休暇を利用して、タクトとミルフィーユはリゾート惑星へ遊びに行くことにした。

以前も訪れた、あの高原である。

 

 

 

ブナの林を抜けると、急に視界が開けた。

「わあっ」

助手席に座るミルフィーユが歓声を上げる。

崖を切り開いた道を走る車の中から見る景色は、まさに絶景であった。

高く、澄み切った夏の青空が広がっている。遥か遠くで横に連なる山々の稜線。眼下には眩しいほど鮮やかな新緑の森が広がり、その森に抱かれるようにして、美しい湖が鏡のように日差しを反射していた。

ミルフィーユが窓を開ける。騒々しいセミの大合唱と、熱気の抜けた高原の風が車内に流れ込んでくる。

「タクトさん見て下さい、去年来たときのまんまです! 湖も、あの教会も! あっ、私達が泊まったのってあのロッジじゃありませんでしたか?」

夏の日差しを浴び、風に飛ばされそうな麦藁帽子を押さえ、ノースリーブの白いワンピースをはためかせながら。

隣で子供のようにはしゃぐその様子に、タクトは前方と彼女を交互に見やりながら言う。

「ミルフィー、あんまり身を乗り出すと危ないよ」

「やっぱりそうですよ、見覚えありますもん! わー、ただいまー!」

「って、聞いてないし」

肩をすくめて苦笑を洩らすのだった。

曲がりくねった下り坂を下り、湖の畔に到着する。

ミルフィーユは元気よく車を降りると、一目散に湖へ駆け寄った。

「うーん、風が気持ちいいですー」

今回宿泊するロッジは、前回の隣だった。ミルフィーユは同じロッジを希望していたのだが、予約の段階であいにく他所の家族連れに先を越されていたのである。

タクトは車のトランクを開けながら、彼女に呼びかけた。

「ミルフィー、まずは荷物を運び込もう。それからお昼にしようと思うんだけど……メニューは何にしようか」

「メニューですか。そうですねぇ」

振り返るミルフィーユ。

その時、彼女は一瞬、なぜか驚いた顔をして―――― ニッコリと微笑んだ。

「カレーにしましょう」

それ以外有り得ない、と言わんばかりの断言。

「カレー?」

「カレーです。子供が居るお宅のご近所は、カレーを食べなくちゃいけません」

何を言っているのだろう?

首を傾げるタクトに構わず、ミルフィーユは話を進める。

「タクトさん、子供の頃を思い出して下さい。夕方の学校帰り、近所の家からカレーの匂いが漂ってきたら、ものすごく羨ましくなったりしませんでしたか?」

「そりゃあ、そんなこともあったけど」

「あのとき羨ましかった『近所の家』に、私達がなるチャンスです」

「???」

わけが分からない。

頭上にクエスチョンマークを山のように浮かべるタクトの顔に、ミルフィーユは可笑しそうに笑いながら。

くいくい、とタクトの背後を指さして見せる。

「うわっ……?」

後ろを振り返り、タクトは驚きの声を上げた。

4,5歳くらいのあどけない顔をした兄妹が、いつの間にかそこに立って、不思議そうな顔でタクトを見上げていたのだ。

ミルフィーユは満面の笑みで、繰り返すのだった。

「子供が居るお宅のご近所は、カレーを食べなくちゃいけません」

 

 

 

 

 

 

 

そんなわけで、カレーである。

「子供の頃、近所の家をずっと覗いてた事があるんです」

嬉しそうにカレーを頬張る兄妹を見守りながら、ミルフィーユはそう言った。

「私も食べたいなぁって思いながら、塀の向こうから覗いてました。私に気付いてくれて、『一緒に食べる?』って誘ってもらえないかなぁ、って思ってました。でも気付いてもらえなくて、それが無性に悔しくて……そのときに私、生まれて初めてお料理を作ったんです」

料理の鉄人・ミルフィーユの誕生秘話であった。……その意地汚さはさておいて。

カレーはもちろん子供に合わせて甘口である。タクトとしては中辛くらいが好みなのだが、そこはミルフィーユの作ったカレーである、不思議なくらい美味しかった。

「おいしい?」

「ああ、おいしいよ」

「タクトさんじゃなくって、子供達に訊いてるんですよぉ」

「うん分かってる。いや、つい」

からかわれてむくれるミルフィーユに、タクトは笑う。

女性が子供の世話をしている所を見ると、無性に保護欲を駆り立てられるのは、なぜなのだろう。

自分はこの光景を守らなければならない。

真摯にそう思う。ほとんど使命感にも似た思いだ。

それは男としての本能なのかも知れないな……。

微笑ましい光景を眺めながら、タクトはそんな事を考えていた。

 

 

 

 

 

その夜。

タクトとミルフィーユは、隣の家族連れのロッジに招待されていた。

「はっはっは。かの英雄タクト・マイヤーズ大佐をお迎えできるとは、光栄です」

「いえ、そんな」

昼間に出会った兄妹の家庭である。2人を出迎えたのは、人の良さそうな初老の父親と、その妻であった。

父親はパイプをくゆらせながら、息子と呼んでも差しつかえ無いほど若いタクトに、丁寧な会釈をする。

丁寧で、それでいて正に息子を見るように温かな目で、タクトのことを見つめてくる。父親の包容力のようなものを感じ、タクトはすっかり恐縮していた。

「本当に、ようこそおいで下さいました。後で記念写真を撮らせて下さいね」

穏やかに微笑みながら、奥さんがブランデーの水割りを渡してくる。

初老の夫に比べると、ずいぶん若い奥さんだ。まだ30代くらいだろう。こんなに年の離れた2人がどうして夫婦になったのか、気にはなったが、不躾に訊いていい事でもないだろう。人それぞれの人生である。

「それに、あのエンジェル隊のミルフィーユさんに遊んでもらえるなんて、あの子達も幸せ者です」

奥さんの言葉につられて、リビングのフロアを見やる。

ミルフィーユは子供達と一緒になって床に座り込み、自分の武勇譚を語っていた。

「……それでね、紋章機が動かなくなっちゃったの。いくら操縦桿を動かしても、ウンともスンとも言わないの。目の前にはミサイルがこ〜んなにいっぱい飛んできてて、ああ、もうダメだ〜〜〜!って。でも、その時タクトさんが――――

幼い兄妹は夢中になって聞いている。話の内容をどこまで理解しているのかは分からないが、ミルフィーユの大袈裟な身振り手振りや熱のこもった語り口調が面白いのだろう。

そんな様子を眺め、タクトは笑って奥さんに向かって首を横に振った。

「いえ、ミルフィー自身も楽しんでますから、いいんですよ」

子供達は、帰って両親に話したのだろう。夕方になって、急にお隣から招待されたのであった。

「優しいお嬢さんですね」

父親はミルフィーユを見守りながら、言った。

「自分が望み、叶わなかった事を他人にしてやれるのは、なかなか出来る事ではありません」

「カレーくらいで、大袈裟ですよ」

「確かに大袈裟です。しかし、たかがカレーですら施してやれない人間が増えているのが、今の世の中です。自分が苦しんだのだから、他人も同じように苦しめばいいと思うような人間が」

「まさか」

いくら何でも、そこまで心の狭い人間が居るものか。

そう思ってタクトは笑い飛ばすが、それに対して父親は穏やかに微笑んだ。

「まさかと思うことが出来るのですね。あなたもお優しい。銀河を救った英雄というのも、うなずけます」

「ですから、たかがカレーで大袈裟ですってば」

「私達の教義に、こんな言葉があります。『1人を救う者は、世界を救う』。小さい事を成し遂げられない人間が、大きな事を成し遂げる事は出来ません。あなたは他者に恵みを与える事を、当然と思える人です。そんなあなただからこそ、銀河を救えたのです」

タクトは少し、表情を改めた。

この穏やかな雰囲気。ごく自然な調子で教義を語る博識ぶり。

「……神父様なのですか?」

父親はうなずく。

「はい。ちょうどこのロッジから湖を挟んで向かいに、教会があるのをご存じでしょうか?」

「ええ」

「僭越ながら、その教会をあずからせて頂いている者です」

驚いた。

ミルフィーユお気に入りの、あの教会の神父様だったのである。

「オレ達、その教会で結婚式を挙げるつもりなんですよ」

「おお、それはそれは」

神父は顔をほころばせる。

「マイヤーズ大佐と桜葉嬢の式場に選んでもらえるとは光栄です」

「いえ、そんな。その時は、こちらこそよろしくお願いします」

「いつなのですかな? ご予定は」

「参列してもらいたい人達の予定がなかなか合わなくて、まだ未定なんですけど」

タクトは決まり悪そうに答えた。

本当はすぐにでも式を挙げたかったのだが、戦後処理のゴタゴタですっかり先延ばしになっていた。

それに、どうせなら皆に祝ってもらいたい。皆の都合も考えなければならない。

加えてあの教会自体、式場として人気があるのだ。予約がけっこう入っていて、ずいぶん後回しになってしまった。

あれもこれもと欲張っているうちに、今日まで来てしまったのが現状である。

神父はうなずいた。

「ふむ。結婚とは人生にただ1度の大切な行事です、焦らずじっくりと時を待つのが良いでしょう」

ミルフィーユが両手を広げて、「どかーん!」とか言っている。

きゃあきゃあ言って喜んでいる兄妹。

そんな兄妹達に、微笑みながらオレンジジュースを配っている奥さん。

神父は礼拝で教えを語るように右手をかざし、目を閉じて言った。

「これであなたは、人生に不可欠な3人のうち1人を得るわけです」

「3人……? なんですか、それは」

「人が生きるためには、3人の人間が必要です。1人は、尊敬し目標とすべき師。1人は、苦難の道を共に歩んでくれる友。そしてもう1人が、何があっても自分を信じ、連れ添ってくれる伴侶です」

「………………」

「あなたには、居ますかな? あとの2人も」

タクトの脳裏に、2人の人間の面影が浮かんだ。

士官学校時代、劣等生であった自分を見出してくれた、今や皇国軍の総帥となっている偉大な恩師と。

自分より遙かに優秀な成績であったにも関わらず、部下となってくれた皮肉屋の親友。

「……ええ」

「ご自分の幸運に感謝しなさい。あなたの人生は祝福に満ちている」

神父は祈りの言葉をささやく。

タクトも我知らず、敬虔に頭を垂れるのだった。

「タクトさ〜ん、何のお話してるんですか?」

ミルフィーユが割り込んできた。

間延びした脳天気な声に、厳粛な空気は一瞬にして霧散する。

「……ミルフィー」

「はい」

「……いや、いいさ。これからもよろしくね」

「? はい、こちらこそ。で、いったい何のお話を」

「そういう話さ」

「???」

キョトンとするミルフィーユ。

苦笑するタクト。

ミルフィーユを追って、じゃれつく幼い兄妹。

そんな光景を、微笑ましく見守る夫妻。

まるで絵に描いたような、穏やかで幸せな時間がそこには流れていた。

 

 

 

 

 

 

高原に時計は無い。

タクトもミルフィーユも、敢えて持って来なかった。

 

 

朝はどちらか先に目覚めた方が、相手を起こしに行った。

意味もなく凝って、ベランダでモーニングコーヒーなど演出してみたりする。

それから朝食。ことさらゆっくりと時間をかけて食べる。

 

 

日中は散歩に出たり、湖で釣りをしたり。あんまり暑い時には泳いだりもした。

昼食はロッジに戻ることもあったが、大抵はミルフィーユがお弁当を作って、それを現地で食べていた。

 

 

夜は、神父の家庭と親睦を深めた。

湖のほとりでバーベキューをしたり、怪談話をして遊んだり。

ミルフィーユは、幼い兄妹とすっかり仲良しになっていた。

「子供は好きなんです。これでも私、昔は学校の先生になるのが夢だったんですよ」

……と本人は言っているが、どう見ても同レベルでじゃれ合っているようにしか見えない。

向こうの両親もそう思ったはずだが、何も言わずニコニコと見守ってくれる善良な人達だった。

 

 

楽しい日々は瞬く間に過ぎて行った。

ずっと笑っていたような気がする。

こんな日々がずっと続けばいいと、幼稚な願いを切実に抱いた。

しかし、時間は確実に過ぎ去って行った。

気が付けば、明日が最終日。

この夜、タクトはよく眠れなかった。

 

 

――――早朝。

まだ夜も明け切らぬ黎明の頃。

タクトとミルフィーユは、湖のほとりに居た。

地べたにビニールシートを敷き、毛布にくるまって。

2人、寄り添って座っていた。

ミルフィーユがコクリとする。

「眠い?」

尋ねると、ブンブンと首を横に振る。

「ゴメン、無理矢理つき合わせて」

「いえ……私も、朝焼け見たいです……」

無理も無かった。

ついさっきまでミルフィーユは、温かいベッドの中でグッスリと眠っていたのだから。

その彼女を揺り起こして、「朝焼け、見に行かない?」と誘ったのだ。どうしてそんな事をしたのか、自分でもよく分からない。

安眠を妨害されて不機嫌になっても当然なのに、彼女は「行きます」とうなずいてくれたのだった。

何をするでもなく、ただ時が過ぎるのを待つ。まだ遠い山の向こう側が、ようやく白み始めた頃だ。

「……教会……」

ふと、ミルフィーユが呟いた。

眠たそうな目は、湖のほとりに建つ小さな教会に向けられていた。白亜の壁が、黎明の光で青白く染められている。

「私達、結婚するんですよね……。夢みたいです……」

言葉通りに、夢見心地に言う。

タクトはうなずいた。

「ああ。ミルフィーお気に入りの、あの教会で式を挙げるんだ」

それは、全ての戦いに決着がついた時に契った約束。

「あのお父さんが、あの教会の神父様だって聞いた時は、びっくりしました」

「そうだね。人の縁って不思議だね」

「私達も、あんな風に温かい家族になれたらいいな……」

「なれるさ。決まってる」

時間は経ってしまったが。

それでも今もって、気持ちは少しも変わらない。

この少女が、愛おしくてならない。幸せにしてやりたい。一緒に幸せになりたい。

息が詰まるくらいに、そう願っているのに。

「ミルフィー。もしかしたら、なんだけどさ。……また、ヴァル=ファスクの艦隊と戦うことになるかも知れない」

今、ここで言うのは不釣合いだろうか。そう思いながらも、タクトは静かに告げた。

ミルフィーユが顔を上げる。物問いたげに、しかし黙って、こちらを見つめてくる。

「ロウィルが指揮してた分艦隊を覚えてるかい? ほら、ラッキースターが制御不能になったあの戦闘だよ。遠くに散開してた

分艦隊が戻ってくる前に本隊を叩こうとした」

「ああ……あの戦闘ですね」

「あの後さ、戻ってきた分艦隊と戦ったんだけど。5つあった分艦隊の1つとしか戦っていないんだ。残りの4つは行方不明」

「………………」

「こないだ。所属不明の船団がローム付近の宙域で目撃されている。もしかしたら、そいつらかも知れないんだ」

ミルフィーユが、フゥと小さく息を吐いた。

「そうですか……」

物憂げに、やる瀬ない様子で呟く。

「せっかく……ヴァインさんが命がけで残してくれた希望だったのに」

最近の反戦平和の風潮に乗って、ヴァル=ファスクとも国交を結ぼうという動きがある。

今、ヴァル=ファスクと戦えば、その流れもたちどころに止まってしまうだろう。

攻めてくるのなら戦うしかない。

しかし、次に国交を結ぼうという機運が高まるのは果たして何年先になることか。

先の戦いの最中、ヴァインが見せてくれた希望。ヴァル=ファスクの中にも人を愛する心はあるのだという小さな可能性。

その小さな芽を、自分達の手で摘み取ってしまうことになるのが悲しかった。

「あ、でも。もし本当に敵だったら、私達また紋章機に乗れるんでしょうか?」

「乗りたいのかい?」

「戦いたくはないけど、乗りたいです。ラッキースターは私のお友達ですから」

実にミルフィーユらしい答えだった。

もともと彼女達エンジェル隊は、紋章機の翼から連想して天使の名を冠しているのだ。天使が奪われた自分の半身を求めるのは、ある意味自然と言える。

しかしその感覚を、『友達だから』とは。

「きっと格納庫の奥で埃を被って、さみしい思いをしてます。きれいにお掃除して、ワックスでピカピカにして、エネルギー満タンのお腹いっぱいにしてあげて。そして思いっきり、飛び回らせてあげたいです」

眠気も覚めてきたのか、ミルフィーユはその日を待ちわびるように嬉々として話す。

「あ、もちろん戦わなくちゃいけないなら、ご命令に従いますよー? タクトさん」

おどけて敬礼などしてみせる。

「そっか……。けど、分からないよ。もちろん君たちが居てくれれば安心なんだけど、上の連中はエンジェル隊を使う事を渋るだろう」

「そうなんですか。あはは、嫌われ者ですね、私達」

明るく笑うミルフィーユ。

フォローしてくれているのだ、とタクトは感じた。

「ミルフィー、人生って何だと思う?」

タクトは尋ねてみた。

「人生の意味って何だろう? オレ達は、何のために生きているんだろう?」

ミルフィーユは不思議そうに、タクトを見つめる。

「どうしたんですか? 急に」

「オレさ、昔から目立ちたがり屋だったんだよ。何か特別な事がやりたいって、ずっと思ってた。群衆になんて、なってたまるか。その他大勢な人生なんて、死んでもゴメンだって。……オレは、何者かになりたかったんだ」

「タクトさんは、皇国を救った英雄じゃないですか」

「そう、オレは皇国の英雄なんて呼ばれるようになった。けど、それが何だって言うんだろう。大人になっていくにつれて、オレ思う事があるんだ。今まで当たり前だと思ってた事が、実は誰かが大変な努力をしてるからこそなんだって」

「………………」

「スーパーに行けば食べ物が売られてる。当たり前だ。電車が時間通りに来る。当たり前だ。蛇口をひねれば水が出る。当たり前だ。だけど考えてみたら、オレ達が遊んでる時に、汗を流して野菜を作る人がいる。オレ達がグッスリ眠っている時に、ベッドから起きて電車を走らせる準備をする人がいる。ダムを造ろうとして、命を落とした人だっている。……今まで当たり前だと思ってた事が、実は誰かの大変な努力のおかげなんだって事が、大人になるにつれて分かるようになってきた。当たり前の事を、当たり前のままにしておく事の、どんなに難しい事か……」

「………………」

「英雄なんて呼ばれてる、オレがやった事って何だ? 自分に出来る事を精一杯やった、ただそれだけだ。農家の人と、電車の運転手と、ダム工事の人と、何が違うって言うんだ? 何も違いはしない。だったら英雄って何だ? そんな大袈裟な肩書きに、何の意味があるって言うんだ?」

胸に迫るのは、目に見えないヴァル=ファスク艦隊のことだった。

なぜ自分が戦わなければならない?

英雄だからか?

オレは超人でも怪物でもない、ただの男だ。

目の前のこの娘と幸せになりたい、ただの男だ。

なのに、なぜオレが?

「本当はさ……1つだけ、1人だけ、守ることが出来れば良いんだよ、人なんてものは。英雄なんて呼ばれて、顔も知らない他人のために戦わなきゃならなかったオレの人生って、何だったんだろうって」

タクトは隣に座る少女を見やる。

ミルフィーユは、不思議に澄んだ目でこちらを見つめていた。

「………………」

しばしの沈黙。

やがて彼女は、ゆっくりと口を開く。

「タクトさん……」

「うん」

「ひょっとして、難しい話してます?」

タクトの首がカクンと落ちた。

このシリアスな場面に、この天然娘は。いや、確かにオレは彼女のそんな所にも惚れたんだけど。

「私、そんなに頭良くないですよ〜」

ほんわりと笑いながら、そんなことを言う。

そして今さらのように、首をひねって考え始めた。

「人生、人生……ん〜、そうですねぇ」

「いや、いいよ無理しなくても」

タクトはもうどーでもいいや的な気分になって言うが、ミルフィーユは生真面目に首を横に振る。

「いえ、ちゃんと考えます! そうですね、やっぱり私の場合、おいしいもの食べたり、温かいお布団でグッスリ寝たり、おいしいごはん

作って皆に喜んでもらったり、って事ですね」

「それは単に、人生の中でやってる事だろう? オレが訊いているのは、そこにどんな意味があるのかって事だよ」

タクトは苦笑しながら指摘する。やはりこの少女には難しい質問だったか、と思ったのだ。

が――――。

「だから、それ自体が意味なんですってば」

ミルフィーユは平然と切り返してきた。

「……え?」

「そもそもタクトさん、おかしなこと言ってます。何のために生きてるんだろう? なんて、まるで人生にたった1つしか意味が無いみたいに」

意外な反論に驚いているタクトに向かって、ミルフィーユは当然のように言った。

「答え1つで決着がついちゃうほど、人生って簡単なものじゃないと思います。人生の意味なんて、きっと数え切れないくらい、たくさんあるんですよ。だから英雄って呼ばれたのも、顔も知らない他人のために戦わなきゃいけなかったのも、数え切れない人生の意味の1つです。それが全てってわけじゃありません」

タクトは、言葉もなくミルフィーユを見つめた。

「生きるって、そういう事だと思います。目の前の事に全力でぶつかって。1つ1つの出会いを大切にして。そして後にキラキラした思い出を残して」

こんなにも、あっさりと。

自分が一晩悩み抜いても辿り着けないような結論に、この少女は、こんなにもあっさりと。

あのヴァル=ファスク戦役でさえ、数え切れない人生の意味の1つに過ぎないと。それが全てでは決して無いと。

―――― 人生とは、そんなに簡単なものではない、と。

こんなにも、自然体で生きていけるものなのか。

ミルフィーユは不思議そうにタクトを見つめる。

「私、変なこと言ってますか?」

「いや……逆。君は……すごい女の子だよ」

「あはは、おだてたって何も出ませんよ〜?」

タクトは目を伏せた。この少女に、好意は抱いていた。それこそ結婚したいと思えるくらいに、この少女に深い好意を抱いていた。

しかし、敬意を抱いたのは初めてだった。

それは新鮮な感覚であり、驚きだった。まるで初めて彼女に出会った時のような気持ちだった。

正面に目を向ける。

山の向こうが明るい。もう間もなく、あの遠い稜線から朝日が顔を出すだろう。

「タクトさん、何だか色々考えて大変でしょうけど、がんばりましょうね」

ミルフィーユが声をかけてきた。

「ああ」

タクトはうなずく。

「タクトさん、がんばりましょう」

「? うん」

同じ事を繰り返してくるミルフィーユ。

何だろうと思って、隣を見やる。

ミルフィーユは、なぜか不満そうな顔をしていた。

「がんばりましょうってば、タクトさん」

「?? うん、がんばろう」

「う〜……」

あからさまに不満げな唸り声。

何だと言うんだろう?

「どうしたらいいのかなぁ……」

「何が?」

「やってみようかな……」

「何を?」

「何でも、やってみなくちゃ分かりませんよね、タクトさん?」

なにやら勝手に話が進んでいる。

わけが分からないまま、タクトはうなずいた。

「? そりゃまあ。けど何を」

するとミルフィーユは、くるまっていた毛布をはだけて立ち上がった。

「ひゃー、夏でも明け方は寒いですねー。さ、タクトさんも立って下さい」

手を引いて立ち上がらされる。

「ミルフィー、何を」

「ちょっと水際を歩きませんか?」

なんだ、そんなことか。

タクトは安心して、手を引かれるまま湖の水際に近づく。

が、水際を散策するのかと思いきや、ミルフィーユはすぐに立ち止まってしまった。

「あ、もうここでいいです」

「え? 歩くんじゃないの?」

「ん〜と……確か、こことここを持って」

ミルフィーユがタクトに密着してきた。ほのかな甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

抱きしめればいいのかな? と思うが、それにしては少し変だ。

彼女はタクトの左肘と襟首を掴んでいる。

「うん、思い出した思い出した。じゃあタクトさん、行きますよー」

「どこへ」

「よっと」

ミルフィーユはクルリと背を向けた。

腰を落とし、両手でタクトをグイッと引っ張る。

 

ぶわっ

 

タクトの体が宙に浮く。

「う……」

ミルフィーユの背中で一回転。

俗に言う、背負い投げであった。

タクトはそのまま、背中から湖の中へ。

「うわああああぁぁぁーーーーーーーっ!」

 

ばっしゃ〜〜〜ん

 

盛大な水飛沫が上がった。

全身水浸しになり、タクトは悲鳴を上げる。

「つ、冷たっ! 何するんだミルフィーッ!」

慌てて水から上体を起こし、後ろを振り向くと――――その鼻先に、人差し指がつき付けられていた。

 

「タクト・マイヤーズッ!」

 

そこにあったのは、不敵な眼光。

 

「元気がないっ!!」

 

思わず言葉を失う。

怒鳴ることも忘れ、呆然と彼女の顔を見つめてしまう。

やがてミルフィーユは、ゆっくりと手を降ろして言った。

「元気出して頑張りましょう、タクトさん。そんなんじゃ、何をやってもうまく行きませんよ?」

「ミルフィー……」

「いきなりこんな事しちゃって、ゴメンなさい。けどタクトさん、疲れて元気なかったみたいだから。こっちに来てからも、ずっと」

彼女もタクトと同じく、湖の中に突っ込んでしまっていた。

ペタリと座り込んだ、その腰の辺りまで水に浸かっている。

「タクトさんがどれだけ大変だとか、詳しい事は私、分かりません。バカだから、たぶん聞いても分からないでしょう。私は何となく、タクトさんが思うように行ってないんだろうなーって事を感じるだけです」

頭からずぶ濡れであった。

その桜色の髪から、水滴がポタポタと落ちている。

「そして私に分かるのは、1つだけ。何だかんだ言って、結局はタクトさん、最後には戦っちゃうだろうなーって事だけです。どんなにうまく行かなくても、諦めないで、みんなのために頑張っちゃうんだろうなーって」

 

知っています。あなたは優しい人だから――――。

 

その目が、そう語っていた。

「だから元気出して、頑張りましょうよタクトさん。大変でしょうけど。ちっとも思うように行かないでしょうけど。タクトさんがどんな決断をしても、私はそれを信じてます。たとえ火の中水の中。私とタクトさんは、いつも一緒です」

ついに朝日が顔を出した。

黄金色の光が山の稜線に、森に、湖に、矢のように投げかけられる。

まるで、世界が目を覚ますかのような光景だった。

朝日はすべてのものをあまねく輝かせる。

そんな光の中で、ミルフィーユは笑っていた。

黄金色の光と、濃い陰影に彩られ。

ずぶ濡れの彼女は神秘的なまでの美しさをたたえて、タクトの目の前に佇んでいた。

 

――――ああ。惚れ直すって、こういう事か。

 

タクトは、そんなマヌケな事を考えていた。

参った。もう、どうしようも無い。ベタ惚れだ。

「なんちゃって……。どうですか? ちょっとは私、彼女らしいですか?」

照れたように上目遣いで、そう訊いてくる。

彼女の言葉に嘘は無い。現にこうして、一緒にずぶ濡れにもなってくれるじゃないか。

これ以上、オレは何を求めようというのか。

「……ミルフィー……」

「はい」

「実はさ、渡したいものがあるんだ」

鞄の奥底に眠っている、小さな箱のことを思い浮かべながら言った。

その箱の中に眠っている、小さな銀色のリング。

もしかして良いタイミングがあるかも知れない、と思って持ってきていたのだ。

今しかない。

渡す時は、今しかない。

それは神託にも似た確信。

「ロッジに戻ってシャワーを浴びて体を温めて。一息ついたらさ、オレの部屋に来てくれないかい?」

ミルフィーユは不思議そうな顔をしていたが、すぐに笑顔でうなずいた。

「はい、分かりました。プレゼントなんて嬉しいです。何だろう、私も何か用意して来れば良かったなー」

「いいんだよ、オレが渡したいだけなんだから。でも、そうだな。それならコーヒーを用意して来てくれると嬉しいな」

「お安い御用です」

2人で湖から上がる。

今から1時間後に人生最大の喜びが待ち受けている事など、ミルフィーユには知る由もない。

ロッジに帰る2人の背中を、朝日が祝福するかのように照らしていた。