黒の大理石を思わせる光沢と色彩を持った床、そして柱や壁に至るまで黒き月の内部はその名の示す通り、黒を基調とした内装で占められている。

 白き月と違い、基本的には人間の存在を多くは必要としない黒き月だったから、ゆとりよりも機能性を重視したたたずまいを見せている。

 黒き月は、トランスバール皇国第十四代皇王エオニア・トランスバールの指揮の下、第三方面を目指して航行を続けていた。

 暗い宇宙空間の中にあって、黒き月はなお漆黒に輝き、人々に黒い輝きの意味を知らしめながらその巨体を動かしている。

 航行を共にしている艦隊や、黒き月内部に収容されている戦艦の多くは黒き月産の無人艦隊で構成され、正統トランスバール皇国軍人の操る友人艦隊は全体の二割にも満たない数であり、この事からも未だエオニアが人材の不足に苦労させられている事が窺えた。

 しかし全体の戦力は十分に強大なもので、第三方面に終結している旧トランスバール皇国軍と真正面から戦っても決して引けは取らない。そう自信を持てるだけの戦力を有している。

 この大規模な出兵にはエオニアも参加しており、シェリーはそれに先立って紋章機輸送の為に出発しているから、トランスバール本星はエオニアにしてみれば留守に近い状態となっていた。

 当然これは好ましいものではないのだが、レゾムのようにトランスバール皇国から寝返った者達と少数の無人艦隊を残して、本星を離れていた。

 白き月は依然沈黙を守っており、放置しても問題は無いとノアが判断していたし、万が一皇国軍人に裏切りの気配があれば無人艦隊がそれを叩くようになったいたので、エオニアは安心して……とまではいかないまでもある程度の自信を持って戦いの途についている。

 この行動は戦略的に見ても利点は多くない。戦いに赴くという、そして本星を留守にするという危険を冒しているし、理性的判断をすれば、何もエオニア自身が出向く事はないのだ。彼は本星で指揮を執り、無人艦隊やシェリーが戦い、その結果を待っていれば良い。そんな事は彼も承知していたのだが、それでも自身で決着をつける事に彼はこだわっていた。

 エオニアから希望や未来を奪い去り、挫折と絶望とを与えたほんの数年前の出来事。あの忌まわしい出来事は未だに彼の翼を縛り付けているかのようであった。この鎖を解くのは自らの手でなくてはならないと、そう思ったのかもしれない。

 あるいはそのように思うこと自体が、自由に思考の翼を広げる事が出来ていない証拠とも言えるのだろうか。いずれにせよ、自分の手で決着をつける、その意思は固かった。

 

 シェリーが出発してから一日の遅れで黒き月もトランスバール本星を出発した。

 道程は順調そのものであったが、ノアは姿を見せる回数が激減し、出発してから数日後にエオニアの前に姿を現したかと思うと、

「お兄さま、ノアはやらなくちゃいけない事があるから先に行くわね。大丈夫、後の事は全部黒き月がやってくれるわ」

 そう言い残していずこかに姿を消した。 

 

 エオニアは本星から送られてくるデータや報告書を元に政務に励んでいたのだが、そんな状態が数日間も続くと、今までに経験した事のない落ち着きの無さを感じていた。

 思えば、これまでの彼にはシェリーがずっと傍にいて補佐をしてくれていた。たったの数日間と言えど、それを失った事など無かったのだ。

 今シェリーがエオニアから離れているのは、彼女からの申し出があったとは言えエオニアの命令によるものだが、彼はその事をすっかり忘れてしまったかのようだった。

 シェリーが傍にいない事に対する小さな苛立ちのような感情のトゲが、ちくちくと不快な痛みを与えてくる。

 エオニアは気づいただろうか? その感情が人々から寂しさと呼ばれている事を。彼は自らを孤独だと思っていたのだが、それは果たして正しい事だったのだろうか。

 そんな小さな苛立ちを振り切るようにエオニアはいつも以上に仕事をこなしていたのだが、それも一段落すると何をするでもなく黒き月の内部を歩いていた。要するに気分転換の散歩をしていたのだが、エオニアの有するボキャブラリーの中には気分転換の散歩の文字など存在していなかったので、自分は何をやっているのだろうかと考えても答えは出なかった。

 気苦労の絶えないどこかの副司令官が聞いたら、自分の上司に爪の垢でも煎じて飲ませたいと本気で考えたかもしれない。

 とは言うものの、この際エオニアの生真面目さはかえってマイナスに働いているようであった。

 

 所在なさげに視線を迷わせながら行く所なしに歩いていたエオニアの耳に声が飛び込んで来たのは、普段はあまり立ち入る事の少ない黒き月の中心部近くを歩いていた時だった。

『……っと………た!』

 空気の震えを感じる。

 遠くから聞こえてくるような、それなのにすぐ傍でから聞こえるようなそんな不思議な現象。

 エオニアは立ち止まり、辺りを見回す。

 床、壁、そして天井。変わった様子は無い。

 気のせいだったのだろうか。そう考えて再び歩き始めようとしたその時、

『…………いの!?』

 今度はよりはっきりと聞こえてくる。

 耳をすませていたせいだろう、気のせいなどではなく、確実に何かが聞こえる事が認識できた。

 もう一度辺りを見回すが、やはり何も異変は感じられなかったが、声らしきものは断続的に聞こえてくる。

『こ………』

 聞こえるのは間違いないのだが、やはりどこから聞こえてくるのかは判断が出来ない。

 首をひねり、もう一度視線を迷わせたところで、視界の端に小さな光が飛び込んで来た。

 一度通り過ぎた視線をもう一度戻すが、その時には既に光は消えている。

 エオニアはそれが気のせいだとは思えず、その方向に歩みを進めると、黒き月にしては珍しく広いホールのような場所に出た。

 そして再び光が彼を導く。

 先程と同じように一瞬だけの光が遠くで瞬く。まるでエオニアを誘っているかのように。

『こっちよ!』

 声が、聞こえた。

 ようやくはっきりと聞こえたその声は聞き覚えのあるものだった。

「なんだ、ノアか。一体どうしたんだい?」

 その場で声をかけてみるが、返事は無い。

 一体どうしたのだろうか、疑問に思いながらもエオニアは光を追って歩を進めることにした。

 聞こえた声はノアのものだった。何が起こったのか分からないが、声の言うとおりにしても問題は無いだろう。そう考えたのだ。

 光は自らを見失わせる事無く瞬き続ける。

 エオニアが光を追って来る事に満足したのだろうか、声はそれっきり聞こえなくなった。

 つかず、離れず。奇妙な光との追いかけっこを演じていたエオニアの前に、周りの光を全て吸収しているかのような巨大な壁が現れた。

「行き止まりか……?」

 その壁は黒き月の内部にあって、ひときわ黒い、深黒とも呼べる姿をしていた。

 左右に首を振り、上を見上げ、後ろを振り返るがもう小さな光はどこにも無い。

「ノア! どこにいるんだ!?」

 それほど大きな声を出した訳ではなかったが、壁で跳ね返り反響した声が響く。

 しばらくの後に、完全な静寂。

 返事は無い。

 エオニアは右手をゆっくりと目の前の深黒の壁に触れさせた。

 瞬間。

「なっ……」

 強烈な力がその腕を引っ張った。壁にぶつかる寸前に反射的に目を閉じる。

 つけていたマントが翻り、足が床から離れる。

 しかし、衝突音は無い。

 

 もうそこには誰もいない。

 時さえも凍えるような沈黙が横たわっていた。

 

 

 

 

 

 /

 

 

 

 

 

 ゆっくりと目を開けたエオニアは、自分の周りに赤黒い光にあふれている事に気がついた。 

 気を失っていたのだろうか? しかし両足はしっかりと床を踏みしめて彼の身体を支えている。

 通常であれば焦って当然の状況だったが、辺りに満たされた空気は不快なものではなくエオニアを落ち着かせている。

 彼はゆっくりと状況を確認してゆく。

 神殿のようなつくりの部屋だった。エオニアは白き月の内部にも入った事があったから、この場所と白き月の神殿との類似に気が付いた。

 おそらく、この場所は白き月で言う所の『謁見の広間』なのだろう。

 部屋の中央には巨大なクリスタルが安置されており、赤い静かな光をたたえている。部屋に満たされている光はこのクリスタルが発するものか、と一瞬考えたが、壁や柱そのものもクリスタルには及ばないが発光しているようであった。

『やっと来たわね』

 と、エオニアをここまで導いた声が響く。今度は何処から発せられている声なのかはっきりと理解出来た。目の前のクリスタルからのものだ。

「ノアかい? 一体どうしたんだ?」

『…………』

 エオニアの問いかけに一瞬の間を挟んで最初の問いに答える。

『ええ、あたしはノアよ』 

 そして二つ目の質問には答えずに続ける。

『とりあえずノア様と呼びなさい。不愉快だわ』

 この物言いには怒りよりも驚きが勝った。

 エオニアの知る限り、ノアがこのような態度を取った事など一度も無いはずだったのだ。シェリーに対する態度には若干のとげとげしさはあったが、このような高慢さとは無縁だった筈だ。

 驚き、戸惑っているエオニアをよそに声は涼しげな調子で続けてゆく。

『とりあえず、目の前のコア・クリスタルに手を触れさせなさい。話はそれからよ』

「あ、ああ」

 エオニアはゆっくりとコアクリスタルに歩み寄り、右の手のひらをかざすようにして表面に近づける。

 数瞬のためらいと幾拍かの迷いの時を突破したエオニアが手のひらを赤いクリスタルに触れさせる。

 ――――バシッ。

「ぐっ」

 小さな炸裂音と白い閃光を生み出し空気が弾ける。

 手のひらに熱さを感じてたまらず腕を引っ込めるエオニア。

 左手でクリスタルに触れた手のひらをさすり、火傷も怪我も無い事を確認したところで背後に生まれた気配に気づく。

 振り返るとそこには良く見知っているはずの少女が睨みつけるように彼を真っ直ぐに見ていた。

「…………ノア?」

 確認するような口調になったのは、ノアが普段とは違う格好をしていたからだ。

 いつものボディスーツではなく、ゆったりとした黒のローブに身を包んでいる。ムチ状だった腕も少女のものは五本の指を持ったエオニアのそれと変わらない。

「ええ、あたしが黒き月の管理者。ノアよ。実際に会うのは初めてね」

 それが決定的な言葉だった。エオニアはようやく目の前の少女が普段から見知っている『ノア』ではない事を認識した。

「何者だ?」

「だから、黒き月の管理者のノアだって言ってるじゃない。聞こえなかったの?」

 そして馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

「ああ、言っておくけどあんたが普段ノアだと思っているのは、あたしが眠っている間の代役のインターフェイスよ」

「なっ」

 エオニアは絶句した。これが他の者に言われたのであればこれほどの衝撃は受けなかったであろう。その言葉を信じなかったかもしれない。

 だが今目の前にいる少女は黒き月の神殿で出会った少女で、見た目は彼の知るノアと瓜二つだ。にわかに信じる事は出来なくとも、彼の信じるものに強烈な一撃を加えたのは間違いない。

 衝撃はそれだけでは終わらなかった。

「あんたには曲がりなりにも手を貸して貰ったから教えておいてあげるわ。あんた、インターフェイスに騙されて利用されているわよ」

「な、何を……」

「何が原因かははっきりしないけど、黒き月とインターフェイスが暴走しているのは間違いないわよ。管理者であるあたしをコア・クリスタルの中に閉じ込めて出てこられないようにしたんだから」

「暴走だと?」

 そんな筈はない、と思う。エオニアは実際にインターフェイスのノアに救われて、彼女に導かれてここまで来たのだ。そしてそれは彼の願う道と同一のものだった。黒き月の管理者を名乗る少女の言葉こそを彼は不審に思い、不快でもあった。

「作ったものが思い通りに動かない事を暴走って言うのよ。管理者を排除して、あんたという駒を利用した。黒き月本来の目的の目的とはかけ離れた行動よ」

 ノアの言葉のひとつひとつがエオニアの不快感をざわざわと刺激する。

 自身を駒呼ばわりされて黙っていられるほど彼のプライドは軽くはない。

「ふざけた事を。『ノア』は現体制を打倒し、来るべき繁栄の新時代を迎える為に私を選び、手を貸しているのだ」

「来るべき繁栄の新時代、ねぇ……」

 ノアは深いため息をつく。

「そうだ。黒き月の力は皇国にさらなる繁栄をもたらすのだ」

 それはエオニアが信じる『黒き月と白き月の作られた目的』であった。それは確かに間違ってはいないものだったが。

 腕を胸前で組み、背をそらせたノアが厳しい視線と口調をエオニアに向ける。

「で、あんたは皇国を平定させた後、何をするの?」

 コア・クリスタルの中に閉じ込められていても外の様子を知る事は出来ていたのだろう。ノアの質問はエオニアの目的を知っているからこそのものだった。

「無論、皇国の版図を広げる。皇国の外には未だ多くのロストテクノロジーが眠っている」

「そうね」

「それらは皇国の発展の力となるだろう」

 皇国民に向けた演説と同じ内容の言葉をエオニアは繰り返した。そんなエオニアをノアは鼻で笑う。

「馬鹿じゃないの?」

 あまりと言えばあまりの直球に若き皇王は言葉を失う。

「皇国の外には外敵がいるわ」

 続いて発せられた言葉は言葉だけでなく顔色さえ奪う。

「皇国の外にロストテクノロジーがある? ええ、あるわよ。それ以上に危険な外敵もいるけどね。それこそ白き月と黒き月が束になって戦わないと勝てない程強大な敵がね」

「…………」

「それなのにわざわざこっちから出て行くなんて、国を滅ぼして下さいって言っているようなものじゃない。この国がここまで繁栄してきたのは版図を広げたからじゃない。逆よ、版図を必要以上に広げなかったから奴らに気づかれなかった」

 知識を持つものの言葉が知らざる者に重くのしかかる。

「あんたが言っているのは、無知から来る幼稚な理論だわ。求める事の危険を認識もせず、知ろうともしない。そんな狭い視野と固い頭でどうして国を導けるって言うのよ」

 エオニアにこれだけの辛らつな意見を投げかけた者はいない。エオニアは強烈な怒気によってこれに報いようとしたのだが、この小さな弾劾者に対してなかなか反論する事が出来なかった。彼女の言葉を受け入れたからではない。彼の感情が怒りの色に染まり切らなかったからだ。

 これまでエオニアに対してきた者が彼の意見を聞いた時の反応は大きく二分される。同情されるか、嘲笑されるか。多くの貴族達からは没落した王族の戯言と捕らえられ、彼の下にいる者からは反論こそしないものの消極的な意見しか聞く事は出来なかった。

 ごく少ない例外がシャトヤーンとシェリーで、前者は同情を含んだ反論を、後者は全面的な肯定を返している。

 エオニアはこれまで自らが認められない事を常に不満に思っていた。だがそれ以上に自らの意見をまったく真面目に考えてすら貰えない事を悔しく思っていたのだ。

 ノアの反応は完全な対立意見だったが、エオニアの意見をしっかりと受け止め、その上で今まで誰もしなかった方法で投げ返してきた。こんな小さな少女に反論出来ないというのは彼にとって屈辱だったが、それ以外の色をした感情も確かに存在している。

 だからかもしれない。エオニアの口から出てきた言葉はノアが、そしてあるいはエオニアすら想像していなかったものだった。

「では、どうすれば良いのだ?」

 途端に目を丸くしたノアが目をそらす。

「なっ、何よ、頭が固いかと思ってたら、そうでもないじゃない。別に、それならちょっとくらいは助言してあげるわよ」

 先程までの鋭さが消えて一気に年相応の雰囲気になった少女が頬を薄く染める。その様子がエオニアにとって微笑ましく映る。

「話を聴く気があるなら、もう一度言うわ。あんたはインターフェイスに騙されている。このままだと行き着く先は国の繁栄でもなければ安定でもないわよ」

 表情を引き締めて湧き上がる怒りの感情を懸命に押さえつける。

「根拠はあるのか。それにお前が正真正銘本物の管理者だという証拠は?」

 ノアは悔しそうに唇を噛む。

「……無いわ。今のあたしはインターフェイスに全ての権限を奪われてる。黒き月にアクセスする事も出来ない。さっきみたいにセキュリティの目を盗んであんたをここに誘ったのが精一杯よ」

 そう正直に答えた。ここで嘘を言うのは簡単だったが彼女はそうしなかった。先程もセキュリティの目をエオニアに向けさせる事で出来た一瞬の隙をついて、コアクリスタルからの脱出に成功したのだが、無論脱出しただけで事態が彼女にとって好転しているとは言えない。

 管理者としての責務を果たすためには、何らかの助けが必要な状態だった。そこまでエオニアに伝えた訳ではなかったが。

「あたしを白き月まで連れて行きなさい」

「なに?」

「白き月の管理者に会えばあたしの言っている事が本当だって分かるわ」

「管理者? 月の聖母、シャトヤーンの事か?」

「そう、白き月の管理者はそんな風に言われているのね。まあ何でも良いわ」

 エオニアは少し考えて首を振る。

「駄目だろうな。今白き月は何らかのシールドに覆われていて通信も攻撃も受け付けないのだ」

 インターフェイスのノアですらどうする事も出来なかったのだ。目の前のノアがそれを解決出来るとは思えなかったのだが、あっさりと出てきたのは否定の返事だった。

「大丈夫よ。管理者同士が通信するための手段くらいあるわ」

「そうなのか?」

「ええ」

 白き月のシールドを解除する方法がある。それはエオニアにとってしてみれば非常に魅力的なものだった。五年前には拒絶され手が届かなかった白き月を自らの物にする事は、彼の心にのしかかる枷のひとつを外す事だったのかもしれない。

 だが、真実がどうであれ、目の前の少女と『ノア』が敵対している事は間違いがなさそうであったから、もしエオニアが少女に力を貸したとしたら、それは『ノア』に対する裏切りに他ならない。

「もう一度言うわ。あんたは騙されてる。このままだと遠からず裏切られるわよ」

 そんなエオニアの心情を察してか、ノアの言葉がエオニアを迷わせる。

 視線を泳がせ、熟考する。

 五年前、彼はジーダマイアを信じて裏切られた。そして今もまた同じ事を繰り返そうとしているのだろうか。ノアの言葉がきっかけで芽生えた『ノア』への不審は、苦々しい思い出を伴ってエオニアの心を捕らえている。

 しかし、それでも……。

「お前の言葉を信じるには情報が少なすぎる」

 今まで助けてきてくれた『ノア』を簡単には裏切られるものか。

 ノアはその言葉を意外よりも納得をもって受け入れた。

「そうでしょうね。そう簡単にあたしを信じられないのは理解出来るわ」

 拳を握り締め、俯く姿に影が落ちる。

 

「でも……ごめんなさい。これはあたしのミスだったわ」

  

 エオニアは言葉の意味が理解出来なかった。何故彼女が突然謝るのか。

 疑問符のついた表情のエオニアを真っ直ぐな視線が射抜いた。

「インターフェイスはわざと隙を作ってあたしとあんたを接触させたみたいだわ。あたしはまんまとそれに乗せられたってわけ」

 それでもまだエオニアの思考が理解に追いつかない。

 ノアの言葉に続くように黒き月を振動が襲った。

 微弱な、立っている姿勢を維持できる程度の揺れだったが、その揺れは途切れる事無く続く。

「話は後よ。すぐに黒き月を脱出するわ。付いて来なさい」

 それ以上は何の説明も無くノアが駆け出す。

 エオニアは彼女とは当然初対面だったから理解できていなかった。

 もしノアの事を知る者がいたとしたら、彼女の態度から事態の深刻さを知ったに違いない。

 あのノアが。脇目も振らず、自らの足で、額に汗を浮かべながら。ただひたすら走っているのだ。

 エオニアは反射的に彼女の後を追って走り出した。

 

 

 

 

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 巡洋艦スターフラグメントの艦長を務めるブラウン・ノーツは平民出身の皇国軍人で、年齢は丁度ルフト・ヴァイツェン准将と同じである。

 もっとも同期の、と言うより平民出身者の中でも飛びぬけて階級の高いルフトと違って、ブラウンの地位はエオニアのクーデター直後に少佐になったばかりだ。それまでは長く大尉の地位にあり、巡洋艦の乗組員として働いていた。戦闘の経験こそ少ないものの、危険宙域を航行する民間船の護衛や訓練航行など、多くの乗船経験を持つベテランの乗組員である。  

 そんな彼だったが、エオニアの起こしたクーデターが勃発した際は戦闘に参加する事は無かった。

 彼自身には何の責も無いのだが、それまでスターフラグメントの艦長を務めていた若い貴族の艦長が本物の戦闘に怯え、出撃をためらっている間にクーデターが集結してしまったのだ。

 皇王となり正統トランスバール皇国軍を組織したエオニアは、旧皇国軍人に正統トランスバール皇国軍に帰順するように布告を出した。

 多くの平民出身の軍人達は、戸惑いながらもそれに従った。

 彼らにとって、皇王が変わろうが、政治体制が変わろうが、しっかりと生活できるだけの給金を保障してくれる者であれば従う事にためらいは無いのだ。旧皇国軍を裏切った、と感じている者は極めて少ない。

 そして、エオニアは正統トランスバール皇国軍に帰順した平民たちの階級を昇進させて、彼らの評価と忠誠心を得ようと図った。今のところそれは彼の目論見通りの結果を出している。

 ブラウンもこのエオニアの措置によって昇進を得た一人だったが、彼はその事をそれほどは喜んでいなかったようである。

 彼には妻子と孫までいて、自分が正統トランスバール皇国軍に帰順しなければあるいは家族に害が及ぶかもしれない、と考えていたのだ。エオニアは自分に従わない人々をすぐさま粛清したりはしなかったが、もしかしたら、と考えてしまうのは無理もない。

 だから害どころか昇進の結果までついてきた現状を小さくない驚きをもって迎え入れたブラウンだったが、息をつく暇もないままスターフラグメントの艦長への就任、そして第三方面軍への出征を命じられる事となる。

 無論戦闘慣れしていない彼に恐怖の感情が無いはずがない。ましてや相手はつい先日まで同じ旗の下にいた者達なのだ。相手にも多くの平民達がいるはずだった。

 それでも彼は命令に従った。前述したように家族に対する不安もあったが、今のところエオニアの統治によって皇国軍は、平民出身の軍人達に良い方向に変革されている。もし若き皇王の言うようにより大きな繁栄が得られるとしたら、それは平民達の生活も豊かにするものかもしれない……。

 ブラウンはそのように考え、正統トランスバール皇国軍の旗を仰ぐ事を決めたのだ。

 一度腹を決めてしまえば、さすがは刻んできた年輪は伊達ではなく、スターフラグメントの乗組員達を良く指揮して黒き月の出征に同行している。

 

 最初に異変に気づいたのはスターフラグメントの通信を担当する兵士だった。

 この時スターフラグメントは整備の為に黒き月のドックに停泊しており、ブリッジには彼を含めて数人が待機しているだけで、多くの乗組員は交代で休息を取っている。トランスバール本星を出発して以降一度の戦闘も無く、こちらも航行しているとは言え巨大な黒き月の内部にいるという事実は、彼ら乗組員の心に安心感を運んできた。

 だからブリッジにいてもある程度の気の緩みはあったかもしれない。そんな状態にあったスターフラグメントだが、黒き月の外部で航行していた友軍艦から流れてくる通信はその空気を無残にも切り裂いた。

 通信回線をこじ開けて幾つもの悲鳴にも似た叫びが飛び込んできたのだ。

 その殆どが助けてくれ、といった意味を成さない叫びだったのだが、ごく少数の情報を伝える通信を総合すると、どうやら黒き月の外部では戦闘が行われており、それは『謎の敵』に突然襲われての事らしかった。

 報告を受けたブラウンはすぐにブリッジに足を運んだ。彼は艦長室で報告を受けてすぐにやって来ており、同じように報告を受けていた他のブリッジ要員全てに先着してブリッジに姿を現した。しかしそれでも表面上は慌てたり焦ったりといった様子は見られず、部下達にさすがブラウン新艦長は頼りになる、と思わせた。

 ブラウンはすぐに外の状況の把握を指示したが、結果は芳しいものではなく、それまでに判明していた以上の事は分からない。

 彼は出撃するべきか、このまま待機を続けるべきか一瞬悩んだが、すぐに決断を下す。

 ここは、上の指示を待つべきであろう。

 そう決めた彼はすぐにでも出撃と戦闘と行えるように準備をさせ、部下達に待機を命じた。

 それからの十数分、あるいは長く感じただけで実際には数分だったのかもしれない。

 スターフラグメントはかつてない緊張感に包まれていた。

 ゆえに、彼らの背後で扉が開く音がした時、ブリッジにいた全員がその音を認識し、音の正体を確かめようと視線をブリッジの出入り口に向けた。

 青年と、子供だった。

 二人とも褐色がかった肌と目の覚めるような金髪を有している。

 目の前にいる人物が誰なのか。瞬時に理解できた者はスターフラグメントのブリッジクルーの中にはいない。

 前触れも無くブリッジに入ってきた二人のうち子供……少女が二歩、三歩と前に出た。自然と視線が彼女に集まる。その小さな身体の許容を超えるかのような量の注目を平然と受け流している。

「艦長は誰?」

 少女が口を開く。見た目通りの少女らしい声だ。

 ブラウンが一呼吸置いて立ち上がり応える。

「私だが」

「すぐに艦を発進させなさい」

 少女の口から続けて出てきたのは、質問でも要望でもなく、命令。

 さすがのブラウンもこれには完璧に言葉を失った。

「聞こえなかったの? すぐに艦を発進させなさい。外に出たらすぐに黒き月から離れて頂戴」

 変わらぬ命令口調の少女だが、ブリッジは確実に彼女に支配されていた。ブラウンが少女の後ろに立つ青年の正体に気づかなければ、その言葉に従ったかもしれない。

 ブラウンは目の前にいる青年に見覚えがある事には、彼らがやって来た瞬間に気づいていた。しかし、記憶の糸がその青年とトランスバール皇国皇王を探し当て、結びつけるまでには若干の時間が必要だったようだ。

 無理もない。皇王ほどの地位にある者が一介の巡洋艦にどうして足を運ぶというのか。考えられるあらゆる可能性の外の出来事であった。

 ブラウンの記憶の糸が認識を司る針の穴に通った時、彼は思わず声を上げた。

「え、エオニア様……」

 声が上ずり、思ったように発音する事が出来なかったが、エオニアは自分の名が呼ばれた事を知り、ブラウンに向かって頷く。

「艦長、名を何と言う?」

「は、はっ! ブラウン・ノーツ少佐であります、陛下」

 弾かれたように敬礼を施した艦長に続くようにブリッジのクルー達も立ち上がり、敬礼を皇王に向けた。

 自分を無視された形になったノアが面白くなさそうに腕を組む。

「そうか。ノーツ少佐、外の状況はどうなっている?」

 ノアが小さく、そんな事をのんびり聞いてる時間なんて無いってのに……、と漏らしたがそれを聞かせる意思は無かったようで、二人の会話の邪魔にならないように立ち位置を動かしている。    

「ハッ、外では我が軍が何者かに攻撃をしかけられている様子であります」

 エオニアが顔を動かさずに目線だけをノアに向けた。

 ノアは頷く。

「そうか、分かった。ノーツ少佐、しばらくこの艦を使わせてもらうぞ」

「了解いたしました!」

 再び敬礼をし、艦長デスクから退くブラウン。

 ノアとエオニアがその場に進み出て、ブリッジを見渡す。

「出撃準備は?」

「いつでも可能であります」

「上出来よ。出撃したら、とにかくすぐに黒き月から距離をとる事。間違っても戦闘をしようなんて考えちゃ駄目よ」

 ノアの命令は今度は速やかに実行に移された。クルー達が持ち場につき、鈍い振動と共に艦が動き出す。

 その場にいたエオニア以外の者はノアの存在を知らない。けれども、彼女から命令される事をもう誰も疑問に思っていなかった。皇王の傍にあり、彼女が命令している事を皇王が無言の肯定を示しているのだ。彼らがそれに従うのは当然の事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外に出た彼らが見たものは、予想に反して戦闘ではなかった。

 戦闘であった方がいっそ良かったに違いない。

 そう、それはもう戦闘と呼べるものではなかったのだ。混乱して逃げ惑う正統トランスバール皇国軍を狩りをするかのように追い立てている無人艦隊。

「急ぎなさい!」

 一瞬呆然としかけたスターフラグメントの乗組員達をノアの声が叱咤した。

 動揺する心を押さえつけ、彼らは艦を動かす。

 ノアは艦長デスクに備え付けられたキーボードを叩いている。

「識別信号を誤魔化してみるわ。少しは時間を稼げるはずよ」

 背中越しにエオニアに説明する。

 が、エオニアにその言葉は届いていなかった。

 エオニアは目の前の惨状に心を奪われている。

 一体何が起こっているというのか。

 どうして味方同士である筈の無人艦隊と皇国軍が争っているのか。

「言ったでしょう。インターフェイスは最初からあんたを利用しようとしていただけ。あんたは裏切られたのよ」

 大きくはないその言葉が確実にエオニアの元に届く。

 きつく唇を噛み、震えるほどに拳を握り、俯いた口から吐き捨てるように言葉が落とされた。

「裏切りには、慣れている…………」

「…………」

 この時のエオニアは気づいていなかった。ノアの彼に向けられる言葉は、彼女自身にも向けられていた事に。インターフェイスと黒き月に裏切られたのはエオニアだけではなかったのだ。付き合いの長さは、エオニアよりもノアの方が遥かに長い。もしかしたら、この時最悪の裏切りを受けたのはノアだったのかもしれない。

 スターフラグメントは攻撃される事なく徐々に戦闘宙域から離脱している。

「何をするつもりなの! まさか!?」

 ノアの慌てたような叫びの直後。黒き月から不可視の波が放たれた。

 それが何であったのか。それを知らせたのは通信回線に飛び込んできた声達だった。

 

『エンジン出力があがりません!!』

『うわあああああ!! 敵が、敵が近づいてきます!!』

『たっ、助けて! 助けてくれ!! 誰かあああああ!』

 

「通信を切れ」

 険しい顔でカチカチを歯を鳴らしていた通信担当の兵士は、ようやく真後ろに艦長が立っているのに気づいた。

 震える手で機器を操作し、三度も誤操作をしてようやく通信をカットする事に成功する。

『な、なんだあれは……』

 通信が切られる寸前に流れ込んできた誰かの言葉。

 そして、黒き月から放たれた砲撃が宇宙を串刺しにする。

 それはまるで巨大な光の杭が打ち込まれたかのようであった。目を開けていられない程の光の洪水が収まると、砲撃の通ったであろう場所がぽっかりと漆黒の闇に沈んでいる。

 周辺には無人艦や皇国軍艦が存在する証である光と影が見えている。

 砲撃が通った場所には何も無い。それが何を意味するのか、分からない者はいない。

 その光景を目の当たりにしたスターフラグメントの乗組員の多くは目をそらした。

 エオニアは呆然とその光景を見ている。

 ノアはモニターに映る黒き月を睨みつけた。

 

「なんだ、これは……。この力は何なのだ……。ノア……、黒き月は、黒き月の力は、皇国に繁栄をもたらすものではなかったのか……。私は、導き手となれるのでは、なかったのか……」

「やって、くれたわね。人を守るための力を使って、あたし達が守るべき人間をこんな風に殺すなんて。絶対に、絶対にこのままじゃ終わらないわよ……。黒き月の、管理者として……」

 

 その言葉は誰に聞かせるでもなく、誰に届くでもなく、言葉を発した本人にのみ届くのみでその役割を果たした―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「何故ですか!? 皇子は今はまだご健在なのですぞ!? せめて、せめてこのワシに艦隊をお貸し下さい!」

 そんな老将の声を背後に聞きながら、第三方面総司令官シグルド・ジーダマイア大将は会議室から退出した。

 近衛軍衛星防衛艦隊に所属するルフト・ヴァイツェン将軍がクリオム星系駐留軍を率いて無事第三方面軍の拠点が置かれている惑星ロームまで辿り着いた事は、暗いニュースばかりの反エオニア勢力にとって久しぶりの明るいニュースであった。

 その上ルフトがもたらしたシヴァ皇子及びエルシオールと紋章機健在の知らせは、彼らの士気をおおいに高めた。

 ところが、すぐにでもエルシオールを助けに軍を動かすようにとルフトが進言した意見は支持を得られなかった。

 黒き月の無人艦隊は強大で危険が大きすぎる事。エルシオールの現在位置が知れない事。エルシオールには皇国最強の紋章機がついており戦力に不安が無い事。などが理由としてあげたれたが、語られなかったもののそれ以上にルフトが平民出身の将校だった事が影響していた。

 もしこのままルフトの言うとおりに行動してシヴァを救出した場合、当然第一の功績はルフトに帰する。

 それは貴族出身者で固められてた第三方面軍の幹部達にとって面白くない事だったのだ。

 黒き月という脅威が目の前にあるにもかかわらず、結局彼らは最善と思われる策をとる事が出来ないでいた。もしかしたら、クリオム星系からほぼ無傷で艦隊を脱出させる事が出来た事実が彼らを安心させてしまったのかもしれない。この上エルシオールと紋章機があるならば、エオニア軍恐るるに足らず……。そのような意識が蔓延してしまっていたのだろうか。

 

 そんなある種救いようのない楽観的な思考者の頂点に立つジーダマイアが自室に戻ると、突如声をかけられた。

「あなたがシグルド・ジーダマイア?」

「なっ、何者だっ!?」

 ジーダマイアは慌てて部屋の中を見渡す。声の主はすぐに彼の目に留まった。

 部屋の中央に小さな少女が立っている。

「あなたが、ジーダマイア?」

 声の主が少女だと分かったせいだろう。ジーダマイアは落ち着きを取り戻し、ゆったりと頷いた。

「うむ、その通りだ。貴様、何処からここに潜り込んだ?」

 その質問には答えず、少女はうやうやしく一礼する。

「シグルド・ジーダマイア様、あなた様をお迎えに上がりました」

 下げた頭の下で少女は微笑む。その表情はジーダマイアからは見る事が出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「黒き月に、真に相応しい、主として――――――」