投げ捨てた小さな箱は、ゆっくりと水に沈んでいった。
『バレンタイン・ブルー』
鍋の中では湯が揺れて。
固まりだったチョコは、ボウルの中で、見る間に溶けていく。
それを見つめて――少女はため息をついた。
惑星ガーナにしか生えない特別のカカオで作ったチョコレートは、必ず想いを実らせるという。
そのとき、ランファは、運よくそれを手に入れていた。
やっぱり、タクト?
一人、ランファは思う。
エルシオールの中で誰かにチョコを渡すなら、選択肢は広くない。
「かといって、1年も置いておけるわけないし」
つぶやく。
入手した板チョコを、溶かして、型に入れて、冷ます。
箱に詰めて、ラッピング――。
特定の誰かを想うこともなくそうしてから、ランファは、そこでようやく、考えた。
誰に渡す気? これ。
小さな箱は、指の先で軽くつついただけで、簡単に動く。まるで、誰かさんの心のように。
「いっそ、自分で食べちゃおうかしら」
それは、虚しい。
「でも、タクトは、心に決めた人がいるわけだし――。副司令は、論外って感じだし――。
シヴァ皇子とか?」
何だか、違う気がした。
「もっと、こう」
運命を感じるような。
ドラマのヒロインみたいな。
一目で恋に落ちて、逃れられない。
「そんな人がいればなぁー」
結局、自分は奥手なのだと思う。
恋に焦がれながら、その実、何の行動も起こす事ができない。
いつまでも、憧れたまま。
「だって、怖いじゃない」
憧れが打ち砕かれるのは。
「そうかも、って、思ったのよ? でも――」
違った。
彼の心には、既に想う女性がいて、自分は、脇役。
ヒロインにはなれない。
不安な気持ちと遣り場のないチョコを抱えたまま、ランファはクジラルームにいた。
波の音を聞いていると、それなりに落ちついてくる。
飼育係の少年に会わないように、管理室のある方とは、反対側へ歩き出す。誰にも会いたくない気分だった。
時間に合わせて、空には、夕焼けが写し出されている。
ぽちゃん。
ふいにランファは、チョコを水面(みなも)へ投げ捨てる。
「これでいいのかもね。今のあたしには――」
多少不器用に包装された箱は、ぷかぷかと水に浮いた。
包装紙は水を弾いて、なかなか、沈まない。
しばらく、紙に水がしみていくのを眺めていたが、うっとうしくなって、ランファはそれに背を向けようとした――
「誰かそこにいるんですか?」
心臓が、跳ね上がりそうだった。
「ク、ク、クロミエっ? アンタ、何でこんなところに――」
クジラルーム以外にいる彼のほうが珍しいのだが、ランファはつい、そんなことを口走っていた。
「ランファさん」
「何よ?」
よりにもよって、彼は、水に飲まれていく小さな箱を指差す。
「何ですか? あれ」
「ただのゴミよっ!」
「そうですか」
「だったら、僕がもらっても、かまいませんよね?」
「何――」
驚いてランファが振り返ると、クロミエが、水へ足を浸すところだった。
小さな手が、小さな箱をすくいあげる。
「ど、どうするのよ、そんなもの――」
「これ、中身は何ですか?」
首をかしげるようにして、クロミエは尋ねる。
「わかってるんじゃないの? チョコよ。チョコレート! 今日一日、みんなが馬鹿みたいに大騒ぎする、くだらないお菓子よ!」
そう、叫んだ。
「ランファさん」
「何よ?」
クロミエは提案した。
「食べませんか?」
ランファは、虚をつかれる。まさか、クロミエがそんなことを言い出すとは、思いもよらない。
「嫌よ!」
「どうしてですか?」
「バレンタインの日に、自分で作ったチョコを、自分で食べるなんて、馬鹿みたいじゃない!」
「今日は、2月15日ですよ」
「え……?」
そんなはずはない。現に周りは、大騒ぎしているのだ。
「クジラルームは、他より、時間の進み方が、一日早いんです。
ホログラフを調整するときに、1回、1日が余計に過ぎてしまいましたから」
「そ……それなら、食べてあげてもいいかしら」
「そうですか? では」
クロミエは、ハート型のチョコを取り出すと、半分に割ろうとする。
「あっ!! 縦に割らないでよ! 縁起悪いじゃない」
「ランファさんは一度失恋されているのですから、同じではありませんか?」
「あ、あんた、涼しい顔して、何てこと言うのよ! ていうか、何で知ってるわけ!?」
「ランファさんは、分かりやすいですから」
「分かりやすくない!」
「では、そういうことにしておきます。……はい、これでいいですか?」
ハートを横に割ったチョコを差し出すクロミエ。ランファは褒めた。
「あんた、器用ね……」
「いえ、それほどでも」
クロミエはチョコの下半分を、一口サイズにしてから、口に入れる。
みゅー
彼の脇で、子宇宙クジラが鳴いた。クロミエは、細かくしたチョコの一片を、そちらに差し出す。
「ランファさん」
「……何よ?」
「他にもいらないチョコがあったら、いつでもクジラルームに持ってきてください。
このとおり、宇宙クジラは、甘い物も食べられますから」
「嫌よ」
きっぱりと、ランファは言う。
「ちゃんと、アンタのために作って、持って来るから――」
言葉の最後は、風に溶けて消えた。
END