「嫌です……嫌です……置いて行かないでください……私も連れて行ってください……」
タクトの腕の中で、ミルフィーユは泣きじゃくっていた。
しばらく無視して歩いていたが、シャトルの前まで来てタクトは立ち止まった。
「………………」
そして、レスターの方を振り返る。
「レスター。まだ時間はあるかなあ?」
レスターは怪訝そうに振り返る。何か物言いたげではあったが、結局はうなずいた。
「手短にな」
「ああ。ありがとう」
「別に礼を言われるような事じゃない」
そして、ちとせを抱えたままシャトルへと歩いて行く。
その背中を見送ってから、タクトは格納庫から横道にそれて歩き出した。
「どこか座れる場所はあったかなぁ」
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レスターには一切の迷いもためらいも無いように見えた。
シャトルのコクピットを開け、ちとせをサイドシートに座らせ、シートベルトを固定する。
それらの作業を粛々と進める。今生の別れとなるかも知れないと言うのに、何の未練も無いように見えた。
「オートパイロットとは、便利な機能だな。おかげで俺かタクトがお前達を白き月まで送り届けるという、マヌケな真似をしなくて済む」
今、彼は入り口から身を乗り出して、ちとせの目の前でメインパネルを操作している。
自動操縦の行き先入力に、白き月を設定しながらそんな事を言う。
「……嘘だったんですか……?」
それは、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどに、か細い声だった。
「私に指輪をくれたのは、こんな事のためだったんですか……? ぜんぶ、嘘だったんですか……?」
レスターは振り返る。
はらはらと泣きながら見上げているちとせと目が合った。
「……嘘ではない。だが、結果的にはそうなってしまった。申し訳なく思っている」
素っ気ない返答だった。
もっと言葉を重ねるべきなのだろうが、それが出来るほどレスターは器用な男ではない。
「どうしてこんな事に……」
「分からん。どこかで何かを間違えたのだろうが、今となっては見当もつかん。だが過程がどうあれ、こうなってしまった。俺は軍人としての使命を全うしなければならん」
『発進時刻を入力して下さい。発進時刻を入力して下さい。発進時刻を―――― 』
無粋な音声アナウンスのスイッチを切る。
不意に静まりかえるコクピット内。
身を寄せ合うほど間近に居るのに、2人の距離はあまりにも遠かった。
「死なないで下さい……」
「無茶を言うな」
「副司令にお聞きしたい事が、たくさんあるんです……質問が、たくさんあるんです……」
「俺がお前に教えてやれる事など、もう何も無い」
「そんな事はありません! まだまだ分からない事が山のように……!」
すがるように声を大きくするちとせに。
レスターは苦笑にも似た表情を浮かべた。
「もういい、ちとせ。もう、分からないふりをする必要は無い」
「え」
「本当は質問など、もう無いのだろう。分からないふりをしていただけなのだろう。それが読めない俺だと思うか」
ちとせは言葉に詰まる。
思わず目をそらし、言葉を探す仕草。それが、レスターが言った事が真実であるという何よりの証拠であった。
そう。本当は、質問など無かった。
手持ちの教範に書いてある事など、ちとせはすでに隅々まで覚えてしまっていたのだ。
そのくせ分からないふりをし、わざわざ質問を考えていた。
なぜか。ちとせという少女は、それ以外にレスターに話しかける術を知らなかったからである。
「ナメるな。よくもコケにしてくれたものだな」
レスターは冗談めかして微笑みながら言う。
自分はとっくに、この少女に追い抜かれていたのだ。それに気付いたのは、いつの事だったろう。
屈辱だった。だが、嬉しくもあった。この少女が非常に頼もしく感じ―――― そして、少しだけ寂しかった。
「お側に置いて下さい……お邪魔はしませんから。お願いですから……」
「死ぬぞ?」
「構いません。あなたと死に別れるくらいなら、いっそ共に……」
レスターは無言でちとせを見下ろす。
フッと小さく息をつき、口を開く。
「……俺の答えは、分かっているな。ちとせ」
ちとせは顔を歪める。
「ならんぞ」
分かり切っていた、その返答。言葉が胸に突き刺さる。
「副司令、格好つけてます」
「分かっている」
「結局あなたは、自分がしたいようにしたいだけなんです。それに付き合わされる者の事も考えないで……本当に死にたいんですか? それが本当に、あなたがしたい事なんですか?」
レスターは眉根を寄せた。
相手の真意を確かめようとするかのように。自分の心を整理するかのように。
しばし沈黙し、やがて言う。
「なんて顔をしているんだ、ちとせ」
ちとせの顔に手を伸ばし、流れ落ちる涙を乱暴に拭う。
「曇り果てた目をしているぞ。まるで捨てられるのが恐くて、男に媚びるしか能のない小娘のようだ。さきほど俺を罵った時の方が、よほど良い目をしていたぞ」
「誰のせいだと思っているんですか……!」
「俺は、死にたいのではない。皇国を守りたいだけだ。だが、おそらく守り切れんだろう。守り切るより早く、俺の命が尽きるだろう。それだけの話だ」
ちとせは首を横に振った。
「理屈なんて聞いていません! あなたはどうしたいんですか!」
レスターは目を背けた。
その横顔に、うっすらと苦渋が浮かぶ。
「……生きたいさ。決まっているだろう」
「だったら生きて下さい! 使命だとか誇りだとか、格好つけないで下さい!」
一瞬見せた彼の弱みに、ちとせは畳みかけるように叫ぶ。
「生きてさえいれば、いつかは反撃の機会もあるでしょう。でも死んだら終わりなんです。死を美化しないで下さい。簡単に諦めないで下さい。やれるだけの事はやったじゃないですか、ここで逃げても私はあなたのことを決して臆病者とは……」
だが―――― 。
「だまれ」
静かな、たったその一言で勢いは止められてしまう。
鉄壁のような強烈な意思力に、阻まれてしまう。
「反撃の機会とは、いつの事だ。自分の男が助かるなら、トランスバールの国民など死に絶えても構わんと言うのか。……お前はいったい何様だ?」
「副司令……」
「死を美化するな、か。もっともらしい事を言っているがな、お前の方こそ生を美化するな。成さねばならぬ事を放り出してまで、生に執着する。それが、それほど立派な事なのか? そちらの方が、よほどわがままではないのか?」
「わがままだって良いじゃありませんか! わがままになって下さい、もっと無責任になって下さい!」
「ちとせ、例え話をしてやろう」
何とか言い募ろうとするちとせに対して、レスターはあくまで淡々としていた。
シャトルの出入口に屈み込み、腰を据える。
まるで大岩のように揺るぎない空気を漂わせながら、ゆっくりと口を開いた。
「この間、わけの分からん殺人事件があったな。殺してみたかったからという理由で、殺人を犯す者が居たな。お前は奴の行動を、正しいと思うか?」
「……いいえ……」
「こんな犯罪者も居たな。幼い少女を拉致監禁して、自分好みの女に育て上げようとした奴が。お前は奴の行動を、正しいと思うのか?」
「……いいえ……」
誘導されている。
分かっていても、どうしようも無かった。他に何と答えれば良いと言うのか。
レスターは我が意を得たとばかりに、ゆっくりとうなずく。
「そうだろう。誰もが自分の欲望のままに行動していたのでは、この世は犯罪天国だ。人間は、我慢をしなければならん。他者のことを考え、思いやり、わがままを抑えなければならん。我慢ができないような奴は、人間としてただの未熟者だ。……そうだな?」
「……はい……」
「ならばなぜ、自分の男の命が賭かった途端、お前は個人のわがままを正当化するのだ」
返す言葉が無かった。
自分の言動がいかなるものであったのか、容赦なく暴かれて行く。
「ご自分の行動を、犯罪者と比較するのですか!」
ちとせに言えるのは、せいぜいそんな苦し紛れの言葉で。
「根は同じだ。生きたいさ。死にたくなどないに決まっている。だが、ここで俺が逃げれば、誰がトランスバールを守るのだ」
でも、あっさりと論破されるだけで。
「義を見てせざるは勇なきなり、だ。父親のことを思い出せ。お前の父も、だからこそ逃げなかった。そして己の信念のもと、見事に散ったのだ。分かるな?」
ちとせは泣きながら首を横に振る。
「分かりません……分かりたくありません……! 父様も、副司令も、そうやって私のこと置いて! 男の人の信念なんて知りません、そんなもの捨ててしまえばいいのに……っ!」
悔しかった。悲しかった。
自分に、この人を止めることは出来ない。
この人にとって、己の信念以上のものになることが出来なかった。
「こら」
レスターは穏やかに微笑み、ちとせの額をコツンと小突く。
まるで、父親が聞き分けのない娘をあやすかのような仕草だった。
この余裕。この包容力。
自分はこんなにも追いつめられているのに、この人は死を前にして、こんなにも穏やかで居る。
「信念を持たぬ男など、信念を曲げる男など、生きている価値も無いクズ以下だ。お前はクズ以下の男に惚れるような、安い女なのか? 俺が素晴らしいと信じた烏丸ちとせは、その程度の女だったのか?」
これが、男の人。
抗いようも無く、ちとせは敗北感が胸に染み渡るのを感じた。
私は一体、どうしたかったんだろう。
勉強して、努力して。この人を追いかけて、追い越して。
それで何が得られると思っていたのだろう?
いくら知識で勝ろうと。そんなもので勝ろうと、この人を手に入れることは出来ないのに……。
レスターは静かに続ける。
「俺は戦う。烏丸ちとせが惚れた男は、そして烏丸ちとせに惚れた男は、天下の武士(もののふ)であると世に認めさせてやる。……黙って見送ってはくれないか、ちとせよ。俺のことを、誇ってはくれないか」
ずるい。
こんな時に、そんな言い方。
男の人って、ずるい。
「嫌です……そんなのお断りです……。私も一緒に……一緒に……!」
うつむき、泣きじゃくる。
本当に自分が子供にかえってしまったかのようだった。
「そうか」
レスターはうなずく。
「まあ、残念だがそれでもいい。しかし一緒には連れて行かん」
そして彼は、ちとせの頭の後ろに手を伸ばした。
彼が何をするつもりなのか、すぐに察せられた。
ああ―――― 。
ちとせは観念し、瞳を閉じる。
シュル
静かに、リボンがほどかれた。
「一本、だ」
それは、約束の刻。
このリボンをほどくことができたら、何でも言う事をきくと。
「生きろ、ちとせ」
その言葉は、微笑みと共に。
「お前は生きて、幸せになれ」
母親が言っていた。侍を好きになってはいけないと。
その意味を、ちとせはようやく理解していた。
「あなたのいない世界で、どうやって幸せになればいいんですか……」
「確かに悲しかろう。逆の立場だったら、俺も悲しい。しかし、いつまでも立ち止まっているのではないぞ。俺のことなど早く忘れて、次の幸せを探せ」
「よくもそんな勝手なことばかり……! 無理です、できません!」
「いいや、できる。お前の母親も同じ事を成し遂げたのだぞ。その血を引くお前が、できないはずは無い。お前はこのレスター・クールダラスが惚れた女だぞ? 必ずできる。見事、我が死を乗り越えて見せろ」
死にゆく彼は。
まごうかたなき侍であった。
「こんな男に惚れてくれて、ありがとう。短い間だったが、お前と歩き、共に生きた。……素晴らしい生涯だった。もう、他には何もいらないくらいに」
薄暗い格納庫で。
メインパネルのランプだけに照らされた、彼の笑顔。
忘れようものか。生涯、決して忘れることは無いだろう。
ちとせでさえ初めて見る、この上なく優しげな、その微笑みを。
「猫を飼ってみたかった」
そんな微笑みを残して。
レスターは立ち上がり、ちとせを見下ろす。
そして裂帛の気迫を込めて、言い放った。
「烏丸ちとせ、大儀であった!」
長いコートをはためかせ。
全てを断ち切るように踵を返し、歩き出す。
ああ―――― 。
何という勇ましさだろう。
何という烈しさだろう。
見ていて泣きたくなるほどに。
ギュッと、抱きしめてあげたくなるほどに。
いつか共に歩いた、からたち野道。
その時も見ていた、大きな背中が遠ざかる。
行ってしまう。
今度は追って行けない。
あの野道から遠く離れて。
己が愛した人は征く。
『 出 陣 』
ふと、そんな言葉が心に浮かぶ。
刮目せよ。
いざ、時は来たれり。
その名、天下に轟く独眼竜、レスター・クールダラスの御出陣である―――― 。
「………………っ」
尊敬と、畏怖と、そして溢れる愛おしさの全てを込めて。
ちとせはその背中へ向けて、静かに頭を垂れた。
閉じた瞳から、涙が流れ落ちた。