ずっと昔のこと―――― 。

 

 

1人の少年が、素晴らしい詩に出会いました。

魂を震わせる歓喜の詩。それに感動した少年は、固く心に誓いました。

「いつか必ず、これにふさわしい曲を作曲して、この詩を一遍の歌としよう」と。

 

 

少年は大人になり、偉大な音楽家となりました。

宮廷から引く手あまたの人気者となり、後世に残る素晴らしい名曲をいくつも作曲しました。

しかし、どれほどの富を得ようと、どれほどの名声を得ようと。

彼は、少年の頃の誓いを忘れてはいませんでした。

 

 

やがて悲劇が訪れます。

彼は、耳が聞こえなくなる病気にかかってしまったのです。

それを知った多くの人々が、彼はもう駄目だろう、と陰口をたたきました。

日毎に衰えてゆく聴力。彼は決心します。

「今こそ、誓いを果たす時だ」と。

 

 

様々な苦難を乗り越え、ついに曲は完成しました。

宮廷劇場で、彼は自ら指揮棒を振るいました。

沸き上がる“歓喜”の調べ。

どんな讃辞も陳腐になってしまうほどの、素晴らしい感動でした。

満場を埋め尽くした聴衆のうち、いったい誰が、信じることができたでしょうか?

「あの指揮者は、耳が聞こえないのだ」などと。

 

 

彼の耳は、すでに全く音を感じることができなくなっていました。

客席からの万雷の拍手にも気付かず、客席に背を向けたままでした。

静寂の中で、ただ1人で。

彼は約束が果たされた歓びを、噛み締めていたのでしょうか―――― 。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな、嘘のような本当の話を、知っていますか?

 

そんな奇跡の歌が実在する事を、あなたは知っていますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あるいはこれも素晴らしき日々

 

 

『よろこびのうた』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

−エルシオール ティールーム−

 

 

「なんか、久しぶりね」

 

あんたと2人でお茶なんて。

言葉を続けることなく、蘭花はティーカップを持ち上げながら微笑んだ。

カップの中身はお気に入りのジャスミンティー。今日も良い香りだ。

 

「うん。学生時代以来、かな」

 

ミルフィーユは笑顔で応じる。

カップの中身はカモミールティー。ケーキによく合う(本人談)からと、昔から贔屓のハーブティーだ。

どちらからともなくカップを相手に掲げ、「乾杯」のパントマイム。

蘭花が感慨深げに口を開く。

 

「そっか、士官学校以来か。あれからずいぶん経った気がするけど、ホントはまだ2年しか経ってないのよね……」

「いろいろあったもんね」

 

そう、本当に色々あった。

その時は夢中で、必死で、ただひたすらに駆け抜けてきたけど。

振り返ってみれば、何と濃密な2年間であったことか。

 

ティールームは閑散としていた。

時間が中途半端なこともあるが、何と言っても乗組員の総数が少ないからだ。

現在、エルシオールは白き月のドッグに入り、整備中。

乗り込んでいるのは整備士と、あとは戦後処理のデータを取りに来た事務員くらいしか居ない。

 

店内にかかっていた音楽が変わった。

聞き慣れなかったクラシックから、歌へと切り替わる。

蘭花は思わず、口元をほころばせた。

 

「オールディーズか。悪くないチョイスだわ」

「うん」

 

ジャスミンにカモミール、そして流れるのはオールディーズ。

神様が2人のために用意してくれたとしか思えない、素晴らしい偶然だった。

 

「これも、あんたの強運かしら?」

「さあ、どうだろ」

 

からかうような蘭花の問いに、ミルフィーユは曖昧な笑みで答える。

学生時代、2人で足しげく通った、通称オールディーズ・カフェ。

マスターが大のオールディーズ好きで、自作のオムニバスをいつも店内に流していたのだ。

時を経てもなお色褪せぬ、古き良き時代の名曲達。

 

最初に流れたのは、イントロ無しでいきなり始まる、あの歌。

甘いささやきのような、男性の歌声。

 

「でも、いいの?」

「なにが?」

 

ちょこんと首を傾げるミルフィーユに、蘭花はいたずらっぽく問いかける。

 

「独身最後の日に、一緒に過ごすお相手がアタシで」

 

 

Can't Help Fallin' Love ―――― 『 好きにならずにいられない 』

 

 

「うん」

 

迷うことなくミルフィーユはうなずく。

だから、蘭花なんだよ。

そう言葉にしては続けない。

 

「そう」

 

蘭花はうなずく。

嬉しそうに。満ち足りたように。ちょっぴり誇らしげに。

 

「じゃ、大役仰せつかりましょうかね。明日にはマイヤーズになっちゃう、ミルフィーユ・桜葉さん?」

 

ミルフィーユは照れながら、コクリと肯いた。

ジャスミンにカモミール、そしてオールディーズ。

恋というものをおとぎ話のように語っていたあの頃から、今日で、一区切り――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

−エルシオール 司令官室−

 

 

「なあ、レスター」

 

タクトは親友に話しかけた。

 

「何だ、タクト」

 

レスターは振り返りもせずに答える。

 

「オレってさあ、明日、結婚するんだよね」

「知ってるぞ」

 

この通り、招待状ももらったしな。

そう言わんばかりに、背中越しに白い封筒をかざして見せる。

 

「だったらさあ……」

 

タクトは周囲を見渡し、あらん限りの悲痛な声で叫ぶ。

 

 

「なんでオレは、その前日に仕事が山積みなわけーーーーーーーっ!!??」

 

 

右を見ても書類の山。

左を見ても書類の山。

正面を見ればレスター始めブリッジ要員が全員集合し、さらなる書類の山を鋭意作成中。

 

「やかましい! お前が『結婚準備で忙しい』とかぬかして、今日まで溜め込んだ結果だろうがっ!!」

 

振り返ったレスターが、血走った目で怒鳴る。

日も昇らぬ早朝から作業を始め、午後3時現在で、すでに10時間働きづめである。

各員の疲労はピークに達し、司令官室は殺伐とした雰囲気に包まれていた。

 

「おお、それそれ。今日も披露宴の司会をやってくれる人と打ち合わせがあるんだよ〜」

「知るかっ! この報告書も、この決済も、こっちの始末書も! ぜんぶ今日が締め切りなんだぞっ!!」

「そ、そんなぁ〜」

 

タクトは情けない声を上げ、すがるような目を親友に向ける。

 

「結婚前日って言ったらさぁ、もっとこう、感傷的に思い出を振り返ったりさぁ……」

「やかましいと言っている! 口を動かさずに手を動かせっ!!」

 

しかし、残念ながら彼の親友は、感傷的からは銀河屈指の縁遠さを誇る男であった。

 

 

 

 

 

 

「……不安?」

 

静かな、しかし誤魔化しを許さぬ口調。

親友の問いかけに、ミルフィーユはしばし考え、小さくコクリと肯く。

 

「うん」

 

結婚を明日に控えた花嫁としては、あるいは許されざる返答。

相手に対して不誠実だ、と責められても仕方のない返答。

しかし、蘭花はそれをしない。

言葉を探しているミルフィーユをただ見守り、その続きを静かに待つ。

 

「どうしても、考えちゃうんだ。色々と」

「どんな事を?」

「本当に私なんかが、タクトさんのお嫁さんになっちゃっていいのかな、って」

 

愛想笑いなんかしているが、その顔には迷いがありありと浮かんでいる。

蘭花は決して急かさず、わずかに首を傾げる動作だけで、相手に先を促す。

これは、相談ではない。

結論など始めから出ている。

ただミルフィーユ自身がその迷いを振り払うための、これは儀式なのだ。

 

「1番正しい選択って、あると思うんだ。1番の、最高の幸せに繋がる、たった1つの選択肢みたいなのが」

 

ミルフィーユは言葉を紡ぐ。

迷いながら。

自分が何を迷っているのか、確認しながら。

その迷いを、自分自身で整理しながら。

 

「もしかしたら、私はそれじゃないのかも知れない。どんなに頑張っても、私はタクトさんに2番目の幸せしか与えてやれないのかも知れない。2番目のくせして、私は自分のわがままで、タクトさんから最高の選択肢を選ぶチャンスを奪っちゃうのかも知れない。そう考えたら、私……」

 

蘭花は自分の表情に細心の注意を払いながら、心の中で盛大に嘆息した。

何て、後ろ向きな考えだろう。

我が親友ながら、何と情けない。それでもアンタ、私に勝った恋敵?

もちろんそれを実際に口に出すことはしない。

 

「……ま、そういう考えも、アリっちゃアリね」

 

これは、儀式なのだ。

それがいかに情けなく、失礼で、荒唐無稽な悩みであるかという事くらい、本人だって分かっているのだ。

私がここで為すべき事は、上手に聞いてあげる事。

ここで洗いざらい、すべて吐き出させてあげる事。

 

「特にアンタの場合、自分の運に振り回される事の多い人生だったもんね。運命ってもんが気になるのも、分かるわ」

 

ミルフィーユが、ホッと安堵の息をついたのが分かった。本人は無意識だろう。

蘭花は自分の役目を自覚する。

私の役目。

私がミルフィーユ『桜葉』にしてあげられる、これが最後の務め―――― 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これが最後のお務めとは言え……ううぅ、シャバの空気が恋しいよぅ……」

「どこの囚人だ、お前は」

 

机に顎を乗せ、すっかりヘバっているタクトの目の前に、ドサリと書類の束が積まれる。

レスターが、司令官のサインが必要な書類をまとめて持ってきたのだ。

 

「ちょっと待った、待った! 休憩させてくれ〜」

「何を悠長な。まだまだ目処さえ立っていないんだぞ」

「腹が減ったんだよ〜」

 

訴えると、レスターはおもむろにコートのポケットに手を突っ込んで、中を探る。

小さな黄色い箱が取り出され、ポンと机上に放られた。

 

「それでも食ってろ」

 

まるでエサでも与えるような口調で言う。

薬局でよく売られている、栄養食品のブロックフード。

まさしくエサだった。

 

「しくしく、記念すべき独身最後の食事が、カロリーメイトだなんて……」

 

あまりの侘びしさに、タクトは滂沱の涙を流す。

その呟きが聞こえたのか、向こうで作業をしていたココとアルモが振り返る。

 

「ふふふ……そんなこと言わないで、マイヤーズ司令。私達も付き合いますからぁ〜……」

「仲良くしましょうよぉ、マイヤーズ司令ぇ〜……」

 

2人とも極限の疲労のためか、目の下に濃いクマができている。

自分達も持参していたカロリーメイトをモシャモシャと食しながら、虚ろな笑みを向けてきた。

なんという荒廃感だろう。

まるで締め切り寸前の、マンガ家のスタジオだ。

 

「こ、こんなの間違ってるーーーーーーーーーーーっ!!!」

 

タクトの魂の叫びが、司令官室に(虚ろに)響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「確かにアンタは2番目なのかも知れない。その可能性を、否定はしないわ」

 

蘭花は穏やかに言った。

そして、ビクリと小さく身を震わせるミルフィーユに、安心させるように優しく続ける。

 

「でも、それってどうやって確かめるの? 確かめようが無いじゃない。逆に、アンタこそが1番なのかも知れないじゃない」

 

すでに本人にも分かり切っている事を、敢えて言ってやる。

人には時として、そういう時がある。

その分かり切っている事を、誰かに言ってもらいたい。背中を押してもらいたい。

……そんな時が。

それを「甘えだ」と言う人間もいるだろう。

しかし、もし今のミルフィーユに向かって訳知り顔で「甘えるな」などと言う人間が居たなら、蘭花は言ってやりたいのだ。

「そんな事を言うアンタって、ただの人でなしよね」と。

 

 

―――― ああ、なんて輝かしい日々であったことか。

懐かしき思い出たち。私は本当に、あの光景の中に居たのかしら?

 

 

女性の歌声が、叙情的な旋律に乗せて過ぎ去った日々を懐かしんでいる。

いつかミルフィーユと私も、そんな風に現在(いま)を振り返る時が来るのかしら。

でも、その時はどうか。

選んだ道が。交わした言葉が。贈った笑顔が。

なにひとつ間違いではなかったと、胸を張れるように。

 

「うん……」

 

ミルフィーユは、しかし自信なさそうにうなずく。

 

「うん。私が1番になりたい。なれたらいいなって、思う」

「いいな、じゃなくて、なるのよ」

「うん、分かってるんだ。ぜんぶ私の努力次第。結婚するって決めたんだから、もう迷ってるヒマなんて無いんだって」

 

でも……とミルフィーユは口にせず、うつむいてカップの中身を見下ろす。

複雑な表情を覗かせる親友を見守りながら。

はなはだ不謹慎な事だが、そのとき蘭花はこう思っていた。

この子も、こんな顔をするようになったのね〜、と。

 

 

「―――― そんなに不安ならさ」

 

 

どうしてそんな下らない事をする気になったのか、自分でもよく分からない。

蘭花は、この上なくタチの悪い冗談を言うことにした。

 

「アタシと代わる?」

 

ミルフィーユの顔が、一気に青ざめた。

それは、とっくの昔に決着がついたはずの事。

他ならぬ蘭花自身が、親友に譲る事で終わったはずの事。

 

「だ、ダメッ!」

 

今にも泣き出しそうなその顔に、蘭花はわずかに暗い溜飲を下げる。

ふむ、満足だ。

だいたいよく考えたら、負けたアタシがなんでアンタの後押しまでしなくちゃいけないのよ。

この贅沢者。どこまでアタシに後始末役を押しつければ気が済むのか。

 

「……バカね。冗談よ」

 

蘭花はアッサリと撤回し、険のない微笑みを見せてやる。

そう、くやしいけど、冗談にしかならないのだ。

 

「たとえアタシが力づくで交代したって、タクトが納得しないわよ」

 

決着はもうついてるでしょ?

タクトが選んだのはアンタ。勝ったのはアンタなのよ。

だから、せめてこれくらいの意地悪は許しなさい。

 

「蘭花……」

 

それでもなお、不安そうなミルフィーユに。

 

「大丈夫よ」

 

蘭花は親友の顔に戻って、励ましてやる。

 

「タクトって確かにいい加減な奴だけど、一度決めた事を簡単に覆すような奴じゃない。簡単に諦めたり、投げ出したりする奴じゃない。アタシもその点に関してだけは、アイツのこと認めてるんだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう何もかも嫌になったぞ」

 

タクトは簡単に諦め、すべてを投げ出した。

レスターがユラリと立ち上がり、問答無用で拳骨を振り下ろす。

 

ごつん

 

「いいからやれ」

「くそう、オレは暴力には屈しないぞー。強制労働反対」

 

どこから取り出したのか、『労組』と書かれたハチマキなど締める。

 

「遊んでる場合か! さっき渡した始末書はできたのか!」

「黙れ黙れ、いたいけな労働者を人とも思わぬ資本主義の犬め。オレは断固戦うぞー。ストライキだ、労働3権だ」

 

その時、不意にタクトの胸元にある通信機が鳴った。

 

「はい、もしもし……ああ、明日の。どうもどうも。はい、ティールームですね。すぐに伺います」

 

どうやら明日の司会を務める人が到着したらしい。

タクトは愛想良く応対し、にこやかに話しながら席を立つ。

そして、さも当然のごとく出口に向かって歩き出した。

 

「おいタクト、なに寝言ほざいてる。そんなヒマは無いぞ」

「え? ああ、テレビです。お気になさらず」

「こら!」

 

凄惨な目で睨みつけてくるレスターに向かって、一言。

 

「自由への脱出」

 

そして、脱兎の如く逃げ出した。

 

「おのれっ!」

 

すかさず追いかけるレスター。

廊下を駆け抜けながら、なおもタクトは通信の相手とにこやかに話し続ける。

 

「はい、はい、すべて予定通りに」

「何が予定通りだ! 3ヶ月分も仕事を溜め込んでおいて!」

「ああ、それから余興の時にオレの親友が『キューティー○ニー』を熱唱してくれるそうなので、そこんとこよろしく!」

「待て、それは俺か? 俺のことなのか? 勝手に決めるな! 歌わんぞっ!!」

 

何だかんだ言って、まだまだ余力のある2人であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それに」

 

蘭花は断言する。

 

「今までずっとアンタと一緒に居た、このアタシが保証してあげるわ。アンタが2番目だなんて、絶対にありえない」

 

それは根拠のない励ましでも、幼稚な綺麗事でもない。

自分自身の経験に基づいた、絶対の確信に裏打ちされた断言であった。

 

「……どうして?」

「アンタは銀河最強にして、最凶の強運娘だからよ。アンタと結婚するって事は、ぶっちぎりの1番か、そうでなけりゃドン底のビリッケツか、そのどっちかしか有り得ないの」

 

自信満々で言い放ってやる。

 

「2番目? ふざけんじゃないわよ。今さらアンタに、そんな『普通』が許されると思ってんの?」

 

ミルフィーユは一瞬、キョトンと目を瞬かせ。

複雑そうな、でも嬉しそうな苦笑を浮かべた。

 

「ひどいよ蘭花ぁ〜」

「ひどくない。アタシが今まで、天国と地獄を何往復したと思ってんの? 今さら2番目なんかに落ち着いてごらんなさい、ブチ切れるわよ、アタシゃ」

 

思えば、本当に踏んだり蹴ったりな日々だった。

非日常が日常だった。

まるでオモチャ箱をひっくり返したような毎日だった。

でも、なぜだろう?

散々だったはずのそんな日々が、今にして振り返ればこんなにも眩しい。

 

……だから、大丈夫。

タクトもこれから散々な目に遭うだろう。奇跡のような日と悪夢のような日を繰り返して行くだろう。

その時は散々だと思うでしょうけど。

でも大丈夫。時が経って振り返ってみれば、それらはきっと、素晴らしい輝きを放っているはずだから。

 

「大丈夫よ」

 

保証してあげる。

断言してあげる。

あなたが自信を持てるまで。

 

「アンタは絶対に、幸せになれる。銀河最強、天下無敵のお嫁さんになれるわよ」

「………………」

 

不意にミルフィーユは瞳を閉じた。

静かに、大きく深呼吸。

蘭花の言葉を自分の胸の奥底に、大切にしまい込む様に。

やがて目を開けて、目の前の親友を見つめる。

蘭花はジャスミンティーを傾けながら、落ち着いてその視線を受け止める。

 

「わたし」

 

なんて深い目で見つめてくるのだろう。

この子も、こんな目をするようになったんだ。

そこにあるのは……安堵? ううん違う。

信頼? ううん、それも違う。

そこにあるのは、そう、限りなく深い―――― 親愛。

 

「蘭花が居てくれて、本当に良かった」

 

蘭花は思わず目を伏せた。

決して逸らすまいと思っていたのに、つい逸らしてしまった。

 

「………………」

 

ああ、なんて。

なんて嬉しいことを言ってくれるのだろう、この子は。

そのたった一言で、今まで自分が被ってきた苦労が、全て報われたような気がした。

とっさに返事を返せなかったのは、感激で声が震えてしまいそうだったから。

 

「……どういたしまして」

 

そう答えられる事の、何という喜び。

アタシは何一つ、間違ってはいなかった。そう、タクトを譲ってしまった事さえも。

いいわよ、アンタなら。

どうぞ行きなさい。お先に、行きなさい。

そして必ず、幸せになりなさい。

 

「自信、ついた?」

「うん」

「そう。なら良かったわ」

 

さらにジャスミンティーを傾ける振りをする。

中身はもう空だった。

 

「自信ついた所で、何したい?」

 

ミルフィーユは瞬き3つ分ほど考え。

何を思ったか、カモミールティーを一気にあおった。

カップを置き、彼女らしい最高の笑顔を浮かべて、一言。

 

「タクトさんに会いたい」

 

蘭花は苦笑するしか無かった。

アタシの出番は、終わったのね。

 

「アンタにしては上出来な答えだわ」

 

2人で席を立つ。

レジで代金を支払い、ティールームを後にする。

後に残ったのは、空になったジャスミンとカモミール。

そしてオールディーズの最後のリクエストナンバーが、今、静かに終わった。

 

 

 

 

 

 

 

−銀河展望公園−

 

 

 

燃えるような夕陽が、湖の彼方へ沈んで行く。

木々も、草むらも、遊歩道も、すべてが赤く染まっている。

まるで赤の洗礼だった。

作り物と分かっていても、それでも息を飲むほどに美しい。

 

「はぁ〜、やっと終わった……」

 

タクトはベンチに腰かけ、疲労と安堵がないまぜになった溜め息をもらす。

戦いは終わった。実に12時間に及ぶ死闘であった。

 

「けど、もうこんな時間かぁ……あ〜あ、何か記念になるような事、したかったなぁ」

「自業自得だろうが」

 

後ろから声をかけられた。

と同時に、頭のてっぺんにコンと何か固い物が置かれる感触。

レスターが自販機で買ってきた缶コーヒーを、頭の上に乗せてきたのだった。

 

「おお、早かったな。サンキュ」

 

タクトは不平を言う事もなく、頭上の缶コーヒーを取る。

レスターが自分用のコーヒーを手に、隣に座ってきた。

 

「じゃあ、遅ればせながら。今日の健闘と明日のオレの幸せに」

「自分で言うなら世話ないな」

 

2人同時にプルタブを開け、ゴクリと一口。

冷たい感触が喉を通り抜け、どちらからともなく溜め息が出る。

 

「タクトよ。お前も家庭を持つんだ、もう少し気を改めた方が良いぞ」

 

多分に皮肉を込めた口調。

対してタクトは、沈む夕陽を眺めながら笑う。

 

「ん〜、貴重な御意見ありがとう。その件に関しましては、前向きに検討して行きたいと思う所存であります」

「どこの政治家だ、お前は……」

 

いつものやりとり。

どこへ行っても変わらない、いつになっても変わらない、バカなやりとり。

 

「今日の事もそうだ。結婚前日に、3ヶ月分も仕事を溜め込む奴があるか」

「はっはっは、本当に散々な独身最後だ。カッコつかないなぁ、オレって」

「少しは反省しろ。もっと前もって計画的にだな……」

 

学生時代から何度、同じ失敗を繰り返しただろう?

いつもいつも、ギリギリになってから、てんやわんやの大騒ぎ。

何でもない事のはずが、なぜかいつも上を下への一大事。

 

「でも、今回も無事に切り抜けた。お前のおかげだ、ありがとな」

「何がありがとうだ。感謝は要らんから普通に仕事をしろ」

 

そうして反省のカケラもなく笑うタクトに、今まで何度、愛想を尽かした事だろう。

だが、それでも不思議な事に。

自分たちはこうして、未だに2人で居る。

 

「いや〜、お前って本当、ヒーロー体質だよな。オレのピンチを必ず救ってくれる」

「お前が余計なピンチを招いているだけだ」

「僕らの味方だ、レスター仮面!」

「ものすごく頭悪そうだなっ!?」

 

愛想を尽かしたくらいでは、決して切れてくれない縁。

だから自分たちは『腐れ縁』なのだろう。

 

「まったく……」

 

レスターは言葉を切った。

おもむろにコートのポケットに手を突っ込み、ゴソゴソと中をまさぐる。

やがて取り出したのは、シガーケースだった。

1本を口にくわえ、何気ない動作でタクトにもケースを向ける。

タクトもそれに応じ、ケースから煙草を1本抜き取った。

 

シュボッ

 

レスターが灯したオイルライターの火。

2人して1つの火種を分かち合う。

大きく息を吸い込み――――赤く染まった風景に、紫煙を吐き出した。

 

「今日、これだけ苦労して全部片づけたんだ。タクト、明日は……分かってるんだろうな?」

 

レスターの吐き出した煙は、ゆっくりと遊歩道をたゆたい、やがて何処へとも知れず消えていく。

それを見ながら、タクトはもう一服。

煙草の先が真っ赤に光り、チリチリと焼ける。

 

「分かってるさ」

 

煙草をつまんで口から放し、返事と共に煙を吐き出す。

久々に吸い込んだニコチンは、頭をクラクラさせた。

 

「明日はバッチリ決めてやる。最高にハッピーになってやるさ」

 

もはや後顧に憂い無し。

やるだけやった。仕掛けは上々。

あとは幸せになるだけだ。

 

「よし」

 

レスターはうなずく。

満足そうだった。どうやらこの返事で正解だったらしい。

彼はベンチから立ち上がり、遊歩道沿いに立ち並ぶ丸太の柵へと近づいて行った。

柵の向こうは、ホログラフで描き出された大きな湖だ。

 

「………………」

 

柵に肘を乗せ、湖の彼方に沈む夕陽を眺める。

そよ風が彼の前髪と長いコートの裾を揺らしている。

 

「………………」

 

タクトはベンチに座ったまま、そんな親友の後ろ姿を眺めていた。

赤い光を全身に浴びながら、静かに煙草をくゆらせるレスター。この伊達男は、そんなキザな仕草が憎らしいくらい様になる。

オレがやっても単に気取っているようにしか見えないのに、神様は不公平だ。

 

「明日は、晴れだな」

 

背中越しに、レスターは言った。

 

「そっか。良かった」

 

タクトはうなずいた。

 

「嘘だ。雨かも知れん」

 

レスターは夕陽を見つめたまま、言った。

 

「雨もいいさ」

 

タクトは笑って答えた。

 

夕凪がそよぎ、街路樹たちが優しくざわめく。

レスターが、不意にこちらを向いた。

タクトは目を細める。親友の顔は、夕陽の逆光になってよく見えなかった。

 

「タクト」

「ん?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「居た居た、あんな所に。ミルフィー、居たわよ」

 

遠くにタクトとレスターの姿を見つけ、蘭花はあとに続くミルフィーユを呼ぶ。

 

「本当だ。副司令と一緒だったんだね」

「行きましょ」

「うん」

 

2人で連れだって、タクトとレスターの元へ走ろうとする。

だが。

 

「………………」

「………………」

 

先に立ち止まったのは、ミルフィーユだったのか、それとも蘭花だったのか。

どちらからとも知れず、2人は足を止めた。

探していた男たちの姿を、遠巻きに見守る。

 

全てが赤く染まった夕暮れの公園。

柵にもたれて、何事か話しているレスター。

ベンチに腰かけて、うなずいているタクト。

そして2人して静かな笑みを交わす、その光景。

 

 

―――― ああ、いいな。

 

 

風に踊る髪を押さえて、蘭花は目を細めた。

なんて、満たされた光景だろう。

まるで美術館の名画のような、『親友』の一枚絵。

何を話しているのか、そんな事は分からない。

分からないし、知る必要も無い。

今のこの光景に、そんな詮索は無粋でしかない。

 

「……なんだか、お邪魔みたいだね、私達」

 

ミルフィーユが苦笑と共に、そんな事を言う。

 

「邪魔って、アンタはタクトのお嫁さんでしょうに」

「うん……でも。これってお嫁さんでも邪魔しちゃいけないんだよ、きっと」

 

蘭花はそんなミルフィーユの頭を、ポンポンと優しく撫でてやった。

 

「アンタ、本っ気で良いお嫁さんになるわ。間違いない」

「えへへ……」

 

その時、向こうの2人がミルフィーユと蘭花に気付いた。

タクトが大きく手を振り、名前を呼んでくる。

 

「おぉ〜い、ミルフィー。蘭花ぁ〜……」

 

ミルフィーユと蘭花は顔を見合わせた。

 

「って、アタシ達が気を利かせたそばから、これだもん」

「あはは……あんまり意味無かったね」

 

気を取り直して、2人の元へ歩いて行く。

 

「丁度良かった、今から結婚前夜の記念に飲みに行こうって話をしてたんだ。2人もどうだい?」

「アンタね。未成年にお酒を勧めるんじゃないわよ」

「ちょっとだけだって。ね? ミルフィー」

「でもタクトさん、お仕事は終わったんですか?」

 

 

 

 

―――― 恋も結婚も、当事者2人だけで成立するものではない。

 

 

結ばれた男女。

それぞれの親友。

さらに周りを取り巻く人々。

多くの物語が混じり合い、その先に初めて成り立つもの。

 

 

 

 

「終わったさ、もうバッチリ! 朝まで騒いだって平気だよ」

「そうなんですか? 副司令」

「ちょ、蘭花、なんでレスターに確認するんだ?」

「アンタの大丈夫なんてアテにならないからに決まってるじゃない」

「おお、よくぞ言ってくれた、蘭花」

 

 

 

見えざる手を感じよ。

出会えた幸運に感謝せよ。

いと尊きは、隣人の心なり。

 

 

 

「どうもお疲れ様でした、副司令。大変だったでしょう」

「ちょっと蘭花、オレは? オレは?」

「うぅ、すみません副司令。いつもいつも、タクトさんが本当にご迷惑を……」

「ミ、ミルフィーまでっ!」

 

 

 

そのような歓びをうたった歌がある事を、知っているだろうか?

耳の聞こえない音楽家が、己の生涯をかけて作曲した、奇跡の調べ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン

 

 

「大交響曲第9番二短調」作品125 “歓喜”――――通称「第九」

 

 

 

 

 

 

 

♪ Wem grosse Wurf gelungen,Eines Freundes Freund zu sein,

 

(心の通じ合う真の友を持つという大きな賭けに成功した者も)

 

 

 

Wer ein holdes Weib errungen,Mische seinen Jubel ein!

 

(優しく貞淑なる女性を妻と娶ることができた者も、ともに喜びを声にして合わせよ!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くっそー! オレは明日の主役だぞ!?」

 

 

タクト・マイヤーズ。

皇国の英雄。楽園の救世主。天使の愛を勝ち取りし者。

 

絆を紡ぎ、その中心で最初に歓びの声を上げた、始まりの人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ja, wer auch nur eine Seele sein nennt auf dem Erdenrund!

 

(そうだ、この世界でたった一人でも心通ずる相手がいると言える者も加わるのだ!)

 

 

 

Und wers nie gekonnt, der stehle weinend sich aus diesem Bund.

 

(だがそうでなき者ならば、この歓喜の輪より惨めに去ってゆくがよい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まあ、がんばれタクト。……いろいろとな」

 

 

レスター・クールダラス。

孤高の武人。愚直なる万能者。いま一歩、栄光に及ばぬ天才。

 

歓喜の輪にあって、敢えて謳わず、皆のために竪琴を鳴らす影の殊勲者。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Freude trinken alle Wesen an den Brusten der Natur,

 

(すべての者たちよ、大自然のふところで歓びを享受するがいい)

 

 

 

alle Guten, alle Bosen folgen ihrer Rosenspur.

 

(すべて善なるものも、悪なるものも、すばらしきバラの道を歩むのだ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうだ! どうせならフォルテさん達も呼んで、みんなで行きましょうよ」

 

 

ミルフィーユ・桜葉。

神に愛でられし少女。幸運の星を駆る者。稀代の撃墜王。

 

銀河あまたの祝福を一身に浴びて歓びを謳う、最もしあわせなる花嫁。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Kusse gab sie uns und Reben,einen Freund, geprufut im Tod;

 

(大自然は我等に口づけと、葡萄酒と、死の試練を乗り越えた友とを与えたもうた)

 

 

 

Wollust ward dem Wurm gegeben,und der Cherub steht vor Gott!

 

(官能的な快楽など虫けらに投げ与えてしまえ、いま智天使ケルブが神の御前に立つ!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もーっ、明日まで待ちきれないの、アンタ達はっ!?」

 

 

蘭花・フランボワーズ。

紅の闘姫。炎のごとき情熱の人。勇敢なる、天使軍の一番槍。

 

我がためではなく友のために歓びを謳う、心優しき亜麻色の髪の乙女。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Froh, wie seine Sonnen fliegen, durch des Himmels pracht'gen Plan,

 

(喜ばしきかな、太陽が壮大なる天の計画に従って駆けるが如く、)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――― 今までも。そしてきっと、これからも。

 

俺達は性懲りもなく、こんな騒々しい日々を過ごして行くのだろう。

 

大声上げて、汗かいて。フォローにばかり駆けずり回って。

 

何一つ、格好良くなんて決められなくて。

 

 

 

 

それでも今日を、がんばろう。

 

大丈夫。明日こそはきっと、何もかもうまく行く。

 

特別な日。生涯でたった1日だけの、特別な日。

 

その日を最高のものにするための、代償だったというのなら。

 

死ぬほどの苦労も。泣きたいほどの無様さも。忘れ去りたいほどの格好悪さも。

 

あんがい悪くなかったって、きっとそう思える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

laufet, Bruder, eure Bahn, freudig, wie ein Held zum Sigen.

 

(走れ兄弟たちよ、君たちの道を、凱旋の英雄のように喜びに満ちて!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――― さあ。準備はいいか、仲間達。

 

払うだけの代償は支払った、今度は神様がツケを払う番だ!

 

みんな一緒だ、誰1人欠けることは無い!

 

歓喜の凱歌を上げながら、ハッピーエンドをさらいに行こう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Seid umschlungen, Millionen ! Diesen Kus der ganzen Welt !

 

(互いに抱擁を交わすのだ、数多〔あまた〕の人々よ! この口づけを全世界へ!)

 

 

 

Bruder ! uberm Sternenzelt mus ein lieber Vater wohnen.

 

(兄弟達よ! きらめく星空の彼方に、父なる神が必ずやおわしますのだ)

 

 

 

Ihr sturzt nieder, Millionen ? Ahnest du den Schopfer, Welt ?

 

(地にひざまずいたか? 創造主なる神を予感するか、世界よ?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎日は過ぎて行く。

 

晴れのち嵐、集中豪雨。地震、雷、もう散々。

 

でも、こんな日々も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Such ihn uberm Sternenzelt ! Uber Sternen mus er wohnen.

 

(星空の彼方に求めよ! 満天の星々の彼方に、父なる神は必ずやおわしますのだ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな日々も、あるいはきっと……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あるいはこれも、素晴らしき日々―――― 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『よろこびのうた』

 

−おしまい−