互いの心の中の思いは同じものだったのだろうか。
去ってゆくシェリーの後ろ姿を見つめていたエオニアの耳に、聞き慣れた声が聞き慣れない響きを伴って飛び込んできた。
「言葉が力になるだなんて、ヘンなの。何処かにバグでもあるんじゃないかしら」
「……ノア?」
言葉を漏らすが、ノアは反応しない。
エオニアは肌の下の神経が泡立つ不快な感覚に襲われた。確認するまでも無く鳥肌が立ち、掌はじっとりと汗ばんでいる。それはノアに対して初めて感じた恐怖だったのかもしれない。
ノアは一言も発する事無く、シェリーの後を追うようにエオニアの前から姿を消した。
/
部屋の中央に置かれたコア・クリスタルから伸びたコードがコンソールに繋がれている。その前に座った少女がせわしなく指を動かすと、それに反応するように備え付けられたモニターの上を文字が濁流のように流れてゆく。
常人が眺めたところでひとつの意味すら理解できないほどの膨大な量のデータだった。
白き月の謁見の広間でエンジェル隊に事態の説明をしたノアは、すぐにタクトの飛ばされてしまった異空間を特定するために作業を開始していた。エンジェル隊のメンバーは当然のように手伝いを申し出たが、ロストテクノロジーの解析作業においてはエンジェル隊の出る幕は無かったから、それらを丁重に断ってノアは一人での作業を黙々と続けてる。
すでに作業を開始してから丸一日近くが経とうとしていた。表情には疲労が色濃く浮かび、額や首筋には汗が流れている。それでもノアは作業を中断させようとはせず、ひたすらコンソールと向き合い、解析を続けていた。
「少しは休んだらどうだい。コーヒーを持ってきたよ」
背後からかけられた声にノアは簡潔に即答した。
「いらないわ」
「そうは言ってもね、ノアが倒れでもしたらタクトを助けられる人間がいなくなってしまうからねぇ。そう言わずに少しは休みなよ」
その言葉でようやくコンソールを操作する手が止まった。ノア自身も疲労を感じていたし、相手の言葉の正しさも良く理解できたからだ。深く、長いため息を吐いて背後に立つ人物に振り返った。ノアはそこで初めて後ろに立っている人物がフォルテ・シュトーレンである事を認識する。
「そうね、そうさせてもらうわ」
両手にカップを持ったフォルテはニッと笑って右手のカップをノアに差し出した。受け取ったノアがカップの中に目を落とすと、中の液体は漆黒ではなかった。どうやらミルクが混ぜられているらしく、一口飲んでみると想像以上に甘い。コーヒーというよりはカフェオレに近いものだ。
「甘いわ」
「ああ、そのくらいの方が好みかと思ったんだけど、違ったかい?」
なんとなく子ども扱いされた気がして、ノアは無言でカップに口をつけることで答えた。その様子をフォルテは微笑ましそうに眺めた。
「……落ち着いてるのね」
「うん?」
無言でカップの中身を半分程度飲み干した辺りでノアが顔を上げてフォルテと目を合わせた。
「落ち着いてる、って言ったのよ。自分の恋人が事故に巻き込まれて行方不明だって言うのに」
フォルテは一旦視線を外して、ゆっくりと歩きながら言葉を紡ぐ。
「そうだね……、もちろん心配はしてるさ。でもあたしはタクトを信じてる。これから先をあたしと一緒に生きていくって言ったタクトを信じてる。だから表面上は落ち着いていられるのさ」
と、フォルテは語った。ノアはそれを一種の強がりだと感じたが、フォルテの言葉に嘘は無かった。エオニア戦役より、幾つもの戦いを最も近い場所で乗り越えてきたパートナーの事を彼女は信じていたのだ。それは愛情から生まれる無制限の信頼だけではなく、タクト・マイヤーズの能力を冷静に見つめた上で、タクトであればどのような状況下におかれても冷静さを失う事無く最善を尽くすであろう、という信頼感も含まれていた。
実際にタクトはフォルテの信頼通り、過去に飛ばされてエオニア戦役に巻き込まれながらも、仲間の助けを信じて自分に出来る最善を尽くそうとしていたのだから、フォルテの言葉は他人から見れば根拠の無いものだったけれども、それは事実であった。
「それに、ノアの事も信じているからね」
続いてフォルテが放った言葉は瞬時に理解されなかったようだ。ノアは眉をひそめて首を傾ける。
「あたし達の目の前で宣言したじゃないか。タクトは必ず見つけてみせる、って」
「確かに言ったけど……」
フォルテの背中にノアの視線が注がれる。
異空間に飛ばされてしまったタクトの捜索は、確かに黒き月のテクノロジーを使えば可能であった。ヴァル・ファスクとの戦いの後、フォルテとタクトの二人が異空間に閉じ込められた時も、データの積み重ねと分析の繰り返しで発見する事が出来た。その時と違うのは、二人が閉じ込められた空間が『時間の流れ』が存在しない世界だったのに対して、今回タクトが存在していると予想される空間はそれはとは違う、過去のある一点から分岐した別の時間軸の世界なのだ。
一箇所に留まっているものと、絶えず動き続けているもの、どちらが探しやすいかは火を見るよりも明らかだった。だとしても、データの積み重ねと分析の繰り返しという地味で気の遠くなるような作業の結果でしかタクトの存在する場所を特定する事は出来ないのだし、その地道な作業を続ければ場所の特定は可能なのだという確信がノアにはあったから、一刻も早くタクトを発見するために不眠不休で作業を続けていたのだ。
しかしそれらの事情を全てエンジェル隊に話した訳では無かった。にもかかわらずノアを信じていると言ったのだ。意外な気持ちをノアが持ったとしても不思議ではない。
「今もそうやってタクトの為に一生懸命になってくれているしね。だからあたしはノアの事を信じられるし、感謝だってしているよ」
ゆっくりと振り返ったフォルテは、自分の言葉に予想外の反応を見せるノアの姿を見た。
ノアは瞳を伏せ、うつむいて右手に持ったカップをじっと見つめて動こうとしない。
フォルテは声をかけようとしたが、その場を支配した空気が彼女に言葉を発する事をためらわせていた。
「……いらないわよ、感謝なんて。あたしは恨まれこそすれ、感謝されるような人間じゃないんだから」
そう言って残ったコーヒーを飲み干して唇を噛んだ。その態度と言葉からフォルテはノアが何を気にしているのかを正確に把握していた。
「ノアの責任じゃないよ」
「あたしの責任よ。黒き月から生まれるものを意図した通りにコントロールする。管理者としては最低限の仕事なのに、あたしはそれすら出来ていなかった」
「いくら管理者だって予想の出来ない事は起こりうるだろう?」
「いいえ、これは十分に予想できた事よ。ううん、絶対に予測してそれを未然に防がなくちゃいけなかったのに、あたしは傍にいても何も出来なかった! あの時だって!」
フォルテはこれほどまでに声を荒げたノアを見るのは初めてだった。
ノアは幼いながらも、黒き月の管理者として十分な資質と実力を兼ね備えている事は周知の事実だったが、そうは言ってもやはり年端もいかぬ少女なのだ。激昂することもあれば、精神的に未熟な面もあるのだ。フォルテはそれを知った気がした。
「あの時?」
フォルテはなるべく声を抑えて柔らかく問い返した。聞かれたくない質問だったのだろう、ノアは中身の入っていないカップに目を落とし、視線をそらせた。
「なんでもないわ」
なんでも無いはずがない、それはフォルテでなくて洞察したであろう。しかしこのまま問い詰めてもノアは話してはくれない、フォルテはそう考えてた。
彼女の性格からいって、本人が話したがらない事を無理に聞きだす事は滅多に無い。しかしこの場合のノアの心境は、話したがっているのにノア自身の中の色々なものが邪魔をして話すことが出来ないように感じられた。
だとしたら、話をして心の重荷が少しでも取り除けるのだとしたら。ひとりで重圧に苦しんでいる少女を黙っていているフォルテでは無かった。
「エオニア戦役の事かい?」
ノアの身体がピクリと反応した。
「もし今ノアが何かを言ったとしても、誰もそれを責任逃れだとか言い訳だなんて思わないよ」
フォルテの気持ちはともかく、以前のノアであれば間違いなく陳腐な同情だと思ったに違いない。いや、今も陳腐な同情だと受け取ったかもしれなかったのだが、その同情が何よりも必要な時は確かに存在するのだった。
「……言い訳で、責任逃れだわ」
「あたしはそうは思わない、って言ったろ」
むしろ軽々しいほどの口調のフォルテに、ノアは諦めたような態度で息をついた。
「なんだか、初めて会った時の事を思い出すわ」
初めて『ヴァル・ファスク』の脅威に直面した時のこと。頑なに何も喋ろうとしなかったノアと、何とかして喋らせようとしていたフォルテとタクトと……。
「結果も同じさ」
諦めて話しちまいな、と言外に現れていた。
中身の入っていないカップを形だけもう一度あおって、ノアは頷いた。
「何処まで気づいているの?」
フォルテがノアに向かってにっこりと微笑むと、うっすらと頬を赤く染めて顔をそらす。
「そうだね、エオニア戦役での黒き月との戦いがノアの意思で行なわれたものではない、って事くらいは」
/
「正確に言えば気づいているんじゃなくて、あたしの予想なんだけどね」
フォルテは壁に背を向けてすがるような姿勢をとった。
「白き月と黒き月が互いに戦いの中で進化して、最終的に『ヴァル・ファスク』に対抗するっていう目的で作られたってのは理解できる。だからふたつの月は戦わなくちゃいけなかったんだろうし、その戦いの中で犠牲が出てしまうのも仕方の無い事……なのかもしれない」
仕方が無い。その言葉で片付けてしまえるほど人の命は軽いものではない事をフォルテは良く理解していた。
だが一方でそこまでしなくては対抗できない程の脅威が存在していた事も事実で、放置しておけばより多くの犠牲が生まれていたに違いないのだ。フォルテにはふたつの月の設計思想を一概に間違っていると決め付けることは出来なかった。
「……エオニア戦役の時は気づかなかった。でもノアに出会って、あたし達と同じように誰かを助ける為に一生懸命な姿を見て、それまで考えてもいなかった事を疑問に思うようになったのさ」
ネフューリアとの戦いの際、黒き月のテクノロジーを得たネフューリアが皇国を攻撃した時にノアは吐き出すように語った。『人を守る為の黒き月の力を使って、あたしの守るべき人間を殺している』……と。
銀河全体を滅ぼしかねない『ヴァル・ファスク』の最終兵器に対抗するための手段を見つけ出したのもノアだった。
ノアは常に黒き月のテクノロジーを人を守るために使ってきた。黒き月も、やはり白き月と同じように人々を守るためのテクノロジーだったはずなのだ。
だとしたら。
あの、無意味な殺りくはなんだったのか。トランスバール皇国第三方面軍の本拠地が置かれるほど繁栄していた惑星を壊滅させたあの惨劇。
今でも鮮明に思い出すことが可能だった。あの時の無力感、絶望感、怒り、全てが生々しくフォルテの心の中に存在していた。
「ロームでの戦いは戦いと呼べるようなものじゃなかった。あれは一方的な大量殺りくだったよ。黒き月と白き月が戦う事で進化してゆくのは人間を守るため、なんだろう? あれほど多くの無意味な犠牲が生まれていい筈が無いんだ」
犠牲が生まれるのは仕方が無い事なのかもしれない。けれど大きすぎる犠牲は誰も望んでいない筈なのだ。管理者であるノアがそれを理解できないとは思えなかった。
ならばノア以外の誰かがあの出来事を望んでいたというのか。
「エオニアがやった事かとも思ったよ。実際エオニア戦役の時はそう思っていた。でもエオニアは『黒き月』に操られていただけだった」
実行したのはエオニアかもしれない。だがエオニアとて、正常な判断力があれば例え勝利を得たとしてもあのような暴挙がどのような結果を生み出すのか、分からない筈が無かった。エオニアの考え方と判断力をゆがませた要因、それは……。
「黒き月との最後の戦いの時『黒き月』は明確な意思を持っていたよ。インターフェイスのノアを操り、ヘルハウンズ隊を支配して、エオニアを利用した。あれはノアの意思じゃなかったんじゃないのかい?」
フォルテは、ついに決定的な言葉をノアに投げかけた。ノアは確かに黒き月の管理者だ。しかし、エオニア戦役での戦いからはその意思が感じられないのだ。
それに、白き月との直接対決という重大な事柄が起こっているのに、まったく姿を現さないなどという事も、ノアの性格からすれば不自然に思えた。
もしノアが姿を現さないのではなく、そうする事が出来なかったのだとしたら。……それがフォルテの出した答えだった。
「そう、そこまで分かってる訳ね」
何処か吹っ切れたようなその態度は、フォルテの言葉の正しさを証明するものだったのかもしれない。
「確信があった訳じゃないけどね。あたしと、タクトと副指令と……そうだね、あとはミントあたりは気づいているのかもしれないよ」
「そう」
短く応じてノアはカップをコンソールの平らな部分に置いた。
「お察しの通り、あれは黒き月の暴走よ。ただ、あの戦いで黒き月の大部分は破壊されてしまったから、全ては推測でしかないわ」
フォルテは頷いて先を促す。
「……心を道具にしようとしたヤツの事、覚えてる?」
唐突にも思える質問に若干面食らいながらもフォルテは頷きで返した。
忘れられるはずもなかった。口では心を否定しながら心の力を利用して、その実誰よりも心の存在を羨み、妬み、欲し、その眩しさゆえに目を背けざるをえなかった悲しい青年の事を。
「心を道具にするなんて、悲しい事だわ」
「ああ、そうだね」
フォルテが同意すると、ノアはその瞳をずらしてコア・クリスタルへ向けた。
「黒き月にも、心はあったわ」
「え?」
「シャトヤーンが言っていたわ。二つの月の戦いの時、黒き月の心を感じた……って。羨望、懐かしさ、妬み、憎しみが混ざり合った複雑な感情……」
シャトヤーンはそれをエオニアが皇国に対して抱いている感情と似ている、と語った。そしてそれは『ヴァル・ファスク』の青年が心に対して抱いていた感情と同じ種類のものではなかったか。
「同じように人間を守る存在の白き月と黒き月だけど、その方法はまったく違うわ」
「白き月は人間という不確定要素を取り入れることで、揺れ幅を最大限に活かす。黒き月は反対に人間という要素を排除する事でより安定した戦力を求める、だっけ?」
「そうよ。でもこの場合は単純な方が良いわ。白き月は人間と共にあり、黒き月には誰もいなかった」
フォルテは驚きを隠せなかった。言われるまで気づかなかったのだ、黒き月が心を持っているという事の意味に。
「我ながら非論理的だと思うわ」
「心っていうのは、非論理的なものだからね」
心と、そして心から生み出される感情は非論理的なのだ。だからこそ時に人が想像も出来ないような力を発揮するのだ。
二つの月には心があった。そしてその設計思想から人間と共に歩むものと、そうでないものに別れてしまった。
長くトランスバール皇国と共にあり、人々を愛し、導き、多くの者に愛される白き月。長い年月を孤独に過ごし、守るべき対象である人々からその存在すら忘れられてしまった黒き月。
黒き月が白き月に抱いていた感情は、このような原因から育まれたものではなかったか。
黒き月は、その心で自らを生み出した人間に訴えていたのではなかったか。『何故私を愛してはくれないのだ』……と。
強い感情は力になる、愛であれ憎しみであれ。やりきれない思いが憎しみに向かったとして、誰がそれを否定できるというのだろうか。
「……全て推測よ」
フォルテは頷いたが、求めていた答えに出会えたという気持ちが芽生えていた。
ふたつの月は作られた目的を果たした。その意味でふたつの月を作成したEDENの設計思想は正しかった、と言えるだろうか。だが、それは幼い管理者と黒き月にとっては残酷なものだったのだ。訪れた悲しい破綻は、あるいは必然のものだったのかもしれない。
――――考え込んでいたフォルテの耳にガツンという音が飛び込んできた。
ノアがコンソールに自分の拳を打ちつけていた。なおも腕を振り上げるノアに駆け寄って腕を掴む。
「およし」
「あたしが……っ、あたしが黒き月の心に気づいていたらっ」
その声は大きくは無かったが聞く者の心に深く突き刺さった。
フォルテは声をかける事が出来なかった。ノアの責任ではない、とは言えなかったのだ。現実に黒き月はトランスバール皇国に大きな傷痕を残していて、それはノアと無関係ではいられないのだから。
フォルテに出来た事は、黙ってノアの赤く腫れた拳にハンカチを巻きつける事だけだった。
「今回の暴走だってあたしのせいかもしれない。あたしが過去に戻りたがっていたのかもしれないんだから……」
「過去に?」
「ええそうよ。過去に戻ったってこの世界での出来事が変る訳じゃない。でも、分岐した世界の未来は変える事が出来るかもしれない。あたしは、それを願っていたのかもしれない……」
ノアは肩を震わせて、傍に立つフォルテと目を合わせようともせず床に向かって言葉を落とした。
それは普段の彼女らしくない、根拠の無い台詞だったのかもしれない。ノアが過去に戻りたいと願ったからといって、それが直接コア・クリスタルの暴走と結びつく筈が無いのだ。それでもノアは事故の原因を自らに求めて、自らを責めて、苦しんでいた。
フォルテにはノアを責めようなど、まったく存在しない気持ちだった。
過去に戻ってやりなおしたい。それは誰もが求める、人々を捕らえて離さない魅力を持った、不毛だが甘美な誘惑ではなかろうか。
思い通りにならない現実は、常に世界に溢れかえっている。誰もが満足出来ない現実と向き合っている。そんな時に過去に戻ってやり直したいという誘惑は、強烈な芳香を伴って人を迷わせるのだ。
だがどれほど願っても、どれほど祈っても、人の手は過去には届かない。
人の手は、現在を積み重ね、未来へと繋げる事しか出来ないのだから。
「今回の事は事故だよ。それはノアも分かってるんだろう? ノアが過去に飛ばされた訳じゃ無いし、実際に過去に戻ろうとしていた訳でもないんだから」
長い沈黙があって、ノアの震えが止まった。
「あたしには友達がいるの」
「…………」
「そいつはあたしの間違いも、罪も、全部知っているのに、それでもあたしの事を友達だ……って言ってくれたわ」
「うん」
フォルテの脳裏に強い意思を宿した瞳の女皇の姿が浮かんできた。
「あたしはそいつの言葉を信じたいの。あたしの事を友達だって言ってくれた言葉の意味を、今のあたしに存在する価値を信じたいの。だからあたしは……」
ひとつひとつ、言葉を選ぶようにノアはゆっくりと語る。フォルテは安心したような、感心したような面持ちで未だにノアの腕を握っていた手を離し、彼女の頭に乗せて優しく撫でた。
ノアは、迷いながら、傷つきながら、戸惑いながらも、自らの答えをもう見つけていたのだ。
ノアは確かに黒き月の管理者として間違いを犯した。沢山の過ちと数え切れないほどの罪を背負っているのかもしれない。
けれども、ノアが過去に縛られ、囚われていたとしたら、彼女を想う気持ちは何処へ行ってしまうのだろうか。彼女を友達だと言った人の気持ちも、彼女と共に歩いて行きたいという言葉も、彼女が『現在』にいなければ、今を見つめていなければ、全て行き場を無くしてしまうではないか。
「だからあたしは……過去には逃げないわ」
胸に熱いものが込み上げて来る。
叶わない願いだとしても、人は本意でない現実を目の前にした時、過去に救いを求めずにはいられない。目の前にそれが叶うかもしれない手段が存在するとなれば、その誘惑は強烈だ。
それでも。
ノアは過去への救いではなく、いくつもの過ちの先にある今の自分と向き合い、友と歩く未来を選んだのだ。それが例え、茨の道であったとしても。
フォルテも決して軽くはない過去を持っていたから、こういう時に欲しい言葉を知っていた。
「ああ。過去ってやつは、引きずるよりも背負ったほうが歩きやすいもんだよ。……その荷物を一緒に持ってくれる人がいるなら尚更さ。大丈夫、その答えは、きっと間違っていないよ」
限界だった。
ノアの瞳から堰を切ったように涙が溢れ出してくる。
両方の手の甲で拭っても、腕で拭っても、次から次に溢れ出て止まらない。
ノアは泣き笑いの表情で声を震わせながら言った。
「ま、まったくっ。あんた達と知り合ってから、涙もろく、なってっ、やってられないわ。ホント、どうやったら、止まるのよ、これっ」
永い時間を孤独に過ごし、涙の流し方さえ忘れてしまっていた少女に、フォルテは答えた。
「簡単だよ」
それは、誰もが知っているような、とてもやさしい、涙の止め方…………。
「沢山泣けば、止まるさ」
少女は、声を上げて泣いた。