用事があってエルシオールに行った。

 

この私の方から出向くなんて、すごく珍しい事。

まあ、ちょっとした気まぐれ。

ブリッジに向かう途中、廊下で月の巫女2人とすれ違った。

私を見て驚いた顔をして、そそくさと道を空ける。

 

「ありがと」

 

私にしては珍しく、お礼を言って通り過ぎた。

本当は笑顔で言えればいいんだろうけど、さすがにそこまでは無理だった。

でも、お礼が言えただけ自分でも変わってきているって思う。たぶん、良い傾向。

その時、その2人がヒソヒソ話しているのが聞こえた。

 

「ほらあの子よ、黒き月の……」

「見た目はあんなに小さい子なのにねぇ……」

 

私はお礼を言った事を後悔した。

何よ、言いたい事があるんなら、はっきり言えってのよ。

気付かれない程度に足を速め――――

ようとした私は、ふと視線を感じて立ち止まった。

 

「………………」

 

振り向くと、そこはエレベーターのある中央ホール。

なぜかフルーツ牛乳を手にして、ヴァニラがジッと私を見ていた。

 

「………………」

 

今の、見られた?

ものも言わずただ見つめてくる視線に、わけもない腹立たしさを覚えた。

何よ、その目。あんたも言いたい事があるなら、声に出して言いなさいよ。

つんと顔を背ける。

やっぱりエルシオールなんかに来るんじゃなかった。いつものように、タクトの方を呼びつけて出向かせれば良かった。さっさと用事を済ませて帰ろう。

私はヴァニラを無視して、ブリッジへの道を急ぐ。

後ろから、またあの2人の話が聞こえた。

 

「事情があったのよ。きっと環境が……かわいそうにね……」

 

うっさいってのよ。

 

 

 

私の名前はノア。

 

……正直、この名前はあまり好きじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あるいはこれも素晴らしき日々

 

 

 

『 未熟・半熟・聖者のタマゴ 』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……で、ここをこうやれば、アクセスできるわけよ。分かった?」

 

私はブリッジで、ヒュージハッキングについて説明していた。

私にとってはこれくらい何てこと無いんだけど、タクト達にとっては至難のレベルみたい。

 

「うん、分かったけど」

 

タクトはうなずきながらも、どこか腑に落ちないという顔で私を見下ろした。

 

「あのさ、ノア」

「何よ」

「……何かあったのかい?」

 

ちょっとショックだった。

私って、そんなに分かりやすいのかしら。ポーカーフェイスには自信あったのに。

もちろんそう思った事はおくびにも出さず、私は澄まして答える。

 

「別に。なんで?」

「いや、虫の居所悪そうだったから」

「あんたの物わかりが悪いせいよ。これくらい自力で何とかして見せなさい」

「ははは、面目ない。けど、こんな手の込んだプロテクトを解除できるノアが凄すぎるだけだって」

 

まあ、そうかもね。

普通のエキスパート程度じゃ難しいかもね。私が特別なだけで。

私が、異常なだけで……。

 

 

シャッ

 

 

「失礼します……。コーヒーなど、いかがでしょう……」

 

コーヒーの2つ乗ったトレイを持って、ブリッジに入ってきたのはヴァニラだった。

私は顔をしかめる。

何てあからさまな真似をするんだろう、こいつは。

ヴァニラの方も、自分の真意を隠す気は無いらしい。いかにも物言いたげな目で、私を見てくる。

 

「え〜と……オレ、席外そうか?」

 

雰囲気を察したタクトが、遠慮がちに言う。

私は首を横に振った。

 

「あんたはここに居なきゃダメでしょ。いいわよ、私が出て行くから」

「……コーヒーを……」

「いらない。もう用事は終わったから帰るわ」

 

何のつもりか知らないけど、やめてよね、そういう『いかにも』な真似。

私は目も合わせずに出て行こうとする。

でも、ヴァニラは私の態度に堪えた風も無く言った。

 

「用件は、終わったのですか……?」

「そうよ。だから私は帰るの」

「では少々、私にお付き合いして頂けないでしょうか……?」

 

私はウンザリした表情を浮かべて見せる。

 

「何の用よ」

 

どうせさっきの事でしょうに。

そう思っていた私だったけど、ヴァニラは思いもよらない事を言った。

 

「私の夢を、叶えてほしいんです……」

「は?」

 

呆気に取られる私に、ヴァニラはいつになく決意を込めた表情で言った。

 

「ノアさん……これが出来るのは、銀河中であなただけなんです……」

 

 

 

 

 

 

 

 

まぶしい空。

さんさんと降り注ぐ日射し。

正直、あまり明るい所は好きじゃないんだけど……自閉症かと思われるのも何だし、それはまあ良い。

ここはクジラルーム。潮騒が耳に優しい。

 

「で……?」

 

私はヴァニラを見上げて、睨みつけながら言った。

青い青い海。

ゆらゆら揺れる波。

透き通った水の上に木の箱を浮かべて。

私はその木箱に乗って波に揺られていた。

 

「……ノアの箱船……」

 

やたらと満足そう。

いつも通りの無表情なんだけど、そこはかとなく目が輝いている。

ちなみに、自分だけちゃっかり宇宙クジラの背中に座っている。

 

「これがあんたの夢なわけ?」

「聖書の再現です……こうしてこの目で見る事ができるなんて、夢のようです……」

「そう。良かったわね」

 

私は自分が乗った箱を見下ろす。

1メートル四方くらいの木箱。

でっかいゴシック文字で『みかん』とか書かれてるのが、無性に哀しい。

これじゃあまるで、捨てられた……。

 

「……にゃ〜……」

「あんたっ! それだけはっ!」

 

私は手で水を漕いでヴァニラに迫ろうとする。

けど宇宙クジラがちょっと身動きするだけで波が立って、逆に押し戻される始末。

ってか、なんでこんなものに素直に乗っちゃったんだろ、私。

しょうがなく私は強襲を諦めて、ヴァニラを睨み上げる。

 

「それはそうと」

「……何でしょう……?」

「こいつらは何?」

 

私は一緒に木箱に乗っている『同乗者』を示した。

私から距離を取って、宇宙ウサギが2匹、隅っこに固まっていた。

 

「ですから、聖書の再現です……偉大なる聖者ノアは、動物たちを救いたもうて……」

「あっそ」

 

私はすぐに興味を無くすけど、例によってヴァニラは堪えた風も無く続けた。

 

「ノアさん……宇宙ウサギたちを、可愛がってあげて下さい……」

「なんでよ」

「聖者ノアは、動物たちを愛しているのです……」

「私は愛していないわ」

「では……今から愛して下さい」

「あんたね」

 

今、気付いた。

こいつ相当なマイペース人間だ。

 

「愛せったってね。どうしろってのよ」

「優しく頭を撫でてあげて下さい……」

「何で私がそんなこと」

 

言いかけて、口をつぐむ。

こいつの事だ、言ってもどうせ聞かないだろう。

 

「……撫でればいいのね?」

 

まあ、いっか。

とりあえず、言う通りにしてやろう。こいつも満足すれば、わけの分からない事を言い出すことも無いだろう。

私は箱の隅ににじり寄って、宇宙ウサギの1匹に手を伸ばした。

 

「ジッとしてなさいよ……」

 

宇宙ウサギは私の手に鼻を寄せ、フンフンと匂いを嗅いでいる。

動物ってこういう仕草するわよね。匂いで何を判別しようとしてるのかしら。

……でも、ちょっと可愛いかも。

私は鼻の頭から額を、滑るように撫でてあげようとした。

 

 

ガブッ

 

 

ヴァニラは一瞬、沈黙して。

おもむろに両手を組んだ。

 

「……神よ……」

「祈るなっ!」

 

私は噛みつかれた手をブンブン振り回して、引きはがそうとする。

痛い。めちゃくちゃ痛い。

 

「ノアさん、あまり暴れると……」

 

木箱が、グラリと傾く。

気付いた時には遅かった。

 

「き、きゃああああぁぁぁ!」

 

 

ザッパ〜〜ン

 

 

「……転覆します」

 

ヴァニラがそう言ったらしいけど、そんなの私には聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で……?」

 

数刻後。

私とヴァニラは、砂浜に並んで座っていた。

別に海を眺めて青春やってるわけじゃない。単に濡れた服を乾かしてるの。

 

「どういうつもりよ、あんた」

「………………」

 

ヴァニラはすぐに答えようとはせず、黙って宇宙ウサギの背中を撫でていた。

宇宙ウサギの毛は、だいぶ乾いたみたい。

 

「見てたんでしょ? さっきの」

「……さっきの……?」

 

やっとこっちを見る。

小首を傾げて、何をトボけているんだか。

 

「私がここのクルーに陰口叩かれてた事よ」

 

ヴァニラは空を見上げる。

そのままボーッと、何を考えているのか分からない顔で、しばらく青空を鑑賞した後。

 

「……ああ……そういえば」

 

コクリとうなずく。

 

「……集合的無意識の最奥に、そんな光景を見たような記憶が……」

「何世代前の前世の記憶よ、それは」

 

どうもいまいち、会話のテンポが掴めない。前からだけど、こいつはどうも苦手だ。

 

「……私がノアさんをお呼びしたのは、そのためではありません……」

「じゃ、何?」

「お友達を……紹介したくて……」

「はぁ?」

 

ヴァニラは宇宙ウサギの1匹を抱え上げて、私の顔の前に差し出してきた。

 

「紹介します……ムギムギです……」

「………………」

「そしてこっちは……マギマギ……」

「………………」

 

沈黙している私を前に、ヴァニラはペコリと頭を下げる。

 

「……よろしく……」

「よろしくったってね」

 

どうリアクション取れってのよ。

 

「宇宙ウサギと友達になれっての?」

「宇宙ウサギではありません……この子はムギムギです……」

「でも宇宙ウサギじゃない」

「違います……ムギムギと、マギマギです……」

 

ヴァニラは頑として譲ろうとしない。

よほどこの2匹の宇宙ウサギを、固有名詞で呼ばせたいらしい。

どうでもいいけど、相変わらず凄いネーミングセンスだ。

 

「きちんと名前を呼ばなければ、友達とは言えません……自分のことを『人間』と呼んでくる人と、友達になれますか……?」

「だから、なんで私が宇宙ウサギと友達にならなきゃいけないのよ」

 

動物が友達なんて、ますます自閉症くさいじゃない。

私はツンと顔を背ける。

 

「……どうしても、お嫌ですか……?」

「嫌よ」

「……そうですか……」

 

ヴァニラは悲しそうに目を伏せた。

ちょっと悪い事したかな……。胸にチクリと罪悪感の棘が刺さった。

でもヴァニラはすぐに顔を上げ、また空を見上げた。

 

 

 

 

 

 

―――― 風が、吹いた。

 

潮の匂いを乗せ、私とヴァニラの間を抜け、天空へと駆け上る。

気が付いたら、私も同じように空を見上げていた。

どこまでも広がる青空。

哀しいくらいに澄んだ、蒼穹。

ヴァニラは思い出したように口を開く。

 

「ノアさん……陰口を叩かれたとのことですが、本当ですか……?」

「本当よ。まあ、別に良いんだけどね。そうされたって文句は言えない立場なわけだし」

 

私は努めて、何でもない事のように答える。

本当に、しょうがない事だとは思う。納得はしている。

私は黒き月のノア。トランスバールに未曾有の危機をもたらした元凶。

 

「………………」

 

『エオニアに手を貸したのは、私だけど私じゃない』なんて、言い訳にもならない。私の影がやった事は、紛れもなく黒き月の負った使命そのものだったんだから。影がやらなくても、いずれはこの私が同じ事をやっただろう。

そして、黒き月は白き月に敗れた。敗者が誹りを受けるのは、歴史の必然だ。人間の歴史は、勝者の正義で作られているんだから。

だから、しょうがないとは思ってる。納得はしている。

 

「……ねえ」

 

……なのに私は、こいつに何を言おうとしているんだろう。

こいつに一体、何を期待しているんだろう。

 

「はい」

 

ヴァニラは私に振り返って、返事をする。

軽やかに踊るライトグリーンの髪と、向けられる透き通った赤い瞳。

ああ、綺麗な子―――― 。

身に纏っているのは、聖衣のような白い軍服。

その身に宿すのは、癒し、守るための奇跡の力。

白に祝福された子に向かって、黒に呪われた私なんかが、何を期待して……。

 

「私って……かわいそうなの?」

 

あるいは、だからこそだったのかも知れない。

正反対の相手だったからこそ、言えたのかも知れない。

 

 

『事情があったのよ。きっと環境が……かわいそうにね……』

 

 

あの時、月の巫女2人が言っていたこと。

ヴァニラは無言のまま、私が先を言うのを待っている。

眼前に広がる海。水平線の彼方を見つめながら、私は続けた。

 

「黒き月は、人間に必要だったんじゃないの? 白き月と戦う存在が、必要だったんじゃないの? だからその管理者として、私が必要だったんじゃなかったの?」

 

黒と白の月が生み出された理由は、何であったか。

ヴァル=ファスクに対抗するため。

人無き兵器が有効なのか、人有りし兵器が有効なのか、比較検討の必要があったからではなかったのか。

 

「影がやった事は知ってるわ。本当に見事だった。ロームの人間達を、よくあれほど残酷に……。紋章機の翼が出たのは、あの時が初めてだったんでしょ? 有人兵器か無人兵器か、データを取るには最高の条件を引き出したわけだ。影とはいえ私の心を宿した分身だもの、我ながら見事だったわ」

 

EDENの先人達は、そうなる事を知っていながら2つの月を作り出した。

そんな外道を犯さなければ、対抗できない相手が他に居た。

銀河の民数千億を救うため、ロームの民数千を犠牲にした。

それは、断固たる決断。

子供のように無責任な、妄想じみた理想を排除した、現実的な正義。

 

「私は後悔していない。私が殺した沢山の人、誰にも謝ったりしない」

「………………」

「黒き月は悪だったわけじゃないわ。黒き月には黒き月の正義があったの」

 

心など必要ない。兵器に必要なのは、火力とその確実性のみ。

それはそうだろう。人の心などという不確定要素に、命を賭けられる人間なんて居るわけがない。

自分が戦場に行くと仮定して考えれば、分かるはずだ。

威力は凄まじいが10回に1回しか弾の出ない火砲と、威力は劣るが引き金を引けば確実に弾が出る小銃と。

戦場で身を守る武器として選びたいのは、果たしてどちらか。

また人間の力には限界がある。どれほどの想いがあろうと、肉体の方に限界がある。

力がほしい。命など捨てても構わないから、全てを守れる力がほしい。そう無念を叫びながら倒れていった戦士が、歴史上にはいくらでも居るのだ。

死してもなお戦える、黒き月の力。

非業の死を遂げた戦士達からすれば、夢のような話だろう。

誰が何と言おうと、黒き月にも正義はあったのだ。

 

「もちろん、自分が許されるなんて思ってないわ。地獄に堕ちる覚悟はできてる。六百年も前から、覚悟はできてる」

 

六百年前、黒き月の管理者となったあの日。

もしも選べるものなら、白になりたかったに決まっている。

綺麗でいたかった。光の道を歩みたかった。

でも考えた。悩んで、苦しんで、覚悟を決めた。

血に汚れる覚悟。数え切れない怨念を、一身に浴びる覚悟。天国を諦める覚悟。

……全てを、覚悟したのだ。

 

「私は、使命を果たしたの。自分のなすべき事を、全力でやったの。黒き月の正義をかけて。私の全てをかけて」

 

結果として、黒き月は負けた。

無念だったが、それでも良かった。

自分の使命は白き月に勝つ事ではなく、白か黒かに最終的な決を下す事だったのだから。

自分の戦いの、その先にあるものの為に礎となれたのだから。

 

「なのに……」

 

誉められなくてもいい。

逆に罵詈雑言を浴びせられるのも、覚悟の上だ。

そんな評価ならまだしも。

 

「なんで私が、かわいそうなの……?」

 

自分の使命は誇り高いものであったはずだ。

たった1人で白き月と戦い、全人類の進むべき道を指し示す。

たとえ栄光なくとも、畏敬を受けるべき偉業であったはずだ。

事情もよく分かっていないような人間に、安っぽい憐れみを投げかけられるようなものでは、断じてなかったはずなのだ。

なのに、向けられるのは敗者に対する勝者の余裕。野良犬に食べ残しを恵んでやるような、偽善者達の甘っちろいヒューマニズム。

自分は完全に、『ただの敗北者』だった。

 

「あんまりよ……こんなのってないわ。私がどんな思いで……六百年前、どんな思いで……」

 

悔しかった。

目もくらむほどの屈辱だった。

六百年だ。

白き月と違い、黒き月に世代交代は無い。管理者はずっとただ1人だった。

目覚めてみれば、知っている人間なんて一人も居なかった。みんな死んでしまっていた。

この屈辱を、この怒りを、いったい誰に訴えれば良いのか。

 

「………………」

 

ヴァニラは黙って、ただ私を見つめていた。

その視線を、ハッキリと感じる。

私は目を合わせることが出来ず、ひたすら水平線の彼方を見つめ続けていた。

結局、負け惜しみだ。これはただの八つ当たりだ。

恥ずかしくて。本物の天使みたいなこの子に対して、あまりにも汚くて。

私はそれ以上、何も言えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

ああ、本当に良い天気。いっそ腹立たしいくらいに。

『空を見上げていると、ちっちゃな悩みなんてどうでもよくなっちゃう』とか言う人間がいる。

そんなの嘘だ。

空なんて、何の慰みにもなりゃしない。空がいくら広かろうが、心に巣くう暗鬱の質量は変わらない。

 

「……私は……未熟です」

 

ヴァニラが呟いたのは、心の中で空に向かって悪態をついていた時だった。

私が最後に言葉を発してから、ずいぶんと長い沈黙が流れていた。

あまりに間が空きすぎて、話題を変えたのかと思ったくらいだった。

 

「ロームの人達は……あなたを決して許さないでしょう。でも……あなたの話を聞いていると、あなたを責めることもできません……」

 

わずかに眉根を寄せて。

たぶん、これがこの子の途方に暮れた顔なんだろう。

私は自分でも思いがけず、微笑んで首を横に振っていた。

 

「いいのよ、気にしないで。私のことで、あんたが気に病むことは無いわ」

「………………」

 

隣を見やると、宝石のルビーみたいに赤く澄んだ瞳と目があった。

 

「……あなたはノア。偉大なる聖者の名を冠する人……」

「ん?」

「申し訳ありません……言葉が、うまくまとまらないんです……」

 

ヴァニラは恥ずかしそうに目を伏せる。

ああ、慰めようとしてくれてるんだ。

私は苦笑する。

 

「ありがと。でも私、自分の名前があんまり好きじゃないの」

「なぜですか……?」

「完璧に名前負けしてるからよ。笑わせるじゃない? もう絶対に天国に行けないような人間が、聖者と同じ名前だなんて」

「行けます」

 

いつになく強い調子で、ヴァニラは私の言葉を遮った。

 

「誰もやりたがらない、でも誰かがやらなければならない事を、あなたは一手に引き受けたんです。この世で最も重い十字架を、あなたは背負ってくれたんです。……そんなあなたが、天国に行けないはずはありません」

 

一気にまくしたてる。

ちょっと驚いた。この子、こんな風にしゃべる事もできたんだ。

 

「聖者ノアは、人から馬鹿にされ、蔑まれ、それでも神の言いつけを守って……たった1人で黙々と箱船を作り上げました。そして訪れた未曾有の大洪水にあって、多くの動物達の命を救ったのです。今、確信しました……ノアさん、この聖者の名を冠するのに、あなたほどふさわしい人は、他にいません」

「………………」

 

ああ、やっぱりそうだ。

私は心の中でうなずいた。

なんて純粋な子。なんて心の綺麗な子。

私なんかより、よっぽど聖者にふさわしい。

 

「ノアさん……もっと、ご自分の名前を大切にして下さい。名前とは、この世に生まれて最初に与えられる……祝福に満ちた贈り物なのですから……」

 

分かってた。

この子に言われるまでもなく、そんな事は分かってた。

だって私は今まで、そう思う事で誇りを守り、自分を慰めてきたんだから。

でも、こうして言われて初めて気付く。

私は誰かに、その分かり切ってる事を言ってもらいたかったんだ。

あなたはその名に恥じない事をやったんだと、他人の口から聞きたかったんだ……。

 

「………………」

 

やばい、泣きそう。

ちょっとタイム。冗談じゃないわよ、カッコ悪い。

私はギリギリ歯を食いしばって、もれそうになる嗚咽を堪える。

 

「……ありがと。でも天国は遠慮しとくわ、先に行ってるロームの連中に袋叩きにされそうだから」

 

ちょっと失敗。涙声になってた。

でもヴァニラは深くツッコんだりせず、あいまいに笑ってくれた。

私は後ろに手をついて、上を見上げる。

 

「あ〜あ、それにしても私達、ずいぶん不健康な話してない? まだ10歳とそこらなのに、生きるだの死ぬだの、天国だの地獄だの」

「……そうかも知れませんね……」

「もっとこう、明るい話題は無いのかしら」

 

風の歌。潮騒の調べ。

 

「では……こういうのは、どうでしょう……?」

「ん? 何か思いついたの?」

「はい。実は……聖書の再現も、ムギムギとマギマギの友達になって欲しいと言った事も……本題ではないんです……」

「うん」

 

波に踊る日射し。手から伝わる砂の熱さ。

 

「……驚かないのですか……?」

「騙してるつもりだったの? あんた」

「……がっかり……」

 

光がいっぱいだ。世界はこんなにも美しい。

 

「で、本題は何よ」

「そうですね、本題というのは……」

 

ヴァニラは急に改まって、体ごと私の方に向き直る。

 

「こんにちは……ノアさん。私の名前はヴァニラ・H(アッシュ)」

「は? ちょっと何事よ?」

 

 

―――― さあ、生きて行こう。この醜くも美しい世界で。

 

 

「あなたは黒を司る人……。黒は高貴の象徴。何者にも媚びない強さの象徴……」

「いや、だから」

「そして私は、白に属する者……高潔なれど、染まりやすい脆さも持っています……」

 

 

短くも長い人生。その道は決して平坦ではなく。

 

 

「私は……あなたを尊敬しています……」

「わ、私を? はっ、やめときなさい。あんたはせっかく、そんなに綺麗なのに……」

 

 

分かり合えぬかも知れない。すれ違うだけかも知れない。

 

 

「見かけだけの美しさなどいりません……私は強くなりたいんです。ですから、ノアさん……」

「な、何よ、改まって」

 

 

しかし、必ずや時は来る。

 

 

 

 

 

 

「私と、お友達になって下さい……」

 

 

 

 

 

何かが変わる、瞬間―――― 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……ほら、「絶句する」って言葉があるじゃない?

完全に意表を突かれて、何もしゃべれなくなるっていう。

私、今それ。

私は完全に絶句していた。

 

「……やっぱあんた、変わってるわ……」

 

ようやく言葉を絞り出す。

ずいぶんと時間が経っちゃったみたい。

 

「あんたではありません……私の名前はヴァニラです……」

 

わざと不満げに、でも何かを確信しているような口ぶりで、ヴァニラはそう言う。

私、たぶんそれほどバカじゃないから。

相手の思惑に、むしろ乗っちゃった方が良い時もあるって事、ちゃんと知ってるから。

 

「ああ、言ってたわね。ちゃんと名前を呼ばないと友達とは言えない、だっけ?」

「そうです……」

 

だから、ここは素直に乗ってあげようと思う。

いや、違うか。

私の答えも、もう決まってるって事。

 

「この私と、友達ねぇ。よっぽど大物なのか、天然なのか」

「私は、ただの未熟なナノマシン使いです……」

「それを言うなら、私なんて名前だけのニセモノじゃない」

「違います……ノアさんだって、その……もっと頑張れば……」

「いや、それフォローになってない」

 

もう、ぶつけ合ってるのは言葉だけだ。

やっぱ凄いわ、こいつ。

たったの一言で、こんなにも世界が違って見えるようになるなんて。

 

「それで、お返事は……?」

「うん」

 

力不足の未熟な聖者と、名前だけの未熟な聖者。

未熟者同士、こういうのもアリだ。

私は意を決して、ヴァニラに向き直った。

 

 

「ありがと……ヴァニラ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は白き月に戻った。

 

「お帰りなさい、ノア。……あら?」

 

私を見て、シャトヤーンはちょっと目を丸くする。

 

「何よ」

「いえ、その……。ノア、そちらはお友達?」

「そうよ」

「そ、そう……」

 

シャトヤーン、こめかみに汗。

まあ普通はそういうリアクションになるのかも知れない。

私は自分の左手を見下ろす。

宇宙ウサギが、指に噛みついたままプラプラぶら下がっていた。

 

「ええと……本当にお友達?」

「正確には、まだ。でもヴァニラが言うには、友達の友達は友達だから。私はこいつ……じゃなくてマギマギと友達にならなきゃいけないの」

「た、大変ね……がんばって」

「言われなくても頑張るわよ」

 

私はスタスタとシャトヤーンの脇を通り過ぎる。

歩きながら、自分の左手をヒョイと持ち上げて溜め息をつく。

 

「いいかげん諦めて、おとなしく私と友達になりなさい。さもなきゃ黒き月の全火力が敵に回ることになるわよ?」

 

はぁ、私って友達作るの下手だなぁ……。

ヴァニラなんて、あんなにアッサリその気にさせてくれたのに、私はどこが悪いんだろ?

 

 

 

私の名前はノア。

聖者への道は、なかなかに険しい―――― 。

 

 

 

 

 

 

 

『 未熟・半熟・聖者のタマゴ 』

 

−おしまい−