事の起こりは、1ヶ月前にさかのぼる。
休暇を1ヶ月後に控え、何かとソワソワ落ち着かない気分になる、そんなある日のこと。
「草民のため太平の新時代を、一君万民の世を夢見た智将・楠木正成。しかし彼の不運は、奉った後醍醐天皇がどうしようもなく暗愚であった事でした」
縁側に座って、ちとせは隣に座るレスターに昔語りをしていた。
ここはちとせの部屋である。定期訓練を終え、2人は休憩しているところだった。
2人の間には、小さな湯飲みに注がれた緑茶。
ぽかぽかと日だまりになっている縁側は、和やかな空気に包まれていた。
「正成公は何度も天皇に注進しました。1度追い払ったとは言え、足利尊氏は武士の尊敬を一身に集める男。こちらが勝っている今のうちに和睦すべきだと。しかし後醍醐天皇は聞き入れませんでした。周りの公家達に至っては、『身分卑しい河内の悪党が出過ぎた事を』と逆に正成を責めました」
「……悪党?」
首を傾げるレスター。ちとせはうなずいた。
「武士の中にも家柄によって身分差があって、もともと楠木家は河内という片田舎の土豪だったんです。でも民には慕われていました。重税にあえぐ民のため、取り立てに来た役人を追い払ったり、身分を超えて芸人になりたいと言う農民の子を援助してあげたり」
「良い領主じゃないか」
「しかし、それらは現行の体制に反する事でした。お上の言いつけを守らぬ者―――― つまり悪党だったんです」
レスターは無言で湯飲みを取り、静かに口を付ける。大いに不満そうだった。
ちとせはクスリと笑って、先を続ける。
「正成公の予言通り、やがて足利尊氏は力を盛り返し、万軍を率いて都へと攻めてきました。正成は打ち首も覚悟で、もう1度天皇に注進しました。尊氏と和睦を、と」
「聞き入れられなかったのだな」
「はい。そして正成公は、負けると分かり切っている最後の戦へ赴きます。決戦の舞台は湊川。足利軍十万の軍勢を、楠木軍三千が迎え撃ちました」
「十万対三千だと!? 100対3ではないか!」
「ですから、分かり切った負け戦なんです。それでも戦いは6時間にも及んだといいます。楠木正成の突撃は16回を数え、身体に11ヶ所もの傷を負いました。力尽きた正成公は北の民家に逃れ、そこで自害して果てました」
ちとせはそこまで話し、言葉を切った。喉が渇いたとばかりに、のほほんと茶をすする。
うららかな庭で、古の武将の悲劇を昔語り。奇妙と言えば奇妙にちぐはぐな空気が漂っていた。
「……それで」
レスターは先をうながす。
いつもどおりの素っ気ない口ぶりであったが、その目が好奇心に爛々と輝いている事にちとせはとっくに気付いていた。
可愛い、などと本人が聞いたら激怒しそうな感慨を抱いてしまう。
英雄譚に夢中になる子供と同じだ。
「正成公のお話は、これでおしまいです。後は足利尊氏が後醍醐天皇を倒して幕府を開きました。めでたしめでたし」
「めでたいものか。マサシゲの理想はどうなったんだ。一君万民の世は」
「残念ながら叶いませんでした。子の正行が、これまた父に劣らぬ天晴れな最期を遂げたのですが……それはまた別のお話です」
どうやら昔語りはおしまいのようであった。
レスターは顎に手を当てて、考え込む。
「……それほどの男が、どこで読み違えをしたのだろう? いつ、どこで、何をどうすれば、理想は叶ったのだろう?」
「さあ。歴史的に見れば、そもそも倒幕に足利尊氏が加わった時点で、正成の理想は潰えたのです。新時代に武士の力を借りたのでは、鎌倉と同じです。一君万民の世など成し得ません。後醍醐天皇はそれが分かっていませんでした」
「つくづく救えぬ帝だったのだな、そのゴダイゴとやらは。……むごい話だ。民のために悪党の汚名をかぶり続けた男が。稀代の才を持ちながら、愚かな帝のために死なねばならなかったとは」
真剣に腹を立て、悔しがっているレスターの様子に、ちとせはクスリと笑った。
ちとせにとって、こんなものはただの昔話である。それにムキになっているレスターが、何だか可笑しかったのだ。
「副司令は、本当にこういった話がお好きですよね」
「俺だけではない。男とは、そういうものだ」
「軍人とは乱ではなく、平治を望む者でなければならないと私は思うんですけど」
「お前の言う事は正しい。だが、男はそれだけでは満足できんし、満足すべきではない」
「よく分かりません」
「無理もない。お前は女だからな」
こういう言い方をするのである、この人は。
最初の頃はちょっとムッとしていたものだったが、最近ではいい加減に慣れてしまった。
ちとせは「はいはい」とやんちゃな弟をあやすような気分で、急須にお湯を足して茶のおかわりを用意する。
「……行ってみたいな……」
レスターの呟きが聞こえたのは、急須を回して茶葉をお湯になじませている時だった。
「……はい?」
顔を上げて相手を見やる。レスターは何気ない調子でもう1度言うのだった。
「そんな男がいたという、お前の故郷へ行ってみたい」
/
山間の開豁地は、見渡す限りの水田であった。
舗装されていない田んぼの畦道を、古くさいバスが黒煙を吐きながら、えっちらおっちら走り去っていく。
こんもりと木が生い茂る小山の入り口に立つ、バス停の看板。
そこには、たった今バスから降りたばかりの、1組の男女が居た。
長い黒髪の少女は目の前の風景を懐かしそうに眺め、大きく深呼吸をする。
「変わってないです」
「そうか」
銀髪隻眼の青年が、それに答える。
言わずと知れた、レスターとちとせの2人であった。
レスターは周囲の田園風景を見渡した。刈り入れ時が近いらしく、稲穂は豊かな黄金色に輝きながら、風に揺られている。
「空気が違うな」
「田舎ですから。さあ行きましょう、もうここから近いです」
ちとせが指す方向へ、レスターは歩き始める。
「母方の里だったか?」
「そうです。父が死んでしまった後、軍の官舎を引き払って、こちらに引っ越してきました。センパールに入学して寮に入るまで、私はここで生活していたんです」
2人して、石ころだらけの畦道を歩く。
レスターは物珍しそうにキョロキョロしていた。
「あの人形は何だ?」
「案山子と言います。ああやって人が居るように見せかけて、スズメを追い払うためのものです」
「む、ここにも石人形があるぞ。カカシか」
「それはお地蔵様です。いわゆる仏像のようなもので……」
前方から、腰の曲がった老婆がヨタヨタと歩いてくるのが見えた。
ちとせは嬉しそうに顔をほころばせる。
「吉田のおばあちゃん」
「知り合いか?」
「小さい頃、とても可愛がってもらいました。ちょっとご挨拶しますね」
老婆に駆け寄って行く。
「おばあちゃん、こんにちは。お久しぶりです」
老婆は顔を上げ、ちとせの顔をまじまじと見る。
「あや〜……高村のお嬢様ですかい。こんな汚ねぇ婆にお声かけて下さるたぁ、ありがたや……」
「嫌ですね、おばあちゃん。私です、ちとせですよ」
誰かと勘違いされていた。ちとせは自分を分からせようと、あれこれ話している。
その様子をレスターは後ろから見ていた。
やがて老婆はようやく理解したのか、細い目を見開く。
「はぇ〜、アンタ、ちーちゃんかい? 烏丸さん家の」
「……ちーちゃん?」
目を丸くし、オウム返しに呟くレスター。ちとせはギクリとして、わたわたと手を振り回した。
「お、おばあちゃん、その呼び方は、今はちょっと……!」
「こりゃ〜驚いた。烏丸さん家のちーちゃんが、こんな綺麗なお嬢様になるたぁ、まあ……」
「ああぁ……」
ちとせは絶望のうめきを上げ、チラリとレスターを振り返る。
彼は「ちーちゃん……」とかブツブツ言いながら、何やら一人で苦悩していた。
老婆は続いて、そのレスターに目を留める。
「そちらの方は、お婿さんかぃ?」
「お、お婿さん!? いえ、副司令は、その、えっと、副司令でして、決してお婿さんでは……!」
「ホントに驚いたねぇ。もうちーちゃんがお嫁に行く年だったんだねぇ」
「行ってません! お嫁になんて行ってませんってば!」
「何にもお祝いしてあげられないけどねぇ、これでも持って行きなさい」
真っ赤になって声を張り上げるちとせとは対照的に。
老婆はニコニコしながら、2人にイチゴ味の三角飴を差し出すのだった。
2人してイチゴ味の三角飴をなめながら、再び畦道を歩いていた。
「いい人じゃないか」
レスターはすっかり憔悴しているちとせに向かって、そう言う。
「ええ、いい人なのは確かなんですが……ちょっと、ボケちゃってるみたいで……」
「ちょっと勘違いしただけだろう。飴までくれたというのに、何が不満なんだ」
「だって……」
ちとせは口の中で何事かボソボソと呟く。
「ん? 聞こえないぞ、ちーちゃん」
「……っ!」
ボンッ
へいお待ち。ゆでちとせ、一丁あがり――――。
湯気が立つほどに真っ赤になるちとせ。
「そ、その呼び方はやめて下さい……!」
「なぜだ? 昔はそう呼ばれていたのだろう? せっかくの里帰りだ、ここは童心に返って」
レスターは至極真面目な顔で、そう言う。
彼の明晰な頭脳によると、こういう結論が導き出されていた。
これはちとせの里帰りである。里帰りとは自分が生まれ育った場所へ帰り、自分の原点を見つめ直す重要な行事である。俺はその機会に乗じて同行させてもらっただけの、言わばただのついでだ。そのお礼も込めて、俺はちとせの原点回帰に誠心誠意、協力しなければならない。そう、たとえいかほどの恥を偲ぶことになろうと……。
こういう男なのである。レスター・クールダラスという男は。
「昔の話です! この歳になって、まだそんな呼び方されてる子なんていませんっ!」
「何を照れているんだ、烏丸さん家のちーちゃん」
繰り返す。彼はあくまで、誠心誠意ちとせに協力しているつもりなのである。
「〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!」
荷物を振り回すちとせ。
「おお、凶暴になった」
「凶暴って何ですか! やめてくれない副司令が悪いんですっ!」
「懐かしいかと」
「余計なお世話ですっ!」
「なぜ怒る……っ!?」
逃げるレスター。追いかけるちとせ。
遠くへ響く、元気の良い怒鳴り声。
田んぼのあぜ道。
稲穂をゆらす夕凪。
神社のある小山を通り過ぎたら。
目指す烏丸家は、もうすぐそこだった。
/
サムライの文化を学びたいと言うレスター。
それからどう話が発展したのか、ちとせの里帰りに同行する事となった。
実家ではちとせの母親と祖父母が、彼を歓迎した。
到着した翌日。最初の異文化研修は、ちとせの父親の墓参りから始まった。
墓地は高台の上にあった。
訪れたのはちとせ、レスター、そしてちとせの母親の3人である。
ちとせは水の入った木桶と柄杓を持ち、母親は花束と線香を携えていた。レスターは手ぶらである。無論、何か持つと申し出たのだが、「お客様に荷物を持たせる風習など、この国の文化にはありません」とやんわり断られてしまったのだ。
長い石段を登りきり、『烏丸家之墓』と銘が刻まれた墓標の前までたどり着いてから、ちとせの母親は声を上げた。
「あらいやだ。お酒を忘れて来ちゃったわ」
母親は娘に振り返る。
「ちとせ、悪いんだけど……」
「はい。下にあった酒屋さんですよね、行ってきます」
たったいま長い石段を上がってきたばかりだというのに、ちとせは母親に皆まで言わせず、笑顔でうなずいた。
「小さいのでいいからね。待って、いまお金を」
「それくらいの持ち合わせはあります。私だって、もう働いてお給料をもらっているんですから」
ちとせは木桶を置き、レスターの方を振り返る。
「申し訳ありません副司令。せっかくお付き合い頂いたのに、少々お待たせしてしまいます」
「いや、全く構わんぞ。気にせずゆっくり行ってくるといい」
「はい。行って参ります」
レスターは母親と並んで、ちとせを見送る。
彼女の姿が徐々に石段の下に隠れて行き、やがて完全に姿が見えなくなったところで。
「……それで」
母親に向かって、静かに尋ねた。
「自分に何のお話でしょうか」
「え?」
「お嬢さんの居ない所で、お話があるのでは?」
ちとせの母親は少しだけ驚いた顔をして――――すぐに微笑みを浮かべた。
よく似た母子だ、とレスターは思う。
ちとせによると、母親は38歳だという。まだまだ若い未亡人だ。少しだけつり目がちな所がよく似ている。ちとせが38歳になって髪を切ったら、丁度こんな風になるのだろう。肩口までの髪をなびかせながら微笑む奥ゆかしさは、異文化の住人であるレスターには不思議なものに映った。
「鋭い方ですのね。あの子が手紙に書いていた通り」
「いえ、そうではないかと思っただけですが」
「ご明察ですわ。不躾は承知の上でお尋ねしたいのですが」
「はい」
母親は、レスターに向き直って尋ねる。
「……レスターさんは、娘のことを、どうお思いなのでしょうか?」
なるほど。レスターは胸の内で納得した。
それはそうだろう。久々に帰ってきた娘が、男を連れてきたのでは親として気になって当然だ。文化研修に来た、などというお題目を真に受ける親など居るわけがない。
「素晴らしいです」
レスターは即答した。
「勤勉で、努力する事を苦とも思っていない。あの年頃の娘にありがちな、目先の享楽に惑わされる事も無く、その自律の精神は敬意にも値します。本当に勉強熱心で、理解力が高く覚えも早い。自分はそのうち、お嬢さんに上級幹部候補生の受験を薦めるつもりでいます」
レスターの答えに、母親は苦笑する。
「そういう事ではなくて。あなたご自身は、そんな娘の事をどうお思いかと」
「はい、分かっています。それに答えているつもりですが」
構わずにレスターは続ける。
「勉強するに当たって、自分は頼りにされているようです。よく質問をされます。しかし本当の事を申し上げますと、自分などがお嬢さんに教えてやれる事など、もうほとんど残っていないのです」
「そうなのですか?」
「はい。お嬢さんのなさる質問は、日毎に高度に、鋭くなってきています。最近では自分も一瞬、口ごもって考えてしまう事が増えてきています。……自分はいずれ、お嬢さんに追い抜かれるでしょう。それも、そう遠くないうちに」
レスターは眼下の風景を眺めながら話していた。
高台にある墓地は、なかなかに見晴らしが良い場所だ。
空は清々しい秋晴れ。
遠方に連なる山々は、紅葉で華やかな色合いに染まっている。
その麓から眼下まで広がる水田は、実り豊かな稲穂の海だ。風が通り抜ける様が、まるで黄金のさざ波の様に見える。
「それで……? 娘がいずれ、あなたを追い抜いてしまうとして。それであなたはどうなさるおつもりなのですか?」
興味深そうにしながら、母親はレスターをうながす。
「無論、座して敗北を待ちはしません。負けぬよう精一杯努力してきましたし、これからも努力するつもりです」
「それでも、敗れる日が来たとしたら?」
「どうもしません」
眉一つ動かさず、レスターは答えた。
「抜かれるその日まで、自分が教えてやれる事は全て教えてやります。そして抜かれたなら……今度は自分が、お嬢さんに教えを乞いましょう。それだけの事です」
淡々と、まるでそれが世の必然であるかのように。
そよ風が髪を揺らす。踊る前髪からのぞく隻眼には、無常観にも似た憂いの光が宿っていた。
母親はそんな彼の横顔を、興味深げに見上げていたが―――― 不意に、クスリと笑った。
不思議に思ってレスターは振り返る。自分は何か、笑われるような事を言っただろうか?
「ご、ごめんなさい。笑ったりしては失礼ですよね」
「いえ、それは構わないのですが……何か?」
「大した事じゃないんです。今『ああ、なるほど』と妙に納得してしまいまして」
母親はコロコロと笑いながら、墓石の方に振り返る。
「レスターさんの、そのお考え。誰かに似ていると思っていたら、主人の若い頃にそっくりなんです」
「はい?」
「ちとせがあなたに魅かれた理由が、よく分かります。さすがは私の娘です。主人もそうでしたから」
レスターは返答に窮し、黙り込む。
どんな顔をしていいのかさえ、分からなかった。
「本当に……侍を好きになるものではないと、あれほど言い聞かせていたのに、あの子ったら。でも、仕方がありませんね。それでも好きにならずにいられないのが、侍という殿方なのですから。私が娘の事を言えません」
「は……その、恐縮です」
レスターはかろうじて、そう返事を返す。母親はニッコリと微笑んだ。
「お待たせしましたー!」
ちとせが帰ってきた。
酒の小瓶を抱え、息を切らせている。ゆっくり登って来れば良いものを、律儀に駆け上がってきたらしい。
「ご苦労様。さあ、お参りしましょうか」
母親が酒を受け取り、それを墓前に備える。
線香が配られ、各々火をともす。鎮魂の香りを、亡き人に捧げる。
その時、レスターは墓石の側面に小さく文字が刻んであるのに気がついた。
『義を見てせざるは勇無きなり』
「……これは?」
振り返って尋ねるレスターに、ちとせは微笑んで答える。
「そこに正義があるのなら、迷わず行動しろ。言い訳をするな。いかな事情があったにせよ、やらなかったのなら全ては臆病者の言い訳である。――――
そういう意味の、この国に伝わる格言です」
「素晴らしい格言だ」
「副司令なら、そう言われると思っていました」
苦笑する娘の隣に並んで、母親も微笑んだ。
「男の人の正義ですよ、こんなもの」
母子が手を合わせる。
レスターもそれに倣い、合掌した。
「………………」
ちとせの父親。
正義を前にして、いかなる言い訳もせず行動した、勇敢であった英霊。
俺も、そうありたいものだ。たとえ男の身勝手であったとしても、俺は男であり、軍人なのだから。
目を閉じて祈る。
強く在れますように。
サムライたれますように。
名誉ある戦場を。
価値ある死を。
……強く在れますように。
サムライたれますように―――― 。
/
日が傾き、今日も一日が無事に終わろうとしていた。
景色が夕日に赤く染まる中、作務衣姿のレスターは鍬を両手で握りしめ、一心に大地を耕していた。
汗が顎を伝って落ち、耕した土に染み入る。
「副司令ーっ」
ふと、遠くから呼ばれる。
顔を上げると、畑沿いの道にちとせの姿があった。普段着の浴衣に草履履き。夕刻で冷えるからか、肩に厚手の布を羽織っている。
「おお」
軽く手を挙げて応え、近くにあった竹籠を担いで彼女の元へ歩み寄った。
「お疲れ様です。大根は掘れましたか?」
「ああ、掘るには掘ったのだが……。すまん、こうなってしまった」
レスターはバツが悪そうに、籠の中から大根を取り出す。
大きな大根は、しかし途中から折れて2つになってしまっていた。
「周りの土の掘り返しが足りなかったみたいですね。無理やり引き抜こうとなさったんじゃないですか?」
「その通りだ。いけると思ったんだが……面目ない」
ちとせは微笑む。
「問題ありません。きれいに洗って、こっちを大根おろしにして、こっちはお味噌汁の具にしますから。お料理してしまえば、分かりませんよ」
「今日の晩飯は何だ?」
「サンマの塩焼きです。庭に七輪を出して、炭火で焼きます。余分な脂が落ちて、とても美味しいですよ」
「そうか。それは楽しみだ」
2人のもとに、中年の夫婦が歩み寄ってきた。ここの畑の持ち主である、桐山夫妻だ。
「レシターさん、帰るのかい。お疲れさん」
野良着姿の桐山さんは、日に焼けた顔に笑みを浮かべながら労いの言葉を述べる。知り合って3日になるが、どうしても「レスター」と発音できない様だ。元が大らかな性格のため、直す気も無いのだろう。
「はい、ありがとうございました。ちとせ、キリヤマさんからお土産をもらったぞ。見ろ」
レスターは籠を抱えてちとせに見せる。中には大根の他に、人参やかぼちゃ、ジャガイモ等がまだ土も乾いていない姿で入っていた。
「こんなに。頂いちゃっていいんですか?」
驚いて顔を上げるちとせに、奥さんの方が笑ってうなずいた。
「あぁもちろんだとも。少ないけど、お裾分けさね。煮物にでもして食べとくれ」
「レシターさん、明日も来るのかい?」
「はい。お邪魔でなければ、お手伝いさせて頂きたいのですが」
「邪魔なもんかね。男手が増えるのは大歓迎さ」
夫婦そろって快諾。レスターは軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。では、また明日」
ちとせも彼に倣って会釈をする。
「お裾分け、ありがたく頂戴します。煮物を作ったら持って行きますね」
「では行くぞ、ちとせ」
「はい。……それでは」
最後にもう一度頭を下げて、ちとせは先に歩き出したレスターの後を追った。
桐山夫妻は、そんな2人を穏やかに見送る。
「外人にしちゃあ、なかなか骨があるやなぁ、レシターさんは」
「ほんと。ちーちゃんも良い人を見つけたもんだねぇ」
奥さんが笑いながら言った。
「見なよあんた。ああして歩いてる姿なんて、もう若夫婦みたいじゃないか」
レスターが鍬を右肩に担ぎ、先を歩く。
竹籠を両手で抱え、彼から3歩ほどの距離を取ってちとせが続く。
山のお寺の鐘が鳴っている。
暮れ行く陽。
ねぐらへ帰っていくカラスの群れ。
草むらから聞こえる、ひぐらしの鳴き声。
レスターは本で読んだ言葉を口にした。
「……秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいてかりなどの……む? かりなどの……」
「まいてかりなどの連ねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず」
後ろから言葉が続き、後段を言い切ってしまった。
レスターは苦笑をもらし、天を仰ぐ。
「修行が足らんな……」
ひとりごち、ゆっくりと後ろを振り返る。
ちとせが微笑んでいた。
「惜しかったですね。もう一息です副司令」
「フン」
遠い山に陽は落ちて、星が空を散りばめている。
腕が重く腰が痛かったが、それは心地よい疲労感と言うべきか。今日の業を為し終えた充実感で満たされている。
風は涼しいこの夕べ。安らぎの待つ家へ帰る事が、こんなにも嬉しいとは。
「これが、人の営みというものなのだな」
今の気持ちを表現する言葉が見当たらず、レスターはそう言った。
「これが、楠木正成公のなさった暮らしです」
ちとせは柔らかく微笑んで、うなずく。
「日の出と共に起き、大地を耕し、作物を育てる。日が沈めば家へと帰り、家族と夕餉を囲み、安らかに眠る。これが文字通り、地に足をつけた人の営みというものです。最新鋭の設備で固められた軍で生活していると、忘れてしまいがちですね」
一陣の風が吹いた。
レスターは寒気を覚えてくしゃみをする。
「大変」
ちとせが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「副司令、お風邪を召されたのではありませんか?」
「いや、大事無い。少し冷やりとしただけだ」
「汗が冷えたんですよ。どうぞこれを羽織って下さい」
竹籠を下ろし、自分の肩かけを取ってレスターに渡そうとする。
「大げさな。家もすぐそこだ、気遣い無用だ」
「ダメです。風邪をひいてしまってからでは、長引いてしまいます」
断ろうとするのだが、ちとせは譲ろうとしない。
「ちょっとした予防が、おおがかりな治療に相当するんです。さあどうぞ、私を安心させるためだと思って」
大真面目な顔で、そう言うのだった。
レスターは苦笑して、されるがままに肩に布をかけてもらう。
ふわり、と元の持ち主の匂いと温もりが感じられた。
「これで安心して見ていられます」
ちとせも満足気だ。
「マサシゲも、こうして畑から野道を歩いて、家へ帰ったのだろうか」
「ええ、きっと。正成公は、本当はずっとそうして穏やかに暮らしたかったのではないでしょうか」
「サムライが、畑を耕して一生を終えるのか」
「戦など、しない方が良いのですよ」
♪ 赤い実に唇染めて 空を見上げる
これ以上つらい日が来ませんようにと 飛び石踏んだ
赤ん坊を背負った娘が、子守歌を歌いながら歩いてきた。
ちとせと娘が互いに会釈を交わし、すれ違って行く。
♪ からたち野道 花吹く小径 泣いたら駄目よと虫の音小唄……
子守歌が遠ざかって行く。
「からたち野道っていう歌です」
ちとせは何気ない口調で、レスターに向かって説明した。
「からたち……?」
「これです」
畦道沿いに植えられている、背の低い木々を指して言った。彼女の胸くらいまでしかないその木は、枝に鋭い棘がある。いかにも垣根代わりにふさわしい。
「ミカン科の木で、その名前は唐橘(からたちばな)に由来します。春先、葉に先だって白い花を咲かせ、秋にはこうして黄色い実をつけます」
「ミカンの親戚か。ならば、この実は甘いのか?」
「いいえ。からたちの実は苦くて、とても食べられたものではありません。どうしてもとおっしゃるなら、引き止めはしませんが」
戯れに実を1つ摘み取り、レスターに放る。
キャッチするものの、レスターは肩をすくめるしか無かった。
「人の一生など、儚いものです。戦などせずに済むのなら、それが何よりです。私達は戦に勝つ方法ではなく、戦をしない方法を考えるべきではないのでしょうか」
「戦をしない方法……」
「正成公が再三、天皇に尊氏との和睦を注進したのもそうです。戦えば負けるから、そればかりではありません。戦のない太平の世こそが正成公の理想であったからです」
レスターは考えた。
この娘は、どこまで考えてそんな事を言っているのだろう。
どれ、試してみるか。そう思い首を横に振る。
「だが、戦いこそがサムライの存在意義ではないか。戦い無くして、軍人が居る意味は無い」
「そんな事はありません」
「綺麗事なら聞かんぞ」
「現実的なお話です」
ちとせはレスターの前に歩み寄り、諭すように言った。
「そもそも、副司令は侍というものを誤解なさっています。よろしいですか? 戦で武勲を立てるのが侍なのではありません。あくまで草民を守るのが、侍の務めなのです。確かに正成公の武勲は輝かしいものですが、正成公はむしろ戦場ではない場所で、無益な戦を避ける事に、智謀の限りを尽くされたのです」
「………………」
「私は、そこにこそ軍人の存在意義はあると思います。危険の兆候を早期に発見し、まだ小さなうちにその芽を摘み取る。戦をせずに草民を守ることができるなら、それこそが真の誉れと呼ぶべきものではないでしょうか」
「……ふん」
小娘が、悟った風な口をきく。
俺より5歳も年下のくせに。俺より4つも下の階級のくせに。
レスターは苦笑する。
―――― それで、俺と同じ思考レベルだというのだから嫌になる。
戦をせずに草民を守る。危険の発芽を早期に摘み取る。
それは正に、今タクトと自分がやっている事であった。
この娘は、まだ少尉の階級でありながら、自力で中佐・大佐のレベルまで追いついて来ている。
これが17、18の娘か。末恐ろしい奴め。
「ちょっとした予防が、おおがかりな治療に相当するんです」
ちとせは、先程レスターに肩かけを着せた時と同じように微笑む。
「……言うは易く、行うは難しだ。実際、バカ正直に見張りを続けるというのは辛いものだぞ。毎日毎日、どっちを向いても異常なし。風車を巨人と見間違えて戦おうとする愚かな騎士の話があるが、自分がそれになった気分になってくる」
「では私は、その騎士が愚かだとは思いません。たまたま風車だったから良かったものの、本当に巨人だったら一大事だったのですから。何事もなく済めば、それで良し。笑いたい者には笑わせておけば良いのです」
言葉に詰まった。
この娘は。この、サムライの国で育った娘は。
何と聡く、凛々しいのだろう。
そんなレスターの心中も知らず、ちとせは言ったのだった。
「正直者がバカを見るのは世の常です。でも、だからと言って正直者である事をやめてしまったのでは、哀しいじゃありませんか。バカを見ると分かっていながら、それでも正直者であり続ける……。その方が、後悔だけはせずに済むのではないでしょうか。その方が、きっと素敵な人生です」
おそらく本人には知る由も無かったであろう。
自分の言葉が、レスターに止めを刺した事に。彼がちとせのことをどう思っているのか、その心に劇的な変化をもたらした事に。
「……そうだな」
レスターは目をそらして、うなずいた。不思議なことに、目を合わせていられなかった。
見事だ、ちとせ。見事なり烏丸ちとせ。
そう言ってやりたかったが、なぜか口にできなかった。
「まったく……」
変わりに出てきたのは、わざとらしい皮肉であった。
「本当によくできた女だ、お前は。お前と居ると気が休まる暇がないぞ」
言葉の中に彼一流の冗談を読み取ったちとせは、ことさらニッコリと満面の笑みを浮かべる。
「私もです、副司令。副司令と一緒に居ると、のんびり出来ません。ちょっとでも気を抜くと、あっという間に置いてけぼりにされそうですから」
「ウサギは途中で眠ったから、カメに負けたのだ。眠らないウサギであれば、誰にも負けはしない」
「カメって誰のことですか?」
「さあな」
むくれるちとせ。
レスターは笑いながら、再び前を向いて歩き出した。ちとせも竹籠を抱え、後をついて行く。
ひぐらしの鳴き声が聞こえる中、古めかしい木の橋を通りかかった。
下を見れば、川辺で少年達が網を振り回している。魚でも捕っているのだろう。
「……私は、好きです……」
背後で、ちとせが小さく呟いた。
レスターは振り返る。
「私は今の関係が、割と好きです。お互いに切磋琢磨して高めあっていけるような今の関係が、私は好きです。私達は、安らぐにはまだ早いです。……そうではありませんか?」
不安げな顔だった。
レスターには一瞬、その表情の意味が分からなかった。
「あの、もちろん私なんかが副司令と肩を並べようというのはおこがましいという事は、分かっているのですが……」
「………………」
無言でいると、ちとせは焦ったように言葉を継ぎ足そうとする。
ああ、そうか。
しばらく考えて、ようやく思い至った。
お前と居ると気が休まらない。さっき言った言葉を気にしているのだ。
冗談だと分かっていても、不安になったのだろう。
「言葉が過ぎたか……」
レスターは苦笑し、安心させるようにうなずいて見せた。
「良いことを言うな、お前は。ああその通りだ。俺達は、安らぐにはまだ早い」
とたんに花が咲くような笑顔がこぼれた。
「そ、そうですよね! まだまだやらなきゃいけない事が、たくさんありますよね!」
よほど安堵したのか、先を急ごうと前を向くレスターの背中に向かって
「安らぐのは、年を取ってからでいいんです!」
勢い込んで、そんなことを言う。
「………………」
レスターは、ふと自分の老後を想像した。
橋の下の子供達に目を向ける。
誰もが昔は子供だった。成長して大人になり、やがて年老い、死んで行く。
季節のように、命は巡る。儚い一生の中で、俺はどこへ行こうとしているのか―――― 。
「……いいかもな、それも」
再び、自分の後をついてくる少女を見やる。
「何がですか?」
「年を取ってからの話だ。俺はよぼよぼの爺さんになって、お前も腰の曲がった婆さんになって、のんびりできるようになったら。またこうして、からたち野道を散歩しないか」
「え……」
ちとせは目を丸くした。口元を手で隠し、穴が空くほど相手の顔を見つめる。
まさか、そんな。この人がそんな事を言うなんて。
驚きに言葉も無い様子だ。
そうだろうな、とレスターは思う。自分でもどうかしていると思っている位なのだから。
「天気の良い日は縁側で茶をすすって、昔語りをして、古文をなぞらえて……。そういうのは、どうだ?」
その言葉の意味する事を、この聡明な少女が理解できないはずが無かった。
共に年を取っていこう―――― 彼は、そう言っているのだ。
ちとせは恥じらいながらも、たおやかに微笑んだ。
「……素敵です」
顔が赤いのは、決して夕陽のせいばかりではないだろう。
「猫を飼いましょう。三毛猫がいいです」
「その頃は戦争うんぬんよりも、大根の出来具合なんかが主な話題なんだろうな」
「孫の入学祝いは何にしようか、なんて話しているかもですよ」
「そうなるまで、あと40年はかかるか?」
私は世界一の幸せ者です、と言わんばかりの笑顔で、ちとせはうなずく。
「それまでは、しっかり頑張りましょうね。私ももっと頑張ります!」
レスターは今度こそ、前を向いて歩き出す。
「……カメは誰なんだろうな、本当に……」
「はい?」
「何でもない」
橋の下から歓声が上がる。
子供達が大きなフナをすくい取っていた。
水しぶきが夕陽を受け、黄金色に輝いていた―――― 。