最後の日が訪れた。
日も昇らぬ早朝から、タクトはスカイパレスのベンチに座っていた。
ここで待っていれば、ルシャーティに会えるかも知れない。考えてみれば、何という希望的観測だろう。
だが、今の自分にはもはやそれしか手は残されていなかった。そんな奇跡に、すがるしかなかった。
「頼む……頼む、ルシャーティ……!」
昇る朝日に、タクトは祈った。
無限に広がる宙空に、数え切れない煌めきが瞬いている。
一面の、星屑の海。
果てしない空間に浮かび上がるようにして、少女はそこに居た。
絹のようになめらかな金色の髪。石膏のように白い肌。宙空に在ってまつろわぬ、清冽なその存在感。
祈りのように両手を組み、福音のように言葉を紡ぐ。
「とどまらぬものよ……移ろえるものよ……変わり得る事を喜びなさい。哀しむなかれ。旅路は永遠に続く命の約束。その足跡をここに刻め……汝が在った事を、我は永久に忘れぬものなり……」
遙か星屑の彼方から、青く輝くいくつもの光の粒子が集まってきた。
彼女を慕うように、ゆっくりと彼女の周りを回遊する。
そして彼女が水をすくうように手の平を差し出すと、その上に集まって、明滅しながら消えていった。
「ふう」
彼女の口から、安堵の溜め息が漏れる。
「今日は、こんなところかしら」
先ほどまでの神々しさに満ちた空気は霧散し、逆に幼ささえ感じさせる口調であった。
電源が落ちるように、彼女を取り巻いていた宇宙が消失する。次の瞬間には、彼女は広く古めかしい部屋の中に居た。
ここはEDENライブラリ最奥部。管理者のための執務室である。
「ん〜、ちょっとだけ疲れちゃったかも……」
誰も見ていないのをいいことに、大きく伸びをする。
それから机の上に置いてあるクリップボードとペンを取った。
「今日はここまで更新したから……明日には終わるわね。それが済んだら、いよいよトランスバール第3星系の更新」
簡単にチェックを終え、管理者の少女―――― ルシャーティは執務室を出た。
彼女の居室は、ライブラリの中にあった。エレベーターで登ればすぐに到着してしまう。
職住一体、ここに極まれりだ。確かに合理的なのだが、たまに息苦しく思う時もあった。
部屋に戻ったルシャーティは、まず戸棚へ歩み寄った。いつもの通過儀礼である。
「ヴァイン。お姉ちゃんはしっかりやってるからね。心配しないでね」
戸棚の上には写真立てがあった。
血のつながりも無い弟、ヴァインと一緒に写っている写真。
写っている場所はスカイパレス。写真の中で自分は彼の腕を取り、カメラに向かって楽しそうに笑っていた。彼は困惑げに、迷惑そうに、でもちょっとだけ嬉しそうに、自分の方を見ている。
この時はちょっとしたイタズラ心で、シャッターが切られる瞬間に彼の腕に自分の腕を絡めたのだ。写真ができた時、ヴァインは驚いている自分の顔が気に入らないのか、「こんな写真、捨ててやる」とか言ってたっけ。
撮ったのはもうずいぶん前だ。まだ自分の背丈が、彼を追い越していない。これを撮ったのは、いったい何度目の脱走の時だったろうか。
今となっては、この1枚が彼の面影を残す唯一の品だった。ルシャーティの宝物だ。
あれから1年。色々な事があった。
つい最近になってトランスバール星系との交流が正式に始まったため、連日データの更新で大忙しだ。なにせ先のクロノ・クェイク以来、六百年ぶりの更新なのだから。
たしかに大変だ。でも――――と、ルシャーティは思う。
その苦労も、EDENが開放されたからこそなのだ。同じ労働でも、強制され奴隷のように働かされていた頃とは質が違う。
この苦労は自由の証。この疲労は自治の重み。私が頑張れば頑張るだけ、それが銀河のより良い発展につながっていくのだ。
積み上げ、築き上げる充実感が。自分の苦労が報われる喜びがあった。
こうして元気にやれている今の自分を、ヴァインは誉めてくれるだろうか。
「きっと、『ふん』とか言われて終わりでしょうね」
その光景が余りに容易に想像できて、笑えてしまう。
さてと、とにかく今日も1日お疲れ様だ。
これから何をしよう? とりあえず、晩ご飯の支度でもしようかしら。
そう思い、写真に背を向けてキッチンに向かおうとしたその時だった。
( 姉さん )
「―――― っ!?」
懐かしい声を聞いた気がして、ルシャーティは慌てて振り返った。
振り返った先に、彼女が想像した人物は居ない。
彼の姿は先程と変わりなく、ただ写真に小さく収まっているのみである。
だが、確かに彼の声を聞いたような気がしたのだ。
「………………」
ルシャーティはもう1度、写真に歩み寄る。
そこに写っている風景。スカイパレス。そう言えば、最近はしばらく行っていない。
「行ってみようかな……」
ふと、そう思い立った。
行ってみようか。
久々に、思い出のあの場所へ。
過去を振り返るのは良くない事だけど、たまにはいいよね。
そうと決まれば、さっそく支度である。
と言っても大した準備はいらない。お茶をいれて、夕刻の風よけにストールを1枚羽織る、それくらいのものだ。
「じゃあ行ってくるわね、ヴァイン」
写真に呼びかけて、部屋を出ようとして―――― 。
ルシャーティは思い直し、また引き返してきた。
写真立てを取り、微笑みかける。
「久しぶりに、一緒に行きましょうか。お姉ちゃんと一緒に、姉弟水入らずで、ね?」
彼も行きたがっているのではないかと、そう思ったのだ。だからさっき、自分を呼んでくれたのではないかと。
写真立てを大事に抱きしめる。今度こそ準備完了。さあ行こう。
ルシャーティは部屋を出て、ライブラリの正面玄関へと向かった。
ザアアアアァァァ……
「………………」
玄関前で、ルシャーティは外を眺めて立ち尽くしていた。
雨が、降っていた。
バケツをひっくり返したような、大雨だった。
「……残念」
小さく溜め息をつく。
何でも分かるEDENライブラリに居ながら、今日の天気予報も見ていなかった自分に苦笑する。
携帯式の端末を開いて、天気を照会。
「お昼から90%だったんだ。あ、明日は晴れるのね。じゃあ、お散歩は明日」
胸に抱いた写真を見下ろす。
「明日はもっと早くお仕事を終えて帰って来るから。今日は我慢してね」
そう言って微笑みかけ、ルシャーティは自分の部屋へと帰って行くのだった。
/
ザアアアアァァァ……
「………………」
スカイパレス。
タクトはうなだれたまま、朝と変わらぬ場所に座っていた。
激しい雨が、容赦なく肩を打つ。
ずぶぬれのまま、タクトは微動だにしなかった。
ピチャリ、と水音がした。見下ろす地面に、誰かの靴が見える。
顔を上げなくても誰なのかは分かる。
レスターが、同じく全身ずぶ濡れの姿で、そこに立っていた。
「さっきニュースの報道があった。親善艦隊が、予定通りヴァル=ファスクへ向け出航したそうだ」
「………………」
これで本星は丸裸である。そこへヴァル=ファスク艦隊が攻め寄せてくる。
無言のタクト。
レスターはそんな彼の姿を、しばし無言で見つめ。
「……残念だったな」
間に合わなかった。奇跡は起きなかった。最後の希望は―――― 絶たれた。
激しい雨が降っていた。
陽も落ち、辺りは闇に包まれている。外灯の白い光だけが、まるで舞台のように2人を照らしていた。
「備えよう、タクト」
レスターは静かに言う。
「備えよう。もはや希望にすがり、夢を見る時は過ぎた」
タクトはようやく顔を上げた。
虚ろな眼差しで、目の前の親友を見上げる。
「……信じることを、やめろって言うのか……?」
レスターは首を横に振る。
「信じることは、尊い事だ。しかし妄執となってはいかん。お前まで、自分の願望と現実との区別がつかなくなったのか? それでは俺達が今まで目にしてきた、あの馬鹿どもと何も変わりはしない」
静かな口調だった。
前髪の先から、水滴がポタポタと絶え間なくしたたり落ちる。
「備えることだ。タクト、準備万端整えよう。花嫁が化粧を整え、花婿の迎えを待つように……」
タクトはまた、無言でうなだれる。
体が冷えていた。
そして心も、冷え切っていた。
レスターは急かさない。黙ってタクトが口を開くのを待っている。
「きっとさ……」
やがてタクトは、雨足に消え入るような声で呟いた。
「きっと……ほんの1日、2日の違いだと思うんだよ。ほんの1日2日だけ待って、攻撃を受けてから出撃すれば、きっと誰も文句なんて言わない。シヴァ女皇から正式に出動要請が来て、大手を振って出撃できる。大義名分を持って戦えるんだ。もしかしたら、エンジェル隊にもお呼びがかかるかも知れない」
レスターは無言で居る。
「みんなさえ居てくれたら、楽勝だ。勝てばきっと、みんな誉めてくれる。感謝される。なにより、オレは死なずに済む……。なんだ、良い事ずくめじゃないか。そう思わないか? レスター」
レスターはうなずいた。
「そうだな」
「誰も誉めてくれない戦いなんて嫌だ。誰にも分かってもらえない戦いなんて嫌だ。死ぬと分かってる戦いなんて嫌だ……。誉められたいよ。感謝されたいよ。また『皇国の英雄』なんて呼ばれて、ちやほやされたいよ。たった1日2日待つだけで、ぜんぶ叶う事なんだ……」
「そうだな」
「……だけど、その1日2日の間に、きっとたくさん人が死ぬ。いくつも街が壊される。誰かの大切な人が死んで、誰かの大切な場所がメチャメチャになる。二度と還ってこない。きっとたくさんの人が悲しむ。きっとたくさんの人が泣く……。オレは、その悲劇を防ぐ可能性を持ってる。やらなかったら、きっと後悔する。一生、後ろめたい気持ちを抱えたまま、生きて行かなきゃならない……」
「そうだな」
「どうして知ってしまったんだろう……知らずに居られたなら、こんなに苦しい目にあわなくて済んだのに。ノアもノアさ、オレ達にあんな大見得切ったくせに、実際には役に立ちゃしない。シャトヤーン様も月の聖母なんてご大層な名前つけて、何の力にもなりゃしない。ったく、使えない……どいつもこいつも、使えない……」
「そうだな……本当だな」
横殴りの風が吹いた。
痛いほどの雨粒が、全身を打つ。
「……オレ……死にたくない……」
「………………」
「死ぬのが怖い」
「………………」
「情けないだろ」
レスターは無表情で首を横に振る。
「全然」
「どうしてオレなんだ……? なんでよりによって、オレがやらなきゃいけないんだ……? オレは皇国の英雄さまだぞ? もっと他に、死んだって全然構わないような連中が、いくらでもいるじゃないか! オレは貴重な人間だ! いくらでも代えが利くような、その他大勢とは違うんだ! 無価値なだけじゃなく、逆に社会の害にしかなってないような連中だっているじゃないか! 無価値な奴から、害虫から死んでいけばいいんだ!」
レスターは、いともあっさり同意するのだった。
「そうだな。こんな不条理な話は無い」
「くっ……!」
タクトは顔を上げ、親友を睨みつけた。
「違うだろレスター! さっきから何でもかんでも、そうだなそうだなって! 簡単に聞き流して、適当にあしらうんじゃねえよ! 人の話、ちゃんと聞けよ! オレをバカにしてんのか!?」
激昂するタクトに対し、レスターはあくまで沈着であった。
いっそ冷徹とも言える無表情で、静かに答える。
「……お前は、それが間違っていると分かった上で、わざと言っているからだ」
「なんだと」
「お前の本質は変わらんさ。明日になれば、お前はまたその不条理な道に戻ってくる。誰にだって、愚痴をこぼしたくなる時くらいあるだろう。俺はお前を慰めてやったりはしないが……愚痴くらいなら聞いてやるさ。いくらでも泣き言を言うがいい。今のうちに、思い切り吐き出すがいい。遠慮はいらない。……聞いている者が俺しか居ない、今のうちにな」
むしろ同情さえこもった、穏やかな声。
それが更に、タクトの癪に障った。
「分かったようなこと言ってんじゃねえよ! お前は昔からそうだ! いつも1段高い所から、お、俺のこと見下して!」
感情が高ぶりすぎて、呂律が回っていない。
「お前にオレの何が分かるってんだ!」
ドカッ
「………………」
レスターは、殴られた頬に軽く触れる。
その手をゆっくりと降ろし、再びタクトに目を向ける。
「……よかろう」
そこには、燃え上がるような闘争の炎があった。
「それでお前の気が済むのなら……相手になってやるぞ、この甘ったれがぁっ!」
水たまりの水が、大きく跳ねた。
/
「女になんて、生まれてこなければ良かった……」
恨み言のように、ミルフィーユは言った。
「私が男だったら、きっとタクトさんも連れて行ってくれました。離れ離れになんて、ならずに済みました」
その隣で、ちとせもうなずいて、枕を抱きしめる。
「男の人ってずるいです。何でも勝手に決めて、自分たちだけで行ってしまう。私はいつも置いてけぼりです……」
フォルテはそんな2人の少女に、微笑んでうなずく。
「……そうかもね……」
今夜はパジャマパーティー。
心労が募り、日毎に憔悴していく2人を見かねたフォルテは、2人を自分の部屋に招いていた。
ウォッカとジンジャーエールを混ぜ、そこにライムを垂らす。
グラスを2つ用意して、1つをちとせに手渡す。
「ほら、これでもやんなよ」
「フォルテ先輩、それはお酒では……」
「かたいこと言いなさんな。薄めに作ったから大丈夫だよ。私が許可する」
ちとせはグラスを握りしめ、しばし躊躇していたが。
やがて思い切ったように、グイッと中の液体をあおった。
「ほら、ミルフィーも」
もう1つをミルフィーユに渡す。こちらは躊躇なく、グラスに口をつけた。
「女なんてつまらないです。どこにも行けないし、力も弱いし、損ばっかりです」
「男と女より、男同士の方がきっと強い絆が持てるんです。女じゃ役に立たないから、だから私は置いて行かれるんです」
「そんなこと無いと思うけどねぇ」
「そんなことあるんです! そうに決まってます!」
グラス1杯で早くも顔が赤くなり始めている2人に、フォルテは苦笑する。
2人はそれぞれの相手に対して怒っているように見えるが、本当はそうではない。
2人は、嫉妬しているのだ。ミルフィーユはレスターに、ちとせはタクトに対して。
「まあ確かに、女が不利だって思えるような事は、世の中にたくさんあるね」
タクトとレスター。
あの2人の間には、揺るぎない確固たる絆があった。
それはミルフィーユにもちとせにも、いや女の身である限り、一生かかっても割り込むことが出来ない繋がり。
男同士という、予定調和的な、生まれつきの共犯者めいた繋がりだ。
「けど、ミルフィーもちとせも分かってるだろ? 女に生まれてこなけりゃ、恋もできなかったんだよ」
2人は黙り込む。
確かに、フォルテに言われるまでもなく、そんな事は分かっているのだ。
だけどそれでも、自分達に入り込む余地が無い絆が存在する――――それが2人には不満であり、もどかしかった。
恋とは、ある意味で相手の全てを独占したいと願う事なのだから。
「しょうがないよ。大昔から、女が頭を悩ませてきた事さ。あんたらもこの際、たっぷり悩むことだね。そんな男たちのやんちゃを可愛いと思えるようになったら、あんたらも1人前ってことさ」
2人は顔を上げて、フォルテを見つめる。
そう言って笑うフォルテが、なぜだかとても眩しかった。
「フォルテさん……」
「何だい、ミルフィー」
「なんだか大人の女の人って感じ……」
「おいおい、あたしは元々大人の女だって。いままで何だと思ってたんだい」
フォルテはミルフィーユの頭をかいぐり。
「フォルテ先輩……」
「あいよ。がんばっていい女になんな、ちとせ後輩」
おどけて言い、ちとせにも片目をつぶって見せるのだった。
フォルテ自身がそうなるまで、一体どんな経験をしてきたのだろう。
彼女は一体、どんな恋をしてきたのだろう。
2人は今にして、自分たちがフォルテのことを余り知らない事を思い出した。
だけど、彼女は今、こうして笑っている。
何の無理もなく、姉のように笑って自分たちを励ましてくれる。
純粋に凄いと感じ、単純に憧れた。
「でもやっぱり、納得できません! タクトさんてばヒドイです! もう嫌いですっ!」
「副司令だってそうです、もうあんな朴念仁、私は知りませんっ!」
「お〜お〜、いいねぇ2人とも。その調子だ、もっと言ってやんな」
女3人のおしゃべりは、深夜まで続くのだった。
/
雨が、降っていた。
叩きつけるような雨粒が無数に降り注ぐ中で、タクトとレスターは殴り合っていた。
「気に入らねぇんだよ! いつも人を小馬鹿にしやがって、この野郎!」
「ほざけ! 軍人の風上にも置けん腰抜けが、ピイピイわめくな!」
怒声。
胸ぐらを掴み合い、相手の顔面めがけて拳を振るい合う。遊歩道を転げ回り、相手の首を締め上げる。
「優等生だなぁお前は! お前みたいな奴が1番ムカつくんだよ! いつも人より精神的優位に立とうとする、その態度が!」
「泣き言の次は言いがかりか、お前は軍人どころか男としても失格だな! そのくせ女をたらしこむ事だけは1人前か? ミルフィーユも可哀想にな、貴様のような男に引っかかるとはっ!」
「はっ、ちとせ1人モノにしただけの男が、もう天下取った気でいるのか! おめでたい奴だな、ちとせが居なきゃ独身コース決定だったくせにさぁ!」
「その性根が気に食わんのだ! 2言目には女、女と、貴様それでも男か! 男の誇りは無いのかっ!」
優劣はすぐに現れ始めた。
タクトの右を軽くかわし、レスターは踏み込んで間合いを詰める。
がら空きの脇腹に、すれ違いざま拳を繰り出した。
「ぐっ……!?」
レバーに突き刺さり、タクトは体をくの字に折る。
無防備に差し出された頭。レスターは髪を掴むと、その顔面に容赦なく膝蹴りを入れる。
「ぷっ!」
鼻血を吹き、たまらずに崩れ落ちるタクト。レスターは相手に倒れる事を許さず、髪を引っ張り上げて立たせる。
左手を後頭部に回して固定すると、両手で挟み込むようにして、タクトの顔面に右の直突きを叩き込んだ。
痛烈な一撃に一瞬、タクトの意識が途切れた。糸の切れた人形のように、膝から石畳の上に崩れる。
「ぶふぅ……ち、ちくしょう……」
一瞬後に覚醒し、ヨロヨロと起き上がる。
レスターはさらに容赦が無い。相手が完全に起き上がるのも待たずに、その腹に力任せの前蹴りを放った。
タクトは吹き飛び、大の字になって倒れる。
「セヤアッ!」
裂帛の気合と共に、レスターは残心の構えを取る。
勝負ありだった。
「ナメるな。貴様のように軟弱な男が、俺に勝てると思っていたのか……」
動かなくなったタクトに、レスターは荒い呼吸を整えながら言った。
「俺は、鍛えていたんだ……貴様が遊びほうけている最中にな。鍛え鍛えし我が武、貴様ごときがキレてみた所で、揺らぎもせんぞ」
タクトは大の字になって倒れたまま、その言葉を聞いていた。
意識は、ある。雨に打たれながら、目を細めて暗い天空を見つめていた。
「力無き正義は無能なり、だ。分かるかタクト。貴様は……無能だ」
分かっていた。
こいつに勝てるなんて思っていなかった。
勝つとか負けるとか、そんな事は考えていなかった。
ただ心に沸き立つ、絶望から来る恐怖に、わけも分からず暴れただけなのだ。
残った力を振り絞り、上体を起こす。
立ち上がろうとしたが、腰が砕けてそれは出来なかった。
熱狂の後、タクトの胸に去来したのは―――― 自己の無力、無能を思い知った、さらなる絶望だった。
「いやだ……」
口の中に血の味を感じながら、タクトは呟く。
「嫌だ……死にたくない……」
涙がこみ上げる。
胸の奥から何かが突き上げてきて、こらえようもなく目から涙が溢れる。
「嫌だ……嫌だ……嫌だああああぁぁぁーーーーっ! 死にたくない……っ!」
もう、わけが分からなかった。
タクトは拳を石畳に叩きつけ、子供のように泣きじゃくった。
「………………」
熱狂が過ぎ去り。
レスターは、しばし無言でタクトを見下ろしていた。
やがて何を思ったか、その場に片膝をつく。
泣きじゃくるタクトと目線を合わせ。その両肩にしっかりと両手を置く。
そして、言った。
「逃げろ、タクト」
タクトは思わず顔を上げる。
真摯な眼差しが、まっすぐに見つめていた。
「怖いのなら、逃げろ。……逃げてもいい。お前には、その権利がある」
そこにあるのは軽蔑ではなかった。ましてや皮肉などでは断じてなかった。
友が怯えている。助けてやりたい。ただそれだけの思いだった。
冷たい雨が、肩を打つ。
前髪から水滴が垂れ続け、その端正な顔を伝わり落ちている。
「……お前は……どうするんだ?」
「俺か。俺は、逃げん」
答えは即答だった。その声は一切の迷いなく、峻烈な気迫が漲っていた。
タクトは怪物を見る思いだった。こんな男が、本当にこの世に居るのか。こんな男が……。
「俺は、逃げるわけにはいかない。あいつに教えてもらったのだ、『義を見てせざるは勇なきなり』と。……勇なき男がどのツラさげて、あいつの前を歩ける。あいつにあわせる顔がない。俺はな、タクト……ここで逃げたのでは、胸を張ってあいつの前を歩けないのだ!」
完敗だ。
何もかもが、完敗だった。
タクトは地面に這いつくばり、声を上げて泣き崩れた―――― 。
/
ホテルに戻り、タクトを部屋に送り届けてから、レスターは自分の部屋に入った。
ドアをくぐると、当然ながら、室内は真っ暗だった。
「…………」
レスターは自分の手を見つめる。
小刻みに震えていた。もう一方の手で押さえ、震えを止めようとする。
止まらない。そうするうちに、もう一方の手も震えている事に気付く。
気が付けば、全身がガクガクと震えていた。
思わず舌打ちがもれる。
なんてザマだ。タクトにあれほど偉そうな口をきいておきながら、当の本人がこのザマか!
自分の両肩を抱く。歯を食いしばる。誇り高きレスター・クールダラスの名にかけて、臆病風に吹かれている自分を否定しようとする。
だが、すべての努力は空しく――――。
「くっ……!」
床に膝をつく。閉めたドアにもたれ、幼児のようにうずくまる。
視界が滲む。涙がこみ上げてくる。
「……死にたくない……」
小さな呟き。いますぐ部屋を飛び出し、大声でわめき散らしたい衝動に駆られる。
タクトが女にすがる気持ちが、実は彼にも良く分かっていた。
今、ちとせが居てくれれば。彼女に抱きしめてもらえたら。
とても魅力的な話だ。
だが、ならん。それは男のやる事ではない。たとえ全世界の男がそうしてもらったとしても、俺だけは断じてしない。
タクトは言う。「誰だって本当は弱いんだ」と。
認めない。俺は自分が弱いなどと、断じて認めない。
タクトは言う。「無理するなよ。いつか潰れちまうぞ」と。
ならば俺が言うべき事は1つだけだ。無理をしろ、そして潰れるな。
求める強さに限界なし。
強くあれ。心にも体にも、無尽蔵の強さを備えろ。それが男だ。
本当は、タクトの方が正しいのだ。そんな事は分かっている。間違っているのは俺の方だ。
だが俺は認めはしない。つまらぬ意地と、言わば言え。だが、そのつまらぬ意地を無くしたら男は終わりなのだ。
崩れ果てた誇りでも。建前だけだとしても。つまらぬ意地を、俺は張り通す。
「……強くあれ……サムライたれ……っ!」
強く心に念じる。歯を食いしばり、祈りを捧げる。
「名誉ある戦場を! 価値ある死を! 義を見てせざるは勇なきなりっ!」
叫びは闇に消えていく。
―――― そんな風にして、運命の3日目は過ぎて行った。