最後の日が訪れた。

日も昇らぬ早朝から、タクトはスカイパレスのベンチに座っていた。

ここで待っていれば、ルシャーティに会えるかも知れない。考えてみれば、何という希望的観測だろう。

だが、今の自分にはもはやそれしか手は残されていなかった。そんな奇跡に、すがるしかなかった。

「頼む……頼む、ルシャーティ……!」

昇る朝日に、タクトは祈った。

 

 

 

 

無限に広がる宙空に、数え切れない煌めきが瞬いている。

一面の、星屑の海。

果てしない空間に浮かび上がるようにして、少女はそこに居た。

絹のようになめらかな金色の髪。石膏のように白い肌。宙空に在ってまつろわぬ、清冽なその存在感。

祈りのように両手を組み、福音のように言葉を紡ぐ。

「とどまらぬものよ……移ろえるものよ……変わり得る事を喜びなさい。哀しむなかれ。旅路は永遠に続く命の約束。その足跡をここに刻め……汝が在った事を、我は永久に忘れぬものなり……」

遙か星屑の彼方から、青く輝くいくつもの光の粒子が集まってきた。

彼女を慕うように、ゆっくりと彼女の周りを回遊する。

そして彼女が水をすくうように手の平を差し出すと、その上に集まって、明滅しながら消えていった。

「ふう」

彼女の口から、安堵の溜め息が漏れる。

「今日は、こんなところかしら」

先ほどまでの神々しさに満ちた空気は霧散し、逆に幼ささえ感じさせる口調であった。

電源が落ちるように、彼女を取り巻いていた宇宙が消失する。次の瞬間には、彼女は広く古めかしい部屋の中に居た。

ここはEDENライブラリ最奥部。管理者のための執務室である。

「ん〜、ちょっとだけ疲れちゃったかも……」

誰も見ていないのをいいことに、大きく伸びをする。

それから机の上に置いてあるクリップボードとペンを取った。

「今日はここまで更新したから……明日には終わるわね。それが済んだら、いよいよトランスバール第3星系の更新」

簡単にチェックを終え、管理者の少女―――― ルシャーティは執務室を出た。

 

 

彼女の居室は、ライブラリの中にあった。エレベーターで登ればすぐに到着してしまう。

職住一体、ここに極まれりだ。確かに合理的なのだが、たまに息苦しく思う時もあった。

部屋に戻ったルシャーティは、まず戸棚へ歩み寄った。いつもの通過儀礼である。

「ヴァイン。お姉ちゃんはしっかりやってるからね。心配しないでね」

戸棚の上には写真立てがあった。

血のつながりも無い弟、ヴァインと一緒に写っている写真。

写っている場所はスカイパレス。写真の中で自分は彼の腕を取り、カメラに向かって楽しそうに笑っていた。彼は困惑げに、迷惑そうに、でもちょっとだけ嬉しそうに、自分の方を見ている。

この時はちょっとしたイタズラ心で、シャッターが切られる瞬間に彼の腕に自分の腕を絡めたのだ。写真ができた時、ヴァインは驚いている自分の顔が気に入らないのか、「こんな写真、捨ててやる」とか言ってたっけ。

撮ったのはもうずいぶん前だ。まだ自分の背丈が、彼を追い越していない。これを撮ったのは、いったい何度目の脱走の時だったろうか。

今となっては、この1枚が彼の面影を残す唯一の品だった。ルシャーティの宝物だ。

あれから1年。色々な事があった。

つい最近になってトランスバール星系との交流が正式に始まったため、連日データの更新で大忙しだ。なにせ先のクロノ・クェイク以来、六百年ぶりの更新なのだから。

たしかに大変だ。でも――――と、ルシャーティは思う。

その苦労も、EDENが開放されたからこそなのだ。同じ労働でも、強制され奴隷のように働かされていた頃とは質が違う。

この苦労は自由の証。この疲労は自治の重み。私が頑張れば頑張るだけ、それが銀河のより良い発展につながっていくのだ。

積み上げ、築き上げる充実感が。自分の苦労が報われる喜びがあった。

こうして元気にやれている今の自分を、ヴァインは誉めてくれるだろうか。

「きっと、『ふん』とか言われて終わりでしょうね」

その光景が余りに容易に想像できて、笑えてしまう。

さてと、とにかく今日も1日お疲れ様だ。

これから何をしよう? とりあえず、晩ご飯の支度でもしようかしら。

そう思い、写真に背を向けてキッチンに向かおうとしたその時だった。

 

 

姉さん

 

 

「―――― っ!?」

 

 

懐かしい声を聞いた気がして、ルシャーティは慌てて振り返った。

振り返った先に、彼女が想像した人物は居ない。

彼の姿は先程と変わりなく、ただ写真に小さく収まっているのみである。

だが、確かに彼の声を聞いたような気がしたのだ。

「………………」

ルシャーティはもう1度、写真に歩み寄る。

そこに写っている風景。スカイパレス。そう言えば、最近はしばらく行っていない。

「行ってみようかな……」

ふと、そう思い立った。

行ってみようか。

久々に、思い出のあの場所へ。

過去を振り返るのは良くない事だけど、たまにはいいよね。

そうと決まれば、さっそく支度である。

と言っても大した準備はいらない。お茶をいれて、夕刻の風よけにストールを1枚羽織る、それくらいのものだ。

「じゃあ行ってくるわね、ヴァイン」

写真に呼びかけて、部屋を出ようとして――――

ルシャーティは思い直し、また引き返してきた。

写真立てを取り、微笑みかける。

「久しぶりに、一緒に行きましょうか。お姉ちゃんと一緒に、姉弟水入らずで、ね?」

彼も行きたがっているのではないかと、そう思ったのだ。だからさっき、自分を呼んでくれたのではないかと。

写真立てを大事に抱きしめる。今度こそ準備完了。さあ行こう。

ルシャーティは部屋を出て、ライブラリの正面玄関へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザアアアアァァァ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

玄関前で、ルシャーティは外を眺めて立ち尽くしていた。

雨が、降っていた。

バケツをひっくり返したような、大雨だった。

「……残念」

小さく溜め息をつく。

何でも分かるEDENライブラリに居ながら、今日の天気予報も見ていなかった自分に苦笑する。

携帯式の端末を開いて、天気を照会。

「お昼から90%だったんだ。あ、明日は晴れるのね。じゃあ、お散歩は明日」

胸に抱いた写真を見下ろす。

「明日はもっと早くお仕事を終えて帰って来るから。今日は我慢してね」

そう言って微笑みかけ、ルシャーティは自分の部屋へと帰って行くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザアアアアァァァ……

 

 

 

「………………」

 

スカイパレス。

タクトはうなだれたまま、朝と変わらぬ場所に座っていた。

激しい雨が、容赦なく肩を打つ。

ずぶぬれのまま、タクトは微動だにしなかった。

ピチャリ、と水音がした。見下ろす地面に、誰かの靴が見える。

顔を上げなくても誰なのかは分かる。

レスターが、同じく全身ずぶ濡れの姿で、そこに立っていた。

「さっきニュースの報道があった。親善艦隊が、予定通りヴァル=ファスクへ向け出航したそうだ」

「………………」

これで本星は丸裸である。そこへヴァル=ファスク艦隊が攻め寄せてくる。

無言のタクト。

レスターはそんな彼の姿を、しばし無言で見つめ。

「……残念だったな」

間に合わなかった。奇跡は起きなかった。最後の希望は―――― 絶たれた。

激しい雨が降っていた。

陽も落ち、辺りは闇に包まれている。外灯の白い光だけが、まるで舞台のように2人を照らしていた。

「備えよう、タクト」

レスターは静かに言う。

「備えよう。もはや希望にすがり、夢を見る時は過ぎた」

タクトはようやく顔を上げた。

虚ろな眼差しで、目の前の親友を見上げる。

「……信じることを、やめろって言うのか……?」

レスターは首を横に振る。

「信じることは、尊い事だ。しかし妄執となってはいかん。お前まで、自分の願望と現実との区別がつかなくなったのか? それでは俺達が今まで目にしてきた、あの馬鹿どもと何も変わりはしない」

静かな口調だった。

前髪の先から、水滴がポタポタと絶え間なくしたたり落ちる。

「備えることだ。タクト、準備万端整えよう。花嫁が化粧を整え、花婿の迎えを待つように……」

タクトはまた、無言でうなだれる。

体が冷えていた。

そして心も、冷え切っていた。

レスターは急かさない。黙ってタクトが口を開くのを待っている。

 

「きっとさ……」

 

やがてタクトは、雨足に消え入るような声で呟いた。

 

「きっと……ほんの1日、2日の違いだと思うんだよ。ほんの1日2日だけ待って、攻撃を受けてから出撃すれば、きっと誰も文句なんて言わない。シヴァ女皇から正式に出動要請が来て、大手を振って出撃できる。大義名分を持って戦えるんだ。もしかしたら、エンジェル隊にもお呼びがかかるかも知れない」

 

レスターは無言で居る。

 

「みんなさえ居てくれたら、楽勝だ。勝てばきっと、みんな誉めてくれる。感謝される。なにより、オレは死なずに済む……。なんだ、良い事ずくめじゃないか。そう思わないか? レスター」

 

レスターはうなずいた。

「そうだな」

 

「誰も誉めてくれない戦いなんて嫌だ。誰にも分かってもらえない戦いなんて嫌だ。死ぬと分かってる戦いなんて嫌だ……。誉められたいよ。感謝されたいよ。また『皇国の英雄』なんて呼ばれて、ちやほやされたいよ。たった1日2日待つだけで、ぜんぶ叶う事なんだ……」

 

「そうだな」

 

「……だけど、その1日2日の間に、きっとたくさん人が死ぬ。いくつも街が壊される。誰かの大切な人が死んで、誰かの大切な場所がメチャメチャになる。二度と還ってこない。きっとたくさんの人が悲しむ。きっとたくさんの人が泣く……。オレは、その悲劇を防ぐ可能性を持ってる。やらなかったら、きっと後悔する。一生、後ろめたい気持ちを抱えたまま、生きて行かなきゃならない……」

 

「そうだな」

 

「どうして知ってしまったんだろう……知らずに居られたなら、こんなに苦しい目にあわなくて済んだのに。ノアもノアさ、オレ達にあんな大見得切ったくせに、実際には役に立ちゃしない。シャトヤーン様も月の聖母なんてご大層な名前つけて、何の力にもなりゃしない。ったく、使えない……どいつもこいつも、使えない……」

 

「そうだな……本当だな」

 

 

横殴りの風が吹いた。

痛いほどの雨粒が、全身を打つ。

 

 

「……オレ……死にたくない……」

 

「………………」

 

「死ぬのが怖い」

 

「………………」

 

「情けないだろ」

 

 

レスターは無表情で首を横に振る。

「全然」

 

 

「どうしてオレなんだ……? なんでよりによって、オレがやらなきゃいけないんだ……? オレは皇国の英雄さまだぞ? もっと他に、死んだって全然構わないような連中が、いくらでもいるじゃないか! オレは貴重な人間だ! いくらでも代えが利くような、その他大勢とは違うんだ! 無価値なだけじゃなく、逆に社会の害にしかなってないような連中だっているじゃないか! 無価値な奴から、害虫から死んでいけばいいんだ!」 

 

 

レスターは、いともあっさり同意するのだった。

「そうだな。こんな不条理な話は無い」

 

「くっ……!」

タクトは顔を上げ、親友を睨みつけた。

 

 

「違うだろレスター! さっきから何でもかんでも、そうだなそうだなって! 簡単に聞き流して、適当にあしらうんじゃねえよ! 人の話、ちゃんと聞けよ! オレをバカにしてんのか!?」

 

激昂するタクトに対し、レスターはあくまで沈着であった。

いっそ冷徹とも言える無表情で、静かに答える。

 

「……お前は、それが間違っていると分かった上で、わざと言っているからだ」

 

「なんだと」

 

「お前の本質は変わらんさ。明日になれば、お前はまたその不条理な道に戻ってくる。誰にだって、愚痴をこぼしたくなる時くらいあるだろう。俺はお前を慰めてやったりはしないが……愚痴くらいなら聞いてやるさ。いくらでも泣き言を言うがいい。今のうちに、思い切り吐き出すがいい。遠慮はいらない。……聞いている者が俺しか居ない、今のうちにな」

 

むしろ同情さえこもった、穏やかな声。

それが更に、タクトの癪に障った。

 

「分かったようなこと言ってんじゃねえよ! お前は昔からそうだ! いつも1段高い所から、お、俺のこと見下して!」

 

感情が高ぶりすぎて、呂律が回っていない。

 

「お前にオレの何が分かるってんだ!」

 

 

ドカッ

 

 

「………………」

 

レスターは、殴られた頬に軽く触れる。

その手をゆっくりと降ろし、再びタクトに目を向ける。

 

「……よかろう」

 

そこには、燃え上がるような闘争の炎があった。

 

「それでお前の気が済むのなら……相手になってやるぞ、この甘ったれがぁっ!」

 

 

水たまりの水が、大きく跳ねた。

 

 

 

 

 

 

 

「女になんて、生まれてこなければ良かった……」

 

恨み言のように、ミルフィーユは言った。

「私が男だったら、きっとタクトさんも連れて行ってくれました。離れ離れになんて、ならずに済みました」

その隣で、ちとせもうなずいて、枕を抱きしめる。

「男の人ってずるいです。何でも勝手に決めて、自分たちだけで行ってしまう。私はいつも置いてけぼりです……」

フォルテはそんな2人の少女に、微笑んでうなずく。

「……そうかもね……」

今夜はパジャマパーティー。

心労が募り、日毎に憔悴していく2人を見かねたフォルテは、2人を自分の部屋に招いていた。

ウォッカとジンジャーエールを混ぜ、そこにライムを垂らす。

グラスを2つ用意して、1つをちとせに手渡す。

「ほら、これでもやんなよ」

「フォルテ先輩、それはお酒では……」

「かたいこと言いなさんな。薄めに作ったから大丈夫だよ。私が許可する」

ちとせはグラスを握りしめ、しばし躊躇していたが。

やがて思い切ったように、グイッと中の液体をあおった。

「ほら、ミルフィーも」

もう1つをミルフィーユに渡す。こちらは躊躇なく、グラスに口をつけた。

「女なんてつまらないです。どこにも行けないし、力も弱いし、損ばっかりです」

「男と女より、男同士の方がきっと強い絆が持てるんです。女じゃ役に立たないから、だから私は置いて行かれるんです」

「そんなこと無いと思うけどねぇ」

「そんなことあるんです! そうに決まってます!」

グラス1杯で早くも顔が赤くなり始めている2人に、フォルテは苦笑する。

2人はそれぞれの相手に対して怒っているように見えるが、本当はそうではない。

2人は、嫉妬しているのだ。ミルフィーユはレスターに、ちとせはタクトに対して。

「まあ確かに、女が不利だって思えるような事は、世の中にたくさんあるね」

タクトとレスター。

あの2人の間には、揺るぎない確固たる絆があった。

それはミルフィーユにもちとせにも、いや女の身である限り、一生かかっても割り込むことが出来ない繋がり。

男同士という、予定調和的な、生まれつきの共犯者めいた繋がりだ。

「けど、ミルフィーもちとせも分かってるだろ? 女に生まれてこなけりゃ、恋もできなかったんだよ」

2人は黙り込む。

確かに、フォルテに言われるまでもなく、そんな事は分かっているのだ。

だけどそれでも、自分達に入り込む余地が無い絆が存在する――――それが2人には不満であり、もどかしかった。

恋とは、ある意味で相手の全てを独占したいと願う事なのだから。

「しょうがないよ。大昔から、女が頭を悩ませてきた事さ。あんたらもこの際、たっぷり悩むことだね。そんな男たちのやんちゃを可愛いと思えるようになったら、あんたらも1人前ってことさ」

2人は顔を上げて、フォルテを見つめる。

そう言って笑うフォルテが、なぜだかとても眩しかった。

「フォルテさん……」

「何だい、ミルフィー」

「なんだか大人の女の人って感じ……」

「おいおい、あたしは元々大人の女だって。いままで何だと思ってたんだい」

フォルテはミルフィーユの頭をかいぐり。

「フォルテ先輩……」

「あいよ。がんばっていい女になんな、ちとせ後輩」

おどけて言い、ちとせにも片目をつぶって見せるのだった。

フォルテ自身がそうなるまで、一体どんな経験をしてきたのだろう。

彼女は一体、どんな恋をしてきたのだろう。

2人は今にして、自分たちがフォルテのことを余り知らない事を思い出した。

だけど、彼女は今、こうして笑っている。

何の無理もなく、姉のように笑って自分たちを励ましてくれる。

純粋に凄いと感じ、単純に憧れた。

「でもやっぱり、納得できません! タクトさんてばヒドイです! もう嫌いですっ!」

「副司令だってそうです、もうあんな朴念仁、私は知りませんっ!」

「お〜お〜、いいねぇ2人とも。その調子だ、もっと言ってやんな」

 

女3人のおしゃべりは、深夜まで続くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が、降っていた。

 

叩きつけるような雨粒が無数に降り注ぐ中で、タクトとレスターは殴り合っていた。

 

「気に入らねぇんだよ! いつも人を小馬鹿にしやがって、この野郎!」

「ほざけ! 軍人の風上にも置けん腰抜けが、ピイピイわめくな!」

 

怒声。

胸ぐらを掴み合い、相手の顔面めがけて拳を振るい合う。遊歩道を転げ回り、相手の首を締め上げる。

 

「優等生だなぁお前は! お前みたいな奴が1番ムカつくんだよ! いつも人より精神的優位に立とうとする、その態度が!」

「泣き言の次は言いがかりか、お前は軍人どころか男としても失格だな! そのくせ女をたらしこむ事だけは1人前か? ミルフィーユも可哀想にな、貴様のような男に引っかかるとはっ!」

「はっ、ちとせ1人モノにしただけの男が、もう天下取った気でいるのか! おめでたい奴だな、ちとせが居なきゃ独身コース決定だったくせにさぁ!」

「その性根が気に食わんのだ! 2言目には女、女と、貴様それでも男か! 男の誇りは無いのかっ!」

 

優劣はすぐに現れ始めた。

タクトの右を軽くかわし、レスターは踏み込んで間合いを詰める。

がら空きの脇腹に、すれ違いざま拳を繰り出した。

「ぐっ……!?」

レバーに突き刺さり、タクトは体をくの字に折る。

無防備に差し出された頭。レスターは髪を掴むと、その顔面に容赦なく膝蹴りを入れる。

「ぷっ!」

鼻血を吹き、たまらずに崩れ落ちるタクト。レスターは相手に倒れる事を許さず、髪を引っ張り上げて立たせる。

左手を後頭部に回して固定すると、両手で挟み込むようにして、タクトの顔面に右の直突きを叩き込んだ。

痛烈な一撃に一瞬、タクトの意識が途切れた。糸の切れた人形のように、膝から石畳の上に崩れる。

「ぶふぅ……ち、ちくしょう……」

一瞬後に覚醒し、ヨロヨロと起き上がる。

レスターはさらに容赦が無い。相手が完全に起き上がるのも待たずに、その腹に力任せの前蹴りを放った。

タクトは吹き飛び、大の字になって倒れる。

「セヤアッ!」

裂帛の気合と共に、レスターは残心の構えを取る。

勝負ありだった。

「ナメるな。貴様のように軟弱な男が、俺に勝てると思っていたのか……」

動かなくなったタクトに、レスターは荒い呼吸を整えながら言った。

「俺は、鍛えていたんだ……貴様が遊びほうけている最中にな。鍛え鍛えし我が武、貴様ごときがキレてみた所で、揺らぎもせんぞ」

タクトは大の字になって倒れたまま、その言葉を聞いていた。

意識は、ある。雨に打たれながら、目を細めて暗い天空を見つめていた。

「力無き正義は無能なり、だ。分かるかタクト。貴様は……無能だ」

分かっていた。

こいつに勝てるなんて思っていなかった。

勝つとか負けるとか、そんな事は考えていなかった。

ただ心に沸き立つ、絶望から来る恐怖に、わけも分からず暴れただけなのだ。

残った力を振り絞り、上体を起こす。

立ち上がろうとしたが、腰が砕けてそれは出来なかった。

熱狂の後、タクトの胸に去来したのは―――― 自己の無力、無能を思い知った、さらなる絶望だった。

「いやだ……」

口の中に血の味を感じながら、タクトは呟く。

「嫌だ……死にたくない……」

涙がこみ上げる。

胸の奥から何かが突き上げてきて、こらえようもなく目から涙が溢れる。

「嫌だ……嫌だ……嫌だああああぁぁぁーーーーっ! 死にたくない……っ!」

もう、わけが分からなかった。

タクトは拳を石畳に叩きつけ、子供のように泣きじゃくった。

 

「………………」

 

熱狂が過ぎ去り。

レスターは、しばし無言でタクトを見下ろしていた。

やがて何を思ったか、その場に片膝をつく。

泣きじゃくるタクトと目線を合わせ。その両肩にしっかりと両手を置く。

そして、言った。

 

「逃げろ、タクト」

 

タクトは思わず顔を上げる。

真摯な眼差しが、まっすぐに見つめていた。

 

「怖いのなら、逃げろ。……逃げてもいい。お前には、その権利がある」

 

そこにあるのは軽蔑ではなかった。ましてや皮肉などでは断じてなかった。

友が怯えている。助けてやりたい。ただそれだけの思いだった。

 

冷たい雨が、肩を打つ。

前髪から水滴が垂れ続け、その端正な顔を伝わり落ちている。

 

「……お前は……どうするんだ?」

「俺か。俺は、逃げん」

 

答えは即答だった。その声は一切の迷いなく、峻烈な気迫が漲っていた。

タクトは怪物を見る思いだった。こんな男が、本当にこの世に居るのか。こんな男が……。

 

「俺は、逃げるわけにはいかない。あいつに教えてもらったのだ、『義を見てせざるは勇なきなり』と。……勇なき男がどのツラさげて、あいつの前を歩ける。あいつにあわせる顔がない。俺はな、タクト……ここで逃げたのでは、胸を張ってあいつの前を歩けないのだ!」

 

完敗だ。

何もかもが、完敗だった。

タクトは地面に這いつくばり、声を上げて泣き崩れた――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホテルに戻り、タクトを部屋に送り届けてから、レスターは自分の部屋に入った。

ドアをくぐると、当然ながら、室内は真っ暗だった。

「…………」

レスターは自分の手を見つめる。

小刻みに震えていた。もう一方の手で押さえ、震えを止めようとする。

止まらない。そうするうちに、もう一方の手も震えている事に気付く。

気が付けば、全身がガクガクと震えていた。

思わず舌打ちがもれる。

なんてザマだ。タクトにあれほど偉そうな口をきいておきながら、当の本人がこのザマか!

自分の両肩を抱く。歯を食いしばる。誇り高きレスター・クールダラスの名にかけて、臆病風に吹かれている自分を否定しようとする。

だが、すべての努力は空しく――――。

「くっ……!」

床に膝をつく。閉めたドアにもたれ、幼児のようにうずくまる。

視界が滲む。涙がこみ上げてくる。

「……死にたくない……」

小さな呟き。いますぐ部屋を飛び出し、大声でわめき散らしたい衝動に駆られる。

タクトが女にすがる気持ちが、実は彼にも良く分かっていた。

今、ちとせが居てくれれば。彼女に抱きしめてもらえたら。

とても魅力的な話だ。

だが、ならん。それは男のやる事ではない。たとえ全世界の男がそうしてもらったとしても、俺だけは断じてしない。

 

タクトは言う。「誰だって本当は弱いんだ」と。

認めない。俺は自分が弱いなどと、断じて認めない。

 

タクトは言う。「無理するなよ。いつか潰れちまうぞ」と。

ならば俺が言うべき事は1つだけだ。無理をしろ、そして潰れるな。

 

求める強さに限界なし。

強くあれ。心にも体にも、無尽蔵の強さを備えろ。それが男だ。

 

本当は、タクトの方が正しいのだ。そんな事は分かっている。間違っているのは俺の方だ。

だが俺は認めはしない。つまらぬ意地と、言わば言え。だが、そのつまらぬ意地を無くしたら男は終わりなのだ。

崩れ果てた誇りでも。建前だけだとしても。つまらぬ意地を、俺は張り通す。

 

「……強くあれ……サムライたれ……っ!」

 

強く心に念じる。歯を食いしばり、祈りを捧げる。

 

「名誉ある戦場を! 価値ある死を! 義を見てせざるは勇なきなりっ!」

 

 

 

叫びは闇に消えていく。

―――― そんな風にして、運命の3日目は過ぎて行った。