少し歩いてみたが、ベンチのようなものは見つからなかった。

タクトは仕方なく、冷たい床にミルフィーユを下ろす。

壁にもたれ、自分もその隣に座った。

「こんな場所でゴメンね。これ以上、場所を探してる時間が無いんだ」

廊下は暗かった。

天井に取り付けられたモニターが、赤いランプを点滅させている。

しんと冷えた空気の中で、肩を触れさせた部分だけが温かい。

静寂の中に、ミルフィーユがすすり泣く声だけが響いていた。

「タクトさん、私のこと嫌いになったんです……」

「違うよ」

小さな呟きを、即座に否定する。そんな否定など、何の意味も成さないと分かっていたけれども。

弱々しく頭を振る彼女の肩に手を置こうとして―――― やめる。

「違うんだよ。違うんだけど……ごめん」

「謝ってほしいんじゃありません。どうしてなんですか……いつも一緒だって、約束したのに」

「………………」

切々と見上げてくる瞳を、タクトは受け止める。

何とか説明しなければならなかった。

なぜ、戦うのか。

苦しみ、見苦しく泣きわめき、親友と殴り合いをしてまで足掻き抜いた果てに見出した答えを。

 

―――― そんな事が可能なのか?

 

漠然とした疑問が頭をよぎる。

何と言えばいいんだ?

あの恐怖、あの絶望、可能性への渇望。

数十億の命を双肩に背負った、使命の重みだとか。

「なぜ自分なのか」という理不尽への怒りだとか。

親友の拳が熱かった事だとか。

様々な想いが全て混ざり合い、ぶつかり合い、昇華した果てにたどり着いた決意なのだ。

「その……うまく言えないけどさ」

言葉の限界。

言葉とは所詮、断片的なものにしか過ぎないことを、タクトは身に染みて感じていた。

「オレ……」

両手を伸ばす。

ミルフィーユの両肩をしっかりと掴む。

目を合わせることは出来なかった。うなだれたまま、せめて少しでも伝わってほしいと言葉に力を込めて言う。

「オレさ……きっと、ここで逃げたらダメなんだよ……」

ミルフィーユの反応は素っ気なかった。

「わけが分かりません」

身をよじってタクトの手を振りほどき、そっぽを向いてしまう。

「ミルフィー……」

軽い失望と同時に、そうだろうなと妙に納得する。

理解しない相手を責める気にはなれず、逆に申し訳なさでいっぱいになる。

「ミルフィー」

「………………」

「ミルフィーってば」

「………………」

呼びかけるが、彼女は返事をしない。頑なに顔を逸らし、タクトを拒む。

本来ならば途方に暮れる所なのだろうが―――― 奇妙なことに、タクトは自分の心が凪いでいくのを感じていた。

不思議と心が落ち着き、微笑みさえ浮かんでくる。

「今、何時かな」

ぜんぜん場違いな事を口にした。

もちろんミルフィーユが答えてくれるとは思っていない。自分で腕時計を見て確認する。

「11時40分か。もうすぐお昼ご飯だな」

「………………」

そして、顔を背けているミルフィーユに向かって。

「無駄だよ。いま君がどんなに意地を張ってみたところで、オレは行く。晩ご飯の頃には、オレはたぶん、もうこの世に居ない」

ミルフィーユの肩が、ピクリと震えた。

タクトはあくまで淡々と語りかける。

「ミルフィー、時間ないんだ。できれば、ケンカしたままお別れなんてしたくないよ」

「………………」

ミルフィーユはようやく振り返る。

泣きはらしながら、微かに震えながら。

冷酷な現実。残された時は、あまりにも少ない。

「どうしても、行っちゃうんですか……?」

「どうしても行くよ」

「どうしてですか? どうして死のうとするんですか? 私だけだったんですか? 心が通じ合ったと思っていたのは、私だけだったんですか? タクトさんにとっては私なんて、そんな簡単に捨ててしまえるような存在だったんですか……?」

「違うってば。それだけは、信じてほしい」

「タクトさん言ってたじゃないですか……どうして顔も知らない他人のために戦わなきゃならないんだって」

タクトはうなずいた。

脳裏に、夜明け前の湖の光景が思い出される。

「うん。あの時、ミルフィーは言ってくれたよね。オレは結局、最後には戦うんだろうなって。諦めないで、他人のために頑張るんだろうなって。……君は正しかったよ。オレは戦う。顔も知らない他人のために」

ミルフィーユは首を振る。

違う。私はそんなつもりで言ったんじゃない――――

「嫌です……」

だが、想いは上手に言葉にならない。

言葉の限界。

言葉とは何と、ままならないものなのか。

「そんなの嫌です……タクトさんが居なくなっちゃうのは嫌です……」

「ミルフィー、わがまま言わないで」

もどかしい。

イライラする。

心をそのままボールみたいに相手にぶつけられたら、どんなに良いだろう。

「言ったじゃないですか! 私はバカだから、難しい事なんて分からないって!」

とうとう我慢できなくなって、身を乗り出して叫んだ。

いきなりの大音声に、タクトは思わず身を退く。

ミルフィーユは追い打ちをかけるように不自由な身をよじって、さらにタクトに迫った。

「世界だとか何だとか、そんなもの知りません! 私に分かるのは、世界なんてものを守るためにタクトさんが私を置いて死んじゃうって事だけです、だったら世界なんて守らないで下さいっ!」

「ミルフィー……」

「エオニア戦役の時も! ヴァル=ファスクと戦った時も! 私が世界なんてものの為に戦ってたと思ってたんですか!? 違います、私はタクトさんのために戦ってたんです! タクトさんの手助けができるんならって、タクトさんを守れるんならって、私はただそれだけで……! 世界がタクトさんを殺そうとするんなら、私にとってはそんな世界の方が死んじゃえばいいんです!」

ミルフィーユは自分の心に素直な少女であった。

楽しければ笑うし、悲しければ泣く。この人が好きだと感じたら、素直に好きだと告げる。

それだけに―――― いったん激情に駆られると、ミルフィーユの言葉はちとせよりも激しかった。

世界など死に絶えても構わない。タクト・マイヤーズさえ生き残ってくれれば、他の人間など知ったことではない。

人間誰しもが当然のように抱いている倫理に、真っ向から反旗を翻すその主張。

そんな言葉を、正気で。

「わがまま言わないで? タクトさんこそ勝手なこと言わないで下さい! 私がおりこうにしたら、タクトさんは行くのをやめてくれるんですか? 違うでしょう? 結局行っちゃうんでしょう!? だったらおりこうさんで居る理由なんてありません! 行かないで下さい、タクトさんが死んじゃうなんて、私は絶対に嫌ですっ!」

それは世界一わがままで、世界一素直な叫びであった。

喉が裂けても構わない。全身がバラバラになっても構わない。

そんな、捨て身の叫びであった。

タクトはそんな彼女を抱きしめた。

「ごめん……本当にごめん……」

頭を胸にかき抱いて、背中に手を回して包み込むように。

桜色の髪に頬を当て、馬鹿のように「ごめん」を繰り返す。

叫びが途切れる。

期せずして、静寂が訪れた。

「………………」

「………………」

遠くから、ちとせの声が聞こえた。

何と言っているのかは分からない。だが、隠しようのない涙声であった。

そんな相手に、レスターは果たして何と言っているのか。

「勝手だってことは、よく分かってるんだ……本当に済まないって思ってる。だけど、オレ……」

タクトは必死に言葉を探しているようであった。

だが情けないほどに、その言葉はまとまらない。

 

ミルフィーユは、決して愚かな娘ではなかった。本来は他人の気持ち、特に痛みには敏感な心の持ち主だ。

そんな彼女がタクトの抱いている苦渋に気付かないはずはない。

「だから……」

まだ激情は収まらない。それでも彼女は、相手を思いやる事を忘れてはいなかった。

「私も連れて行って下さい」

「ミルフィー、それは」

「タクトさん、私に言ってくれました。私は幸運の女神だって。私が側にいれば、もしかしたら凄い幸運が起きて勝てるかも知れないじゃないですか」

タクトは腕をほどく。

顔を上げたミルフィーユは、無理矢理ながらも微笑んでいた。

「ほら、黒き月との戦いの時だってそうだったじゃないですか。私達2人が、一緒に最期まで諦めなければ、何とかなるかも知れないじゃないですか」

「あの時は……。でも、あんな事が2度も起こるとは思えないよ」

「やってみもしない内から諦めるんですか? タクトさんらしくありませんよ」

「でもあの後、君は紋章機に乗れなくなって」

「それでタクトさんが助かるんなら、ぜんぜん構いません」

一寸の迷いもなく言い切り、ミルフィーユは笑った。

今度こそ、無理のない彼女らしい微笑みだった。

ああ、なんて――――

タクトは思わず言葉を忘れ、その笑顔に見入る。

なんて綺麗な笑顔。そうだ、オレはこの笑顔に魅かれて、この少女と。

初めて出会った時から、ずっと思ってた。この少女は奇跡だと。この笑顔は、かけがえのないものだと。

「……本気かい? 本気でオレと一緒に死のうと思ってるの?」

「死ぬなんて言わないで下さい。私達は、勝つんです」

「でも、死ぬ可能性の方が圧倒的なんだ。それでも?」

ミルフィーユは苦笑を浮かべた。

しょうがないなぁ、と言わんばかりの顔で、うなずく。

「それでも、です。当たり前じゃないですか。私には……あなたがすべてです」

 

 

 

 

―――― だからだよ。

 

 

 

 

「うん」

タクトはうなずく。

「君の笑った顔、オレ好きだよ。大好きだ」

ストレートな誉め言葉に、ミルフィーユは照れたようにはにかむ。

タクトも笑っていた。

笑ったままで。

「だから、君を連れて行けないんだ」

タクトは言った。

ミルフィーユの微笑みが凍り付く。

「たかが男1人のために、命を捨てる。君に、そんなバカな事をさせるわけにはいかない」

「タクトさん……」

タクトはうつむき、そして再び目を合わせる。

笑みは消え失せ、冷たい表情がそこにはあった。

「オレのことが全て? 嬉しいよ、ありがとう。けど、たかがその程度の覚悟の者を連れては行けない。足手まといだ」

ミルフィーユは絶句していた。

まさかそんな事を言われるとは、思ってもみなかった。

これほどの想いを、自分の中で一番強い想いを、『その程度』呼ばわりされるとは思ってもいなかった。

「どうして……」

「分からないだろう? それが分からないうちは、君は死ぬにはまだ早い」

タクトは寂しげに目を細める。

やはり、無理だったのだ。

こんな短い時間では、自分の胸にあるこの決意を伝えることは。

おそらくそれは、同じだけの苦渋を味わった者でなければ分からない事。

なった者にしか分からない、覚悟。

「好きなだけじゃ、ダメだって事さ。死ぬってのは、そんな簡単な問題じゃないんだ」

「分かりません、タクトさんが何を言っているのか、全然分かりません!」

ミルフィーユは焦燥に駆られていた。

何が何だか分からない。だが、事態が悪い方に進んでいる。

このままでは置いて行かれる。それは言いしれぬ恐怖だった。

「嫌です! 置いていかないで下さい、約束したじゃないですか!」

「最後に、君の顔が見られて良かった」

「勝手に話を終わらせないで下さい! 私、まだ……っ!」

焦って言葉をつなげようとするミルフィーユに。

「ミルフィー」

その想いを、タクトは断絶する。

「邪魔するな」

「…………っ」

邪魔。

その一言は、他のどんな言葉よりも深く、彼女の胸をえぐった。

「ごめんね。本当にゴメン。今度生まれ変わったら、平和な時代で君と一緒になりたいな。好きなだけで事足りる、平和な時代で……」

「タクトさん……」

「いつかオレに教えてくれたよね。人生に意味はいくつもあるんだって。これもきっと、数え切れないほどたくさんある、人生の意味の1つなんだよ」

タクトは虚空を見上げる。

何か、遙かなものを見つめているかのように。

「ヴァインが希望の種を蒔いてくれた。オレはその芽生えを守る。たとえオレが倒れても、別の誰かが想いをつないでくれる。命っていうのは、そうして想いをつないで行くためのものなんだ。……いつか大きな花が咲いた時、君にそれを見てもらいたいな。きっと見てくれよ、きっととても綺麗だから」

「………………」

「名残惜しいけど、オレの出番はここまで。楽しい人生だったよ。大切な意味を、いくつも見つけた。そして何より……君の人生の1部になれた。その事、とても嬉しく思う」

「………………」

沈黙の後。

ミルフィーユは顔を上げた。

泣きながら、言った。

 

 

 

「……愛してます、タクトさん……」

 

 

 

あいしてる。

なんて陳腐な言葉だろう。

こんなにも熱く、胸を焦がす想いなのに。

溢れんばかりに心を満たす、自分の中で一番大切な想いなのに。

それを相手に伝えるための言葉が、たったの5文字しか無いなんて。

それだけじゃ足りないから、恋人は手をつなぐ。

抱きしめ、キスをする。

でも、今の自分にはそれすらも出来ないから。

 

「愛してます……愛してます、タクトさん……」

 

馬鹿のように、同じ言葉を繰り返す。

タクトは笑顔を浮かべる。

「オレもだよ。愛してる、ミルフィー。この世で一番大切な君……」

ミルフィーユは、こみ上げてくるものを堪えた。

なんて澄み切った笑顔。

夏空のように鮮やかで、まぶしい。

本当に、哀しいほどに澄んだ―――― 笑顔。

 

 

「だから……さようなら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハッチが解放され、シャトルが射出される。

ラグナロクを離れ、白き月へ一直線に帰って行くシャトルを、タクトとレスターはブリッジで見つめていた。

見送りは、しなかった。

「ミルフィーユは納得してくれたか」

遠ざかる光点を見つめながら、レスターは隣のタクトに尋ねた。

タクトはゆっくりと首を横に振る。

「ダメだった」

「そうか」

「……お前の方は? ちとせは納得してくれたのか?」

同じように光点を見つめたままで、タクトは隣のレスターに尋ねる。

「……あいつが人に自慢できるような男になりたかったが……」

ひどく婉曲された答えだった。

タクトは苦笑を浮かべる。

「そっか」

そして、どちらからともなくレーダーに目を向ける。

敵は補給も済み、着々と戦闘の陣形を整えている所だった。

もしかしたら、待っててくれたのかも知れないな。そんな有り得ない考えが、ふと浮かぶ。

「さてと……戦るか」

「ああ」

悠然と、微笑みさえ浮かべて。

タクトは艦長席に腰を落ち着け、レスターはその右側に立つのだった。

 

黒の艦隊が、ゆっくりと動き出した。