月、それは魔性
月、それは道標
月、それは希望
月、それは絶望
月、それは憧れ
月、それは約束
月、それは―――
Moon`s blessing
静寂の夜、ただ一つさざ波の声がそっと水面に、砂浜に、辺りの全てに優しい歌声を聞かせている。
皆その声にじっと耳を傾け、言葉を発さない。いつまでも静かに、皆その声に聞き入っていた。
それは、彼ら二人も同じだった。
まっ平らな水面から、一つだけ大きくはみ出した半楕円形の小島のような影、
その上に、肩を寄せ合い、何も言わずに上空の月―満月を見上げる、二人の男女の姿があった。
男の方は、この儀礼艦エルシオールの司令官であり、皇国の英雄でもある。名はタクト・マイヤーズ。
女の方は、彼の最愛の人であり、エンジェル隊最年少でありながら、エースパイロットでもある。名はヴァニラ・H。
彼らは今、エルシオールの憩いの場の一つでもある、クジラルームにいる。
そしてそこに住まう最大の住人、宇宙クジラの背中の上で満天の星空、満月を眺めていた。
超文明EDEN、否、人類の最大の敵“ヴァル・ファスク”、この種族達との銀河の平和を賭けた決戦前、二人はこの場である約束を交わした。
『この戦いが終わったら、宇宙クジラの背中に乗せてもらって、いつまでも月を二人で眺めていよう』と。
二人は今、その約束を行動にしている。
片時も互いの肩を離すことなく、ずっと黙ったまま、ホログラムの星、月、雲を見つめていた。
たとえ、目の前のものが立体像であっても、彼らにとって、月ほど、普遍的な価値、意味を持つものはないだろう。
それは、全ての始まりであり、終わりであり、そして何より、彼らの守るべき、帰るべき場所であったのだ。
いつしか、二人の眼は月を捉えなくなった。全ての記憶が光となって、宙を駆け巡った。
*
ムーンエンジェル隊――彼女達は、その誰もが個性の塊で、強烈な印象を与えられた。
それはヴァニラ、君も同じだった。
でも、始めは君より、むしろミルフィーや蘭花から受ける印象の方が強かった。
あの時の君は、比較的目立たなかったと言えるだろう。
でも本当は、俺の心はもう君に魅せられていたのかもしれない。確信はもてないけど、今はそう思えてくる。
君のその、真紅色に輝く瞳に……。
長い戦闘と逃亡の果てに、遂に辿り着いたファーゴで俺達を待っていたのは、エルシオール司令官解任の令と盛大な舞踏会だった。
最後に、今までの感謝の気持ちを伝える相手――ダンスのパートナーを選ぶのに散々俺は迷った。
迷い、悩んだすえ、心を決めて俺が選んだパートナーは、ヴァニラ・H。
もう既に、あの瞬間から、俺達二人の運命の歯車は回転していたに違いない。
これは、確信を持って言えることだった。
*
一言で表せばタクトさん、貴方はとても不思議な方だった。
でも最初からそう感じていた訳ではない。
新しい司令官就任の報が伝えられても、特に関心は無かった。
ただ下される命令を遂行していれば良い、その程度のことだと思っていた。
でも、やはり貴方は不思議な方だった。
貴方は私をすっかり変えてしまった。そしてその変化に、何より私自身が驚き、戸惑ったのは、決して否めない事実。
舞踏会に貴方を誘ったこと、ウギウギの死に直面したとき、涙を流し、自分の過去をさらけ出したこと、
一人の異性としての貴方を好きになる、愛するという感情の発露、
その感情の成熟によって、笑い、泣き、苦しみ、だけど大きく成長した私。
ヴァル・ファスクとの決戦前夜、貴方と永遠の愛の誓いを立てた私。
本当に私は変わった。貴方に逢う以前の私はもうこの世に存在しない。
変わることを怖れて、忘れようと見えない壁でいつも身を守って、でも実際はそんな自分に苦しんでいた私を救い出してくれた
貴方を、今の私は心から愛し、そして貴方に愛され続けていることによって生きている。
今の私の胸は、貴方でいっぱいで……幸せで……。
/
追憶の光が、静かに足を止めた。
二人は再び月を月と認知するようになった。
「綺麗だね…ヴァニラ…」
とその時、不意にタクトが口を開いた。眼はしっかりと、上空を見つめたままだった。
「はい……月がとても綺麗です……」
そしてヴァニラも同じように、顔も眼も動かさずに答える。
「ヴァニラ…俺さ、さっきからずっと君のこと考えてた。ありがとう、ヴァニラ。
君に出逢えて、俺はすっかり変わったと思うんだ」
「…タクトさん?」
タクトのその言葉に、彼女の固定されていた顔が彼の顔を見上げた。
「俺には…君のような献身的な心も、ひた向きさも無かった。でも君に出逢って、恋人になって、少しは
君に近づけたような気がするんだ。ヴァニラ、ありがとう、心から感謝しているよ…」
「…………」
タクトが言い終えても、すぐにはヴァニラは口を開かなかった。
顔は俯き、何かを探しているような表情をする。
暫くして、不意にヴァニラは顔を上げて言った。
「いいえタクトさん、それは私の方です…」
「えっ?」
ヴァニラのその言葉に、タクトはきょとんとした表情で彼女を見つめる。
「私も、タクトさんのことを考えていました……それで、改めて思ったのです。
タクトさんのおかげで、今の私があるということ、一人の人間としての自分を確かなものにして、存在しているということを。
タクトさんは…私にとっての全て、その全てが…私を変えたのです」
「…………」
「だから、私に言わせてください。タクトさん、本当にありがとうございます…」
「ヴァニラ…」
「…………」
見つめ合う二人……二つの影が、そっと重なった。それは決して離れることのない二人の、永遠の愛の証。
二つの影が静かに離れる。
二人はその後も、少しの間見つめ合っていた。が、やがて二人とも視線を元々置かれていた場所、月へと移す。
長い静寂が、再び訪れた。
/
「ねぇ、ヴァニラ……」
またしても、タクトの声によって唐突に静寂は破られた。
「はい……」
「いつかまた、休暇をもらえたらの話だけど…」
「はい…」
「今度は、本物の月を見よう」
「え?」
今度はヴァニラの方がきょとんとした顔でタクトを見つめる。
「どこでもいい、とにかく…海へ行くんだ…。二人で砂浜を歩きながら、本物の星空、月を見上げる…そして、
ただ一言、“きれいだね”って呟くんだ…」
「…………」
「い、嫌かな?確かにその時は、宇宙クジラの上には乗れないけど…」
何も言わないヴァニラに、タクトは少し弁明じみた声を出す。
「いいえ、タクトさん…とても素敵だと思います」
しかしそんなタクトとは対照的に、ヴァニラは優しい声で答えた。
「私も、そうしたいです……。今度は、本物の夜空を見てみたいです」
まさに天使のような、一点の穢れもない微笑みを最愛の人に向け、ヴァニラは言った。
「ありがとうヴァニラ。いつか絶対に行こう、約束だ」
タクトは、力強く拳を握り締め、心に、最愛の少女に誓った。
「はい、タクトさん…」
新たな約束を交わし、二人は三度、空を見上げた。
/
永遠とも感じられる一時も、次第に終わりを告げようとしていた。
二人がここに来て、もう四時間が経つ。既に日付は変わっていた。
少しづつ寒さも肌に強くうったえるようになり、タクトはヴァニラの体調のことを思って声をかけた。
「少し寒くなってきたね。ヴァニラ、平気かい?」
「…………」
返事がない。タクトは、おやっと思い、視線をヴァニラに移すと…
「あっ、寝ちゃってる。って、あ?」
タクトの軽い驚きの声。彼がヴァニラの様子に気付いた矢先、彼女の頭が彼の肩の上に乗ったのだ。
タクトは自分の顔が火照るのを感じた。
「寝顔か、そういえば初めて見たな………ずっと起きてて疲れちゃったのかな……ん?」
ふとタクトは、あるものの変化に気付き、それを凝視した。
満月が、月とは思えないほど明るく光を放っている。それによって、ヴァニラの手の指にはめられている指輪、
二人の愛の形が輝きだした。
もしかして、俺達を祝福してくれているのか?
タクトには何故か、月のまばゆい光が自分達を祝福しているように感じられた。
自然と顔がほころんでいく。
「ヴァニラ…悪いけど、もう少しだけこうさせてくれないかな?宇宙クジラ、君ももう暫く、俺たちを乗せておいてくれないか?」
キュオーン
甲高い鳴き声が美しい調べとなり、響き渡った。
「ありがとう…宇宙クジラ…」
感謝の意を嬉しそうに伝えるタクト。
その時だけタクトには、何故かその鳴き声の意味が理解できたような気がした。
「ヴァニラ…夢の中ででも良いから、聞いててくれ。俺達は今、月に祝福されてる…いつまでも、ずっと一緒だ」
タクトは、可愛らしい寝顔のヴァニラに向かって、優しい笑みを浮かべながらただ一言、そう囁いた。
そんな二人の顔を、月はいつまでも照らし続ける。
月―――それは恋人達に捧げる光の微笑み、至高の祝福。
FIN
あとがき
こんにちは、ちとせとヴァニラ、どっちが好きと問われたら、僅かにヴァニラが上と答えるaitoです。
今回は誰か書いていそうで、そうでない、タクトとヴァニラのあの約束を小説にしました。
実はこれが最初はデビュー作になる予定だったんですが、気まぐれで恋の正鵠を先にした次第です。
長編の方もまだ終わってないのに、なに短編書いてんだとか言わないでください。
悲しくなるので。というか、まだ短編で、制作途中のが三作くらいあります。
それも書きたくてうずいているんですよ、たまったアイディアを一気に放出したくてですね。
それらは、多分この小説同様、自分でも満足した作品になっていると思うのですが、まだ下書きもできていませんね。
それら全部と、恋の正鵠が終わったら、また新たな長編を書くつもりです。
まあそのへんも全て、気長に待ってください。では今回はこれで失礼します。
2005年6月3日 作者aito