女は花を持っていた。
白と黄色の花を携えて、ある場所へ。
夏場にしては暑苦しそうな長袖の服。
白色なれどもいささか時期外れでは。
本日の天気は曇りではない、快晴だ。
下を向いている花束も汗をかきそう。
女はバケツも持っていた。
チャップ。チャップ。
入り過ぎた水が容器の中で騒いでいる。
不意に立ち止まりなにをするのかと思えば額の汗を拭った。
陽の光は影以外の場所を容赦なく熱す。
木陰があればありがたいが残念ながら彼女の頭上に木はなかった。
普段女は外をそれ程出歩かないのだろうか。
嘆息を吐く顔は色白い。
透き通るような、と形容しては心持ち過大な表現になってしまうけれど、女の頬は今の季節には不似合いな白磁色。
焼けた形跡は全くない。
きっと服に隠されている個所も同様に白いのだろう。
なるほど、袖の短い服を着てしまえばせっかくの肌が黒ずんでしまうのか。
それとも肌が弱いのであろうか。
どちらにしても儚げな感じのする女に、今日の日差しはきつ過ぎる。
女は……やがて目的地に到達した。
石で作られたモニュメントを前に暗くなりもしないのに瞳孔の大きさが微妙に変化する。
葉が黄枯茶(きがらちゃ)に変色し俯くしおれた花と淀んだ水を替え、チリチリに熱せられた石の上に一汲みの水を垂らす。
水は石の平面を二方向に滑って行き端に行き着く頃にはお湯に化け、はしないがたちまち温められやがては蒸発し雄大なマンネリを繰り返す。
女は短く息を吐き、石を見つめ、また息を吐いた。
ここは…………。
永久(とこしえ)の眠りについた者といつの日かその日を迎える者の為の、場所――――
墓逢瀬(前編)
「また……来ちゃった…………」
女、ルシャーティはそこに誰かいるかのように。
話しかけるみたいに口を動かした。
性格を代弁する穏当な声。
彼女の他に人影を認めることはできない。
無数の文字を彫られた石があるだけ。
そしてルシャーティはその中の一つの前に、立っていた。
「あれから、もう……随分経つのね…………」
率直な感想とは裏腹に感慨深いものがある。
墓石は新品時の真新しさを手放し年季の衣を数枚纏(まと)い徐々に一枚一枚重ね着していく。
来る途中で向日葵(ひまわり)が咲いていたの、と女が囁く。
ここには咲いていないからあなたは見られないわね、と残念そう。
明るい向日葵達は夏の風物詩。
が、夏の申し子であるはずの彼らもカレンダーの日付が進むにつれて体力がなくなっていく。
すでに鮮やかな黄色を失い下を向いてしまった彼らの仲間も。
こうしている間にも夏は通り過ぎ向こうでは秋が手を振っている。
時は一秒たりとも立ち止まりやしない。
せっかちな奴だ。
蝉が己の存在を知らしめる為に大きな声を張りあげて歌う。
夏という季節を彩る歌い手。
時に独唱で、時に斉唱で、時に合唱で。
時に激しく情熱的に、時に淡々と機械的に、時にもの悲しく哀愁的に。
今、女が聴いているのは情熱的な独唱。
歌の輪は広がらない。
もしや他の蝉達は何度目かの演目を終え楽屋にて休憩し木にストローをつきたて食事をしているのかもしれない。
とすれば、いま少し時が経てばもっと様々な歌を拝聴できるに違いない。
一体、あれから何度蝉が地上に出て来て歌い、そして地に帰っていくのを見届けたのだろう。
とっさには……分からない。
「早いものだわ……」
広範な墓域全体には到底行き渡らないか細い声。
それでも面と向かえば聞き取るのに難渋することはないだろう。
「今度ね……大きな式典があるの…………」
細身の声で近況を語り出す。
歌っているうちに気持ちが高揚とした蝉がマイクを口に近づけかすれ声で熱唱している。
大音量でラブコールをまだ見ぬ恋人に延々と贈り続けているが応えてくれる女性(ひと)はいない。
されど陶酔に浸っている彼は満足感に酔いしれていた。
周囲の反応も気にせずハスキー気味なボイスでひたすら同じ曲を何度もリフレインし熱唱。
これぞ蝉に生まれた醍醐味、とでも言いたげだ。
4回目のサビに入った。
その途中、中途半端な場所でサッと飛び上がり、違うライブハウスに向かう。
ライブの最中に演奏を止めて抜け出すなど客にとっては裏切り行為でしかなかったが幸い、聴衆は一人もいなかったので苦情の声はあがらなかった。
ミュージシャンに自己を音楽発表の場に提供するしかなかった樹木は風が吹けば葉を擦り合わせてささやかな音を立てもしたがそれ以上のことをする意思も能力もなく。
大音響の音源のいなくなった空間は必要以上に黙りこくってしまい。
主役の去った会場には錆付いた鎌で空をきった下手糞なハンターだけが取り残された。
彼女の言うとおり、今度重要な式典が催される。
『暫定』ではない正式なEDEN評議院の発足を宣言するものでかなり盛大に執り行われるらしい。
若干暫定評議院とは顔ぶれが異なるが、ほぼ同じメンバーで議長には暫定評議院議長が就任する。
EDEN政財界の有力者は当然のこと、EDENを解放し『ヴァル・ファスク』のゲルンを倒した盟友・トランスバール皇国からも多数の人物が出席するそうで、ライブラリの管理者であるルシャーティはセレモニーの先例などを調べていた。
「昨日はだいぶ遅くまでかかってしまって……。夜通しの作業になってしまったの…………」
ライブラリの英知に触れるには資格がいる。
それがなければ膨大な情報の一コマも知ることができない。
現在EDENでライブラリにアクセスする権限を持つ管理者はルシャーティ一人。
それ故昨日は、正確に言うと昨日も夜が明けなんとする白々明けの時刻まで調べていたのだが。
目の下に隈を見つけたなら詳細な説明は不要だった。
「『あまり無理しないでよ』、とでも言うのかしら……」
たしなめられたい……冷ややかで情愛ある声で。
その欲求が土台無理な話なのを知っていても、聞きたいと思ってしまう。
女の顔に笑みが浮き上がる。
頂が僅かに白く色化粧した初冠雪の山を思わせる、うっすらとした微笑。
その後に続く“ごめんなさい”。
緩やかな童(わらべ)が女に笑いかけて鼻先を掠めた。
直後、一瞬心に響く聞き覚えある懐かしい音調。
でもそれを彼女の二つの耳が聴くことはできない。
話を本筋に。
「その時ね――――」
♪フン、フフ〜ン、フン〜
曇りガラスの向こうからタイルを叩く水の音と鼻歌が発信されてくる。
歌とバックミュージックは暫しの間続いていたがやがて終わりとなり演奏者が手を止めた楽器は音をかき鳴らすことができない。
「ふうぅぅ」
タオルで顔を拭きながらルシャーティは風呂場から出て来た。
顔の水気を払うと小さなタオルはお役目御免。
バスタオルがルシャーティの手や足を滑らかにすべる。
白砂の上を往復するごとに生地は水分を抱え込む。
拭ききれなかった水粒が太ももをたどたどしく走り踵(かかと)から床に飛び降りた。
ふとなにかが耳に入ってくる。
だがそれがどこから聞こえてくるのかは分からない。
「…………テ……ん、…こ………。…シ……テ……ん?」
どうも近づいているようだ。
こんな時間にライブラリにいるなんて、誰だろう。
早く服を。
ルシャーティはその乳白に近しい体を隠していた布切れを放す。
「あっ!」
「……………………」
唐突に洗面所のドアが開けられ男が入ってきた。
男は思わず、声をあげる。
素早く謝り一刻も早く背中を見せればいいのに固まって動けない。
ああ、情けなや。
動転していたのは女も同じ。
肢体を隠そうとタオルを手に取ったがそれは顔を拭く為のもので。
バスタオルは彼女の足元。
不適切な仕事をするはめになった小さなタオルは文句の一つや二つを言いたかったがグッと堪えてかいがいしくも精一杯ルシャーティの体を隠している。
服で四肢を覆おうにも目前に男がいられてはできない。
湯上りの火照っていた体から暖が急ぎ足で逃げていく。
平静を失っていたルシャーティだったが暫くして成すべきことに気がついた。
彼女は真っ先にやるべきことをしていなかった。
遅きに失した感は否めなかったがやらないよりは幾分ましであろう。
覚悟を決めて深く深呼吸。
「……キャ…………キャア〜〜〜!!!」
夜遅いライブラリにか細くて控えめな悲鳴が轟いた。
「なんてことがあったの……」
くすくすと笑うルシャーティ。
男は彼女に式典の先例の調査を頼んだ人物の部下の部下のそのまた部下の部下だった。
式典が終わった後、他国の来賓をもてなす料理のことで訪ねにきたらしい。
だがどこにもライブラリの管理者の姿が見当たらない。
そこであちこちを探し回って……。
風呂上りのルシャーティとばったり出くわしてしまったとのこと。
この一件はすぐに上の耳に入り、その運のいいような悪いような男は以後数日職場に泊り込んだ。
「そう言えば……」
笑い声が止まり途端に静かな空気が流れ出す。
「前にも……同じようなことが……あったわね…………」
女はなにかを思い出した。
それはなにやら楽しい、または嬉しい出来事であったらしく。
「反応は、全然違うものだったけれど……………」
女の顔にまたも笑みが現れる。
どこか……遠くを。
空の終点でも見ているかのような、遠い目の。
空は青い。
その青さは純粋には一様で様々な形をした白や灰色の漂流者も広大な大海原を浮遊しているに過ぎない。
空はおしゃれだ。
朝夕は朱(あか)く。月が世界をほのかに照らす時は黒くそれぞれ着替える。
幾日も同じ服を着続けることは、ない。
しかし。「空の色は?」と尋ねられれば大概の者は「青」と答えるであろう。
ならば……やはり空は青いのだ。
空は青い。
どこまでも青い。
果てしなく青い。
横方向においては際限を知らず、どの場所へ行こうとも不純物全てを除去すれば北の空も南の空も明るいうちは大差あるまい。
空は青い。どこまでも青い。
果てしなく青い。際限なく青い。
空は……………………青い。
温かい雨粒が体に降り注ぐ。
浴びた人間の心身を潤した恵みの雨は髪や肌を伝って排水溝へ。
ルシャーティはシャワーを浴びていた。
不自由な生活を強いられている者にとって数少ない心休まる一時。
煩わしいことや不便なことを忘れさせてくれる。
淋しいことも。
雨足が強くなる。
その音に紛れて。
足音が聞こえてくる。
慌ただしく、小煩い音も断続的に降り続く雨に紛れてしまい浴びている人物の耳には入らない。
足音は……どんどん迫ってくる。
バッ!
仕切りが取り払われた。
浴室と洗面所が一体化。
「……ここに…………」
二つの空間を統一した男は無と有の間(はざま)の表情で呟く。
「……………………」
突如新たな世界に放り込まれた女は乱入者に言葉を投げつけることもできず茫然自失。
ぶしつけな男になにも言えず、困惑の文字を顔に浮かび上がらせる。
シャンプーと色香が浴場に深く立ちこめて。
雨はタイルの上をひたすら飛び跳ねて洗面所の床を濡らし続ける……。
「…………ここに……いたんだ」
息も切れ切れに男は言う。
運動直後の心臓の心拍数はすぐには通常の値に戻らない。
「……………………」
ルシャーティはまだなにも言えず。
戸惑いの海に投げ入れられて抜け出せないまま。
瞳の潤みはより一層。
「姿が見えないから……。捜したよ」
男の表情は人混みの中で子供を見失いさんざん探し回りようやく我が子を見つけた父親にそれとなく似ていた。
この上ない疲労感と何物にも変えがたい安心感。
「……ヴァイン…………」
ルシャーティは弟がなにに安堵しているのかさっぱり分からなかった。
「なんだい?」
男は問うた。
悪びれた様子は微塵もない。
彼を良く知った人でないと気づかない、小さく優しげな笑みさえほころばせている。
なお、男の名誉の為に断っておくが通常の彼はここまで鈍感ではない。
それは姉の方。
だが今この状況に限定すれば、とんでもなく鈍くて無神経、と断ざれてもまた仕方なかった。
「……………………」
返答に窮し、女は一糸も纏っていない己の体を恥ずかしげに見聞する。
溜まった羞恥(しゅうち)が溢れ出しそうな眼で。
日に焼けた痕跡が欠片(かけら)もない肌。
透明なアクリル版を思わせる白さは病的なものではないけれど、健康的とは言えない。
自分の胸部を見る姉につられて、男の眼はルシャーティの胸を捉えた。
腕を組んで胸元を隠す、指先がふやけている。
「ああ、ごめん……」
男の顔に小柄な動揺が走る。
ようやく、気づいたようだ。
湯に浸かりもしないのに顔が一気に赤みがかる。
不覚にもルシャーティはかわいいと思った。
そして嬉しかった。
普段はこんな表情絶対に見せてくれないから。
「…………どうして、こんな時間に……?」
ここ暫らく誰かさんはライブラリに姿を見せなかった。
毎日のように来てもらうことを期待するのは難しいと知っていても。
一日中監獄で過ごしその上面会人が一人もやって来ない日が幾日も続くと、どうしてだろう。
気づけばあの人の名を不平や不満、文句と抱き合わせて呟いていた。
だから突然の訪問、それも日めくりカレンダーがめくられるのも遠くないこんな夜も更けた時分であっても女はちっとも嫌ではなかった。
それはこのタイミングで来られたのは驚いたが。
誰だって入浴中にいきなり扉が開かれたらドキッとする。
と言っても、弟がなぜわざわざこんな夜遅い時間に訪ねて来たのか、多少引っかかっていた。
「こんな時間だからこそ会いに来られるんだよ」
男の言い方は少々ルシャーティの鼻についた。
落ちついた声音、言い聞かせるようなもの言い。
まるで自分が聞き分けなくぐずっている幼子みたいでは。
時々どちらが『姉』で『弟』なのか自信がなくなる。
それは……もちろん時たま年不相応な言動をしてしまう自分も悪いのだろうけど…………。
でも、それだけでもないはず。
だが弟の言ったこと、それはその通りかもしれない、と思った。
自分程ではないが彼も監視下に置かれた身。
陽が出ている間はなにかと行動に制限があるのだろう。
ここ最近会いに来られなかったのも、もしかしたら“あの人達”の眼が厳しかったからだろうか。
そうだとしても……。
たまには……顔ぐらい…………。
辛そうな顔を見せる女に気づかないで、男は言葉で布を織る。
「ただ……ライブラリのどこにもいなかったから…………」
女は誰かに頭を弱く小突かれたみたいな痛みを感じた。
男の話はまだ終わらない。
「もしかして…………。と思って」
言葉が足りなければ相手に誤解を招くことも多々ある。
説明はしっかりしなければならない。
だが多過ぎてもいけない。
なにごとも過不足の見極めは大事だ。
けれど、悲しいかな。
人は言い過ぎてしまうことも多い。
それを『余計な一言』と言う。
「『逃げ出したい』……。なんてこの前言っていたから…………」
「…………それは……おかしなこと、なの…………?」
ルシャーティの唇は小さく細かく振動していた。
華奢な体を突き破りそうな勢いで感情の暴竜が彼女の中で暴れ回る。
分かっていた。
弟は自分の気持ちを否定したわけではなかったのは。
分かっていた。
彼が思いつめた様子だった私を心配してくれていたのは。
けれど……。
「誰だって…………そう思うわよ……」
他の人に聞いたことは一度もない、しかし確信めいたものはあった。
それはそう、漠然として不確か。
だがそれでいてなにより確かと考えられる、誰しも思うであろう、こと。
「だからって……」
ルシャーティの気持ちを男はそれなりに理解しているつもりだった。
鳥篭の鳥の一日は籠の中に始まり籠の中で終わる。
鳥の優美な鳴き声で愉楽に浸る人間に良い声を聴かせるのが仕事。
狭い籠に閉じ込められ音を出す『道具』として飼われる生活。
それは大空を飛び回る翼を持った生き物にとってあまり魅力的な生活であるはずがなく。
逃げ出したい、と思う気持ちも分からないでもない。
願望を持つのは自由だ。
けれどその願望全てが実現しはしない。
果敢に挑戦してみるのもいいだろうが失敗の代償はあまりにも大きい。
それに当人はただ思ったことを口にしただけであっても周りの人間は過剰に反応することもある。
彼も、その典型であった。
「……あなたはいいわよね」
横槍を制しルシャーティが言う。
自分でも驚く程冷然な言い様。
「えっ?」
男は姉の言句の意味が分からない。
ただ白眼視されていることから姉は怒っているのだろうか、とまでは推し量れた。
羨望と嫉妬の入り混じった瞳で女は弟に言葉をぶつける。
「抜け出そうと思えば抜け出せるんだもの……。こんな具合にね」
違う。
これでは……あたかも。
女は弟を責めるつもりは毛頭なかった。
なかったけれど。
「私は…………物心ついてから一度もないわ。“ここ”が私の全て」
感情の器からどんどん中身が溢れてくる。
唇の微動が止まらない。
声調も乱れる。
「姉さん……」
男は姉をじっと見ていた。
投げつけられた想いを一身に受け止める。
「逃げ出したいとも……思うわよ」
それが彼女の言いたかったこと。
自分の言い分を正当化したかっただけ。
彼を責めるつもりではなかった。
彼が自分のもとへ会いに来るのを責めるつもりではなかった。
なかったのだが……。
弟の眼。
私を見る眼。
……やめて。
痛々しそうに……私を見ないで。
二、三勢いでなにかを言ったが、聞き取れる代物ではなかった。
その後、ひくつきながら言った不明瞭な言葉を最後にルシャーティは口を抑え黙る。
流しっ放しのシャワーはまだ……止まらない。
「あっ…………。ごっ、ごめんなさい」
……つもりではなかった。
それだけは嘘じゃない。
さっきまでとは違う意味で女の表情は曇り、異なる理由で辛そうな目からは今にも涙がこぼれそう。
「気にしないでよ。その通りなんだから……」
男は爽やかに言った。
とてつもなく、爽やかであった。
ルシャーティは自身が述べた言葉に絶望した。
絶望感を和らげようと言葉にならない言葉を発そうとしたが男に阻まれる。
なお繰言を言おうとする女を制し、男は肩を小規模震わせたまま一言言って立ち去ろうとする。
だが、ここで男はミスを犯してしまった。
眼を潤ませたルシャーティの顔を真正面からまともに見てしまったのだ。
大きく見開かれる彼の眼。
その瞳には一人の『女性』が映っていた。
当の本人の意思に関係なく眼差しは獲物の意識を絡めとり時に艶やかにさえ誘惑する。
姉らしくない物言いや挙動とは相容れぬもはや未熟ではない眼つき。
別段、秋波を送っているわけではないが不慣れで経験不足な若者の心を乱すには十分だった。
あからさまに「大人」への階段を一歩づつ、たまに二段飛ばしで上る彼女は幼少時から見てきた者にとって嬉しくもあり、寂しくもあり。
不意打ちに遭い自分を懸命に抑えなければならない事態に追い込まれることもしばしば。
今みたいに。
漠然とした温かさを与えてくれるそれは、同時に……。
ほのかに痛くもあった。
水は運び屋でもある。
川の河口付近に三角州が発達するのは上流の砂を川が運搬してくるから。
このシャワー室でも水はその役目を果たしていて。
ルシャーティの頭から離れた毛髪を排水溝、下水処理施設へ連れていく。
しかし中には強情な者もいるようで。
往生際の悪い連中が排水溝の穴付近にたむろしている。
「ヴァイン?」
ルシャーティは怯えがちに弟の名を呼んだ。
自分を凝視したまま立ち尽くす弟はどう見ても奇妙でしかなかった。
日頃しっかりしている分少しでも不自然な行動を取ると不安な思いをさせてしまう。
損だな、と男は思った。
「……いいや」
頭(かぶり)を振ってなんでもないことをアピールする。
「なによ?」
弟がフッと小さく笑ったのがルシャーティの気に障ったようだ。
「大きくなったな、と思って。」
しみじみとした感想。
「……えっ?」
反応に困り当惑の色が広がる。
「本当に……大きくなったよ…………」
「……おかしいわ、『大きくなった』なんて…………」
大人びた、ならまだ分かるけれど「大きくなった」は弟が口にするセリフにしては違和感がある。
「そうかな?」
惚けるように気の抜けた声で男は尋ねる。
「そうよ」
力強く頷くルシャーティだったが生憎彼はそう思っていないらしく。
姉の顔をもう一度見て、呟く。
「ついこの間まで……あんなに小さかったのに…………」
今の彼女が嫌いなわけではない。
かと言って好きではない。
そういう感情を僕は持ち合わせていない。
少なくとも彼自身はそう自負している。
けれどルシャーティは嫌いな人間の部類には入っていなかった。
「………………人は…………あまりに儚い」
人間の寿命はせいぜい長くても百年と少し。
彼女もそう。
愚かな人間達から見れば僕も悠久の時を旅する旅人に思えるのだろうか。
ほんの数百年生きるだけだというのに。
彼女と自分達種族とは時の流れが違う。
甚だしく違う。
「あまりにも……儚すぎる…………」
なぜだかルシャーティの顔が次々に浮かんできた。
幼かった頃、本を読んで欲しいとせがみ服を引っ張られた頃、急激に背が伸びた頃。
やがては……。
「……ヴァイン…………?」
すっかり自分の世界に入っている弟に呼びかける。
でもなかなか戻ってこない。
「それとも……僕らが長過ぎるのだろうか…………」
「ヴァイン!」
弟が一向に返事をしないので堪らずやや甲高い声を出す。
男はようやく、気づきこちらの世界に帰ってきた。
「ああ、ごめん……。今出て行くから」
一言詫びると彼女に背を向けて足早に去って行く。
男が出て行くのを確認するとルシャーティは浴室の壁に寄りかかり吐息を吐いた。
シャワーは延々と小さな穴から温かい水を出し続けている。
女は蛇口を回した。
水が止まる。
だが女の頭にはまだシャンプーの泡が幾らか残っていて……。
再び浴室に雨の音が響き始めた。
長針が一回りした。
鳩が飛び出すことも音楽隊が楽曲を演奏することもない。
無機質な大時計は味気なさを室内に散布しながらたんたんと時を刻む。
ライブラリには管理者の女性がいるだけ。
カップに半分程度注がれたお茶をすすっている。
今日もなにをするわけでも、しないわけでもない。
とりとめのない、一年という時間の歯車に過ぎぬ一日が始まっていく。
長雨で、様々な影響が出ているという。
雨は間断なく降り続いたそうだ。
何日も、何週間も。
異界の出来事もルシャーティは知っていた。
ここはありとあらゆる情報、知識が集まる場所。
ここから一歩も出なくてもその気になれば簡単に分かる。
一昨日まで雨が降り続き作物への影響が懸念されていること。
昨日は雨が一滴も降らず久しぶりにスカイパレスの公園に子供の声が溢れたこと。
今日も予報では快晴で雨の降る確率は限りなくゼロに等しいらしいこと。
ただ局地的なにわか雨の心配はした方がいいそうであること。
ライブラリにいながらルシャーティはそれらの情報に接することが可能だった。
だが、それだけの話。
彼女の一日は今日も監獄の中で終わる。
天気の存在しない世界に傘は必要ない。
だけれども、今日はいつもとは少しばかり違う一日になるようだった。
「おはよう」
来て早々管理者へ湿り気のない、心地良い挨拶を贈り。
朝らしい、清々しさを伴いながらやって来た背の低い男の口元は微かに緩んでいる。
「おはよう」と投げかけられたらそのまま投げ返し交換するべきなのだろうが、警戒するルシャーティは返礼をしなかった。
弟が来てくれたのは実を言うとちょっとばかり嬉しかったのだが昨夜会ったばかり。
しかもちょっとしたいざこざがあった。
元を正せばあんな時間に、あんな場所に入ってきた彼が悪いのだけれど。
その一件に関してちょっとした負い目のある彼女の内心は鳥肌が立っていた。
「……ヴァイン? どうしたの、こんな朝早く」
怪訝そうに弟を見る眼に露骨に詮索の色が表れる。
来意はなんだろう。
客人の全身を注意深く、彼女なりに観察すると彼の右手に眼がとまった。
傘、大きめなものを弟は一つ持っていた。
そんなもの、ここでどんな用途があるのだろう。
探る色がますます強くなる。
「……なにしに来たの?」
自分が来てはいけないのか。
胸中で苦笑いするヴァイン。
それでも外見よりはるかに大人びている彼はそれに気づかないふりをして口元をさらに緩ませ姉に問う。
「あれ、もしかして今起きたばかり?」
ルシャーティの眉と眉の間に小さなしわができる。
一緒に声を漏らしそうになったが未遂におしとどめた。
小憎たらしそうな眼でヴァインを見る。
それでも彼女の弟は微塵も意に介さず。
寧ろそんな眼で見られることが満足であるかのように微笑みをよこすので。
ルシャーティの眉間にはさらにしわが刻まれる。
もちろん、微笑みを返すことはない。
「違う……わ…………」
すました顔を精一杯ルシャーティは作る。
なるべく平静を装ったつもりではあったが滅多に感情を表に出さないプロから見れば落第点だ。
「そう。なら僕の勘違いか」
そう思ってなんかいないくせに。
ルシャーティは自分だけに聞こえるように悪態をつく。
「……私、そんなに不機嫌じゃないわ」
冷眼で睨んだつもりだったのだが、冷たさになれた身にとっては愛らしい眼差しでしかない。
さらに悪いことに今しがたの憎まれ口を聞かれたくない人の耳にも拾われてしまったようだ。
声量の調節を誤ったらしい。
「へえ…………」
ヴァインが驚嘆の声を上げてみせるがひどく芝居がかったものだから。
腹立たしさが増幅器にかけられて倍増する。
だから……聞かれたくなかったのに。
「私が機嫌悪くなるのは……気持ちよく寝ているのを無理やり起こされた時だけだもの」
それで口数がついつい増えてしまう。
敵は攻め口を相手がたくさん用意してくれるので笑いが止まらない。
「……なるほど。一応自覚症状はあるわけだ」
あまりにも楽しくてヴァインも思わずほくそえむ。
「ふん」
からかわれる方はちっとも面白くない。
私を小ばかにする為だけに顔をみせに来たのだろうか。
そんなことは……。
ない、とは言い切れない。
我が弟ながらヴァインは得体の知れない向きがある。
そもそも彼が危険を冒してまでライブラリに来るなんの必要があろうか。
面白半分、で来ているのかもしれない。
ルシャーティは弟を注視して見た。
やっぱり……なにを考えているのかさっぱり分からない。
「さて、と」
ヴァインは顔を引き締めた。
いつまでも姉と遊んでもいられない。
余興はここまで。
ルシャーティはお茶を一杯すする。
心が落ちつくのに少なからず効果がある。
もう一杯、とカップを口に運んで、気づいた。
自分だけ……飲んでいる。
慌てて弟に尋ねた。
「それじゃあ……。行こうか?」
お茶飲む、と訊かれて男はこう返した。
「行くって…………どこへ……?」
当然の疑問をルシャーティが口にする。
行くもなにも自分はここから出られない。
というより、彼の答えは自分の質問と関連性の欠片もないもの。
とにもかくにも。
弟がなにを考えているのか分からないが、とりあえず待つよう言ってルシャーティはお茶の葉の入った入れ物を取りに行こうとする。
それよりも早く来訪客はゆっくり顔をほころばせると。
「いいから、行こう」
「ちょ、ちょっと」
いきなりルシャーティの背を押し始めた。
姉がなにを言おうとお構いなし。
ヴァインは背中を突っつき急かしながら姉を出口の前へ連れて行き着くやドアを開け強引に外へ押し出し、自分も後に続く。
ライブラリには飲みかけのカップがぽつんと残された。
見上げると真っ青な空が広がっている。
風は女の長く美しい金色の髪を波立たせては通り過ぎ、またやって来て。
小川は彼女が今まで聴いたことのないメロディーを奏でている。
ルシャーティは水面(みなも)に映った己に触れようと手を伸ばした。
指先が冷を感じると共に投影された自分の顔も崩れる。
時として存外あっけなく願望は現実になるもの。
今彼女の手にぶつかり流れていくもの……。水。
よく知った馴染み深い存在。
されど今触れている液体は水は水でも自分が良く知っているものとは似て非なるもの。
せせらぎは歩を早めることも、緩めることもなく川下へ進み続ける。
「……どういうつもりかしら?」
ルシャーティは久しぶりに口を開いた。
青いリボンがそよ風に紛れこむ強者(つわもの)に流されそうになる。
急かされ、言われるがままにライブラリ。
鳥篭を出て最初に発した言葉は解放感に満ちた喜びの声ではなく。
いきなり“自由”を与えられ戸惑い、不安げに周囲に眼を配り追跡者の足音に震える文鳥の囀りだった。
怯えてさえいる小さな鳥にヴァインは間髪いれずに問い返す。
「なにが?」
有無を言わさぬ物言いにルシャーティは断念しかけるも躊躇(ためら)いがちに弟に訊く。
「こんなことをして………なにを……考えているの?」
困惑に薄く塗られた顔。無意識な上目遣い。
手は涼水に浸したまま。
快感が手先をくすぐっては逃げて行くがルシャーティの面は険しい。
「別に……」
弁の立つヴァインの歯切れが悪い。間が空く。
奥歯に物が挟まっているかのよう。
それでも、両手を腰に当てながら。
小川と戯れている姉に眼を合わせないよう注意しながら。
ぽそっ、と。
「『逃げ出したい』って…………言っていたから」
女の細い眉が一瞬僅かに持ち上げられまた元の位置に戻る。
「だからって……すぐに捕まるわ…………」
そんなことは分かりきっているはずではないの。
不安滲んだ声で反論しようとしたが声量が尻すぼみに。
せめてもの抗議か憂いを帯びた視線を弟に向ける。
「勘違いしていない?」
なにやら姉は誤解しているらしい。
それに気づきヴァインは尋ねる。
間違いは正さねば。
「えっっ?」
なにが勘違いなのか分からずルシャーティはその瞳をヴァインに向ける。
姉の眼を見てヴァインはしばし物思いにふけったがやはり結論を変えるわけにはいかない。
冷たい調子になるよう注意して言い放つ。
「僕は外へ行こうと誘っただけ……暫らくしたらまたライブラリに戻るよ」
聞いたルシャーティがどんな顔をするか想像できなかったが、間違いをいつまでも放置しては置けない。
無表情の見本な面構えで姉の顔色の変化を探る。
「そう…………」
ルシャーティは眉をちょっと寄り添わせ無味無色な呟きを空気に溶け込ませる。
残念でないと言ったら泥棒の始まりになってしまう。
けれど気落ちの淵に沈みはしない。
ホッとしてはいなかったが同時に失望もしていなかった。
それよりも気になるのは弟の瞳が波立っていること。
なによりも今日の彼の理解しがたい行動。
「……だからって」
顔を大きくしかめて弟を咎める。
彼は事前にこの反応は予期していた。
言葉の隅の隅の隅に申し訳なさを潜ませつつ言う。
「何か問題でも? ま、所詮なにも変わりはしないから不満だろうけ…………」
「違うわ!」
きっぱりした口調で強く否定されヴァインは一瞬首をすくめた。
言ってしまった後で口を押さえるという意味のない行動をルシャーティがとる。
悔やんではいたがさらなる衝動が彼女の背中を強力に後押ししていた。
小川のせせらぎ。
いつまでもその中に手を委ねてもいたかったが手を水から引き揚げる。
なかったことにはならない。
余計なことかもしれない。
言うか、言わないか。
迷う女の背後を青い着物を見せびらかせアオスジアゲハが二羽、横切る。
ルシャーティは迷うのをやめた。
不安を隠せない瞳で弟を見る。
「どうして、こんなことを………?」
青き二つの目。
青いリボン。
滾々(こんこん)と清い水の流れる小川。
今度は男の背中を横切った二羽のアオスジアゲハ。
そして真っ青な空。
青が一人の青年に包囲網を敷いている。
「『どうして』って……」
ヴァインはなぜそんなことを訊くのかとっさに分からなかったようだ。
適当にはぐらかそうと文句を練りだしたがルシャーティの眼差しによる無言の再質問に観念して。
面倒くさそうに、答える。
「『逃げ出したい』って言っていたから。……さっき、言わなかった?」
答えは聞いた。
でも、そうなると別の疑問が湧いてくる。
彼女の視線は未だ弟を捉えたまま。
「なぜ……私の願いを叶えてくれたの?」
質問には答えたのになぜまた答えなければならないのだろう。
追求されているようでヴァインはなんとなく不快だった。
「別に…………。ただ何となく、ね…………」
ぶっきらぼうに。
極めて……面倒くさそうに。
答える。
「ただ、それだけのことさ」
小さな風が二人の間を通り過ぎて行った。
「で、でも……。大丈夫…………なの?」
「なにが? 主語ははっきりして欲しいんだけど」
姉のはっきりしない発言は彼の苛立ちを隠匿するのを難しくさせる。
ルシャーティは瞳を軽く泳がせ、軽く息を吸って訊く。
「………………あなた…………」
「ヴァインは……大丈夫…………なの?」
「こんなことして……平気、なの?」
ヴァインは数十秒黙っていたが口を開きこともなげに言う。
「すぐに戻れば気づかれないよ。それに気づかれたとしても多少監視が厳しくなるだけさ」
若干早口で一気に言い切った弟の弁解を聞きルシャーティは空を見上げる。
自分の説明で満足したか不安に思うヴァインは横目で姉の様子を窺うが、それはいらなかった。
ゆっくりと流されていく雲を暫し見つめていた後。
ルシャーティは沈痛そうな顔を弟の方へ向けて、「い」の形の口を作る。
と、ルシャーティが喉の奥から声を出そうとしたその時。
黄色く、大きな蝶。
揚羽(あげは)蝶が寄って来た
頭上を何度か纏わりつくように旋回しさらに図々しくも肩に留まる。
が、それは彼らの特権。
華奢な肩の上で優雅に羽を閉じたり、開いたり。
単調な動作を繰り返す。
閉じたり、開いたり…。
閉じたり、開いたり……。
その仕草にすっかり魅了されてしまったのか。
ルシャーティは払おうともせず嫌がる素振りも見せない。
とろんとした眼を幻術師に送るだけ。
見かねたヴァインが姉に歩み寄り馴れ馴れしい奴に手を伸ばす。
蝶はふわりと舞い上がり自らの居場所へ逃げて行く。
その無礼者を見送る人影、二つ。
一つは寂しげな視線で後を追い。
一つは心なしか満足そう。
追い立てられた揚羽が目指したのは少し離れた枳殻(からたち)の木。
着くや否や早速濃緑なステージの上を軽やかなステップを披露しながら飛び回る。
羽ばたきの跡に小さな黄色の真珠をいくつも残して。
揚羽は枳殻の舞台の上で舞を披露し続ける。
黒く縁取られた黄色の衣装を身に纏い、舞い続ける。
時に人の眼を奪い。
時に人の二の腕を鳥や魚に変える。
美しく、生物的で、どことなく。
妖艶な舞を――――――――